異・世界革命Ⅱ 空港反対闘争で死んだ過激派は異世界で革命戦争を始める

北のりゆき

第1話

 まさか、あのジュスティーヌ第三王女殿下が、旅行先で父王陛下に無断で結婚し帰国されるとは!

 しーかーも~、新郎のレオン・ド・マルクスは、田舎男爵家の出身で無職の文無しなのだ。まったく贅沢はしないが、カネはあればあるだけ遣ってしまう男である。

 王女の無断婚姻などという父王と母王妃以外は、だれも想像しなかった事態に、フランセワ王国の貴族界は騒然となった。とはいえ、バロバ大神殿長を筆頭に聖都ルーマ大神殿の高位神官の名がずらりと並んだ結婚証明書を見せられると、だれもなにも言えない。最初はあきれていても、結婚証明書の内容を知ると、全ての者は驚嘆して口を閉じた。


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 ~ 四年後 ~

 フランセワ王国で内戦が始まった。

 払暁の西方領主領地域に、フランセワ王国正規軍と民衆からなる赤軍が一斉に侵攻を開始した。後方で攪乱戦術をとる領主軍騎兵部隊に一切顧慮することなく、各部隊は点在する領主領を粉砕しつつ進撃する。この戦争の目的は、領主貴族の絶滅と奴隷制の廃絶である。

 総指揮を執っているのが、公爵レオン・ド・マルクス王国軍総司令官だ。この戦争は、レオンが周到に準備し始めた『レオンの戦争』といっても過言ではない戦いだった。奴隷解放戦争を開始するためにレオンは、謀殺や破壊工作にまで手を染めた。

 開戦から数日後、三千名からなる民衆の赤軍部隊がハント侯爵領に侵攻した。そこに前線視察と称してレオン・ド・マルクス総司令官と幕僚たちが同行した。何度も命を狙われテロ襲撃されているレオンは、暗殺を恐れるような男ではない。

 迎え撃つ敵部隊は存在せず、民衆赤軍は無抵抗のまま綿花畑を前進する。やがて領主城を中心とした人口数千程度の田舎街に突入した。

 フランセワ王国の法には、もう奴隷など存在しない。フランセワ王国民を、不法に監禁することは許されない。民衆兵が気合い一閃、巨大ハンマーを振るって奴隷小屋の扉をぶち破り、監禁されていた国民たちを解放する。しかし、解放された奴隷たちに喜色は無い。戸惑い恐怖に青ざめている。

 田舎街で徹底した家捜しが始められた。平民といえども奴隷禁止令発布以降に奴隷制によって利益を得た者は、厳罰に処せられる。抵抗すれば、死だ。

「全員外へ出ろ! 隠れている者は敵性分子とみなし攻撃するっ!」

 この捜索とは別に千人ほどの赤軍兵が、こんな田舎街には似つかわしくない四階建ての立派な領主城を取り囲んだ。城を守る騎士は十数人といったところだろうか。

 民衆赤軍の指揮官に、レオンが問うた。

「降伏勧告は出したな?」

 この赤軍指揮官は、レオンが王宮親衛隊中隊長だった時に部下だった男だ。

「二回出しましたが⋯。返事はありませんね」

 レオンが鼻で笑う。

「ふん。こんな城を枕に討ち死にするつもりなんだろ」

「部隊を突入させますか?」

「バカ。損害がでる。火矢を射掛けろ。城ごと焼き払う。戦闘開始後に逃げてくる者は、非戦闘員でも攻撃対象とする。一人残らずせん滅せよ」

 もう夕方だ。いつの間にかレオンが指揮を執り始めた。元部下の赤軍指揮官は、貴族的なものにまるで敬意を示さないレオンをまるで変わってないと感じた。

「おっ、お待ち下さい!」

 眼鏡をかけたインテリ風の士官がレオンの前に飛び出し、跪いた。戦争前にレオンは、フランセワ王国唯一の大学である王国大学で、哲学の講座を持っていた。超満員の講堂で見た覚えがある顔だ。

「跪く必要はない。おっ、大学にいたな。どうした? 学生なのに志願して出征したのか? 立派なものだな」

 敵に対しては殺人鬼であっても、レオンは部下には厳しくも優しい。

「はい。お聞き下さい。城主のハント侯爵は、美術品や宝石の収集で有名でした。あそこには世界に二つとない貴重な芸術品が⋯」

 レオンにとって、女の裸絵や色のついた石なんかより兵の命の方がよほど大切だ。奴隷を酷使し鞭打って集めた絵画やら彫刻やらのために、赤軍兵の命を危険にさらすつもりはさらさらない。レオンは、最後まで聞かず黙って剣を抜いた。切っ先で夕闇に黒々とした城を指す。

「革命に芸術は不要だっ。火を放てっ!」

 数十の火矢が五百年の歴史を持つ領主城に打ち込まれてゆく。城は下層からどす黒い煙を吐き、やがて火に包まれた。奴隷小屋から解放された新しい国民たちと街から集まってきた平民たちが、五百年もの長きにわたり権力と権威の象徴であった『お城』がなすすべもなく燃え上がるさまを呆然と眺めている。

 降伏を拒否した『奥様』や『お子様』、そして最後まで残った『忠僕』たちが炎に追いつめられ、最上階から身を投げる様子がはっきり見える。

 抜き身の剣を掲げ炎に照らされたレオンの姿は、まるで悪鬼だ。

「ハハハハハハハ! これだっ! この景色が見たかったんだ! 人の肉と生き血で築いた奴隷使いどもの巣を、消し炭に変えてやる! 奪われ続けた奴隷の苦悶の呻きを隠蔽する仮面を剥ぎ取り、五百年に及ぶ暗黒の歴史もろとも踏み潰し墓場にしてやるっ!」

 指揮官は、クーデター事件の際に国王を救出すべくレオン隊長の指揮の下、王宮に突入した親衛隊騎士だった。だが、あの時のレオンは、今よりはるかに冷たい目で醒めていた⋯。

 国王の首をすげ替えるだけの宮廷クーデターなど愚にもつかない。国家内国家である領主領を領主貴族もろとも滅ぼし、その経済の基盤である奴隷制を廃絶し、二度と立ち上がれないように破壊する。フランセワ王国の社会構造を覆し、根底からつくり変える。これこそ革命だ!

 熱と炎に追い立てられ悲鳴をあげ抱き合って領主城から身投げして死んでゆく領主一族が、まだくっきりと見えた。貴人と称する者どもの死を見せつけられて、兵や指揮官すらも呆然と立ち尽くしている。レオンは、その焦熱地獄に剣先を向けて言い放った。

「人民の敵を処刑せよっ! 奴らは、寄生虫と伝染病の忌まわしい混血なのだ! この墓場には、すぐに蔓草や雑草がはびこり生い茂り、永遠に人民に軽蔑されるであろう。奴隷使いとその追随者どもよ。搾取者よ。民衆の敵どもよ。おまえたちは、滅びる。ひとり残らず死ぬのだっ!」

 レオンは、燃え上がる城を背景に民衆兵と平民、そしてたった今解放されたばかりの奴隷たちに向き合った。

「これは破壊ではない。創造であるっ! 奴隷使いどもを、我々は絶滅する。その第一歩が始まった! この時、この場所から、歴史の新しい時代が始まったのだ! 正規軍及び民衆赤軍に命じる。奴隷制に繋がるものを、徹底的に破壊せよっ! 幾世代にも渡って奴隷とされてきた人民の闇を、絶望を、恨みを、血債を、今こそ奴隷使いどもに突き返すのだ。虐げられし者の憎しみを爆発させよ! 悪の化身を地獄の底の底まで叩き落とせ! フランセワ王国軍総司令官は、全ての奴隷使いに、死刑を宣告するっ! どこに逃げても隠れても無駄だっ! 命令する! 全軍は、刑を執行せよ!」


 王家よりも古い七百年の歴史を誇ったハント侯爵家は、焼け落ちる古城とともに滅亡した。

 レオンは、フランセワ王国どころかセレンティア世界に手本を示した。「奴隷使いは、情け容赦なく殺す」。これまでになかったレオンの絶滅戦争は、生まれたばかりのマスコミを通して全セレンティアに広がり、全世界が震撼した。

 翌日、それまで帰順しなかった領主城の門が十以上も開かれ、数百人の領主貴族らが降伏した。それでも降伏を拒否した領主城には、次々と火が放たれ、立てこもっていた領主一族は生きながら焼かれた。

 降伏した領主貴族らが貴族扱いされることは、二度となかった。彼らは捕縛され、軍事裁判に出廷させるため主人も奥方も数珠繋ぎにされ、徒歩で連行されていった。


 公爵レオン・ド・マルクス。フランセワ王国軍総司令官 兼 領主領及び奴隷問題担当大臣は、最初から百二十家・約三千人もの領主貴族を階級として根絶することを決意していた。逃げようが降伏しようが、文字通り皆殺しにするつもりだ。

 どす黒い奴隷制の闇を払い、最後の敵を完全打倒する時がくるまで、レオンは、暴力と恐怖による仮借ない闘争を貫徹するだろう。


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 新婚のレオンとジュスティーヌを乗せた馬車が、イタロ王国の聖都ルーマから八日かかって夕方近い王都パシテ王宮に到着した。国王に謁見を申し込むまでもなく、二人は連行されるように父王アンリ二世の私室へと引っ張られていった。

 アンリ二世は、最深度調査を命じ、数日後に届いた『レオン・アルフォンス・ランソワ・ド・マルクス』なる人物の身上調書を再度ながめた。田舎領主ランゲル侯爵家の分家のマルクス男爵家三男。子供時代はガキ大将で、領民の子供たちを引き連れて農村で喧嘩遊びに明け暮れていた。みんなで村長にカエルを投げつけるといった類の悪ふざけで、犯罪というほどのことはしていない。成人してからは、主家筋のランゲル侯爵家の騎士団で働いていた。何回か喧嘩騒ぎを起こした程度で、勤務態度に特筆するようなことはない。しかし、熱病で死んで三日後に生き返ってから、人が変わったようになった⋯。

 字が読めるかどうかも怪しかった男が、フランセワ王国王女として最高の教育を受けてきたジュスティーヌ王女になにやら講義をして心服させている。剣の腕も立つ。野盗を十三人も斬ったのに続いて、今度は巡礼旅行で暗殺団の刺客をまとめて五人も斬った。

 アンリ二世の私室へ連行される途中でレオンは、帯剣を取り上げられた。国王陛下に斬りかからないかと警備責任者が危惧したのだ。ほとんど半狂人あつかいである。

 娘である王女が男と旅行に出かけ、旅行先で無断で結婚して帰ってきた。当然父王の内心は穏やかではない。とはいえ娘王女のジュスティーヌがレオンについて行くことを承諾したのだから、結婚を認めたのも同然だ。あまり強く叱ることもできない。とはいえ目の前で親衛隊騎士に取り囲まれている二人に、少々皮肉を言いたくなった。

「君たちは結婚したと聞いたが、それは本当かね?」

 全く皮肉が通じていない。レオンがフトコロから巻紙を出して差し出した。

「ありがとうございます。結婚証明書です。既に写しをご覧になったかとは思いますが」

 婿殿は、無邪気にニコニコしている。娘は恥じらって赤くなりモジモジしている。再び皮肉を言ってみた。

「ずいぶんと遠いところで結婚したのだな?」

 レオンに皮肉は通じない。

「すいません。王都パシテでなければいけないのでしたら、一度離婚して改めて王都で結婚証明書を⋯⋯」

 ジュスティーヌが飛び上がってレオンの腕にしがみつき、血相を変えた。

「ぜったいに、なりませんっ! 離婚など! お父さまっ!」

 娘王女に叱りつけられた父王は、ガックリきてしまった。

「あー、よいよい。だが王族の義務として、披露宴は開いてもらうぞ。いつごろを希望する?」

 レオンは、ポカンとしている。こういう貴族の行事関係はさっぱり分からない。ジュスティーヌ王女に丸投げだ。馬車旅の間中、レオンに『剰余価値』だとか『貧困の再生産』だとかを吹き込まれてきたジュスティーヌは、もともと好きでもなかった贅沢や行事がますます嫌いになっていた。

「一週間後に、一日だけ行いたく存じます」

 披露宴があまりにみすぼらしいと王家の沽券にかかわる。まあ、第三王女と新興伯爵の披露宴なら一日でもギリギリ許容範囲だろう。その分、潤沢に予算を使わせてやろうと温厚で寛容な父王は考えた。

「王室予算より十億ニーゼつける。自由に使うがよい」


 退出したレオンは、儀典関係に詳しい伯爵令嬢・アリーヌ王宮王家担当一級侍女に訊ねた。六歳の時からジュスティーヌ第三王女付きの侍女であり、幼なじみの親友でもある。

「よう、アリーヌ。十億だってよ。王様、ずいぶん気前が良かったな。どういうことだ?」

 アリーヌは考え込んでいたが、自分なりの解釈を加えて解説した。

「王族の結婚披露宴が一日などとは、前例がありません。最低でも三日です。準備期間も一カ月はかけるものなのですが⋯。でも、姫様が『一週間後に一日だけ』と希望されたのですから⋯。普通でしたら予算は、一日五億ニーゼくらいが平均ですわね。十億ニーゼも予算をいただいたのは、一日でも良いから王家の名に恥じぬよう豪勢にということなのでしょう」

 レオンは目を輝かせた。

「よーし。じゃあオレは、平民を集めて宴会をひらくぜ! 七億ニーゼもらう。貴族のほうは三億ニーゼでやりくりしろ」

 アリーヌ侍女が飛び上がった。

「ぜったいに、いけませんっ! 陛下に恥をかかせるつもりですかっ! 披露宴は、たった一日なのですから、集まった貴族が驚くほど立派なものにしなければなりませんっっ!」

 レオンは、友人のジルベール君や人格者のラヴィラント親衛隊騎馬隊長ら少数の知人以外の貴族に関心はない。いずれ滅亡し、歴史のクズカゴに放り込まれる階級くらいの認識だ。

「オレは、平民を足場にするんだよ。だから、顔見世にカネが必要なのっ。披露宴はデビューにおあつらえ向けの舞台だぜ!」

 王位継承順位八位の第三王女の夫という最末席とはいえ王族となったレオンが、平民ごときを足場にする? 顔見世? デビューの舞台? 王宮侍女であり伯爵令嬢でもある生粋の貴族派のアリーヌには、レオンの言葉は狂っているとしか思えず理解不能だ。だが、妻となり、レオンの英才教育を受けてしまったジュスティーヌには、なんとなく理解できた。

「あなたのおっしゃることは、その通りですわ。でも、お父様を怒らせてしまったら大変です。ねえ、アリーヌ。お任せするから、五億ニーゼで立派な披露宴をひらいて下さいな。おカネは、半分に分けましょう」

 アリーヌは、雷に打たれたようになった。王家の披露宴を、姫様に任せられたっ!姫様のお役に立つ時がきた!姫様のために!姫様が!姫様の!姫様に!姫様に!姫様!姫様!あああぁぁあああ姫様!姫様!一生お仕え致しますっ!! ⋯⋯もう有頂天だ。


 うまいことジュスティーヌが、アリーヌを丸め込んでくれた。おかげで、レオンは十五億ニーゼを手に入れた。現代日本の価値で、五億円くらいだ。

 レオンとしては、王宮前広場に五万人くらいの民衆を集めて飲んだり食ったりでパーッとやりたい。とりあえず肉は、豚汁と焼き肉でいいかな。酒は樽を並べて自由に酌んでもらう。安物のコップと皿を用意しないとな。⋯だったらいっそ土産物にするか。全員に、王家の紋章とオレとジュスティーヌの肖像が入ったコップと皿を配る。

 それに、なんといっても見世物だ! パンとサーカスと酒は、人心掌握のための重要アイテム!! さっそくレオンは、王宮メイドの仕事場に降りていった。折りよくメイドのリーリア・スレットと鉢合わせた。スレット建設の社長の娘さんだ。

 ブルジョアの娘が多い王宮メイドを手蔓にして、レオンは勃興しつつあるブルジョアジーと繋ぎをつけていた。ブルジョアも、いずれ滅ぼすべき敵階級なのだが⋯。封建制を打倒するまでの束の間の同盟軍だ。そんなことはおくびにも出さず、にこやかに話しかける。

「やあ、リーリアちゃん。親父さんに仕事を頼みたいんだけどさ。悪いけど、スレット建設までつき合ってくれよ」

「はっはい。伯爵様。はい、伯爵様。えっと、あの、お供しますっ」

 かわいいなぁ! そのうえ性格が良くて働き者だ。人形のようなつまんねー貴族令嬢とブルジョアのお嬢は、こんなにも異なる。

 メイド長にひと声かけて、リーリアを連れ出した。リーリアは、王宮メイド試験に合格したばかりか王女殿下の聖都ルーマ巡礼にまで同行し、畏れ多くもバロバ大神殿長にお会いした。実家のスレット建設では、もう天使あつかいされている。

 イタロ王国からの帰国後に一級侍女に昇格したキャトウも連れて行く。ジュスティーヌ王女付きの三人侍女の一人だ。第一侍女のアリーヌがキツネ、第二侍女のマリアンヌがタヌキなら、こやつは好奇心の強いシャム猫に似ている。実際には侍女とは仮の姿で、護衛保安要員として特殊訓練を受けており、肩関節を自由に外すことができたりする。

 王宮をぐるりと巻いている幅十メートルばかりの堀に架かっている跳ね橋を渡ると、騎馬隊の詰め所がある。

「おう、ジルベール」

 暗殺団と斬り合ってできた顔面のでっかい傷を自慢そうに見せびらかして、フォングラ侯爵家の嫡子・ジルベールが立派な馬に乗って辺りを睥睨している。容姿は、金髪碧眼で長身の美形貴族だが、妾腹だとかで十代中頃まで下町で悪ガキを統率して好き放題に遊び回っていた。正室の子が死んだためにフォングラ侯爵家に連れ戻された。かなりグレていたからか、レオンとはやけにウマが合う。

「やっ、ヘヘッ。とうとう披露宴ですってね。招待して下さいよっ」

 並んで歩いていたリーリアが、ジルベールを見てモジモジしはじめた。中身はガキ大将なのだが、見かけは典型的な美形青年貴族だから無理もない。

「ああ、来てくれよ。それで悪いけど、この手紙をスレット建設に届けてくれないか? 急に訪ねたら失礼だからなぁ」

 馬上で手紙を受け取り、ジルベールはリーリアの方を向いた。

「スレット建設って、リーリアの実家かい?」

 ルーマ巡礼旅行中に顔見知りになったようだ。

「は、はい。そうなんです。お父さんの会社です」

 モジモジモジモジモジモジモジモジ⋯⋯。

「そか。じゃ、ひとっ走り行ってきますよ」

 颯爽と馬を走らせるジルベールの後ろ姿を頬を赤く染めて見送るリーリアちゃん。急にこっちを向くと決意した表情で見つめてきた。

「あ、あの。ジルベール様の顔のお傷は、女神様のお力で消せないでしょうか?」

 本当にかわいいなぁ。ジルベールのやつ、モテやがって!

「ジルベールは、格好いい傷ができたって大得意だったよ。消したくないんじゃないかなぁ」

「そうですかぁ⋯⋯」

 少しションボリしてしまったリーリアと話しているうちに、スレット建設が見えてきた。どうやら取り込み中のようだ。


 十五分ほど前、スレット建設本社入口に、現代日本で例えればスーパーカーのような名馬に乗った親衛隊騎士がきた。馬に負けないほどに美形で長身な王宮騎馬隊の貴族が、下馬して入ってくる。女性社員たちは棒立ちだ。頬に大きな刀傷があるが、少しも美形を損ねていない。しかし、貴族らしくないほど愛想がよかった。

「やあ、王宮から手紙を預かってきたよ。はい」

 顔を赤くした女性社員が受け取った。

「あり、ありがとうございます。あの、お名前を⋯⋯」

「あぁ、オレはジルベール大尉。手紙はレオン・マルクス伯爵からだ。リーリアちゃんを連れて、もうすぐここにくるよ。じゃあ、渡したからね」


 ! !


 来た時と同様に颯爽と名馬に跨がり、ジルベールは去っていった。社員たちは、それどころではない。

「マルク⋯ス伯爵⋯⋯? ひっ! しゃっ、社長っ! リーリアお嬢さんが!」

 顔色が赤から青に変わった女性社員が、階段を駆け上がっていった。


 スレット建設本社前で、社長をはじめ全従業員が並んでお迎えに出ている。まだ十六歳のリーリアが無邪気に手を振るが、だれひとりとして振り返さない。リーリアの着ている王宮メイド服が、ものすごく目立つ。

「おとーさーんっ!」

「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」

 揃って青ざめている社員さんの先頭にいるのがスレット社長だろうと見当をつけ、レオンは、キャトウを連れてスタスタと近づいていった。下級貴族に見える簡素な服装で、この世界では珍しい二本差しだ。いたって機嫌が良く、ニコニコしている。

 スレット社長は、良くも悪くも極端な噂を聞くあのマルクス伯爵が、正常な人物に見えることにまずは安堵した。スレット建設本社が血の海になることは、どうやらなさそうだ。

「失礼します。スレット社長でしょうか?」

 伯爵と爵位こそ中位だが、国王の娘婿というある意味では公爵よりも力のある貴族。そんな人物とは思えないほどレオンは平民に対して礼儀正しく腰が低かった。

 しかし、腰の剣が⋯⋯。ううう、この人は、今のフランセワ王国で、最も人を斬っている男だろう。

 一番上等な部屋に案内されたレオンは、座るなりスレット社長に向かって単刀直入に切り出した。猫目美人の王宮侍女が後ろに控え、王宮メイド服を着ているためかやけに立派に見える娘のリーリアも、シュッとした姿勢で並んでいる。

「六日後に披露宴を開くんです。そこで王宮前広場で五万人くらい集めて、酒と食い物を振る舞いたいと計画しています。力を貸して下さい。ヤグラを立てたり、交通整理や、あとイノシシがほしいですね。できるだけデカくて凶暴なやつがいい! それに、巨大な焚き火で景気をつけたいな!」

 王宮前広場にヤグラを立てて焚き火で景気づけ? 凶暴なイノシシ? 披露宴? 五万人? 我が社は建設会社なのだが? わけが分からない。

「⋯⋯あの、どちらの方の披露宴ですか?」

「もちろんワタシとジュスティーヌですよ。ハハハハハハハハハハ!」

 ジュスティーヌ⋯⋯第三王女殿下? え? 結婚された? 呼び捨て?

「その⋯⋯凶暴なイノシシとは?」

「戦うんです。ヤグラの上で」

 ???結婚披露宴ではなかったのか? やはり全く理解できない。

「これを見ていただいた方が早いですね。同じ物を百枚ばかり作って王都の目立つ所に掲示して下さい」

 後ろに控えている猫目美人侍女が、大判の板を社長に渡した。セレンティアでは、紙は貴重品だ。お知らせは、板に書いて掲示したりする。


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 フランセワ王家・マルクス伯爵家 大結婚披露宴のお知らせ

 ♡レオン・ド・マルクス伯爵

 ♡ジュスティーヌ・ド・フランセワ第三王女

 ♡お♡め♡で♡と♡う♡


 十六日四時より王宮前広場にて大開催。巨大焚き火が目印よ!

 入場無料。お肉とお酒が飲み放題食べ放題!無礼講!飲んで食って遊んで楽しくお祝いしましょう!

 雨天決行。普段着でいらして下さい。

 お菓子とジュースもあるよ♪ 女性や子供も大歓迎です♪♪

 コップとお皿をお配りします!


 ~中央ヤグラ舞台演目(五時より開始)~

 王宮美少女メイド隊の合唱

 王宮美人侍女隊の合唱

 王宮キャリア女官のマジック

 王宮親衛隊美形騎士による剣舞

 王宮覆面くのいちの手裏剣投げと軽業

 高級遊郭売れっ子遊女たちの舞踊

 王宮楽団によるラッパと太鼓演奏

 絶世の美女!ジュスティーヌ王女殿下の御挨拶と御歌

 マルクス伯爵vs凶暴イノシシの死闘(イノシシ肉はその場で調理します)

 その他多数出演交渉中。国王陛下もビックリ!

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 普段は絶対にしないのだが、一読したスレット社長は、思ったことをつい口に出してしまった。

「こんなものを掲示して、捕縛されないでしょうか?」

 レオンは、懐からなにやら印章を取り出して笑いながら言う。

「逆ですよ。王宮から掲示印を持ってきましたので、掲示期間内に捨てたら逮捕されます。まあ、そんなことで捕まえたりしませんけどね。ハンコを捺しましょう」

 ペッタン!

 娘のリーリアが、屈託なくクスクス笑っている。王宮勤めで住む世界が変わってしまったのだろうか?

「伯爵様ったら、おかしーい。板を集めてきますねっ。いきましょ、キャトウさん!」

 頼みの綱の娘は、シャム猫侍女を連れて板を探しに行ってしまった。

「あと、酒を運ぶ大八車と篝火に会場整理ですかね。建設会社にお願いするのが一番良いかなと思いまして。是非とも!」

 この伯爵は、腰は低いがグイグイ押してくる。スレット社長は、初期ブルジョアジーの勤勉さを有し、時には現場に入って作業員に混じって働くほど気が若かった。それに、こういう面白そうなことは大好きだ。もちろんブルジョアの習性として、この若い有力者に取り入ることが将来の利益に繋がるとも計算した。

「やらせていただきましょう!」

「おぉ! 引き受けていただけると信じていました。して、いかほどお支払いすれば?」

 スレット社長にも、見当がつかない。

「⋯⋯⋯⋯ここはお近づきのしるしとして、今回は無料とさせて⋯⋯」

 異世界でも権力と資本は癒着する⋯。それはロクなことにならないだろう。お断りすることにした。

「それは、いけません。お払いします」

 レオンは、キャトウとスレットちゃんと三人で大汗をかいて運んできた袋を、ドンとテーブルに置いた。

「金貨で一億ニーゼ入ってます。カネはできるだけ振る舞い酒に使いたいので、建築物はなるべくこの予算内でお願いします。もし不足したらまた持ってきますので、ご連絡下さい」


 披露宴まで六日しかない。

 貴族披露宴担当のアリーヌと民衆大宴会を担当したレオンは、それぞれ文字通り駆け回った。スレット建設の人たちも、社長を先頭に頑張ってくれた。

 例の板の掲示を見た王都民は、最初こそ半信半疑だった。普段は王宮親衛隊騎士が目を光らせていて近寄りがたい王宮前広場に、ヤグラが立ったりでっかいキャンプファイヤーの準備ができてくるのを見て、ようやくタダ酒が飲めることを納得した。とりわけ山と積み上げられた酒樽は、効果的だった。


 いよいよ披露宴当日。朝からレオンは、三人侍女に裸に剥かれ風呂に入れられた。「あまりにキタナイと姫様が恥をかきますっ」とか言って、まるで犬洗いだ。三人掛かりでデッキブラシみたいな道具やタワシで手荒く擦りまくる。

「いてて! おまえら、若い娘のクセに男の裸を見て、なんとも思わないのかよー。いてえよっ! もっと優しくしろっ!」

 アリーヌ・キツネ侍女

「きたならしい! 騙されてしまった姫様が、おかわいそうです」

 マリアンヌ・タヌキ侍女

「あまり見たいものでは、ありませんわね。フフッ」

 キャトウ・シャム猫侍女

「あははっ! コチョコチョ~!」

「ブァッハッハハハハ! やめれっ!」

 忌々しいので、見せてビビらせてやろうと素っ裸で立ち上がった。

「あはははは! ちっちゃ~い!」

「! 失礼だな! ちっちゃくねーよ! 普通ぐらいだよ! だれと比べてんだ。おい、キャトウ!」

「王宮侍女は、モテますのよ~ん」

「はっ、侍女が保安部の保護観察下にあるのを知らねーな? おまえは処女だぁ。不細工!」

「あっ! ひどいーっ!」

「もうっ! キタナイものをブラブラさせないで下さいっ! けがらわしいっ!」

「男には、だれにでもついてるんだよっ。バカ!」

「でも、フケツですからさわりたくありませんわ。ご自分でお洗いになって下さいませ」

「あはっ! 洗いますよ~。えいっ!」

 バシャ!

「あちっ!! なにしやがる! ヤケドしたらジュスティーヌが悲しむだろっ!」

「姫様は、そんなことで悲しみませんっ! 侮辱しないで下さいっ!」

「夫婦なんだから悲しむんだよっ。いてっ! イテテテ! もっと優しくこすれよっ!」

 ゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシ⋯⋯!

 最後にアタマからお湯をぶっかけられ、腕を掴まれて湯船から引きずり出され、目の粗い布で手荒くふかれて、妙な匂いのする液を塗りつけられた。

「くせえっっ! なんだ?なんだ? この果物の腐った臭いは?」

「はいはい。分かりましたから、この服を着て下さい。早く! 早くっ!」

 ヘンテコリンな白い服を着せられた。

「こんなバカみたいな服、着たくない!」

 平民出身なのに貴族女にしか見えないマリアンヌがあやしてくる。

「大丈夫ですわ。少しも恥ずかしくありません。その服をお召しになって、しばらく立っていて下さいませ。ねっ?」

「マリアンヌが、みつけてきてくれたのです。安くてたすかりました」

「あはっ! 中古ですよ~」

 仮にも王族の結婚式で古着とは、前代未聞だろう。侍女どもは、レオンにかけるカネをなるたけ削って、浮いた分でジュスティーヌを飾り立てるつもりらしい。

 早朝から風呂にブチ込まれてコスりたてられ、げんなりしたレオンを置いて、三人侍女は用が済んだとばかりジュスティーヌの所へ行ってしまった。

 数時間放置され、昼過ぎにジュスティーヌが連れられてきた。白く清楚に見えるドレスに青い宝石がちりばめられ、レオンのような男が見てもえらくカネがかかった装いだと分かる。

「へぇ。⋯⋯やあ、きれいだなぁ」

 頬がポッとなるジュスティーヌ。大得意なアリーヌ侍女。

「さあ、高貴な方々をお迎えしますよ」

 

 貴族たちは、到着するたびに今日はまたひときわ美しいジュスティーヌ第三王女に丁寧に挨拶し、珍獣レオンに対してはぎこちなく挨拶をして、そそくさと入場していった。

 ジュスティーヌの後ろに控えていたアリーヌは、訪れる貴族たちの顔ぶれに最初は小さな違和感を持った。一時間もすると違和感は確信に変わり、イヤな冷や汗が流れてきた。「これは、わざとだわ。こんな無茶なことをする人は、この世に一人しかいない⋯⋯。なんてことを⋯」。

 アリーヌは、チラリとレオンを見た。すずしい顔をしてどこかの貴族と挨拶をしている。ジュスティーヌ姫様は、いつも通りお美しいけども⋯⋯。これはいけません。少し間があいた時に小声でたずねた。

「あの、招待客の名簿をつくられたのは?」

 横で聞いていたレオンが、半笑いしながら答えた。

「オレとジュスティーヌだよ。どーした? なにか?」

「まさか! これはひどすぎます。姫様っ!」

 普段は清純派のジュスティーヌが、艶然と微笑みながら言い放った。

「良いではありませんか。旦那様のおっしゃる通りにしていれば、なんの問題もありません。うふふ」

 そんなジュスティーヌを眺め、ニヤニヤしながらレオンが言う。

「宣戦布告だ。面白いよなあ」

 十年以上のつきあいでありながら、初めてこんなジュスティーヌを見たアリーヌは、たじろいだ。「これほどまでに、この男に毒されてしまわれたのですか?」。

「でっ、でも、千人もいらっしゃるのに。これでは、あまりにも⋯⋯。国王陛下のお叱りを受けてしまいます」

 元々は平民だったマリアンヌ侍女とキャトウ侍女が、生粋の貴族であるアリーヌのうろたえぶりを不思議そうに見ている。

 出迎えタイムが終わり、二人は会場に入った。バージンロードのような道を通り、品の良い拍手に迎えられ揃って演台にあがる。ジュスティーヌだけが、にこやかに礼の言葉を述べた。レオンはつっ立っている。それから二人は会場を歩き回り、寄ってくる貴族たちから祝いの言葉を受けた。レオンは、こんな場ではなんの役にも立たない。美女に連れ回される熊に似ていた。

『フランセワ王家の白薔薇』と讃えられ、美女の中の美女。美しく優しくたおやかな理想の王女と見られていたジュスティーヌだ。しかし、子供の頃からジュスティーヌを見ていた廷臣たちは知っていた。この女性は、美しく賢いだけではない。内面に気性の激しさと並外れた度胸の良さを隠し持っている。

 その気性のせいで王宮を抜け出したあげく自分を襲った野盗に包丁で反撃し、顔に怪我する羽目になった。それに父王と母王妃だけは気づいていたが、ジュスティーヌは内面に自己破壊の欲求のようなものを抱えていた。そうでなければ殺されるに決まっているのに、野盗に切りかかるようなマネができるはずがない。

 フランセワ王家は、外国王家と婚姻を結ばず、国内の大貴族家とも縁付かない政策をとった。他国の干渉や有力な外戚をつくることを嫌ったからだ。血統正しいが政治的野心の持ちようのないような小貴族家から王妃を迎えたり王女を降嫁させたりである。

 第一王女は、蘭の品種改良に人生を捧げている公爵と結婚し、同時に王籍を抜いている。レオンが立ち話でメンデルの法則を教えたら、夫妻で身体をふるわせるほど興奮し、披露宴を抜け出してそのまま領地の蘭のところに帰ってしまった。

 第二王女も王籍を抜き、紫外線やら赤外線やらの研究に没頭している学者侯爵に降嫁した。この侯爵夫妻にも、光は波の性質を持つ粒子で『光波』を伝えるとされる仮想物質の『エーテル』など存在しないと教えたら、驚愕してどこかの部屋に引きこもり微積分の計算をはじめた。ニュートン物理学では宇宙の原理は解けないけど、言わんでおこう。E = mc² を教えたらマズいだろう。いつか原子爆弾をつくるやつがでるかもしれない。⋯そういえば女神だった時に原爆を炸裂させたっけ。


 ジュスティーヌが男だったらと、父王は何度思ったかしれない。あまりにも賢く行動力があるので、危なくて外国王家には嫁にやれない。フランセワの貴族家に降嫁させたら、有力貴族を集めてたちまち王家に並ぶ貴族閥をつくってしまうだろう。田舎小貴族の出身で剣の達人だが単純で粗暴なだけ⋯で政治的野心が無い⋯ように見えるレオン・ド・マルクスは、ジュスティーヌを抑えられる理想の結婚相手に見えた⋯が⋯⋯⋯野心が無いどころかジュスティーヌを煽り立て、貴族階級を滅ぼす気満々だ。

 ジュスティーヌがレオンを愛したのは、⋯まぁ、ホレたハレたは理屈ではないのだろうが⋯⋯容姿や性格が好みだったと同様に、レオンの暴力性と創造性に強烈に惹かれ、レオンの持つ知恵が自分よりずっと勝っていると実感したことが大きい。それまでジュスティーヌは、自分より優れていると思える人に出会ったことがなかった。

 王女たちには、五十人もの女性騎士団が分担して護衛につく。下位貴族か騎士階級の出身で、女だてらに騎士になろうというくらいだから、みんな快活な元気娘だ。そんな女性騎士に囲まれて育つ王女たちは、大貴族家の深窓令嬢よりよほど活発に成長する。特に乗馬は達人レベルだ。いざという時に逃げのびてフランセワ王家の血筋を残さねばならないと、徹底的に仕込まれる。スーパーカーみたいな名馬にまたがり、女性騎士団を先導して馬場を駆け回った。

 なのに『淑女の中の淑女』として常に王女の振る舞いをしなければならないことは、フランセワ王家の娘たちにとって苦役でしかない。第一王女と第二王女は、結婚を期に王籍を抜いて王宮から逃げ出してしまった。おかげで第三王女のジュスティーヌに王女仕事が回ってきたのだが、とうとう二年で我慢の限界に達し、家出騒動を起こした。


 レオンにとって無意味としか思えない貴族連中との時間が過ぎ、いよいよ五時から平民大宴会だ。主役のレオンは、貴族たちの披露宴をチョロリと抜け出して、王宮前広場の中央に建てた五メートルほどのヤグラのハシゴを登った。セレンティアには実用的な電気機械はないが、振動を増幅する性質を持つ鉱石を利用した拡声器がある。

「あーあー。レオン・マルクスだ」

 十万人近い群集の注目が集まる。

 ざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわ⋯⋯

 わいのわいのわいのわいわいわいわいわいわい⋯⋯


「みんな、オレとジュスティーヌの結婚祝いにきてくれて、ありがとー! 大いに飲み食いして楽しんでいってくれ。酒樽を開けろーっ!」

 !

 わ──────────────────っ!

 パチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチ!


