第8話 寝言

 ふと夜中に目が覚めて、眠れなくなった。

 久々の宿のベッドだというのに。

 もったいないと思いながら半身起き上がる。

 遮光幕の隙間から月明かりが入り込んでいるのが見える。物音はしない。

 みんな寝静まっているのだ。起きている者の気配がない。

 頭をがしがしと掻きながらベッドから這い出て、サイドテーブルに置きっぱなしだった水差しから湯飲みに水を注ぐ。

 ぼく――アーティアはそれを一気に飲み干して、息を吐いた。前髪が額に、後ろ髪が首に張り付いて不快だ。

 今日は安価な宿をとっていたので、部屋には辛うじて硬くて小さいベッドとソファーが置いてあるだけだ。流しも風呂もついていない。

 流石にケチりすぎたかな、と今更ながらに後悔――はしても仕方ないので、次はもう少し考慮するということで反省しておく。

 ただ反省したところで汗が引くわけでもないし、眠くなるわけでもない。なんとなく再びあの硬いベッドに身を沈めるのも億劫な気がした。

 ため息を吐いて、隣のベッドを覗き見る。

 相棒の男――ヴァーレンハイトが口を半開きにして幸せそうな顔で眠っていた。そんな顔、起きているときには一度も見たことがない。

 ぼくは眠れないのに、どうして日中も寝ていたこいつはここまで幸せそうに眠れるんだろうか。なんか腹立つな。八つ当たりだけども。

 ふといたずら心が湧いて出た。

 そっとベッドに近寄り、男の腹の上に乗っかってみた。――起きない。

 頬を突いてみる。――起きない。

 前髪を分けてみる。――起きない。

 少し考えて、右手で鼻を摘まんでみた。――「んぐっ」と間抜けな声を出したと思ったが、起きなかった。


(どこまでやったら起きるかな。いや、起こすつもりはないんだけど)


 どれだけ眠れるんだ、こいつは。

 検証だ、と心の中で一人言い訳をしながら、左手で口も塞いでみた。

 いーち、

 にーい、

 さーん……

 え、大丈夫か、これ。


「んむぅっ」


 男が嫌そうに首を振ってぼくの手を払おうとするのに安心した。

 よかった、流石にこのまま殺したら洒落にならない。

 そっと手を離すと、男はまた安楽な顔で眠り始めた。


「……うっそでしょ、マジか」


 いくらなんでも起きると思ったのだけれど。

 しかしそのまま寝顔を見ていても起きる気配はない。


「……よくもまぁ、こんなに眠れるもんだ」


 対してぼくは少し眠りが浅いところがある。

 羨ましい限りだ。

 放っておけばいつまでもどこででも眠っていそうだ。それこそ魔獣の巣のど真ん中でさえも。


「……いや、流石にそれは羨ましくないわ」


 呆れながら、もう一度、鼻を摘まんでみる。

 もぞもぞと身動ぎはするが、起きる気配はない。

 薄く開いた口からううとかああとか言う言葉が漏れてくるだけだ。


(……馬鹿らしい、寝なおすか)


 そう思って指を離そうとしたとき、


「……や、め……」


 男の薄い唇が明確に動いた。

 ぎょっとして男の顔を覗き込むが、目は固く閉じられたままだ。

 ちょっとだけほっとして、指を離す。

 ううん、と男が呻く。

 悪夢でも見ているのか。


「――カオ、ン、止め……」


 男の腹の上から降りようとした身体が止まった。


(……カ、オン……?)


 人の名前だ。

 誰かとぼくを勘違いしているらしく、男はうんうん唸りながらも本気で嫌そうな様子ではなかった。

 カオン。人の名前。

 それは男? それとも女?


(いや、そんなことどうだっていいでしょ)


