第一章

第1話 僕と人間になった桜との一日目

「……っ。まぶ、し……」


 圭くんはソファでうたた寝をしていましたが、お母さんがつけた部屋の明かりで、目を覚ましました。外はもう真っ暗で、リビングの掛け時計の針は、夜の七時を回っていました。


 圭くんは、服を着ていなかった桜ちゃんに、桜ちゃんの裸を見ないように、ものすごく気をつけながら、自分のTシャツを着せました。上手く歩けない桜ちゃんを抱っこして、二階の圭くんの部屋から1階のキッチンまで桜ちゃんを運び、お母さんが用意してくれていたお昼ご飯を食べ、やっぱりお母さんが用意していた桜ちゃんのおやつを桜ちゃんに食べさせたら、圭くんは疲れ果ててしまい、ソファに座った途端、強い眠気に襲われて、そのまま眠ってしまったのでした。仰向けになった圭くんの上には、いつものように、桜ちゃんがのって寝ています。とは言っても、白猫の桜ちゃんではなくて、人間の女の子の姿の桜ちゃんです。桜ちゃんは、時々、耳をピンと立たせたり倒したりしています。しっぽも右に揺れたり左に揺れたりしながら、すやすや眠っています。安心して熟睡している様子です。


 圭くんの胸に頭を預けて眠る桜ちゃんの柔らかい胸が、圭くんのお腹の辺りにありました。白猫だった時と同じ重さしかない桜ちゃんは、とても軽く羽のように感じられます。けれど、圭くんのお腹に触れている桜ちゃんの胸の柔らかさは、圭くんにはっきりと伝わってきます。


 圭くんは、起き抜けのぼんやりした頭がはっきりと覚醒してきたと同時に、お腹にあたる柔らかいものに気が付きました。桜ちゃんの呼吸に合わせて、圭くんのお腹にのせられた桜ちゃんの胸はわずかに動きます。その感触に、圭くんは鼓動が早くなり、頭に血が上りました。


 圭くんは、いきおいよく飛び起きました。

 桜ちゃんがぐっすり眠っていることに、注意を払う余裕などありませんでした。桜ちゃんは、ころんと床に落ちました。


 頭をぶつけて、桜ちゃんは目を覚ましました。ぶつけたところが痛いので、声を上げて泣き始めました。


「うあぁ……ん」


 桜ちゃんは幼稚園児のように、大きな声で涙をポロポロこぼして泣いています。


「うわ、えっと……ごめん!桜」


 圭くんはまだ収まらない動悸に、心の中で静まれ、静まれと念じながら、ソファから降りて、桜ちゃんの向かいに座り、頭を撫ぜました。

 撫ぜても撫ぜても、桜ちゃんは泣きやみませんでした。


 圭くんのお母さんは、その様子をリビングの入口から見ていました。


 圭くんのお母さんが、仕事を終えて帰宅してみると、家が真っ暗で静かなので、玄関、廊下と順番に明かりをつけながら、リビングに入り、リモコンで明かりをつけました。そして、圭くんのお母さんは予想もしない光景を目にしたのです。


 リビングのソファで圭くんは眠っていました。その圭くんの上に折り重なるようにして、見知らぬ女の子が眠っていました。自分の息子のものと思しき、見覚えのあるTシャツを着ただけの、半裸ともいえる格好の女の子です。2人はすやすや眠っていました。状況を理解するのに、誰かの説明が必要でした。あまりの驚きに、お母さんは部屋の明かりをつけるリモコンを握ったまま、リビングの入り口で立ち尽くしていました。


