砂漠の街に吹き荒れる砂嵐 2





 わたしを育てた男はヘンスという。巷では『三本からすのヘンス』と呼ばれ、一帯のボスのなかでも一目置かれる存在だ。


 ヘンスは顔も身体も傷だらけの上、全身を黒装束で包んだ厄介な男だった。

 不精髭ぶしょうひげをはやし、乱れたボサボサの髪を抑えるため黒い布を額に巻きつけている。


 背が高いため、小柄な者が多い貧民窟では目立つ。

 しかし、彼を、もっとも特徴づけるのは身長ではなく、その歩き方だ。疲れたように背中を曲げ、右肩を不自然に下げた姿は、世を捨てたような、いいようのない孤独を発散させている……。


 普段は生きたしかばねのようなムスッとした男だが、喧嘩にはめっぽう強い。

 

『三本からすのヘンス』という通り名があるのは、ダテではない。手が三本あるような攻撃を繰り出し、負け知らずだ。


 貧民窟生まれの者は武術など習ったことがない。ケンカもみな自己流で、力任せに棒を振り回すだけだが、ヘンスは違った。戦う姿に無駄な動きがなく、まるで舞踏のように洗練されていた。

 

 わたしはヘンスから強制的に武術を教わった。

 

「俺の型をまねろ」と、鍛錬することを要求された。

「身体を支配するんだ。筋肉の動きに無駄が多すぎる。もっと鍛えろ」


 ヘンスの訓練は過酷だ。

 吐いて気を失うまで続くこともある。


「もう限界だ、ヘンス」

「まだまだあ。そんなのは限界じゃない」


 傲慢不遜で勝手な男だと思う。

 でも、その背中を見ていると、ふしぎと全てを許したくなる。冷酷な態度も、乱暴な物言いも、すべてひっくるめて許したくなる。


 実は、ここいらの女たちはみな陰でヘンスに惚れている。唇の端を曲げて笑うと、ぞっとするほどの魅力を発散するってことを、たぶん、本人は気づいていない。


 優しさの欠片もない男なのに、憎めない。わたしのヘンスは、そういう男だ。


 あの日、唇を傷つけ、血を軽く垂らして帰った日、ヘンスはさらに呆れた。しばらくして、嘆息するように言った。


「アホなやつだ。顔を傷つけりゃ、売られないとでも思ったか」

「ああ、いつも高く売るって言うじゃないか……。うう、むっちゃ痛い。……痛いよ、ヘンス」


 普段のヘンスは他人に関心をもたないけど、この時はちがった。心配そうに額にシワを寄せ、目を細めた。


「つける薬がない愚か者ってのは、おまえのことだ。さあ、手をどけて、傷口を見せてみろ」

「いやだ」

「化膿したら、夜中に泣くぞ」


 その言葉に、なぜか心臓が痛くなった。

 自分のしでかしたことに、傷よりも胸が痛い。

 どくどくと胸が高鳴り、身体が震えて意識が遠のく。


「ボ、ボス。これで……、もう、わたしを売ろうなんて、……思わないだろ」

「このバカが。おまえを育てて、ちょっとばかりいい思いをしても、バチが当たらんだろうが。まったく悲しくなるぜ」

「やっと……、本音を言ったか」

「痛むか」

「痛い! むちゃくちゃ痛い!」

「さあ、いつまでも隠してないで、見せてみろ。ま、根性なしだから、たいしたことはないだろうが」


 わたしは口から、そっと手を外した。


「な、なんだ、これは」

「これはって、唇を裂いた!」

「これで裂いたつもりだったのか。呆れるというか、おまえと言う奴は。やるならもっと徹底的にやれ。軽く唇を傷つけただけじゃないか」


 すでに手についた血が干からびていた。


「大袈裟な奴だ」というヘンスの声はめずらしく優しかった。

「顔を傷つけりゃ、売られないとでも思ったか」


 たぶん、わたしの容姿は高く売れると思う。


 貧民窟ひんみんくつにも、それなりに財産を持つ顔役たちはいる。

 王都から来た官吏とか、一定数の金持ちだ。彼らは文字も読めるし、学もあって、美しい女たちを奴隷として飼っていた。


 以前、ある屋敷にヘンスと訪問した。

 悪趣味にも、その家の通路には、上半身を裸に剥かれた女たちが、両手を頭上に縛られ、両足を鎖に繋がれた恥ずかしい姿で並んでいた。


 あの女たちのひとりにはなりたくないと思った。


「なあ、ヘンス。わたしを売るな」

「ああ、売らないさ」


 ゴミ溜めの山から食べものを漁るだけの日々でも。それが極貧生活などとは知らなければ、普通だと思うだろう。


 永遠に陽はささず、臭気に鼻をおおうばかりの普通だが。

 わたしは普通に生きることを願った。ただ、この世界の普通でありたいと思った。


 

(つづく)

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