第1話 60坪の熱狂


曇るガラスに映る姿を見つめる自分が静かに走っている時。

誰かが日本のどこかで宝くじの3億を当て、雄叫びを上げている。地球の裏側ではバーゲンセールが解禁され、モールの入口から大量の人が流れ込んでいく。その熱狂は、決して県境を、海を越えて伝わらない。周囲の場所と人と時に囲まれた条件下のみ、伝わっていく。

だが時にその熱狂の伝播の方向は、条件さえ精密に調整すれば、容易に操ることが出来ることを誰も知らない。だから60坪の閉鎖的なジムの空間の中で生まれた熱狂でさえ、ガラスを突き破ってどこかへ飛んでいくことがある。


♪ Maluma……Ay !

マルーマ……アイ!


"Mojarseモハルセ"=「男性がエロ過ぎて

というスペイン語の再帰動詞があると教えてくれたのは一体誰だっただろうか。

トレッドミルの上を無心で走りながら、窓越しの、乱切りされた植木の隙間から見える歩行者に何となく焦点を併せていると、妙なタイミングで放送禁止用語が思い浮かんだ。別に卑猥なことを一人想像して鼻の穴を膨らませているわけでもないが、かかっている曲のテンポのせいか、脱力してしまい真面目に走る気になれない。

良く考えてみれば、今日に限って、何故こんなスローな曲がジムでかかっているのだろうか。


Maluma……hahaha……

マルマ……ハハハ……


挙句の果てに歌い手の笑い声が聞こえる。マルマ、の珍妙な響きが鼓膜の周囲に残る。YouTube登録人数2,920万人、ラテン系アーティストとして最速でInstagramのフォロワーが1,000万人を突破した、南米を中心に絶大な人気を誇るラテン界の貴公子Maluma(マルマ)は、「必ず」自分の楽曲に「自分の名前」を入れる。


洋楽には良くあることだが、ある種の自分信仰なのか、良くやるなあと関心する。まあ、"Maluma"の切れ長の深い目、憂いと優雅さを湛えた眉毛、見る者に近寄る隙を与える控えめな笑み自体が、動画の中でダンスとか遊泳とかバイクの上で妙にゆっくりと動いているだけで確かに、"Mojarse"という用語を使いたくなるのも分かる。不思議なことに、日本ではほぼ知名度がなく、地球の裏側では物凄い熱気に包まれている…路線は違うが最近で言えば藤井風の崇拝レベルといったら正しいだろうか。いや、あそこまで人気の男性は社会現象を超えて、偶像崇拝に近い。もはや近しい存在等いないのかもしれない。


Maluma baby……!

マルマ ベイビー! 


イヤホンを忘れたので仕方なく音に耳を傾けて無心に走っていると、先ほどから彼の名が何度もシャウトされていたことに気づく。選曲者が気になり、後ろを振り返った。彼のプレイリストに、BPM 165~175の長距離ラン向けの曲は少ない上に、官能的で見事に救いの無い歌詞は明らかに適切ではない……今まで寧ろラテン音楽と言えば、コロンビアの美魔女"Shakira"(シャキーラ)のFIFA公式ソング "Waka Waka"(ワカワカ)程度しか流さなかったはずだが?Malumaの"chillで行こうよ"な曲調に抗えず走るペースが落ち、何度も大股で走って慌てて取り返していた。


"Me gusta todo de ti…"

君の全てが好きだ……


何かがおかしい……このジムで彼の曲を流すなど、オーナーが入れ替わったとしか考えられない。というより、何か妙だ。今日は銭湯タオル首掛けブルーTシャツオジさんも、100kgのベンチプレスを平気で持ち上げる涼しげ"Gopniks"ゴプニクス風青年(某フィギュアスケーター似)もいない。私以外には、赤シャツのトレーナーが数人と、ヨガプログラム終わりの中高年層の集団がいるのみだった。心なしか全員薔薇の花弁が散ったように、肩を落としているように見える。


「あの噂は本当だったのねえ」


「残念ね……次はどこの教室で参加しようかしら」

「ねえ?」

「困るわねえ」

「隣にも同じ系列のジムあったじゃない?」

「でも、隣町の所も閉鎖なのよ……本当、急すぎるわよねえ」


 彼女らが何やら物憂げな表情で話している内容も、妙だ。このジムの定員制プログラム、60分フィットネスのヨガ枠だけを毎週月水金と牛耳るマダム集団の圧力が跡形もなくなっていた。かと思うと、出口付近に立つ赤シャツに一言二言話しかけて、揃わぬお辞儀をしながら去っていく。


