プロローグ
猫の桜ちゃんは、飼い主の男の子の圭くんのベッドでお昼寝をしていました。
圭くんが中学校に登校してから、ずうっと眠っていたので、お腹がすいて目が覚めました。そろそろ圭くんも帰ってくる頃です。
大きく伸びをして、猫の桜ちゃんはベッドから飛び降りようとしました。けれど、上手く体が動きません。
おかしいなあ……。
桜ちゃんはベッドの上に座りました。
おなかがへってるからかしら。
桜ちゃんはいつもより頭もぼんやりしているようです。そのまましばらくベッドに座っていると、部屋のドアが開く音がしました。
桜ちゃんは圭くんが帰って来たのが嬉しくて飛びつこうとしました。けれどやはり、体がうまく動きません。
動けないので座ったまま、にゃあと鳴きました。鳴いたつもりでした。ところが出てきたのは鳴き声ではありませんでした。
「けいくん……」
猫の桜ちゃんはびっくりしました。でも驚いたのは桜ちゃんよりも飼い主の圭くんです。
圭くんは桜ちゃんをまるで知らないものを見るような目つきで見つめました。スマホを取り出して電話をかけようとしたり、それをやめたり。圭くんはドアのところに立ち尽くしたまま動きません。そして、圭くんの視線は、桜ちゃんの頭からしっぽの先まで、何往復もしました。
三分を測る砂時計があったなら、少なくとも五回はひっくり返さなければならなかったでしょう。いいえ、もっとひっくり返さなければならないかもしれません。そのくらい長い間、圭くんはドアのところに立ったまま、桜ちゃんをつくづくと観察していました。
「きみは……だれ?」
かすれた声で圭くんが言いました。
桜ちゃんはしっぽを揺らし、それからしょんぼりと耳を倒しました。
『きみはだれ?』
なんて冷たい言葉でしょうか。朝出かける時には桜ちゃんの頭を撫でてくれて、早く帰って来るからねと言ってくれたのに。
桜ちゃんは悲しくなって泣きました。涙をぽろぽろこぼし、声をあげて泣きました。人間の女の子のように泣きました。悲しい気持ちが大きすぎて、自分が人間のように泣いていることには気が付きませんでした。
圭くんは困りました。猫の耳と猫のしっぽをつけた女の子が自分のベッドの上で泣き始めたからです。見た目は自分と同じくらいの女の子なのに、泣く姿はまるで五歳の子供みたいです。それに、猫の耳と猫のしっぽは、まるで生きているかのように動くのです。
圭くんは困り果て、混乱し、何をするべきか分からなくなりました。警察に連絡するべきかもしれないし、お母さんに連絡するべきかもしれません。でも圭くんはどこにも連絡できませんでした。
女の子が泣いているということは、僕がなにか悪いことをしようとしたようにしか、見えないじゃないか……。
圭くんは頭を抱え、しゃがみこみました。
桜ちゃんは泣き続けています。時々、しゃくりあげながら。そして泣きながら圭くんの名前を呼んでいます。
「けいくん……け、い……く、ん、ひっく……えっく、にゃぁ……」
……え?
今なんて?……にゃぁって鳴いた?
圭くんは耳慣れた猫の鳴き声、桜ちゃんの鳴き声に顔をあげました。
……桜の声に似てた……まさか……でも……。
……ありえない……でも。
動く猫の耳、猫のしっぽ……
淡い赤紫色の瞳……淡い桜色の髪の毛……。
うちの桜に似てる……といえなくは、ない。信じられないけど……ありえないことだけど。
ありえないことだけど。もしもありえたとしたら?ありえると信じてみたら?
