第2章 天上界の事情
なんとか逃げなきゃ 1
わたしがバカだった。
これまで何度、そう思ったことだろう。
いったい何回、騙されたんだろう。
あのヘンスが自らを犠牲にして、助けてくれたなんて。あの醒めたカッコつけが。いつも猫背で片方の肩が異様に下がった、あの男に情すら感じたなんて。
『ある程度になったら、売れると思ったのさ』と、ほざいていた。
その言葉が照れ隠しだと思いたかった自分を、まっさかさまにドブ川に叩き落としてやりたい。
ヘンスは生きてる。
ウーシャンが嘘を言う理由はなく、ヘンスは大枚の紹介料とか何かを得ているはずだ。
あんにゃろう!
そんな彼のために泣いたのだ。少しだけど涙ぐんだのだ。
このまま贅沢に慣らされて屋敷に残れば、いずれ危険な場所に送り込まれ、何か命じられるのは間違いない。
わたしが奇跡の乙女だと? 地雷感、満載じゃないか。
なにが奇跡の乙女だ。
危険に飛び込んでわたし一人が痛い思いをして、周囲のみんなが助かるパターンって、泣けるほど先が見えている。
こんなのを信じて英雄気取りで死ぬやつは
これは、逃げの一手だ!
ヘンスは今ごろ、もうけた金を酒代にして、ボロ雑巾のように飲みまくっているにちがいない。
軟禁状態で自由に動けないと考えるのは甘い。
侍女たちは、それぞれ用があると出ていくが、必ず一人は残る。扱いやすいのは小柄なズースーのほうだ。スーリは年も上で体格も大きいし、有能だ。
「ズー」
スーリが食事当番で部屋から出てた時間を見計らい、ズースーに声をかけた。
「はい」
「ねぇ、わたしの手料理を食べたくない?」
「シャオロンさま、お料理ができるんですか?」
「美味しいわよ。スペシャル『シャオロン』甘味まんじゅう。きっと、ここには台所があるんでしょ? そこに行きたい」
「申し訳ございません。このお部屋から出ることは禁止されております」
そう、なら、いいわ。
しかたない。
わたしはズースーが腰に下げている鍵を見た。すぅーっと近寄ると、「ごめん」と謝った。彼女たちは善意が人の形をしているようで疑うことを知らない。
「シャオ……、うっ!」
「ごめんね。逃げなきゃならないの」
首にかけて用意しておいたタオルを、彼女の口に押し込み、助けを呼べないようにする。それからズースーの服を脱がせて着替えた。すべての行動に約一分。このなまくら生活でも、腕が鈍ってないようだ。
とりあえず、第一段階は順調にすすんだ。
準備万端、さ、逃げるぞ。
「う〜〜、う〜〜」と、ズースーが唸っている。
「許せ、逃げなきゃだめなんだ」
ズースーは大きく目を見開いて首を横に振っている。
鍵を盗み扉を開錠した。
扉の前には、見知らぬ侍女がふたり立っているが、扉が開いた瞬間、彼女たちは頭を下げて、こちらを見ない。
顔を伏せたまま、堂々としていればズースーだと思うだろう。
よし、楽勝!
数日前、この世界に来たとき到着した部屋は、廊下を歩いた突き当たりにあった。
長い廊下を歩く。
全力疾走したいが、目立ってしまう。ズースーたちと同じように、しずかなすり足だ。
突き当たりはかなり先だ。どのくらい広い屋敷、いや城なんだろうか。途中で窓があり、ちらっと外を眺めた。
眼下には樹木が並んだ広くまっすぐな道路が見え、道路にそって屋敷が建てられている。どこも美しく整然として、汚れがない。
砂にまみれ、一メートル先も見えない
ヘンス。ここで生きろって?
無理だろう。こんな綺麗で、こそばゆい世界にわたしの居場所なんてないから。
突き当たりにある扉の前で、わたしは息を整え、そっと開こうとした。
開かない!
え?
開かない。
背後に誰もいないことを確認して、押したり引いたりしたが、まったく動かない。音もしない。
扉なら、多少は隙間なんかがあるはずだ。
ガチャガチャとか音がしても不思議はないはずなのに、まったくの無音。
そういえば、ヘンスが『開かずの門』の扉を閉めたときもそうだった。
あの北門の扉も、これに似た奇妙なところがあり、まったく開けることができなかった。
どうしたらいい。
第二案に移行するしかない。そう思ったとき、軽く肩を叩かれた。
この匂い……。
まずい奴に見つかったようだ。蹴りを入れて戦うか、それとも。
わたしは特上の笑顔をつくって振り返った。
「ウーシャンさま。おひさしぶりで、お元気でしたか?」
「昨日も会ったばかりです。なぜ、ここにいるのですか」
「わああ、あの、ほら、その身体が
「そうですか。ちなみに、ズースーを縛ったのは、なんの運動でしょう」
「あははは、えっと、あの、その。ま、いろいろな事情の運動ってやつで」
そう言いながら、ウーシャンの腕を取り、引き倒そうとした。が、ビクとも動かない。
こいつ、見かけとは違い、強い。
逆に、あっという間に手を捻られて、後ろ手に捕まってしまう。
「来なさい!」
「嫌だ」
暴れようとしたが、簡単にねじ伏せられ、部屋に戻るしかなかった。
捕縛から解放されたズースーと、食事の盆を持ったスーリが立っていた。ウーシャンを前に叩頭するふたりに、とりあえず、「ごめん」と、謝ってみた。
ズースーの顔が歪んでいる。
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