今のひと時を桜とともに

千羽稲穂

グローブに桜を受け止めて。

 こんばんは。桜の季節になりました。

 何度目か分からない桜エッセイを書き綴ろうと思います。このエッセイを読まれる方はもしかしたら昼かもしれません。あるいは、朝かも。それでも、私は「こんばんは」と挨拶をすることに、『今』決めました。


 と、言うのも気づいたことがあったのです。


 昨年、この毎年四月に書くエッセイをまとめたのですが、昨年から『今』のことを書くことが多くなっているのに気づいたのです。つい最近、つい先日、と日数が短めに。そうした題材を最近は物語に記していました。


 思えば、私は『今』をどこか放棄していました。いつまでも過去に囚われていた気がします。過去の暗い家、過去の友達関係、そして艶やかな桜の白色。


 そこから『今』隣に居る人を意識して、今の自分の周辺における事象を見つめ始めました。そして昨年はちょっと大胆に動きました。簡単に言ってしまえば『荒れていた』。厭世的で動きはしない、私の思考を置き去りに、とにかく何かしたかったんです。


 そうして周りの支えもあり、今の土地に少しだけなじむことが出来た気がします。


 とはいえ、相も変わらず、私が何かできるなんて大それたことなどできやしないとは思っています。思い上がりはなはだしい。そしていつまでたっっても、悲観的です。厭世的です。自己嫌悪にどっぷりと浸かっています。


 それでも、ほんの、桜のひとひらだけ、いていいのかもしれない、と思ったことがあります。


 これも『今』のこと。


 半年ほど前、私は遠い縁で草野球に参加しました。どんな格好で行けばいいのだろうか、と散々考えたあげく、少し分厚めのアイボリーのセーターにサスペンダーといった格好で出かけました。その日の前日にBARで機会がめぐり誘われたのです。


「どんな格好で行けば……」

「なんでもいいよ」


 と、気楽に言われて。


 草野球という場は初めてでした。年上の男性がたくさん寄り集まって野球するのです。しかもプロではない。単なる趣味で。こち亀でしか見たことがない風景。


 ちょっと気になるかも。


 その上「お酒も、食べ物もたくさんあるよ。それだけでも食べに来ていいよ」と言われたもんだから、行くしかないと重い腰を上げて行くことにしました。


 私は、まあ、朝が弱い。とても弱い。から、たどり着いたのは昼すぎでした。野球は一試合終わって休みに入っているところ。


 あそこでいいのか、もしや場違いではないか、とおそるおそる歩み寄りました。ついてそうそう嫌な顔されたらどうしよう。動くつもりなかったから普通の服できちゃったけど裏で何か言われたら。そもそも場所が違っていたら。なんとなく気恥ずかしい。来ない方が良かったかも。なんて重い腰は上がったのに近づくにつれて頭はもたげていきます。


 そこへBARでよくみる人がとことこ歩いてきて。

「あ、」と私を見つけられました。「いつも夜に会ってるからか日の光が似合わねぇ」


 失礼な。私は日の本の国に生まれた身ですよ。ほら、日の下でもきっちり存在してますから。


「あっちでやってるよ」

 ほっと一安心。


 たどり着くと、いつもの人たちでわいわいやっていて。球場ではキャッチボールをする男二名、テントでご飯をつくったり、お酒を飲んだりと、いつも見ない姿で会話を交わす人たち。ふわっと香る和やかな空気に、いつもと同じテンポ。


 グローブにボールがたたきつけられる音がする。青い空にアルコールの酔いが男達の波をつくっている。


「ふぐ焼いてるんだけど」

「あっちでちゃんぽん作ってるって」

「さっきの試合、良かったねぇ」

「珍しく勝ったじゃん」

「今回は勝とうって気合いが入ってるしなあ」

「酒を飲まなきゃやってらんないよ」


 いつものお酒を飲み交わす場所に加えて野球というスポーツがないまぜになっている感覚。

 ゆるっとした、スポーツの、あの感覚。

 その感覚が昔やっていたスポーツの好きだった感覚に似ていました。


 久しく私はスポーツが好きになれなかった。本気のスポーツを知っていたから。試合に負けて、負けて、それでも負けて。本気でやるのも、なんだか気恥ずかしかった。他の人たちは簡単に休むのに、私だけ出席していたり。そこまで本気でやるの? 疑問に思ったり。私には才能がなかったから。背も低かったし。むしろ、チームないのギスギスに巻き込まれていた。