 スレット建設の人たちが木槌で酒樽を蓋を叩き割り、待ちかねた皆さんが樽にドンブリやコップを突っ込んで呑み始めた。よしよし。

 王宮楽団から引き抜いた太鼓とシンバルとラッパの楽士が、景気良くて楽しげな音楽をガンガン鳴らし、キャンプファイヤーを十倍大きくしたような焚き火がガンガン燃え上がっている。

 ヤグラから降りると、交代で遊廓から連れてきた遊女たちが登って舞い踊りを始めた。王宮メイドの女の子たちも総出で豚汁をすくったり肉を焼いたり子供に菓子を配ったりと、クルクルと会場を駆け回って大忙しだ。

 満足したレオンが王宮に駆け戻ると、アリーヌに「なにしてたんですかっ!」と、背中をどやしつけられた。再びジュスティーヌの隣について回ったが、貴族どもの相手は、なんともつまらない⋯⋯。なんの役にも立たない宮廷社交に、「よくこの女がこんな不毛なことを十九年も続けてこられたな」と、ジュスティーヌの忍耐力に感心した。

 能無しにボンヤリしているレオンを遠目で眺めると、白い服を着た信楽焼の狸にも似ていた。『フランセワ王国の白薔薇』とよばれる北欧モデルみたいな容姿のジュスティーヌと並ぶと、滑稽にすら見える。

 政略結婚ではなく、むしろジュスティーヌからレオンに近づいたことは、社交界で話のタネになっており、颯爽とした美貌のジュスティーヌの後をノソノソと嫌そうについていくレオンの姿に多くの貴族は首をひねった。

 王宮メイドの女の子が、トテトテトテと早歩きでやってきた。広い会場に白い服を着ているのは新郎新婦の二人だけなので、すぐに見つけられる。大あわてでレオンに耳打ちする。

「なにっ! 酒が無くなったっ!?」

 驚愕したレオンが両手に酒瓶をひっ掴んで会場を飛び出し、平民大宴会場の王宮前広場に駆けつけた。スレット社長が飛んでくる。

「この人数を見て下さい! 十万人を超えてます」

「あ~、五万人分じゃ足りなかったか~」

 仕事が終わり車座になって呑んでいたスレット建設の作業員に召集がかけられた。

「急ぎで悪いっ。大八車を転がして酒問屋に行ってくれ! あるだけ酒を仕入れてこいや。店が閉まってたら、いいから扉を破って持ってこい! 代金は王宮で払う。店主が騒ぎたてるようなら、縛りあげて酒といっしょに連れてこーいっ!」

 ムチャクチャなことを言うが、酒が入っているスレット建設社員は、大いに面白がった。

「悪いなぁ。こいつで元気つけてくれ」とか言いながら、作業員のどんぶりに貴族披露宴会場から持ち出した超高級酒を注いで回る。超高級酒を体内に注入され更にやる気が出た大八車隊が、もの凄い勢いで出動する。

 食い物も無くなりかけている。せっかく来てくれた民衆を飢えさせるわけにはいかない! 披露宴会場のお貴族サマたちは、お上品だからほとんど食事に手をつけていない。そいつをいただくことにした。アイドルみたいに可愛らしい王宮メイドちゃんたちを会場に派遣し、かけ声を合わせてテーブルごと食事を外に持ち出した。

「すごいぞ! 見たこともない王宮料理の上物だっ」。お客さんが殺到して、テーブルがいくつもひっくり返る騒ぎになった。カラになったテーブルは、置く場所がないので巨大焚き火に放り込んで景気よく片端から焼いてしまう。メイドちゃんたちが、キャッキャッと面白がっている。

 意外に早く酒を満載した大八車隊が帰還してきた。先頭の大八車に酒問屋の店主が乗せられている。縛られては、いなかった。

「おー! ありがとー! 手数をかけるが、酒を配ってくれー」

 そのまま店主を捕まえて王宮に引っ張って行った。入口でつまらなそうにしている王宮親衛隊騎士たちにも、大八車からぶら下げてきたでっかい酒壷を渡す。

「お疲れー! そら、祝い酒だ。みんなで呑みな」

「はっ! ありがとうございます。伯爵閣下!」

 騎士たちの「伯爵閣下!」という言葉にギョッとしたうえに、平民立ち入り禁止の城内に連れ込まれ目を白黒させている店主を、「ここが会計係なんじゃないかなぁ?」とレオンが目星をつけていた部屋まで連れて行く。

「すいませーん。ここで一番偉い人を連れてきて下さい。支払いお願いしますっ!」

 どこかで見た顔の眼鏡の男が出てきた。

「これはマルクス伯爵。ご結婚おめでとうございます」

「ども、ありがとうございます。実は酒が足りなくなりまして、追加注文しました。代金を払って下さい。はい、請求書です」

「はあ⋯⋯。えっ! 三億ニーゼぇ? ちょ、ちょっと待って下さい。⋯国王陛下はご存知なのですか?」

「あとで言っときます。まだ請求書がきますんで、そっちも払っといて下さい」

「こんな大金を⋯急に言われましても⋯困ります。宮廷費は陛下の決裁がないと⋯⋯」

「もう呑んじまいましたから、払えないってわけにはいかないよ~。困ったなぁ⋯⋯。国王陛下を連れてくればいいですか? 披露宴に来られるとか言ってたなあ。ちょっと待ってて下さい」

 眼鏡の役人と店主の顔色が青くなった。

「まままま、お待ち下さい!」

「こっ国王陛下など、そんな!」

「だったら、三億くらいポーンと払って下さいよう。まあ、ちょっと呼んできます」

 ガッ!

 眼鏡役人に腕をつかまれた。

「⋯⋯お待ち下さい。王室手形で支払い予約します。マルクス伯爵っ。副署していただきますが、よろしいですねっ?」

「???はい? はいはい、イイですよ。なあに、いざとなればジュスティーヌの持ってる宝石を売り飛ばせば、三億くらいには⋯⋯」

 役人がのけぞった。

「ジュスティーヌ王女殿下の⋯⋯」


 王宮から出ると、店主はヨタヨタと駆けて逃げていってしまった。酔って出来あがった十数万人に「オメデトーございまーす」などと揉みくちゃにされながら王宮前広場の真ん中に立てたヤグラに着くと、ちょうど侍女合唱団が歌い終わってハシゴで降りてくるところだった。「はくしゃくー! パンツ見ないでくださーい!」なんて言っている。

 王宮侍女といっても男爵家の三女あたりや妾の子は、子供時代は平民と一緒に路地で遊んでたりして意外に庶民的だ。バイト経験もあったりして、ご令嬢な高位貴族娘よりも、よほど仕事ができたりする。なので、実力本位の王宮侍女によく合格する。

 こんな民衆派侍女はけっこういて、令嬢侍女派閥と対立している。ちなみにアリーヌ侍女は、令嬢派侍女の筆頭格らしい。なのに主人のレオンは、民衆派侍女たちと仲が良くて、頼み込んで合唱をやってもらった。

 青果市場のセリ場から連れてきた囃し手が、鉱石拡声器で実況中継をしている。

「さ~、つぎはいよいよ新郎のマルクス伯爵のご登場です! 王女さまを襲った野盗の群れを三十人も斬り殺し、執念深く王女さまを狙った暗殺団の刺客を十人も血祭りにあげた剣の達人っ! この伯爵閣下に王女さまがひと目惚れなさるのも無理はございません。おめでとうございます! この度のご成婚と相成ったのであります。皆さんのお口に入っている美味し~いモノも、代金はマルクス伯爵閣下のポケットからでております。マルクス伯爵! レオン・ド・マルクス伯爵です! このマルクス伯爵閣下が、これから皆さんの目の前で凶暴なイノシシと対決いたします! 単身白刃を振るって伯爵がイノシシを屠った暁には、皆さん胃袋にお肉が入るという寸法です! さー! マルクス伯爵です! マルクス伯爵どーぞぉ!」

「あぁ、オレの番なのか」と、腰に大小二本をブチ込んで、ハシゴを登った。ヤグラの上は案外広く縦横五メートル以上はある。

 原始的なクレーンでヤグラに持ち上げられた檻の中で、百五十キロもある巨大イノシシが唸って怒り狂っている。レオンは対イノシシ戦用の大剣を抜いた。

「抜いたーっ! レオン・マルクス伯爵が、いーよいよ大剣を抜き放ちましたっ! 凶暴な巨大イノシシは、檻の中で口から泡を吹き暴れ狂っています。この狭いヤグラに逃げ場はありません! さぁ、檻の扉を引き上げます。無事にイノシシ肉は、私たちの口に入るのでしょうか? それともっ! 恐ろしい血の惨劇を目撃することになるのでしょうかっ?」

 十数万人の群衆は、もう総立ちだ。

 ワ──────────────────ッ!!!


 そこで足元から澄んだ声が聞こえてきた。

「フフフ⋯⋯。レオン・マルクス。楽しませてもらうわよ。でも、下民が多くて少し臭いわね。騎士に命じて退かせなさい」

 見ると赤いドレスの貴族女が、侍女を十人も引き連れ、平民を押しのけて最前の一番良い場所に陣取っている。


 ──────────────────


 なんだぁ、あのオンナは? うぜえな。平民の人気取りのために、こんなことをやってるのに、台無しになるだろうが!

 うっかり気を逸らしていると、扉が開き牙をガチガチ鳴らしながら百五十キロのイノシシが突進してきた。ビックリした民衆が、叫んだり怒鳴ったりしている。 

 ウワワ──────────────ッ!!


 ヒョイと横に避けて、剣を思い切り斬り下ろしてやった。盛大に血を噴き出し、イノ首がスッテンコロリン転がり落ちた。

 ウオ───────────────ッ!!!


 血まみれの剣を高々と掲げると、群衆大熱狂。大喜び!

 二頭目のイノシシが上がってきた。今度のイノは、賢かった。扉が開いても突進せず、ジリジリと間合いを詰めてくる。じゃあ、こっちから行くぜっ! 剣を突き出して、体当たりするように、思い切りイノシシの脳天に突っ込んだ。イノ眉間に剣が突き通る。

 イノシシは、もんどりうってのた打ち回った。群衆から「殺せぇ!」とか叫び声が聞こえる。言われるまでもないぞぉ。

「おらぁ! おとなしくくたばって豚汁になれぇ!」

 再び上段から首を叩き落とした。

 ウオォォ──────────────ッ!!!


 首無しイノシシをヤグラから蹴落とすと、凄まじい地響きをたてて地面に激突した。

 ドゴ───────ン!

 四方から子供たちが駆け寄ってきて、背中に登ったりしている。

「マルクス伯爵、巨大凶暴イノシシ二頭をアッという間に倒しました! さー、いよいよ最後の真打ちです。数年に一度捕獲されるかどうかという二百キロを超えるスーパーイノシシが、マルクス伯爵に立ちふさがります! あっあー、⋯⋯ちょっとお待ち下さい。イノシシがあまりにも重すぎて、なかなか持ち上がりません。もうしばらく、もーしばらくお待ち下さいっ」

 さっきの赤ドレス女の方をみると、王宮親衛隊騎士たちが平民たちを追い払おうとしている! ヤグラに落ちていたイノシシの牙を拾って騎士たちに投げつけた。

「こらあ! ここは平民の宴会場だぁ! その女どもをつまみ出せっ!」

 見知った顔の騎士たちが困惑している。お高い侍女どもが騒ぎ出した。

「この方をどなたと⋯⋯」

「無礼者っ!」

「謝罪なさい」

「下民などと一緒にするなど⋯⋯」

 うるせえなあぁぁぁぁぁ⋯⋯。最初にぶっ殺したイノシシの腹を剣で裂いて内臓に手を突っ込み、まだホカホカしている腸を引きずり出した。何本も切り出して、ヤグラの上から侍女どもに投げつけてやる。

「おらっ、貴族女がっ。おまえらこそ、うせろっ! どけぇー!」

 一メートルほどの腸が足下に飛んできて、地面にぶつかりはずんで躍り上がる。「キャーッ」「ひいい!」。十人もいた侍女どもが逃げ散った。腰を抜かし、這って逃げてるやつもいる。

「ワーッハハハハハ! おらおらおらおらおらぁ! これでも食らえー! ハハハハハ!」

 二度と戻ってくる気にならないように、イノシシ腸を背中にぶっつけてやった。襟巻きみたいに首回りに腸がへばりついた侍女などは、金切り声をあげて地面に転がりまわり、酒の入った平民が遠巻きに囲んでゲタゲタ笑っている。

 興が乗ってきたので、足元に転がっていたイノシシの首を掴んで振り回し、勢いをつけて巨大焚き火に投げ込んだ。ボン! 頭蓋骨が破裂した音がして、ものすごい火の粉が舞い上がる。

「おらおら、もう一丁! 失せろーっ!」

 ヒュ───────ン⋯⋯。ボンッ!!

「お貴族サマは、だれに食わせてもらってると思ってんだよおっ。平民の方が偉えんだよ!」


 どよどよどよどよどよどよどよどよ⋯⋯


 生まれて初めて聞いた危険思想に、平民たちは、どよめいた。

「ワハハハハ! そらぁ、祭りだーっ! 貴夫人と令嬢を犯せーっ!」

 どっ! ゲラゲラゲラ! いいぞー! ワ────ッ!

 パチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチ!


 見ると「犯せ!」とか言われて恐怖した侍女どもは逃散したのに、赤ドレス女だけその場を動いていない。

 ふはははははははは!

 腰が抜けたかあ? 目障りなので、腸を引っ張り出してハラワタがはみ出たイノシシの死体を引きずって、鼻先に蹴り落としてやった。

 ドゴン! ベシャッ! ボギョン!


 骨が砕ける音がする。

 落下の衝撃で内臓が飛び出し、一面血の海だ。赤ドレス女は⋯⋯青い顔をして、コッチをにらんでやがらぁ。

「いいか、これは平民の祭りだ。平民と一緒に見るか、失せるかどっちかにしろ。平民を退かすなど、このレオン・マルクスが許さんっ!」

 赤ドレス女は、「ハンッ」と高慢に笑った。

「わたくしを、誰だと思っているのですか」

「知っとるよ。ジュスティーヌの妹だろ」

「フランセワ王国第四王女、ジュリエット・ド・フランセワです」

 お高い小娘がよぅ。恐れ入るとでも思ったか? 笑わせんな。

「ははっ! オレは第三王女の旦那で、ここはオレの宴会場で、オレと平民の祭りだ。頭からイノシシの血をぶっかけられたくなかったら、おとなしく隅に引っ込んでなー! はーははははは!」


 小娘相手にバカなことをしているうちに、最後のイノシシが来た。

「いよいよです! いよいよ二百キロのスーパーモンスターイノシシが、ヤグラの上にとーちゃくいたしましたっ。この小山のような怪物に、マルクス伯爵はどう挑むのでしょうかぁ!」

 あ、デカい⋯⋯。イノシシというよりサイみたいだ。ヤバそうな気配だが、扉が開いてしまった。口からアブクを吹いて狂人みたいな目をしたスーパーモンスターイノシシが、突進してきた。横に避けて、思い切って剣をイノシシ首に振り下ろした。

 ガィ───────────ンッッ

 剣がはじかれ、手から離れすっ飛んでいく。

 うわあ──────────────────っ!


 群衆が総立ちになった。イノシシは泥浴びをして、固まった泥が鎧みたいになっていたりすると聞いたことがある。どうやらそいつらしい。銃弾も跳ね返すとか。

「大変なことになりました! 剣を失ったマルクス伯爵は、このまま巨大イノシシの牙にかかってしまうのでしょうかっ? 牙を鳴らした凶暴なイノシシが、マルクス伯爵に迫っています! アブなーいっ!」

 脇差しを抜き、床に膝をつけた。刃を上に向け、腕を降ろし床ギリギリの高さの下段に剣を構える。

 ブガァァ────────────ッ!

 突進してきた大イノシシの喉を、下から斬り上げた。案の定、喉だったら刃が通る。凄まじい勢いで血が降ってきた。

 ブシャアアアアァァァァ⋯⋯

 酔っ払いのようになってよろめいている大イノシシの眼窩を、思い切り剣で貫いた。脳を破壊してトドメを刺すために、力まかせにグリグリと剣先をえぐって頭蓋骨の中をかき回してやる。

 なかなか手間がかかったが、大イノシシのクビを切り取った。三十キロ以上ある頭を剣先にブッ刺して群衆の前で掲げて見せる。拍手!拍手!大拍手!

 ワ──────────────────ッ!

 パチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチ!

 ワアアアアア───────────────ッ!!!


 ヤグラから降りると、出番が次で待機していた王宮メイドの合唱団の女の子たちが、「ひっ!」と悲鳴をあげ後ずさりしたり、なかには走って逃げ去る子までいる。頭から血を浴びた姿で巨大イノ頭を剣に刺してぶら下げているのだから当然か。

 逆にガキどもが、目を輝かせて寄ってきた。「スゲー!」とか「カッコいい!」とか言いながら、イノ頭を見ている。「オラァ!」とわめきながらイノ頭を持ってガキどもを追いかけ回し、しばらく遊んでから「やるよ」と、イノ頭を地面に転がしてやった。子供たちが群がって、御輿のように担いで駆け回っている。

 メイドちゃんたちに頼んで披露宴会場から持ち出してきた菓子を、イノシシで遊んでいるガキどもに配ってやる。セレンティアでは、砂糖やミルクがやけに高価だ。酒も高価い。菓子一個が三千ニーゼくらいはする。平民の平均月収が三万ニーゼに届かないくらいだから、普通は口に入らない。物怖じしない見どころありそうなガキどもに二百個ばかり配り、ガキを相手にひと演説ぶった。

「ガキども、きけ! いいか、菓子の包み紙は大切に取っとけよ。困ったことがあったら、それを持って王宮のレオン・マルクスを訪ねて来いっ! 相談にのるぞ。いいな? 忘れんなよ」

 もちろん慈善事業ではない。血刀にイノ頭をぶっ刺して下げた血だらけ男が面白くて寄ってくる度胸のある悪ガキは、なかなか見込みがある。訪ねてきたら、オレが組織する予定の革命軍に入れるのだー!

「皆さまーっ! 巨大イノシシが、よーやく片付きましたー。すぐに豚汁になって、皆さまの胃袋にお邪魔いたします! さあ次は王宮の妖精、王宮メイド娘コーラス隊の合唱でございます。どーぞ、お聴き下さいぃ!」

 王宮侍女はモデルっぽく見え、王宮メイドはアイドルっぽい。

「こんばんわーっ! 王宮メイド娘コーラス隊でぇーす(揃ってお辞儀)。今夜は、レオン・ド・マルクス伯爵さまとぉ、ジュスティーヌ・ド・フランセワ王女さまのぉ、結婚お祝い会にきて下さってぇ、ありがとうございまーす♡」

(全員で声を合わせて)「ありがとーございまぁーすっ♡」

 殺伐としたイノシシ殺しの後に可愛い女の子の集団が出てきたので、みんな喜んだ。

 パチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチ!


「恥ずかしいけどぉ、いっしょうけんめい歌いますっ! マルクス伯爵さまの作詞で、『フランセワのマルセイエーズ』ですっ!

 元々は革命歌で、フランス国歌の『ラ・マルセイエーズ』の共産主義版『共産主義者のマルセイエーズ』の歌詞を、ちょっと変えてみた。市民革命を賛美した曲なので、フランセワ王国のような専制君主国家では危険思想の部類だが、貴族はみんな王宮内にいるので気がつかない。

 キレーな王宮音楽ならメイド仕事中にたまに聞こえてくるけれど、こんなイケイケで好戦的な曲は聴いたことがない。王宮メイド娘コーラス隊は、張り切った。


♪いざ民衆の子らよ 剣を取り立ち上がれ

♪自由はわが旗じるし わが聖なる力

♪戦いに赴く者 自ら血を流す者よ

♪真紅の旗ひるがえし 隊伍を進めよ

♪われらに 勝利の夜明け

♪断て鎖を 取れ武器を

♪血潮の軍旗 いざ進め 世界をわれらに


♪われらは燃ゆる炎 圧制を砕く鎚

♪自由はわれらが命 われらの光

♪隷属を強いる者 労働を盗む者に

♪戦い決するため 武器を手に集え

♪奴隷の鎖を 断て

♪敵のかばね 踏んで進め

♪血染めの軍旗 わが腕に 世界をわれらに


 ワ────────────────ッ!


 大喝采だ!

 いいねえ。いいねぇ。セレンティア世界で、今度こそ世界革命を起こしてやるっ!


 思い出して赤ドレスのジュリエット第四王女の所に行ってみた。貴族が寄りつかないこんな場所に来たのは、たぶんオレに用事があるんだろう。

 イノシシの内臓爆撃で逃げ散った侍女たちが、戻ってきていた。オレの顔を見るなり青くなり、「ひっ!」となって後ずさる。

「よう、なんの用かな?」

 ジュリエット王女は、どこからか持ってきたらしい椅子から立ち上がり、不快そうににらんできた。

「剣をしまいなさい。無礼でしょう」

 気がつくとイノシシにぶっ刺していた血まみれ剣を、肩にのっけてトントンやっていた。道理で民衆にまで避けられていると思った。血だらけのこんな様子で、人がそばに寄ってくるわけがない。

「これは失礼。すっかり忘れてたぜぇ」

 侍女どもが、いっせいにさえずり始めた。

「無礼者!」

「恥を知りなさい!」

「不作法にもほどがあります」

「この方をどなただと思っているのですか?」

「これだから成り上がり者はっ」

 うるせえなぁぁ⋯⋯。地面に落ちていたイノシシ内臓を剣先に突き刺して、金切り声を張り上げてる女どもに放ってやった。「ほーれ」。「ギャア!」。再び侍女たちは、主人を捨てて逃げていく。

「ふははははは! 不忠者め~」

 義妹にあたるジュリエット第四王女を間近で見るのは初めてだ。

 へぇぇ、これがジュスティーヌの妹かぁ。二歳違いの十七歳だったはず。たしかに顔は、似ている。比べると青緑の目の色は同じだが、金髪が少し赤みががっている。だれが見ても美人姉妹と納得するだろう。だが、表情が違う。この妹は、ジュスティーヌよりもはるかに表情に険がある。いささか性格が屈折しているようだ。女の化粧についてはよく分からないが、姉より濃いように感じた。それで真紅のドレスだ。白い服を好むジュスティーヌを、勝ち気で派手にした妹ってところか。

 さあて⋯、知性の方は、どうだろうか?

 剣を振って血を飛ばし、鞘に収めた。

「取り巻きは、追っ払ったぜっ⋯と。サシ⋯二人で話したかったんだろ?」

 機嫌が直ったように見えるジュリエットが、面白そうに笑みを浮かべて寄ってくる。

「あなた、見かけほど馬鹿ではないようね」

 おーおー、王女サマだからってエラそうだな。

「で、ご用件は?」

 しかし、ジュリエットの目は笑っていない。

「こんなところで平民風情と遊んでないで、あたしたちと楽しいことしましょうよ。あなたに会わせたい人がいるの」

 宮廷内の政争ですか? くだらねえ。コップの中の嵐なんぞに興味はないぞっと。オレがやりたいのは、『革命』なのだ。被支配階級が支配階級を打ち倒し、社会の構造を根底から組みかえる。政治革命から社会革命、文化革命へ! 単なる権力闘争とは、根本的に異なる。まあ、妹ちゃんは、貴族の陰謀政治でも楽しんでいてくれ。

「政治むきのことには、興味ありませんな」

 もちろんウソだが。⋯⋯ちょっと挑発してみようか。

「フランセワ王国で最も地位が高い王族が、それ以上を望むのは、贅沢というものですよ」

 ジュリエットの目が、ギラっと光ったように見えた。

「誰でもが知っているから言うけど、わたくしは娼婦の子よ。ジュスティーヌお姉さまのような、正妃の娘とは違うわ」

 みんな知ってる⋯? オレは、知らんかったがな。

「みな内心では、わたくしを軽蔑してるの。でも、あなたは⋯」

 贅沢な悩みですな。べつに軽蔑はしないが、くだらなさにあきれた。

 ジュリエットのような事情のある貴族は、実はかなりいる。フランセワ王国では、高級娼婦の地位は意外に高い。ちょっとパリの高級娼婦や吉原の花魁に似ている。金持ち貴族に身請けされて高級娼婦が側室になることは、結構ある。正室に子ができなければ、娼婦上がりの側室の子でも立派な跡とりだ。傷のジルベールも母親は元使用人で妾だとか聞いた。でも、嫡子が死んだせいで侯爵家の跡取りだ。

 ジュリエットに訊いてみようかね。

「目の前であなたを指さして、『売女の娘だ』とあざけったやつはいますか?」

 今まで頭の中にいる敵とだけ戦ってきたジュリエット王女は、一瞬たじろいだ。どうやら『売女』の意味は、かろうじて理解できたようだ。真っ赤になった。

「殺してやるわ。そのような者は」

 バカバカしいったらない。小娘のコンプレックスやルサンチマンに付き合ってるヒマはないぞ。

「フッ。父王陛下に『腹が立つやつを処罰してくれ』って、おねだりすればいいじゃないですか?」

「なっ! 無礼ね。たかが成り上がり伯爵風情が」

 そう言いながら、ずいっとジュリエットが近づいてきた。口に薄笑いを浮かべているが、やはり目は笑ってない。殴りにきたのかな? 殴り返したら死刑になるだろうか? ジュリエット王女は、顔を近づけてきた。

「本当にお姉さまとわたくしの好みの顔ね⋯。黒髪黒眼、無精ひげ、平均より少し背があって横幅が広い。洗練されない粗野な田舎貴族。⋯それに、暴力的で人殺し。素敵ね⋯素敵だわ⋯」

 スッと二の腕を掴まれた。目が潤んでいるようにも見える。おいおい⋯⋯。義妹と妙なことになって新婚早々にジュスティーヌを怒らせるのはマズい。

「わたくしの言う通りにしたら、きっと面白いわよ。ねえ⋯」

 言う通りになんかしねえよ。こいつ、姉を憎んでるのか?

「ジュスティーヌが、お嫌いですかね? よく似た姉妹に見えますがね」

 ジュリエットは、黙って、じ─────っとオレの目を見てくる。目をそらさずに見返してやる。

 ジ────────────ッ⋯⋯

「あなた、本当にお姉さまのことが好きなの?」

 この義妹は、痛いところを突っ込んできた。

「フフ⋯。結婚は王女の権力が目当てですよ。そんなことは、最初からジュスティーヌも承知でしょうよ。でも、結婚したら愛情を感じるようになりましたね。⋯執着は良くないんだけどな」

 キリスト教などと違って仏教では、『愛』を執着ととらえ解脱すべき苦の元と見る。


「アーッ! はくしゃくぅ! こんな所にいたーっ!」

 キャトウ侍女が、叫びながらこっちを指さして飛び跳ねながら走ってきた。妙な雰囲気だったが、邪魔が入った。

「国王陛下が、いらっしゃいましたー! 早く披露宴会場に来て下さいよーっ」

 さすがに王様を待たせたらマズい。「早く! 早くう!」と叫びながら向こうで飛び跳ねているキャトウを追って、ジュリエットから離れて王宮に向かう。

「それじゃあ。また!」

 キャトウが前を駆けながら言った。

「妹君と話してたんですかぁ? ジュスティーヌ様の耳に入りますよ~」


 途中、酔った民衆の皆さんに囲まれてお祝いを言われたりして、城にたどりつくまでちょっと手間がかかった。跳ね橋を渡って王宮入口に着くと、門番をしている親衛隊騎士がビクッと体を震わせ目を丸くして見ている? なんだぁ?

 王さまは、どこだ~?

 急ぎ足で会場に入ると貴族連中は、潮が引くようにサーッと離れていった。会場を見渡して、すぐにアリーヌ侍女を見つけた。侍女といっても長身美人の伯爵令嬢だ。それに王家担当は、なかなかエラいらしい。洗練された王家担当侍女礼服を着て、品の良いオバサンの案内をしていた。手を振ると、オレに気づいた。

 にこやかにしていたアリーヌは、どういうわけか目を丸くして顔色を変え、オバサンを放り出してコッチに飛んできた。オレに飛びついてガッと腕を掴むなり、引きずるように通用口から外に出される。

「なんて格好を、してるんですかぁぁぁ!」

「王様に会いにきたんだよ~。放せよ~」

 アリーヌのやつ、目を血走らせて爪を立てやがる。いてえ⋯。意外に力があるな。

「血だらけじゃないですかっ! また人を殺したんですかっ? マリアンヌさん、キャトウさん、来てちょうだい! ああっ! もうっ!」

 そう言えばイノシシをぶっ殺した時に、頭から噴水みたいな血を浴びたっけ。

「イノシシと戦ったんだ。平民とジュリエット王女にウケたぜ」

「イノシシ⋯? なんて馬鹿なことをっ! この血をなんとかしないと! もうっ!」

 マリアンヌが駆けつけてきた。

「これは⋯⋯ひどいですわね。あちらのおトイレで、水が使えますわ」

 キャトウも駆けてきた。

「うわ! よく見たら顔まで血で真っ赤じゃないですかー。これで王宮に入ったんですかぁ? すごいーぃ!」

「王様が待ってるんだよ。離せよう」

 アリーヌが振り返り、キッとにらんだ。目には涙を浮かべ身体を震わせている。

「こんな格好でっ、陛下にお会いできるわけないでしょっ! あああああっ、どうしましょう!」

 女便所に引き込まれ、バケツで水をぶっかけられた。三人掛かりでゴワゴワした布で顔や腕を手荒く拭かれる。ゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシ!

「いててっ! いてえよ! もっと優しく!」

 侍女三人娘、完全無視。

「礼服も血だらけだわ。キタナいぃ! もう、いやっ!」

 錯乱したのか、アリーヌが、オレの背中を両手で殴りはじめた。

 ポカポカポカポカポカポカポカポカポカ!


「あなたって人はっ、ジュスティーヌ様をっ、どこまで苦しめればっ、気が済むのですか? 恥を知りなさいっっ! 姫様を返せーっ! ううっうえっうえっうええぇぇぇ⋯⋯」

 あらら、泣き出しちゃったよ。でも、殴り続ける。

 ポカポカポカポカポカポカポカポカポカポカ!


「うっ、生臭い! ひどい血の臭いですわ」

「オレは香水なんか、つけないぞー」

「臭いは、どうしょうもないわ。でも、礼服がないのよ! どうしましょうっ。うわあぁん! 姫様を元に戻してっ! おまえに汚されてしまったのよーっ!」

 ポカポカポカポカポカポカポカポカポカポカ!


 なに言っとるんだ、この侍女は?

 いつの間にか外に出ていたキャトウが、飛び込んできた。

「親衛隊の騎士さんから借りてきましたよー! 礼服用マントでくるめば、服は見えませんよぉー!」

 白マントで巻かれたが、なんだかてるてる坊主みたいだ。

「⋯⋯これ以上は、どうしょうもないわね。すんっ、すんっ、すんっ」

「ええ、どうしょうもないですわね。これでなんとか⋯⋯」

「なんとかなりますよぉー。ケラケラケラ!」


 ──────────────────


 王様を、これ以上待たせるわけにはいかない。侍女たちの後について小走りで会場に入った。見るとジュスティーヌが、父王の話し相手をしている。さすがは生まれながらの王女。動じることなくにこやかに応対している。でも、夫婦になったからか、分かる。場をもたせるのにジュスティーヌの内心は、冷や汗まみれだ。

「ゼェゼェゼェ⋯、レオン・ド・マルクスです。遅ればせながら参上いたしました。本日の、ご御来臨⋯⋯きき、恐縮に存じます。あり、ありがとうございましたっ」

 王様に「遅れてゴメンナサイ」と言うわけにもいかないので、こんな口上になってしまう。妻になったジュスティーヌは、結婚したといっても王籍を抜いていないので、今も立派な王族だ。その夫であるレオンは、国王の娘婿という立場の継承権のない王族になる。でも、身分は妻のジュスティーヌの方がはるかに高い。

 家族扱いなので、跪礼はしなくてもよい。血縁でないのに国王に跪礼せずに許されるのは、レオン以外は王妃と王太子妃くらいだ。

「いけませんわ、レオン。お父様をあまりお待たせ⋯し⋯て⋯⋯えぇぇっ?」

 笑顔で取り繕おうと振り返ったジュスティーヌが、てるてる坊主のレオンを見て固まった。(なんて格好してるの!)と、元々大きな目がまん丸になる。アリーヌ第一侍女を、非難の目でチラリと見た。アリーヌも冷や汗ダラダラ状態だ。(あああぁ⋯⋯。これで精一杯だったのでございます。姫様ぁ)。

 公的な場では猫をかぶって常に完璧王女を演じてきたジュスティーヌのうろたえぶりを、父王は面白がっているようだ。

「ん? レオン、その格好はどうしたのだ?」

「はい。衣装が汚れたため、失礼がないようにマントをかぶりましたっ」

「なに? どうしたのだね?」

 父王は、レオンとのやり取りに興が乗って、ふざけている。今でこそ啓蒙専制君主といえるような賢王だが、若い頃は王宮を抜け出して遊び回ったり、高級娼婦を身請けしてジュリエット第四王女を産ませたりする一面のある人だ。

「いえ、イノシシと戦って斬り倒し、頭から血を浴びました」

 額に手を当ててうつむくジュスティーヌ。青ざめて思わず二歩ばかり後ずさり卒倒しそうなアリーヌ。吹き出しそうになってプルプルふるえているキャトウ。マリアンヌだけは澄まし顔だ。

「イノシシと戦った⋯⋯。結婚披露宴でか? どういうことなのだ?」

「宴会の余興に大イノシシを三頭ほど倒し、豚汁にして平民にふるまいました」

 国王陛下は、半笑いだ。(ジュスティーヌも妙な男と結婚したものだ)。


 レオン=新東嶺風は、大衆がマッチョな男が好きだということをよく知っていた。現代日本でプロレスラーの類が国会議員に当選するなんてことが起こるのも、非知性大衆、はっきり言えば愚民のそんな嗜好が現れた結果だろう。

 お高いはずの王族で貴族が、血煙とともにイノシシをぶった斬る見世物をして、見物人に豚汁と酒を振る舞う。⋯それは人気が出るだろう。大衆は血と暴力の見世物を好む。レオンはそんな大衆の愚かさを冷徹に見通し、その人気を取ることに腐心していた。


 国王は、若い頃を思い出したようだ。あのころ悪所で一緒に遊んだ取り巻き連中が、今はもっともらしくスマしている大臣・高官連だ。

「豚汁か⋯⋯。あれは美味なものであるな。また食したいものだ」

「まだありますので、すぐにお持ちしま⋯⋯いてっ!」

 ジュスティーヌとアリーヌが、同時にレオンの尻をつねった。

「レオ⋯我が夫は、田舎育ちで礼儀作法がまだ身についていないのです。あの、お父様。まことに⋯⋯」

 レオンは、「そんなにパパがコワいの?」とか言ってふざけたくなった。さすがにマズいだろう。どうにかこらえる。

「よい。それよりレオン。ワシのところに、こんな請求がきたのだが? 大蔵事務次官、あれを」

 眼鏡役人が紙切れを王様に渡した。王宮の会計係だと思ったら、意外にエラい人だったらしい。

「酒問屋などから王宮に、九億三千万ニーゼの請求がきている。ナニかねこれは?」

「はいっ。大量の平民が祝いにきたため、酒が足りなくなり追加注文したものです。もう酒が切れた、では情けないですから。女子供には菓子を配りました」

 国王は、庶民にとって酒や菓子がいかに貴重であるか知っていた。

「なんのために平民に酒を配ったのか?」

 分かっているだろうに⋯⋯。率直に述べることにした。

「王都民に王室の人気を高めるためです。祝いごとは良い機会なので、酒、食事、見世物を提供しました。王家に対する民衆の敬愛の念は、さらに増すはずです」

 ゴロツキ保守政治屋みたいなやり口だが、フランセワ王国の庶民の水準は、こんなものだ。まぁ、現代の日本も、そう変わらない。

 保守派貴族のアリーヌ侍女は、「なぜ王家が平民ごときの機嫌をとらないといけないのですか!」と叫びたかった。しかし国王陛下は、アリーヌより政治家だ。

「ふーむ。支出を承認する」

 まだまだレオンは、厚かましかった。ジュスティーヌと侍女たちは、ひやひやしている。

「お願いがあります。しばらく王宮に住まわせていただきたく。ご許可を下さい」

 国王は、眉をひそめた。

「なに? ジュスティーヌに屋敷が買えるほどの化粧料を渡しておいたはずだが?」

 レオンは、胸を張った。

「私が全部使いました!」

 王女暮らしでカネも見たことがなく金銭感覚の無いジュスティーヌが気づいた時には、もうレオンが下賜された二十億ニーゼを全額使ってしまっていた。アリーヌが真っ赤になって食ってかかったが、レオンは「資本の原始的蓄積を拒否したんだ」とか、わけの分からないことを言ってニヤニヤするばかりで、お話にもならない。

「お父様。レオ⋯いえ、わたくしは⋯⋯」

「ああ、ジュスティーヌ、よい。で、何に使ったのかね?」

「はい。貧民街に診療所を建てました」

 国王は、少々驚いた。セレンティアには、福祉の概念はない。

「診療所? なぜそんなところに病院を建てたのか?」

 レオン・ド・マルクスの前世は、『聖女マリア』であり、その前は『女神セレン』、さらにその前は過激派の『新東嶺風』だった。唯物論者でしかも神であったからこそ、物質的な力や現世利益の強さは、骨身にしみている。

「女神や聖女が今も敬われているのは、病気治しという現世利益を民衆に与えたからです。貧しい病人を無料で治療する診療所を建てることで、王家が女神や神殿に取って代わるのです」

 元女神としての本音だろう。女神セレン信者が聞いたら卒倒するようなおそろしく不信心なことを、平然と言い放った。敬虔な女神正教の信者である国王は、いささか意地悪な気分になった。

「運営費は、どう工面するつもりなのだ? ワシからは出さんぞ」

「年に何回か、貴族を招待して寄付金集めのパーティーを開く予定です。寄付額が多かった順に、名前と金額を書いた板を入口の目立つところに飾ります。貴族どもは見栄っぱりだから、集まりますよ~。慈善パーティーには、ジュスティーヌも協力してくれます」

 単純な剣術バカだと見ていたレオンの意外な知恵に、国王はちょっと驚いた。寄付金額と寄付者名を書いて目立つところに掲示するのは、日本の祭りではよく見かける。だが、セレンティアには無かったものだ。

「王宮管理官、『王族の間』以外にジュスティーヌ王女が住めそうな部屋はあるか?」

 王宮は五階建てで、最上階に『王族の間』や閣議室などがある。さすがに『王族の間』に、レオンのような男を住まわせる気にはならない。

「はっ。三階に、その⋯、客間が空いておりますが、王女殿下のお住まいには、ええ⋯、いささか手狭でございまして。寝室、居間、書斎、客間、それに侍女室の五部屋しかないような⋯⋯」

 レオンの元人格である新東嶺風は、四畳半の下宿と掘っ建て小屋みたいな団結小屋に住みついていた。書斎だけで二十畳もある王宮の客間は、広すぎて気持ち悪いくらいだ。

「ぜひ、そちらに」

 レオンが王宮に居住していたことが、後のクーデター事件で決定的な意味を持つことになる。

 さらにレオンは、要求していく。『要求』するのが好きなのは、左翼だからだろうか?

