砂漠の街に吹き荒れる砂嵐 3






 傷の痛みが消えた頃には唇の腫れも引いた。顔面の左側が炎症のために醜くふくれ上がったが、それも時とともに消えた日。


「シャオロン、王都へ行って、そこで生き抜け。自分の顔を切り裂こうなんて考える度胸があれば、生き抜けるだろう」と、ヘンスが言った。


 その日は、ひときわ朝が暗く、どこまでも闇が続くように陰鬱だった。割れたガラス窓からスキマ風が吹き込み、汚れた缶でまきがパチパチと勢いよく燃えていた。


「ヘンス、冗談がきつい。なに夢を語っている。市民権を持ってないのに、どうやって王都に行くんだ」


 巨雲じゅゆん皇国の王都に住むには市民権がいる。


 貧民窟ひんみんくつに生まれた人間に市民権はなく、飢えと渇きに苦しみながら、ここで死ぬ。そこに逃げ道などない。


「『開かずの門』が開く。王都の代表として皇都で開催される儀式に参加するといい」

「なんの話よ、それ。訳がわかんない」


 起き抜けで頭が回らなかった。ヘンスの声は聞こえるが、意味をはっきり認識できなかった。


 ヘンスは気にもせず、皇都について説明する。


南煌ナンフォアン王国、フー王国、北栄ベイロン王国について、前に説明しただろう。おまえは南煌ナンフォアン王国の戦士になるんだ」


 天上には三つの王国があり、それらの国々には、清水の流れる川がある。そんな奇跡の場所らしい。

 誰も見たことはないが、まさに夢物語の世界だ。


「行けるわけないじゃないか」

「ここから出て、普通の生活をつかめ。試練はあるがな」


 貧民窟ひんみんくつの外は死の砂漠が広がっている。灼熱の砂が吹きすさぶ荒地だ。出たら最後、砂に方向感覚を失い野垂れ死ぬ。


 唯一の出口とすれば、外れにある北門だ。通称『あかずの門』は王都に通じている。

 それは、一方通行の門。

 門から出てくることはできるが、入ることはできない。捨てられることはあっても、戻れることがないのと同じだ。


「『あかずの門』に迎えが来る。自分の荷物をまとめろ」

「まとめろって、今からか」

「そうだ、ぐずぐずするな。俺の気が変わったら、どうする。王都は水の都だ。ここのようなチョロチョロと湧く泥水なんかじゃねぇ。正真正銘の水、澄んだきれいな水がある都だ」

「まるで見たことがあるみたいな言い方だな」


 ヘンスはふっと笑った。怠惰な男だが気まぐれで事はおこさない。そう言うからには、きっとなにかの計画があるのだろう。


「さあ、行くぞ。遅れたら終わりだ」


 急かされるまま荷物を皮袋に詰め、肩に背負って戸口に立った。


 そんなわたしを、一瞬だが、ヘンスはまるで惜しむかのような顔で眺め、「行くぞ」と乾いた声で笑った。

 その顔は笑っているようにも泣いているようにも見えた。


 砂風がことさら酷い朝だった。身につけたマントが風を含み、ばたばたと音を立てている。


 ズゥイ〜ン、ズズズゥ

 ズゥ、ズゥイ〜〜ン


 砂塵さじんが鳴いている。


 北門に到着して、しばらく待つと別の音が聞こえた。ガチャガチャという武器が重なる音だ。


 砂嵐で一寸先が見えづらいが……。

 貧民窟ひんみんくつ側から、数人の男たちが向かってくる。


 隣りの縄張りを取り仕切るワンヨの一団だ。


 髭モジャの顔は、いかにもガラが悪そうで、ついたあだ名が『荒くれ髭のワンヨ』。

 ボスたちのなかでも極悪な奴として有名だ。つねに数人の取り巻きに囲まれ、時にヘンスと争っていた。


「おい、ヘンスよぉ。話が違うじゃねぇか、よぅ」

「ワンヨ、何が違うってんだ」

「俺っちの女が行く。ちがうか?」

「知らないな」


 わたしの背より三倍はありそうな鉄門が背後に控えている。ヘンスは敵を警戒しながら後退りしていく。わたしも戦闘態勢を取り脇を固めた。

 鉄扉に背中がぶちあたった。


 その時だった。

 扉の向こう側から、ガチャリと鍵が外れる音がした。


「時が来た」と、ヘンスが囁いた。


 ギギギッという錆びついた音を立てて、開かずの北門が開いていく。


「行け!」


 ヘンスが低く命じた。


「だって、あいつらが」

「行け!」という声と、ワンヨが「ざけんじゃねぇ!」と叫ぶ声は同時だった。


 ヘンスの行動は素早かった。

 わたしを開いた門内につき飛ばすと、そのまま自分の身体を盾に使って門をふさぐ。両手で取っ手をつかみ、敵に背中を見せた危ない姿で扉を閉じていく。


「どきやがれ! 俺の選んだ女も行くぜ」

「なぁ、ワンヨ。おまえの女が行けないんだよ」

「ざけんじゃねぇぞ、ヘンス」


 肉を突き刺すような鈍い音が聞こえた。ワンヨたちが、容赦無く鉄槍でヘンスの背中を突き刺したのだ。それでも、ボスは扉を離さない。寄ってたかり無防備になったボスの背中を刺している。


 わたしは叫んだ。


「ボス、ボス、ヘンス! そこをどいて! 似合わないことしてんじゃないよ!」

「なぁ、シャオロン、おまえの名前は漢字で『小龍』って書くんだ。俺がつけた。いいか、なんとしても勝ち抜け……。ぐへっ」 


 うめき声と同時に血反吐を吐きながら、ボスは鉄扉を力任せに閉じた。


 ガチャンと激しい音がして門扉が閉じた。


「へ、ヘンス!」


 あいつは優しい男じゃない。口を開けば憎まれ口を叩く野郎だ。


「おまえを、いつか売ってやる」が、口癖だった。


 それなのに、わたしを残して鉄門が閉じた。こじ開けようとしたが、どんなに押しても引いても、まるで意思があるかのように、頑なに閉じている。


「ヘンス! なぜよ! なぜなのよ。こんなのない。ヘンス!」


 わたしの声が壁に反射して、こだまする。


 これまで一度として礼を言ったことがない。育ててくれた親代わりの男に、一度だって優しい言葉をかけなかった。


「ヘンス、ヘンスのアホ。くそったれ、ボス!」




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