第12話 オオカミ少年

「狼が出たぞーっ!」


 日ごろからそんな嘘で村人たちを騙して困らせていた少年は、本当に狼が出たときに、


「狼が出た!」


 と言っても信じてもらえず、最後には狼に食べられてしまったと言う。

 人はその少年を狼少年と言った。


 では、出たのが狼ではなかったら――?



 +


「神族(ディエイティスト)が攻めてきたぞーッ」


 まだまだ幼さの残る少年の声が森の中に響く。

 驚いた鳥たちが木々から飛び立ち、少年の上を飛び去る。

 少年はもう一度同じことを叫んで、ひっそりとした村を駆け抜けていった。


「こら、ナール! またお前か!」

「いい加減にしないと鍋で殴るよ!」


 簡素な家から、声に驚いて飛び出した大人たちが口々に怒鳴る。

 だが一部の人々はそんな大人たちとナールと呼ばれた少年のやり取りを微笑ましそうに、またある人は苦笑しながら眺めていた。

 少年を含めた、その村の住人たちの瞳は暗い金色に光っている。

 少年は家を飛び出してきた大人たちに舌を出して見せ、笑いながら村の中を駆け抜けていく。

 森の中を駆け、大人たちが追うのを諦めたところで少年は足を止めた。

 肩で大きく息を吸って心臓を落ち着かせる。


「ふぅ」


 少年は満面の笑みで空を見上げる。

 村長のジャコモは驚いて服を引っ掛けて破きながら家を飛び出してきた。

 隣家のサンシャ姉ちゃんは混乱したのか、鍋と縊(くび)ったばかりの鶏を両手で振り回していた。

 意地悪なラモン兄ちゃんなんて、引き攣った顔で辺りを見渡し、目の前の焚火に片足を突っ込んでいた。

 村の人たちの滑稽な姿を思い出して、少年はまたくくくと笑った。

 村の大人たちには何度も森を出てはいけないと言われているが、少年は聞かない。

 そもそも自分たちは純血で正当なる魔族(ディフリクト)ではないのだ。なのに村人たちは神族を恐れ、村の奥深くに隠れ住んでいる。

 低俗な魔獣となった者を処分する以外は、あまり他種族と変わらないのではないだろうか。

 でも、自分たちは高尚な魔族なのに。

 少年はそれが不満だ。だからみんなが自分たち村人は、神族と敵対し勇敢に戦う魔族なのだということを思い出させるために日々嘘を吐く。――決して、みんなの驚いた顔や青ざめた顔が見たいわけではないのだ。ああ、決して。

 そう自分に言い聞かせながら、少年はいつもの秘密基地を目指した。自分だけの遊び場だ。

 村に少年と似た年頃の子どもはいないからつまらない。

 それに村の中にいては何事か手伝いをさせられる。それは嫌だ。

 だから少年は村の外に秘密基地を作ったのだ。

 秘密基地と言っても、もとからある丁度いい大きさの穴――クマの冬眠ねぐらの跡だろうか――に私物をいくつか持ち込んで、過ごしやすいようにしたくらいのものだが。

 一人で遊ぶとき、少年は必ずそこに行く。

 今日ももちろんそのつもりだった。

 しかし。


「あれ?」


 秘密基地の前に蹲る、襤褸を纏った小さな影があった。

 少年の声でその影がびくりと跳ねる。

 泣き出しそうな右目が少年を見上げた。左目にはぐるぐると不格好に布が巻かれているが、幼い顔をした女の子のようだ。

 少年と同じくらいの年頃に見える。


「キミ……」


 驚いて近付こうとすると、少女はびくりと身体を震わせ後退る。


「や、」


 小さな泣き出しそうな声。

 ひぅ、と喉を鳴らした。


「ご、め、ごめんなさい、ごめんなさい、ワ、ワタシ、ワルくないから、なにもしてない、から、その、ご、ごめんなさいっ」


 ひぃと怯えた少女のいつ終わるとも知れない懺悔が、その愛らしい唇から零れる。

 ふと長いぼさぼさの髪の間から小さく尖った耳が覗いているのが見えた。

よく見れば少女の右目は綺麗な金色をしている。


「キミ、もしかして、魔族?」


 思わず口に出すと、少女はひっと息を飲んだ。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ワタシほんとうになにもしてないのごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい、ごめんなさいごめんなさ――」