「ぜひ、私を王宮親衛隊に入隊させて下さい」

 レオン・マルクスは、言わずと知れた剣の達人だ。戦闘指揮官としても有能らしく、ジュスティーヌがルーマで暗殺団に襲われた際には、見事な指揮で敵を全滅させている。

「よかろう。親衛隊第四中隊の隊長が空いていたな。任命する」

「最後のお願いですが⋯⋯」

 まだあるのか⋯⋯。てるてる坊主の格好でグイグイ押してくるレオンに、国王は、いささか押されている。ジュスティーヌをはじめ周囲の者たちは、レオンの厚かましさにハラハラしっぱなしだ。

「王都民全員に、千ニーゼ程度の祝い酒と菓子を配ることを進言します」

 自分の結婚祝いに、百五十万人の王都民全員に酒をバラ撒けという。予算は十五億ニーゼ以上かかる。これは、結婚記念の枠を超えているだろう。「いくらなんでも無茶だ」と、周囲の者たちには思えた。ところが国王は真剣な顔をしてレオンに問うた。

「それほど緊迫していると考えておるのか?」

「いずれ時間の問題かと」

「うーむ」

 国王アンリ二世が命じた。

「レオンとジュスティーヌ以外の者は下がれ。レオンは、思うところを述べよ」

 近くに控えていた高官や侍従たちが、話の聞こえない所に離れていった。レオンがいいたいことを言い始める。王族の繋累でなければ、これほどの直言は無理だろう。

「私が王都にきて意外に思ったのは、王家と民衆の繋がりの細さでした。宴会会場の設営程度でも、個人的にメイドの女の子の伝手をたどってなんとかなったほどです。領主貴族どもは、自領内で徴税権、関税権、行政権、司法権、それに独自の軍事力などを握っていますが、やつらの真の強さは領民との幾世代にもわたる繋がりにあります」

「フランセワ王室も、領民⋯⋯王都民と積極的に繋がりを持てと言うのだな」

「陛下は、即位以来一貫して領主貴族どもの力を削ぐ政策をとってこられました。それは、もう限界に近づいてきたように思えます。しかし、権力を集中させ王権を強くしなければ、先に中央集権を果たした国が領主貴族を手先に使い、フランセワ王国は滅ぼされるでしょう」

「うむ・・・。だがな、おまえたちが、披露宴に領主貴族を一人たりとも招待しなかったことを、王家の総意とみられては困るのだ。今後は自重せよ」

「フランセワ王家は、すでに国土の七割、人口の八割を掌握しています。戦って負ける可能性はありません」

 国王が眉をひそめた。『ファルールの地獄』で殺し合いの悲惨さを目の当たりにしてきたアンリ二世は、レオンと違って戦争がひどく嫌いだった。

「王都民に結婚祝いの酒などを配る件は、許可する。事務次官!」

 大蔵省の眼鏡のアンちゃんがきた。会計係と間違えたら偉そうな官僚だった。

「今年の鷹狩りは、ワシの腰の具合が良くないので中止する。浮いた予算の使途は、レオン・ド・マルクスの指示に従うように」

「お待ち下さい」

「なんだね、レオン」

「形骸化したとはいえ、鷹狩りは軍事演習です。中止するのは宜しくないかと。むしろ陛下の威光を貴族どもに示す良い機会です」

 意外にも政治性が強く頭が切れる娘婿だ。国王は少々見直した。

「あー、ならば予算はどうするのだ?」

「王宮内の宝石や彫像のたぐいを、領主貴族どもに売りつけるのが最善かと存じます」

「そんなものは、いずれ売りつくしてしまうぞ」

「いえ、すぐに戻ってきます。いくらかは焼けてしまうでしょうが」

 これでは、いずれ内乱が起こると国王に向かい放言したのも同様だ。国王直轄地と領主貴族領に分裂しているフランセワ王国が、内戦に突入することを防ぐ。これが国王の第一の務めだと定め、今までアンリ二世はフランセワ王国の舵取りをしてきた。

「ジュスティーヌは、どのように考えておる?」

 十人の子の中で、最も聡明なジュスティーヌ第三王女は、夫の考えをどのように見ているのか?

「わたくしも、いずれ時間の問題と考えます。怠りなく準備しなければ、美しいフランセワは焦土と化し、民は奴隷に堕ちましょう」

 結婚前のジュスティーヌならば、領主貴族をなだめすかして綱渡りのような宥和策をとることをやわらかく進言しただろう。だが、レオンと結婚して、ジュスティーヌは変わった。

「下がってよい。予算については追って知らせる」

「はい、お父様。本日は御来臨を賜り誠に恐縮に存じます」

「本日は、ありがとうございました。失礼いたします。⋯⋯あっ」

「どうした。レオン?」

「先ほど、ジュリエット王女殿下とお会いしました。イノシシを恐れない豪胆で美しい女性でした」

 横目でチロとジュスティーヌがレオンをにらんだ。この腹違いの妹には、姉の持っているものを好んで欲しがる性質があることをよーく知っていた。そして異性の好みが似ていることも、分かっている。

「なにか言っておったか?」

「はあ。私と誰かを引き合わせたいとか、おっしゃってられました。丁重にお断りしましたが」

「やつにも困ったものだ。うむ。下がりなさい」


 身内に甘い父王の性格のおかげで、不調法なレオンは何度も助けられた。しかし、この寛容さは権力者として脇が甘いことにも繋がる。王にとって身近で最大の脅威は、同じ血を引く王家の者であることを忘れたアンリ二世は、数年後に殺されることになる。


 王前を退去すると、アリーヌが飛んできた。

「姫様っ。大丈夫ですか? 問題はございませんか? なにも? なにもっ? 領主貴族たちを披露宴に呼ばなかったことで、陛下のお怒りはいかがでしたか?」

「大丈夫よ。領主貴族のことでは、少し注意されたくらいよ」

 アリーヌ、真っ青になった。

「国王陛下から、ご注意を!!!!!! あぁぁ! ですからっ、あれほどっ! ああっ!」

 頭を抱えてしまった。

「おい、タヌキ。キツネが引きつけ起こしてるぞ。外に連れ出してやれや」

 王家担当侍女からマルクス伯爵家担当侍女に異動したタヌキ顔美人が、ちょっとムッとした。

「わたくしは、マリアンヌという名前ですわ。タヌキではございません」

 全然聞いていない。

「ヘヘヘッ。王様にねだって王宮に住んでよいことになったぜ。これでおまえも王家侍女待遇だぞ。儲けたな」


 レオンは、ジュスティーヌの手をつかんで外に連れ出した。いい気分に酔っぱらっている平民の間を縫って歩き、ヤグラまでたどり着いた。「よー、花嫁さんだ」くらいの声は聞こえたが、あまりにも美人すぎるうえに王族オーラを発しているジュスティーヌ王女には、ヤジも飛ばない。

「じゃあ、ひとつ頼む」

「はい。ここを登って上で歌うのですね」

 王女殿下が十数万人の平民を前にして歌唱するという、前代未聞の『事件』が起きた。

 かつての日本と同様にセレンティアでも歌い手は、遊女、売春婦、乞食などと同一視され、賤業という偏見が強い。王女殿下が、あろうことか平民の前で歌うなど、およそ考えられないことだ。常識外れなことが大好きなレオンが持ちかけ、冒険大好きのジュスティーヌが乗った。


 ヤグラに立った白いドレスのジュスティーヌは、気高いまでに美しかった。なんだか王女の威厳とオーラみたいなものを発している。この場では、王女ティアラ以外の宝石は全て外した。

 全盛期のハリウッドの大女優、イングリッド・バーグマンを百六十五センチまで小柄にして、少女の面影を残した十九歳といえばイメージできるだろうか。

「こっ、これは⋯⋯。ジュスティーヌ王女殿下のご登場です。じっ、実に、なんとお美しい。フランセワの白い薔薇⋯女神⋯⋯。いや、花嫁です。ご結婚おめでとうございますっ。我ら王都民に、お声を聞かせて下さるとのこと。うおぉぉああありがとうございます。皆さん、お静かに! お静かにっ! 拝聴させていただきましょう」

 言われるまでもなく十数万人の酔っ払い平民は、静まりかえった。

「フランセワの民の皆さま。今宵は、わたくしたちの結婚披露宴においで下さり、ありがとうございます。正義を愛するフランセワ王国民の繁栄と幸福を祈り、心を込めて歌わせていただきます」


 シ──────────────ン


♪戦士よ固く結べ 生死を共にせん

♪いかなる困難にも あくまで屈せず

♪我らは若き兵士 フランセワの


♪固き敵の守りを 身もて打ち砕け

♪血潮に赤く輝く 旗を我が前に

♪我らは若き兵士 フランセワの


♪朝焼けの空仰げ 勝利近づけり

♪打ち砕け侵略者を 暴逆の敵を

♪我らは若き兵士 フランセワの


♪暴虐の敵すべて 地にひれ伏すまで

♪真紅の旗を前に 戦い進まん

♪我らは若き兵士 フランセワの


 ドッ!

 パチパチパチパチパチパチパチパチパチパチ!

 わああぁあぁぁああぁあぁぁああぁあぁぁぁぁ!!!

 わ─────────────っ!

 わあぁぁ───────────っ!

 わあぁぁああぁ──────────っ!


 なかには泣いている者までいる。

 ジュスティーヌ王女が歌ったこの数分間は、フランセワ王国人に、統一した国民国家意識が芽生えた瞬間として歴史に残った。江戸時代の『藩』に対する忠誠心が、明治維新で日本という『国』に移ったようなものだ。

 グル巻きマントを外したレオンも血塗れ姿でヤグラに登ってきた。二人で手を握り合い、肩に腕を回したりして仲良しアピールをする。

「おおっと、ここで新しいお知らせです。ジュスティーヌ様とレオン様の結婚のお祝いとして、国王陛下より王都パシテの、なんとっ! 全住民に酒とお菓子が配られるということです! ありがとうございます! 国王陛下! ジュスティーヌ殿下! レオン閣下!」

 民衆は、大喜びの大熱狂。たった十五億でこれが買えるのは、安い。

 ところが、ヤグラから降りるとアリーヌが泣いていて、レオンを見るなり鬼の形相で再び掴みかかってきた。体術の心得があるマリアンヌとキャトウが、あわてて抑えつけた。「卑しい下民の前に姫様を晒し、高貴なお姿とお声を汚した」とかなんとか罵ってくる。レオンは、ちょっぴり腹が立った。アリーヌに顔を近づけ「わははははははは! おまえの姫サマは、もうどこにもいない。消えたのだ~。それに、もうオレと結婚したんだから『奥サマ』だろ」と言ってやった。アリーヌは、その場で泣き崩れ、レオンはジュスティーヌに叱られた。

 平民大宴会は深夜まで続き、大成功裡に終わった。


 

 翌日、レオンは王宮親衛隊第四中隊長に勅任された。階級は中佐である。日本軍なら三千人を指揮する連隊長、海軍なら巡洋艦の艦長といったところだ。

 王宮親衛隊は、第一から第四中隊まであり、一個中隊の定員が百五十名。百五十 × 四で、さらに女性部隊五十名と騎馬隊の五十名を加え総定員は約七百名だ。十八歳から二十三歳くらいの貴族子弟が中心で、全員が少尉以上の士官という特別な部隊である。王都に敵が迫った際には、隊員がそれぞれ数百名の退役兵や予備役兵の指揮を執り、親衛軍として王都の最後の楯となることが期待されている。

 普段は王宮近くの親衛隊宿舎で寝泊まりし、四つの中隊が交代で王宮の警備をしている。レオンは、王宮内にある剣道場で指南していたので、親衛隊騎士連中とは顔見知りだった。素振りくらいしか稽古法がなかったセレンティアで、レオンは防具らしきモノと竹刀らしきモノをどうにか作って、思い切り打ち合わせる稽古をさせた。強くなれるので本物の騎士になりたい者には人気があり、逆に親衛隊を官僚になるための腰掛け儀典兵と考えていた者には嫌がられた。

 四個中隊編成の第四中隊の隊長に任命されたのも都合がよかった。最後なので三十人ほど定員割れしていた。おかげでレオン自らが見込みのある者をスカウトして入隊させることができた。

 中隊長になったレオンが最初にしたのは、平民出身の兵が親衛隊騎士の身の回りの世話をする従卒制度の廃止だった。「自分でパンツも洗えないようなやつに戦争ができるか」という理屈で、貴族主義者に「嫌なら辞めろ」と言い放った。ひと悶着あったが、他の中隊から第四中隊に移りたがっている者もかなりいたので、トレードすることで解決した。この騒動で貴族ヅラして役に立たない者を、第四中隊から追い払うことができた。

 王宮親衛隊は、警備+警察+軍隊という性質を持っている。いずれも暴力装置なので、なにはともあれ強くなければ話にならない。レオンが着任した日から騎士たちはスパルタ訓練を受ける羽目になった。王宮の周りを完全武装で何時間も走り回らせられるのに騎士たちは閉口した。走ったらなぜ強くなれるのか?

 これはレオンの元人格である新東嶺風の経験が影響している。空港反対闘争では、よく団結小屋に泊まり込んだ。団結小屋には、現闘団と現行隊(現地行動隊)が、常駐している。現闘団は、現地に何年も住み着いて援農をしたり戸籍を団結小屋に移したりと地域密着型。現行隊は、十人程度の行動部隊。空港公団が農地破壊など悪事を働いているところに駆けつけて抗議したり、夜中に工作機材を分捕って川に投げ込んだりした。権力=機動隊からすれば『犯罪者』の集団だ。うっかり捕捉されたら逮捕されるだけでなく、屈強な機動隊員に囲まれ盾で滅多打ちにされ、骨を砕かれる水準のリンチで半殺しにされる。嶺風は、闘争でいかに脚力と体力がものをいうか身に染みて知っていた。

 開港阻止決戦でも、鉄パイプと火炎ビンで武装し徒歩で空港内に突入した三百人の部隊は、機動隊を圧倒して管制塔直下まで進出した。しかし、増援された機動隊に行く手を阻まれ、後退を余儀なくされた。この時に逮捕されたのは、やはり体力が続かず足が止まってしまい脱落した仲間たちだった。

 空港反対闘争なら死者は出るものの、大抵は頭蓋骨折や眼球破裂で済む。セレンティアでレオンは、本気の本気で殺し合いの革命戦争を貫徹するつもりだった。そのために王宮親衛隊第四中隊を、いずれ創設する革命軍の中核に育てるつもりだ。

 貴族の子弟からなる王宮の警備士官である親衛隊騎士を、いかに出身階級とは逆の革命軍士官に育てあげるか、レオンは頭を悩ませた。とはいえ地球の革命家も上流階級出身者が多い。レーニンは貴族出身の弁護士、毛沢東は地主出身の北京大学図書館司書、カストロは農場主出身の弁護士。ポル・ポトなんかは従姉が国王の側室で、その伝手でフランスに留学している。革命の指導者は、だいたい上流階級出身で旧階級の裏切り者だ。フランセワ王国でも、なんとかなるだろう。

 訓練の合間にレオンは軍事や哲学などの学習時間を設けた。いずれ正規軍や民衆軍の指揮官に据えるつもりなので、指揮統制訓練を施し、座学ではクラウゼヴィッツの『戦争論』や、ルソーなどの啓蒙哲学とノブレス・オブリージュを組み合わせたネオ・ルソー思想を講義することにした。啓蒙専制君主国家であるフランセワ王国の発展段階の社会には、非常に先鋭的な革命思想だ。これを若い騎士たちに、思いっきり吹き込んだ。ジュスティーヌ王女を洗脳したのと同じやり方だ。これは意外なほど、うまくいった。

 セレンティアには、マスコミもなければプロパガンダもなく、まだ若い騎士たちは、良くも悪くも政治宣伝には無垢な人たちだった。そしてセレンティアのまだまだ未発達な社会は、悲惨・貧困・不正・悪徳・矛盾に満ちていた。育ちが良くて正義感が強く頭の良い若者に、地球で実際に一世を風靡した革命思想を強烈な左翼プロパガンダの手法を使ってぶつけたのだから、文字通りイチコロだった。

 ある時、王宮親衛隊の食卓に貧弱な食物を並べた。

「これが王都民の一食の平均だ。食えるか?」

 とても貴族が口に入れられるようなシロモノではない。さらにいくつかの食べ物を外す。

「さっきのは平均値だ。中央値はこんなものだろう。平民が飢えているのは、富裕層が飽食しているからだ。貴族とは、民衆の貧しい食事からさらに搾取する権利を持つ者を指すのか?」

「違う。違います。そうではありません!」

 弟子たちが異議を唱える。

 セレンティアで平均値と中央値の違いが分かるのは、学者か高級官僚くらいだ。レオンが噛んで含めるように教育した第四中隊の騎士たちの知的水準は、群を抜いていた。

「そーだ。そのとおりだ。財産、権力、地位を持つ貴族には、義務が伴う。平民を正しく先導し、先頭に立って戦い、必要ならば死ぬ義務だ。いいかっ、貴族としての義務を果たせ。臆病者になるな!」

 オォ─────────────ッ!


 それまでの貴族は、特権意識を振り回し威張っているだけだった。『貴族としての義務』という観念は、セレンティアにはなかった。

「平民から搾取するだけなら、泥棒とどこが違うのだ? おまえらは、親衛隊騎士として毎日努力している。しかし、努力したくてもできない者が、大多数だということを忘れるな。特権階級のおまえらは、同時に重い義務を背負う」

 貴族家に生まれ育ち、少しは腕に覚えがあったので、出世のために王宮親衛隊に入った者が大半だ。それまでの彼らには、貴族界での出世以外に人生に意味も目標もなかった。年季が明けて親衛隊を退職したら実家に帰り、政略結婚をして、どこかの官庁に奉職するか領地経営をして、たまには社交界に出て⋯。これが彼らの先の見えた人生だった⋯がっ! 強烈なイデオロギーを脳内に流し込まれて、目からウロコが落ちてしまった。

 時には、「女神のように美しい」ジュスティーヌ王女殿下が講師として招かれることもあった。見るだけでポーッとなるような王女様が、本心から熱意を込めて貧しい者や弱い者につくすことや、理想と真理と正義の為に身を挺することの崇高さを美しい声で吹きまくるものだから、王宮親衛隊第四中隊の騎士たちは、最後の一人まで陥落した。


「物質的な力を倒すには、物質的な力をもってしなければならない。そして思想も、大衆をとらえるやいなや物質的力となるのだ」(マルクス『ヘーゲル法哲学批判序説』)


 王宮親衛隊第四中隊の騎士たちは、王宮メイドや下働きの者など、自分より立場が弱い者に対してひどく優しくなった。逆に貴族主義の家族、特に当主である父親に懐疑の目を向けるようになった。王宮親衛隊には、妾の子や下級貴族の三男四男などもけっこういる。第四中隊の騎士たちは、そういった出自を隠さなくなり、それを侮蔑する者もいなくなった。特に賢い者は、いずれ貴族という階級が滅びることを直感的に理解し、それは歴史の進歩と正義のためには当然であると納得し、いよいよ爵位やら貴族の社交やらを軽視しはじめた。

 現代日本で例えれば、全員が大学院卒レベルの知力を持ち、自衛隊の空挺部隊員の戦闘力も持った百五十人の若手エリート集団が、政府中枢に生まれたようなものだ。しかも、それは理想主義と啓蒙思想に凝り固まっている隊組織なのだ。レオンは、そんな組織をわずか半年でつくりあげた。過激派時代のオルグの経験が大いにものを言った。そして、いつものクセが出てきた。

 軍隊なんて人を殺してナンボのものだ。殺し合いの実戦を経験させたい!

 王宮親衛隊は、警察権を持っている。叩けばホコリが出る悪質ヤクザのアジトにでも殴り込みをかけ、何人か血祭りに上げて殺人の特訓をするか、とまず考えた。しかし、意外にもヤクザは王都民に、それなりの人気があった。警察である王都警備隊は、千五百人程度しかいない。たった千五百人で、人口百五十万人の王都パシテの治安維持は不可能だ。不足を補うため、下っ引きをヤクザに委託したりもしている。

 前世の新東嶺風は、デモってる時に機動隊が蹴ってきやがったので殴り返したことがある。機動隊の数人がかりでゴボウ抜きにされ、両手両足を掴んで引きずられ護送車に放り込まれ、そのまま留置場に直行した。その時に同房だったヤクザは、嘘つきでカネに汚いダメ人間だったが、殺さねばならないほどの極悪人というわけでもなかった。

 どんな悪いやつを殺そうかと頭を悩ませていると、手先に使っていた子供スパイに耳寄りな話を聞いた。運がいい?ことに、平民を面白半分で虐め殺したりする極悪な連中がいるらしい。よーし、ちょうどいいぞ。そいつらをぶち殺して戦闘訓練といこうじゃないか!


 人口約百五十万人の王都パシテに、三千人を超える浮浪児がいる。五百人に一人以上が浮浪児ということになる。異常な数だ。これには、レオンの前前世=女神セレンが関わる理由がある。

 降臨した女神セレンは、すぐに病気治しだけでは意味がないということに気づいた。病気にならない環境づくりが大事だ。栄養状態の改善と感染症対策、それに乳幼児の健康維持だ。

『女神イモ』『女神豆』をはじめ栄養価が高く収量の多い作物を与えた。感染症対策に公衆衛生学の知識を授けた。さらに、乳幼児期の死亡率を下げるため、乳児保健の基礎知識を授けたりもした。効果はテキメンで、イタロ王国では十年以上も平均寿命が延びた。

 良いことをしているつもりの女神セレンだったが、結局めった刺しにされて昇天する羽目になった。その後、二度の『ファルールの地獄』で四千万人以上も死亡し、セレンティアの人口は、三割近くも激減してしまった。

 ファルールの地獄が終わった直後から、セレンティア全土で人口爆発が始まった。いわゆるベビーブームだ。日本の第二次世界大戦敗北後やカンボジア大虐殺の後にも同じ現象が起きている。その結果、レオンが降りた二十年後のセレンティアは、四十代以上が少なく十代が極端に多い人口構成になっていた。

 女神が与えた作物によって二十年後には、単位面積当たりの収量は倍以上に増えていた。多くは領主貴族に徴税され領主軍費や贅沢品に徒費されてしまったが、それでも農民は豊かになった。農村でも出生率があがり、乳幼児の死亡率は劇的に下がった。ところが作物の収量は増えても、農地の面積が増えたわけではない。農地を継げるのは長男だけだ。新たに農地を開拓しようにも、多くは領主領として囲い込まれていた。農村は余剰人口を抱えてやがて支えきれなくなり、まだ十代前半の子供たちは仕事を求めて都市に流入していった。

 都市でも人口爆発は起きていた。児童福祉など概念もないセレンティアでは、子供の多くは放置され、やがて棄てられていった。農村から出てきた子供たち。貧民が『再生産』した子供たち。彼らは、都市の最底辺で『浮浪児』として生きていた。いや、生きていたというより、すり潰されて順番に死んでいったという方が正確だろう。

 浮浪児たちは、意味もなく殺されることさえあった。セレンティアは倍も豊かになったはずなのに栄養失調と餓死に、いつも脅かされていた。弱いからこそ、集団をつくらなければ生きていけなかった。王都には、そんな浮浪児の集団が百以上もあった。

 浮浪児集団は、意外にも『固い』組織だった。入るのには、きびしい審査がある。無能なやつが紛れると、足を引っ張るからだ。ノロマのせいで目を付けられ脚の一本でもヘシ折られたら、彼らに待っているのは餓死しかない。基本的に犯罪に手を染めることはなかったが、生きるためには、やる時はやった。

 浮浪児の仕事は、ゴミ拾い、残飯あさり、清掃業、使いっぱしり、ガラクタの露天商、物乞いといったところだ。浮浪児は大半が男の子だった。女の子は十歳くらいなると売春をはじめ、いつの間にかどこかに消えていった。どうしても売春だけはしたくないという女子だけが、いくらか残った。

 浮浪児の根城は、柱が折れて崩れた廃屋だった。これでも雨風をしのげるので、住家としてはマシな部類だった。しかし、孤児たちがそこに寄り集まっていることが知られると、遊び半分で火をつけたり殺しにくるやつらがいる。必ず見張りを立てていた。

 組織をつくり仕事の手を広げていたので、孤児たちが全く何も食べられないという日はほとんどなかった。夜は危険なので、夕方には根城に戻り、皆で輪になってメシを食い、暗くなったら寝た。食い物は、それを手に入れた者にいくらか多めに。あとは平等に分配した。



「まるで原始共産制だなぁ」

 大きな袋を担いだ黒髪黒目の男が、浮浪児の根城にのっそりと入ってきた。剣を二本差している。簡素な服装だが下級貴族に見える。

 輪になっていた連中は、全員が飛び上がった。ヤバいことをする時にいつも隊長を務めるハサマがナイフを抜いた。

 リーダーのグロカンが叫んだ。

「みっ、見張りはどうした! おまえが殺したのかっ?」

 男の後ろから見張りの浮浪児が顔を出した。

「よっ! この人なら、絶対に大丈夫だぜっ。みんなに会いたいっていうから、案内したんだよ。ヘヘヘッ」

 呆れかえった。なんのための見張りだ? 道を歩いているだけで目ざわりだと蹴っとばされ虐待されてきた浮浪児を、どうやって手なずけたのか?

 レオンには、人たらしの才能、⋯というより能力があった。


──────────────────


「いよう、張り番かい? 大変だなぁ」

「! なっ、なんだよ。あんた?」

 袋から菓子を出し、手渡す。王宮から持ち出してきた超高級菓子だ。浮浪児の食費の一年分くらいの値段はするだろう。ごく自然に渡されたので、見張り係は受け取って食べてしまった。

「最近、景気はどうだい? うまいもん食えてるかい?」

「まあまあってとこだな。⋯なんだよこの菓子。本当にうめえな!」

「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯?」

「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯。」

「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯!」

「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯。」

「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯!?」

「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯。」

「⋯⋯そういうわけでな、会いにきたんだ。案内してくれや」

「ああ、いいぜ。レオンさん。ついてきなよ」


 ナイフのハサマには目もくれず、当たり前のような顔をしてリーダー席のグロカンの隣に座り込んだ。

「挨拶がわりに菓子を持ってきた。まあ、食ってくれや」

 ほいほいほいほいほいほいっと、全員に王宮菓子を投げ渡す。セレンティアでは、中流階級でも甘いものを口にできる機会は滅多にない。甘いものは心を和ませる。皆で食べているうちに、ナイフも引っ込んだ。

 大方食べ終わると皆の視線は、レオンに集中した。

「酒も持ってきた。呑もうぜ」

 フランセワ王国には、飲酒の年齢制限はない。子供たちと酒を飲み交わすのは、妙な気分だった。座が暖まってきたところで、話を切りだした。

「実はな、オレは、けっこうエラい」

「ホントかなー?」

「ウソでー!」

 ゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラ!

 まさかレオンが王宮親衛隊の中隊長で中佐の伯爵サマだとは、夢にも思わない。生きるために多くの人を見てきたリーダーですら、「まぁ、田舎男爵家の次男程度かな」くらいに見ていた。でも、レオンは意外に金持ちだった。

「ちょっと待ってくれよ。おっと、あったあった」

 フトコロから金貨を取り出して床に置いた。この金貨一枚で、ここにいる浮浪児全員が一カ月メシを食える。

「おう、ちょっとナイフ貸せ」

 刃が潰れたぶっといコケおどしのナイフを取り上げた。金貨に鋭く振り下ろした。

 ドスッ!

 金貨を貫いて大穴を開けてしまった。拾ってリーダーに放った。

「グロカン、ボンタ、ハサマ、それとローザ。おまえらがリーダーだな。それを持って王宮の正門に来い。そいつを門番に見せれば、オレのいる所まで案内してくれる。じゃあな」

 それだけ言うとレオンは、とっとと出て行ってしまった。

 追いかけてアイツを背中から刺したらもっと金貨が手に入る、というハサマの意見は、即座に否決された。道徳的な理由からではなく、あの男と長く取り引きした方が利益になりそうだからだ。

 決断が早いのが、浮浪児集団の特長だった。グロカンとボンタをはじめとするグループのリーダーは、翌朝早々に王宮正門前にやってきた。日本でいえば、皇居と首相官邸の入口を合わせたような場所だ。さすがに気後れする。つまみ出されるかもと思ったが、カッコいい制服の王宮親衛隊員に穴の開いた金貨を差し出した。そいつは浮浪児たちを上から下まで眺めると、「待ってろ」とだけ言って奥へ消えた。

 しばらくして小ぎれいな服を着た少年が、王宮の中から駆けてきた。

「よっ! レオンさんは、こっちだ。ついてきな」

 商家のぼっちゃんが、王宮で下働きでもしているのかと思ったが、なんだか違う。雰囲気で分かる。どうやら⋯元浮浪児っぽい⋯?

「あの男のところにいくのか?」

 先頭に立って案内していた少年は、立ち止まって浮浪児リーダーたちに向き合った。大勢と対面しても、まるでひるむ気配がない。

「『レオンさん』だ。伯爵様で中佐で親衛隊中隊長なんだぜ。奥様は王女様だぞ。⋯⋯まったくよお。おまえらは運がいいぜ! 少しはオレたちに感謝しろよ」

 あの男は思ったより大物らしい。王宮前広場を奥に進み、王宮関係の建物が点々とある奥庭に入った。ここは許可無しでは入れない。当たり前のように進む案内少年に、浮浪児四人は畏怖の念を感じ始めた。しかし、非常事態では沈黙するという鉄則を守り、黙って進む。数分で兵舎のような建物の前に出た。

「王宮親衛隊宿舎だ。ちょっと待ってな」

 案内少年が駆けていくと、すぐに昨日のあの男が出てきた。だが、服装が親衛隊指揮官の制服で、まるで別人だ。

「よくきたな。腹は減ってないか?」

 浮浪児たちは、それどころではない。それでもレオンと案内少年について五分ほど歩くと、三十人は入れそうな真新しい建物の前に出た。

「おまえらは、ここで暮らす。希望すれば、だがな。衣服と食事、仕事に応じた賃金も保証する。なかなかいい話だぞ」

 流されず常に冷徹なグロカンが質問した。

「オレたちは、なにをするんですか?」

 ボンタが続く。

「タダってわけには、いきませんよね」

 ウンウンとうなずき、レオンは満足げだ。十四~五歳にして、この知力と胆力。

「まず、おまえらには、オレの提案を断る権利がある。断っても不利益をこうむることは、一切ない」

 暴力的なハサマがつぶやいた。

「この場で消されちまうってことは、ないわけだ⋯」

 レオンが笑いはじめた。屈託のない笑いだ。

「そんなことして、なんになる? おまえらの仕事は、王宮親衛隊の目と耳、それに手足になることだ。情報収集、偵察、伝令といったところだな。それに必要な訓練と勉強もやってもらうぞ」

 実務的なボンタがたずねた。

「どうしてオレたちなんですか?」

「子供しか入れない場所も多い。直属の特務機関を最初から育てたい。まず最初は、王都のウワサ集めというところからだな」

 さらにボンタが突っ込んだ。

「俺たちを選んだ理由は?」

 レオンは肩をすくめた。隣に立っている少年を見た。

「最初は有望なやつを一本釣りしてたんだがな。なかなか集まらない。それで一番優秀な浮浪児グループを丸抱えすることにして、こいつらに調べさせた」

「もし、オレたちが断ったら?」

「そんな判断をするなら、優秀じゃないってこった。二番目に優秀と見たグループに声をかける」

「オレたちが優秀だと考えた理由は?」

「まず、組織力。単なる浮浪児の集団ではないな。シノギを分担したりして、ガッチリしてる。それにグループに入れる時に、候補をふるい分けしてるだろ? 優秀な者が多い。とりわけリーダー層が厚くて仕事ができる。安易に非合法に手を出さない知恵もある」

 えらくほめられたものだが、話がうますぎる。なんとなくヤバそうな臭いもする。本当にこの男は信用できるのか?

「⋯⋯おまえらは孤児だ。だが、浮浪児になりたかったのではないだろ? 自分になんの落ち度もないのに、浮浪児に落ちたんだ。今まで、死ぬ寸前まで痛めつけられてきた。これからも我慢し続けて、このまま死んでいくのか? こんな社会をひっくり返したくないか? なぁ、手伝えよ」

 浮浪児たちは驚いた。毎日生きるのに精いっぱいで、そんなことを考えたこともなかったからだ。ただ一人、女の子のローザが前に出た。一見すると貴族に見えるような美少女だ。目が輝いている。

「やります。やらせて下さいっ!」


 こうやって集めた孤児たちをレオンは、『カムロ』と呼んだ。『平家物語』で平清盛が平安京に放ったとされる子供スパイ『禿』からとった。

 レオンは、三十人から徐々にカムロ組織を大きくしていき、フランセワ王国全土を覆う組織に成長させた。浮浪児を王宮敷地内に住まわせるのは無理なので、少し離れた国有地に孤児院とか称する特殊工作員養成校と寮を建てて収容した。

 雨風がしのげる家に住めてベッドで寝られるだけでも感激なのに、マトモな食事が出て働きに応じ褒美までもらえる。『カムロ』たちは、張り切った。もっと言ってしまえば、ここを追い出されたら地獄に逆戻りなので、必死に働くつもりだった。ところが、まずさせられたのは、勉強だった。

 数日おきに美しいジュスティーヌが孤児院を訪れて勉強を教え、母親代わりになって子供たちを癒やした。レオンは、尾行などスパイ術を指南した。公安警察に嗅ぎ回られた前前前世の新東嶺風の記憶が、えらく役に立った。実は武装保安員が本業で、侍女になってジュスティーヌの警護をしているキャトウとマリアンヌが、格闘術を伝授した。礼儀作法や常識は、意外にも貴族主義者のアリーヌが引き受けてくれた。まるでケモノのような子供たちが可哀想になったらしい。十年以上もジュスティーヌの侍女を勤めていただけあって、本当は優しい。

 軍には諜報機関があって軍事情報を収集し、王宮にも保安部があり主に貴族の動きを探っている。ところが、王室の足場である王都の民衆の動向を調べる機関が無いことに、レオンはあきれた。そこで孤児の救済にもなり、王都民の世論やウワサなど市井の情報を収集する組織を自力でつくることにしたのだ。孤児を利用したのは、福祉目的もあったし安上がりということもあった。だが一番の理由は、裏切られないからだ。

 やがて孤児たちは、泥沼から救い出してくれたうえに自分を普通に人間扱いするレオンに、感謝し尊敬するようになった。それ以上に愛情深いジュスティーヌは、彼らにとって母親であり女神ですらあった。物心ついて一度も愛情を受けたことのない子供が「女神様のように美しい」女性から優しい愛を注がれたのだ。どうなるかは、容易に想像がつく。利害損得以前の感情や本能といった水準で、カムロたちがジュスティーヌを裏切ることは不可能だった。そして『父親』であるレオンを裏切ることは、ジュスティーヌを裏切ることと同じだ。

 レオンは、能力だけでなく人間性も見てカムロを選抜した。社会全体から虐待されていたともいえる孤児が、ひねくれるのは当然だ。だからこそ、そんな自分に手を差し伸べてくれた恩人に対する敬愛の念は深い。レオンは計算通り、絶対に裏切らない三十人を手に入れた。今はまだ少年少女スパイ団というより、使いっ走りという水準だ。だが英才教育を受けたカムロはレオンの私設特務機関員に成長し、いずれ情報活動や民衆扇動、それに暗殺や破壊工作まで抜群の働きを示すだろう。

 自費で孤児院を建て、侍女とともに数日ごとに通っている貴婦人がいるという噂が王都に流れた。その貴婦人とは、あの美しいジュスティーヌ第三王女殿下で、建てたのは、粗暴だが勇ましいレオン・マルクス伯爵に違いないという。

 レオンとジュスティーヌの『フランセワ=マルクス家』は、浮浪児たちを『寄子』にした。保護者のようなものだ。名前の無い(!)子供には、レオンが自ら名前をつけてやった。

『寄親』は寄子を保護し危機の際に助ける道義的義務があり、寄子は寄親の指示に従って働く義務が生ずる。寄子が損をしているようだが、平民が貴族の寄子になると、騎士の位を授けられ、寄親の家名を名乗り男爵程度の下級貴族ならば対等に会話ができる。フランセワ=マルクス家は王族なので、寄子の地位はさらに高くなった。寄子→ジュスティーヌ王女→国王という順番で、なにかあったら話が国王まで届く可能性すらあるからだ。

 レオンがカムロを寄子にした一番大きな理由は、有力貴族の寄子ともなれば行方不明や傷害、それに殺された際の王都警備隊の扱いが平民とは全く異なるという事情もあった。レオンのような男でも、子供に危険な仕事をさせている自覚はあった。

 寄子になって一番喜んだのは、カムロたちだった。女の子たちのリーダー格のローザが、喜びにふるえながら「私たちのお母さまに、なってくださるのですか?」と問うた。ジュスティーヌが、「ええそうよ。今日からみんなのお母さんよ。あなたは今日からローザ・マルクスなの」と答えると、少女と年少組は抱き合ってワンワン泣いた。年長組は、レオンを囲み誇らしげに見上げている。

 レオンが、アジった。

「おまえたちは、蔑まれ、飢え、殴られ、凍え、今まで苦しめられてきた。特に女の子は、口にできないようなことがあったかもしれない。だが、おまえたちは、少しも悪くない。なんの責任もない。よく生き抜いてきてくれた。おかげで、こうして我々は会うことができた。目を覚ませ。おまえたちを苦しめてきた世の中が、狂っているのだ。このままではいけない。社会の間違いを正せ。悪を倒せ! オレは、おまえたちのように虐待される子供を一人残らず無くしたい。そのために力を貸せっ。おまえらは、この地上から不正を一掃するために、正義のためにマルクス一族として生まれ変わったのだ! 息子よ。娘よ。兄弟姉妹たちよ。生まれた時は別でも、死ぬ時は一緒だっ!」


 レオンは、さらにアジりまくって使命感や正義感、自己犠牲の精神、さらには社会悪に対する憎悪と復讐心をカムロに強烈に吹き込んでいった。食べさせるだけでなく、生きる意味をも与えてくれたジュスティーヌとレオンに対する彼らの尊崇と忠誠心は、もはや天井を突き抜け、宗教の域にまで達した。実際、ジュスティーヌを新しい聖女だと信じ、隠れて拝む者までいるありさまだ。「きっとレオン様は、聖女様を守護するために女神様が送られた聖騎士なんだ!」。


 常に蔑まれ踏みにじられてきた浮浪児出身なので、カムロたちは大抵のことには我慢ができた。路上で意味もなく殴られたり犬猫の糞を口の中に押し込まれても、こらえただろう。しかし、ひとつだけ許せないことがあった。それは、ジュスティーヌに対する侮辱だった。どこかの路地裏で商家のせがれが、「ジュスティーヌって姫サンは、いい女だよなぁ。殴りつけて口から血をたらし泣いてるとこを犯したい。ゲヘヘヘ」とか公言した。たまたま通りかかったカムロたちが、それを聞いた瞬間に飛びかかり、マリアンヌやキャトウから習った格闘術を駆使して死ぬ寸前の大怪我を負わせてしまった。王族侮辱の不敬罪で引っ張られることを恐れて相手が引いてくれたので、幸い大事にはならなかった。

 日常的に殴られたり蹴られたりしてきた元浮浪児に、あのレオンが「腹が立ったからといって他人を殴ってはいけません」などと説教を垂れても、偽善なだけで心に響かない。「任務でない傷害は、今後の活動の妨げになる。それに優しいジュスティーヌが悲しむ」という理屈で、どうにか納得させた。念のためジュスティーヌに、「わたくしのために人を傷つけるのは、悲しいことです」などという特別講義をしてもらった。

 フランセワ=マルクス伯爵家が、孤児を三十人も引き取って寄子にしたという話は、王都の評判になった。見習って孤児に手を差し伸べる者が少なからず現れたが、さすがに三十人も引き取った人はいない。レオンとジュスティーヌは、王都の平民に愛され始めていた。孤児院の実態は、諜報員や秘密警察官の養成機関なのだが⋯⋯。


 王宮親衛隊第四中隊は、強くなった。強いが、実戦経験がないのがレオンの悩みのタネだった。そんな時に、カムロのリーダーに任命したグロカンが、よい話を持ってきた。ちなみに副リーダーはボンタとハサマで、後にカムロはそれぞれをリーダーにした『Z』『C』『SY』の三つの組織に分かれる。

 貴族家の四男、五男や妾の子などは、そのままではどこにも行き所のない者が多かった。傷のジルベールや赤ドレスのジュリエット第四王女なども、元はといえばそんな身の上だ。そんな連中は、大変な努力して王宮親衛隊に合格したり、そこまで才能がなくても王都庁などの役所や王都警備隊に勤めるのが普通だ。

 そんな努力もできない不良貴族子弟連中は、グレた。愚連隊となって群れ、王都中を暴れまわっていた。愚連隊のやり口は、焼き畑農法だった。ちょっと繁盛している店に押しかけて言いがかりをつけ、居合わせた客をぶん殴って叩き出し、酒を飲みながら剣や木刀で店のあらゆるものをぶち壊すのが手始めで、従業員の女の子を輪姦するところを囲んで見物して囃し立て、「ガキができたら困るだろ」などと何度も腹を蹴り子供を産めない体にしてしまったり、顔が気に入らないとかで店主を滅多打ちにしたりする。店のカネを洗いざらい奪い、「文句があるならゲスドウ侯爵家に来い」などと言い捨てて去っていく。もちろん文句をいってもどうにもならない。今度はゲスドウ侯爵家のお抱え騎士が乗り込んできて白刃を突きつけ、「騒ぎにしたら殺す」などと脅かされるのが関の山だ。

 警察である王都警備隊も、貴族実家の持つ権力を振り回す愚連隊には、とても手が出せなかった。あまりにもひどい殺人者を何人か逮捕した王都警備隊の隊長は、解任されてしまった。骨のある人物が大好きなレオンは、その隊長を王宮親衛隊の法務部に入隊させようと関係各所と折衝をしているところだ。

 愚連隊がたむろしている近くを通りかかり、意味もなく袋叩きにされ半殺しにされた王都民が百人以上。殺された者もいくらでもいる。『下民狩り』とか称し、真っ昼間の公道で後ろから突然斬りつけられて、財布を奪われた者さえいた。

 愚連隊は、悪いことなら放火以外はなんでもやっていた。いや、面白半分で、放火もやっていたかもしれない。泣きわめく若い母親から奪った赤ん坊を、度胸試しに焚き火に投げ込み、焼いて食ったという噂さえあった。若い母親も、自分の子を食った連中に犯され殺されたという。

 不良貴族子弟の愚連隊は、王都の民衆の鼻つまみ者で、恐怖と憎しみの的だった。

 ⋯⋯こんなやつら、殺しちゃっていいよね!



