無限の猿

鈴木秋辰

無限の猿

研究所の扉は相変わらず無用心にも鍵が開け放たれたままだった。この錠前もまた、博士のおかしな発明の一つだった。その日の天気に応じて必要なパスワードが変わるというもので今日は快晴だからそれに対応したパスワードが必要なのだが、ものぐさな博士はいちいち鍵を閉めたりしないので鍵を使ったのは発明した時の一度だけだ。そもそもこの研究所自体、博士がそう呼んでいるだけで何のことはない郊外の庭付き一戸建ての住宅の地下室を改造しただけの施設だ。

「君か、待ちわびたぞ」僕が地下への階段を下ると、博士は科学雑誌を片手にこちらを向いて腰掛けていた。普段ならば博士の作業中の後ろ姿が目に入るのだが。今回の「君に是非見てもらいたいもの」は相当な品なのだろう。

「今回の発明はよほど自信があるようですね」僕はからかい半分で声をかけた。

「今回はとは何事じゃ」博士は不満げに雑誌を床に投げ出した。今日の研究所はいつもに増して散らかっている。日用品の類から用途不明の工具までまるで強盗が入ったかのように床に散らばっていた。博士は床に物を置く癖がある。以前この部屋は博士の頭の中みたいですねと皮肉を言ったことがある。それを聞いた博士はなぜか誇らしげにしていた。

「わしはいつだって世界の役に立つ素晴らしい発明品を開発しておるのじゃ。それを君はまるでわしが役に立たない珍品ばかり作っているかのように言いおって」よほど不満であったのか博士は白衣のポケットに入れていたボールペンを弄りながらくどくどと話し続けている。

一度しか使われない錠前が役に立つかはともかく、実際に博士はしばしば特許を取るような発明品を開発している。いつか開発したキッチン便利グッズシリーズが主婦の心を捉えて大ヒットしたらしく金に困ることはないらしい。しかしながら、変なものばかりを作っているというのもまた事実。それからはその有り余る金を使って常人には理解できない、ぶっ飛んだ研究を続けているのだった。まともな助手もつけず、近所の大学生である僕を唯一の従業員として雇うような真似をするのも変人たる証拠だ。博士曰く、半端に知識のあるものよりも僕のような素人の方がかえって説明のしがいがあり、その過程で考えを整理しやすいそうだ。

考え事をしているうちに博士の小言の波がちょうど止んだので僕は尋ねた。

「じゃあ、その役に立つ発明って一体なんですか」

「ふむ、確か君は大学では演劇部だったね。」博士はよくぞ聞いてくれましたと言わんばかりのしたり顔で語り始めた。「それならばウィリアム・シェイクスピアは知っておるかの」

「そりゃあ、もちろん知っていますけど。シェイクスピアがどうかしたんですか」

「シェイクスピアの演劇は今でも様々な研究がされているそうじゃな。たしか同じ演目でも、その方針によって大きく印象が異なるとか」

「ええ、そうです。王道故に難しい。それがシェイクスピアの魅力でもあります。だから皆、彼がどのような考えで劇を書き上げたのか。その追求は今もこれからも止まることはないでしょう」僕はそこまで言い終えてから少々熱く語りすぎたかと後悔した。だが、思えばいつも博士はこんな調子で僕に話すのだから別に気にする必要もないだろう。しかし、今日の博士の話し方は妙にまどろっこしい。「もし、シェイクスピアがどのように劇を作ったのか知ることでできるとしたら?」

「は?」僕は思わず聞き返した。

「だから、シェイクスピアが作劇する様子を見ることができるのじゃ」博士はもじゃもじゃの白髭に隠れていた口を剥き出しにしてニンマリと笑った。

「からかうのはやめてください、早く発明品を見せてくださいよ」僕が痺れを切らして叫ぶと博士は小さく「仕方ないのう」ため息のように呟いた。それから先ほどのため息まじりの声とは裏腹にオーバーな動作でまるでマジシャンのように部屋の奥にあった四角い塊にかぶせられていた白い布をハラリとめくりとった。

