第26話 顔


 扉の向こうに、憔悴しきった女性が立っている。

 顔は深い皺に包まれ、その目は井戸の底から天をみあげるカエルのように暗くうるんでいた。


 大藪の母親には会ったことがあるが、こんな人だったっけ?と徹矢は記憶をたぐる。もしかしてこの人は、大藪の祖母だろうか? あるいは家政婦さんか。


 でも、いま「春輔から聞いている」と言っていたし。


 徹矢は「おじゃまします」と中に一歩すすむ。


 大藪の母親と思しき人は、悲しみと絶望に疲れ切った表情で、玄関に立つ徹矢を見下ろしている。

 その顔はそう、まるで、きのうの葬式で見た小栗の母親そのものだった。


「どうぞ、こちらへ」


 感情のない声で案内され、徹矢は靴を脱ぎ、二階へあがる。とんとん響く階段の音ばかりが軽快である。


「こちらです」

 と手で示されたドアには、「しゅんすけ」と平仮名で書かれたボードが紐で下がって揺れていた。


 徹矢がノックすると、内側から「入れよ」と大藪の声が聞こえる。その声に緊張は感じられない。

 どちらかというと、不遜な声に聞こえた。


 徹矢は、ふざけやがってとばかりに、乱暴にドアを開いた。

 室内は白色光の照明に照らされ、無機質に明るい。その明るさが、乱雑に散らかった室内とはちぐはぐだった。


 大藪は奥のベッドに腰かけ、がばっと脚を開いて偉そうにこちらを見上げている。

 手にはコントローラー。

 アクセル・ボードをモニターにつないでプレイしている。

 画面には死火山に立つスプリングの後ろ姿。


 大藪の得意げな笑顔も気になったが、それよりも目についたのは、大藪の向こうでベッドに横たわる女の白い尻だった。


 女が裸でベッドに横たわり、こちらに背を向けていた。

 赤みのかかった長い髪。白い背中。その両手はロープで後ろに縛られ、上半身にもぎりぎりと縄掛けされていた。


 大藪は得意げな顔で立ち上がると、ベッドに横たわる女の手首のロープを引いて、彼女を強引に立ち上がらせた。


 徹矢は声も出せずにそれを見守る。


 女は手首に食い込むロープに引かれ、苦痛に呻きながら、家畜のように立ち上がらせられる。


 つらそうにうつむき、長い髪が顔の前に垂れる。

 白い乳房が揺れ、股間はきれいに剃られていた。

 白い腹に黒マジックで「小栗様のセックス奴隷 小栗様のオナホ」と書かれている。


 徹矢はその女に見覚えがあった。


 大藪はとにかく男にも女にもモテた。稀にみるナイスガイだったし、しゅっとしたイケメンでもあった。


 中三のころは、学年一可愛いといわれた女子とつきあっていた。ただし、女をとっかえひっかえという事はなかった。そのあたりはきちんとした奴だった。


 目の前に全裸で縛られた女は、あのころつき合っていた鬼門みくるだ。


 長い髪の美しい女子。性格はまじめで、成績は良く、笑顔の魅力的な女子だった。


 その鬼門みくるが、いま徹矢の前で全裸で緊縛され、その裸体を晒されている。

 それを自慢げに見せびらかしているのが、彼氏である大藪だった。


 奴はまるで、猫がつかまえたヤモリの死体を人間にみせるように、鬼門みくるの裸を、取ってきた鬼の首のように徹矢に見せつけていた。


「なにやってんだ、おまえ」


 徹矢はいっしゅん、全身の血を沸騰させて大藪に殴りかかりそうになり、かろうじて抑える。

 彼は思わず、自分の女神さまたちが他の男にこういう扱いを受けたらと想像してしまったのだ。


 撃発しそうになる自分を、ぎりぎりのところで抑えつけ、大藪に問いかける。


「その子は、おまえの彼女じゃないのか?」


 徹矢がするどく指摘した瞬間、大藪の顔が激しく歪んだ。

