流水
増田朋美
流水
その日は朝から寒い日で、昼になってやっと暖かくなれたかなと言う感じの日であった。なんだか、季節はもう春だというのに、毎日寒い日が続いて嫌だねえという声があちらこちらから聞こえてきそうな日であった。
その日、蘭の家では、寒い日でありながら、藤井恵理という一人の女性が来訪していた。蘭の元へやってくる女性というのはだいたい刺青をお願いしに来るのだろうが、それだけではなくて、もっと別のものを求めてくることもある。この女性もそうだった。彼女は、蘭が針を刺している間、何回も家の事を喋っていた。蘭は、それもちゃんと聞くようにしている。刺青というのは激痛を伴うのはよく知られていて、それをお客さんは喋ることで紛らわそうとする。そういう状況でしゃべるわけだから、とても嘘をつこうと催促している余裕は無いはずである。だから、彼女たちの発言は、皆真実であると蘭は思っている。そのような姿勢を貫く蘭に、お客さんたちは、話を聞いてもらいたくて来訪するのだった。
蘭は、砂時計を見て、時間が経ったことを確認し、最後の針を抜いた。
「はい、今日は二時間で終了です。二時間突きましたので、2万円で大丈夫です。」
蘭がそう言うと、恵理さんは、ありがとうございますと言って、仕事台から降りて、上着を着た。そして、お財布から二万円を出して蘭に渡した。
「ありがとうございます先生。次回はいつになりますか?」
にこやかに笑う恵理さんに、蘭はカレンダーを見て、
「来月の上旬か中旬くらいが、比較的空いています。」
と言った。彼女は手帳を開いて、
「ありがとうございます。じゃあ来月ですと、17日はどうでしょうか?」
と言った。ちょうどその日は特に用事も無いため、
「いいですよ。時間は、今日と同じで、13時位でどうでしょう?」
蘭がそうきくと、
「大丈夫ですよ。良かった。また先生と会えてお話ができるんですね。こうやって、色々話を聞いてくれるのが嬉しいです。先生といるとね、なんだか安心できるんですよ。先生は、すごく優しくて、いつも話を聞いてくれるでしょ。だからそれが嬉しいんです。」
彼女はとてもうれしそうに言った。
「そうですか。そういう話を聞いてくれるとか、そういう役割は、本来ならご主人とか、ご家族にしてもらいたいんですが。」
思わず蘭が言うと、
「いえいえあたしは、そういう事はできません。あたしは先生がいてくれるだけで十分です。あたしの話を聞いてくれるなんてそんな贅沢は許されませんよ。先生が聞いてくれるから、あたしはそれで十分です。」
恵理さんはそういうのである。
「はあ、えーと、そうですか。」
蘭は恵理さんに言った。
「だから先生、これからもあたしの事ちゃんと見てくださいね。あたしは、先生のおかげで行きていけるようなものなので。あたしは、さっきも行ったけど家にもどこにも居場所が無いので、先生のところに来るのが生きがいなんですよ。」
「はあ、そうですか。わかりましたよ。居場所が無いのもお辛いですからね。またなにかあったら来てください。」
蘭が、恵理さんにそう言われて、とりあえず形式的な発言をすると、
「ええ、ありがとうございます。先生がいるから、あたしは生きていられます。うちの家族は皆普通のひととは違うから。お父さんは仕事してるけど、お母さんはいつも寝てるし。普通の幸せなんてあたしには皆無です。それだったら、こういうふうに刺青でもして、違う人間になったほうがよほどいいです。」
恵理さんはにこやかに行った。
「そうですか。お父様は働いていらっしゃるんですか?」
蘭が聞くと、
「はい。すごい昔の人で、母のことは絶対に口に出して言うなと言います。誰かに頼ろうとはしないんです。そういうところがとても息の詰まる家庭なんです。」
と、恵理さんは答えた。
「そうですか。それは大変ですね。まあ確かにお母様の世話は大変だと思いますが、本当に無理はしないでくださいね。お体でも壊されたら大変ですから。もしなにか大変なことがありましたら、なにかを頼っても、もちろん、僕も良いアドバイスはできないかもしれないけど、なにかありましたら、相談に乗ります。」
蘭はにこやかに彼女に言った。多分、彼女の味方になってくれる人は、誰もいないのだろう。そういうことなら、刺青師に相談してくれても良いと蘭は思っている。刺青を入れるということは自分の一番したくてもできないことを図案化して体に入れることでもあるからだ。特に若い人は、これから先も生きていかなければならないのだし、そういうことなら、積極的に相談してもいいと思う。