 よーし、いい訓練になるぞぉ~。まずはカムロに愚連隊の実態を探らせた。

 愚連隊は、十歳の少女でも強姦するようなゲス連中なので、女の子は後方支援や連絡係にした。過激派用語で偵察や情報収集活動を『レポ』と呼ぶ。男子には、このレポの任務を担わせる。

「いいか。これは訓練だ。命を張って社会をひっくり返す本番は、これからだ。それまで怪我をするな。敵に見つかったら、全てを放棄してすぐ逃げろ。捕まったら抵抗せず、殺されることのないように立ち回れ。尋問されたら、全て喋ってよい。常に二名以上で行動し、相棒が捕まったら、最速の方法で戻ってオレに報告しろ。直ちに部隊を編成し、斬り込んで奪還する。レポに出る前に、必ずオレと副長のジルベールの所在を確認しておくこと」

 カムロは、予想以上に有能だった。数日で愚連隊のアジトや構成員の情報が集約された。愚連隊は、大きいのは五集団あって棲み分けたり抗争したりしている。どの集団も大量殺人水準の悪事に手を染めている。どいつもこいつも快楽殺人者で、強姦魔の極悪人ぞろいだ。こんな異常な集団が発生するのは、『ファルールの地獄』の遺産なのかもしれない。

 もとよりレオンは、愚連隊を全部ぶっ潰すつもりだった。しかし、理由もなく殺し回るわけにはいかない。犯行現場で愚連隊が剣を抜いた場合にだけ、斬ることが許される。侯爵のメカケのガキがいるとかいう情報は、どうせ殺すつもりだし戦闘にはどうでもいいので無視した。しかし念のため国王には、ジュスティーヌを通して愚連隊の犯罪行為に関する報告書と、王宮親衛隊第四中隊による愚連隊せん滅作戦計画書を提出した。数日待ったが国王から返事は無かった。制止されなかったので、承認されたと考えることにした。

 現行犯でないと後々始末が面倒くさい。最近活発に悪事を働いている愚連隊にカムロを張りつかせ、血の気の多い親衛隊騎士と一緒にワクワクしながら待った。



 人間のクズのような愚連隊のやつらでも、悪いコトは、暗くなってからするらしい。夕方五時頃、カムロから親衛隊宿舎にレポが入った。

 愚連隊どもが、武装してアジトを出た。敵数は三十二人。やつらお得意の、ゆすりと強姦と押し込み強盗をするつもりだ。敵があまり弱いと訓練にならないので、こっちの数を少なくすることにした。主力の斬り込み隊が十名。逃げられて取りこぼしがないように裏口と表口に十名ずつ。合計三十名で出撃する。

 第四中隊の百五十名全員が、出撃したがっている。斬り込み隊には、技量よりも人を斬る経験をしたら伸びると見た者を中心に選んだ。表と裏口組も、人を斬ったら強くなりそうな者が中心だ。

「集合っ! 聴けっ! 愚連隊どもが、悪事に動き出した。罪状は、殺人、傷害、強盗、強姦といったところだ。我が第四中隊は、直ちに出撃し、これを粉砕する。敵に容赦するな。必ずトドメを刺せ。命乞いは無視しろ。目標は総せん滅。一人でも剣を抜いたら皆殺しだ。屋内での戦闘になる。七分以内に完全武装し、集合っ!」

 十五分ごとにレポから連絡がくる。愚連隊は、中流階級地域の商店を狙っているらしい。距離を詰めるために部隊を移動させる。完全武装の親衛隊騎士が三十名。参加できず見学する平服に剣をぶち込んだ騎士が百二十名。こんな集団が、目を血走らせ殺気をみなぎらせて赤い軍旗を先頭に無言で行進するのだから、おそろしく目立った。

 やがて、愚連隊が居酒屋に入って暴れ始めたとレポが入る。花売り娘に化けた美少女カムロが、その場所まで先導する。居酒屋近くで部隊は一旦停止し、敵数と地形を最終確認。全員に周知する。⋯⋯問題なしっ。では突入だ。まず、裏口担当部隊が走っていく。雰囲気が、ちょっと忠臣蔵の討ち入りに似ている。


 選ばれた九人の騎士を引き連れたレオンは、入口まで歩いていった。背後では表口を固める部隊が走って散開する。入口で下っ端ゴロツキが、なにやら見張りをしていた。抜き身の剣をチラチラさせて威嚇してるつもりでいる。馬鹿だ。レオンが目の前に立ったら、体をクネクネさせながら凄んできた。

「おー、なんだオメー⋯⋯」

 バシュ───────────ッ!

 得意の居合いで、腹から胸まで斜め袈裟に斬り上げた。この斬り方は、派手に血が噴き出て景気がいい。ちゃんと死ぬように、返す刀で喉を薙いでやった。

 ヒョ────────ッ と音をたてて、死体が転がる。

 すぐさま扉を蹴り破って屋内に突入する。棚から叩き落とされて割れた大量の酒壷と、袋叩きにされて半死半生の店員が数人転がっている。三人ほどの女店員が、裸に剥かれ四つん這いにされ、踏んづけられたり蹴られたりして、なぶられていた。

「おう、親衛隊第四中隊だ。降伏するか剣を抜くか、好きな方を選びなっ!」

 さっき見張りを斬り捨てた脇差しを、愚連隊に向け勢いよく振ってやった。ピピピピッと、連中のツラに血が飛び散った。

「やろう、ぶっ殺してやる!」

 数人が抜いたが、ゴロツキ愚連隊のくせに半数以上は、おびえて戸惑っている。

「どうした? ほれ、全員抜けよ。訓練にならないだろーがっ。ふふ⋯、一人でも抜いたからには、降伏は認めない。抜かなかったら、斬られて死ぬだけだぞ。ふっふっふっ⋯」

 剣を抜くこともできずガタガタふるえている腰抜けの近くに寄って、刺身包丁を七十センチに伸ばして肉厚にしたような脇差しの白刃を脳天に叩きつけた。頭が二つに割れ、顎まで刃が届いた。床に脳をブチまける。ひっくり返ってゴキブリのように数秒ジタバタしてから、こいつは死んだ。

「親衛隊第四中隊、レオン・マルクス中佐が、貴様らをせん滅する。おら、抵抗しろ。どうせ皆殺しだっ! 次はおまえの番だ!」

 今度は、なぶり者にしていた女店員の周りにたかっていたクズどもに向けて、脇差しを振ってやった。剣にこびりついた脳と血が飛び散って、ピチピチとクズどもの顔面に当たる。ようやく愚連隊の全員が剣を抜いた。よぉーし!

「かかれっ! 一人も生かして帰すなっ!」

 後ろで今か今かと待っていた九人の親衛隊騎士が、凄まじい勢いで襲いかかった。人数比は一対三だが、敵が弱すぎて相手にならない。戦闘は、敵を包囲して絶滅する『せん滅戦』の典型になった。とはいっても突入部隊の手が足りず、数人が裏口から逃亡した。そいつらは、ぬかりなく配置していた裏口担当部隊に、アッという間にナマスに切り刻まれた。

 入口に血だらけ死体が転がっている。店内から戦闘音と悲鳴や叫び声が響く。当たり前だが、野次馬が集まってきた。



 よしよし、第四中隊の強いところを、よーく見せてやるぜぇ。王都中にウワサを広げてくれい。

 実戦訓練なのだから、なるべくオレは手を出さずに見ている。部下たちは、危なげなく斬りまくる。何人かの敵が、腰を抜かして尻餅をつきふるえていた。そいつらの襟を掴んで引きずり、外に放り出した。地面に這いつくばってるところを、表口部隊が突進してメチャメチャに斬り刻む。王都民の憎悪の的である愚連隊が退治されていると知った野次馬大衆は、歓声を上げ拍手喝采だー!

 戦闘は、二十分足らずで終わった。敵は三十二人全員死亡。居酒屋は血の海になった。血で足を滑らせて尻餅をつき酒壷の破片で手を切ったのが、味方の唯一の被害だ。愚連隊の死体は、持って帰っても邪魔なので、王都民の評判になるよう、よく見えるように並べて路上に放置することにした。

 念のため戦場を回って死体の数を数え、敵の全滅を確認。凱歌を上げた。

「よくやった! 親衛隊第四中隊っ!」

「うお──────────っ! 親衛隊第四中隊っ!」

 プロの軍隊にゴロツキ愚連隊が勝てるはずもないが、それにしても一方的に勝った。王都民の人気もあがった。もっと愚連隊を打倒して、第四中隊を鍛えなければ!

 赤地に鎌とハンマーをあしらったソ連国旗みたいな軍旗を先頭に、第四中隊は、親衛隊宿舎まで軍歌を唱和しながら凱旋する。



 ソ連国旗だとハンマーの頭が左側にあるが、第四中隊の軍旗は右側になる。革命的共産主義者であるトロツキストの鎌鎚旗は、スターリン主義党と逆なのだ。ハンマーの柄の部分に4の文字を加えた第四インターナショナルのマークを借用した。第四中隊なので、ちょうどよい。


♪起て! 飢えたる者よ 今ぞ日は近し

♪さめよ我がはらから あかつきは来ぬ

♪暴虐の鎖 断つ日 旗は血に燃えて

♪海をへだてつ我ら かいな結びゆく


♪いざ闘わん いざ ふるい立て いざ

♪あぁ! インターナショナル 我らがもの

♪いざ闘わん いざ ふるい立て いざ

♪あぁ! インターナショナル 我らがもの


♪聞け! 我らが雄たけび 天地とどろきて

♪かばね越ゆる我が旗 行く手を守る

♪圧制の壁破りて 固き我がかいな

♪今ぞ高く掲げん 我が勝利の旗 


 親衛隊第四中隊の軍歌に化けた革命歌『インターナショナル』をガナりながら野次馬の人だかりの中を行進し、親衛隊宿舎に到着した。

 興奮して武勇伝を語り合っている騎士たちに一時間ほど付き合い、居候している王宮三階に戻った。部屋に入るとジュスティーヌが、セレンティアではもう深夜なのに寝ないで待っている。アリーヌも主人の話し相手をしていたようだ。他の侍女たちはもう寝ているのに、侍女のカガミである。

 侍女のカガミは、オレの顔を見るなり心底嫌そうな顔をした。

「血だらけですわっ。野良犬でも斬ったのですか? もう! なんて野蛮なっ!」

 仕事で戦ってきたのに、心外だ。

「戦闘だ。二人ばかり叩き斬った」

 ガタッとジュスティーヌが立ち上がり、駆け寄ってきた。

「あなたっ、お怪我はありませんか?」

「ないない、弱くてお話にならなかった。侯爵のメカケのガキとかいうやつを、ぶっ殺してやったわ。わはははははっ!」

 ジュスティーヌとアリーヌが、顔を見合わせ暗い表情になった。(この人は、また面倒事を⋯⋯)。

 とにかく真っ赤に血まみれのレオンを、どうにかしなければならない。

「お風呂にお入り下さいな。あなたは、血だらけなのですから」

 レオンが、パシッとジュスティーヌの腕を掴んだ。

「一緒に入ろう。フフ⋯。人を殺すと気分が高ぶるなぁ」

 それを見たアリーヌは⋯⋯もうあきらめていた。でも、こんな男に姫様が惑わされるのを見るのは、くやしい。

「それではっ、わたくしはっ、お休みさせてっ、いただきますわっ」

 部屋から出ていってしまった。本当は、侍女が入浴の仕度をしなければならないのに。

「あー、待てよ。当番カムロを呼んでくれ」

 アリーヌは、また心から嫌そうにレオンに振り向いた。

「はい、承知しました。⋯⋯人殺しに子供を使うのですかっ?」


 レオンは、王宮と親衛隊宿舎に連絡係の当番カムロを置いている。とりわけ見た目のよい者を選び、普段は王宮の下働きという名目だ。働き者で気が利くので、侍女や女官にも評判がよい。寝ていたはずだが、数分で飛んできた。

「グロカン、ボンタ、ハサマ、ローザに伝達せよ。逃げやがる前に、愚連隊どもを追撃する。カムロは、十時までに攻撃対象とする愚連隊アジトを選定せよ。続いてレポ活動に移行。レポとは別に、攻撃の口実とする犯罪事実の証拠を押さえよ。十五時までに資料をそろえ最終報告を行え。目標選定後、レポは十五分ごとに状況を報告すること。攻撃開始予定時刻は、十七時とする」

 それなりの額の特別活動費を渡した。愚連隊に仲間を殺されたり、虐げられてきた元浮浪児は、目を輝かせて孤児院に駆けていった。


 王都民は拍手喝采でも、不良セガレを殺された貴族どもからは非難轟々だろうとレオンは、予想していた。ところが非難の声は、全くといってよいほど上がらなかった。

 一門の者がケガレ役人の警備隊ごときに逮捕されるなど、家名に傷がつく。仕方なく鼻つまみの犯罪者でも、圧力をかけて釈放させた。しかし、これからもどんな迷惑をかけてくるかわからない。貴族家に一生寄生するつもりの厄介者に対する本心は、「どこかに消えろ。死んでくれ」だった。なので「殺されてくれてありがたい」くらいが、多くの貴族どもの本音だった。

 事件に関わりのない貴族たちも、愚連隊に迷惑をかけられた平民の知人はいくらもいた。愚連隊など貴族の面汚しだと嫌っていたので、特に苦情はなかった。貴族が平民づれの警備隊に逮捕されるのだけは階級意識的に不快だった。しかし、貴族エリート集団の王宮親衛隊に斬られるのなら、むしろ誉れだろう。

 国王は、ジュスティーヌから上げられた愚連隊に関する報告書を読み、足元の王都で不良貴族子弟の暴力団がはびこっていることを知り、今まであまりにも平民の暮らしに無頓着であったことを省みていた。レオンの「国とは、民あってこそ成り立つものでございましょう」という皮肉めいた言葉が思い出された。温厚とはいえ専制君主である国王に対して、へつらわず直言してくるレオンの存在は貴重だった。贅沢をせず荒事を好み、宮廷政治にまったく関心を持たないレオンの性格は、好ましい。

 朝一番で国王に、レオン率いる王宮親衛隊第四中隊が、愚連隊三十二人を皆殺しにしたという報告が入った。さすがに驚いたが良いとも悪いともいわず、黙って国王は執務を始めた。貴族どもの反応を伺っていたのだ。

 意外にも王宮の貴族たちは、愚連隊せん滅に好意的だった。やがてレオンから、昨日の愚連隊討伐の報告書が上がってきた。まるで本当の戦争みたいに、「武装した愚連隊に対し、さらなる追撃を加える」などと書かれている。国王は、なにも言わずレオンの自由にさせることにした。


 夜明けとともに起床ラッパが鳴り、宿舎の親衛隊騎士が起きだしてきた。ただちに第四中隊の騎士たちは、集会場に集められた。レオンが演説を始めた。

「昨日はよくやった。だがこの程度で終わりではないっ! 第四中隊は、愚連隊に対しさらに追撃を加える。本日十五時より作戦行動を開始。十七時より戦闘を開始する予定だ。緊急時以外は、隊舎を離れないこと。以上。よく休んで英気を養え」

 うおぉぉ───────────っ!!!


 親衛隊騎士は、大喜びだ。見学や留守番だった連中は、本当に人を斬った同僚がうらやましくてたまらなかった。今度こそ人を斬れるかもしれない!

 十時前に、カムロリーダーのグロカンとボンタが来た。本来の所属は騎馬隊なのだが、副長としてジルベール大尉も作戦会議に加えた。ボンタが説明する。

「このブラックデュークという愚連隊が、一番大きくて強力です。総数は約百人。アジトに毎日九十人ほどが集まっています」

 レオンが鼻で笑う。

「デューク? ふんっ。公爵のドラ息子でも混じってるのか?」

「はい。ルイワール公爵家が後ろ盾で、ルイワール公爵のセガレが御輿に担がれています。今までは、だれも手を出せませんでした。⋯今までは⋯⋯」

 クックックックックックッ⋯⋯。そこにいる全員が笑い出した。悪い顔をしている。

 親衛隊は、軍と警察の両方の権能を持つ。一応ケーサツなので法律には従いたい。幕僚が言い出した。

「だが、犯罪の証拠を掴まないと踏み込めないな」

「女を監禁して性奴隷にしています。女の数は、三人から五人」

 さらって、犯して、弱ったら殺して。定期的に女を入れ替えている。悲惨なだけで、色気は微塵も感じない。

「間違いないか?」

「複数の目撃者がいます。昨日の夜もアジトから複数の女の悲鳴や叫び声が聞こえました。アジトにはそれ以外にも、死体や盗品が山になっているはずです」

 ブラックデューク愚連隊の殺人を目撃した者だけで、三十人は下らない。この目撃証言だけでも、後はどうにでもなりそうだ。

「アジトに火をつけて、逃げてくるやつを片っ端から斬るってのは⋯、女と証拠が焼けちまうな」

 レオンのアイデアは、常に荒っぽい。地図を見ながらジルベール大尉がつぶやいた。

「敵が剣を抜かないと、斬れないんですよね。面倒だなぁ」

 面白そうにレオンが言った。

「よし。じゃあ、女をダシにしてオレがひと芝居打とう。アジトの目の前で女が襲われる。愚連隊が出てきたら、挑発する⋯。マリアンヌとキャトウを呼べ」

 マリアンヌは、タヌキ系の丸顔でたれ目気味の優しげな美人。胸がデカい。キャトウは、シャム猫を思わせるシュッとした猫美人だ。まるでタイプは違うが仲は良く、二人とも侍女としては最高位の一級で王宮王家付きだ。こんな美人は、街中ではなかなか見かけない。マリアンヌは渋々、キャトウは面白そうな顔をしてやってきた。

 レオンが、嬉しそうな顔をしている。

「幕僚諸君! 今回の作戦で、オトリになる二人だ。強いぞ。マリアンヌは、ルーマ巡礼の時にオレの毒殺をたくらんだ」

 マリアンヌは、飛び上がった。

「ちがっ! あれは違いますわ。命令があるかもで⋯⋯その、仕方なかったんです。ううっ」

「なにが違うんだよぉ。オレの様子をうかがう目つきったらなかったぜ。腹が立って殺しそうになっちまった。ははは⋯」

 たしかに命令とはいえ、毒殺はひどい。マリアンヌは、うつむいてしまった。

「それに強いぞぉ。投げ剣で暗殺団を二人も始末している。なあ、マリアンヌ?」

「ううう⋯うう。だって、あれは、あれは⋯⋯」

 顔を真っ赤にして、プルプルふるえている。

「二人殺したくらいで、ビクビクすんな! 立派じゃないかよ! こいつの王宮一級侍女は、仮の姿だ。正体は、王族守護の武装保安員だ。暗殺もできる」

「もおぉぉ! どうして話すんですか? 極秘事項ですわ」

「オレの幕僚なら大丈夫だよ。で、キャトウも同類。こいつは、状況判断に優れている。オレを監禁して見張ってた時だったかな、押さえ込んで腕をへし折ってやろうとしたら、自分で肩関節を外して逃げやがった。蹴り飛ばしたら気絶したフリなんかしやがってよぉ。おまえは、トカゲか?」

「アハッ、アハッ、アハハハハ! なーにいってんですかー。やだなーもー」

 笑ってごまかすキャトウ。この二人は、性格も対照的だった。

「おまえらには、愚連隊をおびき出すオトリをやってもらう。危なくなったら、例の暗器で殺っちまっていいぞ」

「お断りしますわ。わたくしの任務は、ジュスティーヌ様のお世話と守護ですもの」

「そーです。そうなんですよー。お断りですー」

「あぁ、保安部に話を通し、正式に命令として下達させる。⋯下がれ。十三時に出頭せよっ!」

 とりつく島もない。二人は侍女から保安要員モードに切り替わった。

「はっ!」

「はいっ!」

 そして再び侍女モードに戻った二人は、嫌そ~に引き上げていった。


 意外にもレオンは、作戦立案の段階では、極めて民主的だった。有能な幕僚を集めて自由に意見を述べさせて議論を尽くし、集合知を結集させて、最終的に作戦を組み立てる。ただし戦闘が始まると独裁者になった。

 過激派出身のレオンが少人数のゲリラ戦を得意とすると思ったら、真逆だった。どうしても機動隊の精鋭部隊の壁を破れず、特殊編成した部隊による無理に無理を重ねたゲリラ戦を取らざる得なかった開港阻止闘争は、自分が死んだこともあって苦い記憶だ。

 レオンは、物量で圧倒し数倍の戦力をぶつけて敵を撃破する戦法と後方でのゲリラ活動を組み合わせ、さらに敵地を焼け野原にする焦土作戦を好んだ。過激派のゲリラ活動に仇敵であった機動隊の戦術とアメリカ軍の戦法を合体させたのだ。軍隊を強くする以上に、そのような戦略を可能とする国力を育てることが、これからのレオンの目標になる。

 レオンの元人格である過激派の新東嶺風は、戦争を将棋のような知恵較べや技術とみる孫子ではなく、ドイツ観念哲学の論理で書かれたクラウゼヴィッツの『戦争論』に傾倒していた。「戦争は政治の延長」という有名な命題を踏まえながらも、『せん滅戦』『絶対戦争』という概念に見られる軍事力の行使を極限まで高めて敵を打倒し政治的にも勝利をおさめる「暴力の行使の貫徹による敵に対する自己の意志の強制」を志向していた。要するに「暴力で敵を打ち倒せば後はなんとでもなる」なのだ。いかにも過激派のレオンらしい。

 レオンは、親衛隊第四中隊の騎士を、文字通り一人ずつ舐めるようにして育てていた。剣技では、この世界の達人レベルに達した者が何人もいた。学では、騎士たちに最も強い影響を与えたのは哲学だったが、実学でも一部は微積分まで達していた。『外』の水準と比較すれば、この集団のレベルは、ずば抜けていた。

 親衛隊騎士は、貴族子弟の集まりだ。強いコネ=政治力がある。なによりも隊長のレオンが国王の娘婿である。しかし、レオンは、元々過激派なので政治力以上に軍事力=暴力を重視していた。殺人にまで至る暴力の行使には、物量とともに戦意と経験が決定的な意味を持つ。人を斬ると強くなるという事実は、技術以上に人を殺すことで精神面での枷が外れることが大きいのだろう。ならば、強くするために親衛隊騎士に実戦と殺人を経験させよう。

 これが『愚連隊狩り』である。実際に人を殺せる軍事演習など、他にない。しかもターゲットは、権力をカサに弱い者をいたぶり殺すようなクズ中のクズだ。念のために書いておくと、レオンは、たとえ相手が『人間のクズ』でなくても、『敵』ならば打ち倒すことにためらいはない。


 謀略家のグロカン、行動派のボンタ、テロ志向のハサマといったカムロリーダーが交代で現れ、ブラックデュークの動向を報告してきた。

 昨夜の居酒屋の愚連隊全滅事件は衝撃だったらしく、敵はさかんにアジトから出たり入ったりしている。

「やつらが緊急召集をかけました。暗くなる前に全員がアジトに集まるはずです」

「緊急召集? 連中はなにをするんだ?」

「幹部が集まっています。会議でしょう。方針が決まったら下っ端を集めて組織固めの集会ですかね」

「『過激派』みたいだ。どこもやることはかわんねぇなぁ」


 十五時になった。親衛隊第四中隊の騎士たちは、完全武装でやる気満々だ。レオンが、作戦の説明と演説を始めた。

「予定通り十七時より戦闘を開始する。敵は、二階建ての非常に広い廃屋敷をアジトにしている。中がどうなっているか、詳細には分からん。同時期に建てられた似たような建物を参考に図面をつくった。よーく見ておけ。地下室に女が何人か監禁されている。別働隊を編成して救出する。志願者はいるか?」

 シ──────────────ン


「ん? 人助けより、人殺しがしたいか? なぶり者にされてるくらいだから、けっこうカワイイだろうし、たぶん裸だぞ」

 ゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラ!


 ロクなことを言わない。エリート貴族子弟からなる親衛隊騎士も、ずいぶんガラが悪くなった。レオンを含めて連中には、女の子に対する同情の念や人命優先などといった殊勝な気持ちは、カケラも無かった。

「敵数は、約九十だ。敵地が戦場になる。突入部隊は六十名。二階が一班、一階が二班、地下室が三班。それぞれ二十名ずつだ。敵は特定の階に集中している可能性が高い。その場合は、早急に救援に向かうこと。昨日よりはるかに戦域が広いので注意しろ。廃屋敷の外周の前後左右に、部隊を配置する。アジトから逃げてくるやつは斬れ。一人も逃がすなよ。敵が人質をとった場合は、交渉は無用だ。躊躇せず斬れ。人質の安否を顧慮する必要はない。ゲス貴族のツテで罪を逃れようとしやがるので、敵の降伏は認めない。捕虜をつくるな。最後に敵アジトに火を放つ⋯可能性も考慮している。火が出たり撤退の合図があったら、ただちに引くこと。生きている味方は、絶対に置いていくな。死んでいる場合も、できる限り死体を回収すること。焼けちまうからな」

 ゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラ!


 親衛隊騎士は、若くて血の気が多い。危険であればあるほど志気が上がる。この平和な時代に殺し合いの本物の戦闘ができるなんて、隊長には感謝しかない!

 十六時に、例のカマ・トンカチマークの赤い軍旗を先頭に部隊が出撃した。

 当然だが昨日の事件は、王都民の話題の的になっていた。鬼のように強いマルクス中佐の第四中隊がまた出てきたので、大勢の野次馬がガヤガヤと後をついてくる。十六時半に策源地に到達。カムロより最終報告を受ける。全て予定通りだ。三十分で部隊が配置についた。



 百人以上は住めそうな廃屋敷の前庭に、若い女が二人逃げ込んできた。商家の娘風の装いだが、顔つきは⋯なんだか⋯侍女みたいだ。剣を差した熊に似た男が追いかけてくる。廃屋の玄関先で女が二人とも、ベシャッところんだ。哀しいほどに大根役者である。レオンは、二人を見比べて、マリアンヌに馬乗りになった。「よっこらせっと」。

「どーして、見比べてからマリアンヌさんを選ぶんですかー!」

「キャトウは、胸が無いからつまらない」

「まぁ、いやらしいですわ! そんなふうに見てらしたんですね! いやらしいっ!」

 声が漏れ聞こえてくる。隠れて見ている突入部隊は、気が気ではない。隊長が斬られたら、えらいことだ。

「へっへっへっへっへっへっ。タヌキみたいカワイイ顔しやがってよう。ウヒヒヒヒヒ!」

 えーと、えいっ。モミ!

 ギャ─────────────ッ!


「マリアンヌに、なにすんですかー! このエロ伯爵っ!」

 キック! キック! キック! キック! キック!

「いて、いて、いててっ! 演技っ! 演技だってのに! 作戦だって言ったろ!」

 今度はキャトウの足を掴んで尻餅をつかせ、のしかかった。

「へっへっへっへっ。小生意気なツラしやがって。よく見りゃ、カワイイじゃねえか。ウヒヒヒ、乳だって⋯」

 えーと⋯⋯。

「⋯おまえ、無いなぁ」

「ひっどーい!」

「あんまりですわ。キャトウは、立派な女性ですっ! もう降りてください」

 キャトウ、膝蹴り! 膝蹴り! 膝蹴り! 膝蹴り!

 マリアンヌ、チョップ! チョップ! チョップ! チョップ!

 二人ともかなり格闘術をやる。強い。強いのでかなり痛い。

「いて、いたた、いたたっ! 本気で殴るなよう! だから任務⋯」

 レオンが女たちに、ぶったり蹴ったりされていると、騒ぎを聞いてやっと廃屋から愚連隊が出てきてくれた。

「おう、ヘヘヘヘ。オンナじゃねえか。おう、てめえ。ブラックデューク様にオンナを献上して、とっとと消え失せろ」

「ここをどこだか知らねぇとは、馬鹿な野郎だぜ。ゲハハハ!」

「おい、こりゃあ、いいオンナだぜ。みんな喜ぶぜぇ。早く中に引きずり込んで犯っちまおう」

 なかなかクズい三人が出てきた。狙いどおり三人とも剣で武装している。

 レオンの口の悪さは、愚連隊に負けていなかった。

「うるせえ、ガキ! へっ! コトが終わったら、おこぼれにあずからせてやるぜえっ。見物させてやるから、そこで指をくわえて眺めてな。ギャハハハハ!」

「なんだ、てめえ。殺すぞ。オンナを置いて失せろって言ってんだよ」

 剣の柄に手をかけた。あと少し。

「へへっ。オレの精液でもくらいなっ!」

 ぺっ!

 クズの顔面に唾を吐きかけてやった。

「野郎っ! 殺すっ!」

 よーし、剣を抜いた。一瞬でレオンは立ち上がり、抜きざまに愚連隊の眉間から顎まで斬り下ろした。残った二人も、マリアンヌとキャトウの投げた短刀が腹に突き刺さり転がっている。レオンが喉を薙いでトドメを刺した。

「死んじまいな。ガキ」

 隠れていた部隊に号令する。

「よし! 突入っ!」

 十秒で部隊が玄関前に殺到してきた。目の前に三つも死体が転がっているのを見て、一瞬足が止まる。ビビッたのではない。一瞬で三人も始末したレオンたちに驚嘆したのだ。

「どーした? 死体がなんだ? またいで行けっ。突撃っ! 攻撃開始っ!」

 気を取り直した六十名の部隊が、勇んで突っ込んでいった。すぐに悲鳴や、斬り合いというより一方的に斬りたてる音が聞こえてくる。

「マリアンヌとキャトウは、後方で支援せよ。それと警備に野次馬を近くまで通せと伝えろ。民衆には、娯楽が必要だからなっ。クックックッ⋯」

 尻餅をついていた二人は、跳ねるように立ち上がった。

「はいっ」

「はいーっ」

 レオンが、最後に廃屋に入る。振り向いて、駆けていこうとするキャトウに声をかけた。

「気にすんなよ」

「よけいなお世話ですよーっ!」

 新東嶺風が死んだ一九七八年には、セクハラなんて言葉はなかった。


 一階は、二十も死体が転がり、血の池がいくつもできていた。よしよし。ゴロツキ愚連隊どもに、言っておいてやろう。

「戦闘停止っ!」

 斬り合いの音が途切れた。

「我々は、王宮親衛隊第四中隊だ。オレは、隊長のレオン・マルクス中佐である」

 いくらなんでも、昨日の今日で斬り込んでくるとは思わなかったのだろう。愚連隊のクズどもは動揺している。

「愚連隊集団ブラックデューク構成員に対し、殺人・誘拐・監禁・強姦・強盗・傷害・凶器の不法所持、さらに親衛隊に対する凶器を用いた武装抵抗罪により、戦時刑法にもとづく部隊長司法権限に則り死刑を宣告する。降伏は認めない。武器を持たぬ者でも、その場で処刑する。戦闘終了後に屋敷を焼き払う。隠れても無駄だ。おまえらが生き残る唯一の道は、戦って血路を開くことのみだ。死にたくないなら、やってみろ。⋯いいぞ。戦闘再開っ!」

 凄まじい戦闘音が響き渡った。愚連隊の戦意が一気に増したようだ。「抵抗しなければ、ゆるしてもらえる」とか甘っちょろいことを考えていたやつらも、武器を取ったのだろう。相手は、愚連隊から見れば殺人集団である親衛隊第四中隊とレオン・マルクス中佐だ。降伏しても殺されるなら、開き直って戦うしかない。

 降伏しても殺すというのはひどいようだが、一味には高位貴族の子弟がいる。命を助けたら悪事はウヤムヤにされ、再び街や領地に放たれ凶悪犯罪を始める。 赤ん坊を蹴り殺して焼いて食ったとかいう証言まである平民を人と思っていない極悪人どもだ。殺すしかない。そうしなければ、再び赤ん坊が蹴り殺され、力の無い民衆が踏みにじられる。そうレオンは、信じている。



 さーて、地下室に女どもが監禁されている。助けてやるかいな。副官格の傷のジルベールと二人で降りていくと、血だらけ死体が十個ほど床に転がっていた。地下室部隊は、獲物を求めて去った後だ。かなり広い地下室に格子のついた牢があり、女が四人閉じこめられていた。ボロをまとったガリガリ女が鎖にでも繋がれているのを想像していたら、栄養状態が良く、色っぽい服を着ている。それに皆さん、けっこうカワイイ。まあ、犯すにしてもブサイクは嫌だもんな。

「あー、救助にきたぞぉー」

 女たちは、両手で格子を掴んでガタガタ揺らしている。

「火をつけるんですね? お願いです、早く助けてください!」

「カギはどこにある?」

「わ、わかりません⋯」

「困ったなぁ。おーい、だれかハンマーを持ってこーい!」

 ジルベールは、レオンよりかはデリカシーがある。女が対応したほうが良いだろうと考えた。

「マリアンヌとキャトウ、それにローザを呼べ」

 忠臣蔵や革共同両派の内ゲバ戦争を参考に、部隊はハンマーやマサカリに斧まで持ち込んでいる。途中、ハンマーで頭を粉々にブチ割られた死体を見かけたが、あれはいったいなんだったんだろう?

「ハンマーが届くまで質問するぞ。やつらが人を殺すところを見たか?」

 コクコクコクと四人ともうなずく。

「死体のありかは、わかるか?」

「庭や地下室の隅に埋めていました。はっ、早く出してくださいっ」

「道具が届かなきゃ、どうにもならんよ。やつらは何人殺している?」

「見ただけで⋯九人です」

「軍事法廷で証言してもらうぞ」

「えっ。それは⋯⋯」

 また、女に優しいジルベールが口を出す。

「安心しなよ。非公開だよ。顔や身許が知られることはないから」

 マリアンヌが先導してキャトウとローザが、二人がかりでハンマーを担いで持ってきた。レオンは片手でハンマーを持ち上げる。

「離れてろよー。うりゃあ!」

 凄まじい音を立てて鉄格子の扉が吹っ飛んだ。

「マリアンヌは、女を保護し適切な治療を施せ。キャトウとローザは、牢内を捜索しろ。終わったらマリアンヌに合流し、その指示に従え。証言をとるのに必要だ。氏名住所を聞き出せ。女どもから目を離すな⋯。⋯⋯逃がすなよ。いいな」

 マリアンヌは、暗い顔をしている。心根が優しいのだ。

「⋯⋯はい」


 一時間で、とりあえず戦闘は終わった。死体の数は七十八。廃屋から引きずり出して、野次馬によーく見えるように前庭に並べた。思ったよりも少ない。愚連隊は九十人以上いたはずだ。

 やろうども、うまく隠れていやがるな!

