第4話 君「だけ」には伝わると思うんだ


「結局来ないんだ……」


いきなり自分の所へ来ると言い出した友人を訝しく思いながらも、由香里ゆかりは家を出ようとしていた。


友人から連絡を受けた時、今日は珍しくに新しく出来たカフェで開催される、推しのサイン会に参加するべく家を出る寸前だった。鏡の前で綺麗に結った、いくつも結び目を作ったゆるめのツインテールを確認して、膝上スカートを伸ばすと一度くるりと回転して見せた。


さっきまで大騒ぎしていた窓の外を覗けば、もう閑古鳥が鳴いている。レースのカーテンを閉め、家を出た。


「あれ気持ち悪かったなあ……。なんなんだろう、『ダイエット禁止』って。新興宗教にしては尖り過ぎでしょ。300人くらいいたし」


由香里が「駆け出し」韓流スターを推しだしたのは、大学2年くらいの時だった。もとは日本の男性アイドルグループ専門だったが、同じ趣味の友人の影響で、自然と沼に堕ちていた。オタ活、の醍醐味を知らない人達、特にさっきまで話していた友人の佐々木は、推しの為に髪型を変え、服装を変え、毎月の出費を調整する生活が、全く想像つかないらしい。今日は、数か月前に韓流スターのオーディションでデビューしたグループ「Pentagon Stars☆」の日本初上陸サイン会だった。全国のファンはまだ数千人、その中で20人だけが選ばれる実行倍率250倍のこのイベントを、由香里は見事に引き当た。推しはジュンユ。四か国語を操り、切れ長のブラウンアイズと180cm・62kgという超細身で筋肉質の体が歌い踊るだけで、カメラが無意識に何度も映してしまうほどのスター性があった。


今年の抽選の勝率は、頗る堅調だった。倍率が数百倍のイベントでも、12回中3回当選。推している5つのグループそれぞれに、上手く接点が出来ていた。駆け出しグループを推すと、ほとんどの確率で名前を覚えてもらえる。ジュンユとは、もうSNSライブで2回ほど話している。今日も絶対、と息巻いてカフェへ到着した。既に10人ほど並んでいた列の後ろで背伸びをして、中の様子を確認した。


このカフェは、複数の韓国のアイドルグループのメンバーの誕生日に撮影会の開催とコラボメニューの展開がされるのだが、今回はオープン以来初めてのリアルイベントだった。理由は不明だが、Pentagon Stars☆が「会えるアイドルグループ」としてのブランディングを狙ったものか、このカフェの小規模オーナーが大枚をはたいて招致したのかのどちらかだろう。当の本人は、奥のバーカウンターで電子パッドを開いて難しそうな顔をしている。予定の時刻まで、あと3分。あまり早く到着しすぎると体内の血液が沸騰寸前なほどに緊張するのが嫌で、敢えて5分前に到着したが、まるで1km走で最後の100mを全速力でダッシュしてゴールインした時のような、胸の苦しさと達成感による極度の興奮が既に到達してしまったかのごとく、そわそわと浮足だってしまう。周りの女子達も同じようで、3分、2分と短くなるにつれて自然と口数が少なくなる。


あと2分か……。頭の中で覚えた韓国語と1分間の会話のシュミレーションをしてみる。流石にファンとアーティストの間はアクリル板で仕切られているだろうが、それでもあの神々しい顔が目の前で微笑んでくれるのかと思うと、限定メニューの「カラフルマシュマロ入り♡ジュンユのラテアート」を何杯飲み干しても足りないくらいの「もっと話したい」「もっと仲良くなりたい」気持ちが襲ってくる気がして、顔を赤らめて下を向いた。相手はプロ。これは商売なんだから。いくら「会えるアイドル」路線だって、もうしばらくこんな恵まれた機会に当たることはないだろう。