そこにあったのは博士の愛車の年代物のキャデラックだった。

「なんだ、ただの車じゃないですか」私は何かとんでもない代物が出てくると期待していただけにガックリと肩を落とした。

「タイムマシンじゃ」博士がふふんと鼻を鳴らす。

「え?」

「ま、正確には観測型タイムマシンじゃがな」

数分後、助手席の上で理解が追いつかずに困惑している僕を他所に博士は改造されたダッシュボードのボタンをいじくりまわし意味のわからない話をぶつぶつと続けている。車の外見はいつものキャデラックのままであったが中身はまるで異なっていた。座席は運転席と助手席のみで後部座席と収納までのスペースはまるっとブチ抜かれピカピカひかる巨大な乾電池のような円柱形の装置がはめ込まれている。博士は車検のことなど微塵も考えていないのだろう。そういう人だ。

「ここをこうして、こうやって。よしこれにて設定完了じゃ、準備はいいな」博士はやや興奮気味にハンドルを握った手をグーパーグーパーと何度も握り直しながらこちらを向いた。

「博士」

「目的地はシェイクスピアの生きていた時代、十六世紀のイングランドじゃ」博士がキーを回すとエンジンがかかり車体が大きく揺れる。

「博士」

「それでは飛ぶぞ。出発じゃ!」博士は前のめりにアクセルを踏み込んだ。「博士!」僕は最後の抵抗とばかりに顔中を口にして絶叫した。

突如ミキサーの中に突き落とされたかのように視界が掻き回される。それから世界がだんだんと灰色に歪んで濁って何も見えなくなる。僕は気を失った。

「さて、到着じゃ。すまんの。酔い止めを持ってくるべきじゃったな」未だにめまいがする僕とは対照的に博士はまるで旅行にでもやってきたかのような楽しげな声色をしていた。

僕が目を覚ましてからすでに十分ほどが経過していた。もっとも、今僕らは四百年前にいるので十分経ったという表現が適当と言えるのかはわからない。つまり、とにかく。僕はまだ混乱しているのだ。キャデラックは空を飛んでいた。車窓から覗くことができる光景は信じがたい物ばかりだった。開発されていない森林地帯、雄大な牧草地、城壁と尖塔によって組み上げられた城。どうやら博士を信じざるを得ないようだ。

「本当にここは十六世紀なのですね」

やっとまともに口を聞いた僕を見て安心したのか博士はゆっくりと話し始めた。「ここ、という表現は正確ではないかもしれんな。先ほどこれは観測型タイムマシンと言い直したな。我々は実際にこの一六世紀の時代に質量を伴った存在して顕現しているわけではない。我々自身とこのキャデラック自体は現代のあの研究所の中にあるのじゃ。我々はキャデラックの窓越しに過去を垣間見ているのじゃよ。よってこのタイムマシンによって過去に干渉することは不可能。タイムパラドクスというものは知っておるかの」「ええ、小説なんかで何となく。タイムマシンで自分の産まれる前の過去に遡って自分の両親に何か影響を与えてしまうと自分が産まれなくなってしまうとかなんとか」

「おおむね当たっておる。今回の場合はただ見ているだけなのじゃ。実際に何か影響を与えることはない。とにかくここでの行動によって未来が改変されたり、キャデラックの故障によって異なる時代に取り残されるなど、どこぞの映画のようなトラブルが起こることはないのじゃ」

博士の話をしているうちに体調もだんだんとましになってきた。確かに、これは本当に役に立つ発明かもしれない。そんなことを考えながら窓の外へ目を向けると、一つの屋敷がフロントガラスへと迫っていた。

「博士、もしかしてあれが?」

「そうじゃ、シェイクスピアの屋敷じゃ。当時から著名な劇作家だけにわしの研究所の何倍もありそうな邸宅じゃ。羨ましいのう」博士が呑気なことを言っている内に、キャデラックはどんどん屋敷へと接近している。

「博士!ぶつかりますよ」僕は叫んだ。

「大丈夫じゃ、さっきも言ったが我々はこの時代を覗いているだけ。ぶつかることはない。このまま壁をすり抜けて書斎へ入り、彼の作劇を見せてもらおうではないか」

かくして、僕らは屋敷の書斎にてシェイクスピアの仕事ぶりを目の当たりにした。その衝撃的な様子を以下に綴る。

書斎の中は無限とも思える広さをしていた。いや、それは本当に無限だった。そして、その無限の書斎の中には無限と思える、否、無限の猿が居た。おそらくチンパンジーだろう。猿たちは一心不乱にタイプライターを打ち続けていた。一定量の文字数を打ち込み終えた猿には中年の男がバナナやリンゴなどを投げ与えていた。彼は時折、猿たちの書いた原稿に目をやる。その大半が意味のない文字の羅列であり、彼はその原稿を破り捨てる。彼はその行為を繰り返し続けていた。まるでいつかそのランダムな文字列から傑作が産まれることを確信しているかのように。

