ヴァージン・テイスト

押田桧凪

第1話

 消毒液をショートケーキと聞き間違えるくらいのミスが皆に起こったとする。真実を知ったら、あーあって落胆する人もいるかもしれないけど、きっとそれってハッピーなことで、交差点の真ん中で踊り出しちゃいたいくらいに愉快な出来事のはずなのに、最近の皆はそれを楽しむ余裕がないどころか、「つぶやく」以上の何かを生み出すことは無いんだって。


「ハーイみんな、息してる?」


 ラジオパーソナリティーとしての活動名──綿貫真わたぬきまことの朝はこの一言から始まる。


「今日の天気は〜、晴れ!」


 たとえ雨であっても、晴れと言うのが彼女のラジオでお馴染みのジョーク(?)とされている。そのせいか「#まことのラジオ」で検索すると「なんか今日もいい天気……!」「傘持って行くのやめようかな」「嘘つき!」(界隈では褒め言葉とされている)といった好意的なコメントが毎日多く寄せられる。


「嘘から生まれた『まこと』って私のこと。だって、私ずっと嘘つき呼ばわりされる人生だったわけよね、ラジオを始めるまでは。あるとき、乱視の強い人がメガネを外したら信号が花火に見えるって言ってて、ああなんて素敵な言い方なんだろうって。それで、私はもしかしたらそういうのをみんなに見せる役なんじゃないかって確信したんだよね、たしか。だから、今の仕事を私すごく気に入ってるの」


 淀みなくインタビューに答える彼女の姿は美しく、指定されたカフェテリアはほの暗い場所だったから「私がスポットライトだよ」と言って笑ったとき一瞬、輝いたように見えたのも、きっと気のせいだった。


「でも、そういう生き方もあるって気がついたのは多分もっと昔になるのかな……」


 それは現、綿貫真が『和田島イサキ』だった頃の話になる。


「イサキちゃん何してるの?!」


 明朗快活でどこにでも行ける身体を持っていた当時のイサキ(6)──けして生まれ変わった回数のことでも、魂の数を指しているのでもない。ほんの少しばかり人間界での生活を通して得た煩悩の数に近いとでも言っておこう──はランドセルをその辺の電柱に立てかけたかと思うと、一目散に公園に駆け出して先日の雨でぐちゃぐちゃになった砂場で泥団子を作り始めた。


「これをるいくんに食べてもらいたいんだ!」


 少年漫画でコックを志す主人公が初めて包丁を握った時のような台詞をイサキは発しながら、同時にこうも思っていた。るいくんを元気にするにはこれしかないって。


 るいくんはいつも同じ服ばかり着てくる同じクラスの男の子で、イサキがるいくんのために何かをしようと思ったのは、別に友情から来るものでも無ければ当時、小学校一年生のイサキに「これって……恋?(不整脈)」という状態が疑われるような訳でもなかったので、その気持ちに名前をつけることはできなかった。


 もっと言うと、るいくんは典型的わんぱく男子として教員からラベリングされるような体育5! 国語1! くらいの落差で生きてる系の子(鼻くそをほじってそのまま舐めるような生活態度とか)で、噂では親が給食費を滞納しているだの、一日一食しか取っていないだの言われていたが、イサキにはそんなことはどうでもよくって、ただ一点、気になったことがあった。それは、給食の時間に机を合わせて皆で食べる時になって、るいくんは「おいしい」とは一言も言わないことだった。


 るいくんの漏らす言葉は食べれる、ぎり食べれる、食べれそうといった感想ばかりで、食事に対する感性あるいは味覚が欠如しているように思えてイサキは心配だった。(正確には、その二週間前に道徳の授業で『豚の解剖』を校外学習で行った小学校のドキュメンタリーを見たことが原因だった。朝に屠殺された豚が運ばれてきて、「まだ、生温かいんですよ」と職員が言いながら使わない肉の部分だけ切り出されたトレーを持ち上げたのを見て、るいくんは何とも言えない気持ちになったその時から「食」に対してすべてを拒絶するようになったからだった。)


 イサキにはそれがとても不思議でたまらなかった。普通の子どもが浮かべるふわっとした大人を困らせるような疑問──「シャボン玉って何で触ったら割れるの?」みたいなものとは違ってイサキに関しては、理知的な洞察から生まれる「人」に対しての興味が強かったのだろう。だから、イサキは幼稚園の頃から練習してきた最高の泥団子をるいくんに食べてもらおうと必死だった。


 多分、それは金銭の授受によって成り立つ関係にとらわれることがない年齢だったからこそなし得た献身性だった。要は、イサキには丘の上でたんぽぽを片手にふっと綿毛を吹き飛ばす姿の画が似合うような少女性を具えているわけでもなかったので、「るいくんに泥団子を食わせたい!」という使命を完遂するためだけに手を汚していたからだ。


 最初は一緒に遊んでいた友達も、砂場に穴を掘ってトンネルを作ったり、そこに水を通したり、お城を作ったりしていたが、その間も一心にイサキは泥団子を作っていた。そのうち、こねたり、さらさらの砂を上から粉砂糖みたくまぶして固めている様子を見るのに飽きたのか、「もう帰るよー?」という言葉を残して帰っていった。しかし、イサキは本気だった。


 嘘は感性を超えるか。(ここまで読んでお気づきの方も多いかもしれないが、)イサキには一つの力があった。それは認識を錯誤させるというものだった。でもそれは、催眠術でわさびを食べさせるのとは少し違って、暗示ではなく「植え付ける」といった形に近い。もちろん、思い込ませる対象自体には何の変化はないものの、経験則として快楽や感じ方をダイレクトに生まれ変わらせることが出来るというものだった。


「はい、あげる!」


 翌日、葉っぱで包んで持ってきたそれを手渡したイサキは満面の笑みを浮かべて、るいくんが口に入れるのを待った。


「おいしいよ」とイサキが口にすると、それまで戸惑っていたるいくんの顔はゆっくりと解け、それから口に入れてゴホッと激しく咳き込んだ。当たり前だった。本物の土だったから。なのに、その途端に泥と一緒に口から溢れたのは「んまい」と言う一言だった。


 本物の泥団子は「どう見ても食べられそうだ」と思わせるクオリティにする必要があって、るいくんをそう信じこませるに値する腕がイサキにはあった。そう証明された瞬間でもあった。なぜなら、嘘がまことに変わるのは共通の認識を持っているものに限るという暗黙の了解があるからだ。


 それから、んん、と喘ぐように何かを喉に詰まらせたのかと思うような苦しそうな顔をつくった。虫取り網でモンシロチョウを追いかけていたらいつの間にか知らない場所まで来ていて迷子になってしまった時に突然差し伸べられた手の優しさに思わず泣いてしまうような、でもそれを見た周りの大人が怖がっているのかと勘違いして、誘拐を疑ってしまうようなそういう表情だった。でもやっぱりその後も、また「うまい」とるいくんは言った。


 してやったり、だった。イサキはとても嬉しかった。そして、イサキは味を求めていた。るいくんの口から聞く「おいしい」を。それから、彼に届ける最良の嘘を。


「……嘘ってやっぱり一番効果的だと思うんです。騙すって言うと人聞きの悪い言葉だけど、でも誰かに届ける嘘が、空想が全部つながってたらいいなって。例えば、それが消毒液をショートケーキと聞き間違えるくらいの優しさだったら」


 彼女はインタビューをそう締めくくった。

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