第5話

 世界が揺らぐ。身体は、舞い上がる。真っ青な空には、入道雲が浮かぶ。鮮やか。そうか、やはり、今は夏だった。足腰が立たなくなり、地面に手をつき身体を支える。ナツも地面に手をつき、僕と対峙する。

「あなたも、随分、具合が悪そうね。一緒に病院へ連れて行ってあげましょうか」

 すぐ近くにいるのに、どこか遠い印象がする。ナツは、音もなく立ち上がると、タクシーを呼んだ。

「もともとタクシーを使いなさいと言われていたの。電車やバスに乗って、迷子になっては大変だものね」

 タクシーの中、隣に座る女の子。まっすぐ前を向いている。遠い。存在が、遠い。

紙織しおり

 ふっとこちらに顔を向ける。明らかに表情が変わっている。

「紙織のこと、知ってはるん?」

 ナツの両目から、涙が溢れる。清らかな涙。

「ありがとう。紙織のこと、好いてくれはって」

「本当に居たのね」

 僕は、首を傾げる。

「双子のお兄さん。あの子には失礼だけれど、半分、妄言かもしれないと思っていた」

「それは」言葉に詰まる。「僕には、よう責められへん。僕かて、ずっと、紙織のことを忘れていたから」

 窓外の景色は、流れる。そんな風に、長く大切な妹のことを忘れていた。

「いいのよ」

 ナツが、僕の手を握る。痩せて骨ばった手に、精一杯の力を込める。

「だって、あの子は、自分の意志で、あなたから離れたのだから。それで、あなたがあの子を忘れたからといって、それこそ、本望でしかないのだから」

 強い瞳。どこか紙織に似ている。それは、覚悟か。

「君は、何をしにここへ来たの」

 タクシーが止まる。目的地の病院だ。空を仰ぎ、こちらを向く。

「私は、死にに来た。あの子が死んだ、同じベッドの上で」

 得心がいった。小学生にもならないのに、ひとり、家族から離れなければならなかった妹。果ては、死期が近いのに、故郷に肉親を置いてくる破天荒な娘。首元に、手をやる。それは、紙織につけられた傷跡。

「ほんまに、ほんまやった。あのひとりぼっちの頑固者に親友が居った。夢かと、思ったのに」

「ふふ、お互いさまね。さあ、着いたわ」

 苦しそうな様子を見かねて、代わりに運賃を支払う。ありがとう。確かに、そう囁いたようだった。どうにか息を整えて、外に出ようとする。

「待って、今、手を」

 言い切る前に、ナツはアスファルトへと倒れた。言わんこっちゃない。その様子を見ていたのだろう。病院の中から、白衣を着た人が出てくる。二人がかりで、どうにか車椅子に乗せる。

小石川菜摘こいしかわなつみさんですか」

「ええ」

 背もたれに身体を預けて、ぐったりしている。気だるそうに、顔を上げる。なんとも表現しきれない声が、唇からこぼれ落ちる。感嘆の声。

「あの子に似ている」

「初めまして。紙織の母です」

 応対したのは、母だった。

綾綺あやき、ありがとう。彼女を介抱してくれたのね」

 しばし、押し黙る。母はいつものことと、気にしない。

「お互いさまです」

 いたずらっぽく口を挟む。母は唖然とする。無理もない。

「綾綺ったら」

 口元に手をやり、戸惑っている。

「とっとと病室へ行こう。ここは、暑い」

「そうね」

 押した車椅子は、やはり、手ごたえが軽すぎる。

 入院手続きが済み、病室にて再会する。

「私の両親ったらね、酷いのよ」

 結局、「一番、酷いのは、お前やろ」という話の内容であった。思わず、声に出していた。ナツは、心外だったようだ。

「だって、信じられる。たった一人の親友が亡くなったのに、そのこと隠していたのよ。そのせいで、私、お葬式に行かれなかったのだから。あの時は、久々に暴れたわね。過呼吸起こしちゃった。ああ、苦しかった」

 今もまた苦しそうだ。胸に手を置き、身体全体で息をする。

「それで、京都まで来たの」

「そう、わざわざね」

 ナツは、一度、天井に目を遣る。布団の上で手を組み、何やらそわそわしている。

「あのね、九州でのあの子、どんなだったか知りたくない」

「それは…」

 知りたくないと言えば、嘘になる。かと言って、末期がんの少女に延々と語らせるなんてことは出来ない。母親から非難される。

「大丈夫。ノートがあるから」

 ほっとする。それに対する、勝ち誇ったような表情。嫌な予感しかしない。思わず、後退る。

「ねえ、あの子、火葬のとき、何を着ていたの。まさか、うちの制服じゃないよね? さっきまで私が着ていた…」

「ああ、大丈夫。九州のどこかの制服らしいけど、白いセーラーカラーのワンピースで」

「写真ないの?」

 凄まれる。

「うん、それもあるから…」

「ちょうだい!」

 すっかり、たじたじである。

「ああ、そうだ。ちょっと、私の荷物取って下さる?」

 言われて、旅行かばんを開く。ぎょっとする。洗濯ネットに入っていたのは…。

「ああ、やはり、かつらは人毛に限るわね。ほら見て、素敵でしょう。まるで、あの子みたい」

 うっとりした表情で、黒髪をなでつける。

「で、もちろん、うちの制服はあるのよね」

「おそらく…」

 そして、きょろきょろと全身を眺められる。

 ナツは、お願いをした。出来る限りで、構わない。実の妹の扮装をして、病室を訪れろと。そうしたら、永久にノートはあなたの物だと。結局、僕は従うしかなかったのだった。

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