「複数の敵が、屋敷内に潜伏している。三人一組になって捜索せよ。捜索終了後、屋敷に火を放ち全焼させるっ!」

 隠れている愚連隊や野次馬に聞こえるように、わざと大声で言ってやった。野次馬は、拍手喝采。隠れ愚連隊どもは、青くなった。証拠が焼けてしまうので、本当は屋敷を焼き払うまではしたくない。

 三人一組になり一人が斧やハンマーを使って怪しいところをぶち壊し、二人が剣を構えて待機。そんなのが十組も家捜しをし始めた。天井裏に隠れていた愚連隊が摘発され、引きずられてきた。その場で殺さなかったのは、他の隠れ場所を吐かせるためだ。

 ヒョロヒョロしたガキだ。フランセワ王国では十五歳から成人なのだが、まだ成人していないように見える。レオンは、女に対しては全く差別も区別も容赦もしなかったが、子供には優しかった。

 だが、どうも引っかかる⋯⋯。鼻先に剣を突きつけて尋問する。

「名を言え」

「わ、われは、ルイワール公爵家ゆかりの者で、ある~」

 ジルベールが口を挟んだ。

「ルイワールのメカケのガキですね。で、公爵家のもんが、こんな所でナニやってんだ? ん?」

「さっ、さそわれて⋯⋯。初めてここに⋯⋯」

 ジルベールは、頭が切れる。

「ヘタなウソをつきやがって。初めてのわりに隠れ場所をよく知ってたなぁ? あぁ? 他のやつらはどこに隠れた? 言え」

 レオンが知りたいのは、それよりも⋯⋯。

「おまえ、なん歳だ?」

「われは⋯おととい⋯十五歳になった。おっ、大人だっ。成人貴族の権利がぁ⋯」

 レオンが、にやりと笑った。ちょっと民衆を喜ばしてやろう。

 公爵家のメカケ腹のえりがみを掴み、黒山になっている野次馬の前に引きずって行く。「民の声は神の声なり」ってな。

 外は、そろそろ薄暗くなってきた。髪をひっ掴み無理やり顔を上げさせ、野次馬にさらす。

「聴け! こいつは、たまたま居合わせただけだという。本当か?」

 シ─────────ン⋯⋯


 色白でまだ幼さが残っている。細っこい子供みたいだ。とても凶悪な愚連隊には見えない。この子を殺してしまうのは⋯ちょっと⋯。大衆は、おおむね良識的だ。

 顔を見合わせている群衆の一人が指さして叫んだ。

「あっ! あいつだ! おまえの腕を⋯」

 片腕の男が引っ張られて前に出てきた。すっかり興奮している。

「本当だ。あのガキっ、オレの腕をっ⋯!」

 レオンが口を入れた。

「斬ったのかい?」

 興奮しているが、おっかないレオンには礼儀正しい。残った片腕を振り回しながら説明する。

「通りかかっただけなのに、手下に指図しやがって。ちくしょう! オレの腕を! デュークとか呼ばれて子分に威張ってました」

「ほほう⋯⋯。見かけによらずエラかったんだなあ。よーし」

 そう言うなりレオンはデュークを突き放し、剣を払って居合いで腕を斬り飛ばした。肘から左腕が切断され、地面に転がる。

「ギャッ!」

 レオンは、地面に落ちた腕を剣先に突き刺して、片腕の男の前にそいつを出した。

「ほら、プレゼントだ。受けとんな」

「ひっ! はっ、はひ! あり、ありがとうございます」

 数百人の野次馬がレオンを遠巻きに囲み、固唾を飲んで見守っている。よほど痛いのかデュークは、残った手で腕の切断面を押さえて地面に転がりふるえている。左半身が真っ赤だ。レオンは、群衆に向き直った。

「さあ、みんな。こいつをどうする?」

 野次馬たちは、たじろいだ。デュークは、公爵家ゆかりの者とか言ってた。愚連隊で威張っていたところを見ると本当だろう。下手なことを言うと、とばっちりが⋯⋯。みな黙って下を向いてしまった。

 レオンが手を下すのは簡単なのだ。だが、民衆が「殺せっ!」と言うように仕向けたい。レオン個人の行為ではなく、民衆の支持と要求を得たいのだ。貴族どもに対する平民の恐怖心を打ち倒すこと。それが人民の意志を固め、革命性を引き出すのだ。

「どうした? こいつは、おまえたちを虐げていた愚連隊の御輿だぞ?」

 野次馬たちは、たじろいでいる。

「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」

「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」

「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」


 ヒョロロ~、ポテ⋯⋯


 地面に倒れふるえているデュークの腹のあたりに、小石が落ちてきた。見ると、ばさばさの白髪で穴だらけの服をまとった八十歳ほどに見える老婆が、ヨロヨロと足下の小石を拾っている。やはり貧しい身なりの栗毛の少女が、老婆を支えていた。この少女がいなければ、老婆はその場でへたり込み二度と立ち上がれないかもしれない⋯。

 老婆は、小石を投げた。

「セガレを、かえせぇ~」

 ヒョロロ~、ポテ⋯⋯

「ヨメを、かえせぇ~」

 ヒョロロ~、ポテ⋯⋯

 支えながら少女が小石を拾って老婆に渡した。

「マゴを、かえせぇぇ~」

 ヒョロロロ~、ポテ⋯⋯


 小石はデュークの腹のあたりに落ちるが、痛くもなんともなかろう。斬られた腕をかばって、老婆の投げた小石には気づきもしない。呆気にとられたレオンだが、バアさんは⋯⋯無理だろうな⋯。少女に話しかけた。

「どういうわけだ?」

 少女は、デュークを指差して静かな落ち着いた声で訴えた。

「こいつが、お父さんと、お母さんと、弟たちを殺しました」

「ほう。なぜ?」

 こいつの悪事をレオンに言いつけたら、公爵家に殺されるかもしれない。少女は蒼白で、感情を失ったような顔だ。

「分かりません。気に入らないとか言ってました。笑いながら、お父さんと、お母さんと、ジェイ君と、ケイちゃんを斬り殺して川に投げ込んだんです」

 レオンは、この少女に興味を持った。膝をついて目線を合わせる。貴族が平民の前で膝をつくなどセレンティアでは考えられないが、レオンは平気だ。

「名前は?」

「⋯えっ?」

「名前は?」

「あの⋯、エステルです」

「いい名前だ。何歳だ?」

「もうじき十四歳になります」

「婆さんの状態は? そろそろ死ぬのか?」

 ひどい言いようだが、これでもレオンはエステルを気遣っている。

「⋯⋯分かりません。近所の人が親切にしてくれるので⋯まだ⋯」

「苦労してるな。危なくなったら王立診療所に連れていけ。満員でもレオン・マルクスの名を出せば受け入れてくれる。⋯⋯さーてと、この野郎は婆さんより先にあの世行きだ⋯」

 まだ地面に転がりうめいているデュークのえりがみを持って立ち上がらせ、手荒に髪を掴んで顔を上げ野次馬にさらしてやる。

「さあ、王都民よ。こいつをどうする?」

 シ─────────────ン⋯⋯

「コワいのか? ああっ? それでも男かっ!」


「⋯⋯こっ、殺せっ」

「そうだ! 殺しちまえっ!」

「こんなやつ、死んであったりめえだ!」

「死ねっ!」

 ワアァァァァァアァァァァァ! ワァアァァァァァアァァァァァ! ワアァァァァァアァァァァァ!


 何個か石が飛んできてレオンにまで当たる。

「おう。一番ぶっとくて重い剣を持ってこい!」

 そばにいた伝令カムロが駆けていく。すぐにバカでかい剣を担いで持ってきた。愚連隊はマッチョで虚栄心が強いので、とんでもなくデカい太刀を飾っていたりする。カムロが担いできた太刀を、レオンは片手で持ち上げ、頭の上で振り回す。野次馬が感嘆の声を上げる。

 オォ───────────────ッ


「フン。実戦の役に立たねえ剣だな」

 王宮の武器庫から国宝クラスの剣を勝手に持ち出しているレオンには、こんな物はガラクタにしか見えない。もう半ば気絶しているデュークを投げるようにしてジルベールに渡す。

 腹のあたりで水平に構えた太刀を上下に振る。

「わりぃな。ここにやってくれ」

 ジルベールが、ニタリと笑った。

「へへへ⋯。良かったなぁ。レオンさんに斬られるなら、楽に死ねるぜぇ」

 すっかりチンピラ口調に戻ってしまっている。だが、こんなんでもジルベールは正義感が強く、弱い者いじめをするやつが大嫌いなのだ。下町の不良少年でヨタっていたころも、愚連隊を避けていた。もし愚連隊に加わっていたら、今レオンに斬られるのはジルベールだったかもしれない。

「へへッ、おらぁ!」

 思い切りデュークの背中を蹴り、レオンに向けて吹っ飛ばした。飛んできたデュークのヘソのあたりを、レオンは太刀で思い切り斬り抜いた。

 ドバゴッ!

 デュークは、文字通り真っ二つになった。下半身は、転がりながら野次馬の中に突っ込んでいく。上半身は、頭上三メートルの高さを血と内臓をまき散らしながら飛行し、十メートルは飛んで群衆の中に落下した。ワッと逃げ出した野次馬は、恐る恐る集まるとデュークの死体に石を投げつけはじめた。レオンが血まみれの太刀を高々と掲げる。野次馬は、大喜びで拍手喝采だ。ジルベールも満足げだ。

「お見事っ! レオンさん、へへ、やりましたね⋯⋯うっ?」

 レオンの目が冷えきっている。


 レオンは、なぜこんな愚劣なことをしたのか? 民衆の人気取りのためだ。明日にはレオンの剣で愚連隊の胴が真っ二つにされたことは、王都の人々の話題の的になっているだろう。民衆は勧善懲悪が好きで、悪と見た者への暴力と血を好む。民衆に愛されるだけでは駄目だ。愛されると同時に、畏怖されねば⋯⋯。

 レオンは、太刀を持ちかえると空に向けて投げた。太刀は、∩の軌跡を描きデュークの頭に直撃する。

 ドガッ! バシャ!

 死体の頭が突然破裂し、仰天した群衆が再び逃げ散った。デュークの頭に太刀が突き立っている。敵に容赦しないレオンにジルベールは、すっかり感心した。

「ひょう! やるぅ。レオンさん」

「くだらねぇよ⋯」

 レオンに呼ばれ、カムロのリーダーが駆けてきた。並べている愚連隊の死体に向かって歩きながら、レオンが命令する。

「あのエステルという少女を、カムロ組織で保護せよ。偶然を装い、男女二名で住居まで付きそえ。友人関係となり、週に数回はエステルの状態を確認すること。困窮した場合は、物心両面の援助をせよ。エステルは、来年開校させる女子軍士官学校に入学させる。そのために必要な援助を行え。⋯⋯カムロ組織の援助であると悟らせないようにしろよ」

 血が下がって貴族口調に戻ったジルベールが並んだ。

「ずいぶんあの娘に肩入れしますね?」

「逸材だよ。親兄弟が殺されているのに隠れていることができる自制心」

 ジルベールが、ちょっと笑う。

「腰が抜けてたんじゃないですか?」

「違うな。自分が出ても殺されるだけと見切ったんだ。賢い」

「でもねぇ。あんな小娘に⋯」

 レオンが首を振る。

「オレの目をまっすぐ見て理路整然と話した。頭が良くて度胸もある。それに復讐する機会を逃さなかった決断力。逸材だね。優秀な人材が一人でも多くほしいからな」


 前庭に九十ばかり死体が並んでいる。これも大衆を喜ばせるためだ。レオンは満足げにながめた。後始末の指揮をしている班長に訊ねる。

「部隊の損害は?」

「今のところ確認できません」

 その時、死体の中からうめき声が聞こえてきた。

「なんだ。あれは?」

「生存者がいるようです。もう戦闘力を失っていますので⋯」

「ちっ! 捕虜をつくるなと命令しただろうがっ!」

 レオンはズカズカと死体の中に入っていき、細剣を抜いた。息がある者の喉を、片っ端から切り裂いていく。遠目からは、赤い霧の中で剣を振るっているようだ。ついてきたジルベールが、さすがに目を丸くした。

「なんでまたこんな⋯⋯」

「生かして帰したら、こいつらの実家が国王に泣きついて流刑くらいに減刑される。⋯あの王様は優しいからな。流刑先でも貴族特権で抜け出して、また面白半分に平民を殺す。生かしておくわけにはいかねえよ」

 集まった野次馬は、レオンが愚連隊にトドメを刺すたびに歓声をあげ、お祭り騒ぎだ。

 わざと野次馬たちに見えるように、デカい財布袋をカムロに投げて渡す。百万ニーゼくらいは入っていたはずだ。

「このカネで、安酒を買えるだけ買って届けさせろ。届いたら民衆に、レオン隊長からの戦勝祝いだといって配れ」

「はいっ! レオン様。ただちに」

 数人の仲間を集めて駆けていく。カムロが、カネを持ち逃げする可能性は、ない。まぁ、万一そんなことがあっても、元の仲間が地の果てまでも追いかけて捕縛し、レオンに無断で始末するだろう。

 すぐに酒が届いて配られた。酔っ払った野次馬たちは、前庭に愚連隊の死体が運び出されるたびにいい気分で拍手している。しかし、まだ敵が隠れていそうだ。探し回るのにもくたびれてきた。

「よーし。こうなったら火をつけるぞぉ。おらぁっ!」

「それは犯罪です! 止めてください!」

 良識ぶって止めだてする部下がいる。無視して廃屋敷に入る。女が監禁されていた地下室の入口の前で指示する。

「おう、油を持ってこいっ!」

 さすがの親衛隊騎士たちも、「うっ」となって動かない。代わりにハサマ指揮するカムロたちが、樽いっぱいの灯油を持ってきた。

「フハハハハハ! 皆殺しだ! 焼き殺してやるわっ!」

 樽ごと灯油を地下室に蹴り込んだ。よしよし。

「ランプを貸せ」

 やはり親衛隊騎士は、動かない。しかし、「レオン様のご命令は、ジュスティーヌ様のご命令。ジュスティーヌ様は、聖女。女神! 絶対に従うべきお方」という信仰に取り憑かれているカムロが、大急ぎで火のついたランプを持ってきた。

「よーし、えらいぞぉ。きっとジュスティーヌもよろこんでる!」

 頭をナデナデするとランプカムロは、心底嬉しそうにニコニコだ。

「隊長! 待って下さい! 類焼したら⋯⋯」

「その時はその時だ。大丈夫だって。懐かしいなぁ。ほーれ、火炎ビンだぞぉ!」

 ポ─────────イ! 

 パリン! ボアンッ!

 ゴオオオオオオオォォォォォォ~


 ランプを地下室に投げ込んだ瞬間、爆発炎上した。地下室の出口から炎が噴き出す。親衛隊の騎士たちは、もう呆然だ。

「よーし、地下室の扉を閉めろ。開かないように釘と板で打ちつけろよ。念のため扉の前に不燃物を積み上げとけ」

「このままでは火災になってしまいます! どうするのですか?」

「なにもせんでも消えるよ。教えただろ? 燃焼という現象は? ⋯⋯言ってみろ」

「は、はい。燃焼とは、可燃物が空気中で光や熱の発生をともない、激しく酸素と反応する酸化反応⋯です」

「よし、優秀だな。酸素が無くなると、どうなる?」

「⋯⋯燃焼しません」

「地下室の入口は、ここしかない。密封したので酸素を消費したら火は消える。で、酸素が無くなったら生物はどうなる?」

「窒息しますね」

「そういうことだ。地下室のゴミ虫は、掃除した。あとは一階と二階だ⋯。おまえら、火事がどうだの、いい感じで騒ぎたててくれたな。隠れているゴミ虫どもは、さぞビビってるだろうよ。ふっふふ⋯⋯」

 カムロたちが、質の悪い藁や生木を運び込んできた。元は浮浪児の野宿者なので、焚き火は慣れたものだ。

「おら、騎士も手伝え。戦闘だけが仕事じゃねーぞ。ハハハハッ! 焼けっ! 焼き払え!」

 ものの数分で、カムロ製ケムリ発生機が完成し、点火された。アッという間に屋内に煙が充満する。ゴホ!ゴホ!ゲヘ! こら、たまらん。

「危なくなったら退避しろよー」

 レオンたちが外に逃げ出すと、デカい廃屋敷はもう煙に包まれていた。火をつけたと勘違いした野次馬が、手をたたいて大喜びだ。

「焼け! 焼け! 焼いちまえ!」

「愚連隊どもを一人残らず焼き殺してくれ~!」

「ひょーっ! いいぞー! 第四中隊っ!」

「燃えろ~! 愚連隊は焼け死ねぇ~!」


 愚連隊は、よほど王都民に憎まれていたとみえる。自然発生的に大拍手とレオン・コールがわき起こる。

 ドッ!

 ワアァァ───────────ッ!!

 パチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチ!

 レオン!レオン!レオン!レオン!レオン!レオン!レオン!レオン!レオン!レオン!レオン!レオン!レオン!レオン!レオン!レオン!レオン!レオン!レオン!レオン!レオン!レオン!レオン!


 よーし、よしよし。応援にこたえて、サービスしねぇとな。

 廃屋の二階の壁が割れて、中から五人ばかり転がり出てきた。こんなところに隠し部屋なんかつくってやがった。情けねえ愚連隊だ。こいつらも、幹部だろう。

「顔や名前を確認する必要はない。斬れ!」

 うっかり上位貴族のガキだと確認してしまうと、後から難癖をつけられるかもしれない。こいつらは、乱戦で死んだのだ。

 二階から飛び降りた愚連隊幹部どもは、次々と斬り伏せられていった。一人がレオンの足元にはいずってきた。

「よよよよ、余は、ルイワール公爵家が六男、レングスである。隊長は剣を引かせよ~」

 またルイワール公爵家とやらかいな? 髪を鷲掴みにして、野次馬の方に引きずっていった。レングスは、なにかキーキー叫んでいる。

「おう、コイツが貴族とやらだとさ。ゴロツキ公爵家のセガレなんだとよ。くだらねえ野郎だぜっ!」

 憎しみと嘲りの混じった笑いが巻き起こった。こんなやつは、公爵家の看板を外せばゲスで惨めなクズにすぎない。大貴族の虚飾をはぎ取られた公爵家のセガレの無様な姿に、見物人が大笑いだ。

 ゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラ!


『貴族の権威』とやらを踏みにじってやる。⋯なんといっても革命を起こすんだからな。いずれ階級敵は、全て滅ぼすっ!

「おう、この男に剣を渡せ」

 王宮親衛隊にも、公爵家の子息は何人かいる。公爵家には、王家の縁戚がいるし、建国以来の名家も多い。「いいのかなー」という調子で、親衛隊騎士たちが見ている。

「早くせんか!」

 ビクッとなって、一番近くにいた騎士が、ルイワール公爵家のレングスとやらに抜き身の剣を渡した。レオンも剣を抜く。

「オレを斬り倒して逃げてみろ」

 子分に命令してさんざん人をなぶり殺しにしてきたくせに、自分の番となると恐ろしいようだ。ロクに剣も握れずガタガタふるえている。

「余はコーシャク家の⋯⋯」

 野次馬大衆が熱狂している。

「すげえ!」

「死闘だっ!」

「レオンさん! 殺っちまって下さいっ!」

「こんな野郎は、死んであったりまえだ!」

 殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せっ!

 うわ──────────っ!


 言われなくても、完全打倒するぞぉ。なるべく格好良く殺して、民衆を喜ばせたいねっ。脇差しを抜いた。

「いくぞぉ⋯⋯」

「よよよ余は、コーシャク家のぉ⋯⋯。ヒイイイイイ!」

 ザッ!

 派手に血が噴き出るように喉を薙いだ。まるで噴水だ。もう死んでいるのだが、景気づけに脳天に剣を叩きつけた。鼻のあたりまで刃が届き、公爵家のレングスとやらは、頭蓋骨に剣を突き通したままドス黒い血の海の中に崩れた。

 シ───────────────ン


「お貴族様なんぞ、こんな程度のもんだ! わーっははははははっ!」

 死骸に足を乗せて踏みにじってやった。グーリグリグリ~!

 ドッ!

 ワアァァ────────────ッ!!


「貴族だろうが、王族だろうが、無辜の民を害するやつは、死刑に処すっ!」

 ワオォォァ───────────ッ!!!


 さすがにレオンのこの発言は、後でちょっと問題になった。王家守護が任務で国王直轄の王宮親衛隊の行動なので、発言も国王の意志ということになってしまう。温厚な国王からお小言を浴びたが、批判は立ち消えとなった。


 敵が全滅したので後始末だ。切り刻まれた死体を百近くも前庭に並べてやった。みんな滅多切りで、まともな死体などほとんどない。愚連隊にひどい目にあわされていた王都の民衆は、くたばった貴族愚連隊のクソガキの死体に罵声を浴びせ、石を投げつけ、今までの溜飲を下げた。

 いちいち死体の身元を確認し、係累の貴族家に引き取りに来るように連絡してやった。貴族家など冷たいもので、死体を引き取りに来たのは二割程度だ。家門の恥を始末してもらい、内心喜んだ貴族家も多かった。しかし、戻ってきた死体がめちゃめちゃに損壊していたことは、貴族の名誉を汚したとかで、保守派貴族にレオンに対する強い反感を抱かせることになった。そのためレオンは、後にテロられた挙げ句、失脚することになる。


 本当は公爵家のレングス君の首を突き立てた槍を先頭に凱旋したかったのだが、ジルベール大尉以外の全員がカンベンしてくれと反対するので断念した。

 全身に血を浴びて真っ赤な者が何人もいる。百五十人の親衛隊騎士が整列した。貴族子弟らしく長身の美形ばかりで装備も格好いいので、やけに映える。周囲は、黒山の人だかりだ。歓声が上がる。

「いいぞっ! 親衛隊第四中隊っ!」

「うお────────っ! 親衛隊第四中隊っ!」

「第四中隊、バンザーイ!」

 パチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチ!

 わ────────っ!

 わ────────っ!

 わ────────っ!


 民衆の歓呼の声など浴びたことのない親衛隊騎士たちの顔も上気している。

 真紅の旗にカマとトンカチのマークをあしらった例の軍旗を先頭に、軍歌に化けた革命歌『インターナショナル』を全員で高唱しながら、民衆の歓呼に包まれ、第四中隊は威風堂々と親衛隊宿舎に帰還したのだった。


♪起て!飢えたる者よ 今ぞ日は近し

♪さめよ我がはらから あかつきは来ぬ

♪暴虐の鎖 断つ日 旗は血に燃えて~


 レオンは、今回の愚連隊狩りの責任者なので、早急に報告書を書かなければならない。この報告書は、国王にまで上がる。アジビラの勢いで思い切り一気に書いた。


「我が王宮親衛隊第四中隊は、王都民に塗炭の苦しみを与えている極悪の犯罪組織『ブラックデューク』に対し、調査活動をを行い、殺人・誘拐などの重犯罪の証拠を得た。『ブラックデューク』一味をせん滅すべく、十二月十六日十六時、百五十名からなる部隊が出動した。十七時、『ブラックデューク』が不法占拠している廃屋敷に部隊が到達。武装集団は剣を抜き、抵抗の構えを示した。十七時十二分、突撃隊が敵アジトに突入し、戦闘を開始。戦闘は、せん滅戦の様相を呈し、親衛隊騎士は、容赦することなく次々と敵戦闘員を粉砕した。約一時間の戦闘の結果、九十八名の敵を完全打倒した。また、焼尽した地下室より敵四名の焼死体を発見した。前日十五日に打倒した三十ニ名を加えると、親衛隊第四中隊は、百三十四名の極悪犯罪分子の完全せん滅を成し遂げた。部隊の志気は高く、戦意はいよいよ盛んである」

 

 ニ波に渡る凄まじい攻撃で、百人以上の愚連隊を完全せん滅した王宮親衛隊第四中隊とレオン隊長は、一躍王都民の人気者になった。それと同時に恐怖の象徴ともなった。王都パシテで百人を超える集団殺人が起きたのは、二度目のファルールの地獄以来、実に二十年ぶりだ。

 レオンなら、もし愚連隊が逃げなければ三日連続で出撃していただろう。しかし、王都の民衆を脅かしていた愚連隊は、文字通り消え失せた。賢明にも皆殺しになる前に、逃散してしまったのだ。

 レオンの性格の特徴は、徹底性だ。逃げても手を緩めず敵を追いつめ、全滅させようとする。カムロのレポ隊と親衛隊騎士の遊撃部隊を王都に放ち、逃げ込んでいた貴族屋敷から愚連隊が出てくるのを待ち伏せさせた。都市ゲリラ戦の訓練と称し、愚連隊が姿を現すとレポ隊の通報を受けた遊撃部隊に襲わせ、貴族屋敷の門前でさらに数十人も血祭りに上げた。


 民衆人気とは逆に、ゴロツキとはいえ二百人もの貴族子弟が殺されたことは、フランセワ王国貴族界に衝撃を与えた。

 しかし、なんといっても愚連隊殺しを主導したレオン・マルクス中佐は、国王の娘婿である。さらに手を下した王宮親衛隊第四中隊は国王の直轄部隊であり、隊員は、全て貴族の子弟たちだった。彼らは若く、育ちがよかった。全員が、レオンとその妻のジュスティーヌに心酔していた。「同じ人間であり、本来は平等であるはずの民衆。その血と汗の犠牲で高度な教育を受け贅沢を甘受している貴族階級は、命に代えても民を守り導く高貴な義務が課せられている」とかいうネオ・ルソー思想に、彼らはすっかり染まりきっていた。この考えは、第四中隊から第一、第ニ、第三中隊まで浸透していった。

 親衛隊騎士の多くは親衛隊宿舎で集団生活し、常にノブレスオブリージュの思想を確認し合い、お互いに高め合っていた。革マル派っぽい言い方をすれば、彼らは常に相互思想点検と内部イデオロギー闘争を行い、不断に自己を革命していたわけだ。

 レオンやカムロたちに食事もできないほどの貧困者の存在を知らされ、『貧民』の存在と意味を知った親衛隊騎士たちは、今までの自分の飽食に腹を立て、貴族としての義務を果たしてこなかった父祖と自らを恥じた。選民意識と贖罪意識をない交ぜにして、宗教的といえるほど強固な盟約集団と化した王宮親衛隊第四中隊は、レオン以外には手に負えない組織と化した。

 彼らが休暇で貴族邸宅に帰った際に当主である父親が、「マルクス伯爵はやりすぎだ」「マルクス伯爵は貴族らしくない」などとレオンを批判しようものなら、もはや疑似家族となった仲間たちと高めあげた理想を振りかざし、いきり立って反論した。親や兄に対しても一歩も引かず論争を挑んでくる。王宮親衛隊騎士に合格して喜んだばかりの息子が、貴族界の常識とは相容れない論理で挑んでくるのだから、世代間の断絶はもう修復不可能だった。

 わずかな間の息子の変わりように、貴族の両親は困惑した。逆に年下の弟妹たちは、王宮親衛隊騎士となった兄から聞いた民を苦しめる極悪非道なエセ貴族愚連隊をバッタバッタと斬り倒した話や、貴族の義務といった理想主義に夢中になってしまった。レオンは、フランセワ王国貴族の世代間に深い亀裂をもたらした。まさに「投げ込まれた剣」である。

 レオンのせいでジュスティーヌ王女も、フランセワ王国の社交界で少々孤立してしまい、忠実侍女のアリーヌを悲しませた。しかし、ジュスティーヌ本人は、孤児院と王立診療所のボランティアを中心に忙しく動き回っていた。才能を持て余し、なんのために生きているか分からなかったカゴの鳥状態の独身時代より、はるかに生き生きとしていた。


 今回の一連の作戦では、カムロの活躍が期待以上だった。彼らの存在がなければ、二日連続の作戦行動は困難だったし、都市ゲリラ戦など不可能だったろう。維持費は親衛隊の千分の一以下なのに、働きは遜色ない。

 国王から第四中隊に、五百万ニーゼの報奨金が下賜されることになった。五百万円くらいだから、そうたいした金額でもない。むしろ王家が、一連のレオンの行動を認めたという意味合いのほうが大きい。レオンは親衛隊騎士たちにニ万ニーゼずつ分配し、残りのニ百万ニーゼで孤児院を大きくすると発表した。予想通り、⋯といってよいのだろうが、騎士たち全員がニ万ニーゼを受け取ることを辞退し、孤児院と称する特務機関員養成所に寄付を申し出てくれた。

 カムロの情報網が王都全域を覆うまで組織を拡大することが目標である。王都パシテは、人口が百五十万の大都市だ。特殊部隊と選抜レポ隊が五十人、日常的な情報収集活動などに二百人。最低でもカムロが二百五十人は必要だ。

 カムロは、孤児院のテイをとっているが、実態はレオンの私兵団であり『レオン機関』とでもいえる特務機関だ。組織の独立を保つためにも、国や王宮のヒモつき資金を使うことはできるだけ避けたい。カムロの定員を現在の五十名から二百五十名に増やすためには、どうしても資金源が必要だった。レオンの前前前世の知識を駆使して、子供でも作れて高く売れるものを編み出せばよいのだが、⋯⋯まるで思いつかない。


 もともとレオン=新東嶺風は、法学部の学生だった。空港反対闘争に熱中していたせいで、あまり講義にもでていない。風体からして、米軍放出の戦闘服を着込んだボサボサ頭で無精髭の暴力学生だった。

 どこかの教室に入り込み、民青に「ボーリョク反対!」「ニセ左翼の挑発に乗ってはいけませーん!」とか野次られながら、「空港反対闘争に決起せよ!」とアジ演説をぶち、講師がきてもアジを止めない。可哀想に教室の入り口で立ち往生している気の弱そうな女性講師を怯えさせた。

 いよいよ民青が「学生の講義を受けるケンリを奪うな~! カエレ~! カエレ~! カエレ~!」とか野次ってくると、「貴様っ! 三里塚闘争に敵対する気かっ!」などと怒鳴り返して、殴りかかりそうになる。いつものことなので、一般学生は面白そうにながめている。気は弱いが責任感の強い女講師が暴力沙汰だけはなんとか避けようと、「あの、あの、そろそろ講義を⋯⋯」と切り出すと、振り向いてカッと目を見開いた髭面で右翼暴力団みたいな戦闘服の暴力学生が、ドカドカと大股で近づいてくる。「ヒッ!」となって後ずさる女講師の腕をガッと掴み、「先生っ! 先生も開港阻止決戦に立ち上がって下さいっっ!」。

 前前前世はこんな調子だった。異世界で役に立つ知識は、火炎ビンの作り方やら鉄パイプ爆弾の作り方のたぐいばかり。そもそも『革命的共産主義者』を自称していたくらいだ。浮き世離れしていてカネ儲けのアイディアなんぞ、さっぱり出てこない。爆弾を作れば売れるだろうが、作ったことがないしそれは最後の手段にしたい。

 王様からもらった五百万ニーゼで、とりあえず百人が寝泊まりできる宿舎を建設中だ。攻撃される可能性を考慮し、親衛隊宿舎近くの国有地を無料で借り受けた。カムロたちが総出で手伝ったので、上物は相場の半値以下で建てることができそうだ。

 ちょくちょく親衛隊騎士たちが現場にきて、子供たちが自分らの家を建てるために汗まみれになって働いている姿を見て、考え込んでいるのが奇妙だった。なかにはレオンに、「子供に労働を強いるな」とトンチンカンな苦情を言う者もあったが、「子供たちに手伝ってもらわないと、資金不足でメシを食わせられなくなる」と返されると、一言もなかった。

 問題は維持費だった。食事・服・活動費全て込みで、最低でも一人あたり一日千ニーゼは必要だ。百人で一日十万ニーゼ。一カ月で三百万ニーゼだ。その他の経費を加えたら、年に五千万ニーゼぐらいは必要となるだろう。最終的にカムロをニ百五十人にまで増やすつもりだから、年に一億二千五百万ニーゼ⋯。さらに本来の目的であるカムロを発展させた特務機関を運用するための費用。うげ~。

 さすがのレオンも頭を抱えてしまった。資本主義社会を転覆する革命家のつもりだったレオン=新東嶺風が異世界に転生したら⋯⋯カネ、カネ、カネ、カネ、カネ、カネ、カネ、カネ、カネ、カネ、カネ、カネ、カネ、カネ、カネ、カネ、カネ~に頭を悩ませている。こんな馬鹿な話はない。しかし、レーニンだって活動資金稼ぎにスターリンに強盗をやらせたり、党員に結婚詐欺まがいをやらせている。

 なんとかかんとか知恵を絞りに絞ってどうにか思いついたのが、印刷業だった。セレンティアには、印刷機が無い。レオン=新東嶺風は、過激派時代にガリ版で大量のアジビラを印刷し、撒いたり貼ったりしたものだ。インクとローラーとロウ紙に木箱があれば、なんとかなるんじゃないか?

 印刷以前に紙がおそろしく高価なのに当惑した。紙は、どうやら王宮など限られたところでしか使われない儀典用の高級品らしい。「だから文明が発展しないんだよ」と、考えた。品質を下げて紙の価格を安くし、大衆化させればよい。安くするのは簡単だ。白紙の原料を工夫し水増しすればいい。『わら半紙』というくらいなのだから、藁を使うのかな? 木くずも使えそうだが⋯⋯。茶色くなったり、やぶれやすくなっても仕方がない。とにかく安い紙を大量生産して印刷し、稼ぐのだ!

 レオンは、まだ気づかなかったが、ガリ版印刷機と紙の大量生産は、セレンティアの世界を一変させるほどの大発明となった。

 レオンのいいかげんな知識では、アイディアを出せても実際に製造することは無理だった。そこで、少年によくいる発明好きで科学好きのカムロを何人か集め、下手な図を描いて説明し、ガリ版印刷機と粗紙の開発を命じた。

 ついこの間まで路上生活していたのに、才能を見込まれて拾われた。促成教育とはいえ、この世界で最高レベルの知識を授けられた。好きな発明や工作をするのが仕事だといわれた。競い合う仲間もいる。恩人のレオン様は、「この開発の成否にっ、我々の未来がかかっているっ!」などとアジる。紙職人がきて技術講習。つぎにインク職人が呼ばれて講習。三食つき。殴られたり怒鳴られたりもしない。ホームレス時代には想像すらできなかった好待遇だ。なによりも自分の仕事が認められる喜びがあった。カムロ技術開発班は、寝食を忘れて仕事に没頭した。

 ガリ版の開発には、まだ少し時間がかかりそうだった。繋ぎにコンニャク版を作った。前前前世の小学校の夏休みの宿題で作ったのを思い出し、発明カムロの協力を得てなんとかモノにした。でっかいコンニャクゼリーみたいなものを利用した印刷道具だ。

 育ち盛りのカムロどもは、よくメシを食う。いつまでもジュスティーヌの慈善パーティーに頼るわけにもいかないだろう。そんなわけでレオンは、王宮に営業に出かけた。エンゲルスだって生活力のないマルクスを支えるために、なりたくもなかった資本家工場主をやったじゃないか。

 営業をかけるならば、テッペンからだ。国王との謁見を希望する場合は、王室官房に願書を提出する。数日後に「何月何日の何時に謁見室に参するように」という返書がくるという段取りだ。戦争などの非常事態や家族である王族は例外で、けっこう自由に会える。レオンは、王女の夫なので王族あつかいだ。

 レオンは、ちゃんと届けを出した。王宮から見ると、こいつのすることは、たいてい突拍子もないトンでもないことだ。早急に出頭を命ぜられた。

 カムロの中でも一番見目麗しい男女二人を従者に引き連れて、謁見室に入った。レオンは、義父である王に跪礼をしなくてもよい。フランセワ王国で国王への跪礼が免除される者は、わずか十数人だ。

「レオン、しばらくぶりだな。今日はなんの用だね?」

 遅ればせながら王宮保安部に設置した世論調査係によって、レオンと娘のジュスティーヌ王女が民衆に絶大な人気を博していることを国王は知っている。レオンのおかげで、国王と王室の人気もうなぎ登りだ。穏健ながらも常に貴族の権力を削ぐことに腐心している国王なので、有能な問題児であるレオンに対して機嫌よく応対した。

「はい。フランセワ王国が一変するような大発明をお持ちしました。ご覧くださいっ!」

 従者に仕立てた美形カムロが、二人掛かりで木箱に入れたでっかくて湿ったプルルンコンニャクを豪華テーブルに載せた。国王をはじめ政府高官連中は、「???」状態だ。

「このインクで、なにか書いて下さい。⋯国王陛下がお書きになりますか?」

 国王にこれほどくだけた口のきき方を許される者も、フランセワ王国でわずか十数人だろう。

「ああ、うむ」

 国王は、手元の白紙になにか適当なことを書いた。この紙一枚で労働者の平均日給くらいの値段はする。

 書いた紙を受け取って、湿ったプルルンに貼り付けて剥がした。コンニャクの上にくっきりと文字が転写されている。新しい白紙を再びプルルンの上に貼り付けた。レオンが芝居がかった仕草で剥がすと、白紙に文字が転写できてる。もう一枚貼って剥がすと、やはり転写されている。立派な印刷機だ。どうしてもだんだん色が薄くなるが、原紙一枚で二十枚は印刷できる。

 レオンが商売人のえびす顔になって説明する。

「王宮では、法令や勅令などを全国に送るために、書記官が千枚ほど手書きにしていると聞いております。このコンニャク版ですと、五十枚の原版に書けば、千枚も同じものを複製できます。印刷は、一枚五百ニーゼで私どもが請け負います~」

 コンニャクのプルプルが、国王の琴線に触れたらしい。玉座から降りてきて自分で印刷して面白がっている。

「ははははは! これは面白い。どうだ、使えるか? 書記官長」

「はっ、筆写の時間が減り、本来の業務に集中できるかと愚考いたします」

 書記官長、話が分かる!

「だがな、王宮官房では表に出せない書類も多い。印刷機ごと買い取ろう。一千万ニーゼでどうだ?」

 巨大コンニャクゼリーが、一千万円⋯。ウヒ!

「喜んで。ありがたき幸せ~」

 国王は、後ろに控えている美形カムロたちに目をやった。容姿ばかりか立ち居振る舞いも洗練され、貴族にしか見えない。

「レオンよ、おまえの従者にしては⋯。どうした? 貴族の子弟の教育事業でも始めたのか?」

「いえ、この者たちは、元は浮浪児です。私どもが教育を施し、磨きました」

 これには国王を始め大臣・高官連中が、コンニャク印刷の百倍は驚愕した。

 磨けばなかなかの美形になりそうな浮浪児は多い。「こりゃあ将来すごい美男子になるぞ」という十三歳のカムロが親の愛に餓えていて、母・ジュスティーヌをみると飛びついて幼児返りしたりするのは奇妙だった。

「貧しく親に捨てられた子供にも優秀な者は、いくらでもおります。彼らを放置するのは、国家の損失でありましょう」

「ほう。今回の一千万ニーゼも、孤児救済事業に使うのか?」

「救済などと⋯。一万枚は印刷できる道具と、格安の紙を開発しています。それができれば、印刷業で孤児が生活できるようになります。それに、子供の頃から仕込まないとモノにならない仕事もあります」

 ⋯⋯レポとか、⋯⋯スパイとか、⋯⋯秘密警察官とか、⋯⋯破壊工作員とか。

 印刷は、黙っていても向こうから情報が入る仕事だ。印刷業が軌道に乗ったら、御用新聞社を設立しマスコミを支配するつもりだ。

「ふむ。そういうことなら、王室としてもいくらか寄付せねばならんな。印刷所とやらにも国有地を使ってもよいぞ」

「ありがたき幸せ。カネは、使ったら無くなってしまいます。どうか印刷所が完成しましたら、『王立印刷所』を名乗ることをお許し下さい」

 印刷業なんて、すぐに競合が現れるに決まってる。それは別によいのだが、競争に負けるとカムロたちが路頭に迷ってしまう。そこで『王立印刷所』の名称がものをいう。印刷所の敷地は、王宮から徒歩数分の国有地に確保する。外部の者は入れない王立印刷所が、秘匿する必要のある王宮の印刷物を一手に受注する。それに民間の仕事を請け負うにしても、ブランドは大切だ。

 レオンは、営業とともにおねだりにも成功して退出した。


 コンニャク印刷を王宮官房が使い始めたら、全ての官庁で使われるようになるのは、時間の問題だ。同じ書類をいちいち人の手で書き写していたら、手間がかかってたまらない。今まではそれが当たり前だったのだが、一度印刷の便利さを知ってしまったら、二度と手放せない。さらにガリ版印刷機が完成すれば、まず食うに困ることは無くなるだろう。

 国王をはじめ政府高官は、印刷の重要性を全く理解できていなかった。レオンにとっては、収入以上に王宮の全ての印刷物が『王立印刷所』を通ることになる点が重要だった。印刷に回される王宮内の情報は『王立印刷所』でチェックを受け、内容がレオンの耳に入ることになる。


 着々と地盤を固めていたレオンだが、強い恨みも買っている。白昼群衆の前でテロ襲撃を受け、一歩間違えれば殺されるという目にあった。テロることはあっても、自分がテロられるとは予想していなかったレオンの油断だった。これまで数十も人を斬ってきたレオンだが、この時に初めて女を斬った。

 年末に孤児院と称するスパイ養成所の建設の相談に、レオンは、披露宴で世話になったスレット建設に向かっていた。居候している王宮から、現代日本でいえば永田町から銀座のようなブランド地域を通り、二十分ほど歩く。護衛もつけずに毎日同じ道を通ったのがまずかった。十五分行ったところで、テロられてしまった。

 もし、レオンが襲撃を指揮していたら、無警告で後ろから斬らせるか、取り囲んで一斉に斬りかからせるかしただろう。しかし、五人の刺客は、正面からまっすぐ近づいてきて剣を抜いた。後ろから斬りつけるのは、卑怯だからダメ。でも、五人がかりで斬るのはヨイという感性が、どうにもわからない。

 現代日本でいえば銀座の歩行者天国のような場所で、前からきた女一人と男四人が剣を抜いた。あまり訓練されている様子はない。

 あたりは一瞬パニックになったが、すぐに人だかりができて野次馬が見物を始める。本物の斬り合いを見物だ。そりゃあ面白いだろう。それぞれ勝手なことを言いはじめた。

「おい、おい。一人に五人がかりたぁ、卑怯じゃねえか」

「まてよ、ありゃ、マルクス伯爵だよ」

「おぉ、強えんだってな」

「相手はブラックデュークの愚連隊か?」

「公爵家の騎士どもだろ。セガレが殺されて仕返しにきたんだよ」

「悪い野郎だな~っ。そんなやつら、殺しちまえー!」

「はくしゃくーっ! 強いとこ、みせてくれよ!」

「レオンさん、ガンバレー!」


 野次馬たちが、応援してくれる。なんの役にも立たないが。

 敵に囲まれたら危ないが、馬鹿みたいに前に四人並んでくれた。後ろで指揮を執っているつもりの若い女が口上を述べた。

「わたくしは、ルイワール公爵家が五女、サフィナ・ド・ルイワールよっ。レオン・ド・マルクス。おまえに殺されし兄、レングス・ド・ルイワールの遺恨、晴らさせてもらうわ!」

 ⋯⋯? あぁ、愚連隊の御輿に担がれていた公爵家のガキの妹かぁ。王族を襲撃してるのに、衆人環視の中で名乗りを上げてやがる。王族弑逆は族殺刑だよ? 兄貴に負けないくらい馬鹿な妹だな⋯。

 小娘は戦力にならないだろう。四対一か⋯。あまり大したやつはいないが、敵の数を削がないと危ない。剣を抜かず、そのままスタスタと五メートルくらいまで寄った。キャトウ侍女・保安員から巻き上げた短刀を素早く懐から取り出し、戸惑ってる敵に投げる。至近距離から不意に投げられた手裏剣を避けられる者は、そうはいない。喉にぶっ刺さり、転倒した。

 すぐに斬りかかってくればいいのに、テロ団は転倒したやつを呆然とみている。もう一本、マリアンヌ侍女・保安員から巻き上げ面白半分で太ももにつけていた短刀を、穴を開けたポケットから引き抜いて敵の土手っ腹に投げつけた。胃袋のあたりに刺さり、二人目がひっくり返る。間髪入れず剣を抜いて三人目の喉を突き、背中を向けて逃げようとした四人目は、肩甲骨の下から心臓を貫いた。背中の筋肉は意外に硬いので、細い剣で鋭く突かないと心臓に届かない。うまくいった。

 野次馬たちは一瞬静まりかえり、どよめいた。

 うお───────────────っ!