 まるで、透明人間の手によってその顔をくちゃくちゃに揉みしだかれたかのように、大藪の顔が不自然に表情筋を収縮させる。


「徹矢ぁ……」

 顔半分を泣き顔にしながら、大藪がもつれる舌で声を漏らす。

「助けてくれぇ」


 え?と思った。

 だが、徹矢の理解が追いつく前に、大藪は高らかに笑い出す。


 身をのけぞらせ、ぎゃははははと下劣な哄笑を放つ。奴のポロシャツに包まれた、腹がもぞもぞとおかしな動きを始めた。


 なんだろう? こいつ、腹に何かいれているのか?


 徹矢の視線を受けて、大藪は手にした鬼門みくるの身体をベッドの上に突き飛ばすと、両手でシャツの裾を摑み、いきおいよく胸までまくりあげた。


 徹矢は、大藪の腹を見て、卒倒しそうなほどの驚愕を受け、思わずあとずさった。


 かっと目を見開き、自分が見ているものを理解しようとする。


 だが、無理だった。それは徹矢の想像を超えた世界の、さらにその上、理解を絶した恐怖の具現化であった。


 徹矢は、カクカクと震えだす自分の身体を止めることが出来なかった。



 そこには小栗がいた。

 死んだはずの小栗。きのう葬儀で遺体を見た小栗。あいつは絶対に死んでいた。


 だが、あのとき棺桶の中で見せていた満面の笑みを浮かべて、小栗はいまここに生きていた。

 こんなことがあるのか。こんな怪奇なことが。


 大藪の腹は皺だらけ。

 ただれてれたように皮膚と肉が盛り上がっていた。


 より合わさった皺が中央で高くなり、その先がとがって、まるで人の鼻のようだ。

 その左右には短い裂傷が走り、傷口がぱっくりと割れている。


 中の組織が見えていて、きらきらと濡れて、水晶のように光っている。その濡れ光る中央部だけが黒く変色していて、まるで人の目のようだった。


 さらに下半分には、ばくりと割れた大きな裂け目が横に走っている。


 その縁がめくり上がり、唇のように赤く染まっている。

 裂けめの中からは白く堅そうな組織がひび割れてならび、どう見ても人の歯列にしか見えない。


 その裂け目ががばっと開き、中からもぞもぞと蠢く舌をのばした。

 そして、けたたましい笑い声をあげた。


「徹矢ぁ、俺だよぉ。小栗さ!」


 嘘だろ。


 それはまさしく小栗の声だった。あの耳障りな土間声。口から吐く息は、詰まった排水管みたいな異臭を放っている。


 大藪の腹にあるその巨大な出来物は、小栗の顔に酷似していた。


 いやそればかりではない。裂けた口はぎゃはははと笑い声を立て、開いた目はぐりぐりと動いて徹矢のことを睨みつけている。

 額の上からはふさふさと毛が生えて、それが前髪となって顔に掛かっていた。


「……大藪、これは、……なんだ?」


 徹矢は不気味に変形した大藪の腹を指さして問う。


 大藪はいまにも泣き出しそうな顔で、涙をぽろぽろ流しながら、切実に訴えた。


「わからねえよ、全然わからねえ。いきなり腹に出来物ができて、それがどんどん大きくなっていったんだ。そして、目や口が生えてきて、喋り出した。そして、いま俺は、こいつに身体を乗っ取られている。こいつの意志に逆らって動くことができない。この身体はすでに俺の物ではなく、この出来物の物だ」


 大藪はしゃくりあげるように声を絞り出して、つけ加えた。


「俺の身体はすでに、この出来物のものだ。いやちがう。俺こそがいまや、出来物だ。俺は、この身体の頭に生えた出来ものとなってしまっているんだ」


 大藪の目から、大粒の涙がぽろぽろと零れた。



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