第7話 子供とのふれあい
「おねえちゃん」
何冊目かの本を読み終えて書棚に戻したところで、袖の裾を引かれた。
振り返ると、一瞬誰もいないかと思ったが、視線を下にずらすと、小さな女の子が立っていた。
五歳くらいだろうか。
黒髪のおかっぱの上に、一房だけ小さな飾りゴムで髪の毛を纏めてアクセントにしている。
オーバーオール――という名前なのは後で知ったが――を着て、袖を引く手の逆の手には一抱えもある大きな本を持っていた。
沙耶を見上げる目がとても大きく見えて、それが印象に残った。
「どう……したの?」
いきなり声をかけられて、正直戸惑った。沙耶はこの子のことを知らない。何を期待しているのか、さっぱり分からない。
数瞬の沈黙。
そして女の子は、少しだけ不安そうな瞳で、しかし意を決するように手に持っている本を沙耶に見せた。
絵の入った、童話の本だ。
「よんで、ほしいの」
一瞬沙耶は何を言われたのか分からなかった。
「わ、私に? あの、でもなんで……?」
周りに、同じように本を読んでいる人はたくさんいる。その中で、なぜ自分を選んだのだろうか。
「おねえちゃん、すごくたのしそうなめで、ごほんよんでいたもの」
少女のその言葉に、沙耶は面食らった。予想もしていない答えだったのだ。
「それに、おねえちゃんやさしそうだから」
この答えも、予想していなかった。どうやったら、自分がそう見えるのだろう、とすら思ってしまう。
確かに、同じ顔の沙羅は優しい表情をしている、と思う。けれど、自分は。記憶の奥底にある、感情のない、表情のない自分の顔。それが、当たり前だった。今までは。
ただ、そう言ってもらえることは、なぜかちょっとだけ嬉しかった。もしかしたら、沙羅と一緒にいることで、自分にもそんな表情が出来るようになったのだろうか。
「……わかったわ。読んであげる」
沙耶が本を受け取ると、少女はぱっと明るい顔になった。
その笑顔がとても可愛く思える。
とりあえず立ったまま、というわけにもいかないので、近くにあるソファに座る。
すると少女は、沙耶の膝の上に乗ってしまう。
沙耶が本を広げると、ちょうど、沙耶と本の間に入る格好になった。
これにはさすがにこれには驚いたが、不思議と悪い気はしない。
少女は嬉しそうに沙耶を振り返る。
「じゃ、読むわよ。『ここは大きな木のあるへいわなくに……』」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「お待たせ、沙耶……あら? お友達?」
沙耶が少女の本を読み終わるのを待っていたように、沙羅が戻ってきた。
「お姉ちゃんの……あれ? 同じ……?」
「沙耶、この子は?」
「えっと……本、読んでほしいって言われたから、それで……」
「おねえちゃん、とってもきれいなこえで、とてもたのしかったの」
その誉め言葉が自分に向けられている、と分かって、なぜか気恥ずかしくなる。
「沙耶もおつかれ。いい子にしてたみたいね」
「……子供じゃありません」
完全に子ども扱いされてる、というのがなぜか悔しくて、沙耶は口をとがらせる。
そうしていると、少女が突然弾かれたように飛び出した。
「おかあさんっ」
見ると、沙羅と同世代くらいだろうか。
その女性に嬉しそうに抱き着いている。
「あの、娘がお世話になったようで、ありがとうございます」
「あ、いえいえ。私は、本読んでいただけ、ですから」
なぜか気持ちがぞわぞわする。
気持ちが悪い、とかではないのだが、落ち着かない。
沙耶が戸惑っている間に、女性は何度もお礼を言いつつ、少女を連れて立ち去っていた。
「退屈していたってことは、ないみたいね?」
「それは、ない、けど……」
まだ何か不思議な感覚がある。
それを見て、沙羅が小さく笑った。
「お礼言われたの、初めて?」
「え?」
「なんかくすぐったい、って感じじゃない?」
言われてみれば、その表現が一番しっくりくる気がする。
気持ちの置き場所に困るような、しかし居心地が悪いわけではないような。
なにか戸惑いがあるが、それが不快ではない、という感じだ。
「……そうかも、です」
「よかった」
何がよかったのか分からないが、なぜか沙羅は安心したように見える。
「さて、そろそろ帰りましょうか。何気に、結構遅い時間よ」
言われてから窓の外を見ると、もうかなり暗くなっていた。
「帰りましょうか。沙耶も疲れたでしょう?」
言われて、思った以上に疲れていることに沙耶は気が付いた。お腹も空いてきている。
「はい。お腹も、空きました」
沙羅はニッコリと笑うと「私も」といって、沙耶の手を取って歩き出す。
振り返ると、山の上の方はまだ朱色に染まっていた。
ここは山の東斜面にあるので、太陽はすでに山の稜線の影になっている。
ただ、まだ沈みきっていないのか、西の空は明るい。
そして東側は、すでにその支配を夜に移しつつあった。いくつか、小さな瞬きも見え始めている。
「どうだった?」
「楽しかった、です。本を読むのも……それに、読んであげるのも」
実際、とても楽しかった。本を読むこともだが、女の子と話せたのがなぜか嬉しかった。考えてみたら、沙耶がこの街に来てから沙羅以外で話した最初の子だ。
「そ。よかった。それじゃ、今日は美味しいもの食べましょうね」
「はい、楽しみです」
沙羅はそういうと、ぶるんと一度腕を振り回し、それから沙耶の手を引いて歩き出した。
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