第6話 そして神域へ…

〈 拾壱 〉


 十年間で四度も住人が死んでいるという最凶の事故物件は、故・三鷹幸一邸とは本当に目と鼻の先だった。徒歩で十五分。ちょっとしたウォーキングの距離である。

 捜査のために何度も通った桜並木の堤防下、そのたびに目に入っていたはずの築30年になるというボロアパートをふたりは訪ねた。


 夕方近くなって「部屋を見せて欲しい」と言われた管理人の表情は決して明るくない。

 ハッキリ言って不機嫌だった。


「捜査協力を、と言われちゃこっちも断れませんがね。大家さんのOKが出たからいいようなものを今日の今日じゃ非常識ってもんだ。まったくあんたら警察ってのは――」


「す、すみません。お帰りのところをお引き止めしてしまって……」


 小太りの中年オヤジが鍵束をジャラつかせて士郎に嫌味を言っている。

 管理人室はアパートからすこし離れた別棟にあった。暮れ始めた夕陽を背に受けながら、桔梗と併せた三人の影がいびつに補修されたアスファルトに長く伸びる。


「だいたいね、一回すっぽかしといて連絡もないのはどうなの。言いたかないけど、こっちだって暇じゃないんだから」


「ちょ、一回すっぽかしてって何ですか?」


「聞いてないの? ほんとは先週来る予定だったでしょ。ほら、あの、柴山しばやまとか言ったかな、年配の刑事さん」


 士郎は桔梗と目を合わせた。

 彼女もまた驚きの表情で彼を見返している。


「いまの聞いたか!」


「――たどり着いてたんだ。わたし達よりも先に。でもちょっと待って。なんであんた上司からマジでなにも聞いてないのよ」


「そうそう。ホウレンソウは大事だよ。新人研修で習わなかった?」


 面倒なタイミングで首を突っ込んでくる管理人をスルーして、士郎は「参ったな」と首回りにかいた汗を手で拭う。


「事故で入院とか軽めに言ったがよ、じつはまだ意識が戻ってねえんだ。身体は打撲とか擦り傷程度なんだが、頭を打ってるらしくてな……」


「えっ。事故? 大変じゃないか!」


 またしても管理人のほうが先に反応する「やりにくいわぁ」と口には出さないが、思い切り表情に出ている桔梗を士郎はなだめる。


「班長達はきっと真相に近づき過ぎたんだわ。だから……」


「じゃあ俺らはどうなんだ。今んとこお咎めなしかよ。なにが違う」


「おそらくコレね」


 そう言って桔梗は手にした風呂敷包みを目線の高さへと持ち上げた。

 小ぶりのスイカほどの大きさだが、彼女が片手で扱えるほどには重くない。中身はキャンプ場の森奥で発見した例の石像だ。「さわり」があるといけないからと桔梗が持っている。その代わりに士郎はキャリーケースを引く係に任命されていた。


「抜け殻とはいえ長い間、依り代となっていたもの。キャンプ場でお清めもしてきたし、そうそう祟られるものじゃないわ。班長達はアレね。光の玉がないのにゾーマに挑んだ感じ」


「そんなドラクエ感覚でいいの?」


 この不穏なやり取りに管理人は急に顔を曇らせる。「あんたらさぁ」と、言いにくそうに口をもごもごとさせていた。


「祟りとかってあんま大きな声で言うもんじゃないよ。大家さんも気にしてんだからさ」


「あ、すみません。ちょっと話が込み入ってまして」


「ただでさえ借り手がつきにくいんだから困るんだよね、そういう無責任な発言は。確かにあの部屋はいろいろとだけどさぁ」


「あのぉ」


 桔梗がこの日一番の猫なで声を出した。士郎は思わずギョッとする。つい半日前まで初対面だったはずだが、もはやお互いに遠慮がない。ほんとコイツ外面そとづらはいいな、と思った。


「いつからなんですかぁ、そのぉ~……」


 桔梗が言いにくそうに言葉を濁していると、意を汲んだ管理人のほうから「心霊現象だろ?」と返してきた。


「もう十年以上は前になるかねぇ。住人さんが夜中に子供の声がするとか、壁やら天井からドンドンと音がするって言ってきたのよ。その内、借りるひとが次から次に亡くなられてさぁ。参っちゃうよ」


「失礼ですけど亡くなり方っていうのはぁ」


「うん? 死に方かい? 変わったこと訊くね。ふたりは交通事故だったね。ひとりは急に末期がんになっちゃって、最後のひとは大きな声じゃ言えないけど首吊っちゃってね、あれから借り手がつかないのよ。あんたら知り合いにいないかい、事故物件に住みたいひと」


 交通事故にがん。

 ふたりはお互いを見やって大きくうなずいた。しかも最後の住人は自死。禍々しさに拍車が掛かっているように士郎は感じる。


「考えてみればアレだ。酒井さんが越していってからじゃないかな。幽霊だのなんだのって言い始めたのは」


「サカイさん? 誰ですかそれ――」


 管理人がふと口にした名前は、十数年の捜査の中で始めて耳にするものだった。

 士郎の瞳が真っ赤に燃える夕陽を映してギラつき始める。




〈 拾弐 〉


「兵頭です。電話ですんません。ちょっと前科マエを調べて欲しいんですけど……はい、そうです」


 管理人の不意な一言によって十数年、新情報のなかった本件の捜査がにわかに動き始めた。

 士郎はアパートを目前に、スマホで署に連絡を取っている。


「酒井和夫。年齢50代。事件当時にサンハイツ佐々良の205号室にて居住。十年前に転居、以降の足取りは分かっていませんが、重要参考人の可能性があります。場合によってはガサ状も請求したいんですが裁判所間に合いますか?」