「ありがとうございます先生。先生が、そうやってくれるから嬉しいです。本当は、母や父がもう少し、昔の人ではなくて、他人を頼ってもらいたいんですけど、まあ身内を変えることはできませんからね。それはやっぱりできないですよね。だからこのまま生活していくしか無いでしょう。あたしも、がんばりますよ。」
恵理さんは、そう言ってコートを羽織った。蘭は彼女に領収書を渡して、彼女が玄関から帰っていくのを見送った。
「ありがとうございました先生。来月、17日にまた来ます。もし、急な用事でも入ったらまた連絡します。」
蘭は、そういう彼女の姿を見送った。その時は彼女のことを、普通のお客さんだと思っていた。まさか彼女が大事件のキーパーソンになってしまうとは思ってもいなかった。
その翌日。蘭は、妻のアリスが、いつものように片付けるのを忘れて行ったと思われる、朝刊を何気なく取ってみると、新聞の片隅に、こんな記事が掲載されていた。
「富士川で心中か。高齢の男女の遺体見つかる。長女を殺人の疑いで逮捕。」
記事によると、その女性の名は藤井恵理であるという。あれ、それは昨日、自分のところに刺青を依頼したお客さんでは?まさか同姓同名だろうか?その記事によると、高齢の男女は富士川にプカプカ浮いた状態で見つかり、発見されたときにはすでに死亡していたという。そして、その近くの中洲で、若い女性が座り込んで泣いていた。彼女に話を聞いたところ、高齢の男女は、彼女の父母であり、彼女が昨日の深夜、車に乗って富士川に飛び込んだという。事実、ずぶ濡れになった車も近くで見つかった。詳しいところはまだ判明していないようであるが、女性が、川に飛び込んだとき、母と父が確実に死ぬように川へ沈めたということも供述したので、彼女を殺人容疑で逮捕した、というのが記事の内容であった。なんだか、信じられないような事件だけど、蘭は、本当に自分が施術した藤井恵理という女性なのかどうかも気になった。幸いその日は特に予定もなかったので、蘭は、富士警察署に行ってみることにした。蘭自身は運転免許を持っていなかったので、いわゆる福祉タクシーとか、ケアタクシーと呼ばれているタクシーを呼び出した。警察署へ行きたいという蘭を、タクシーの運転手は、変な顔をしていたが、蘭はとにかく行ってくれと頼み、とりあえずタクシーは富士警察署に到着した。
とりあえず、蘭はタクシーにお金を払うと、運転手に手伝ってもらって車を降りた。そして警察署の受け付けに行き、藤井恵理という女性に会いたいというと、報道関係でもあわせられないと断られてしまった。蘭はそれでも、逮捕された女性が、本当に藤井恵理かどうか確かめたかったので、
「あの、すみません。もし、違っていたらこの時点で帰りますが、その藤井恵理という女性ですけど、背中に流水と、躑躅の花を入れていませんでしたでしょうか?」
と聞いてみた。
「ええ、そのとおりですが、どうしてそれを前もって知っているんです?」
ちょっと驚いた受付に蘭は、
「それは僕が入れたもので、彼女は僕の前で話しているときもとてもご両親を殺害しようとしているようには見えませんでした。彼女が、本当に、ご両親を殺害したりするでしょうか?お願いです。彼女と会って話をさせてください。」
と、蘭は受付に頭を下げる。
「残念ながら、今日は、彼女の精神鑑定を行うことになっています。なので、まだ面会は無理かと。」
受付は申し訳無さそうに言った。
「精神鑑定?彼女はなにか精神に異常があったのでしょうか?」
蘭が更に驚いてそう言うと、
「はい。今日、精神科の先生が見えることになっています。なんでも取り調べを行っても彼女は辻褄の合わない供述をするので、精神科の先生に見てもらうほうが良いということになったのだそうです。」
と受付は言った。
「そんな、そういうことが必要になっていたなんて、僕の前では何もいいませんでしたよ、彼女。そんな彼女が、精神鑑定を受けるなんてなにかの間違いしか思えません。どういうことなんですか。ちゃんと事件のことを説明してください。」
蘭が急いでそう言うと、そこへ精神科医の影浦千代吉がやってきて、
「蘭さんではありませんか。一体どうしたんです?」
と、蘭に声をかけた。
「ええ、今日の新聞で、藤井恵理さんが逮捕されたと聞きました。実は彼女に、流水と躑躅の花を入れたこともありまして、本当に彼女かどうかを確かめに来たんです。」
蘭が正直に答えると、
「そうですか。実は僕も、藤井恵理さんの精神鑑定でこさせて頂いたんです。蘭さんが、藤井恵理さんと関わりがあるんでしたら、一緒に来てもらえませんか。彼女の話をうまく処理してくれるかもしれません。」