開始まで残り1分を切り、オーナーが初めて顔を上げ、緊張でモアイ像のように押し黙ってしまった女子達にアナウンスを入れる。


「じゃ、そろそろ始まりますんでー。一人1分、プレゼントは運営スタッフに後で渡してください。チェキ撮影は希望者のみ、5,000円でお願いします」


きゃあ、やばい、死ぬかも、の黄色い悲鳴がざわっと沸き上がった。

いや、私もやばいよ……。大体がペアで来ているから気持ちの分散が出来ていいけど、私はもう何色の悲鳴か良く分からないものを全部自分の中に抱えているんだからね……。


開始30秒前。お馴染みの誘導役のお姉さんがドアをちらりと開けて何やら話している。ああ、もうドアの真後ろにいるんだ……。イジュン、ジホ、ミンジュン、テオ

ジュンユの5人でPentagon……こんな豪華なことってない。由香里が直接胸の鼓動を抑えるかのように胸に手を当てて20、10とカウントダウンを始めると、何故か今朝見たあのデモ隊の行進が頭をよぎった。規則正しく進んでいく大所帯。異様な掛け声と魂でも抜かれたような顔達。デモは別にそれほど珍しいものでもないはずが、頭から離れない。いや、今はそんなこと……。この神聖な時間に!推しの為に捧げるこの緊張は、愛の証!私はジュンユを誰よりも愛してるんだから!


「それでは、Pentagon Stars☆様、お入りください」


誘導役のお姉さんが白いドアを開けると、軽くお辞儀をして、手を振りながら5人が入場してきた。由香里は、その場で固まった。もう何度も推し達のファンイベントやライブはかいくぐってきたはずだった。だが、イジュン、ジホ、ミンジュン、テオ、ジュンユ……。描いた星の一番上の頂点から右回りに並ぶ美しい「星」達が歩くのを見て、何とか卒倒するのを堪えていた。


そしてその目は、ジュンユ、をはっきりと捉えた。

180cm・62kgという超細身で筋肉質の体。


いや。


ジュンユは、太っていた。


太っているどころではない、顔が2倍ほど横に増幅し、腕にも足にも、脂肪の層が出来ているように見えた。お腹もぴったりとしたシャツのフォルムから張り出し、なんとか収まっている白い衣装にびっちりと肉が挟まってしまうのか、歩く姿もぎこちない。"안녕하세요"アンニョンハセヨ、と笑顔で発する声すらも、野太くのっそりとして聞こえた。脂肪の層が二段重ねになった首筋には、油汗が滲んでいる。


突然訪れる静寂。それは、何か「標的」を捉えた時にライオンが一気に神経を集中させて、周りの音が聞こえなくなる現象ではない。周囲の女子達は、ただ「啞然」としていたのだ。由香里は、口をあんぐりと開け、あやうく作った手製のアルバムを、落とすところだった。ジュンユ以外が推しの女子達はまるでジュンユが目に入らないようで、悲鳴を上げ続け、足も髪もぴょんぴょんさせて、自分の番を待っている。


ジュンユ……。一体何があったの?オフシーズンはさておき、日本初上陸イベントで、これを運営側が許したの?一週間前の"LIVE"では普通のフォルムだったのに……。一体何が起きているの?


由香里以外の女子達は、「それでもジュンユはジュンユ!太っていても可愛い!」と脅威のリカバリー力で推しへの愛を思い出したようだったが、由香里だけは、何か不穏なものを感じずにはいられなかった。韓流スター達が地獄のような減量とトレーニングをさせられていることは、勿論知っている。だが、この1週間で、他のメンバーの肉体の修練度が最高レベルの今、一人だけあの姿で「登場する」こことに、何か意味があるのではないか、と考え始めていた。


由香里のファンミーティングの順番は、4番目だ。1番目の女の子は号泣、2番目の女の子は両手を握って何度も振り運営側に注意を受け、3番目の女の子は超高速で2ショットを取ろうとして厳重注意をくらっていた。あっという間に、自分の番になる。何て言おう?頭の中のシュミレーションを全部書き換えるには、喰らった衝撃が大きすぎる。自分の強みは会話くらいなら出来る韓国語だ。ジュンユのことを、もっと知りたい。他のファンが知らない情報を得たい。もっと仲良くなりたい。その為には、一体何があったのか聞いて、理解する相手の一人にならなければ……。だが、今彼が変わった理由等聞いたら1分が終わる……。ああ、どうしよう?


