第5話 病室
病室に扉のノック音が響く。まるで籠の中を手探るような曇った音。一人の病室ではやけに大きく聞こえる。思わず身体が強張った。
「はい、どうぞ」
乾いた声が飛び出ると、病室の扉が開いていく。レールを滑る車輪音がBGMとなり、扉の向こうが見え始める。隠れていた姿が現れ、言葉が出なかった。
「……よう。要」
切れ長の目と視線が交わる。何もかも見通すような鋭い眼差しは変わってない。ただ幾分か大人びた顔に、自分との時間の隔たりを突きつけられた気がした。
「駿!」
「入っていいか?」
「もちろん。入りなよ!」
駿が錆びついた歯車のようにぎこちない。動きが鈍く、駿の方には気まずさが滲んでいるように見えた。
「要。実はもう一人、来てるんだ」
「え?」
「ほら、そこで隠れてないで入ってこいよ」
駿が扉の外へと呼びかける。駿の親しみの滲んだ声で外にいる人物を察した。
駿が白い腕を引く。さらりと色素の抜けた亜麻色の髪が揺れて、明奈が姿を見せた。
明奈の表情はガチガチに強張らせてる。自分と目が合うと、不恰好な笑みが浮かぶ。
「明奈」
名前を呼ぶと、強張った表情が解れて目を見張った。
「要……。本当に記憶戻ったのね……!」
「戻ったっていうか、この3年間の記憶は無いんだけどね。だから俺としては昨日ぶりって感じしかしないよ」
「そう、なの。本当にいつもの要ね。良かった……」
糸がほぐれるように、口角が上がる。緩く安らむ表情はずっと変わらない。過去を偲ぶ視線が俺を捉える。
二人はベッド横の丸椅子に腰掛けた。二人が座る距離感が肩が触れ合うほど近い。でも、二人はまるで自然体のように見えた。そのことが心をざわつかせる。ああ、やっぱり……。
「頭は大丈夫なの?」
「あれ? 明奈、心配してくれるんだ?」
「……っ。うるさいわね。そのくらい心配するわよ」
「素直な明奈なんて新鮮だなー」
「もう! それでどうなのよ」
「今のところは何も言われてないよ。明日精密検査して問題ないようなら退院だって」
自分自身、身体に異常は感じていない。ただ知らない間に色々変わっていてついていけず、混乱だけが渦巻いている。
今も馴染んだ明奈と話しているはずなのに、記憶の中の明奈とずれていて違和感が凄い。明奈なのに明奈じゃない。
声も笑い方も反応もどれも同じはずなのに重ねた年が、心の中の明奈の輪郭をずらしてくる。
なにより、両親から聞いたあの言葉が何度も頭の中でこだましていた。聞くべきか聞かないべきか。
曖昧に笑って誤魔化している間に、勇気が出ないまま時間だけが過ぎていく。
「ずっと会ってなかったってお母さんに教えてもらったけど何かあったの?」
「それは……」
明奈の顔に影が落ちる。駿は明奈の肩を軽く触れると、ゆっくりとした口調で教えてくれた。
「俺たちが悪かったんだよ。記憶がない要にしつこく話しかけてさ。それが嫌でもう話しかけてくるなって言われちまってな」
「気にせず話しかければ良かったのに」
「最初はそうしてたんだけどな。向こうの複雑な気持ちを言われたら、流石にそれ以上は諦めたんだ」
二人が諦めるほどだ。相当のことを言われたのは間違いない。苦味に顔を曇らせる二人の顔が強く目に残る。
「その後も何回か話しかけようとは思ったんだが、要にも他の知り合いが出来たから遠慮してたんだ」
「他の知り合い?」
「大学で知り合った人とか、あとは……」
「?」
言い淀み、視線を彷徨わせる駿。何を言いかけたのか。らしくない駿に首を傾げると、駿は一度唾を飲み込んだ。
「……空下さんとか、な。付き合ってたぞ」
「え?! な、なにそれ」
「詳しくは知らないけど、要がトラックに轢かれた時に助けた人だったはずだ」
「あ、あの人か。良かった。助かってたんだ」
轢かれる直前の記憶が戻ってきた。突き飛ばす重み。押し倒される女の子の身体。あの人が空下さん、という人らしい。
「で、その人がなんで俺と付き合ってるのさ」
「それは知らない。俺たちが関わるのを辞めたあとだからな。3年間のことならそっちに聞いたほうがいいと思うぞ」
駿が首を振っている以上、何も知らないのは間違いない。隣を見ると、明奈は口元を引き結んでいた。
駿の話を整理すると、あのベッドで一緒に寝ていた知らない女の子が空下さんで間違いない。MINEのメッセージにも彼女から来ていた。あとで色々聞く必要があるのは間違いない。
駿はパンッと自分の太ももを叩くと、顔を上げて顔に喜色を浮かべた。
「恋人が出来たらそれ以上邪魔をするものでもないし、もうずっと関わられないと思ってたからさ。だから、記憶を取り戻したって聞いて良かったよ」
「駿がそんなこと言うなんてほんとどうしたのさ。病気?」
「今回くらいはいいだろ。本当に嬉しかったんだから。な?」
駿が隣に話を振ると、明奈はこくりと頷いた。
「うん。要とずっと話せていなかったから。ほんとうに……昔の要に戻ってくれて嬉しい」
はにかむような笑みが明奈の顔に咲く。湖に差し込む太陽の光のような眩しさで、これまで見たどの笑顔よりも輝いていた。
「……っ」
抱えた恋心が揺れる。湧き上がる感情が揺れ動き、心が温もりで満たされる。ほんと、かわ--。
『二人、付き合ってるみたいよ』
ああ、そうだった。忘れていた。期待しちゃいけないんだ。
一瞬で心が冷える。波打っていた感情が凪の鏡になった。心は縛られ、きつく苦味がじわりとお腹に広がる。飲み込んでも飲み込んでも止まらない。
「二人とも素直で調子が狂うなぁ」
二人に向けた笑顔の仮面にヒビが入る。取り繕った胸の内に闇が染み込み、感情が塗り潰されていく。抑えつけるたびに苦しみが増す。
まだ知りたくない事実だとしても、聞かざるを得なかった。例え苦しむことになったとしても。ふつふつと湧き上がる澱んだ泥に押されて、気付けば疑問は言葉になっていた。
「……ねえ、お母さんに聞いたんだけど、二人、付き合ったんだって?」
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