 だってぼくと男はほんの二年くらい前に出会って、お互い都合がいいから組んでるだけだ。

 なのに妙に気になって、胸がどきどきして、なんだかさっきよりもずっと不愉快な気分が頭の中でぐるぐるしている。

 なんでだ。

 わからない。

 だってこんなの初めてだ。

 そんなぼくの気持ちも知らないで、男は再び幸せそうな顔で眠っている。

 しんと静まり返った部屋に、男の寝息だけが聞こえる。


「――大切な恋人の名前、だったりするのかもしれないねぇ」

「うわぁっ」


 突然の声にぼくは驚いて、男の腹の上から転がり落ちた。

 慌てて振り向くと、部屋に設置された姿見越しにせんせいと目が合った。

 ぱくぱくと口を開閉するぼくを、せんせいはにまにまと見下ろしている。人差し指を唇に触れさせ、しぃ、と言う。

 誰のせいで声を上げたと思っているんだ。

 くつくつと笑うせんせいは、ちらりと男を見た。

 ぼくも慌てて男を覗き込むが、相変わらず眠ったままだ。


「いやはや、よく寝入っているね。アーティアのあの悲鳴でさえ起きないとは……危機管理能力が欠如しているのではあるまいか」

「誰のせいで声を上げたと思ってるのさ」


 せんせいは相変わらずぼくを無視して、男の寝顔を眺めながらベッドの淵に腰を掛けた。

 さて、とにまにました顔でぼくを見下ろす。


「アーティア。きみの気になっているカオンという名前のことだが」

「……知ってるの」

「いや、知らない」


 にまりと笑う。

 なんだそれは。思わせぶりな口調だったじゃないか。

 構わずせんせいは続ける。


「カオンという名前は主に西方の人間族(ヒューマシム)のものだ。男女共にまれに使用されるが、まぁ、女の名に多いと聞く」

「……」

「寝言とはいえうっかり漏らすということは、そうだね、それなりに親しい関係だと推測できる」

「……」

「寝込みを襲われてまず、思い浮かべる程度には親しい仲、ということだろうね」

「……」

「ふふふ、一体どういう関係なのやら」

「……せんせい、なにが言いたいの」


 せんせいはにまにまと笑っている。

 ぼくは胸の内がどろりとした泥に覆われている気分だ。

 なんだろう、この嫌な気持ち。

 嫌だ。

 嫌だ、嫌だ。

 くつりとせんせいは笑い続ける。


「なにを言いたいか? ――言いたいのはきみだろう、アーティア」


 にまりと笑うそれは三日月のようだ。

 ぽかんとぼくはせんせいを見上げる。

 しかしせんせいは喉の奥で笑いながらぼくに背を向けてどこぞへと消えていった。


「ぼくの……言いたい、こと……?」


 窓の外は空が白み始め、早起きの鳥が鳴いていた。



 +


 ふわぁ、と何度目かのあくびを噛み殺す。

 結局あれから眠ることが出来なかったので身支度をしてこっそり宿を抜け出し、町を何周か走った。

 それでもこの胸のもやもやしたものが消えることはなくて。

 せんせいは呼んでもいないし、男はぼくがいつもより遅く部屋に戻っても眠っていたし。

 苛々する。

 なんなんだ、これは。

 朝食の席でも、いつもの食欲は出てこない。

 もそもそとパンをかじるが、味気ないものだった。


「……なぁ、ティア」


 顔を上げると珍しく目をしょぼしょぼさせていない男の目がこちらを見ている。


「なんかあった?」


 むぐ、とパンが喉に詰まりそうになる。

 水を飲んで気持ちを落ち着ける。

 なにか。

 なにがあったんだろう。

 あんたが寝てる間にいたずらしました、とは言えない。


「……別に」


 そう、と男は眉を寄せる。赤銅の双眸はまだこちらを向いていた。

 なんだ。

 ぼくが悪いのか。

 いや、確かにいたずらはしたけど。

 ここまで嫌な気分になるほどのことか。

 なんなんだ、女々しい。ぼくがぼくらしくない気がしてとても嫌だ。


――言いたいのはきみだろう、アーティア


 知らない、言いたいことなんて。

 でも、こうなったのは男の寝言を聞いてからだ。

 だったら聞いてしまえばいいだけだ。

 ねぇ、と男を呼ぶ。男は首を傾げてぼくを見た。


「――カオンって、誰」


 きょとん、と男が目を瞬かせる。

 心臓がどきどきと早い。なんでだ。

 ああ、と男は苦笑して、


「幼馴染」


 答えた。

 ……幼馴染?


「あいつがどうかした? っていうかおれ、ティアにカオンの話したっけ」

「…………寝言がうるさかったんだよ」


 えぇ、と男が口を曲げた。

 不審に思っている様子はない。


「ああ、そういえばカオンに彼女について相談されたときの夢、見てたからかなぁ」


 カオン、の、彼女?


「あいつがうるさいからなに言われても『男ならガツンと行けー』って言ってたら、適当に言うなって怒られたんだ」

「……カオンって、男?」


 うん、と男は首肯する。


「――せ、ん、せ、い?」


 くくくと笑ったせんせいが姿を現す。

 酷く楽しそうだった。

 なんだそれ。

 なんだそれ、なんだそれ。

 胸のもやもやが消えている。

 あの不快感はなく、今はせんせいへの不信感だけだ。

 あの気持ちがどうだったのかなんてどうでもいい。ただ今はせんせいをぶちのめしたい気持ちでいっぱいだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る