第7話 空下千冬視点①

 私は要くんに返しきれないくらいの恩がある。


 私が要くんと出会ったのは事故の後。彼のお見舞いに行った時。

 彼の両親に頭を下げて謝り、彼の入院している病室に入った。

 

「この度は助けていただきありがとうございました」

「……誰だ?」


 白いベッドで上半身だけ起き上がらせて、こっちを見る要くんの頭には包帯が巻かれていた。

 何もかも飲み込んでしまいそうな黒く染まった瞳は、空虚に私の姿を写していた。


「その、事故で助けてもらった人、です」

「ああ。そんなこと言われたな。悪い、覚えてないんだ」

「はい、昔のことが思い出せないと聞きました」

「なら、話が早い。俺は覚えてないから感謝されても困る。気にしないでくれ」

「そうは言われても……」

「正直知らない人に頭を下げられたところで困惑するしかないんだ。何も覚えてないんだからな」


 その時、要くんは顔を僅かに歪めて眉間に皺を寄せていた。


 結局、最初病室で出会った時は取りつく島もなく、距離を置かれてそこで終わった。


 私としてはきちんとお礼をしたかったけれど、彼は酷く迷惑そうな顔をしていたので遠慮してしまった。


 迷惑を押し付けてまで関わる勇気はなかったし、もう関わることはない。そう思っていた。


 けれど意外と早く彼とは再会した。


 要くんは私と同い年で大学の入学生だった。彼の側には幼馴染の二人がいて、三人で何かを話していた。彼の顔は暗かったけれども。


 それからというもの、同じ講義やお昼休みの食堂、あるいは構内の移動中で何回か彼を見かけた。


 礼すら満足に伝えられていないので、いつか話したいと見かける度に思った。

 けれど話しかける勇気は出なくて、結局、姿を見つけても、ただ眺める日々が過ぎてしまった。


 それが変わったのはあの土砂降りの雨の日。ずぶ濡れになりながら公園のベンチで座っている要くんを見かけた。

 それまでいつも側にいた幼馴染二人の姿はなくて、思わず話しかけた。


「……大丈夫ですか?」

「……あんたか。そういえば同じ大学だったな」

 

 要くんは一瞬眉を顰めて、それから大きく息を吐いた。


「何か用か?」

「別に用はないですけど、ただこの雨の中一人でこんなところに居たら気になります」

「少し頭を冷やしていただけだ。気にするな」

「気にするなと言われても」


 こんな姿を見せられて放っておけるはずがない。


「傘が無いようでしたら、これ、使いますか?」


 いつも鞄に備えてある折りたたみ傘を差し出すと、要くんはじっと傘を見つめた。


「事故の時のことを気にしてるなら、放っておいてくれ。覚えてないことで恩を感じなくていい。正直迷惑だ」

「そんなつもりで言ったわけじゃありません」

「じゃあ、なんのつもりだ」

「単純に雨の中でずぶ濡れの人を放っておけないだけです。あなただって、そういう人を見かけたら気になるでしょう?」

「……それは、まあ」


 若干、私から目を逸らすようにしながら、要くんは渋々頷いた。


「返さなくていいので、使ってください」


 恩返しの気持ちが全くなかったといえば嘘になるけれど、ずぶ濡れの人を見逃せなかった気持ちの方が大きかったのは事実。

 半ば無理やり折りたたみ傘を押し付けると、要くんは押し付けた傘を静かに見つめながら、「……ありがと」と呟いた。


 なんてことはないただお礼の言葉。そのはずなのだけど、なぜか心が弾んだような気がしたことを今でも覚えてる。


 思い返せば、きっとあの時から要くんを気になり始めたんだと思う。なんとも素直じゃない要くんが私のツボだった。


 それからというもの、次第に要くんと話す機会が増えていった。

 

 傘を押し付けた次の日、律儀に傘を返しに来てくれた時は、なんだかんだ真面目なところがちょっと面白くて笑ってしまった。その後、物凄く睨まれたけれど。


 講義が分からなくて、たまたま見かけた要くんに声をかけたときもあった。意外と優しく教えてくれて、びっくりしたことを覚えてる。

 「スパルタで罵倒されるかと思ってました」と言ったら、要くんは「俺をなんだと思ってるんだ」と呆れていた。


 あと、あの日も凄く覚えてる。すれ違うたびに私から挨拶をしていたら、要くんから挨拶してくれた日。

「……空下。おはよ」

「っ……! 暁くん、おはようございます!」

 単純なのは分かっているけれど、無性に嬉しくなった。


 その日から、要くんが私に声をかけてきてくれることが多くなった。

 今思えば、あからさまにテンションが上がった状態で接していた気がするけれど、要くんは気付いていなかったみたいだから、良しとしよう。


 話せば話すほどに彼に惹かれていった。一緒にいる時間はあっという間に過ぎて、でもその時間はかけがえのないもので、なにより幸せだった。


 意外と甘いものが好きなのに、カフェに誘うと渋々といった感じを装ってついてきた時とか。


 照れながらも誕生日プレゼントにハンカチを贈ってくれた時とか。


 彼からすると私の行動が面白いようで、何もしていないのに、勝手にくしゃっと目を細めて笑い始めた時とか。


 記憶がない事で、幼馴染の二人に酷い言葉をかけてしまった事を後悔していると悩みを打ち明けてくれた時とか。


 どれも忘れられない大切な私の思い出だ。


 次第に、要くんのことが好き、という気持ちは、はっきりと自覚するようになった。


 隣にいるだけで意識しちゃって。離れて落ち着きたいけど、もっと近くにもいたくて。話すだけで心は踊り出すようだった。

 周りから見れば、私の態度で気持ちはバレバレだったと思う。


 そんな要くんに惹かれたわけだけど、ずっと幸せというわけではなかった。むしろ不安になることの方が大きかった。

 なぜなら要くんが私のことをどう思っているか、全然わからなかったから。

 

 いつも無愛想で何を考えているか分かりにくくて、正直彼を振り向かせられる自信なんてものもなく。

 多少は気を許してくれていただろうけど、良くて友達程度の認識としか思えなかった。要くんが私のことを意識している様子なんて、一切なかった。


 会うたびに、私だけが舞い上がっているみたいで、その温度差が辛くなることもあった。


 だから、要くんが私に告白してきた時は、本当にびっくりして、思わず泣いてしまった。

 だってあまりに信じられなくて。望みなんてないと思っていたし、正直このままでもいいかなと諦めにも似た感情まで抱いていたところに、告白なんてすぐに信じられるはずがない。


 頭の中が真っ白になって何も言えずにいた間に、要くんの顔がほんのりと赤らめているのが目に入って、本当に現実なんだと実感した。


 そこから要くんは私の恋人になった。


 付き合い始めてからの日々は本当に幸せで。要くんはこれまで以上に私のことを優しく見つめてくるようになった。


 一緒に過ごす時間が増えて、共有する思い出が沢山増えて。次第に手を重ね、唇を重ね、身体を重ねて、距離がどんどん近づいていった。


 信じられないほど夢みたいな時間だった。このままずっと続けばいい。切にそう願っていた。


 ----でも、そんな時間は突然崩れた。

 

 

 

 

 

 


 


 

 

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