美しい天上の王国と冷たい皇子 1




 ダメだ。

 こんなふうに別れるなんて──あのヘンスを心配するなんて自分でも驚くけど──耐えられない。耐えられそうにない。心臓が悲鳴をあげている。


 涙と鼻水を手でこすり、「ヘンス、ヘンス!」と呼びつづけ、扉を叩き続けた。


 それでも、返事はなかった。

 拳に血が滲み、鉄扉の表面を赤く染めても扉は開かない。


 貧民窟ひんみんくつで生き延びてきた人間は、世に奇跡などないと腹の奥底から叩き込まれている。


 扉をたたき続けるのは無駄でしかなく、これが正しいこととは自分自身でさえ納得してないけど。


 ヘンスは何を思って、こんなことをしたんだ。


 頭のなかがグチャグチャになっている時、脈略もなくある情景が鮮烈に思い浮んだ。この場合、どうでもいいようなことで、むしろ、なぜ今、そんなことを思い出しているのか……。


 それは何でもない、ある日のある瞬間のこと。

 珍しく太陽の日差しが貧民窟ひんみんくつに届き──


 ヘンスは家の裏側を流れるドブ川を見ていた。太陽の光が川面にあたり、小波さざなみがキラキラ輝いている。


『何を見ているの?』

『さあな』


 猫背で右肩を不自然に下げた広い背中。


 ドブ川をぼんやり眺める寂しげな背中を、ぶちのめしたくもあり、抱きしめたくもあって、とらえどころのない感情に顔をそむけた。


『ほらよ』


 ヘンスが何かを投げてよこした。それはペンダントがついた金色の鎖で、かなり年代物に見える。表面には竜の彫り物がしてあった。


『なによ、これ』

『身につけとけ、なくすなよ』

『金になるの?』

『アホ、売りもんじゃない』


 珍しく照れたように言って、また窓わくに左足をかけ、横座りしたまま外に視線を戻したヘンス。孤独な背中は、これ以上話しかけるなと拒否している。


 ありふれた日の、何でもないひととき、そんな記憶に吐き気がしてくる。


 わたしは首にかけた竜のペンダントを握りしめた。


「あの、野郎! くっそ、あのロクデナシが死ぬわけない……」

「誰が、ロクデナシなんでしょうか」


 背後から声が聞こえた。

 先ほどまで、この場所には誰もいなかったはずだ。


 男の声だが細く高く柔らかい、まるで天上界から聞こえてくるような清らかさがあった。貧民窟ひんみんくつでは、ついぞ聞いたことのない余裕のある丁寧な口調だ。


 わたしは身体を低くして攻撃態勢を整え、ゆっくり振り返った。


 白いローブを身につけた華奢きゃしゃな男が立っていた。ヘンスと同じくらい背が高いが、もっと細身だ。背筋がすっきり伸びた姿は、若いのに威厳があった。


 それに髪の色……、まっすぐ伸ばした長く手入れの行き届いたシルバーに輝く髪。こんなに光沢のある美しい髪を見たことがない。

 汚れ切った貧民窟では、髪は煤っぽく、ぼさぼさで傷むしかない。


 美しく手入れの行き届いた髪に白くきめ細やかな肌。神々しいというのは、まさにこういう人間のことだろう。

 いや、人間だろうか?


 男の背後には護衛だろうか、槍を手にした男たちが控えている。ただ、護衛にしては華奢な身体付きで、隙を伺えば簡単に倒せそうだ。


「あ、あの……、この洞窟の人か。どうか、この鉄門を開けて欲しい」

「ロクデナシとは?」

「鉄門が開かない。だめなんだ、ヘンスが死んじまう」

「あなたは、美しいお顔をしていますね。左唇にかすかな白いひきつれが残って、それは、もったいないですが。それでも十分に魅力的な方だ。想像していたより、ずっと美しい」


 顔のことを言われると、反射的に身構えてしまう。


「あんた、もったいないの意味をはき違えてるよ。もったいないってのは、有用なのに無駄に使っている時に使う言葉だ」

「意味がわかりません」

「わたしの顔は、無用なのに有用に見えるってことが問題なんだ」


 それまで無関心に見えた男が、嘘くさい笑顔を浮かべた。


「では、参りましょうか」

「何を言ってる。どこにも行かないから。ヘンスを助ける」

「面倒な方ですね。何も言わずに、ついて来れないのならば、ここに捨て置いてもかまいません。運が良ければ一年後くらいに、また扉は開くかもしれません。その時、貧民窟ひんみんくつに戻るという選択肢もあります。ただ、この食べ物も水もない場所で、どう生きていかれるのかが問題ですが。閉じ込められたまま、緩慢な自殺をお望みでしたら、このままいらしてください」


 男の声は冷酷だった。

 ヘンスの冷たさとは質が違う。血が通っていない。男が身につける汚れもない真っ白なローブのように、まっさらな冷酷。


「どうなされますか? 向こうの扉は開いています。わたしが通れば、その扉が閉じ、この狭い空間で、あなたは息のある間は空腹に耐えながら待つことができるでしょう」


 周囲を見渡したが、扉は一箇所しかない。わたしが入ってきた鉄扉だけだ。


「あんた、名前は?」

「なんという傲慢な態度だ」と、護衛が槍を向ける。「南煌ナンフォアン王国の聖なる皇子さまに、畏れ多い」

「よいのだ、ガウス、控えなさい」

「はっ」

「わたしのあざなはウーシャンです」


 ウーシャンは退屈そうな表情であごをあげた。


「ウーシャン、ここには扉は一箇所しかない」


 彼の頬がかすかに緩むと、ほほ笑んだように見えた。やはり、魅力的ではある。


「あなたの手を取りたくないのですが、汚れすぎています。だから、そちらから近くに寄ってください」

「え?」

「行くと決めたからには、従えばよいのです」


 返事も待たずに、美しく手入れされた長い指で、彼は自分の周囲に円を描く。しばらくすると、パチパチと音がして、円の形が発光しはじめた。


「この中に入りなさい」

「その命令口調をやめたらな」


 ウーシャンは驚いたのか、右眉をあげ、今度は、たしかに楽しそうな笑みを浮かべた。


「さあ、いらっしゃい」


 彼がシミひとつない、白い手を軽く曲げて招いている。わたしの汚れ切ったタコだらけの手とは違う。肉体労働などしたことがないのだろう。

 わたしは迷った。

 この手につかまらなければ、ここに残される。へンスが送りたかったところへ行くべきだが、それでも少しは迷った。


 ヘンスがらしくないことをしたからだ。わたしを助けるなんて。


 わたしは迷いながら、円に入った。

 すぐ白光に包まれる。男が奇妙な呪文のような言葉を放った。


「तत्र मां उद्धृत्य」


 それにしても、この男、なんていい匂いがするんだろう……。


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