第139話 デビュタント・ボール(初めての舞踏会)の夜


 天眼通の術の魔術師アベルは、遠くから聞こえてくるデビュタント・ボール(初めての舞踏会)の音楽を聞きながら、眠気覚ましの飲料コーヴァを一口飲んだ。今晩は弟子のクロヴィスはデビュタント・ボールに出席しているのだ。だから、天を見張る仕事は任せられない。

 他国の天眼通の術の魔術師も、ローテーションで見張りを続けていてくれる。それに甘えても良いのだが、なんとなく心が高揚し続けていて担当時間が外れても寝る気にならなかったのだ。

 とはいえ、アベル以外の者たちはすでに引き上げていた。


 まだまだ夜は長く、屋根を通して視る星空はどこまでも美しいが、見続けているとなぜか底知れぬ恐怖を覚える。

 人の手の届かない先、なのだ。

 天からの敵はその星の間を抜けてきた。だが、その彼らとて、宇宙の果てまで行ったわけではない。おそらくは、そこは人の存在を許さない死の世界なのだ。だから恐怖を覚えるのだ。



「お疲れ様」

 そう声を掛けられて、アベルはとつおいつの思考を中断し振り返って礼をした。

 声を掛けたフォスティーヌも、それに手を上げて返した。

 おそらくは、フォスティーヌも眠れずにいるのだろう。


 アベルの横に立ったフォスティーヌはしばらく無言だった。

 そして、ようやく口にした声は限りなく小さい。

「私は力不足です」

 フォスティーヌのつぶやきに、アベルは再び天に向けた視線を動かすことなく答えた。

「レティシア殿のことですかな?」

「リゼットのこともです」

「……そうですか」

 アベルの返答は、感情を完全に押し殺したものだった。フォスティーヌの言いたいことを察したのだ。


「知ってのとおり、私は事故で同じく魔術師の夫を失い、魔法省の長という立場を引き継いで、激務の中でほとんどなにもできないままレティシアを育てました。

 いいえ、育てたとは烏滸がましい。

 レティシアは勝手に育ったのです。

 そして、そのレティシアにリゼットの世話まで任せてしまった。歳の差のないレティシアにリゼットは反発してしまい……、2人の娘をスポイルしてしまったのは私です。

 2人をデビュタント・ボールに送り出してあげたかったのに……」

「思春期にはよくある蹉跌ではないですか。

 そうは仰っても、レティシア殿は母の背を見て育ったではありませぬか」

 アベルの反論に、フォスティーヌはため息で返した。


「アベル殿に任せてから、リゼットは変わった。

 そして、アベル殿の弟子によって、レティシアも変わった。これは、父の姿を見せられなかった私の落ち度かも……」

「お止めください。

 そのようなこと、ありえません。

 世の母子家庭がすべからく同じ問題を抱えるならば、フォスティーヌ様の言は正しい。ですが、そのようなことはないではないですか」

「そうでしたね。

 今のは、母子家庭すべてに対する失言でしたね」

 そうフォスティーヌは返し、沈黙が降りた。

 だが、相変わらずデビュタント・ボール(初めての舞踏会)の音楽が聞こえてくるので、静寂が満ちることはない。


「思い出しますね、デビュタント・ボール」

 アベルの低い声にフォスティーヌは頷いた。

「天眼通の術の魔術師は、女性から嫌われます。

 己の着飾った内側を見抜く存在を、女性は決して許さない。

 誰も私には近寄らず、共に踊ってくれる女性は1人もいなかった」

 アベルの独白に、フォスティーヌは笑った。


「アベル、私と踊っていただけますか?

 いえ、私と踊りなさい」

「そうです。

 1人でいた私に、招待者として来ていたフォスティーヌ様がそう声を掛けてくださり、一曲だけ踊ることができた。

 それが私のデビュタント・ボールでした」

「仕方ありませんよ。

 女性なら誰だって、裸を晒したくはない。

 でも、私はアベルの本性を知っていましたから」

 そう言って再びフォスティーヌは笑った。


 魔術師としての才能に目覚めたアベルは、魔法省に引き取られた。

 ただでさえ孤独の中で術は暴走し、見たくないものを見て孤独はさらに深まった。

 そんな中、何年か前に魔法省に引き取られていたフォスティーヌは、姉のようにアベルの孤独を埋めてくれていたのだ。「姉のように」だから、もちろんそれは優しいものだけではなかった。弟のように相当にこき使われたのも事実だ。

 だが、それがなかったらアベルは自殺すら考えていただろう。


「すでに婚約を済ませていたにも関わらず、そのように声を掛けてくださったフォスティーヌ様に私は己を捧げようと決心しました。ご恩に報いるにはそれしかないと。

 あれから20年近くが過ぎましたでしょうか。

 私としては、ご恩の一端だけでもお返しできたのならば幸いなのです」

「そう思うなら、注意深く生きてくれないと。

 治癒魔法ヒーリングを掛ける間もなく死なれては困ります」

 頷くアベルの脳裏に、半狂乱になって死んだ夫に治癒魔法ヒーリングを掛け続けるかつてのフォスティーヌの姿が浮かんだ。


「フォスティーヌ様。

 あの日のフォスティーヌ様の美しい姿は脳裏に焼き付いております。

 引き続き、お仕えさせていただきます。

 そして、何十年か先、私がフォスティーヌ様を看取りましょう」

「……もはやその美しさは去ってしまいましたよ。

 ですが、アベル、私と踊っていただけますか?

 いえ、私と踊りなさい」

 かすかに聞こえるデビュタント・ボール(初めての舞踏会)の音楽が、2人の背を押したのかもしれない。


「喜んで」

 そう答えてアベルはフォスティーヌの手を取った。

 20年ぶりに触れる女性の手は、20年前と同じ人のものだった。

 その華奢さは今も変わらない。


 かつて手を取ることで、姉からたった1人の女性へとアベルの中で変化した存在が、今宵はどう変わるのだろう。

 デビュタント・ボールの夜は、世代を超えて人を変えるものなのかもしれなかった。



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あとがき

死は魔術でも治せないのです……

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