夢証明
鈴木秋辰
夢証明
彼はかつてメロンソーダで満たされていた空のグラスを恨めしそうに見つめた後、グラスを持ち上げた。それから溶けた氷とメロンソーダの残滓の混ざった限りなく透明に近いグリーンをズコーッと間抜けで卑しい音を立てて吸い上げる。しとしと降り滴る有音の静寂がズコーッによって破られたせいか喫茶店の外、雨は演奏をオシャカにされたミュージシャンが抗議するかのようにさっきよりも音を増していた。彼はグラスをカツンとテーブルに戻して、それから自分の頬をつねった。
「痛い」
馬鹿め。その手には乗るか。
こいつはおしゃべりな癖に自分から話しかけることが酷く苦手なのだ。だから何か言いたい時はこうやってキテレツな行動をとってこっちにツッコミをさせることで会話を始めるのだった。そして、その行為がキテレツであればキテレツであるほど面倒な話であることをおれは知っている。否、おれ以外は知らない。なぜならこいつにとっておれは唯一の友達らしいからだ。面倒ったらありゃしない。本来ならここで出会いだとかおれも満更ではなくこいつのことを気に入っているだとかもっともらしい回想シーンでも挿入するべきなのだがそれもまた面倒だった。
おれは雨の様子を伺っていて気がつきませんでした。と、でもいうように頬杖をついて窓の外を眺めていた。
「おい、君もやってみろよ」
正面からうわずった間抜けな声が飛んでくる。向き直ると彼はまだ自分の頬をつねったままだった。
「何をしている」
反射的に尋ねてしまった。おれの負け、面倒な会話の始まりだ。
「痛いんだよ」
「当たり前だろう」
「大事なことなんだ。君も確かめてみてくれ」
おれは眉間にシワを寄せながら頬杖をといてゆっくりと自分の頬をつねった。
「どうだ?」
「痛い」
「マジか」
「なんだったんだ」
彼はズコーッとこの間に氷から溶け出したわずかな水を吸い上げるとおれの疑問に答えるかのように話し始めた。ちなみにきっかけが欲しかっただけでこいつにはおれの疑問に答えるつもりは微塵もないはずだ。
「なあ、よく言うだろう。自分の頬をつねって痛かったら夢じゃないってやつ。あれってなんで夢じゃないことの証明になっているんだ」
「そりゃあ夢は自分の都合によくできてるんだから痛みを感じないんだろう」
「確かにそれはあるかもな。悪夢の代表でよく追いかけられる夢とかあるけどさ。あれって追いかけられるのがメインでさ。捕まったりしそうになると目が覚めたり、あるいは場面が変わったりしてるんだよ。追いつかれて危害を加えられたあとの痛みを意図的に避けているんじゃないか」
「単純に想像ができないんじゃないか。さっきの例えで言うと殺人鬼か何かに追いかけられて危害を加えられそうになっても実際にそれを経験したことがないから夢で再現ができないんだ。鬼ごっことかで必死に逃げた経験はあるはずだから追いかけられる部分のみ抜粋される。逆に言えば追いかけられて危害を加えられるまでを経験したことがあれば痛みまで夢において描写されるのかもしれないが」
「なるほど。じゃあ今ボクらは自分の頬をつねってその痛みを知ってしまったから、これからは夢の中の確認においてその方法は取れないわけだ」
「どうしてそうなる」
「さっき君が話した通り、頬をつねる痛みは経験してしまったからね。それは再現性のある痛みとして夢の中でも発動するはずだ。そうなるともう頬をつねった痛みを持ってして夢か現かのジャッジはできない」
「理屈は分かった。それで、つまり何が言いたい」
「だからね、頬をつねった程度じゃ夢か現実かの判断はできないんだよ。それくらいの痛みなら誰しも感じたことがあるからね。今ここが夢か現実か確かめるためにはもっとぶっとんだことをしなくちゃいけないんだよ」
そう言うと彼は席を立ってスタスタと店の外へ出て行った。唖然としてその様子を眺めていたおれはカランコロンと店のドアに吊るされている鈴の音で我に帰る。正気に戻ったおれが余計なメロンソーダ代まで精算して店の外へ出ると雨は上がっていた。
「なあ、お金を払わずに店を出たのに店員は追ってこないぞ。もしかしてこれは」
「おれが払ったからだ」
「あ、そう。残念」
それから彼はがま口から五百円玉を出しておれに渡した。メロンソーダは四百五十円だったからこの奇行に付き合って五十円はギリギリ損な気がしないでもない。
「面倒くさがりな君はボクを呼び戻そうと店外に出て店員の冷たい視線を浴びることやそれに準ずる説明をすることが億劫で会計を済ませてから外に出ることは想像できたしね。やっぱり想像のつくことをしちゃいけないんだな。それでは夢を看破できない。それに、空のグラスで店に居座る僕らへの店員の視線が痛かったからね。思うに夢の中の痛みは物理的なものより精神的なものの方が多い気がする」
昼休みも程なく終わる時間だったのでおれたちの足は申し合わせることもなく大学へと向かっていた。ゴソゴソと財布に五百円玉をしまう無言のおれを他所に彼は話し続けている。
「さっきの追いかけられる夢、悪夢とは言ったがあれはどちらかと言うと子どもの頃の悪夢だ。今のボクらが見る悪夢はレポートを出し忘れるとか。約束をすっぽかすとか。なんと言うか地に足のついたものばかりだ。そしていずれの痛みも肉体よりも精神に則している」
