第33話 そして朝陽兄妹は前に進む

「家に……居たくなかったんです」


 家に居たくない。


 シンプルだが……それ以上にない理由だった。

 

 俺は志乃ちゃんと話すために口を開く――。

 

 が、寸でのところで踏みとどまって大人しく閉じた。


 ここは多分……俺じゃダメだろう。


 俺の言葉じゃ志乃ちゃんには届かない。


「志乃……」


 だからここは頼んだぜ、お兄ちゃん。


 司は目を閉じて一度深く深呼吸をした。

 そしてゆっくりと……目を開ける。


「志乃」


 芯の通った声だった。


 思わず志乃ちゃんが顔を上げ、司と目が合う。

 その志乃ちゃんの表情は……見ているこっちが悲しくなるほど辛そうだった。


 きっと、さまざまな感情が志乃ちゃんの心の中で渦巻いているのだろう。


「どうして家に居たくなかったんだ?」 

「……」


 返事を待つ。


 すぐに返事が来ないことは分かっていた。

 だから俺たちは……司は、ただ大人しく返事を待つ。


「ゆっくりでいい。志乃の気持ちを聞かせてほしい」


 俺は立ち上がると二人から少し距離を空けて、そのまま背を向けた。


 俺に見られていると話しづらいこともあるだろう。

 兄妹の問題に……俺が変に踏み込むわけにはいかない。


 今の俺はそうだな……公園に佇むカカシとでも思ってもらおう。わし、カカシ。うわおもしろ。


「家にいると……あの人や……あなたがいるから」


 くだらないことを考えていたらようやく志乃ちゃんが口を開いた。

 一度話し始めたおかげか、そこからはスラスラと言葉が出てくる。


「俺と父さんのことだよな? 俺たちのこと……やっぱり嫌いか?」

「それは……。……分からないんです」


 好きとか嫌いとか……多分、そんな単純な話じゃないんだろう。

 

 もちろん司もそんなことは分かっているわけだが。


「私、あんな態度取ってるのに……酷いことばかり言ってるのに……っ……」


 志乃ちゃんの声が震える。

 グス……と鼻をすする音が混じる。


「うん」

「話しかけないでって……何回も言ってるのに……っ!」

「うん」

「なのになんで……! こんな私にずっと優しくしてくれるのか分からなくて……! 怖く、てっ…!!」


 志乃ちゃんは男性が大嫌いだ。


 父親がろくでもない男だったから。 

 いつも母親に酷いことばかりする男だったから。


 父親の愛情というものを知らずに生きてきた。


 次第にそれは男性という生き物に対する嫌悪感に変わっていって……。


 その気持ちは……俺なんかが否定していいものじゃない。

 間違ってるなんてことは絶対にない。


 それほどまでにツラい環境でこの子は……こんなに小さくて優しい子は生きてきたんだ。


「家にいると胸がぐちゃぐちゃってなって! どうすればいいか分からなくて……っ!」


 志乃ちゃんが初めて口にした苦悩。

 初めて見た志乃ちゃんの涙。


 ……実際俺は後ろを向いてるから見えないけど。


 それでも、こんなにも志乃ちゃんが自分の感情を表に出すことは初めてだった。


「うん」

「分からなくて……! 分からなくて!」

「うん」


 司はただ優しく志乃ちゃんの言葉を受け止めていた。


「私のせいでお母さんが大変な思いをしてるのかなって! せっかく再婚したのに、私がいるせいで、またその生活を壊しちゃう、かもって!」


 涙と共に流れるその叫びを。

 朝陽志乃の本心を。


 俺はただ黙って……聞いていることしかできなかった。


 志乃ちゃんはしっかりしているといっても、まだ小学生なのだ。

 年相応に泣きたいし、怒りたいし、笑いたいはずなのだ。


 でもそれを……この子は全部我慢していて。


「だからっ!」


 つもりに積もった感情が……溢れた。


「志乃」


 司の声が公園に響く。


 パシッ……と、小さな音が背中越しに聞こえてきた。

 恐らく志乃ちゃんが感情のままに振り上げた手を、司が掴んだのだろう。


「なにも分からなくないよ」

「え……?」

「いいか? 志乃」


 司の優しい声。

 

 あいつの声を聞いていると……安心する気持ちになる。

 心が穏やかになる。


 なんとなく俺は……アイツと出会ったときのことを思い出していた。

 アイツに救われたあの日を……思い出していた。


 ……まったく、ずいぶん懐かしい話だぜ。


「俺たちはさ、家族なんだよ」

「家族……」

「そう、家族だ。俺も志乃も、父さんも……母さんも、みんな家族だ。世界にたった一つの家族なんだよ」


 友人や恋人のような……目に見えない関係性なんかじゃない。


 他人では決してなれない確固たる関係。

 それが……家族。

 