 捜査や事件のことなど分からないが、自分の不用意な発言によって刑事の目の色が変わったことに管理人はオロオロとしている。


「あの……家賃の入金も遅れたことなかったし、ゴミの分別もちゃんとしてたんです。そんな悪いひとには思えなかったけどなぁ」


 ネチネチと嫌味は言うが根は真面目な人間である。

 かれこれ十年は会っていない元賃借人とはいえ、本人のあずかり知れぬところで不利益なことを口にするのは憚られるのだ。

 正義感――というよりはただ自分が責任を背負いたくないだけかも知れないが。


 通話を終えた士郎は「待たせたな」と桔梗に声を掛ける。

 わずかでも事態が進展したことで気持ちが高揚しているのか、表情は妙に明るい。


「どの部屋か分かるか?」


「二階の角部屋でしょ。なんかもう邪悪な気配が漏れ出ちゃってるわ」


 サンハイツ佐々良は、バブル期以前からこの土地に建っているプレハブタイプの集合住宅である。耐震基準の観点からそろそろ建て替えでは、と一部ではささやかれているがリーズナブルな家賃設定のおかげで借り手が途絶えたことがない。

 全部で十部屋ある一棟二階建ては現在もなお、ひとつを除いて満室の人気物件である。そのひとつというのが、いまから乗り込もうとしている205号室なのだ。


「正直、近づきたくもないけど今のうちになんとかしないと……」


「その石像の中身があそこに居るとしてだ。例の酒井って男をどう思う?」


 桔梗は「まだ何とも言えないけど……」と士郎の問い掛けに反応はするが、アパートの二階を凝視したまま集中を切らさないようにしている。


「酒井が『神さま』に憑りつかれて三鷹さん一家を殺害。その後、正気に戻った酒井はアパートを転居ってとこかしら。ハタ迷惑な祟りだけここに残してね」


「ただでさえ立件の難しい教唆きょうさ罪。しかも被疑者は『神さま』ですってか。ふざけんなよ」


 静かに憤る士郎の肩にそっと触れ、桔梗は「違うわ」と優しく語り掛ける。凛とした、しかし力強い声音こわねだ。


「たとえ神がちからを貸したとしても、罪を犯すのは『人間』よ。ひとを殺めて贖罪もせず、今ものうのうと暮らしているなんて許されるはずがない」


「桔梗ちゃん……」


「こっちはわたしがなんとかするから、そっちは頼んだわよ」


 そう言って彼女はショッキングピンクのキャリーケースを引いて、アパートの二階に向けて階段を上ってゆく。


 ガタッ――ガタガタガタ――。


 上ってゆく。


 ガタタタタッ――ガッ。


 のぼって。


「締まらねえなオイ! 貸せよもう!」


 体力不足でなかなか階段を上れない桔梗。

 見かねた士郎は彼女からキャリーケースを奪うと、先んじて二階へと上って行った。照れ隠しなのか、彼女は手を腰に当てて口を尖らせた。


 ふたりが205号室へ行くと、すでに管理人が鍵を開けて待っていた。


「電気と水道は通ってますんで、ゆっくり見てってください」


「や、内見じゃないので……」


 士郎が管理人の小ボケを拾っていると、ようやく追い付いてきた桔梗が205号室のドアの前まで来て立ち尽くした。

 きょう一日を共にしてきたが、こんなに緊張している彼女を見るのは始めてだった。

 ただでさえ不健康な顔色が真っ青だ。


「桔梗ちゃん、体調悪いんなら日をあらためて――」


「――りん!」


「え?」


びょうとうしゃ!  かいじんれつぜんぎょう! エーイ! おんきりきり、おんきりきり、おんきりきり……」


 指を剣に見立てて縦横に宙を斬ると、一心不乱に経の文句を唱え始める。

 管理人が呆気に取られている最中、同じ階の住人たちも「何事か」と玄関から顔を出した。


「ど、動画の撮影してまーす。すぐ終わりますのでぇ……」


 士郎はスマホを彼女に向けて「あはは」と笑い、必死に場を誤魔化した。桔梗による腹からの発声に周囲の空気がビリビリと響いている。


「け、刑事さんこれは何事ですかっ」


「えーとこれはですねぇ。なんといいましょうか……」


 管理人の反応も当然である。

 士郎がうまい言い訳のひとつも思いつかないでいると、桔梗は「ハァ!」と一際大きな気合いを入れてドアノブを掴んでいた。


「開けます!」


 勢いよく開けられた205号室のドア。

 スチール製の重たい作りに、ともすれば軽い桔梗の身体は持っていかれそうになる。士郎はそれを支えてやると、鋭い眼光で部屋の中を睨みつけた。


 普通の部屋だった。

 玄関の先に小さなキッチンのあるユニットバス付きの2Kの部屋だ。玄関から真正面に畳の部屋が見えている。


「暗くなりましたね。照明のスイッチがここにありますから――」


 気を利かせた管理人が玄関にあるスイッチをオンにして、部屋に明かりを灯そうとした時だった。一瞬だけ光った和室の照明が「バチン!」という音を立てて爆ぜた。

 破裂した蛍光灯がパラパラと畳の床に落ちる。

 その様子はまるでスローモーションのようで、士郎は自分が初めて「神域」というものに取り込まれているのを感じた。




(つづく)

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