「つえぇぇぇ!」

「なんだありゃあ!」

「すっげえ!」

「お見事っ!」


 さーて。おつぎは、サフィナ公爵令嬢ちゃんだ⋯⋯。青くなっていやがる。人を襲撃しといて、自分が殺される覚悟も無かったのか? ん? どうした、腰が引けてるぞ。過呼吸か? 大好きなアイドルにでも会ったのか?

「ひっひっひっ、ち、ち、ちが⋯⋯。わた、わた、こうしゃくの。こ、こわい。たっ、たっ、たすけ⋯⋯」

「どうやらくたばるのは、あんたのようだな。愚連隊のねえちゃん」

 女は、少しは剣をやっていたらしく、自棄になって打ちかかってきた。

 シャバッ!

 遠慮も会釈もなく、剣を握っている両手首を斬り飛ばした。

 ア─────────ッ! アアァァァアガァ⋯⋯。

 うつ伏せになってひっくり返ると、痙攣しはじめた。

 ヒッヒッヒッヒッヒッヒッ! 

 そのありさまをレオンが冷然と見下ろしている。

「⋯⋯死ね」


 サフィナは、両手を斬り落とされているのだ。放置すればこのまま死ぬだろう。死ななくても後から殺す方法はいくらでもある。トドメなど刺さず早くこの場を離れるべきだった。

 聖女マリアだった前世で同僚の神女にいたぶり抜かれたレオンは、女の持つ嫌らしさや残酷さをたんまりと味わった。レオンの感覚では、ほんの一年半前のことだ。良く言えば直情径行で竹を割ったような性格。悪く言えば粗暴な熊のようなレオンである。ネチネチと底意地が悪く、いざとなると男に甘ったれる。そんなタイプの女が大嫌いだった。戦闘では、女だからといって差別も区別もしなかった。特別な配慮もしない。とりわけ殺し合い暴力に関しては、女に対する偽善的な遠慮や手加減は、クスリにしたくても一切無い。

 亀のように地面にはいつくばってるサフィナ公爵令嬢の脇腹を蹴ってひっくり返し、仰向けにした。⋯⋯白目むいて口から泡吹いていやがる。剣を逆手に持って、眼窩から脳に突き通した。完全に脳を破壊するように、えぐって引き抜く。剣先に目玉がくっついてきたので、剣を振って捨てた。

 シィ─────────────ン⋯⋯


 レオンの徹底した殺しぶりに、野次馬たちは声もない。

 護衛はつけていないが、連絡要員のカムロは二名ついている。戦闘が終わった瞬間に飛んできて膝をつく。跪礼なんぞ、せんでいいといってるのに⋯⋯。

「親衛隊宿舎に急行し、状況を知らせよ。一個小隊の援軍を送れ」

 大きくうなずくと、今はこの時とばかりもの凄い勢いでつっ走って行く。

 ゴロツキ愚連隊と違って相手は公爵家らしい。それなりの対処が必要だろう。もう一人のカムロは、政治の中心に行かせる。

「王宮に急行し、ジュスティーヌ王女に状況を知らせよ」

「はっ!」

 ジュスティーヌに現状を知らせたら、すぐに動くはずだ。あいつに任せておけば、宮廷政治方面は、なんの心配もない。

 二次攻撃があるかもしれない。今日は、引き揚げた方が良さそうだ。きびすを返して王宮に戻ろうとしたが、手遅れだった。

 ものすごい勢いで走ってきた巨大な馬車が野次馬を何人もはね飛ばし、レオンの横に止まった。白刃を握った男どもが七人も降りてきて、アッという間にレオンを取り囲んだ。

 しまったっ。公爵家の騎士団か。⋯今度のやつらは正規の訓練を受けている。強い。戦闘力以上に戦意が凄まじい。


 クラウゼヴィッツの『戦争論』によれば、戦争能力は、戦闘員や戦闘器材などの『資材の量』と『意志の強さ』の積である。新手の敵は七人。つまり資材の量はレオンの七倍だ。それ以上に、第一波の敵が全滅し姫君が殺されたことに激怒している。激しい憎悪と敵意。これが『意志の強さ』の源になっている。

 十分な訓練を受けた七倍の敵が、統一された指揮下に死を恐れず挑んでくる。そんなやつらと⋯正面から斬り合っても勝てない。

 動物が自分より強いものと対峙した場合、どうするだろうか? 『隠れる』『逃げる』『開き直って戦う』『降伏する』⋯⋯。さて、どうする? こんなところで死ぬのはゴメンだ。まだ、なにも成し遂げていない。

 カムロが親衛隊宿舎に着くまで八分。第四中隊が部隊を編成し、ここに到達するまで十二分。だいたい二十分か⋯。戦闘を開始したら五分と持たないだろう。支援部隊が到着するまで、戦闘の開始を引き延ばす。生き残るには、それしかない。


 指揮官らしい大男が、サフィナ公爵令嬢の死体の前にひざまずいて、号泣している。それほどの価値のある女には、見えんかったがなぁ。残りの六人は、剣を抜いて半月状にオレを取り囲んだ。全員青筋を立て、刺し違えてでもオレを殺す気満々だ。これじゃあ三人くらいは斬れても、オレも串刺しになる。前世の女神や聖女の時の三の舞いだ。寄ってたかっての滅多刺しは、本当に気が狂うほど痛いからもうカンベンしてほしい。

 二メートルもある大男の指揮官が、サフィナ公爵令嬢の死体をお姫様抱っこして馬車に安置した。

「レオン・マルクス。なぜ、お嬢様を殺した?」

 なにを言ってるんだ? 襲ってきたからだよっ。だが、そんなことを言ったら、すぐに殺されてしまう。

「⋯⋯殺したくはなかった。だが、大勢が見てる前で斬りかかってきた。王族に刃を向けたら、ルイワール公爵家は、族殺刑で一族から使用人まで死刑になる。斬るしかない」

 少しは殺気が⋯⋯下がらないね。なんとか会話を引き延ばさなければ。

「なぜ、お嬢さんを止めなかった? 公爵家を滅ぼしたいのか?」

「お止めしたわっ! だが、お嬢様は、兄君の仇を黙ってみてるような方ではないっ!」

 あの人間のクズが、兄君ぃ? バカじゃねえのか?

「今ならまだ間に合う。お嬢さんの死⋯遺体を運んで公爵家に帰るんだ。公爵の力があれば、なんとかなる」

 王族襲撃が「なんとかなる」わけがない。口車に乗って引き揚げてくれればと思ったのだが⋯。

「たとえ我ら死のうとも、お嬢様の仇は、許しておけぬ。お顔に傷をつけおってえぇぇ!」

 あと十七分か⋯⋯。もたねえな。どうする?

「お嬢さんが、いきなり斬りかかってきたから、両手を斬ってしまった。もう助からないから、できるだけ早く楽にした⋯」

「問答無用。覚悟せい!」

 一斉に斬りかかってこられたら、百パーセント死ぬ。最後の手段だ。どうせ死ぬんだ。手に持っていた細剣を地面に放り出した。

「どういうつもりだ? あきらめたか?」

「ああ、降伏する。戦っても無駄な死人が出るだけだ。なあ。ルイワール公爵に会わせてくれ。娘さんの最後を知りたいだろう」

 指揮官は、ちょっと思案し始めた。味方の到着まで十五分。できるだけ長く考え込んでいてくれ。

「駄目だっ。旦那様は、おまえを助命するかもしれぬ。おまえは、今すぐここで死ねっ!」

 連中は、剣を握り直した。一斉に突くつもりだ。

「そうか⋯。じゃあ、おまえらに言っておく。サフィナ嬢の最後の言葉だ。ルイワール公爵に伝えてくれ」

 もったいをつけているが、もちろん、口からのでまかせだ。

「お嬢さんは、正面から騎士を率いてきて口上を述べた。自分はルイワール公爵家の娘で、兄の仇を討つと」

 そんなことを仕出かしてくたばったのは、この嬢ちゃんがバカだからだ。そこをいかにも立派なことのように語ってやる。

「騎士たちの剣を運良く切り抜けて、前を見ると驚いたことにお嬢さんが剣を構えて立っている。⋯逃げるかと思ったんだがな」

 まぁー、足がすくんで逃げられなかっただけだろうが。立派に振る舞ったことにしておく。

「そして、斬り込んできた。太刀筋が鋭く、避けることができず斬ってしまったのだ」

 大嘘だがなー。ああぁぁ、もう話せることがない⋯⋯。

「うつぶせに倒れているお嬢さんを仰向けにして⋯」

 本当は、脇腹を蹴ってひっくり返したんだが。⋯あと十三分。

「目を開いたお嬢さんから最後の言葉を聞いた」

「最後の言葉とはっ? なんとおっしゃった?」

 話しに引き込まれた指揮者が訊いてくる。聞いたらすぐに斬るつもりだろう。⋯駄目だ。間に合わない。

 見ると、こいつらの馬車にはね飛ばされた平民が、五~六人も血だらけになって転がっている。うめき声が聞こえてくる。


 ⋯⋯こうなったら仕方ねえや。へっ! 破れかぶれだっ! ひとりでも多く道連れをつくってやるぜっ!

「はははははははははははっ!『こわーい。ヒィ、たすけてぇ』だとよっ! マヌケっ!」

 言いざまに脇差しを抜いて七人の中に飛び込み、喉笛をえぐってやった。血を噴いて一人倒れる。

「卑怯者!」

「おのれ!」

 なーにが卑怯者だ。七人で囲んでおいて笑わせんなってんだ!

「おぉっ! レオン・マルクスは、ここだっ。まとめて相手をしてやる。どこからでもかかってきやがれっ!」

「殺せっ!」

 テロ団が一斉に斬りかかろうとしたとき、バラバラと石や土瓶が飛んできた。取り囲んで見物していた野次馬たちが投げつけている。

「レオン隊長、ガンバレ!」

「愚連隊の人殺しっ」

「よくも母ちゃんをはねたなっ」

「伯爵、逃げてください」

「大勢で襲うなんて卑怯だぞっ!」

 ワ────────────ッ! 


 テロ団の二人が、剣を振り上げて野次馬に向かっていく。蜘蛛の子を散らすように逃げ出す野次馬たち。

 大衆の自然発生的な蜂起は、少数でも訓練され武装したテロ集団には勝てない。ここまでか⋯。

 その時、野次馬の人垣が崩れた。

「どけっ!」

「隊長っ! 隊長は?」

「無事ですかっ!」

 平服の親衛隊騎士が、四人飛び込んできた。対峙している連中を見るや瞬時に事態を把握し、剣を抜いて斬りかかっていく。増援部隊に気を取られた敵の隙をついて、喉を突いてやった。血煙を上げて倒れる。よし。これで五対五だ。

 親衛隊騎士は、激しく撃ち合っている。公爵家のお抱え騎士とは、訓練の質と場数が違う。勝つだろう。

 大男の指揮官と向かい合った。こいつは別格だ。それよりタチの悪いことに、刺し違える気だ。命を惜しまない者は強い。

 七十センチ程度の脇差しを構えるレオンと、二倍も長い長剣をふるう身長二メートルの指揮官が対峙している。野次馬には、ダビデとゴリアテの決闘のように見えた。どう見てもゴリアテの方が強そうだ。


 こんな野郎の地獄の道連れにされたら、たまらない。精神的に崩してやる。

 レオンの口の悪さは、過激派だった時に鍛えたものだ。

「女は骨が細いから、簡単に両腕を切断できたぜ。でも、脂肪が多いから、剣がベタベタして気色悪いな。ヘヘッ!」

「おのれぇぇ!」

「ははっ! 最後までコワいとかたすけてぇとか、とんだ甘ったれ嬢ちゃんだったぜ! トドメに目玉をくり抜いてやったわ。くっくっくっ⋯」

「⋯⋯こっ、こっ、殺すっ!」

 怒りで全身をふるわせている。

「売女の用心棒が、なに悔しがってんだ? もう乳繰り合えねぇもんな。へへへ⋯。残念だったね~」

「きっ、貴様っ!」

 間合いを外して、地面に転がっている目玉を剣先に突き刺した。目の前でフリフリして、よーく見せてやる。

「おら、お嬢ちゃんの目ん玉だ。拾い忘れてたなぁ。ダメじゃないかよぉ。グズっ! ははっ! こんな汚いもん、くれてやるよ。ほーれ! ハハハハッ!」

 ヒュッッ⋯

 顔面に放ってやった。目玉は頬に当たり赤い液を飛び散らせて落ちた。

「ウゴアアァァアアァァァァ───ッッ!」

 凄まじい勢いで斬りかかってきた。だが、怒りに我を忘れて大振りだ。勝ったっ!

 大剣を受けずにかわし、そのまま思い切って踏み込んで懐に入り、横っ腹を叩き斬った。大男は、血を噴きながら転がって倒れる。トドメに薙ぐようにして首を切り裂いた。血が吹き出して赤い池ができた。

 うおぉ──────────っっ!


 野次馬たちが、神を見る目でレオンを見た。

 不意打ちで一斉に斬りつけられていたら、まず助からなかっただろう。正規の騎士訓練を受けてテロに不慣れな連中だったおかげで、どうにか死なずにすんだ。

 それに優秀なカムロのおかげで、命拾いした。親衛隊宿舎に駆けていく途中に、親衛隊騎士がよく利用する食堂があることを思い出し、飛び込んだのだ。たまたま四人食事していて、代金も払わず駆けつけてくれた。あと五分遅かったら、レオンは死んでいただろう。親衛隊部隊が到着したのは、全てが終わってから八分後だった。


 公爵家の騎士団が、王族でしかも王宮親衛隊中隊長の殺害を狙って襲撃した。大胆にも白昼堂々とである。数百人の王都民がそれを目撃した。もちろん世論は、レオンの味方だ。

 親衛隊宿舎にとって返したレオンは、王命も待たず「反撃」と称して第四中隊を率いてルイワール公爵邸に突入した。抵抗した数名をその場で斬り倒し、居合わせた全員を殺さず捕縛して、いつもは誰も入っていない王宮の地下牢に叩き込んだ。


「またレオンか⋯⋯」

 国王は、何度目かの頭を抱えた。これは、王族に対する殺害未遂事件であり、王宮警備の指揮者に対するテロ未遂事件でもある。なまなかな対応は、王権を揺るがす。しかし、犯人グループは、建国以来続く最上位貴族の公爵家で、数世代前には王家と縁戚となっているほどの家柄だ。有力貴族家との繋がりも深い。

 事件の一報に接し驚愕したアンリ二世だが、まずは穏便にコトを収めようと考えた。ところが、アッという間にレオンがルイワール公爵家全員を逮捕して、すぐ足下の王宮地下牢にぶち込んでしまった。第四中隊の騎士たちが、殺気をみなぎらせて牢番をしており、だれも近づけない。

 レオンがテロ事件の背後にいたルイワール公爵家の者を殺さず捕縛したのは、自分が手を汚すまでもなく、どうせ死刑になると踏んだからだ。レオン=新東嶺風は、空港反対闘争の苦い経験から『合法性』を重視するようになった。インチキな行政手続きであっても、ひとたび合法性を獲得したら、立ち退きを拒否した七十歳近い老婆を歯が折れるほど殴りつけて引きずり出し、今まで住んでいた小屋を目の前でぶち壊すような無茶な真似が社会に承認される。一部では賞賛さえされた。ペテンな合法性に刃向かうと、お上に逆らう犯罪者として国家権力の暴力装置・機動隊に滅多打ちにされ、射殺されたり投獄されたりする。

 レオンは、このままでは何度でも襲われ、いずれ遅かれ早かれ殺されると考えた。弱く貧しい者の側に立った者は、必ず嘲笑を浴び迫害され、それでも折れなければ殺される。ならばレオン個人ではなく、フランセワ王国の総意として法に基づいてルイワール公爵家の連中を始末させようと考えた。合法性を盾にして全ての権力者を巻き込み、共犯に仕立てるのだ。これで保守派貴族は、不平を鳴らせない。「おまえらも死刑に賛成したじゃないか」。

 レオンは、こんなんでも王族であり、命を狙ったら大逆罪が適用される。君主制国家でも一応法律はある。たとえ国王であろうと、みだりに法を曲げることはできない。しかもコトは、国事犯である大逆罪だ。

 代々穏やかな統治をしてきたフランセワ王国で、三百年も前にできた『大逆罪』などは、ほとんど忘れられた存在だった。国王は、条文を読んで今度は青くなった。『九族斬胴刑』が適用される。このままでは、貴族を何百人も処刑することになってしまう。

 高位貴族一族の死刑に関わることなので、御前会議が開かれた。王族、最高裁判所の判事、貴族裁判所の判事、宰相、閣僚、元老院の代表、貴族会議の代表、さらに王国大学から法学者が召集された。

 カンカンガクガクの大議論⋯⋯とはならなかった。国王は、内心頭を抱えていたが、親衛隊中隊長として警察権を持つレオンは、犯罪集団を適正な手続きをとり合法的に一掃した。それに逆恨みした黒幕が、暗殺団を差し向けてテロろうとして返り討ちにあった。レオンが王族であること以外は、単純な事件だ。白昼堂々と名乗りまで上げ、死体という動かぬ証拠が十二体も残っている。言い逃れの余地はない。おまけに襲われて殺されかかった当のマルクス伯爵が、目の前に座っている。今は帯剣していないとはいえ、こいつの気の荒さは⋯⋯。

 法務事務次官が、淡々と説明を始めた。被害者は王族の配偶者であり、直系王族ではない。なので罪が一等軽くなる。この場合は、『九族斬胴刑』ではなく、準王族に対する危害罪として『三族斬胴刑』が適用される。連座刑の対象は、犯人の『父、母、妻、子、孫、兄弟、姉妹』である。ちなみに『九族斬胴刑』となると、これに『曾祖父母、祖父母、伯父母、叔父母、従兄弟、従兄弟の配偶者、甥姪、妾、同居者、使用人、使用人の親・子・兄弟。さらに国王が指名したその他の者』が加わる。

 国王は、ゾッとした。こんな野蛮な連座刑がまだ残っていたとは⋯。ルイワール公爵の兄弟には、王宮勤めで国王とも顔なじみの貴族が何人もいる。姉妹は、他家に嫁いで平穏に暮らしている者も多い。彼らの多くは、なにも悪いことはしておらず、先代が亡くなってから評判の悪い兄が当主となったルイワール公爵家から距離をおいていた。なぜ彼らが処刑されねばならぬのか?

 さらに法で定められた処刑法を聞いて気分が悪くなった。『生き胴刑』である。王宮前広場での公開処刑で、胴を三分の一程度斬られる。見物人が囲んでいる刑場に放置され、半日ぐらい苦しみ抜いて死ぬ。主犯は、一族郎党がもだえ苦み、自分を呪いながら死ぬのを見せつけられ、全員が死んだら最後に胴斬りで処刑される。

 国王は、いつもうるさく物申してくる貴族の代表どもが、この件に限っては、やけに静かなのに気づいた。ルイワール公爵家は、貴族の面汚しとしてマトモな貴族家からはひどく嫌われていた。しかし、それにしても静かすぎる。貴族代表が、チラチラと様子をうかがい気にしていたのは、レオンではなかった。ジュスティーヌ第三王女である。

 ジュスティーヌは、レオン襲撃事件の一報を受けると平静を装いながらも蒼白となり、内心は半狂乱となった。六歳から従ってきたアリーヌ侍女にも、これほど取り乱した姫様は初めてだった。

 続けて、援軍の到着が数分遅れていたらレオンは死んでいたという報告を受けた。安堵と恐怖のあまり数分間気絶して目を覚まし、なにかに取り憑かれたジュスティーヌは、我が夫を害する者どもを根絶やしにすることを決意した。生き残りを見逃したら、今度こそレオンは殺されてしまうかもしれない。「あの人がいなければ、わたくしは生きていけません」。

 美しく、常に微笑みを絶やさず、誰にでも優しく思いやりのある理想的な王女を演じているジュスティーヌだが、内面には気性が激しく物事を徹底する性格の強さを隠し持っていた。しかも知恵があって頭も良く、自分の身分や美貌を効果的に利用するやりかたを十分にわきまえている。王族として子供の頃から訓練されてきた有能な政治家でもあった。

 あの父王が助命や減刑を試みることは、分かりきっていた。父王が動く前に関係各所の要路を押さえ、必要とみたならば自ら赴いて働きかけた。「法にもとづいた公正な判決を期待します」。被害者の妻である王女で、しかも超絶美人からの至極もっともな要望だ。そんな人が「ちゃんと法律を守って下さいね」と言っているのだから、反論できる者などいない。だがこれは言葉はきれいだが、「ルイワール公爵一門を根絶やしにしろ」と言っているのと同じである。ジュスティーヌは、レオンを愛するあまり、子熊を奪われた母熊のように内面に狂気をみなぎらせていた。

 この御前会議でジュスティーヌは、生まれて初めて激怒していた。怒りすぎて表情が固まり、蒼白になった。下手人のルイワール公爵家は当然として、ノコノコと一人で外に出たレオン。夫を殺そうとした者共を減刑しようと考えている父王。のんきにこんな会議を開く制度にも激しい怒りを感じた。表情は固まっていても、女性王族序列二位、王位継承順位六位のジュスティーヌ王女の怒りのオーラは、全員にビンビンと伝わってきた。必然的に皆の口が重くなった。

 数十人が参加したこの御前会議で、ジュスティーヌより立場が強いのは、父王と王太子だけだ。国王が、父祖が定めた法を曲げろと言うわけにはいかない。父に負けず優しく穏やかな王太子は、何をするか分からない精神状態のジュスティーヌが恐ろしかった。この妹の隠れた気性と能力は、子供のころからよく知っている。とにかくこの件には関わり合いになりたくない。この場を収めることができるのは、事件の被害者でもあるレオンだけということになった。

 無関係な者まで巻き込んだ『生き胴刑』などというバカげた大量処刑をやらかして王都民の反感を買うのは、得策ではないとレオンは考えた。できるだけ自分の政治的利益になるような処罰が望ましい。殺しても意味がなく、かえって反感を買うような者は、適当な理由をつけて赦免し慈悲深さをアピールしたい。

「当事者としては、たとえ主犯の繋累であったとしても事件と無関係で善良な者は、特赦されるよう国王陛下に嘆願いたします」

 会議室の空気が軽くなった。権力者といっても血の通った人間だ。親戚が犯罪をおかしただけの罪もない女子供を斬殺する片棒なんか担ぎたくない。それにしてもレオンなら激怒して、「今すぐ殺せぇ!」と強硬に主張すると予想していたので、意外でもあった。

 むしろレオンは、冷徹そのものだった。「事件と無関係な『善良』な者の、特赦を嘆願」なのだから『善良でない者』は、赦免されない。どうやら、『善良』かそうでないかを決めるのは、レオンになりそうだ。

 ところが、ジュスティーヌが猛然と反論した。レオンとジュスティーヌは、二人とも事件の始末に飛び回っていて、口裏を合わせる時間がなかった。

「あなた⋯いえ、マルクス伯爵への襲撃は、王族に対する殺害未遂です。法を曲げ刑を軽くするなど、フランセワ王国の柱である国王陛下のお命を軽くすることに繋がりかねません」

 レオンへの執着に心を曇らせたジュスティーヌは、ルイワール公爵家を族殺する気満々だ。フランセワ王国は、国王が開明君主とはいえ絶対王政の国だ。このように『国王のお命』を引っ張り出されると当の国王ですら反論が難しくなる。

 ジュスティーヌ以外の全員は、多少無理があっても法律を柔軟に解釈し、処刑から助けられる者は助けたいと考えていた。しかしジュスティーヌは、王女の立場から王家の者として法の厳格な執行を強硬に求める。ルイワール公爵家を見せしめにして、常に危ない橋を渡っているレオンを守るつもりだ。いつも朗らかで優しい『ジュスティ』を子供のころから知っていた重臣たちは、ジュスティーヌ王女の見せた一面に驚いた。

 法的にはジュスティーヌが正しいのだから、論争しても勝ち目はない。やむ得ずレオンは切り口を変えた。

「今回の事件の首謀者は、死亡したサフィナ・ド・ルイワール公女です。個人の怨恨による犯行であるからルイワール公爵家には⋯」

 全てを言わせずジュスティーヌが反論した。

「襲撃は、ルイワール公爵家騎士団が実行しました。このことからも王族弑逆未遂は、ルイワール公爵家の総意として行われたと見るべきです。首謀者は、ルイワール公爵家当主です」

 真相は、ワガママ放題で勝ち気で愚かな貴族娘が、コトの重大さをわきまえず、女王様気分で使っていた公爵家騎士団をレオンに差し向けたといったところだ。

 公爵家騎士団を使ったのが、まずかった。これでは公爵家が襲ったことになってしまう。好き勝手に権力を振りかざし人を踏みにじってきた上位貴族のお嬢ちゃんは、父の公爵以外に自分より強い権力が存在しており、それと衝突した時にどうなるか全く考えていなかった。サフィナは、その場でレオンに斬り捨てられたが、そうでなくてもレオンを襲撃した時点で親族を巻き込んで死んでいたのだ。

 なぜ、主犯がだれであるか問題になるのか? 首謀者がレオンが主張する通り死亡したサフィナ公女とされた場合は、処刑されるのは親のルイワール公爵・公爵夫人とサフィナの兄弟姉妹十一人の計十三人になる。サフィナの兄弟姉妹たちは、揃いも揃ってどうにもならないクズばかりで、遊び回って弱い者いじめや悪いことをするのに忙しく、既婚者や子持ちはいない。なので、これ以上は連座が広がらない。レオンが最も嫌う子供に対する処刑もない。

 しかし、当主であるルイワール公爵が首謀者となると、話が違ってくる。すでに隠居した前公爵夫妻。ルイワール公爵の弟妹十人とその配偶者。ルイワールの子十一人の三十五人に連座処刑が広がる。甥や姪も無事ではすまない。

 ルイワール公爵の弟たちは、分家して主に王宮で法服貴族として過不足無く官僚仕事をしていた。妹たちは、他の貴族家に嫁いでいる。ルイワール公爵が首謀者とされるとこの兄弟姉妹たちは、全員胴切りで処刑され分家は取りつぶされる。妹たちの嫁ぎ先の貴族家も無事ではすまされない。家の女主人が大逆罪で死刑になったのだから、やはり取り潰しは避けられないだろう。これでは建国以来の名門貴族家が六家も潰れることになってしまう。

 しかも、襲撃事件とは関わりのない無実の使用人たちが五百人近くも連座し、家が取り潰され流刑や追放刑を受けて路頭に迷い、多くは悲惨な死を迎えることになる。国家転覆をたくらんだとされる大逆罪に連なった者に手をさしのべるのは、余程の覚悟がないと困難だ。

 襲撃犯は、すでに全員死んでしまっている。レオンとジュスティーヌの論争は水掛け論になった。この国で二番目に高位の女性と、その夫で国王の親衛隊長で当の被害者が口論しているのだから誰も間に入れない。唯一、王族として見物に来ていたジュリエット第四王女が、鼻で笑いながら皮肉を飛ばした。

「あら、お二人で死刑のご相談ですのね。ご夫婦仲のよろしいこと。お姉さまったら、よっぽどレオンがお気に召したのかしら。でも、あまり大声をはりあげるのは、はしたないですわよ。アハハッ」

 ジュスティーヌは、腹違いの妹に冷ややかな一瞥をくれただけで返事もしない。

 穏健で賢い国王は、レオンが襲われた事件で何十人も処刑し五百人もの連座刑者を出すつもりはなかった。なので普段は優しいジュスティーヌが、根回しまでして必死になってルイワール公爵家とその周辺の根絶やしを主張するのに困り果てた。ジュスティーヌにキズをつけずにどう収めるか⋯。同時にレオンが、事件をなるべく軽く穏便に済ませようとしていることは、やはり意外だった。それまでは剣の達人だが、殺人をなんとも思わないような暴力的な男だと考えていたのだ。

「あなたは、わたくしの気持ちを考えていません」だの、「オレのやることにクチバシをはさむな」とか、裁判ではなく夫婦喧嘩になりそうなところでレオンが立ち上がり、言った。

「陛下っ。恐縮ですが、十分ほど休憩時間をいただきたく存じます」

 国王をはじめ、列席した者たちは皆くたびれてしまっていた。

「よい。しばらく休憩する」

 苛立ったレオンが、父王の目の前でジュスティーヌの手首をガッと掴み、そのまま閣議室の隅に引っ張っていく。「あ!」。ジュスティーヌが小さな悲鳴をあげて連れて行かれる。本来の身分は比較にならないほどジュスティーヌの方が高いのに、家庭内での力関係は逆なのか? 会議の参加者たちは、内心で目を見張った。

 列席した者たちは、そろーっと国王の様子をうかがった。国王は、見ない振りをしてだれか大臣と雑談をしている。王女に対する乱暴を咎めないのは、レオンを支持するということだ。

 会議中の閣議室を出ることは許されない。広いとはいえ同じ部屋なので、どうしても二人の会話が漏れ聞こえてくる。さっきまであんなにやり合っていたのに、ジュスティーヌは哀願調だ。

「あなたが死んでしまったら、わたくしも生きていけません。お願いですから⋯」

 レオンは、あれほど賢いジュスティーヌを諭すようにたしなめている。

「オレは、自分の手で三十人は殺している。それにオレの命令で、三百人近く死んだ。恨まれて当然だ。殺すだけ殺しておいて自分だけは死にたくないという理屈は、通らない」

「いつもあなたは、わたくしや民を守るために、戦ってきました。ただの人殺しではありません。断固とした処置を取らなければ、今度こそあなたは、逆恨みした者に襲われて殺されてしまいます」

 私欲のない公的な殺人は良い殺人で、「ただの人殺し」とは違う。だから、レオンが恨まれる筋合いはないとジュスティーヌはいう。

「それはどうかな⋯。ルイワール公爵家を根切りにしてオレを守ろうというなら、逆効果だ。もっと冷酷⋯冷静になれ」

「え?」

「ルイワール公爵家と縁戚関係にある貴族家が、六家は廃絶される。貴族が流刑されたり街に放り出されたら、どうなるかわかるか? オレを憎みきった五百人が、食うや食わずの状態で国中に散らばることになる」

 ジュスティーヌは青ざめた。レオンの死という恐怖で視野狭窄に陥っていて、そこまで考えていなかった。

「王都民だって、三十人も胴切りで公開処刑されるのを見たくないだろう。オレがやらせたと思われたら、かなわないしな」

 ジュスティーヌは、頭の回転が速いので話も早い。

「それは⋯そうですが。それでは⋯どうすれば⋯⋯。そう、冷静に⋯⋯」

 レオンは、空港反対闘争と前世で痛めつけられた経験から、人間に強い不信感を抱いている。まあ、当然だ。

「やつらは、助命してやってもオレをひどく恨む。敵対してくるかもしれない。ただ、命が惜しいから、殺そうとまではできないはずだ。襲撃してきたサフィナ公爵令嬢は⋯⋯。あんなバカは滅多にいない。でも、失う物がないやつは怖いぞ。無敵の人になる」

 ジュスティーヌは、考え込んでしまった。

「あなた、お願いです。常に護衛をつけて下さい。二度とあのような危ないことは、ないと約束して下さい。そうでないと、わたくしは病になってしまいます」

 こっそり二人の会話を聞いていた旧臣や古参高官たち、それに国王は、絶世の美女に成長したジュスティーヌが、これほどレオンに執着しているのを知って驚いた。普通は、逆なのではないか?


 会議が再開された。ジュスティーヌは、ピタリと黙った。結果、国王とレオンのキャッチボールで会議は進行した。

 死亡したサフィナ公爵令嬢が、首謀者ということになった。連座して死刑を食らうのは、ルイワール公爵夫妻とサフィナの兄弟姉妹の合計十三人だ。一人でも善人が混じっていたら後味が悪かっただろう。幸い(?)全員が権力をかさにきて弱い者をいじめ殺すのが趣味のような人間のクズだったので、かえって良かった。

 ルイワール公爵の弟妹らには、罪を問われなかった。ロクでもない長男が家長になったので、早々に見切ってルイワール公爵本家を出た者が多かったことが幸いした。奪爵や降格すらなかった。恐れ入って勝手に謹慎したり隠居する者がいるかもしれないが、王家としては好きにさせて感知しない。

 最後にレオンが国王に願い出た。訓練の機会は逃さないのだ。

「処刑は、私が指揮する王宮親衛隊第四中隊に執行させてください」

「よかろう」

 いくら減刑を主張していたレオンでも、思うところがあるのだろうと国王は考えた。実際は、まだ人を殺したことのない第四中隊の騎士に処刑させて、殺人訓練をしたいだけだ。

「執行時に雨天であった場合は、屋内で処刑することをご許可ください」

「うむ、許可する」

 本当は、公開での斬胴刑でなければならない。だが、あまりに残虐なところを見せて民衆の反感を買いたくない。なので、雨のため屋内で処刑せざる得ないという口実で、非公開で処刑しようと持ちかけたのだ。

 最高責任者のルイワール公爵本人だけは、民衆の面前で公開処刑にする。血を見るのが嫌いな国王だが、ここでもレオンの提案に乗った。そのくらいはしなければ、いくらなんでも示しがつかない。

 王家の治安責任者の殺害を狙って襲撃するという、国家体制に対する挑戦にしては著しく処分は軽い。絶対王政国家での王族の殺害未遂事件にしても、非常に軽い判決だ。隣国のブロイン帝国なら、数百人が処刑されていただろう。

 判決は、ジュスティーヌ王女も含む全員一致で承認された。その場で処刑日を空白にした死刑執行勅状が発行された。

 アンリ二世は、その治世において一度も本格的な戦争をすることがなく、二度のファルールの地獄をも乗り切った名君だった。晩年に至っては、寛容にして慈悲深い君主となった。この慈悲深さが三年後に迫った非業の死に繋がることになる。


 公爵家ともなると親族や係累が千家近くある。親衛隊騎士といえども、そんな有力者の首をはね恨みを買うのは避けたいだろうと予想したのだが、意外にもまだ人を殺したことのない騎士は、張り切って立候補した。殺人経験のない騎士は、どうやら第四中隊では肩身が狭いらしい。

 戦争や内乱でもない限り、超高位貴族である公爵を斬る機会などない。公爵という名の珍獣扱いで、爵位に対するリスペクトなどは、もはや第四中隊には無かった。

 人を斬ったことのない騎士だけで剣術大会を開き、上位から斬る権利がある者を選ぶことにした。道場は大変な大熱戦で、負けてしまい床を叩いて悔しがる者がいるありさまだ。やはり斬り殺す相手は男から埋まり、女の人気はなかった。

 年始早々に騎士たちが待ちに待った大雪の日がきた。空欄だった死刑執行令状の日付を埋めて夜になるのを待ち、希望者と王宮の地下牢に向かった。

 公爵家の子息といっても、弱い者をいじめるのが趣味のような甘やかされたクズばかりだ。殺人などなんでもなく、平民だったらもう五回くらいは死刑になっているほどの極悪人揃いである。公爵家に生まれたから平民を殺す権利があるなどと信じている。

 ルイワール公爵家は極端だが、貴族など多少の差はあれこんな馬鹿が多い。領主貴族などは、領地では裁判権を持っている。気まぐれで領民を処刑することだってできる。遊びで奴隷を殺すこともできる。そんな腐った体制を転覆するには、戦争と革命しかないとレオンは信じている。

 レオンたちが地下牢に降りていくと、こんな調子だった。

「早く出せ! 公爵家に逆らうやつは殺してやる!」

「田舎男爵くずれを妹が懲らしめただけだ。ここを出たら、ただで済むと思うな!」

「平民を連れてこい。そいつを身代わりに殺せ! カネならやる!」

「ルイワール公爵家に指一本触れてみろ。貴族が反乱を起こすぞ!」

「貴族らしい扱いをしろ! もっとマシなものを食わせろ! 女を抱かせろ!」


 ピーヒャラ~、ピーヒャララ~とうるさい。キーキー声をこらえつつ、無言で机や椅子を片付け扉を外すなどして、地下室に二十畳ほどのスペースをつくった。⋯⋯ようやくだ。

 獄中のクズ公爵家の連中に宣告する。

「今より、おまえらの死刑を執行する。ただし、チャンスをやろう。剣を渡す。それで騎士を倒したら、無罪放免だ」

 そんなことで無罪放免になるはずがない。少しでも真剣に戦わせるためだ。ゴロツキ愚連隊に親兄弟を殺されたカムロが何人もいたので、招待してやった。目の前で仇をとってやるぞぉ!