「お、落ち着いて、ボクの目と耳を見て!」


 少女を揺さぶって、自分へと意識を向けさせる。

 あ、と少女はもう一度、息を飲んだ。


「……魔族……?」

「うん、魔族だよ。キミと同じ!」


 そう言うと少女は幾分か落ち着いたのか、ほうと息を吐いた。

 おどおどと周囲を見渡す少女はどこか小動物のようで愛らしい。

 見れば左目の布はともかく整った顔をしていて、とても可愛いことに気付いた。

 少年は頬が赤くなるのを感じながら、えーとと言葉を探す。


「あの、ボクの名前はナール。キミは?」


 おず、と少女は恥ずかしそうに小さな桃色の唇を開いた。


「――エリス……」


 エリス。なんて名前まで可愛らしいのだろう。


「エリス、いい名前だね」


 そう褒めると、少女――エリスは照れたように俯いた。


「エリスはどうしてここに? 村の人じゃないよね」

「……ち、近くに、村があるんですか……?」


 うん、と頷くとエリスは戸惑ったように眉を寄せた。

 そんな仕草も可愛い。


「ボクたち魔族だけの村だよ! ……その、キミみたいな純血ではないけど」


 そう、エリスは綺麗な金色の目をしている。純血に近い魔族なのだろう。もしかしたら純血かもしれない。

 初めて村人以外の人と喋る楽しさと、純血に近い魔族に出会った興奮で高揚しているのが自分でもわかる。

 自分たちのように真正の魔族からも下級扱いされる魔族ではないのかもしれない。

 もしそうだとしたら外の世界はなんて恐ろしいんだろう。

 こんなに可愛い子が、反射で謝るようになってしまうまで虐げられる世界。


(こっわいな……だから大人たちは森から出るなって口うるさく言うのかも)


 思わずぶるりと震える。


「……村は、どれくらい近いの?」

「えーと、向こうに黄色い葉っぱの木が見える? あれの一番背の高いやつの下辺りだよ」


 少し離れた木の頭を指す。年中黄色い葉をつけている珍しい木だ。自分たちの村では魔族の目の色に似ているからと割と親しまれている。

 案内してあげたら喜ぶかな、と少年は少女を伺い見る。

 エリスはじっと木の頭を見ていた。


「……案内しようか」


 言ってみた。

 自分たちの村にこの子が来てくれたらどんなにいいだろう。それで近くで暮らすようになって、そしたら……。

 てれてれと頬を染めながら妄想する。はたから見れば不審この上ないが、今いるのはエリスだけだし、なにより少女の視線は黄色い木に釘付けだ。

 だけどエリスは首を横に振った。


「え、」

「……ごめんなさい、ひとにあうのが、こわくて……ワタシ、ワタシいがいの魔族とあったこと、ないから……」

「……そう、なんだ」


 じゃあすぐに村に連れて行くのは無理だろうか。

 でもこのまま放り出すわけにもいかない。どうしよう。

 少年は辺りを見渡した。ああ、そうだ。


「ねぇ、じゃあ、ボクの秘密基地にしばらく隠れたらいいよ」


 ひみつきち、と少女は小さく唇を震わせる。

 そうだよ、と肯定すると、エリスは心持ちわくわくした表情で少年を見た。

 こっち、とさり気なくエリスの手を取る。振り払われたりはしなかった。

 ほぼ目の前の秘密基地に案内する。ここに自分以外の人が入るのは初めてだ。

 エリスを見れば、目を輝かせて基地の中を眺めている。

 少年は得意になって、いろいろなことを話した。

 ここに来るのは一人になりたいとき以外にも、朝早くに「神族が来たぞ」と大人たちを驚かせて逃げる際だったりすること。「神族が来たぞ」と言って回るのはいずれ来る本物の神族と戦うための意識を損なわないためだということ。好きな食べ物、町長の面白い話。

 たまにエリスの話も聞いた。

 とても酷い話だった。自分を生んだ存在――オヤと言うらしい――に奴隷商に売られただなんて!