だって人間は猫のような声で鳴かないだろ。あんなに大泣きしてるのに、演技なんかできないだろ。僕と同じくらいにしか見えない女の子が、本物そっくりに動く猫の耳と猫のしっぽなんか、作れないだろ。
それに、あの瞳。桜そっくりの赤紫色の瞳。あれは、猫の目だ。人間の目はあんな風に光らないし、あんな風には瞳孔が動かない。カラコンなら尚更、光ったりしない。
「さ、くら……なの?」
圭くんの声は震えていて、少し掠れていました。思い切って訊ねてみたものの、確証はありません。訊いてから、やはり訊かなければ良かったと思いました。女の子はどこかの犯罪者グループの一味で、圭くんの家の財産目当てに忍び込んだのかもしれないのです。
大きな犯罪組織が、誘拐や強盗を企てたくなるくらいの資産が、圭くんの家にはありました。
ところが。
桜ちゃんは泣きやみ、小首を傾げて頷きました。
「うん」
にゃあと鳴いたつもりなのに、桜ちゃんの口からは人間の言葉が出てきました。桜ちゃんはまたびっくりして、今度は自分の手を見ました。自分の体がどうなったのか確かめようと思ったからです。
「……え?」
桜ちゃんの手は真っ白い猫の手であるはずでした。ところが見えたのは、ほっそりと華奢な女の子の手です。桜ちゃんは慌てて自分の体をあちこち触ったり見たりしました。
桜ちゃんの体は、眠っている間に人間の体に変化してしまったようでした。
耳としっぽだけが猫のままでした。
桜ちゃんはびっくりしすぎて、胸がドキドキして頭がクラクラしました。体から力が抜けていくのがわかりました。
そして、圭くんはもっとびっくりしていました。猫の耳としっぽが残っていなければ、瞳の色が淡い赤紫のスタールビーのようでなければ、にゃぁと鳴かなければ。この子が桜ちゃんだとは信じられなかったかもしれません。
自分を見つめる眼差しに、見覚えのある猫の瞳の輝きがなければ、ベッドの上の女の子は、ただの不審な侵入者にしか思えなかったでしょう。いいえ、今だって、本当は簡単に信じてはいけないのです。でも圭くんは、自分を見つめる泣き腫らした赤紫色の瞳を、疑うことが出来ませんでした。と言うより、疑いたくなかったのです。
「桜……」
圭くんは頬が紅潮するのを感じました。鼓動が早くなります。息苦しさがありました。そして胸の中に熱いものが込み上げ、喜びが圭くんの体を満たしました。それは、得体の知れない初めて感じる感情でした。圭くんはその感情の名前を知りません。体の中心から湧き上がる熱を帯びた嬉しさに飲みこまれていくだけでした。それは心地よい陶酔でした。頭の芯がぼーっとしました。
駆け寄りたいのに、圭くんの体はゆっくりとしか動きません。
脚が震えていました。
桜ちゃんは、そんな圭くんをじっと見つめていました。
二人の視線が絡み合いました。
喜びが二人を満たしていきます。二人の喜びは心というコップから溢れ、こぼれ落ちていきました。
圭くんがやっとの思いでベッドにたどり着くと、桜ちゃんは圭くんに向かって両手を差し出しました。圭くんはその手を取り、引き寄せて、そっと桜ちゃんを抱きしめました。その体は自分と同じ年齢の女の子としては、信じられないほどに軽く、猫の重さ程しかありませんでした。
やっぱり桜だ。
その軽さに、圭くんは腕の中の女の子が、飼い猫の桜なのだと強く思いました。
ありえないことでも、誰が認めなくても、この子は僕の桜なんだと思いました。
「けいくん、だいすき」
圭くんの耳に唇を寄せて桜ちゃんが言いました。その声は喜びに満ちていました。
桜ちゃんがただの白い猫だった時、ずっと伝えたかったことが、伝えられたからです。桜ちゃんは、圭くんに、人間の言葉で自分の気持ちを伝えたいと、毎日、思っていました。
圭くんが桜ちゃんに「好きだよ」と毎日言ってくれるように、自分も圭くんに「すき」と伝えたかったのです。
だから桜ちゃんは、圭くんと同じものになりたいと思いました。人間になりたいと願いました。願う気持ちはどんどん大きくなり、熱くなり、桜ちゃんの身を焦がしました。
人間になりたいと思い詰めて、苦しくて泣く日もありました。
真夜中のお庭でひとりぼっちで。
桜ちゃんは、お庭の桜の木の一番高い枝に登って、夜空を見上げて泣いていました。
お庭に遊びに来てくれるお友達の猫たちは、誰一人、桜ちゃんの気持ちをわかってはくれません。
『そんなことはバカらしいわ。人間よりも猫の方が千倍も素晴らしいのに、飼い主のために人間になりたいなんて、人魚が人間になろうとした話と同じくらい、愚かなことよ。
人魚姫は、結局、海の泡になって死んだでしょう。
人間に想いを寄せても、何もかえってなんかこないのよ。
それよりも猫の恋人をつくるほうが幸せ。木登りも追いかけっこもできない相手に、恋をしてどうするつもり?』
一番の仲良しの牝猫、紅ちゃんにも冷たく言われました。
それでも。
桜ちゃんの「人間になりたい」という想いは消えませんでした。猫の友達が止めれば止めるほど、桜ちゃんの人間になりたい気持ちは強くなっていったのです。そして唐突に、その願いは叶えられました。
圭くんはぎゅっと桜ちゃんを抱きしめました。圭くんの体に桜ちゃんの体温がしっかりと伝わってきました。そして桜ちゃんの体にも圭くんの熱が伝わりました。
「桜、僕も桜が大好きだよ」
「うん」
二人は抱き合ったまま、いつもそうするように額をくっつけました。
いつもより、二人の額は熱いような気がしました。いつもより二人の呼吸は浅く、鼓動は早鐘のようでした。
歓びに二人は満たされ、嬉しさに笑いがこぼれました。
二人は、空の上には神様がいるんだと知りました。世界が二人を祝福していると感じました。
それは4月の初め、二人の住む街が、満開の桜で淡く染まる頃の出来事でした。
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