と影浦が言うので、蘭は、影浦と一緒に、藤井恵理さんのいる取調室に入らせてもらうことができた。二人が部屋に入ると、正しくいたのは藤井恵理さんその人であり、本当に彼女がやってしまったのか、疑問に思ってしまうほど、彼女の姿があった。
「こんにちは。本日あなたの精神状態を把握するために参りました、精神科医の影浦千代吉です。こちらにいる車椅子の方は、あなたの背中を預かったそうなので、もうおわかりですね。藤井恵理さん。」
影浦がそう言うと、恵理さんは小さい声ではいといった。
「すみません。彫たつ先生まで来ていただくなんて。私、そんなに重大なことをしてしまったんですね。」
恵理さんは、そういうのである。
「重大なことでなかったら、何をしたと言うのですか?」
影浦がそう言うと、恵理さんは、頭を前にたれてシクシク泣き始めるのだった。
「まず、あなたの精神状態を把握したいので、感じたことを正直に話してもらいましょうか。まずはじめに、あなたは、本当にご両親を、故意に殺害しようと思ったのですか?」
影浦がそうきくと、恵理さんは、涙をこぼしながら言った。
「本当は、私も一緒に死ぬつもりでした。そうすれば、父のことも母のことも、解決すると思っていました。私はただ、今の辛い気持ちから楽になりたかったのです。そうして私も一緒に死ねば、皆解決すると思いました。結局私のしたことは間違っているのかもしれませんが、でも今の辛い現状を抜けることはできたので、成功したと思います。」
「それは恵理さんの本心でしょうか?」
彼女の言うことを聞いて蘭は思わず言った。
「あなたは、僕が彫っている間、お父さんやお母さんのことを殺してしまいたいとは一言もいいませんでした。それは、あなたが、脚色して言ったのでしょうか?」
「自分の気持ちなのか、世間的なことなのかよくわかりません。ただ私は、あまりにも苦しくて、そこから逃げたかった、それだけなんです。」
と、恵理さんは答えた。その後も影浦が、恵理さんに、故意に殺意があって、両親を殺害したのかを聞いたのであるが、彼女は、ただ不安を解決したかったとしか発言せず、彼女に殺意があったかは聞き出せなかった。彼女は、ただ、わからないとだけ言うのみであった。ただ、彼女の話を聞いていると、彼女の母はうつ病のため死にたいと漏らしていた事はよくあったらしいが、それを夫である彼女の父が止めていたことはよくあったという。
「それでは、少しだけでいいですから、事件の日のことを思い出してください。事件が起きる前、あなたは何をしていましたか?」
影浦がそうきくと、
「はい、家で食事の支度をしておりました。母に代わって、私が食事を作ることになっていたものですから。」
と恵理さんは答える。
「わかりました。食事は普通に食べたのでしょうか?」
影浦は続けて聞いた。
「ええ。でも母はうつ病のために食べなくなっていて、もう食べたくないと言っていました。それを父が、食べなきゃだめだと一生懸命注意していました。だけど、母は食べなかったんです。しまいには、もうこんなまずいものを食べさせられるなら死んでしまいたいと言い出しました。それで私は、じゃあそうしようと言いました。」
そう答える恵理さんに、蘭は、こう聞いてみた。
「それでは、お父様が、じゃあそうしよう、つまり自殺しようと言ったときに、それでは行けないとか、そういう事は言わなかったのでしょうか?」
「ええ、、、それが、覚えてません。」
恵理さんは、そういった。影浦が覚えてないのですかと聞くと、
「わからないんです。いくら思い出そうとしても、その時どんなことをしたとかいくら考えても思い出せないんです。ただ、私は、死にたいという気持ちしかありませんでした。気がついたときは、母と父は、川の中で死んでいて、私は、中洲に打ち上げられていました。」
と答えた。
「つまり、そのときは、意識がなかったと言いますか、自分であるという感覚がなかったというわけですね。」
影浦は再度、そこを強調していった。
「わかりました。そこは、ちゃんと弁護士さんなどにも伝えておきましょう。そうなると、あなたは心神耗弱状態であったと解釈できますから。そこでまた、あなたに課される刑も変わってくると思いますよ。」
「本当に私、とんでもないことをしてしまったんですね。なんでこんなことをしてしまったのか、自分でもわかりません。父と母をああして死なせるより、もっと別の方法があったらそっちをすればよかったんです。なんであんなことをしたのか、、、。私はどうして、こんなにだめな娘なんだろう。」
