第2話 同じ顔の二人

「ん……」


 瞼の向こうの眩しさを感じて、少女は目を覚ました。


「……生きてる」


 自分はもう死んだ。そう思っていたのに。

 いや、実際生きていられたとは思えない。意識を失う直前の自分の状態は、間違いなく助からないはずだった。しかし、体に触れているのは、柔らかい布の感触。それが、清潔な寝台だと気付くのには、少しかかった。


 一度目を閉じて、浅く、深く呼吸し、目を開く。

 だんだんと意識がはっきりしてきた。白っぽい色の壁は、真新しいとは言えないが、どこか清潔感を感じさせる。

 そうして周囲を見渡そうとして――自分が何も着ていない状態だと気付く。もっともこの暖かい寝台にいる間は問題ないだろう。


 改めて、部屋を見渡す。

 それほど広くはない。

 寝台、サイドボード、空のフォトスタンドとメモ帳とペンが置いてある机、花瓶。刺してあるのは造花だ。

 壁に鏡。

 鏡に映った自分は――こんな顔だったのだろうか、と不思議になった。


(記憶が……ない?)


 その時になって気付いた。

 自分の顔すら、漠然としか記憶していない。名前も、いったいどこから来たのか分からない。

 逃げなければ。

 ただ、それだけしか……覚えていない。


(ここは……どこ?)


 もう一度部屋を見回す。

 窓は高いところに一つと、机の前に一つ。

 どちらもカーテンがかかっているため、外の光景を窺うことはできない。

 雨は止んだのだろうか。カーテンの隙間から見える窓からは、頼りなげな赤みがかった光がさし込んできている。

 そして扉が一つ。

 その扉に目をやった、その時。


 ぎい。


 あまり建てつけがよくないのか、少し不愉快な音を立てて、扉が開いた。

 反射的に警戒する。

 やがて完全に扉が開かれたとき、扉の向こうに立っていたのは一人の女性。ただその顔を見たとき、少女の顔は驚愕で凍り付いた。

 そこには、ついさっき鏡で見たばかりの、自分がいたのである。


「あ、気が付いたのね。良かった。今、替えの服を出すわね。ちょっと待って」


 その入って来た女性の顔は、確かに自分とそっくりだった。

 ただ、よく見ると少し違う。自分より彼女の方が年齢が大分上だと思う。


 けれど驚くほどよく似ている。

 特に目鼻立ちはまるで同じ人物としか思えないほどによく似ていた。

 光の加減で銀色にも見える髪の色まで同じ。

 長く伸ばされて後ろで纏められているが、肩の辺りまで短くしたら、自分と変わらない。

 ここまで似ている人間が、本当にいるのか、と疑いたくなる。

 もう一度鏡を見たが、そこに映るのは自分の顔。だが同時に、鏡を介さず見る今入ってきた女性の顔と、ほとんど同じ。


 改めて彼女を見る。年齢は二十代半ば、というところか。年齢よりむしろ落ち着いて見えるのは、自分と同じ顔だからかもしれない。自分と比べるため、ずっと落ち着いて見えるのだ。