 それを語るエリスはとても辛そうな顔をしていた。

 嫌な話をさせてしまった。少年は後悔する。

 けれどそれと同じくらいに、そんな辛い話をしてくれるエリスの心が嬉しかった。それだけ自分に心を開いてくれているということだ。

 少年はその日から毎日、秘密基地に足を運んだ。

 日に日にエリスは微笑んでくれるようになり、少年は嬉しくなった。

 明日は少年の好きな木の実を持ってきてあげよう。

 そう思うと少年は胸の辺りが温かくなる気がした。



 +


 深い森の入り口で、ヴァーレンハイトは人が来るのを待っていた。

 ぼんやりと眠たい目をこすりながら、その人が来るのを待っている。

 そろそろ八つ時だ。昼寝したい。

 そんなことばかり考えていると、ふいに背後から声をかけられる。

 この人たちはそういう声のかけ方しか出来ないのだろうか。

 のんびりと振り返り、いつの間にか来ていた男の姿を視界に入れた。

 嫌に目の細い男だ。琥珀色の短い髪に、藍色の着流し。髪色に似た落ち着いた色の羽織を羽織った優男。それがヴァーレンハイトの彼への印象だ。

 こんにちは、と男は流れる川のような声で挨拶する。


「……こんにちは。時間ぴったり、かなぁ」

「それはよかった。早速ですが、特定は済みましたか」

「それはティアがやった。場所はこっちに記してある」


 言いながらヴァーレンハイトは男に紙を差し出す。男はにこりと笑ってそれを受け取った。


「……うん、大方予想通りですね」

「じゃあ、おれたちに依頼する必要あった?」

「なにか」


 イイエ、とヴァーレンハイトはもごもごと口にする。

 気付かれないよう小さくため息を吐く。

 風が吹いて、男の前髪を揺らす。

 ヴァーレンハイトは背後に広がる森を見た。

 深い深い森だ。一度入れば、なかなか出てこられない。

 近隣では魔族が住むと噂される森だ。


「いっそ森ごと焼き払えたら楽なんですけどねぇ」


 男は物騒なことを言っている。

 まぁ、楽か楽じゃないかという点でのみ話すなら、ヴァーレンハイトも同意だ。


「近隣の町としては森自体は焼けたら大変ですからね、作戦実行のときはせいぜい注意してもらいましょう」


 作戦実行。その言葉に腹の下が重たくなる。

 ヴァーレンハイトは別に正義感を持っているわけでもない。そもそも自分だって戦争加害者だし、生きるためにはそれなりに色んなことをしてきた。きっと恨みを持っている人はたくさんいるだろうし。

 だから今更なにかを言うつもりも邪魔するつもりもない。

 だけど、なんとなく気が重かった。

 相棒の身が危険にさらされるかもしれないと思うと余計に。

 はぁ、とヴァーレンハイトは再度ため息を吐く。

 幸せが逃げますよ、と男に言われたがそんなもんとっくにどっか行ってる。


「襲撃はいつ」

「そうですね、今晩にでも」


 男が書類替わりの手紙を検めている間、暇なので男を観察してみた。

 とはいえ、代わり映えもないのですぐに飽きる。

 ふいに男の目が開かれた気がした。――赤い双眸。


(神族、かぁ)


 男の素性を知る限り思い出す。

 そう、男は神族だ。どのくらい偉いのかは知らないが、ただの神族ではないことは確かだ。

 でなければアーティアが。

 考えて首を振る。

 ふと森の方で物音がした気がした。

 首を傾げて森を見る。獣だろうか。


「……鼠がいたようですね」


 男が笑う。

 ヴァーレンハイトは遠見の魔術を展開し、鼠の影を追う。随分とすばしっこく、小さな鼠だ。

 見つけた。


「あれの駆除はそちらに任せても?」

「……わかった」


 頷いて森の方に踏み出す。

 一度だけ振り返ると、男はもうどこにもいなかった。


「……人使いが荒いなぁ」


 はぁ、ともう一度ため息を零した。



 +


 大変だ。大変だ。大変だ。

 少年は走っている。

 今し方見た光景が信じられなかった。


(神族が、攻めてくる……!)


 まさか、そんな。

 走る。走る。走る。走る。

 息を切らせて少年は村に駆け込んだ。そして叫ぶ。


「神族が……神族が来るぞ!」


 井戸端会議していたおばちゃんたちがきょとんと目を丸くする。


「大変なんだ、神族が……げほ、神族が来るんだ!」


 だから逃げなくちゃ。

 少年は必死に声を張り上げる。

 だが、村人の反応は少年の想像していたものと違った。


「こら、ナール! また嘘ばっか吐いて!」

「珍しいな、今日は二回目だぞ」

「まーた遊んで。こっち来て、お手伝いしなさい」


 誰もが笑っている。


「ちが……神族が……本当なんだ!」


 言い募ると、様子の違う少年を村人たちは訝し気に見やる。


「しつこいな、もうそれはいいよ」

「そろそろ本気で怒るぞ!」


 近所のおじさんが拳を振り上げる。

 どうして信じてくれないの。

 少年ははっと朝のことを思い出す。


(そうだ、ボクがいつも言ってるから……)


 でも本当のことなのに。どうしてわかってくれないんだ。

 少年は拳骨を落とそうとするおじさんに背を向けて走った。

 走って、走って、結局いつもの秘密基地についていた。

 基地にはエリスがいる。

 どうしたの、とエリスは心配そうに眉を寄せた。

 誰も逃げてくれない。

 誰も戦おうと言ってくれない。

 自分だけでも逃げる? ――ありえない!