恵理さんは、泣くばかりであった。
「本当にあの女性が犯人だったんでしょうかね。」
蘭は、影浦と一緒に乗り合わせたタクシーの中で、彼に言った。
「確かに、蘭さんの気持ちもわかりますが、車を運転していたのは間違いなく彼女だったのでしょう。それが立証されているのですから、彼女以外の人間が殺ったとは思えませんよ。」
影浦がいかにも専門家らしく言った。
「そうですか。でも、流水という柄は、正義を表す吉祥文様です。それを彼女は背中に彫ってと自ら頼んだんです。そんな女性が、親を殺害しようと思うでしょうか、、、?」
「まあ、蘭さんのような優しい方はそう思うのでしょうけど、この事件はすでに犯人もわかっていると思いますよ。これからは、彼女に課せられる刑を軽くしてもらうために、僕達が奔走するべきなのでしょう。これから先、彼女の味方になってくれる人間は少ないでしょうからね。僕も、彼女は、もしかしたら解離などの障害があるとは思いますので、これからは彼女の障害とか症状を明確にして行くことが大事なんでしょうね。あの、運転手さん、悪いんですが、駅ではなくて、宮下に行っていただけないでしょうか?」
と、影浦は運転手に行った。なぜ宮下にと蘭は言いながら気がついた。そういえば、彼女は宮下に住んでいたんだっけ。そうなると、日本でも有数の暴れ川になる富士川に簡単に行けてしまう地域に住んでいることになる。それは、幸福なのか、不運なのか、よくわからないところだが、簡単に自殺が完遂できてしまう環境は問題だと蘭は思った。
影浦は、宮下の小さなマンションの前でタクシーを止めさせて、帰りも乗せていただけますかと運転手に言った。運転手から領収書をもらって、二人は、そこでおろしてもらった。
「ほら、ここですよ。彼女が暮らしていたアパートです。」
影浦は、今は黄色いテープが貼られている部屋を指さした。蘭は、たしかに高級マンションでは無いけれど、それでもしっかり生活はしているんだなと思った。
「ちょっと隣の部屋の住人に、彼女の生活態度を聞いてみましょう。そうすれば、彼女が心神耗弱であったか証明ができますよ。」
影浦は、そう言って、マンションの隣の部屋のインターフォンを押した。隣の部屋の住人は、まだ寒いのに半袖のシャツを着たおじいさんだったが、影浦が、隣の部屋の藤井恵理さんのことに着いて調べているというと、すぐに納得してくれたようだ。
「ああ、恵理ちゃんのことね。よく覚えているよ。確かお母さんがうつ病になったんだったね。時々、死にたいと叫んでいた声が聞こえてきたことがあったから、ああまたかとは思っていたんだけど、お父さんと恵理ちゃんが、一生懸命止めていたね。俺等は、入院させたほうがいいのではないかと思ったけど、お父さんが、癌でも無いんだから、他人の世話になっていてはだめだと言っていて。あの人も、ホント、昔気質でね。誰かの世話になることが、そんなに恥ずかしいかな。」
おじいさんは、そういうことを蘭と影浦に語った。
確かに、蘭のもとへ刺青を入れに来る人は、どうしても変えられない事情があり、それを受け入れなければならないので、せめて神様が守ってくれるという意味で刺青を入れるという人が非常に多かった。そのことを蘭に話す人も非常に多いので、蘭はそれに応えるために、一生懸命彫っていたのであるが、今度の事は、自分は何もできなかったと思った。
「わかりました。それでは、あなたから見ても、誰かに頼ってほしいと思われたのですね。それでは、近所の方として、お母さんを入院させたらとか、アドバイスはしなかったのでしょうか?」
影浦が聞くと、おじいさんは、大きなため息を着いて、
「そうだねえ。それをしてくれれば、苦労しないだろうね。お父さんは、人の言うことなんて聞くような人ではありませんでした。ここの区長をやったりしていたから、簡単に他人が文句を言えるような立場でもなかったんですよね。」
と言った。蘭は、以前、本の中で心の病気の原因は、本人が三分の一、親が三分の一、社会が三分の一であるとかいてあったのを思い出した。きっと、藤井恵理さんも、そうなってしまったのだろう。それは、どうしようもないことであった。影浦はおじいさんとまだ話をしていたが、蘭は自分がここにいるとは思いたくない気がした。それを積み重ねて、恵理さんは自分を失ったのだと思った。
流水 増田朋美 @masubuchi4996
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