「ふむ、おそらく彼がシェイクスピアだろう」なぜか博士は冷静だった。博士は疑問を口にすることもできず唖然としている僕に気づくと、これから問われるであろうことにあらかじめ答えるかのように話し始めた。

「無限の猿定理という思考実験がある。これは充分に長い時間をかけてランダムに文字列を生成し続ければ理論上どんな文字列もほとんど確実に出来上がるというものでな。無限に等しい巨大な数を扱う事の危険性に対する示唆をしているのじゃ。この定理のわかりやすく例える際にこんな作り話が用いられる。無限にいる猿に無限の時間を与えてタイプライターを打たせればいずれシェイクスピアの作品を産み出す、とな。まさか本当にやっているとは思わなかったがのホッホッホ」博士は困惑したり理解の追いつかないことが起こると笑う癖がある。妙に冷静に見えたのは頭の中で考えを巡らせていたからだろう。

「十六世紀にタイプライターはありません」徐々に正気を取り戻した僕の口をついて出た言葉はそんな見当違いのツッコミだった。いや、あながちこれは核心を突いているのではないのか。

「もしかして博士、僕たちがこの時代に訪れたことでタイムパラドクスが起こったのではありませんか?」僕は博士に詰め寄った。「そんなはずはない。繰り返しになるがこのタイムマシンが可能としていることはあくまで観測のみ。この十六世紀の時代に物理的な干渉は一切しておらん。」

「それならばどうしてシェイクスピアがあんな無茶苦茶な方法で作劇をしているのですか。僕たち以外に考えられません」

「むうう、しかしのう」博士は唸るように話し始めた。「とにかくこの観測型タイムマシンで過去の改編はできん。百聞は一見にしかずじゃ。わしが苦心して観測型タイムマシンを開発する様子をこの観測型タイムマシンで見せやろう」そう言って博士はまたダッシュボードを弄り始める。「では行くぞ!」そして博士は号令と共に再びアクセルを強く踏み込んだ。

次の瞬間僕らは現代へと戻っていた。最初の一回で耐性がついたのか今回は気を失わずに住んだようだ。ここはどうやら研究所前の道路のようだ。そして、外はひどい雨だった。今日は一日快晴のはずなのだが。

「この土砂降りには見覚えがあるじゃろう」見慣れた景色の安心感からか博士は落ち着きを取り戻し、額を拭いながら話し始めた。「梅雨明け前の大雨続きだった先週じゃよ。つまり、研究所の中では今まさにわしがキャデラックをタイムマシンに改造している最中なのじゃ」

「それじゃあ早速見に行きましょう」僕は車から降りようとドアに手をかけた。すると博士が慌ててその手を掴んだ。「いかんいかん、何をしておるんじゃ。見慣れた景色だがここは過去に違いないのじゃ。このタイムマシンから出たら何が起きるかわからん。先ほどと同じく、乗車したまま侵入するぞ」

博士はゆっくりと車体を動かし、僕たちは壁をすり抜け研究所の中へと入って行った。

しかし、そこに広がっていたのは狭苦しい研究所ではなかった。ただ研究所はそのままに、奥へ向かって無限の空間が続いていた。そして、キャデラックをデタラメにいじくりまわしているのは博士ではなく無限の猿たちであった。

「ホッホ、無限の猿が無限の時間の中で車を改造するならば観測型タイムマシンが完成することもあるかもしれぬな。ホホ、ホホホホホ」博士がひきつった笑い声を上げている。

「博士、これは間違いなくタイムパラドクスが起こっています。どうするんですか!」僕はガクガクと震えながら笑い続けている博士の肩を両腕で掴んで強く揺すった。こんな状況で頼れるのは博士しかいないのだからここで彼に発狂されては打つ手が無くなってしまう。「博士、しっかりしてください博士」

すると博士はハッと我に返り、何か閃いたのかもたれかかったシートから飛び上がり背筋をピンと伸ばした。

「や、これらが仮に無限の猿定理によって生み出されているとしたらおかしいぞ。この猿どもは一体どこから無限の時間を調達しているんだ」そこまで話すと博士はガクガク震えていたついさっきとは対照的に石像のように固まってnなにか考え始めた。