「子どもと比べて経験を積んだ分、辛いこともそれなりに経験したはずだ。そして悪夢はそのトラウマによって構成される。単におれやお前のトラウマがそういった内容が多いだけで、さっきの繰り返しになるけど実際に暴力がトラウマになっている人は夢の中でも肉体的な痛みを受けると思う」
「確かにそうだ。ボクは早計だったようだ。じゃあやっぱり繰り返し記憶の中で反芻したトラウマや頬をつねるだとかの想像に容易い安易な行動じゃ夢であることを証明できないわけだ。やはり想像もつかないことをする必要があるな」
「結局どうしたいんだよ」
「みんな夢か現実かを判断する時に頬をつねってるからさ。さっきも言ったようにそれじゃあ夢かどうか判断ができないんだよ。もしここが夢なら誰かが試さないと。その想像できない痛みを」
大学は目の前だが信号に嫌われたので立ち止まる。
「ここの横断歩道待つと長いんだよな。この信号が遅刻か否かを分けることもあるから番人って呼んでるやつもいるみたいだぜ」
なんだか話がより面倒な方向へ転がり始めた気がしておれは話題の変更を試みる。
「んー、そうだな。トラックに跳ね飛ばされるとか」
「やめておけよ」
今、目の前をトラックが走り去ったからだろ。突然適当になるなよ。
話題も元に戻ってしまった。
「とは言え今ボクがここでトラックにぶっ飛ばされたなら夢かどうかの判断は少なくともつくはずだよ。これで痛かったら現実。痛くなかったら夢だ。ボクはトラックにぶっ飛ばされたことはないから夢の中でその痛みの想像はできないからね。あ、でも殺人鬼に追いかけられる夢みたいにはねられる瞬間に目を覚ますのかな」
「病院のベットの上でな」
「あるいはもう起きないかだね」
「それに悲しい話だがトラックに跳ねられた人は何人もいるはずだろう」
「そうだね、でも彼らがトラックに跳ねられてもこの世界が続いていると言うことはそうじゃないんだよ」
「は?」
「つまりね、トラックに跳ね飛ばされた人たちは夢の登場人物にすぎないんだよ。複数人で一つの夢を共有している可能性はこの際排除してね。どこかに夢を見ている本体がいるんだよ。そいつが想像できない痛みを感じて夢から覚めるまでこの夢は終わらない」
「それって胡蝶の夢とかその手の話だろう。喫茶店から教室に至るまで長々こんな話をしなくても古代の中国でとっくに語り尽くされている。時間の無駄なんだよ。おれからしたらこの退屈な話こそが悪夢だ」
フラフラと教室へ入ったおれたちは窓際の奥の席に腰掛ける。
「ほらやっぱり。この現実そのものが悪夢かもしれないんだよ。その悪夢の主人はボクかもしれないし君かもしれない」
「そして地球に暮らすあらゆる人間の誰かかもしれないな。動物も夢を見るらしいし、、太陽系の外でエイリアンが見ている夢かもな。お前はその全員をトラックでぶっ飛ばすのか」
「さっきまでそのつもりだった」
「おい」
「でも、今の君の話を聞いてピンときたよ。想像できないことが夢で実現できないことを思うに今この世界はあまりに充実しすぎている。描写が細かすぎるんだ。見てみろ」
彼は机に出しておいた、この後に始まる哲学の講義の教科書を持ち上げると親指でページを弾いてパラパラとめくって見せた。おれの教科書だぞ。
「こんなに細かく書いてある。こんなにだ。君はこんなに哲学に詳しいか?ボクもこんなに詳しくはない。さっきまでの雨も。メロンソーダも。この世界はボクらの知らないことだらけだ。少なくとも並の人間が見ている夢じゃないはずだ。無論動物も。畜生は電気羊の夢を見るのがせいぜいだろう。エイリアンってのはあながち間違いじゃないと思う。この夢の主人はきっとボクらの想像もつかない。それこそ夢にも思わないような存在なんだよ」
「そいつをトラックでぶっ飛ばすのか」
「無理だよ。事実そいつの夢の中にはトラックにぶっ飛ばされた人が大勢いるんだからそいつはもう既にトラックにぶっ飛ばされたことがあるんだよ」
そう言うことではないだろう。
「とにかくボクらはそいつの想像もつかないことをしてそいつを叩き起こさなきゃいけないんだよ」
なんでそうなる。
その時、ガラガラと軋んだ音を立てて教授が教室に入ってきたので会話は中断された。
「よし、みんないるな。講義を始めるぞ。今日はフロイトだったな」
講義が始まった。講義は酷く退屈だった。おれは哲学に興味はない。この授業をとった理由は別にある。この授業は出席さえすれば単位をもらえる。おれは他の授業のレポートを進めていたので授業の話は聞いていなかった。律儀に机の上に出し哲学の教科書はカモフラージュだ。
ところで彼はと言うと。なんと寝ていた。あんな話をしていたのだから興味を持つべきだろう。と、内心でツッコミをすませる。そしてまたレポートを進める。
「今日の講義は以上だ。それでは」
やがて授業は終わり、教授が退室をしたのを確認してからいまだに眠りこけている彼を揺すって起こそうと肩に手をかける。待てよ。違うな。こうするべきだ。
おれは彼の頬をぐにーっとつねった。退屈な話の仕返しだ。
彼は机に突っ伏していた上体をむくりと起こした後、あたりをキョロキョロと見回し、両手でグリグリ目を擦りながらボソリと呟いた。
「なあ」
「なんだよ」
彼はだらんと手を垂らして寝ぼけ眼でおれの方を向く。
「夢だったよ」
夢証明 鈴木秋辰 @chrono8extreme
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