「……ボクだけでも、戦わなきゃ……」


 え、と少女が首を傾げる。


「もうすぐ神族が村を襲いに来るんだ」


 はっとエリスが目を見開く。さぁっと顔が青ざめた。

 そうだ、エリスも怖いんだ。


(エリスだけでも逃がさなきゃ……)


 少年は拳を握りしめる。


「でも、信じてもらえなかった。……だけどボクは一人でも戦う!」


 そんな、とエリスが悲鳴を上げた。


「だめ、だよ……そんな、たたかう、なんて……」

「もう決めたんだ。エリスはちゃんと逃げて。森までは焼かれないらしいから、きっと逃げ道はある」


 秘密基地にはあちこちから持ち込んだものがたくさんある。きっと武器になるようなものもあるはずだ。

 ここで武器を調達して、途中までエリスを森の抜け道まで案内しよう。そうすれば……。

 とん、

 ふいにエリスが背中に寄りかかってきた。

 ぎょっとして肩口から後ろを見る。

 エリスの白い頭が見えた。


「え、エリ……す……?」


 胸が熱い。

 ちがう、せなかだ。

 足から力が抜けて、ずるりと少年は床に倒れ込んだ。

 俯いたエリスの顔が見えない。首が回らないのだ。


「エリ、ス……?」


 背中に触れる。濡れている。なんで。

 手を見れば、べったりと付着する赤いもの。……血?

 どうして血が出ているの。

 エリスはなにを。

 背中が熱い。

 そっとエリスが屈んで、背中を撫でた。

 ずるりと胸からなにかが抜ける感覚がして、どっと痛みが押し寄せる。


「あぁぁぁああああぁぁぁっ」

「……痛かった? ごめんね」

「エ、りス……? な、にを……」


 力を振り絞って顔を上げる。

 エリスの顔が見えた。その顔は、見たこともない無表情。

 手には真っ赤に濡れて滴る小ぶりのナイフ。

 ああ、刺されたのか。

 でも、どうして……?


