第3話 初めての味

 目が覚めると、見えるのはいつも同じ天井だ。

 真っ白で温かみを一切感じない。


 指示を出す声が響く。その指示に、ただ黙々と従うだけ。

 部品として、ただその与えられた通りの作業をこなすための訓練。

 スピーカー越しに聞こえる声に、生気を感じたことはない。

 データの羅列で示される状態。

 能力値という評価。

 自分という存在が、すぐ横にある機械と何も変わらないとしか思えない。

 違うのは、その構成要素が異なるだけだ。


「――――」


 自分が呼ばれた。だが、なんと呼ばれていたのか。思い出せない。

 ただの記号の羅列だったと思う。


 そもそもここは、どこだったか。

 ただ、これが自分が育った場所だということだけは分かる。

 閉ざされた世界牢獄

 温もりのないそこで、いつもと変わらない訓練が施される。

 世界の全てが、自分にただ機械として存在することを強要していた。

 いや、自分自身すら、自分を機械としてしか考えられないようになっていた。それが、ここでは当たり前。


 永遠に続く毎日。

 自分に与えられた何かのために、それだけのために動く毎日。

 人間ではない。無機質なロボットと同じだ。

 人間ではない。だから、人間の役に立たなければならない。

 人間ではない。それに疑問を差し挟む余地などない。

 強圧的な声が響く。

「お前は人間ではないのだ」

 その声に逆らってはいけない。

 逆らうことなど出来はしない。


 だが、そこに優しい声が響いた。

「あなたは、人間よ」


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 目が覚めた。見えた天井は、無機質な白い天井ではない。

 良く分からない模様の入った壁紙が貼られた、柔らかい印象の天井だ。


 どのくらい寝ていたのか、分からない。


 先ほどのまでの夢は、あまりに鮮明だった。

 あれが、本来の自分だと、どこか実感がある。

 決まった時間に覚醒させられ、決まった訓練を行っていた。一日、というのは訓練が終わる一区切りでしかなく、食事もエネルギー補給の手段でしかなかった。


「……私は、何なの……?」


 手から水が零れ落ちるように、次々と夢の景色が曖昧になっていく。

 だが、それでもそれが自分の真実だと分かる。

 辛い、と思ったことはなかったと思う。なのに、今思い出すと辛かったとしか思えない。

 変化のない毎日は、記憶を曖昧にしている。同じ毎日が、記憶の区別を出来なくしているのだ。

 一体自分は、なんなのだろうか、という答えの出ない疑問に堂々巡りをしていると、ぎい、という音と共に扉が開いた。


「おはよう。起きた? もうお昼よ」


 入ってきたのは、当然だが沙羅だった。

 なにやらトレイを持っていて、自分のことを窺っている。


「ん。昨日よりは顔色はよさそうね。でもなんか嫌な夢でも見た? 寝汗が凄いわよ」


 沙羅はそういうと、サイドボードにトレイを置く。

 トレイには、見たことのない食べ物ばかりが乗っていた。

 それを見ている間に、沙羅がタオルで額の汗を拭ってくれる。


「食欲はある? 昨日、スープを食べたから、普通の食事でもいいかなって思って」


 沙羅はトレイの上でひっくり返っていたカップの口を上にして、食事の準備を始める。


「なぜ……」

「え?」

「なぜ、私にそんな風に接するのです?」


 沙羅は面食らったような表情になった。それほど奇妙な質問をしたつもりはない。

 自分を『人間ではない』と言うようなモノに、このように接する理由が、全く分からなかったのだ。


「なぜ…ねえ。倒れている人を助けるのは、当然でしょう? それに、私に良く似ているんだもの。放ってなんかおけないわ」


 その考えは理解できなかった。

 どう考えても、沙羅には何の利益もない。

 しかし沙羅は、さも当然というように言い切ると、不思議な香りのする粉をカップにスプーンで数杯入れて、お湯を注いだ。途端、その不思議な香りは増幅され、かいだことのない匂いが、部屋に充満する。それは心地よい香りに思えた。


