美しい天上の王国と冷たい皇子 2




 まばゆい光に、反射的にまぶたを閉じていた。

 立っているだけなのに、頭がクラクラする。微妙に足もとが揺れ吐き気がして、平衡感覚を失うような目眩に、しゃがみ込みそうになった。


 えっ? 身体が動かない。

 倒れそうなわたしを誰かが支えている……。

 

 刹那せつな、意識を失ったようだ。名前を呼ぶ声で気がついた。


「シャオロン」と呼ぶ声は柔らかく冷たい。ウーシャンと名乗った男の声にちがいない。

「シャオロン、しっかりしてください。つきましたよ」


 ダメ、今はそれどころじゃないんだ。


 そんな冷静な声で呼ばれても、こっちは非常事態だった。

 吐きそうだ。身体の臓器が、すべてひっくり返ったように揺れて、胃液が逆流してくる。

 ま、まずい! これは、かなり危険な兆候。


「ゲホ、ゲホッ、ウゲェ!」

「吐くな。待ちなさい、お、おい、ガウス!、急げ!」

「あ、は、はい、ご主人さま。ほら、こら、こっちへ来い。口のなかで止めろ、吐いたら命はないと思うぞ。ご主人さまは汚れに、非常に敏感なお方だ」


 護衛は、わたしの状態より、ウーシャンの綺麗好きのほうが重要事項のようだ。こっちのほうが差し迫っているのに。


 両手で必死に口を押さえた。

 胃から迫りあがった汚物が口内に広がり、さらに吐き気が増して限界になったとき、強引に頭を押さえられた。


「ここに、吐きなさい」


 嫌悪感にあふれた声が聞こえ、吐き気が失せた。


 そっと瞼をあげる。目の前に陶器製のかめがあった。調度品にしたいような、清潔な光沢のある白い入れ物で汚れなど全くない。

 こんな綺麗な甕に吐けるわけがない。

 びっくりして、汚物が胃のなかに引っこんだ。

 

 目だけを動かして周囲をうかがう。


「あわ、あわわ」


 頭を抑える手をふり払い、わたしは叫びながら尻もちをついていた。腰を抜かしたまま両肘で身体をささえ後ずさった。


 これは、いったい、なんというか。

 現実なのか。

 すべてが煌びやか。煌びやかな上に清潔で、見たことも想像すらしたこともない景色だ。

 ゴミひとつ落ちていない。

 なんなら泥も砂もない。四角い模様のある床は、わたしが置いた手をどけると、そこだけ黒くなった。

 あわてて手でゴシゴシ拭ったが、かえって汚れを拡散させただけで、動揺してしまう。


「この、床は、な、なに? 砂がない。よ、汚れもない」

「大理石です」という声がする。


 そんな偉そうな解説がほしいわけじゃない。

 声の聞こえた方向には、飾彫りも豪奢な椅子にウーシャンがすわっていた。


 歯が勝手に震え、声がうわずる。


「ここは、どこ……、ですか?」

「家です」

「家って、家。これが、家?」


 ヘンス、わたしをいったいどこへ送ったんだ。

 貧民窟一の金持ちだって、こんな家に住んじゃいない。この家からみたら、そこだって貧相な小屋に見える。


 世の中には、実際にこんな場所が存在して、これが普通だと思う、ふざけた人びとが住んでいるのか。


「落ち着きましたら、お部屋に案内させますが」


 いや、落ち着け。

 落ち着くんだ。

 侮られたら負けだ。負けだけど……、いったい何に負けているんだろう。比較対象がない。


「今度はどうしたんですか。動物みたいに鼻を動かしていますが」


 それは、いい香りが漂っていることに気づいたからだ。


 その匂いがどこから来ているのか、なぜか、今、それを知ることが、もっとも大事なことだと感じて、鼻をクンクンさせた。


「いい匂い」

「あなたの匂いを消すために撒きました」


 顔を神経質に歪めた白銀のウーシャンが言う……。


「わたしが匂う?」


 服の匂いを嗅いだがわからない。ついでに髪を掻くと、砂粒がボロボロと床に落ちていく。


 こんなに清潔だと、汚れって目立つなと思って顔を上げたら、ウーシャンが、まるで恐ろしいものを見たとでもいうような表情を浮かべた。


 なんか愉快だった。

 わたしが触れたら悲鳴をあげそうだけど、ここに来たとき、わたしを支えたのも彼だ。そう思うと、ちょっとだけ申し訳ない気分にもなる。




 部屋の一角には飾りを施した紅色の柱が立ち、その先に木製の手すりがあった。

 その奥は外部に開け放たれ、見たこともない木々が生えている。緑豊かな葉をもち、白い花が咲く。

 こんな艶やかな白色が氾濫する景色なんて、常識的じゃない。

 陽の射さない貧民窟は低木ばかりだ。


「あの音は?」

「何かね」

「シャーシャーという音が聞こえる」

「それは、庭に流れる水の音です」

「水が流れる……」


 驚きのあまり、庭の見えるところへ向かった。

 赤い花々が咲く木々の向こう側、岩のあいだを水が伝っている。

 透明な水が、ありえないほど豊富に流れている。こんな世界があって良いのだろうか。


「な、なんて、贅沢で、そして、美しいの」

「美しい、ですか」


 ウーシャンが、距離を保って隣りに立った。たぶん、わたしに近づく限界距離まで我慢しているんだろう。


「これが王都」

「そうです。皇都にある三つの王国のひとつ、南煌ナンフォアン王国です」

「王都では、みんな、こんな家に住んでいるの?」


 ウーシャンは答えなかった。

 ただ、軽くため息をついてから目を伏せた。長いまつ毛が頬に影を作る。そのたぐいまれな美しさったら。この男、貧民窟なら天井知らずの最高値がつくだろう。

 売り払ってやりたい。

 わたしとヘンスの数年分の生活費に匹敵するかも。いや、もっとか。


「ガウス」と、彼が護衛を呼んだ。

「今日のところは、部屋で休ませなさい」

「はい、ご主人さま」

「シャオロン殿、こちらにいらしてください」と、ガウスが言う。

「いや、ダメよ。なぜ、ここにいるのか説明して」

「後ほど、ご説明します」


 そして、もう限界だという顔つきで、ウーシャンは宣言した。


「ともかく、この人を、風呂にいれなさい!」




(つづく)

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