 グレーのワンピースを着ていて、それでより落ち着いているようにも見えるのかもしれない。


 しかし、彼女はそんなことを気にした様子も見せず、収納スペース――クローゼットという名称はあとから知ることになる――から服と下着を取り出して差し出してきた。


「私のお古だけど我慢して。サイズが合うといいのだけど」


 そう言ってにっこりと笑う。そこには、警戒すべきものは何も感じ取れない。少しだけ少女は警戒を解いた。

 差し出された服を受け取ると、とりあえずそれに着替える。


「よかった、ちょうどいいみたいね」


 強いていえば、腰回りやお尻はちょうどいいのだが、少し胸は余る。とはいえ、サイズはほぼ同じと言ってよい。

 彼女は服を着た少女を見るとにっこりと笑い、「ちょっと待っててね」と部屋から出ていった。


 ややあって戻ってきた彼女は、トレイに今の少女の欲求を満たすものをのせてきていた。スープである。体が食べ物を欲しているのは、分かっていた。

 ただ、そのスープから漂う匂いは、少女には初めての体験だった。香料などとは違う。ガスなどでもない。その匂いをかいでいると、そのスープを食べたい、と思わされる。


「はい。お腹すいているでしょう? でもいきなりちゃんとしたものだと、お腹がびっくりしちゃうと思って。はい、どうぞ」


 食べたことのある形式の食事だ。スプーンをとって口元まで運ぶと、やはりいい匂いがする。

 口に入れたとき、少女はびっくりして危うくスプーンを取り落としそうになった。

 こんなに食べたい、と思うものは初めてだ。自然、手が早くなる。あっという間に、少女はスープを食べきっていた。


「私は沙羅。あなたは?」


 食事が一段落するのを待っていたように、彼女が名乗った。まだ完全に警戒を解いたわけではないが、名前くらいはいいだろう。


「私は……」


 そこで、口が止まる。ない。名前がない。いや、名前だけではない。何もない。自分が誰なのか。どこにいたのか。

 先ほどあんな食事を初めてだと思ったが、そもそもそれ以前はどうだったのか、思い出せない。


 唐突に、支えがなくなったかのような不安が襲い掛かってきた。

 名前も、どこから来たかも、何も分からない。自分の中に、頼りにできるものが何もない事実に、少女は気が付いた。

 だというのに。

 先ほどから一体、頭の中で繰り返される、自動的なその反射動作はなんなのか。現在もなお、頭のどこかで自分の身体状況を正確に分析しようとしている自分がいるのだ。


「もしかして、覚えていないの?」


 なんの変哲もないはずのその声で、なぜか心が落ち着いた。

 理由は分からない。ただ、沙羅と名乗った女性の声はなぜか安心できる。


「……うん」

「そっか……」


 沙羅はそれほど意外そうには見えなかった。あるいは、予想していたのかもしれない。


「いいわ。思い出すまで、ここにいて。あなたは……そうね、沙耶としておきましょう、とりあえずの名前。私に娘がいたら、つけようと思っている名前よ」


 沙羅は一人納得すると「じゃ、決まりね」と言って、食器を片付け始める。その仕種に、なぜか少女は良く分からない苛立ちで、心が波立っていた。


「私に……」

「なに?」

「私に構わないで!」


 その叫びを発した少女自身が驚いていた。

 ただ、何も分からない不安から、泣きじゃくりたくなるほどの不安から、逃げ出したいだけの叫びだった。

 そして、なぜか――沙羅の近くにいることが、怖いと感じてしまっていることに気付く。


「なぜ?」


 沙羅を傷つけたくない、と強く思った。理由は分からない。

 自分がひどく獰猛な、危険な存在に思えてならなかったのだ。


「人間じゃないの、私は!」


 なぜそんな言葉を言ったのか、分からなかった。

 まるで何かに突き動かされるように、本能的に出た言葉だった。

 そして言った事実に、少女自身が怯えていた。


「そんなこと、言わないで」


 沙羅はそういうと、少女を優しく抱きしめる。


「あなたの目も、鼻も、口も、肌も髪も、私と同じじゃない。誰がなんと言おうと、あなたは、人間よ」


 その声は、囁くように小さい。しかし、それでなにかの呪縛が解かれた。そんな気がした。いつのまにか、震えもおさまっている。


「沙耶。あなたが本当の自分を取り戻すまで、ここにいていいから。だから、もうそんなことは言わないで」


 その沙羅の言葉は、とても心地よく、ゆっくりと心の中に染み込んできた。

 抱きしめられた、触れ合っている場所から暖かさが伝わる。

 それは、身体だけでなく、心まで解きほぐすような安らぎと温もりを感じさせた。


「……あり……がとう、沙羅……」


 いつの間にか、震えが止まっていた。

 沙羅は沙耶の震えが止まったのを確認すると、トレイにスープの皿を戻し部屋を出ていく。出ていく際に「ゆっくりおやすみなさい、沙耶」と言い残して。


 不思議なくらい、その言葉は少女を安心させた。初めて感じる安心感。暖かさ。

 少女は不思議な安心感に包まれて、深い眠りに就いた。

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