「一番! だれを希望する?」

「ルイワール公爵家長子を希望しますっ!」

 よーしっ! 公爵家の嫡子を斬る機会なんて、まずない。あとが恐いと、希望者が出ないことを危惧していた。だが、完全に杞憂だった。第四中隊は勇猛だ。

 牢から引き出されてきたドラ息子は、面白半分に平民を殺し、女を犯して外国に売り飛ばす商売をしてきた極悪人だった。だが、悪の組織の仮面を剥ぎ取ってやれば、みじめなほど貧相な男だった。

「剣だ。取れ」

 目の前に抜き身の剣を突き出された瞬間、人身売買の強姦魔ドラ息子は腰を抜かしてヘタリ込んでしまった。

「そそそそんなもの、受け取らんぞ。あ、明日まで待ってくれ。マルクス伯爵、頼む。明日、きっと恩赦がある。国王陛下は分かってくださ⋯。人殺し、人殺し、人殺しぃ⋯⋯!」

『一番』が、困った顔をしてレオンに振り返った。

「かまわねぇ。殺っちまえ」

「ヒィ───────────ッ!」


 狭い地下室とはいえ、往生際悪く逃げ回るやつを斬り殺すのは大変だ。レオンの足にすがりついてきた時には、閉口して蹴り飛ばしてしまった。そこらじゅうに血を飛び散らせ、ようやく一番がトドメを刺した。

 王都警備隊も手が出せない王都パシテの夜の公子と恐れられた男は、袋のネズミになって地下室で切り刻まれて死んでいった。


 パチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチ!


 カムロの子供たちが、泣き笑いしながら拍手している。ルイワール公爵家が後ろ盾していた愚連隊に、親兄弟を面白半分に殺され孤児になったのだ。

 ルイワール公爵の六人の倅の中で、まともに戦えた者は一人もいなかった。弱い者をいじめて喜んでいる卑怯者など、こんなものなのだろう。

 処刑される女どもは、淫売まがいに服を脱ぎ捨てて醜い裸をさらけ出し命乞いをしたり、妊娠しているとかわめき散らす四十女とか、男どもよりもタチが悪かった。だが、極悪殺人者の涙に「同情」は禁物だ。真の戦士には、怒りに煮えたぎった冷酷さが必要とされる。いざとなったら代わろうとレオンは考えていたが、その必要はなかった。女どもも容赦なく切り刻まれて処刑され、血の海の肉片となった。。

 死刑囚が地下室中を逃げ回ったので死体は傷だらけになり、騎士たちも頭から血を浴びたように真っ赤になった。本当なら処刑方法は何時間も苦しめる『胴切りの刑』のはずなので、やはり胴体が斬れてないとまずいだろう。処刑に参加できなかった者から募って、とりあえず死体の横っ腹に一太刀いれさせた。

 王宮内で処刑が行われたのは、およそ二百年ぶりらしい。「今さっき人を殺してきましたよ」と言わんばかりの連中が、全身真っ赤に返り血を浴びて二十人もゾロゾロと地下牢から上がってきた。たまたま出くわした夜勤の王宮メイドや侍女たちは、悲鳴をあげて逃げてしまった。宿直していた他の中隊の親衛隊騎士たちも、驚いて目を丸くしている。

 最後にレオンは、アジ演説をかました。夜中に大声なので王宮中に響き渡る。聴いた者は、あまりに激しい調子に戦慄した。


「ついに我々は、悪の手先、民衆の敵を打ち倒した。完全打倒の勝利を、この手でもぎ取ったのだ。公爵家の権力を振りかざす極悪の毒蛇は、自らの犯罪を暴かれると弱者を装い、牢内で這いつくばり許しを乞い、憐れみを求めた。我が第四中隊特別選抜隊は、人の優しさにつけ込む狡猾な狙いを鋭く見抜き、悪辣な敵を無慈悲に粉砕した。卑劣な策動にいささかも動揺することなく、完全せん滅戦を情け容赦なくたたかい抜いた。これこそが英雄的な戦士の強さなのだ! 死の処刑攻撃を貫徹した第四中隊の戦闘精神は、ついに敵を打ち倒した。我らは勝利した。さらに前進あるのみだ! 今日は、よくやったっ。解散っ!」


 血塗れのままその足でレオンは、王宮官房に向かいルイワール公爵家の処刑が完了したことを報告した。まだ起きていた国王にとっては後味が悪かったが、やらねばならないことだとも分かっていた。「あの貴族どもときたら⋯」。

 公爵という最上位の貴族が、凶悪な犯罪集団の背後にいた事実は、国王を暗澹たる気分にさせた。王都警備隊が、手を出せないのは当然だ。公爵より身分が高い者は、もう王族しかいない。やつらを野放しにして民衆に見放されたくなければ、王族が討伐するしかない。レオンは、よく膿を出してくれた。命を狙われることにもなったが⋯。

 最近の王都の民衆の間で、王家の人気がグングン上がっていることを、国王も実感していた。今までは馬車列で通っても、平民たちは目を合わせないよう顔をそむけ、立ち去っていった。暴力団に難癖をつけられないように、関わりを避けるのと同じ態度だ。ところが近頃では、国王の馬車列が通ると群衆が集まってきて、手を振ったり歓声を上げたりと結構な騒ぎになる。子供などは、国王の馬車を見つけると、以前なら「!!! 国王だーっ! にげろー! わーっ!」だったのに、今は「あっ! 王さまだ! 王さまの馬車、カッコいいー!」などと言いながら慕って追いかけてくるまでになった。

 レオンの進言で、あえて防音処置を施さない馬車に乗りはじめた。おかげで民衆の声が、よーく聞こえるようになった。いかに大貴族が横暴で、王都の民衆に嫌われ憎まれていることか。周囲の目のある王都パシテの貴族ですらこうだ。領主貴族領の民はどうなっているのか?

 領主貴族どもは、主に西部国境に広大な領地を持ち、王家の目がおよばないのをよいことに、領民を奴隷として使役して莫大な利益をあげている。奴隷の労働で得た金にあかして騎馬兵団を養い、領主同士で狩猟大会よろしく戦争ゴッコに明け暮れている。

 ジュスティーヌの冷ややかな言葉が想い出された。

「奴隷などと⋯。本来なら、お父さまの臣民ではありませんか?」

 事実を知らなければ、問題意識を持つことはない。しかし、知ってしまった父王は、フランセワ王国の奴隷制について、調査・報告することを命じた。結果は驚くべきものだった。

 この国の五人に一人は奴隷である。今までフランセワ王国の人口は、千二百万人とされてきたが、実数は千五百万人だった。奴隷は人間ではないという理屈で、三百万人もの王国臣民が除外され、領主貴族どもに自由にされていた。人口の実に二割が国家の手を離れ、領主貴族の『私有財産』と化している。しかもあろうことか、奴隷の労働で得た財を遣って、最高の贅沢として領主軍を養い拡充している。これは早急に手を打たねば、国が危うくなる。王都民の歓呼の声を浴びながら国王アンリ二世は、思いを巡らせた。

 ジュスティーヌ王女を通じて国王に『領主問題』と『奴隷問題』が実は一体であり、きわめて危険であると吹き込んだのは、もちろんレオンである。今まで慎重に貴族どもの力を削ごうとしてきた国王は、ここにきて民衆の支持を得て権力基盤を強めた。保守派貴族の横暴を掣肘し、とりわけ領主貴族に対して以前より強硬な態度をとるようになった。


「国王は、没落しつつある封建貴族階層と、力をつけつつあった市民階層のバランスに乗り、官僚制と常備軍を整えて強力に国家統一を進めた。この絶対王政は、封建国家の最終段階であり、他方で、国王に主権を集中して一定の領域を一元的に支配する主権国家を形成したことから、近代国家の初期の段階とみなすことができる」(カウツキー『階級バランス論』)


 年の明けた一月十五日、スレット建設に頼んで、王宮前広場に再びヤグラを建ててもらった。あちらこちらに高札も立てさせ、「極悪犯罪集団の首魁、ルイワール元公爵」の公開処刑を王都民に周知した。死刑執行は昼からだが、夜明けとともに平民が王宮前広場に続々と集まってきた。普段から民衆を見下してきたお貴族どもは、この景色を見てさぞやゾッとしただろう。

 死刑を執行するのは、もちろんレオンだ。国王の娘婿で王族なのだから、「王家は民衆を虐げる者を許さない」というメッセージを込めている。ヤグラに登ると王宮前広場は、数万の無言の王都民で覆い尽くされていた。



 さーて、イノシシの次は、公爵だあ! まだイノシシの方が、価値がありそうだがな。

 ヤグラに檻が引き上げられ、中からルイワール公爵が転がり出てきた。五十歳くらいか。意外に若い。大群衆が歓声をあげる。まずは演説だ。

「この男は、大量殺人者である! 手下に命令して、女や子供を含む三百人以上を残虐に殺させた! 数十人の女を犯し、数千人を奴隷として外国に売り飛ばした!」

 ウォ──────────────ッ!


 王宮前広場に民衆の怒りの声が、とどろいた。

「犯罪の捜査を行った王宮親衛隊の指揮官を、私兵団を差し向け凶器をもって襲撃した!」

 オオォォ───────────ッ!!


 ヤグラの近くにいる者は、騒がず静かだ。だが、ひときわ深い怒りと憎しみをみなぎらせている。おそらく、ルイワール公爵一味に殺された者の遺族だろう。千人近くいるだろうか。

「この男は、今も醜い言い逃れを続けている。だが、こいつの屋敷から、数百の死体が掘り出されているのだ! 赤子の骨まであった!」

 ウワ──────────────ッ!

 キャ──────────────ッ!!


 怖くなって耳をふさいでいる女までいる。

「殺せっ!」

「死刑だ!」

「仇をとってくれ!」

「殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せえっ!」


「残念ながら現在のフランセワ王国法では、公爵位の貴族を処刑することはできない」

 ウオォオォ──?

 ウォオォォオォォ───────ッ!


 大群衆の怒りの声が地響きになった。よしよし⋯⋯。

「そのため国王陛下は、英断を下された。大逆罪と武装反乱を罰する王命を発せられ、王族会議・元老院・貴族会議・最高法廷・貴族法廷の代表者は、御前会議において満場一致でこの男に爵位剥奪のうえ死刑を宣告した!」

 今度は、喜びの声で王宮前広場は沸き返る。

 ワアアァァァ─────────ッ!


「しかしっ、死刑の執行には、民衆の同意が必要だ。フランセワ王国の兄弟姉妹たちよ。この男を無罪とするか?」

 シ────────────ン⋯⋯⋯⋯


 もちろん、本当は「民衆の同意」などは必要ない。レオンは人々を巻き込み、平民の持つ力を認識させようとしている。


「王都の兄弟姉妹たちよ。この極悪殺人者に死を!」

 ワアァァァァァァァ────────ッ!


 今まで沈黙してきたフランセワの人民が、初めて怒りの声をあげた。

「そうだっ!」

「死刑だっ!」

「死刑にしろ!」

「早く死刑にしてくれ!」

「今すぐ殺せぇ!」

 死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑を!死刑をっ!!!



 よしよしよしよし⋯⋯。なにかと邪魔立てしてきやがるスマした貴族どもを、思いきりビビらせてやる。

 人民の力を、思い知れっ!

「民衆の判決は、下された。死刑だっ!」

 ワァァァ──────────────ッ!

 ドッッ!! ワァァァァ───────ッ!

 パチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチ!!!

 ワアアァァァァ───────────ッ!


 よーし。剣を抜き、ルイワール元公爵を拘束していた縄を切ってやる。

「いよう。フフッ、死刑だってよ。フフフ⋯。一応は元公爵だ。お貴族らしく、最後は戦って死ねや」

 一メートル二十センチはある、長くて太くて立派な剣を足元に転がらせてやった。オレは片刃の日本刀もどきで、七十センチ程度の脇差しだ。五十センチも剣が短いオレが不利に見えるだろう。だが、渡した太刀は、かえって扱いづらい。どうせ勝つのは見えているので、まあ、格好良く見えるように演出した。

「爵位が~」だの、「王族が親族~」だの、太刀を握ったままブツブツ言っているだけのクズ公爵は、かかってこない。チビ権力にあぐらをかいてふんぞり返り、手下に悪事を働かせる。日本の権力者にもよくいる、無責任でつまらない下劣な腰抜けなのだ。


 待ちくたびれたので、ちょっと腹を突いてやった。剣先が刺さり少し血が出た。多少は痛かったようだ。「ギャーッ!」とか叫んで、斬りかかってきた。

 そんなヘロヘロ剣に、殺られるかってんだよぉっ!

「オラァ! 人民の敵は死ねっ!」

 太刀を受けずによけ、思い切って横から剣を首に叩きつけ、頭を斬り飛ばした。頭は後ろにすっ飛んでいき、胴体は首の断面から血を噴き出しながら前に倒れた。

 遠目では、一瞬で頭が胴から離れ、赤い霧を噴きながら飛んでいったように見えたらしい。二倍も長い剣を持ったやつをいなして瞬時に首を吹っ飛ばした技は、群衆には神業に見えたようだ。

 公爵という最高位貴族が、完全打倒された様子を目の当たりにした民衆は、固まって声も出ない。

 シ───────────────ン⋯⋯


「フランス革命を描いた絵にもこんなシーンがあったなぁ」と思いながら、転がっている公爵頭の髪を掴んで掲げ群衆に見せつけてやった。狂気と狂喜に近い感情の大爆発みたいになった。

 ウォオォオォォオオオォォォォ─────ッ!


 そのまま生首をヤグラ近くの遺族たちの中に放り込み、胴体は、地面に蹴り落としてやった。あとは怒れる民が始末してくれるだろう。

 威張り返っていた快楽殺人犯のゴロツキ貴族を大衆の目の前で処刑し、死体を民衆の手に引き渡してやった。多くの平民は、パワーを注入され自らの力を自覚し、幸せな気分で帰っていったはずだ。

 この日の公開処刑劇は、フランセワ革命の序章として歴史に残った。


 ヤグラから下りるとジュスティーヌと、どういうわけかジュリエット第四王女が待っていた。容姿は二人とも美しくて似ているが、まとっている衣装は対照的だ。白と青で飾りのない清楚な服を着たジュスティーヌと、深紅のドレスをまとったジュリエット。

 例によって侍女を十人ばかり従えたジュリエットが、飛びついてきてオレの手を握った。

「すごい血だったわね! ステキ! レオン、わたくし、強い殿方が大好きなの。きっとお姉さまも、そうなのね。あら、返り血だわ。すごい!」

 そんなことを言いながらジュリエットは、チラと横の姉を眺めて、ニッと笑った。ジュスティーヌは、無表情だ。侍女のアリーヌも無表情だが、よーく見ると怒りで目をギラギラさせている。ジュリエットのお付きの侍女は十人で、ジュスティーヌに付いている侍女は今はアリーヌだけだが、主人へ忠誠心は十倍以上なので負けていない。

 ジュリエットは、オレの手を両手で包むと自分の胸に押しつけた。おっぱい⋯。目の前にジュスティーヌがいるのに、どういうつもりだー?

「お姉さまも、きっと勇気のある殿方が好きなんだわ。あん。こんなに血を浴びて、すごいわぁ。ねえ、人を殺すと興奮する? ウフフ⋯ウフフフフフ⋯⋯」

 オレは、アタマが変な女にユーワクされてるのかなぁ?

「お姉さまが、フフフ⋯、家出⋯プッ! 家出される少し前には、ジルベールが婚約者候補でしたわね。ジルベールとなら、お似合いなのに!」

 これって嫌味なのかなぁ? どうにもよく分からん。ジュスティーヌの方は、まったく表情を変えない。

「フフ⋯お姉さまぁ、レオンと結婚なさらなかったら、ジルベールと結婚していたかも。そしたら、わたくしがレオンと婚約しましたのに。ズルいわ。ねぇ、レオン。ウフフフ⋯」

 うーん? 抱かしてくれそうな感じだが? セレンティアに降りてきたばかりの頃だったら、「姉妹で味は違うかな~?」なぁんて考えて、喜んで誘いに乗ってるところだ。だが今となってはジュスティーヌは、得難い同志だ。オレが王族ヅラをして公爵なんかを叩っ斬れるのは、こいつと結婚したからだ。

 ジュリエットの話は、全く実がないのでつまらない。ナニを言いたいのだか、わからないぞ。よーし。じゃあ、面白くしよう!

 ジュリエットの両手に包まれていた手を伸ばして胸の先を突っついてやった。えいっ!

「ひっ! キャアアアアア────ッ!」

「オレと婚約するんじゃねぇのか? だははははははははっ!」

 そのままジュリエットに背中を向け王宮に向かう。声が聞こえた。

「待ちなさいっ。おまえに紹介したい人がいるの。きっと役に立つからっ!」

 もういいから。赤い服の女を置いて、さっさと立ち去ることにした。モーゼの海割りみたいに群衆が二つに割れて道を通してくれる。なかには人なつっこいやつが、「伯爵! つえーですねー」などと声をかけてくる。「おう、ありがとうよ」とか言って愛想を振りまきながら王宮に戻った。

 王宮に入り群衆から見えなくなると、さっきから一言も口をきかず青ざめてふるえていたジュスティーヌが⋯⋯⋯笑い転げた。

「い、い、イヤだ、もう、あなたったら、本当に! やややめて下さいよ⋯あの子に、もぉーっ。ウフッウフッフフフ⋯アハハハハハハ! アハッアハッアハッ、クックク! ハァハァハァ⋯アハハハハハ!」

 激しい気性をうまく隠し、いつも模範的な清純王女様を演じているジュスティーヌが、これほど笑うのをみたのは初めてだ。

「おっぱいに手を押しつけられたら、もう突っつくしかないだろ?」

 さっきまで怒っていたくせに、アリーヌも笑っている。

「やや、やめて下さい。げげげげ下品なことを⋯。プッ! ジュリエット様のあの顔ったら! 姫様っ、そんなにお笑いになると、ははははっはしたないですわよっ⋯クックックッ⋯アハッアハッアハッアハハハハ!」

 よほど嫌いなのか? いつもスマしている完璧侍女のアリーヌが、こんなに笑ったのを見るのも初めてだ。ジュスティーヌとジュリエットの紅白王女姉妹は、いろいろあるみたいだ。



 レオンは、面白半分で処刑を見世物にしたわけではない。第一は、民衆に対する人気取り。第二は、増長した貴族に対する王家の威嚇。第三は、平民に自らの力を自覚させるため。これが一番大きい。

 平民といっても、ブルジョアとプロレタリアだ。封建体制を完全に打倒するまで、ブルジョア民主主義革命が当面の目標となる。⋯⋯なんだか日共の路線みたいだなぁ。

 フランセワ国王アンリ二世は、三十年近くも穏やかに統治してきた。穏健な改革は進めていたが、全体に社会が沈滞し膿がたまっていた。レオンは、フランセワ王国の病巣にメスを突き立てて血と膿を搾り出す作業を始めた。当面の目標は、第一は奴隷制の廃止と領主貴族の絶滅。第二に王都の法服貴族の特権を剥奪し、単なる官僚にすることだ。

 フランセワ王国から船で一時間もかからない海上に位置する島国のブリタリア王国には、すでに領主貴族は存在しない。中央集権化を成し遂げ、原始的な蒸気機関を利用した紡績機の発明や鉄生産量の急激な増加という産業革命の萌芽が見られていた。フランセワ王国が封建的な領邦国家にとどまるならば、遠からずブリタリア王国に経済支配され半植民地にされる。最悪の場合は、軍事的に征服され併合される可能性すらある。そんなことになったら民主主義革命どころではない。

 軍情報部を使ったレオンの報告は、国王を震撼させた。とりわけ鉄生産量の増加は、セレンティア世界では軍事力の強化に直結する。さらにブリタリア王国で繊維の大量生産が始まりつつあったご覧。レオンにとってこれは鉄生産以上に問題だった。繊維生産には漂白剤として大量の硫酸が使用される。当然、硫酸の大量生産も始まっているはずだ。硫酸は、硝石と硫黄を燃焼させて製造する。これは爆薬の材料そのものだ。爆弾のたぐいはもう開発されている。大量生産が始まるのは、もう時間の問題なのだ。

 レオンが、軍の情報将校に発言を促した。

「ブリタリア王国軍が装備している鉄製品の量を、我が軍のそれと比較すると、どれほどの差があるのか?」

「はっ! 最低でも約四倍であります」

 国王は、たまげた。

「そ、それは間違いないのか?」

 情報将校が解説する。なかなか優秀だ。

「ブロイン帝国に次ぐ大国であるブリタリア王国には、多数の情報員を配置しております。また、難破したブリタリア軍船を調査した結果であります。間違いありません」

 領主貴族が存在しないブリタリア王国の爆発的な成長を目の当たりにしたうえで、レオンに国家を分断する領主制が国の発展をいかに阻害しているか説かれると、国王はうなずくしかない。

「以前お見せしたコンニャク印刷は、たった五分で二十枚印刷します。同じことを奴隷にやらせたらどうでしょうか? 字の書ける高額な奴隷を二十人揃えて、一時間はかかるはずです。もはや生産力の水準が違うのです」

 その実例を毎日見せられていた賢い国王は、瞬時に悟った。人力よりも科学技術に裏打ちされた機械力の方が、比較にならないほど生産性が高い。無償の強制労働に従事させられている奴隷には、新技術を開発し生産を増やすモチベーションはない。つまり奴隷制を残す限り、技術と経済の進歩は阻害される。

 レオンは続けた。

「軍事から農業まで、あらゆる分野でいえることです。国を分断する領主制とそれを支える奴隷制は、フランセワ王国を衰退させ、やがて滅亡させる疫病です」

 もちろんレオンは、嘘をついて国王の危機感を煽っているのではない。フランセワ王国の現状と予測される未来を正しく述べている。国王は、レオンの言葉に納得し取り込まれていく。現状のままでは、遅かれ早かれフランセワ王国は滅びるだろう。もはや奴隷制が良いとか悪いとかいう問題ではない。奴隷制を廃止しないと、国が衰え侵略されるのだ。

 奴隷制の廃止は、奴隷労働による大規模農園を下部構造にしている領主制経済の崩壊を意味する。必ず領主貴族の連合組織と内戦になる。それに備えて、早急に王家を核とした強力な官僚と軍事組織を整えなければならない。

 見透かしたようにレオンが言った。

「確実に、勝てます」


 ルイワール元公爵の処刑から半年ほど、それなりに平穏に過ぎた。レオンは、民衆派の唯一の代表扱いでフランセワ王国政府内に入り込んだ。妻のジュスティーヌ王女は、外面はともかく本心は完全に民衆派だが、女なので政府には加わっていない。

 近い将来、領主貴族どもに対して内戦か降伏かを迫る。この方針は、フランセワ王国政治指導中枢で極秘に共有され、基本的な政策となっていた。あとは深度と速さの問題だ。民衆派のレオンは数カ月以内の全面的な開戦を主張し、保守穏健派貴族は数年かけて説得と懐柔、それに恫喝を試み、従わない領主貴族に対して限定的に軍事的圧力をかけることを主張した。

 レオンは、それは甘いと考えていた。領主貴族が抵抗せずに領地を差し出すことは、絶対にあり得ない。領主制の解体政策は、必ず内戦に至る。しかし、他国の介入を招くことは、避けたい。それは泥沼の全面戦争に発展すると諸国に理解させる。強力な軍事力を誇示することが、他国の軍事介入を防ぐ唯一の手段だ。そのために早期に開戦し圧倒的な勝利をして、速やかに内戦を終結させなければならない。内外の敵に戦争を準備する時間を与えてはならない。

 産業革命を進めるブリタリア王国から、できる限りの技術情報を入手すること。西方領主領地域をまたいで国境を接するブロイン帝国の軍事介入を防ぐこと。この二つを前提として内戦へ突入可能な政治情勢をつくり出す。それが完成した時に『奴隷解放宣言』を発し、奴隷解放を拒否する各領主領と戦争を開始する。これがレオンの青写真だ。

 決して奴隷が可哀想だから解放するのではない。奴隷解放は、開戦のための口実であり、領主の経済基盤を根底から破壊するための手段でもある。

 レオンは、主戦派⋯。より正確には、強硬に内戦を主張する中心人物として活動していた。領主貴族を挑発しようと「人を奴隷にしてこき使い貴族暮らしをしてるような奴は死んで当たり前だ」などと広言している。実は国王も、同じような考えを持っていた。性格的に奴隷制を忌んでいたし、それ以上に奴隷制の無い地域の方が比較にならないほど経済と文化が活性化することを経験から知っていた。奴隷制は、社会を退廃させ国家を腐敗させる。そう考え国王は、長年かけて少しずつ奴隷制を潰してきた。国王直轄地では、借金奴隷は禁じられ少数の犯罪奴隷しか存在しない。

 国王は、逆徒ルイワール公爵討伐の功績を口実に、レオンを大佐に昇進させた。陸軍なら四千名を指揮する旅団長か連隊長。海軍なら戦艦か空母の艦長といったところだ。かなりエラい。ジュスティーヌと結婚し王族の末席に加わってから、わずか一年だ。まだ二十六歳なのに異常なほど早い出世である。

 同時に王宮親衛隊全てを指揮する総隊長に就任させる予定だったのだーがー、例によって問題を起こした。そのためにせっかくの出世がフイになり、レオンは政権の中枢から遠ざけられることになってしまった。つまり失脚したわけだ。

 諜報機関を動かせる立場の親衛隊総隊長にレオンが就いていれば、国王は死なずに済んだだろう。



 王宮親衛隊は、四個中隊が一日交代で勤務し、残りの三日は訓練や休みにあてる。

 六月十五日は、第四中隊の当番日だった。二十四時間勤務といっても、百五十名が交代で寝たり食事をとったりする。レオンは、王宮の親衛隊隊長室でグータラしていた。

 灯りの乏しいセレンティアではもう深夜となる九時過ぎに、王宮メイドのミルヒが泣きながら隊長室に飛び込んできた。大店のラヌーブ雑貨店店主の娘で、一緒にルーマ巡礼に行ったレオンの仲良しだ。

「あああぁぁレオンさまぁぁああぁぁ! いやぁぁぁっ! あぁ───っっ!」

 普段は「マルクス伯爵」と、かしこまって呼ぶのだが、ひどく動転している。

「おいおい。やぁ、どうしたんだい?」

 ミルヒは、もう顔面蒼白でガタガタふるえている。ルーマで暗殺団に襲われたときも、これほどではなかった。

「ちっ、ちっ、血が⋯血が⋯。きっ、来て。来て下さいっ。リリーがぁ。うああぁぁぁぁあ! いゃあぁ!」

 普段は、仕事のできるしっかりした娘だ。これはただ事ではない。うわんうわん泣いているミルヒに案内され、普段から人気がない王宮の隅に駆けつけた。

 見ると十人ほどの第四中隊の騎士連中と、こわごわという様子でメイド・侍女・女官がなにやら群れている。レオンがやってきたことに気づいた騎士たちが、「あちゃー!」という顔をした。

 王宮メイドのリリー・フラワルが、血まみれになって死んでいた。

「うわああぁぁあぁん! リリー!」

 ミルヒが、床に転がっているリリーの死体に縋りついた。

「やろう⋯⋯。犯人は?」

 訊ねるまでもなく、すでに取り押さえられていた。第四中隊騎士のプイーレ中尉だ。

「てめえ、なぜ殺したっ?」

 正規軍なら中尉は、中隊長だ。二百名もの兵を率いる立場なのだが⋯。

「ちっ、違うんです。その、ちょっとからかったら、下女が無礼をはたらいたもので、そう、手打ちにしました」

 ふーん、へー。強姦されそうになって抵抗するのは、無礼なのか?

 床に布切れが落ちている。

「そこに落ちているのは、その女の下着に見えるが? 最近の王宮メイドは、パンツをそこらに脱ぐのか?」

 ミルヒが怒った。

「そんなわけないでしょっ! リリー! うわあぁあぁぁん!」

 前世の聖女マリア時代にゴロツキに輪姦されたことを思い出し、レオンはムカムカと腹が立った。


「一般に政治において怨恨は常に最悪の役割を果たす」 (レーニン)


「王宮内は戦場に準じ、国王の警備護衛任務は戦闘行動と同等に扱われる。おまえは、戦闘中に自軍勤務員に対して強姦未遂と殺人を犯した。現場を目撃した者は?」

 芯の強いミルヒが、立ち上がった。

「わたし、見ました。人の少ない所に無理矢理つれてったんです。リリーは、嫌がって泣いてましたっ!」

 まあ、そうだろう。疑問の余地はない。王宮での勤務中に女を犯そうとして殺しちまうとは⋯。

「こともあろうに王宮内で、よくもやってくれたなぁぁ。貴様は第四中隊の面汚しだっ! 中隊長の司法監督権にもとづき、臨時軍事裁判を行うっ。戦時軍法における訴因は、戦闘中の自軍勤務員に対する強姦未遂と戦闘資材を使用しての殺人っ。軍法に則りっ、死刑だっ! 中隊指揮官の戦時司法指揮権によりっ、即時執行するっ! そいつを放せっ!」

 こんなんでもプイーレ中尉は伯爵令息だ。平民女を殺したくらいで? 即決裁判で? その場で処刑? いくらなんでも無いだろうと、まわりを囲んでいる者の半分くらいは考えた。

 レオンをよく知っている親衛隊騎士は、大半が強姦男に冷ややかで、それでも数人はなんとか止めようとする。しかし、「中隊の面汚しめっ!」と罵り、地団駄踏んで激怒している隊長をなだめることはできない。

 いつも二本差しのレオンは、短くて太い方の剣をギラリと抜いた。刺身包丁を分厚くして長くしたような七十センチ程の文字通りの『人斬り包丁』だ。

「おまえも抜けっ。戦って死ね。邪魔だてするやつは、共犯として重ねて殺すっ!」

 プイーレ中尉は、レオンと斬り合っても、かないっこないことを知っている。助かるには命乞いするしかない。

「あの下女が、身分をわきまえず誘惑してきて。それで、つい、仕方なかったんです。短気を起こして斬ってしまったことは、はっ、反省してます。隊長、お願いです。プイーレ伯爵家は⋯⋯」

「下女」「身分」「わきまえず」「ボクは伯爵家」「誘惑された」「からかっただけ」「つい」「仕方ない」「手打ちにした」⋯。苦しまぎれにレオンの最も嫌う言葉を、これでもかとばかりに吐き散らかす。

 リリーの死体にすがりついて血だらけになったミルヒが、泣きながら叫んだ。

「うそだっ! うそよーっ!」

 ついにレオンの怒りが頂点に達し、爆発した。

「死ねっ!!!」

 怒りに煮えたぎる剣筋が、うなりをあげ強姦殺人犯の左肩を直撃する。凄まじい勢いで上から下に肋骨を十二本続けて切断し、剣はそのまま心臓を両断し脇腹まで斬り下がった。血を噴きながらプイーレ中尉は、ゆっくりと崩れ落ち、リリーと自らの血の海に沈んでいく。

 我を忘れるほどのレオンの怒りは、この程度で治まるほど浅くも軽くもなかった。実はリリーとは、人の見ていない所では友だち喋りをするほど仲良しだったのだ。結婚大宴会でも、王宮メイドコーラス隊の中心になって恥ずかしがるメイドたちをまとめて働いてくれた。


「リリーは、本当に歌がうまいなぁ」

「エヘヘヘ⋯⋯。わたし、本当は歌い手になりたかったんです」

「いいところのお嬢さんなんだろ? そりゃあ⋯」

 ひと昔前の日本と同様に、セレンティアでも芸能人の地位は低く、差別の対象だった。気の利いた娼婦か、せいぜい遊女といったところだ。良家の娘がなれるものではない。

「いいんです、もう。大勢の人の前で歌えて、素敵な思い出ができました。一生忘れませんからね。ご結婚おめでとうございますっ!」


 あの時そう言って明るく笑ったリリー・フラワルは、今は下着をはぎ取られねじれたような格好で床に転がっている。

 血の海にバシャバシャと踏み入ったレオンは、プイーレ中尉の髪を掴んで持ち上げると、一刀のもとに下手人の首をぶった斬った。それでも気が済まず、悔しまぎれに床に投げつけると転がって戻ってきた頭を思いきり蹴とばし、壁に激突させる。グシャン!と嫌な音がして頭蓋骨が砕け、脳が飛び散った。

 居合わせた者は唖然としている。レオンは、そこらに落ちていたモップの柄を斜めに切断した。

 ダンッ!

 そのまま躊躇せず、モップの棒を生首に突き通した。そして棒の先に首を貫いたまま、どこかに持っていこうとする。どうやら、城門の前で晒し首にするつもりらしい。

 たしかに三百年くらい前の乱世のフランセワでは、そんな野蛮な風習もあった。軍法にもまだ残っているかもしれない。だが、これはいくらなんでもマズすぎる。国王陛下の耳に入ったら、今度はレオン中隊長のクビが飛んでしまう。

 なんとかレオンを止められそうな、ルーマ旅行を指揮したラヴィラント親衛隊騎馬隊長と傷のジルベール大尉を、誰かが引っぱってきた。血の臭いが立ちこめる有様に、二人とも驚愕。必死になってレオンを止めるが、足止めが精一杯だ。怒り狂ったレオンが棒に突き立てた生首を振り回すので、そこらじゅうに血や脳が飛び散り、気持ち悪い。侍女やメイドが何人か腰を抜かし這って逃げ、逆に騒ぎを聞いて、ますます人が集まってきた。

 気のきくメイドが、アリーヌ侍女を見つけ出してくれた。事情を聞いて青くなったアリーヌが、飛んでいってジュスティーヌ王女をつれてきた。

「なにをしているのですっ。恥をお知りなさい! あなたは、フランセワ王国王女の夫なのです!」

 さすがにジュスティーヌは王族だ。威厳がある。血の滴る生首をぶら下げているレオンを見ても、顔色も変えない。実はスカートの下の脚は、ガクガクふるえているのだが⋯。「この人は、とうとう気がふれたのかしら?」。

 王女の叱責に、レオン以外の全員がすくみ上がった。

「このっ、ガキがっ、王宮内で、女を犯そうとして、斬り殺しやがった! 仕方なかっただとぉ? フザケやがってえぇぇ。王宮前に獄門首をさらして、王都民にこのツラを拝ませてやるっっ!」

 ジュスティーヌは、ルーマの大神殿聖本堂でレオンが聖女マリアの聖柩を蹴り倒し、止めようとした随員ともみ合いになった時に、本気で自分を殺そうかと思案していたことを思い出した。この人なら、そのくらいのことは、する。

「落ち着きなさい。それでも王族の夫ですか? ⋯あなたは、こんなことで失脚するつもりなのですか?」

 レオンの動きが、ピタと止まった。元々トラックの荷台に乗りこんで、鉄パイプと火炎ビンを振りかざし、ピストルを乱射する警官隊に突っ込んで死んだ過激派の突撃隊員だ。激情型で頭に血が上りやすい。しかしヤクザのたぐいではない。政治党派である過激派だった政治的人間でもある。ジュスティーヌの「失脚」という言葉を耳にして、一気に血が下がった。少し頭が冷えたレオンは、今の状況をどうにか政治的にうまく利用できないものかと考え始める。

 法もなにも関係なく腹立ちまぎれにプイーレ中尉をぶっ殺したのが、実際のところである。そこをなんとか「秋霜烈日。悪事を働くやつは、身内でも容赦しない厳正な正義の人」「女や弱者を虐げるやつを許さない、弱者の味方」とかいう善玉キャラクターに持っていけないだろうか~? 保守派貴族にはますます反感を持たれるだろうが、民衆にはウケるんじゃなかろうか~? カムロを動員して王都にお話しを広めよう⋯⋯。まあ、たしかに獄門首は、イメージダウンになるよな。

 そうだ! リリーの葬式の祭壇に、コイツの首を捧げたらどうだろうか? このアイディアも、あらゆる者から止められた。平民の葬式で貴族の首をさらす。そんなことをしたら、プイーレ伯爵家が滅亡覚悟で斬り込んでくる。血の雨が降ってリリーの実家は、大変な迷惑だろう。

 レオンは首に興味を失い、ポイと床に放り捨てた。

 ベシャ!

 ジュスティーヌの言葉で、虎のようだったレオンが猫みたいにおとなしくなった。無茶をする夫を叱りつける賢妻を演じていたが、実のところジュスティーヌは、その場にへたり込んで泣きたい気分だった。


 この事件は、プイーレ伯爵家から強硬な抗議がきて、国王の耳に入った。

 国王が就寝中の深夜の王宮で、警備任務中の親衛隊騎士がメイドを強姦しようとして、女に抵抗されたため王宮備品の剣で刺殺した。平民出身のメイドといっても王宮勤めの期間は、準貴族の身分が与えられる。レオンが殺さなくても、プイーレ中尉は死刑判決を食らっただろう。しかし、執行はされない。

 プイーレ伯爵家が、四方八方、温厚な国王にまで手を回して減刑を勝ち取り、犯人は辺境に追放刑あたりが落としどころだったはずだ。

 しかし、それではクズに殺されたリリーは、どうなるんだ? 

