第8話 進み始める一歩

 沙耶が沙羅のところで目覚めてから、一ヶ月が過ぎた。


 その間、沙耶は沙羅の後について、色々なことを学び続けた。

 知識自体は多くても、そのほとんどが実感のないものばかりだった沙耶だが、気付けば廃棄都市スラムでの生活になじんでいて、今では一人で出歩くこともできるようになっていた。

 そして沙耶にとっては、ここでの日々はとても楽しく思えるものだった。


 以前の記憶も、断片的ではあるが思い出せて来ている。

 ただ、記憶する限り、以前の沙耶の日々は全く同じものだった。

 同じ時間に起きて、内容は異なれど何かの作業や訓練を行い、そして寝る。

 全く色がない生活。だから、記憶の区別がつかない。

 しかしこの廃棄都市スラムでは違う。

 太陽も空も、毎日違う表情を見せてくれるし、道行く人に挨拶をすれば、毎回違う反応が返ってくる。

 それが、嬉しい。


 一月の間に、沙耶も随分と明るくなり、正体不明の記憶に脅えることも少なくなった。いまだに、時々不安になることはあるが、それでも前ほどではない。

 何より、沙羅の存在が、沙耶にとっては何よりも安心できるものになっていた。


「そういえば……沙羅はいつからこの街にいるんです?」

「私? 気になる?」

「なります。その、沙羅のお母さんがいたのかな、とかですが……」

「うーん。実は私も、沙耶とあまり変わらないの」

「え?」

「私、子供の頃の記憶がないのよ。気づいたら……十二、三歳くらいの頃だと思うけど、この街に流れ着いてね。それから、かな。ほら、私がやってるもう一つの仕事のお店、この間話したでしょう?」


 沙羅の仕事は、学校の先生以外にもう一つ、月に数回だが知り合いの飲食店――というよりは酒場というらしい――を手伝うことがある。

 その時だけは、夜に出かけるので、沙耶はさみしい思いをすることになるが、最近ようやく我慢できるようになった。


「あそこのおかみさんがね、私を助けてくれたの。だから……もう十五年くらいかしら、ここに来てから」


 自分よりもおそらく小さい頃だ。

 その頃一人でこの街に来て、それで生活できていたのは、すごいと思えた。


「だからかな。沙耶を見つけた時、昔の私に思えたのよ。貴女を助けた理由の一つ、かな」

「じゃあ……そのお店の人が、私にとっては……えっと……おばあさん?」

「ちょっ……それ言ったらはたかれるわよ」


 そう言いながら、沙羅も笑っている。


「女の子一人で生きていくのは大変な世界だけど、この街の人は優しい人が多かった。私は、多分運がよかったんだとは思うわ。だから私はこの街が好きだし、沙耶にもここで生きていてほしいと思ったの」

「はい。助けてもらいました」


 実際、沙羅に助けられなければ、確実にあそこで死んでいただろう。


「だから……なのですが」


 沙耶は姿勢を正して、沙羅に向き直った。


「私も何か、手伝わせてもらえないでしょうか」

「え?」

「つまりその……沙羅のようにお仕事、できないかな、と」

「……また唐突ね……別に……」

「だって私、ずっと沙羅に助けられてます。でも、この街の人はみんな働いて、お金を稼いでそれで生活しています。私と同じぐらいの人や、私よりもっと小さな子供さえ働いています。だから、私も働かないと、と思って」


 このところずっと考えていたことである。

 身体も回復したし、少なくとも普通に動く分には全く問題はない。

 この街で働いていないのは、本当に小さな子供だけだ。

 あとはほとんどの人が何かしら働き、助け合っているのがこの街だ。


「……うん、わかったわ。じゃあ……そうね。できることやってもらいましょうか」

「え?」


 仕事をしたい、とは希望したが、実際自分に何ができるのだろう、というのがあった。


「私のお手伝い。どうかしら?」

「沙羅の……お手伝い?」

「そ。学校の先生」

「わ、私が先生!?」


 それは出来る気がしない。

 今でも知らないことの方が多い。

 知識だけは色々あっても、それらは自分の経験で身に着けたものでないのは明らかで、とても人に教えられるとは思えない。


「大丈夫よ。読み書きや簡単な計算を教えるのが基本だし、沙耶はそこは全く問題ないでしょう? 私のやり方を見てもらえれば、あとはそれを真似るだけよ」

「でも……」

「難しかったら別に考えるけど……でも、大丈夫だと思うわよ? ほら、前に女の子に本読んであげてたでしょう? 沙耶、子供受けはいいと思うの」


 子供に好かれることと先生として教える行為が紐づかず、沙耶は首を傾げる。


「うん、まあ細かいことはその時に教えてあげるから。とりあえず、今度試してみましょう?」

「……はい、わかり……ました」


 まだ不安がないわけではないが、沙羅と同じ仕事ができるのは、なぜか嬉しく思えた。

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