美しい天上の王国と冷たい皇子 3




 黄昏時、ポツンと部屋に取り残されると寂しさを自覚する。


 ヘンス、ヘンス……。

 こんなわけのわからない世界に、わたしだけ放りこんで、どうすればいいって言うの。

 地獄に行ってる場合じゃないから。


「ヘンス!」


 呼んでみたが、返事はなかった。いつものことだ。目の前にいても返事なんてしないやつだった。


 豪華な調度品の置かれた部屋は、すみずみまで磨き上げられ、手で触れることもはばかれるほど清潔だ。


 床に視線を落とすと自分の歩いた場所に、ポロポロ砂が落ちている。

 這いつくばって袖で床を拭いていると、両開きの扉の向こう側から、「入らせていただきます」という声が聞こえた。


 青い襦裙を着たふたりの女が入ってきた。

 ふたりとも取り澄ましたような表情を浮かべている。


「シャオロンさま。まず、お身体を清めさせていただきます。お風呂のご用意ができましたので、こちらに」


 年恰好も顔も身体つきもまったく違うが、女ふたりは息のあった動作で隣り部屋をさし示した。


 その場には大きなたるがあり、湯が満たされている。

 底まで見える透明な水に驚いて、思わず顔をつけて飲もうとした。たぶん、彼女たちの失笑をかったと思う。表面的には全く無表情だったけど。


「喉がお乾きなんでしょうか。お水をお持ち致しますので。どうか湯船にお浸かりください」


 あの、潔癖ウーシャンが「風呂に入れろ」と言っていたが、まさかこれのことなのか。


 貧民窟ひんみんくつで風呂といえば砂漠の砂だ。

 赤土を身体に塗り、薬草を焚いた煙が充満するテントに入って、肌についた虫などを殺す。それが風呂であって……。湯につかる習慣はない。


「浴槽の湯が熱すぎましたら、水をお足し致しますので」と、年嵩の女が言った。

「ここに入るの? もう一回、聞くけど。ほんと、この中に入るんだよね。あとで怒らないよね」

「さようにございます」


 こんな贅沢は生まれてはじめてであって、いいんだろうか? あとで金貨銀貨を請求されても、まったく持っていない。


「これに入ったら、あとで酷いことがあるとか」

「酷いこととは?」

「たとえば、あの、高額な金を要求されるとか。あるいは、潔癖ウーシャンの寝台にいくとか」


 金のところで、年嵩の女は母親のようにほほ笑みを浮かべ、ウーシャンと言ったときには、その場に叩頭した。もちろん、もうひとりも同時に床に伏せた。


「あ、あ、あ、ありえません!」

「ふ、不敬にございます!」


 女たちふたりが、口を揃えている。


 なんて愚かなんだろう。きっと男を知らないんだ。やつらはみな同じだ。女とみれば寝ることを考えている。いや、ヘンスは例外だけど、あれは変わっていたから。わたしを女というより商品として見ていたから。