「志乃からすれば俺と父さんは他人かもしれない。だけど、俺たちは志乃のことが大好きなんだ」

「好き……」

「そうだ。俺の妹で、父さんの娘で……俺たちの家族。そんな志乃のことが大好きなんだ」


 いやー……かっけぇこと言ってんなぁ。


 ああいうことを素直に言えるから、司は司なんだろうなぁ。


 すげぇヤツだよ。本当に。


「で、でも……」


 もちろん、それは司の主張であって志乃ちゃんからすれば簡単に受け入れられるものじゃない。


「分かってる。志乃の事情は……分かる。痛いほど分かるよ」


 ……。

 だよな。


 お前も……だったもんな。


 お前ほど志乃ちゃんの事情を理解できるヤツは周りにはいないよ。


「だからさ!」


 司はより一層明るい声で言う。


「俺たちなりの家族になっていこうよ。せっかく新しく家族になれたんだ。だったら俺たちは俺たちなりの家族の形になろう」

「私たちなり……?」

「そう。俺たちなり。それが具体的にはなんだよって聞かれたら……答えられないけど」


 あはは……と司は笑う。


「志乃、ゆっくりでいい。志乃のペースでいい。ゆっくり……俺と父さんのことを家族だって思っていってくれたら嬉しいな」

「司……さん……」

「それで……そうだな。いつか俺たちのことを家族って思える日が来たら――」


 そんな日が来たら。


「そのときは『兄さん』って呼んでくれよ。俺は君のお兄ちゃんだからな。なにがあっても妹の味方だし、いつも志乃のそばにいるよ」

「……っ! 司……さん……! 司さん……!」


 ガシャン、とブランコのチェーンが揺れる音が聞こえてくる。

 それと同時に、志乃ちゃんの泣く声も――。


「ごめんなさい……っ! ご、めんなさいっ……!」

「おおぅ……急に飛び込んできてビックリした……。大丈夫大丈夫、誰でもこういう日はあるって」


 あぁなるほど。

 ブランコから飛び出して司に抱き着いている状況なのか……。


 兄妹として、一歩先に進めたのではないだろうか。


 ペースなんて人それぞれで……。

 形になんて正解はない。

 

 だけど、たしかなことが一つだけある。

 

 二人は家族で。たった一人の兄妹なんだ。


 二人なりの兄妹の形を見つけてほしい。


 俺は心の底からそう思った。


「昴」


 お……っと。

 とりあえず話は終わったようだな。


 俺は改めて司たちの方へ身体を向けた。


 そこには――。 


「おおう……志乃ちゃん大号泣」

「だな。だけど嬉しいよ」


 司の胸で泣きじゃくる志乃ちゃんの姿があった。

 

 嬉しい気持ちは俺も同じだ。

 フッと微笑みを浮かべて、俺たちは志乃ちゃんが落ち着くのを待った。


 そして……数分後。


「志乃、落ち着いたか?」

「……はい」

「ははっ、そうかそうか」


 志乃ちゃんは恥ずかしそうに俺たちから顔を背けている。

 

 そりゃまぁ……恥ずかしいよな。

 俺だって同じ立場だったら恥ずかしいもん。


 けれど俺たちは嬉しい気持ちしかないんだぜ、志乃ちゃん。


 司は志乃ちゃんを支えながらゆっくりと立ち上がる。


「さて、そろそろ帰ろうか。俺たちの家に!」

「私たちの……家」

「うん。みんなが待ってる……俺と志乃の家だ。帰ろう?」


 あの家は、以前のように志乃ちゃんを苦しめる場所じゃない。

 

 大事な人たちが待つ、君の居場所なんだ。

 いずれきっと分かる日が来る。

 

 志乃ちゃんは司の言葉を受けて、顔を上げる。


 そして――


「……はい――!」


 それは、俺たちが見た初めての笑顔だった。

 彼女によく似合う……とても可愛らしい笑顔だった。


「さーてと! そうと決まれば早く帰るぞ朝陽兄妹! 今日は特別に俺も一緒に怒られてやるぜ。感謝しろよな!」

「げっ……たしかに母さんに怒られるなこれ……」


 「やべー」と笑い合い、俺たちは歩き出した。


 目指すは朝陽家!

 ミッションはこの兄妹と一緒に怒られること!