「どうしたの? もっと前に来なよ?」


由香里が泣きそうな顔でアクリル板の前に踏み出せずにいると、ジュンユが笑って招き入れた。静かに頷き、ジュンユの前まで進んだ。恐る恐る顔を間近で見ると、確かに膨張してはいるが、本質は何も変わっていないように見え、少しだけ安堵した。ポケットからスマホを取り出し、2回のSNSライブで通話したことを伝えた。


「あっ君か!覚えてるよ!君は僕と同じタイミングで笑ってくれる子だよね。えっと名前は……」

目線を下に落としたまま、微かな期待に少しだけ上目遣いをした。もう体型のことなどどうでも良い。私がジュンユにとって少しでも「特別」感さえ出せれば後は何でもいい。


「Yuka……Yukari? だったかな」


由香里は勢いよく顔を上げ、「っ、そうです!」と日本語の大きな声で言ってしまった。後ろの女の子達が何事かと肩越しに目線を浴びせている気がした。


「良かった!大事なファンの子の名前は、忘れないよ。君は韓国語も流暢だしね。いつも本当にありがとう」


推しの為に流す涙はこの世の中でもっとも純粋で救いに満ちた一滴だと思っていた由香里は、惜しげもなくそ雫をぼろぼろと落とした。ああ、あと30秒しか残っていない。もう少しだけ、この場にいさせてほしい。もう言葉等、意味をなさない……。


「あのね」

静かに泣いて俯き、アルバムを胸に抱えて震える由香里を見たジュンユは、穏やかな声でアクリル板ぎりぎりまで顔をこちらに近づけた。


「君みたいに語学に堪能で優しい子だけん、僕からちょっと伝えたいことがあって………もっと顔をこちらへ近づけて」


由香里は驚いてその場で固まったが、やがてそっと顔をジュンユの間近まで近づけた。


「僕が、最近ハマっていることを、君に教えたい。僕のこと見て、凄い太ったなと思ったでしょ。誰もが思うよね」


控え目に頷いた。


「これは、ある考えに基づいたものなんだよ。「人間が一度得たものを、減らさない」考え方なのさ。生き物全てを粗末にしない、新しい考え方なんだ。僕はその考えに凄く感銘を受けてしまって、今実践している。これをすれば、全人類が、囚われた考えから解放され、多くが救われるんだよ」


首をかしげる。あと10秒しかないのに、言葉は理解できても、意味が分からない。ああ、あと10秒が話を聞くだけで終わってしまう!減らさない?何のこと?

?一度得たもの?由香里はジュンユの体をもう一度見て、それが「脂肪」のことなのではないかと閃いた。「脂肪」を減らさない、つまり太りたいってこと?何で?


「僕が最近始めた運動があってね……。良かったら、後で僕のブログを覗いてみてよ……きっと君「だけ」には伝わると思うなあ」


「え、あの……」


気付けば、あと5秒。急いでアルバムを突き出して、サインをねだる。

ジュンユは表情一つ変えず、仕分けロボットのような動きをして、サインを書いて見せた。


「嘘……チェキ、お願いできなかった……」


後ろの女の子は、まるで自分への当てつけのように、早速チェキを取ってもらっていた。


でも、「君みたいに語学が堪能な」「きっと君「だけ」には」って……。

ジュンユは、何度も「君だけ」等、由香里だけに言っているかのように、特別感をアピールした。


あれ。ジュンユにとって、私は「特別」になれたのかな?


それだけ、由香里だけには理解してもらえると思ったのか、理由がさっぱりわからない。変わり果てたアイドルと、不可解な言葉。写真一つ撮れなかったことに対する後悔で涙が滲み、目の前が曇った。今日は気持ちの悪いことばかりが起きる。あのデモだって……。


ああ、ジュンユの言っていたって、一体、何のこと?

減らさない、って……。

その時だった。由香里の脳内で、あるフレーズが再生された。


「その肉を返せ! さもなくば、持っておけ!」


朝のデモだ。ジュンユと出会う数十秒前まで脳内にこびりついていた光景。その言葉、何故か引っ掛かる。ただの筋の悪い新興宗教だと思っていた。だが、それって肉をを減らさないなら持っておくってこと?「減らさない」なら?


あ……。

さっき、ジュンユが言っていたこととだ。


ジュンユは、最後に「ある運動を始めた」、と言っていた。だが、あのはジュンユが太る前から計画されていたに違いない。だったら、デモ運動とはおそらく違う。それに、ジュンユは、きっと個人で始めたんじゃない。ジュンユが太っても良いと許し、急激にそうなるように仕向けた何かが、絶対あるはずだった。それも、韓国語を理解し、ジュンユに近づける日本の女性を対象に、テストマーケティングまでしようとしているんだ。


私だけが、ジュンユの謎を、解き明かせるかもしれない。

そうしたら、私が本当の意味で、彼にとっての特別な存在になるんだ。


そう思った由香里は、ジュンユのブログを、開こうとしていた。











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その肉を返せ 白柳テア @shiroyanagi

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