「はい。熱いから気をつけて。砂糖は入れる?」


 聞かれても分からない。

 その顔を見ると、沙羅は小さな器から白い塊を一つ取り出して、その心地よい匂いのするものの中に落とした。ポチャン、という小さな音と共に、白い塊は沈んだようだ。沙羅は、スプーンを取り出して、カップの中身をゆっくりとかき回しはじめた。

 そして、また差し出す。

 その中にある液体は黒かった。無論、見たことなどない。けれど、この匂いは確かにこの液体から放たれている。


「インスタントだけどね。熱いから、ゆっくりとね」


 沙羅はそう言って、自分もカップを取り出し、手際よく同じ作業をすると、カップを口に運び、ゆっくりと中の液体を飲む。おそるおそる、同じ様に液体に口をつけてみた。

 やはり初めての味だった。こんな味の強いものは、飲んだことがない。

 ちょっと苦い。けれど、同時に甘い。体が芯から温まっていく感覚だ。少女には初めてのことだった。


「コーヒー飲んだことないのね。美味しいかしら?」

「おい……しい……?」

「……言葉自体を……知らないのね。そうねえ。う~ん。また飲みたいって、思う?」


 沙羅の言葉に、少女は素直に頷く。


「そういう風に思えることが、美味しいってことよ。覚えておいて損はないわ。あとスープもあるけど、少しちゃんとしたもの、といってもサンドイッチだけど、食べる?」


 沙羅はトレイの上にある皿から、三角形のものを一つ摘まむと、少女に差し出した。少女は、それを受け取ったが、どうしていいか分からない。すると沙羅がもう一つそれを摘まんで、そのままかじる。少女もそれに倣った。

 言葉は出ない。ただ、少女が感じ入るのは、確かに「美味しい」という感覚だった。もっと食べたい、と思う。それに伴い、自然口の動きが速くなる。


「もっとあるから、ゆっくり…」


 沙羅の言葉と同時に、少女がむせ返った。


「ほらほら大丈夫? はい。お水」


 慌てて水で飲み込んだ。死ぬかと思った。今まで、こんなことなかったから。飲み干してしまうと、ふうと息を吐く。


「まったく。沙耶は食が細いわね」


 その言葉が少女の動きを止めた。


「さ……や……?」


 その言葉に、沙羅が空になったコップを受け取りつつ、ちょっと呆れたような表情を見せる。


「あなたの名前、でしょう? 名前が分からないと不便だからって、せっかくつけてあげたのに。ショックだなあ。私のお気に入りの名前なのよ。『沙耶』って」


 少女は、ただその「さや」という名前を呟くように反芻した。自分に与えられた存在。前に、きっと名前が別にあったはずなのに、何故かこの名前が安心できた。


「さや……私がさや?」

「そう。こういう字」


 沙羅は机からメモとペンを取って紙の上に『沙耶』と書く。さらにその横に『沙羅』と書いた。


「こっちが『沙耶』で、こっちは私の名前。『沙羅』。分かる?」


 小さく頷く。漢字は読めるようだ。


「それじゃ、改めて。よろしくね、沙耶」


 沙羅はそういって、にっこりと笑う。沙耶は、それに応えるように、ぎこちなく笑った。沙羅は一瞬驚いたような表情になったが、それは沙耶には見て取れなかった。


「さてと。もう少し休んだ方が良いわよ、沙耶は。ここは私の家だから、ゆっくり休んで回復しなさい。それじゃ、また後で」


 沙羅はそういうと、いつのまにか食べ物のなくなっていたトレイを持って、部屋を出ていこうとする。


「あの……」

「なに?」


 沙羅はドアのノブに手をかけたまま、振り返った。


「あの、また来てくれますよね……?」

「当たり前でしょう。美味しい夕飯、持ってきてあげるから、それまで休んでいなさい、沙耶」


 沙羅は今度こそ扉を開けて、その向こう側に消えた。

 沙耶は一人になったという孤独感もなくはなかったが、それ以上に安心していた。 なぜだかは分からない。

 ベッドに潜り込んで、また『沙耶』と小さな声で反芻してみる。自分の名前。それは、自分が一人ではない、となぜか感じられるものだった。

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