そしてまたしばらくの後、博士はまた雷に打たれたかのようにシートから飛び上がり今度はゴンと天井に頭をぶつけた。

「そうか、そうかわかったぞ!この世界の無限の猿はタイムマシンに乗っているのだ」博士はぐるんと僕の方へ顔を向けるといつもの饒舌な博士へと戻った。「それも観測しかできないこのキャデラックとは異なり、実際に物質を伴って時間を移動できる代物だ。移動型タイムマシンなのだ。移動型は物質の存在を伴って時間を移動することができるために過去への干渉が可能だ。そのため、繰り返し過去に戻ることによって一つの同じ時間の中で無限に作業を続けることができる。例えばそうだ。君が制限時間一時間のテストを受けているとする。しかし、一時間で君は問題を全て解くことができなかった。そこでこの移動型タイムマシンに乗って一時間前に戻る。そして再び続きからテストを解き始めるのだ。そうすれば極端な話、君は無限の時間を使ってテストと格闘することができる。もし無限の時間の中で老いてしまっても問題ない。そんな時はテストの開始時刻の若い君と交代すればいい。無限の猿たちはこのようにして無限の時間を手に入れたのだ」

「し、しかし博士一体どうして猿たちはピンポイントで僕たちの向かう先々にいるのですか」

「そんなのは決まっておる。無限の猿定理じゃよ。無限の時間の中でランダムな行動をし続けた場合、あらゆることが発生する可能性を秘めているのじゃ。タイムマシンによって無限の時間を得た猿たちはあらゆる時間と場所であらゆることを引き起こすことができるのじゃよ。何しろ時間はいくらでもあるのだから。何が起こっても不思議ではないのじゃ」

「じゃあそれなら、猿たちは一体どうやってタイムマシンを手に入れたのですか、博士ですら移動型のタイムマシンを作ることはできなかったのに」

「じゃから、さっきから言っておるだろう。無限の猿定理じゃよ。

この宇宙の無限とも思える膨大な時間の中、未来のいずれかの時点で誰かが移動型タイムマシンを開発しても不思議ではない。そしてそれを猿が乗っ取ったとしても不思議ではない。何しろ時間はいくらでもあるのじゃから。そのようなことがいつか起こることだってあるはずじゃよ。無に散っていた膨大な数の粒子が組み合わさり無限とも思える時間をかけて宇宙を誕生させたように。無限の時間をかけて再びその奇跡が起こったにすぎんのじゃ。ホホ」そこまで話し終えると博士はなぜか満足げにうんうんと頷いていた。

「ちょっと待ってください!」僕はとても信じられなかった。いや、信じたくなかった。「それでは、僕たちがいるこの時間軸も含めた今いる世界には時代に干渉することができる移動型タイムマシンに乗った猿たちが飛び回っていて、シェイクスピアや博士の過去をめちゃくちゃに改変しているということなのですか」僕は博士に唾を飛ばしまくった。

「そうなるのう。それに《今》という表現がもはや適切かどうかもわからんのう。今この瞬間も過去や未来の歴史がタイムマシンに乗った猿たちに蹂躙されているのじゃから」博士は唾まみれになったまままだうんうんと頷いている。

「じゃあ僕の歴史もこれから猿たちに改変されてしまうっていんですか!」叫んだのは今日これで三度目のはずだが僕にはもう今日がいつのことなのかよくわからなかった。

正気をなくしたように頷き続ける博士はもう頼りならない。確かめに行かなければ。何度か助手席で操作を見ていたのでキャデラックでの時間旅行の方法は大体わかっている。僕はダッシュボードのボタンで行き先の設定を変更した。目的地は両親が僕を授かった時代だ。

「博士!お願いします」車体が揺れ始めたのでさっきよりも増して博士がうんうんとしている。

「むう、仕方ないのう」博士は渋々承知するとアクセルを踏み込んだ。

視界が歪んで、気がつけばそこはもう僕が生まれる前に両親が住んでいたというアパートの一室だ。

アパートの空間は無限だった。父と母の無限の寝室の戸を開ける。

そこでは無限の猿が無限に情交を繰り返していた。

「ふむ、無限の時間さえあれば猿が人を産むこともあろうて。ホッホッホッ。オッホホホホホホホホホホホホホホホホ」

キャデラックの助手席には絶句した猿が座っていた。その隣では狂った猿がホッホと笑い続けていた。

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無限の猿 鈴木秋辰 @chrono8extreme

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