 うーんこれは大変そうだぜ……。


 俺が並んで歩く二人の先を歩いていると――。


「あ、あの……! 青葉さん!」


 初めて、その声は俺の名前を呼んだ。


 思わずビクッと肩を震わせて立ち止まる。

 まるで背後の幽霊を確認するかのように、恐る恐る振り向いた。


「ももも、もしかしてその青葉さんというのは……わっちのことでやんすか?」

「驚きのあまり昴がキャラ崩壊してる……!」


 志乃ちゃんはこくりと小さく頷く。


 おおう……てっきりもう一人青葉さんがいるのかと思ったら気のせいだった。


 いやだって、しょうがないでしょこれ。

 初めて呼ばれたんだぞ? 俺。


「あの……」


 志乃ちゃんはなにか言いたいようだが、なかなか言えずにいるようだ。


 ふむ、ここはさりげなく昴お兄さんがアシストしてあげよう。


「おっと、みなまで言うな。俺に惚れちゃったその気持ちは分かるが……ぜひとも二人きりのとき――」

「ち、違います! そういうのじゃないです!」

「……そんなキッパリ否定しなくても」


 顔を真っ赤にして志乃ちゃんはブンブン首を左右に振る。

 否定率百パーセントって感じ。


「昴、お前……俺の妹に変なことしたら……分かってるな?」

「ニッコニコで怖いこと言うのやめてくれませんかねお兄さん」


 こっちはこっちで怖いし。


 さっそくもうシスコン魂が芽生えてるじゃねぇか。


「それで? どうしたの志乃ちゃん」


 俺はその言葉を待つ。

 

 志乃ちゃんはゆっくりと息を整えると、俺の顔をしっかりと見た。


「……あ、ありがとうございました。青葉さんも一緒に私を探してくれてたんですよね?」

「あー……」

「なに照れてるんだよ昴。……志乃、そうだよ。コイツも一緒にそこらじゅうを走り回ってくれたんだ」

「やっぱり。だから……お礼を言いたくて。ありがとうございました」


 真っすぐ見つめられて、お礼を言われて……俺は思わず視線を逸らす。


 こういうのは……あまり慣れない。

 だけどまぁ……嬉しいもんだな。


 俺はわざとらしく咳払いをして、笑顔を作った。


「いいっていいって。気にすんなよ。ほら。司の妹ってことは俺の妹みたいなもんだしな!」

「いやだからそれ意味分からないって!」

「分かれよ! お前の妹なら俺の妹だろ! 古事記にもそう書いてある!」

「いや全然意味分からないぞ!?」

 

 ったく……頑固なお兄ちゃんがいたものだ。

 俺だって志乃ちゃんみたいな可愛い妹がいてもいいじゃない!


 志乃ちゃんが妹でもいいじゃない! あ、それはダメっすか?


 そんな俺たちのやり取りを見たからか。

 

 志乃ちゃんは――


「ふふ」


 小さく笑っていた。


 出会った頃は、あんなに冷たい目で俺と司のやり取りを見ていた志乃ちゃんが。


 優しい顔で……笑っていた。


 あぁ……この子はこんなにも。


 優しく笑うのか。


「てなわけで俺のことも昴お兄ちゃんって呼んでもいいぜ!」

「呼ばなくていいぞ、志乃。絶対呼ばなくていい」

「え、えぇっと……」

 

 この一件で、俺たちと志乃ちゃんの距離はグッと縮まったわけである。

 

 志乃ちゃんから話しかけてもらうことも増え、次第に俺に対しても遠慮することは無くなっていった。


 これが朝陽兄妹と俺たちの……本当の意味での始まりの日なのである。


 ――あ。


 もちろんそのあと、朝陽兄妹の母親にこっぴどく叱られましたとさ。

 

 めでたしめでたし。


 終わり。


 × × ×


 その翌年、四月。


 俺と司は、朝陽宅の前で一人の女の子を待っていた。


 ガチャ、と扉が開かれる。


「お、来た来た」

「おー……いいじゃん志乃ちゃん!」


 扉から出てきたのは……俺たちと同じ中学校の制服を身に纏った志乃ちゃんだった。

 

 おろしたての新しい制服姿の志乃ちゃんは、まさにフレッシュさ満点。


 どこからどう見ても、素晴らしい清楚系美少女だった。


「よっしゃ、ほんじゃ行こうぜ朝陽兄妹」

「ああ、そうだな。行くよ志乃」

「うん! ……あ、一つだけ――」


 ん? と俺と司は志乃ちゃんを見る。


 そして。


「改めて……今日からよろしくお願いします」


 志乃ちゃんは満面の笑みを浮かべて……最後に言ったのだ。


 


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