「なん、で……?」


 エリスの眉がぴくりと動く。だけど無表情のまま変わらなかった。

 どうしてそんな目で見るの。


「……生きながら焼かれるのは、しんどいよ」


 しゅるりと左目を覆う布が地面に落ちた。そこにあったのは――。


「ばいばい」


 エリス――見知らぬ少女はそのまま背を向けて歩いていく。

 どこへ行くのという声も、助けてという声も、もう掠れて出なかった。

 視界が白く染まっていく。

 そうして――狼少年は目を閉じた。



 +


 森の入り口に出る。

 そこに立つ相棒の男――ヴァーレンハイトはほっとした顔をして、ぼく――アーティアの手に血の付いたナイフが握られているのに気付いて眉をひそめた。

 おつかれ、と労いの言葉とともに荷物の入った袋を差し出す。

 そこからいつもの服を取り出し、男に周囲を見てもらいながら着替える。ナイフの血は着ていた襤褸布で拭って鞘に戻した。

 髪を手櫛で梳いて三つ編みにし、眼帯をつける。鏡がないので男にずれていないか確かめてもらった。

 いつもの服に着替えて一段落すると、どっと疲れがやってくる。


「……よかったの」


 ふいに男がぼくを見た。

 なにが、と答えると眉尻を下げて口を尖らせる。


「そもそもこの依頼を請けたのが」

「今更」


 そう、今更だ。

 そもそもの発端はこの近くの町に行ってしまったことに始まる。

 町で依頼を請けようと冒険者ギルドによると、早速助けてほしいという声が上がった。

 なんでも、この町を含めた近隣で魔獣が頻発して出現するようになったのだという。

 理由は森の奥にある魔族の村。

 その村が、村で生まれた魔獣や、魔獣になってしまった村人を森の外へ放逐しているのだという。

 そこで町の人たちは自分の身を守るために魔族の村を探すことにした。

 しかし見つからない。

 見つからなければ日々、被害が増える。

 そこでやってきたぼくたちに村を探す手伝いをしてほしいということだ。

 どうしようか迷っていると、町の住人ではないが、この件に協力してくれている代表がいると紹介された。

 琥珀色の髪をした、糸目の男だった。


「初めまして、アーティア・ロードフィールド。僕はカムイ。今回の件であなたたちと町の住人たちの橋渡し役です」

「――なんで、神族が……」

「そこはあなたには関係ありませんね」


 ぴしゃりと言い切る男――カムイに、ぼくは思わず顔をしかめた。

 いいですか、と前置きするカムイの表情は涼しいままだ。


「これは依頼ではありません、あなたたちに選択肢はないんです」


 どっと身体に重力がかかった。

 カムイの威圧で動けない。背筋を冷たい汗が伝っていった。


「……まぁ、ここで言うことを聞いてくださるのなら、悪いようにはしません。どうせやるのは町の者たちですからね」


 依頼通り、魔族の村を発見して報告するだけでいいという。

 しぶしぶ頷くと、身体が嘘のように軽くなり、床に膝をつく。ぎょっとしたのは男だった。

 どうやら威圧をぼくだけに限定行使する実力があるらしい。それを知って更にぞっとする。

 彼は真正の神族だ。それも身分の高い。

 訝る相棒を適当に説得して依頼を請けることにする。

 よかった、とカムイは口端を上げる。笑っているけれど笑っているようには見えなかった。


「まったく、魔族の長が<冥王>になってからだいぶ魔獣たちも統率が取れてきたと思っていたのに……百年戦争と言い、いい迷惑ですね」


 そうしてぼくは赤い左目を隠し、魔族に扮して村を探すことになった。

 そこで会ったのがナールという少年だ。



 森の一部が赤く燃えている。黒い煙が空を覆い、空を焦がしてしまいそうだ。

 ぼくと相棒は町から離れた山の上からそれを眺めていた。

 鳥が飛び立ち、もうもうと黒煙が空を焼く。

 それは空が白んで太陽が昇るまで続いた。


「……ばいばい」


 そう小さく呟いた声は、もうあの少年には届かない。



 +


 焼け焦げた森の一部を真っ黒にして、雨は全ての火種を消していった。

 村のあった場所は跡形もなく崩れ去っている。

 ずる、べしゃ、……ずる、べしゃ、

 誰もいなくなった村に近付いていく音がする。

 それは泥水をすすりながら這いずってくる音だ。

 ずる、べしゃ、……ずる、べしゃ、ずる、

 べしゃりとそれ――少年は焼け焦げた柱を見上げ、唇を震わせた。


「あ、あぁ……あああ……ああぁああぁぁあっ」


 よく見れば真っ黒な人型があちこちに落ちている。――村人だ。

 もう動かないそれを見て、少年は更に叫んだ。


「ゆる……さない……ゆるさない……」


 少年はぬかるんだ地面に爪を立てる。

 がりがり、がりがり、

 ぱきり、

 がりがり、がりがり、がりがり、

 爪が折れたのも構わずに。


「ゆるさ、ない……っ、ぜったいに、ゆるさない……っ」


 なにを?

 だれを?

 ……決まっている、あの――少女だ!

 ぎりと少年は奥歯を噛み締める。血の味がした。

 ぼろぼろと涙が零れる。

 優しかった村長のジャコモさん、笑顔が可愛かった隣家のサンシャ姉ちゃん、意地悪だけどたまにお菓子をくれたラモン兄ちゃん、バザンさん、ベルスおじさん、ポモナおばさん……みんな、みんないなくなってしまった。

 雨ももう止んでいるのに、少年の身体は冷え切っている。

 ふいに足音が聞こえた。

 おや、と幼さの残る青年の声。


「生き残りがいたんだね」


 誰だ。

 少年は顔を上げる。

 白いシャツとズボン、薄紫がかった髪が見えた。

 村人ではない。


「……だれ……?」


 ふと青年の赤い唇が弧を描いた。


「手を貸してあげようか」


 なんのためにかはすぐにわかった。

 この人からは強い気配がする。

 こくりと少年は唾を飲み込んだ。

 そろりと手を伸ばす。

 白くて細い、しかししっかりとした青年の手と汚れた少年の手が重なる。

 ぐいと力強く引かれ、少年は立ち上がる。

 青年は少年よりもだいぶ背が高かった。


(だけど背の高かったラモン兄ちゃんよりは低いや)


 青年がにっこり笑って少年を見下ろすのを黙って見ている。

 ぎゅっと手に力が入った。

 少年はきっと空を睨み付ける。


「……ぜったい、ゆるさないから……エリス」


 少年の声は、微笑む青年しか聞いていなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る