「大丈夫だよね」


 一応、確認してみた。

 ふたりは同時にブンブンと首を振っている。


 樽のなかに、手をつけると温かい湯で冷たい水じゃない。この世界は、なんというか、途方もなく贅沢だ。


 わたしは素直に浴槽に入ることにした。

 さっさと汚れた衣服を脱いで、ドボンっと湯のなかに飛び込んだ。湯が跳ねる。

 こんな汚れのない水に贅沢に入れるなんて。


 興奮して、潜っていると、くぐもった声が聞こえる。


「シャ、シャオロンさま」


 ザバっと音を立てて浮き上がった。


「なに?」

「お湯加減は、いかがでしょうか」


 なんとなく、イタズラしたくなった。


「ちょっと、熱い」

「お待ちくださいませ」


 若いほうの女が小走りに外へいき、水が満杯の桶を運んできて、湯船に、そっと水を足す。


「いかがでしょうか」

「今度は、冷たい」

「お待ちくださいませ」


 今度は、年嵩の女が走り、やっぱり重そうな桶を運んできて、「すこし、向こう側に、シャオロンさま、熱湯がかかります」と、注意して熱い湯を入れる。


「熱い!」

「し、失礼しました」

「ズースー、水を」

「はい!」


 ふたりとも汗だくになりながら、熱い、冷たいの要求に応えている。


「もういいわ」

「さようにございますか。では、お身体を流させていただきます」


 女たちが近づき、いい匂いのするタワシで、わたしの身体をこする。それが、かなりきつい。


「い。痛い」

「大丈夫でございます。シャオロンさま」

「いや、大丈夫じゃない……。ま、まさか、さっきの意趣返しか!」

「とんでもないことにございます」


 そう言った年嵩の女は、さらに強く、わたしの身体を洗った。


 湯は、すぐに真っ黒になった。身体に付着していた汚れは相当なものだ。

 いっそ、自慢したいくらいだ。

 生まれてからずっと、こんな汚れとともに生きてきたんだ。


 湯船から上がると、ピカピカに磨きあげられていた。


 部屋の鏡には生まれ変わった自分がうつっている。光沢のある亜麻あま色の髪、肌色は白く、うぶ毛もなくツルツルな裸体。


「お風呂に入られる前も、お美しかったですが。本当に、シャオロンさま。お美しゅうございます」

「なぜ、わたしを、こんなふうに扱うの?」

「ご主人さまのご指示にございます」

「あなたたちの主人って、あの白い髪の背の高い、ちょっとイケすかない男?」

「畏れ多いことにございます」

「なんだか、日々、畏れることが多そうだ。もしかして、この口もとの傷が怖い?」

「そ、そのようなことは」

「いいのよ。怖がられるために自分で裂いたんだから。でも、痛くて、ちょっと傷が白く残っただけで、あんまり効果なかったけど」


 ふたりは同時に目を大きく見開き、そんなバカなという顔をした。あまりに同時だったので、吹き出してしまった。


「女が綺麗な顔をしていると、すっごく危ない世界にいたの」

「で、でも、そのために。大事にならなくてようございました」

「いいのよ。名前を教えて」

「わたくしがスーリ、彼女がズースーと申します」


 スーリと名乗った女は、かなり年上のようだった。わたしより一回りは上に見える。太めの体格で安心感を与える容姿だ。


 ズースーは、わたしと同年齢くらい。小柄で小動物みたいに愛くるしい。


「スーとズーね。そう呼んでもいい?」

「はい、もちろんでございます」

「わたしはシャオロンよ」

「はい、シャオロンさま。お疲れでしたら、どうぞ、お隣に設えた寝台でお休みくださいまし」

「これから、どうなるの?」

「明日には、ご主人さまがご説明いたします。他に、なにか御用はございますでしょうか」

「ない」


 ふたりは頭を下げると、かしこまった儀礼的な態度で出ていく。


 両開き扉の方からガチャリと音がした。あとで確認したが鍵がかかっていた。この程度の鍵で閉じ込めたつもりなんて、貧民窟育ちを舐めてるけど。


 わたしは思索的というより、どちらかと言えば大雑把な人間だと思う。そうでなければ、貧民窟ひんみんくつで生き残れなかったろう。


 それでも、と思う。

 こんなことになって、はじめて自分は貧民窟ひんみんくつで守られていたかもしれないと感じた。


 ヘンスはどうなったろうか。


 でも、今は考えるのはやめよう……。


 すべては明日のわたしが解決する。今の自分に責任を持たせても意味がない。この混沌とした日に、さらに眠れないなんて悩みを増やす必要なんてない。


 わたしは寝台からシーツを剥ぎ取り、冷たい床で横になった。そのほうが自分には合っている。


 ヘンスのこと、このあり得ない世界のこと。そんなすべてを忘れて眠ることに集中した。それは案外と簡単なことだった。



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