 圭くんのお母さんが、意を決して、息子の圭くんに声をかけようとした時、圭くんは飛び起きて、上に乗っていた女の子を、勢いよく落とし、床に転がしてしまいました。女の子は、見かけは圭くんと同じ年齢に見えましたが、まるで5歳の女の子のような泣き声を上げました。肩で息をして、大粒の涙をポロポロこぼして、大きな声で、しゃくりあげながら泣いています。圭くんのお母さんは、圭くんに声をかけるタイミングを失いました。息子の名前を呼ぼうとして口を開きましたが、声が喉元で詰まってしまい、呼びかけることが出来ませんでした。リモコンを握る指に、力が入りました。圭くんは、お母さんの存在に気がついていないようで、必死に女の子をあやして、なだめています。圭くんが女の子に言ったセリフに、お母さんの頭の中の混乱は、さらに酷いものになりました。


『うわっ、えっと……ごめん!桜』


 ……うちの猫の桜ちゃんと同じ名前の女の子?

 変な偶然ね。しかも、猫の桜ちゃんに話しかけるような話し方だし。彼女はどこの誰で、いつ知り合ったというのかしら……。圭は春休みに遠出もしてないのに、どうやって知り合ったの?SNSなのかしら。いつも猫とばかり遊んでると思ってたけれど、知らぬ間にそんなことをしてたのかしら。でもこの間まで、この子は小学生だったのよ?いくらなんでも、こんなことって……。しかもここはリビングよ?


 圭くんのお母さんは胸がざわつき、めまいも感じました。倒れて気を失いそうになるのを、必死にこらえて、やっとのことで、圭くんに声をかけました。


「圭、これはどういうこと?」


 少し厳しい口調になりました。圭くんのお母さんの表情は、困惑と疑惑と憤りがありました。お母さんの声に、圭くんは桜ちゃんの頭を撫ぜていた手を止め、桜ちゃんは泣きやみました。二人は同時にリビングの入り口を見ました。リモコンを握りしめて立ち尽くすお母さんを見て、圭くんは、やっかいなことになったと思いました。明らかに、お母さんは怒っています。圭くんのお母さんには、桜ちゃんが見知らぬ女の子に見えていて、状況を勘違いしているんだと、圭くんは悟りました。お母さんの誤解を解かなければなりませんが、どう説明したら良いか、わかりません。上目遣いでお母さんを見上げると、お母さんとしっかり目が合いました。お母さんからの説明しなさいという圧力を感じます。圭くんは、しばらくお母さんと無言で視線を交えていましたが、深呼吸するために、お母さんから視線を外しました。するとその時、桜ちゃんがお母さんに呼びかけたのです。


「まま!」


 そして嬉しそうに駆け寄りました。とは言っても、桜ちゃんは人間のように二足歩行ができないので、ものすごい速さのハイハイをして、お母さんに飛びつきました。桜ちゃんはお母さんの足にしがみついてじゃれ付き、


「さくら、まま、すき」


 と何回も言っています。少し舌足らずで、まるで5歳の女の子のような話し方でした。

 圭くんは今がチャンスだ!と思い、一息にこう言いました。かなりの早口になりました。


「お母さん、うちの桜だよ。その子は猫の桜ちゃんだよ。抱っこしてみなよ、そしたらわかるから。女の子の体なのに猫みたいに軽いんだ。それによく見て。猫の耳と猫のしっぽがあるでしょ?普通の女の子は動く猫耳や猫しっぽなんかもってない。……それに僕の友達だとしたら、お母さんのことをままって呼んだりしないし、足にじゃれついたりもしない。ほら、早く抱っこしてみて!!」


 お母さんは、自分の足にじゃれつく女の子が、猫のように軽やかなのを、確かに感じました。立て板に水のようにまくし立てる圭くんの言い訳を聞きながら、じっくりと女の子を観察しました。絶対にありえないことなのですが、女の子の頭には、ふさふさの毛に覆われた猫の耳が生えていて、お尻からは、しゅるんと長い猫のしっぽが生えていました。お母さんの頭の中の混乱は、さらに酷いものになりました。しかし、なんと言ってもお母さんは大人の女性、社会で立派に活躍している社会人です。考えても分からないなら触って確認するのみ!と判断し、桜ちゃんを抱き上げました。