「また来ますからね」

「何言ってるの、もう来週には閉まっているのよ」

「アハハ、そうだったわね…悲しいわね」

「次は「ハーバリウム」教室を予約するしかないわね、椿さん」

「大丈夫よ、株主優待券があるからまかせなさいな」

「さすが!」


株主優待、の言葉が弾み、物憂げな雰囲気はあっという間に雲散霧消した。

だが、来週には閉まっている? マクゴナガル先生風の夫人は、今はっきりとそう言った。このジムに通い初めて3ヶ月、平日の16時から既に激烈に混み始める「私服のまま入れる」令和脱力系ジムは私も週1,2日は通い、「毎回異なる」プレイリストの音楽をチェックするのが唯一の趣味だったのだが……。私は急いで受付の赤シャツに駆け寄った。


「すみません、このジム閉まるんですか」


「そうなんですよー、明日にはもう」

脱力系ジムの受付員が脱力して答える。


「え?明日ですか?アナウンスありましたか?」

「昨日決まったことなんですよ」

「昨日って、何かあったんですか?」

「これ、やっぱりまだ一部しか知らないんですね」


「あの……何の話ですか?」

今度は脱力した腕を組むと、足を緩く開いて脱力させた。


「「減量抹消運動過激派げんりょうまっしょううんどかげきは」って聞いたことあります?」


「は……」

脱力系だったはずの赤シャツが今度は真面目な横文字をぶつけてきたので、避けきれずに喰らい、眩暈がした。


「じゃ今、日本の色んなところで「ダイエット」が抹消され始めているの知ってます?」


「は……ダイエットが消える? 何ですか、それ」

「この世から、ダイエットの概念を消そうというボイコットが起きているんですよ」

「え……肥満の人を減らそう、ではなくて、瘦せることを禁止するんですか?」

「そうです。別名、「その肉を返せ、さもなくば持っておけ運動」とも言うみたいですよ」

「何ですか、その長い名前? 意味が分かりません。そもそも痩せることを禁止するなんて、憲法違反じゃないんですか。生存権の「健康で文化的な最低限度の生活」の権利に違反してるじゃないですか。一体、誰がそんなことを始めたんですか」


「さあ。一か月前くらいからですかね……ジムを、ダイエット目的で使用する人が消え始めたんです。いや、消されたと言った方が正確かな?どうも、体重を減らそうとする行動が取り締まられるみたいですよ」

脱力系赤シャツが、突然その血の赤のような言葉の暴力を突き付ける。


「消された?いきなり物騒ですね」


「とにかく、ここには来れなくなったんです。理由は良く分かりませんが。一種の社会運動じゃないんですか。ヴィーガン過激派とか?ミニマリストとか環境活動家とか?たぶんそういう系譜の良くある風潮ですよ」


「でも、そのせいで閉鎖するんですよね?隣町のここも、さっきそうだって……」

「健康産業は大打撃ですからね。ウチも経営難になりますねえ」

「なんでそんなに楽観的なんですか……」


「うーん、この曲聴いてたら悲観する気にもなれないですからね」

私ははっとして赤シャツのヘラヘラとした顔を良く見た。どうみても大学生だ。だがあの選曲?まさか。国・年代ごとに1曲ずつ分けて、12曲分混ぜていくスタイルを、この20代前半の青年が生み出したとは到底思えない。


「この曲……もしかしてここの選曲者あなただったんですか。毎回プレイリスト作って、全部違う曲でしたよね」


「知ってたんですか……これは僕なりの一種の警告だったんだ」


「抗いですか」


「……"Maluma"も藤井風もそうですけど、今、「身近な神様的存在」の求心力が凄いじゃないですか。もし彼らを凌ぐカリスマでも生まれたりしたら、この世に途轍もない混沌がもたらされますよね。絶対に。だって、"Maluma"なんて日本人のほとんど誰も知らないのに、地球の裏側では神様として崇められている。皮肉でしょう。今日のこの選曲は、僕なりの最後の抵抗です」


「あの、良く話が繋がらないのですが……とにかく、減量禁止とかいう過激派のせいで、このジムはもう無くなるんですね」


「はい、残念ながら」


「あなたが言うように、何だか懐かしい場所を失った気分です」


「そう言って頂けるのなら僕が存在した価値はありましたね」


「はい……きっと」


ジムと音楽が消える。

また一つの熱狂が消えていくようだった。

赤シャツは、「混沌」がもたらされると言った。

減量抹消運動過激派、突然始まったダイエットの概念を消そうとする謎の運動……。

赤シャツが言った、カリスマの誕生がもたらす混沌と、このジムの閉鎖は関係あるのだろうか。頭の中で何一つ繋がらないまま、このジムは、明日消える。


赤シャツは、この場所に「憧憬」を置いておきたかった、と言い残した。

きっと「憧憬」とは、憧れであり、熱狂であり、この狭いジムに浮遊していた熱をもった何かだ。この60坪だけに、私と60分のプレイリストだけが生んだ熱狂は、走る者たちの足元に踏みつけられ、破片となって、どこかへ転がって割れ、染みこんでいったとしても、少なくともここにはそれがあった。


だが、まさか、隣町にも、海を越えてまで、押し寄せてくる何かが、全く別の熱量を持って迫ってきている等、信じることが出来るはずがなかった。

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