 それでも、そんなチームでも、昼休みのお遊びでやるスポーツの時間は楽しかった。ゆるゆるり、と。あのときだけは、何も気にせずただただ遊んでいた。


 そんな、感覚。


 ほんの少しだけ本気で、残りはラフに。私にとっての創作もいつまでも、ラフなものだった。いつまでも遊びで、どこまでも本気だった。


 楽な、時間。


 橙色の日差しに瞼を落として、かけ声を聞き受ける。バッドがボールにあたり、鼓膜に音が打ち付けられる。手元にはチューハイの缶があって、熱い日の視線が指先をじんじんと温める。かつーん、と爪先がぶつかる。小さな音すらも存在していいよ、というほどの空間の広さ。野球場の人の小ささ。動きの拙さ。バッターボックスに立った人へかける下世話な言葉。


 ここには、いてもいなくても変わらない。

 それなら、いていいってことと変わらない。


「楽しんでる?」


 声をかけられたけど、上手く言葉が紡げなかった。


 多分。


 居心地がいい。秋晴れの健やかな空気を吸って、アルコールをついで、穏やかな空気を享受する。


「なら、次、バッターボックスに立ってね」


 ええ、どういうこと?


 なんと成り行きで、バッターボックスに立ったんですが、こう、私は久々すぎてボールに目が追いつかない。当たるまでいていいよ、とは言ってくれたはいいんですが、ぶんっと一回、振っても当たらず。えいっと回しても当たらない。どうみても球速が遅いのに。ああ、申し訳ない。最後にはバントの構えをして、当てに行きました。


 ようやく当たって塁に出て、次のバッターが来て、次々回る。白いボールは、相手へと落ちていくし伝わっていく。穏やかな空気がより場を温める。


 いていいってこと。

 いなくてもいいってこと。

 やってもいいってこと。

 やらなくてもいいってこと。

 ふんわりと、そうした予感を感じ取れること。

 こんな、感覚。

 空間がおっきいから、何でも許容してくれる。

 そんな、穏やかさ、寛容さ。


「君、運動神経ないでしょ」

 と、後日そう言われたのもセットで笑い話として記憶の棚にしまわれています。


 むっとなった私は、ちょっと意地悪で黙ってたんですが、運動は少しだけできる方だったりして。またの機会に行動で示そうとそっと感情をしまいこみました。


 先日、またもやそんな野球に誘われました。その日は、野球の試合前の練習日。桜の木々の前でキャッチボールをしました。相手のミット目がけて投げます。あの日、できなかった仕返しをします。キャッチボールは、結構やってた口なんです。


「やるねぇ」


 そう、私はやるんですよ。

 口下手で、上手く言えないけれど、キャッチボールが好きでした。相手は絶対返してくれるから。白いボールがこっち目がけて返ってくるから。私も投げていられる。受け取ってくれる。その往復が、今は穏やかで、和やかで。一対一で、ここにいるって分かる。この関係は相手が必要で。桜の花びらがちらちらと背景に散っている。


 降り積もる自分への嫌悪感は、身体を動かしているときだけは温度に溶けてきていました。


「また、したいです」


 そう、言えただろうか。


 また。


 次の春は転勤していないかもしれないけれど。

 きっとあの場の人たちはいてもいなくても、何にも言わないけれど。

 あの空間は、優しいから全部受け止めてくれるんだろうな。

 たまに優しくて不安になりそうになる。

 それでも、次の春まで。

 今のひとときを桜とともにこうして『今』を綴りたいと強く思ったんです。


 私だから伝えられることってあると思うんです。あのひととき、このひととき。私はこのひとときを書きたかった。伝えたかった。

 穏やかな瞼の裏の橙の日光、キャッチボールのかけ声や、ボールがかっきーんと清々しく打たれた後のくたびれたピッチャーとか、下世話なかけ声とか。


 キャッチボールの背景にさーっと落ちていく花びらに、今しか咲かない記憶を書き留めていく。


 きっと私ではなくともいいけれど、私であってもいい。


『今』いるのは、私しかいないんだよ。

 キャッチボールする相手から見たら私しかいないんだ。

『今』散る桜から見たら、この桜は私にしか見ることが出来ないんだ。


 だから『今』を綴っていいんです。

 記憶だけではなくて。

 これは『日記』なのかもしれないですね。


 書けるうちに、思い出せるうちに、『今』をしたためたいです。




 P.S

 今週末に草野球の試合があるんですが、行こうか悩んでいたりします。

 いや、行けよって話なんですが。

 あ、これは『未来』の話ですね。

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