 すると、お母さんの疑問と混乱は、あっさりと解決しました。


「桜ちゃん!……まあ、どうしてこんな姿に?とってもかわいいけど、とっても不思議だわ」


 桜ちゃんはお母さんの質問に答えるかわりに、ニコニコ笑って


「まま、すき」


 を繰り返しています。宙に浮いた足をパタパタさせる動作は、まるで5歳の女の子のようでした。


「このルビー色の瞳はカラコンでは無理ね。猫の目のように光るし、瞳孔が動いているもの。それにとっても軽いわ。うちの桜ちゃんと同じくらいに。……圭、この子は本当にうちの桜ちゃんなのね。こんな不可思議なことってあるかしら。神様ったら、どういう風の吹き回しなの?」


 お母さんも、早口になっていました。

 圭くんはお母さんの態度が柔らぎ、女の子が、猫の桜ちゃんだと認める発言をしてくれて、心底ホッとしました。とりあえず、濡れ衣で、こってりと叱られる羽目にはならずに、すみましたから。叱られないとなると、圭くんは、お母さんと、喜びを分かち合いたくなりました。


「わかんないけど、でも素敵だよ。理由なんてわからなくてもいいじゃないか。桜もこんなに嬉しそうにしてるしさ。僕たち3人家族になれたんだよ、本物の3人家族に」


 ……父さんがいなくても、桜が、僕の本物の妹になってくれたから、もうさびしく感じたりなんかしない。これからは桜がいるもの。桜と話したり遊んだりできるもの。僕は最高に幸せだよ。


 圭くんは、お母さんに、言いたい事の半分だけを、伝えました。残りの半分は、心の中にしまい込みました。外に女の人を作って、家を出て行ってしまった父親のことを、お母さんに話すのは嫌だったからです。


「……本物の3人家族、ね。」


 お母さんの声は少し低く、溜息のように小さいものでした。お母さんは桜ちゃんをしっかりと抱っこし直すと、桜ちゃんの頭を優しく撫でました。


「そうね、桜ちゃんと私たちは本物の3人家族になったわね。これからは、今までよりもずっと賑やかな暮らしになるわね」


 お母さんは桜ちゃんの頭を撫でながら、圭くんの方を見て、笑顔で言いました。


「今年の春は特別な春ね。圭は中学生になるし、猫の桜ちゃんは女の子になった……。それに、お母さんの塾は、また支部を増やすことになったのよ。今年の春は大忙しの春だわ」


 お母さんは、桜ちゃんと圭くんを、交互に見つめながら、言いました。3人とも、とても晴れやかな笑顔をしていました。


 いつもの夜はとても静かでした。けれど、今日の圭くんのお家は、明るい笑い声で満ちていました。幸せと喜びが、3人の心を満たしています。圭くんのお母さんは、出張の疲れも吹き飛んだ気がしました。お母さんは、今から作れるご馳走はあるかしらと考えました。明日はお祝いのケーキを買ってこようなどと、ウキウキした考えも沸き起こります。

 圭くんのお母さんは、空の上には神様がいて、日々の苦労を顧みて、喜びに変えてくださるんだと思いました。猫の桜ちゃんは、この先の人生の希望の光、家族の喜びの象徴のように感じました。久しぶりに見る圭くんの笑顔と、初めて見る、あどけない桜ちゃんの笑顔に、お母さんの胸は熱くなりました。

 この喜びが、いつまでも続きますように。

 圭くんのお母さんは、空にいる神様に向かって、祈らずにはいられませんでした。今は夜でしたが、お母さんの心には、青く澄み渡る空が広がっていました。その空にいる神様に向かって、お母さんは祈ったのです。


 いつまでも今日の喜びが続きますように、と。


 それは、圭くんの『小学校最後の春休み』が終わる3日ほど前の出来事でした。



















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