 殺人まではいかなくても、王宮で貴族出身の親衛隊騎士が、平民出身のメイドに強引に迫って手込めにする⋯といえば聞こえがいいが、強姦することが稀にはあった。だが、それまで問題になったことはない。聖女だった前世に輪姦された経験があるレオンは怒っていたし、事件の見え透いた先が読めてもいた。だから貴族特権で逃げる前に、その場でプイーレ中尉を斬って捨てた。

 レオン中隊長の即決裁判と即決処刑については、王宮を戦闘中の戦場と同等に見なすという国法により完全に合法であり、問題にならなかった。生首を串刺しにしてさらすなんて刑罰も、数百年前に廃れているとはいえ、一応は合法だ。だが、転がった頭を思いっきり蹴っとばして脳ミソをとび出させたのが、マズかった。死体の損壊を問題にされた。

 貴族の名誉がどーとかで、相手は一歩も引かない。レオンの方も謝罪を拒否し、「名誉だぁ? 強姦殺人で裁かれて赤っ恥かくのを止めてやったんだ。感謝しろっ!」と堂々と開き直った。たしかにレオンの言う通りなのだが⋯。

 レオンが、ひとこと謝罪すればそれで済むのに。うんざりしている国王、大臣、大貴族が居並ぶ王宮の大会議室で、父親のプイーレ伯爵と口汚い罵り合いになった。


「あの首はなんだ? 貴族を侮辱しおって。人殺しめが!」

「おぉ、首を叩き落としてやったわ! 蹴ったがそれがどうしたっ!」

「異常者だ! 変質者め! 殺人狂!」

「変質者は、強姦魔のおまえのセガレだっ!」


『生首蹴っとばし罪』など存在しないので、レオンに直接のお咎めはなかった。だが、保守派貴族からは、ますますますます嫌われて、非難轟々。国王にも抑えられない。おかげでレオンの王宮親衛隊総隊長就任は、立ち消えとなり、せっかくの出世はフイになった。同時に政治の中枢からも外されてしまった。妻のジュスティーヌですら、レオンは暴れすぎたと考え、匙を投げた。

「しばらくは、おとなしくしていてくださいませ。⋯はぁぁ⋯⋯」

 保守派貴族がホッとしたことに、意外にもレオンは特に抵抗することもなく御前会議や貴族院といった政治の場からの排除を受け入れ、淡々と去っていった。

 レオンは、失脚した。

 国王と取り巻きの高位貴族たちは、レオンを政治家としてはあまりに過激で暴力的すぎると見なした。内戦の即時開始を強硬に主張するほどだ。これでは国政に参与させることは危険ではないか。とはいえ若手貴族の多くや平民たちからは、熱狂的な支持と喝采を受けている。

 レオンの失脚によって内戦の開始は遠のいた。良いことのように聞こえるかもしれないが、二百五十万人もの奴隷の解放が遠のいたということでもある。


「国家権力の本質は暴力である」(レーニン)


 国家権力の暴力装置である王宮親衛隊第四中隊長からの解任であったなら、手足をもがれたも同然だ。間違いなくレオンは、王都民にゼネラルストライキを決行させ、王宮や貴族邸にパンひとつ届かないよう首都機能を麻痺させただろう。そのうえに畳みかけて、「マルクス隊長を戻せ」と民衆のデモや暴動を煽って抵抗したはずだ。ジュスティーヌ王女という錦旗があるのだから、第四中隊を率いて王宮に乗り込み、反乱騒ぎぐらいは起こしたかもしれない。

 しかし「貴族間の利害の調整」「税と称して搾取した財の分配」、レオンは延々とそんな取り引きをしている宮廷政治など、侮蔑していた。レーニンの言うように「国家権力の本質は暴力である」ならば、肝心の国家権力の暴力装置と下部構造に近い民間暴力をレオン支持派で掌握することに注力し、いずれ上と下から貴族を圧し潰してしまえばよい。それまで、せいぜい宮廷政治を踊らせておいてやろう。そう考えた。

 レオンがここまで暴力、聞こえ良く軍事力と言い換えてもよいが、にこだわるのは、前前前世の過激派だった新東嶺風の体験に根ざしている。


 早大戦争である。早稲田大学で自治会を握っていた革マル派が、革マルに批判的な学生を自治会室に拉致監禁し、凄惨なリンチを加えて殺してしまった事件だ。

 それまでも早稲田大学では、革マルを批判したり他党派に加わる学生に対する革マルのリンチが横行していた。取り囲んで鉄パイプで足腰立たなくなるまで殴りつけ、大学に来られないようにする。ついに殺人にまで至った暴力支配に早稲田大学の学生は怒り、次々と自治会不信任をクラス決議して自治会室から革マルを追い出した。ところが翌日には革マルは自治会室に居座っており、他大学から外人部隊を呼び寄せ内ゲバ用に特製した二段収縮式鉄パイプで武装し、反革マル学生を襲い始めたのだ。

 反革マル側は、バラバラに戦っても勝てない。昼日中の衆人環視ならば襲ってくることもあるまいと、各グループやクラスの代表が集ってデパートの喫茶店で会議を開いた。そこをスパイから情報を嗅ぎつけた革マルの鉄パイプ部隊が襲撃し、居合わせた一般客が悲鳴をあげて逃げまどうなかで、反革マル学生を滅多打ちにして数十人に重傷を負わせ、壊滅させた。

 早稲田大学の革マル派支配は、鉄パイプの暴力とスパイによって維持されたのだ。

 新東嶺風の属していた第四インターは、党派闘争で暴力を行使しないという『反内ゲバ主義』を党是としていた。内ゲバなどに使う力を権力に対して向けようという正論だ。しかし、いくら革マル派の悪事を暴き、追放を言論で訴えても、問答無用で鉄パイプの滅多打ちにするという暴力の前には、なんの役にも持たなかった。結果的に早稲田大学の仲間や反革マルに立ち上がった学生たちを見殺しにすることになった。

 大学構内での拉致リンチ殺人という最悪の行いをし、一般学生に見放され政治的には絶対的に不利な立場にいた革マル派が早大戦争を勝ち抜き、その後二十年以上も早稲田大学を支配することができた理由は、暴力の恐怖による恫喝だった。リンチ殺人という悪業を働いた連中の非を鳴らし、政治的にも道徳的にも正しいことを主張し、一般学生・大衆が支持したとしても、組織された仮借ない暴力の前には吹き飛ばされてしまう。

 新東嶺風は、早大戦争の苦い経験から、政治的に絶対不利な立場であったとしても暴力によってひっくり返すことができることを学んだ。クラウゼヴィッツは「戦争とは他の手段を持ってする政治の継続である」と述べた。この「他の手段」とは、要するに暴力のことだ。つまり、戦争とは暴力を手段とする政治だ。暴力の行使は、エスカレートしてゆく。本来は、政治目的を達成するための手段であった戦争が、暴力が極限にまで達すると、お互いに敵の完全な打倒を目的とせざる得なくなる。相互絶滅戦だ。そうなると戦争が政治の上位に立ち、政治を従属させるようになる。それをクラウゼヴィッツは『絶対戦争』と名付けた。

 もし政治的に誤りがあったとしても、戦争に勝ちさえすれば自己の意志を敵に強要し、道徳性すら獲得できる。例えば、非戦闘員の頭上に無警告で原子爆弾を投下し数十万人も無差別に殺戮する行為は、軍事的には無意味であり、国際法に違反し道徳的にも堕落している。しかし、戦勝したアメリカにそれをいう者は、ほとんどいない。


 国や権力者、それに勝者こそが正しいという奴隷根性は、暴力の独占者に服従してきた被支配者の隷属思想だ。鞭で殴られるより、自ら這いつくばった方が楽なのだ。這いつくばれば、なにかオコボレをいただけるかもしれない。だがそんな精神は、人間というより地面を這いずるヒキガエルの水準だ。

 奴隷を解放しろということは、領主貴族にとって財産である家畜を無償で手放せというに等しい。奴隷制は領主貴族の持つ生産力の基盤なのだから、奴隷を失えばほとんどの財を無くすことになる。そのうえ奴隷を殺した者は、殺人罪で訴追されるという。王命とはいえ従えるはずがない。

 王家からすれば、奴隷制を残置すれば国の発展が妨げられ、いずれ産業革命を成し遂げた他国に滅ぼされ、フランセワ王国は植民地か半植民地にされてしまう。奴隷制の廃絶は絶対に譲ることができない。

 一部の領主貴族は、国が奴隷を買い取ることを求めた。しかし、二百五十万人もの奴隷を買い取る資金など王国には無い。そもそも領主貴族が平民を不当に監禁し労役させているという理屈が、奴隷解放の根拠だ。道義的にも到底承諾できるものではない。奴隷制問題を話し合いで解決することは、もはや不可能だ。

 いくら領主貴族たちが強力な騎兵部隊を持っていても、フランセワ王国に戦勝できる可能性は無い。しかし人間は、見たいものを見て、信じたいことを信じる。「なんとかなる。いつまでもこの豊かな生活は安泰だ」。領主貴族は、まだぼんやりとそんなことを夢想していた。


「階級社会の歴史上いつの世にも、自分の制度が破滅し消滅する運命にあることを信じた支配階級は、一つもなかった。 奴隷所有者は奴隷制度の永久性を信じ、奴隷制度は神がさだめた制度だと考えていた」(ソ連邦科学出版『マルクス=レーニン主義』)


 暴力による自己の意志の強制。もうフランセワ王国が生き残るには、戦争という暴力で領主領を粉砕し奴隷制を廃絶する道しか残されていない。内戦を避ければ国ごと滅びる。その点では民衆派のレオン・マルクスから保守派官僚貴族まで、強弱はあれどフランセワ王国の意志は固まっていた。開戦が早いか遅いか。どこまで徹底的に奴隷制と領主貴族制を破砕するかだけだ。

 たしかに強硬派のレオン・マルクスは失脚した。だが、民衆の中に入り着々と力をたくわえ、巻き返しの機会をうかがっている。


 少々話しがそれたようだ。レオンが失脚する原因となったリリー・フラワル殺害事件に戻そう。 

 レオンは、殺されたリリーの実家まで謝罪に訪ねるのに気が重かった。殺害現場にレオンを連れていったことで、結果的に親友リリーの仇をとったミルヒが、付き添ってくれた。

 王宮親衛隊が厳戒態勢をとった。王族のレオンに手をかけたら、ルイワール公爵家の二の舞となり、男女問わず一門は処刑される。もともとプイーレ伯爵家は、中堅どころの法服貴族。王宮の官僚だ。ほとんど剣など握ったことはない。一族の中で一番強かった男が王宮親衛隊に入ったのだが、レオンに生首にされてしまった。ゴロツキを雇おうにも、相手がレオンでは応じる者がいるはずもない。

 国王は、王家直轄の親衛隊部隊に厳戒態勢をとらせることで、プイーレ伯爵家一族がレオンを襲撃しない口実をつくってやった。

 隊長のレオン大佐は俸給の半額を三カ月分、平隊員は半月分を返上し、五千万ニーゼの謝罪・賠償金をひねり出した。とはいえ、カネを払えばどうにかなるわけではない。

 賠償金を持ってしょんぼりとリリーの実家を訪れたレオンは、両親がおびえるほど平身低頭だった。遺族が意外に優しかったのは、たぶんレオンが怖かったからだろう⋯。

 もともと一九七八年の日本に生きた新東嶺風が、レオン・マルクスの前前前世であり、今もその思考を支配している。こんな事件を起こしてしまったら、責任者が遺族に謝罪し、賠償金を支払うのは当然だという感覚だ。ところが、最高位に近い貴族が平民屋敷に賠償金を持参し、部下の悪事を謝罪する。これは身分社会のフランセワ王国では、信じ難いほどの驚きだった。しかも元凶の犯人は、責任者のレオンがその場で処断している。

「下民などに謝罪するなど貴族の権威を損ねる」とかで、保守派貴族どもはレオンをますます嫌った。逆に王都の民衆の間では、もともと高かったレオン人気は、ガン!と跳ね上がった。

 失脚したといっても王宮内の宮廷政治でのことだ。親衛隊中隊長を解任されたわけではない。レオンは時がくるまで雌伏し民衆派の組織を固め、軍部に足場を築き、民衆の人気取りに精を出すことにした。

 レオン人気のうなぎ登りには、理由があった。ついにガリ版印刷機が完成したのだ。こいつのおかげで短期間で大量の印刷が可能となった。手始めに今回のレオンの生首事件を印刷し、カムロにバラ撒かせた。それまでマスコミなどなかった王都民に、これは効いた。自作自演で大いに美化があるが、内容はまぁまぁ事実だ。


 前前前世の過激派時代に新東嶺風は、毎日のようにガリ版印刷機を使ってアジビラを刷ったものだ。その経験が役に立った。

 レオンは、ガリ版に関して思い出せる記憶をひねり出すと元浮浪児の発明少年を集めた開発チームに丸投げした。

 ガリ版の開発で一番苦労したのは、ロウ紙の製造だった。ロウを塗った薄い紙のようなものだ。これが印刷原版になる。ロウを溶かした液に紙を漬けたり刷毛で塗りつけてみたりと試行錯誤のすえ、蜂の巣から取った蜜蝋が最適だと分かった。子供の柔軟性とは、たいしたものだ。

 先が尖った鉄芯になっている『鉄筆』で、ロウ紙のロウを削って字を書く。下にヤスリ台を置きガリガリと音を立ててロウ紙を削るので、この作業を「ガリ切り」といった。削り文字だから曲線が苦手だ。『U』が『V』みたいになってしまい、字が角張る。細かく書くのも苦手なので、『闘争』を『斗争』、『権力』を『权力』と略したりした。独特の字体は、「ゲバ文字」などと呼ばれた。元はガリ版のビラから生まれた字体のようだが、立て看にもゲバ文字が持ち込まれた。

 ゲバ文字もセクトごとにこだわりがあり、似ているようで微妙に形が異なっていた。どうも中核派が一番上手で、民青はフヌケた感じ、ブントは荒っぽくて勢いがあり、ノンセクトは字がヘタで雑、第四インターは妙な飾り文字を多用していた。

 ロウ紙に消しゴムなどはないので、ガリ切りは一発勝負だ。過激派セクトには妙な美意識があった。一文字でも書き損じるとボツになり、最初からやり直す。なんとか書き終わると、薄布を張った木枠にロウ紙を取りつける。

 浅い箱の中にわら半紙を入れ、わら半紙の上にロウ紙をはさんだ布枠を乗せる。インクをつけたローラーを布枠の上で転がらせる。削った文字の部分にインクが通って、印刷できる。紙を出し入れする係と、ローラーを転がらせ布枠を持ち上げる係の二人一組で作業すると早い。慣れると一分で十枚以上は印刷できた。一時間で六百枚だ。

 残念ながら今回開発したガリ版印刷機は、インクとロウ紙の品質がまだまだで、一時間に二百枚印刷するのが精いっぱいだった。細かい字の印刷もまだ難しい。とはいえ、手書きやコンニャク印刷とは比べものにならない速さで大量の印刷ができる。

 さっそく、訓練も兼ねて印刷をしてみた。印刷物の内容は、今回のリリー殺害事件の顛末だ。交代で五時間ほどかけて千枚ばかり刷った。少し刷り上がるとすぐにカムロがアジビラを掴んで飛び出していく。貴族に読まれると吊し上げを食らいそうなので、夜陰に乗じて平民地域の掲示板に貼ったり、大衆酒場の主人に渡したりした。この世界では、紙自体が珍しい。千枚なんてアッという間に捌けた。

 レオンは、カムロたちにポスターの貼り方まで指南した。


 過激派は、ポスターのことをステッカーと呼んでいた。街の電柱にステ貼りをしてもほとんど反響はないし、警察に弾圧される。ステ貼り程度の軽犯罪で現行犯逮捕され、二十三日もぶち込まれた仲間もいた。なので基本的に大学構内に貼った。内ゲバの激しい大学だとステ貼りすら命がけだったらしいが、新東嶺風の通っていた東北田舎大学では、民青が「壁を汚すな」とか難癖をつけてくる程度だった。

 ステ貼りは二人一組が基本だ。貼りつけには本物の洗濯ノリを利用した。たぶん一番安価だったからだろう。一人が水と洗濯ノリをぶち込んでかき回したノリバケツをぶら下げ、もう一人が印刷したステッカーを抱えてサークル棟から出撃する。廊下といわず便所といわず空いている壁の端から端まで上・中・下の三回、刷毛で洗濯ノリをザーッと引く。続いてもう一人が、端からペタペタペタペタペタとステッカーを連続的に壁に貼っていく。校舎の一階から六階まで二人組でうろつき回り、空きスペースを見つけると偏執的に同じステッカーを何百枚も貼りまくった。お知らせなら要所要所に一枚ずつ貼ればよいのだが、セクトの勢力誇示や集会前の景気づけの意味あいもあった。

 他党派のステッカーを破いたり、上に重ね貼りしたりすると、小競り合いになってしまう。反内ゲバ主義が党是なのでレオンたちは気をつけたが、少数いた革マルや右翼の原理研がよくそんなことをしてトラブルを起こしていた。


 コンニャク印刷の時と同様に、ガリ版印刷機を国王に献上した。王様が例の生首蹴っとばし事件で怒っていたので、ご機嫌を取ったのだ。こんなカラクリが好きな国王は、自らローラーを転がして印刷して喜んでいた。同じ書類を何度も書く必要がなくなった王宮総務部や経理部あたりは、もっと喜んだ。

 しかし、これが数カ月で王都民の意識を激変させる程の大発明だとは、誰も気づかない。

 ガリ版印刷機の開発は、金儲けだけが目的ではなかった。大量に印刷された紙媒体を利用して、レオンに都合のよい情報を王都に行き渡らせる体制をつくることが最大の目的だ。情報の素早い伝達ができなければ、大衆の組織化はできない。

 王都パシテのような都市では、情報がなければ人は生きていけない。それまでも木版印刷のかわら版や講釈師のようなものは、既に存在していた。水準はピンからキリまでだったが、それなりに質の高そうな連中に、レオンは適価でガリ版印刷機を譲ってやった。さらに印刷の技術指導の名目で、公然部門のカムロをつけた。セレンティアの大学水準の教育を十四歳かそこらで施されたカムロたちは、仕事ができる。これからマスコミ界で出世するはずだ。

 ガリ版印刷機を安くバラ撒くことには、カムロたちから異論がでた。高く売りつければいいのに⋯。しかしガリ版は、構造が単純だ。レオンは、模造品がつくられるのは時間の問題とみた。肝心のロウ紙とインクの製法を握っているのだから、印刷機を格安で譲って恩を売り、カムロをマスコミ界に押し込む方が得策だ。新聞の規模が大きくなったら、カムロの印刷所が受注する。当面の利益は、ロウ紙とインク、それに粗紙で出せばよい。意外に商才があったレオンは、現代日本の悪徳プリンター屋の高額インク商法みたいなことを考えた。いつか保守派貴族どもだって、御用新聞を設立するだろう。やつらがあまりに敵対的な場合は、ロウ紙とインクの供給を停止してしまおう。

 王立印刷所をはじめ子会社の民間印刷所を設立し、どうにか二百五十人のカムロの生活の基盤をつくることができた。王都の浮浪児の数は、三千人以上だ。カムロたちがこの三千人に餓えない程度の食品と生活物資を供給して手先とし、カムロ組織の目と耳を広げた。この浮浪児の救済活動⋯⋯というか組織化は、王都民にも評判が良かった。資金の裏付けができたおかげで、予算を国に依存しないレオンとジュスティーヌ個人に忠誠を誓う私兵団のタマゴを設立することができた。

 印刷・製紙・商店の小僧・マスコミ・王宮の下働き・親衛隊の伝令・軍士官学校生・名門貴族学院生。これがカムロの表の仕事だ。彼らの多くは、長じて政府高官や大ブルジョアに成長するだろう。そしていつか、レオンと最後のたたかいを決することになるかもしれない。とはいえ今は、ブルジョアは封建制とたたかう同盟軍という位置づけだ。そして封建制を倒したら、すぐさまブルジョアを打倒するプロレタリア革命に移行する。

 カムロの裏の顔は、情報収集と世論工作を中心に、スパイ・大衆煽動・破壊活動・暗殺工作まで行える特務機関だった。表に露出している二百人が、正業について資金調達や広範な情報収集・世論工作を行う。特別に選ばれた五十人の非公然部隊が、専従工作員としてスパイ潜入から暗殺や破壊活動まで非合法活動を担った。表の二百人も、必要に応じて非合法活動に加わる。

 レオン=新東嶺風が加わっていた第四インターは、『ゼロ部隊』と呼ばれるコマンド部隊を持っていた。しかし、人民から切り離され秘匿された地下軍事組織は、あえてつくらなかった。テロ・ゲリラ闘争は、たたかう人民の隊列から召還し軍事をもてあそぶ代行主義である。王道である労働運動と「戦えば勝てる」と人民を鼓舞する大衆的実力闘争を阻害すると考えていたからだ。

 非公然を組織し、内部を入子細工のように二重化して非合法部隊を地下に完全に秘匿するやり方は、新東嶺風の死後に革命軍を組織してテロ・ゲリラ闘争を行った中核派を参考にした。


 レオンとジュスティーヌ夫妻のフランセワ=マルクス伯爵家の家計は、常に火の車だった。結婚した際に父王から下賜された祝い金は、屋敷を買いそれなりの家門を立てろという趣旨だった。ところが侍女のアリーヌが目を離した隙にレオンが持ち出して、民衆に酒を配ったり王立診療所を建てたりで、きれいに全部つかってしまった。

 続けてレオンは、慈善に見えて実は国家体制を変えるほど重大な意義を持つ事業を始めた。どうにかカネを工面して、王宮のすぐ近くに平民の子供のための剣道場を建てた。入門試験があるが、稽古料は格安だ。カムロと貧乏だが見どころのある子供は、無料にした。子供好きの親衛隊騎士が、交代で稽古をつける。「子供の中には未来がある」などといいながら、レオンも暇を見つけては顔を出した。

 道場で頭がいい子供を見つけると、定期的に集めて泊まりがけの学習教室を開き、例のテツガクと文字や算数といった実学を教え込んだ。これは幕末維新の革命家、吉田松陰の松下村塾の真似だ。もし途中で自分が死んでも、フランセワ革命と世界革命を前進させるだろう。

 親たちは喜んだ。上位貴族と口をきいて貰えるだけでも大変なことなのに、王族に勉強を教えて貰えるとは! きっと子供の将来の栄達の道を開くに違いない。実際には、子供たちはその真逆のことを教え込まれていたのだが⋯。

 しかし、一部の貴族は、レオンの子供剣術教室の危険性に気づいた。貴族や騎士が平民より上位にいるのはなぜか? 様々なしきたりや因習のベールで隠されているが、究極的には貴族だけが武装し戦う権利を持っているからだ。たとえば、貴族同士が決闘で剣をふるっても、よほどのことがなければ罪に問われることはない。しかし、平民が喧嘩で刃物を持ちだしたら、立派な犯罪だ。

 子供剣術教室などという可愛らしい名称で隠して、レオンはなにくわわぬ顔で王都の平民階級に暴力を解放し、軍事力を手渡そうとしていた。


 アリーヌが憤り嘆き悲しんだことに、王族なのにジュスティーヌとレオンは、屋敷もかまえずに王宮に居候している。姫様が、ドレスルームさえお持ちではない!

 レオン=新東嶺風とっては、崩れかかった団結小屋やボロアパートの四畳半暮らしだったので、二十畳の部屋が五つもある元客間は、広すぎて落ち着かないくらいなのだが⋯。

 王宮に居候しているのには、レオンにも一応の考えがあった。屋敷をかまえるより、権力の中枢である王宮に住み着いた方がなにかと有利だ。

 レオンの俸給は、年に三千六百万ニーゼ。月給三百万円といったところだ。無税だがボーナスは無いので、現代日本の政府高官とそんなに変わらない。現代日本の総理大臣の月給は二百八十万円だが、各種手当てがつく。

 王女のジュスティーヌには、毎年一億二千万ニーゼの王族品位維持手当がついた。多く感じるかもしれないが、日本には、年収が四億や五億なんてブルジョアは、いくらでもいる。夫婦で一億五千万ニーゼ程度の年収で、孤児院と無料の診療所を経営しているのだから、まぁ、どうがんばっても家計は火の車になってしまう。

 再びアリーヌが嘆いたことに、ジュスティーヌは無用の贅沢をやめてしまった。王女が二度も同じドレスを着て貴族パーティーに出るなど、およそ有り得ない。公的な場で王女が着用したドレスが古着屋に出回ったりしたら大変なことになるので、裁断して焼却される。

 賢いジュスティーヌは、二百着以上もあった結婚前のドレスを仕立て直したり着こなしを変えたりして、うまくごまかしている。もともとセンスが良いので、「結婚してからさらに美しくなった」なんて言われている。宝石や装身具のたぐいは、『王族の間』から借りだし、自分では買わない。

 腹違いの妹のジュリエット・ド・フランセワ第四王女は、十人も侍女を引き連れて連日のように貴族の集会に顔を出している。王宮内で『赤い王女』主催のパーティーもよく開いていた。

『白い王女』と呼ばれるジュスティーヌ・ド・フランセワ=マルクス王女の侍女は、三人だけだ。伯爵家が雇用している侍女は、タヌキ美人で「~ですわ」が口癖の短刀投げの名手・マリアンヌだけ。アリーヌと猫娘のキャトウは、ジュスティーヌ王女付きの王宮王家侍女なので給金は王宮持ちだ。マルクス伯爵家の使用人は、公的にはこの三人しかいない。あとはカムロが常に数人待機していて掃除や雑務を行い、いざという時には伝令やレポになる。容姿が不細工だと王宮では目立つので、年少組の美少年ばかり集めた。メイドや侍女の女の子たちが喜んで可愛がってくれるようになった。

 それにしても王女が降稼した伯爵家としては、マルクス伯爵家は異常に使用人が少ない。カネが無いのが一番の理由だが、レオンは自分がいつ殺されるか分からないと考えていたことも大きい。三回連続で殺されているのだから、四回目もあるだろう。戦死ならともかく、貴族の権力争いに負けて処刑されるなら、連座する者は少ないほどよい。手に職をつけたカムロたちなら、地方都市にでも逃げ込めばなんとかなる。もともと平民だったマリアンヌは、カムロの手引きで隣国の聖都ルーマに逃げ込めば、バロバ大神殿長がかくまってくれるだろう。アリーヌとキャトウは、所属が王家侍女でマルクス伯爵家に派遣されたというかたちになっている。もし、レオンが権力闘争に敗れても、フランセワ王家が倒れでもしないかぎり巻き添えの連座はないはずだ。


 レオンが出世を棒に振る生首事件を起こしてから一年近くは、平穏に過ぎた。とはいえ保守派貴族どもに、やることなすことことごとく横やりを入れられ鬱陶しくて仕方がない。王宮親衛隊を中心に若手貴族には熱烈な味方が多いのだが、まだ若すぎた。貴族家の食卓でレオンの評価をめぐって家長と嫡子が口論になり、レオンはますます家長に嫌われた。

 ジュスティーヌを保守派貴族との争いの矢面に立たせる真似はしなかった。王宮内の権力闘争では、どうせ勝てやしない。民衆派とみなされてジュスティーヌの父王への影響力が落ちたら、親衛隊中隊長の解任、完全失脚もありうる。ジュスティーヌには、乱暴者の夫に困っている妻が、王女権力で夫の暴走を抑えているようにふるまわせた。生まれた時から貴族たちの権力闘争を見てきたジュスティーヌは、容姿に似合わぬ政治家でもある。大層面白がって演技し、要所を押さえてくれた。

 王宮の貴族官僚には、フランセワ=マルクス伯爵夫妻の奇妙な性質が見えてきた。この二人が並んで歩いている様子は、まるで鶴と熊だった。鶴と熊なのに夫婦仲は、とても良い。なのに、夫婦で出席が基本の貴族社交の場には、レオンは少し顔を見せるとすぐにひきあげてしまう。北欧系のモデルのようなジュスティーヌ第三王女が三人の美しい侍女を連れて、愛想を振りまいた。北欧系に少しラテンが入ったジュリエット第四王女が同じ会場にいると、白い薔薇と赤い薔薇が美しさを競っているようだった。既婚にも関わらずジュスティーヌの方が人気があった。

 どうしても男性パートナーが必要な場合は、レオンは最初だけ少し顔を出して、ジュスティーヌの腹違いの弟で子供のころから仲が良いシャルル第四王子や、婚約者候補だった傷のジルベール侯爵令息に頼んでついてもらった。親衛隊の若い騎士にエスコートを頼むと、たちまち惚れられてしまって後で困る。

 親衛隊騎馬隊所属のジルベールは、黒馬に跨がったジュスティーヌ王女が王宮馬場を縦横に駆け巡り、女性騎馬騎士を辟易させているところを何度も見ている。容姿に似合わないジャジャ馬で、とんだ猫かぶりだということを知っていた。

 ジルベールは、もともと下町育ちだ。貴族的な金髪碧眼でモデルのような長身のジュスティーヌ王女は、まったく好みではない。黒髪黒目の丸顔でよく笑い、クルクル働く小柄な雑貨屋の看板娘みたいな娘がジルベールの好みだった。なので、ジュスティーヌとの婚約話が消えた時には、心底ホッとしたものだ。常に猫かぶりの演技していて、いつ爆発するか分からない王女と結婚なんて御免だった。

 レオンは、いずれ一掃するつもりの貴族階級の社交のたぐいには、なんの意義も感じられず関心もなかった。貴族なんて、人民の労働にたかる寄生虫だ。それでも政治や外交のネタには使えるかもしれないと、『貴族名鑑』やら外国王家と繋がりのある貴族家の系図やらを暗記した。ナントカ男爵家はカントカ領の村の村長みたいなことをしており、元はカントカ侯爵家の分家で、三代前に分かれ今も本家と分家の関係で繋がっているとか⋯。面倒くさい⋯。本当に役に立つのか?

 逆に王都パシテでよく行われている平民の町祭りには、レオンはふるって参加した。手みやげに二十万ニーゼ分くらいの酒や菓子を持って参加者にふるまい、余興に得意の居合いで立木を斬って大衆に大ウケした。祭りのついでに町内の困りごと相談なんかも受ける。こんな調子で民衆に顔を売って人気を取り、ヤクザではないがカタギともいえない地域の顔役とも顔をつないだ。

 なんといっても一番喜ばれたのは、ジュスティーヌ王女殿下の御来臨だった。ところが、ジュスティーヌが来ると皆は喜ぶのだが、「女神のような美人」のお姫さまがシュッとした美しい姿勢で座っていると、気後れしてどうにも酒盛りがおとなしくなってしまう。宴会が始まる前に顔を出して女や子供らとふれあい、酒が出る前に引き揚げるのが皆が気後れせず、お互いに一番良いようだった。平民は貴族を嫌っていたが、レオンの努力のかいもあって、王族は別格に好かれていた。

 ジュスティーヌの結婚前の懸念は、レオンの乱痴気騒ぎ好きと安淫売宿通いの悪癖だった。乱痴気騒ぎの方は、王都の人たちを招いて十万人の大宴会をしたり、お祭りがあると聞くと大量の酒や菓子を寄付して自ら酒樽を担ぎいそいそと参加するなど、大変にエスカレートした。「⋯でも、きっと必要なことなのでしょう」。

 安淫売宿通いは、結婚したらピタリと治まった。結婚前は、レオンが隠しもせず『フケツな場所』に繰り出して大騒ぎするたびに、ジュスティーヌは胸が締めつけられ息が苦しくなるほどだった。レオンは知らなかったが、寝込んでしまったこともあるほどだ。「この人から離れられないのだから、我慢するしかないわ。でも、せめて高級娼館にしてくれないかしら」とまで胸を痛めていた。結婚した途端にレオンが悪所にまるで興味を示さなくなったことは、ジュスティーヌにとって、とてつもなく嬉しい誤算だった。

 結婚は貞操義務を負う契約である。レオンは、必ず約束を守った。どうしても守れないときは、謝罪して筋を通した。男女差別の残るこの国では、女性貴族の不貞は刑事犯となる。姦通罪で牢に入れられ、辺境の神殿送りになったりだ。ところが男の浮気に刑事罰はない。そりゃあ不平等だろうとレオンは、予想外に良い夫になった。

 カムロの商売は、順調そのものだった。とりわけ紙は、王宮用紙に混ぜ物をするなどして品質を下げ、さらに大量生産することで千分の一以下に価格を下げることができた。一枚十ニーゼ程度の廉価な紙は、印刷物の需要の爆発的な増加をもたらした。カムロの資金調達部門は、製紙業を中心に印刷所とロウ紙・インク製造業に全資本を投入した。製紙には大量の水が必要なので、全国に製紙工場を建て、地方の浮浪児もすくい上げることができるようになった。製紙工場を拠点に、フランセワ王国全土にカムロの『細胞』が育ちつつあった。

 紙の普及は、確実にフランセワ王国を変えていった。将来マスコミに成長するミニコミが、雨後の竹の子のように生まれた。おかげで王都パシテの動向は、数日でフランセワ王国の隅々にまで伝わるようになった。ほんの数カ月前には考えられなかったことだ。


 レオンが完全失脚をまぬがれたのには、それなりに冷徹で政治的な理由がある。領主貴族を滅ぼすという点では、レオンら民衆派と保守派貴族は一致している。路線の違いがあるわけではない。その時期と徹底さが異なるだけだ。

 保守派からすれば、レオンはいざ戦争になった際に役に立ちそうな数少ない王族でもある。戦争という危険な汚れ仕事を押しつけてしまおう。この男が戦死したところで、かえって有り難いくらいだ。

 元々貴族階級なんぞ滅ぼすつもりのレオンは、『農村が都市を包囲する』ゲリラ戦争路線の方が良いのではないかと考えることも、しばしばだった。保守派貴族は、レオンがそこまで考えているとは夢にも思わなかった。だが、「コイツはナニをするか分からないやつだ」「野に放ったらロクなことにならない」程度の知恵はあった。

 人気者のジュスティーヌ第三王女が、貴族の間を泳いで上手に取りなしてもいた。国王の取りまき大臣・高官連中の古株は、生まれた時からジュスティーヌを知っている。手をひいて歩いたり抱っこした者も多い。美しく育ったが、大臣連の頭の中ではまだ子供時代の『ジュスティ』だ。

 容姿と、それに知能も大きく成長した『ジュスティ』は、政治に口こそ出さなかったが、人事には口を入れた。強硬な反レオン派貴族の昇進に口添えするのは奇妙だった。大使に栄転⋯地方都市の総督に栄転⋯嫡子が出世して代替わり⋯奥方を母王妃に紹介し貴婦人のサロンに加える口添えをする⋯⋯。十数人の反レオン派貴族たちが、出世して王宮から消えていった。

 レオンは、若手貴族のエリート集団である王宮親衛隊の強い支持を得ている。王都で警察活動をしているので、協力関係にある王都警備隊も影響下においた。民間暴力・ヤクザにも顔を繋いでいる。印刷所なるものを持ち、マスコミなるものを握り、孤児を利用した自前の特務機関らしきものまで運営している。なによりも平民どものレオン人気がすごい。

 レオンの多少のヤンチャには目をつぶり、首に縄をつけてうまく働かせるのが正解だ。貴族階級の飼い犬として働かされるために、レオンは失脚をまぬがれた。もちろん、この飼い犬は、いずれ飼い主の手を噛む気満々だ。

 政治から排除されたレオンは、保守派貴族どもを冷ややかに眺めつつ、民衆の人気取りと親衛隊第四中隊を鍛えることに熱中した。民衆の歓呼を浴び第四中隊を鍛えることができる一石二鳥は、やはり愚連隊狩りだ。


 ブラック・デュークの壊滅を見た他の愚連隊集団は、蜘蛛の子を散らすように逃亡してしまった。しかし、過去の悪行が消えたわけではない。チビ権力をかさにきて隠すこともなく悪事を働いてきたので、調べればいくらでも証拠が出てくる。虎の威を借りていた平民の愚連隊は、激怒した民衆にもう始末をつけられていた。数百人が半殺しにされ、とくに悪質な人殺しの数十人がなぶり殺しの目にあった。

 隊長のレオンが失脚して時間ができたので、第四中隊はやり残した仕事に取りかかることにした。生き残った百人ほどの貴族愚連隊を摘発し、文字通りひとり残らず総せん滅するのだ。レオンは、「赤色個人テロルと都市ゲリラ戦の特訓だ!」とやる気満々だ。

 まず、死刑相当の悪事を働いたやつらの名簿をつくり、証拠とともに司法当局に持ち込んだ。「裁判に出廷せよ」という召喚状を実家に送りつけさせた。もちろん出てくるわけがない。欠席裁判で死刑を宣告させ、国王から即時執行可の令状を手に入れる。失脚させた負い目があったからか、罪状があまりにも極悪だったからか、案外簡単に発行してくれた。事実上の殺人許可証である。愚連隊が隠れている貴族屋敷を、二十四時間体制で厳重な監視下においた。

 愚連隊に対するカムロの恨みは、骨髄だった。浮浪児だった時に空腹でへばっていると、通行人に「邪魔だ」と蹴り飛ばされるようなことはよくあった。だが、愚連隊の暴力は度を超していた。捕らえた浮浪児を押さえつけて、面白半分に一本ずつ指を削いだ。泣きわめく浮浪児を縛って引きずりドブ川に投げ込み、溺れて沈んでいく様子を酒を飲み笑いながら見物した。愚連隊に仲間をなぶり殺しにされていないカムロなど、一人もいない。

 仇をとろうと監視しているカムロの執念は、凄まじい。屋敷の庭に入り込み、薮に隠れてどれほど虫に刺されようとピクリとも動かないで何時間でも見張っている。出入りの業者の平民なども愚連隊を嫌い抜いているので、情報を入手しやすかった。

 貴族屋敷に逃げ込んだ逃亡愚連隊には、外でなにが起きているのか分からない。どいつもこいつもクズなので、バクチや買淫が我慢できず、ほとぼりが冷めた頃だろうと実家のお抱え騎士を何人か護衛につけ、夜陰に乗じて屋敷から出てきた。すぐにレポからツナギのカムロに敵の動きが伝達され、十分後には親衛隊宿舎に報告が届いた。

「よーし。ウジ虫がクソ壷から這い出てきたぞ!」

 レオンが地図を開き、ターゲットの予想進路と取り逃がさず最も有利な体勢で戦闘可能なポイントを選定する。ただちに二十名ほどの遊撃部隊が出撃した。もちろん駆け足だ。訓練で隊長が散々走らせたわけが、ようやく分かった。


 顔を隠しコソコソと暗い裏道を歩いていた逃亡愚連隊の目の前に、すでに剣を抜いている親衛隊第四中隊選抜遊撃隊が立ちふさがった。先頭に立っているのは、抜き身の細剣を肩に乗せトントンやっているレオンだ。

「いよう。アルーイ伯爵令息のお出ましだ。会いたかったぜぇ。フッフッフッ⋯」

 仰天して飛び上がり回れ右して逃げようとするが、いつの間にか退路も抜刀した親衛隊にふさがれている。王都で今や知らぬ者のないレオン・マルクス大佐率いる二本差しの殺人集団だ。

「イシス・アルーイだな。貴様に死刑執行令状が出ている。罪状は、殺人十一件。強盗、重傷害、強姦など合計四十三件。フフッ。死にたくなければ、戦え。勝ったら放免してやるぞ」

 選ばれた親衛隊騎士が剣を抜いて前に出てきた。勝ったら放免してやるというのは、例によって本気で戦わせるための嘘だ。こんな極悪人を野放しにするはずがない。

「おおっと、護衛は引っ込んでな。手を出したらアルーイ伯爵家は、滅びるぞ」

 命を捨てて愚連隊の生き残りを護ろうとした護衛は、誰ひとりとしていなかった。ルイワール公爵一門の滅亡事件は、誰でも知っている。それに、名誉ある伯爵家に転がり込んできたイシスとかいうこの愚連隊の犯罪者を、護衛騎士たちは大嫌いだった。ヒスを起こして物を投げる。なにが気に入らないのか使用人を殴る蹴る。女中を犯す⋯。内心、「こんなガキ、死ねばいいのに」と思っていたのだ。喜んで愚連隊のガキから離れた。

「護衛騎士の武装を解除する必要は、無いな⋯。これより死刑を執行する。よーし、やれっ!」


 屋敷から出た逃亡愚連隊は、こんな調子でひとり残らず血祭りに上げられてしまった。しかし、絶対に屋敷から出てこない愚連隊が最後に十数人が残った。

 貴族の屋敷に討ち入るには、国王の勅許が必要だ。保守派貴族にも気配りしている国王が、そんなことを許可するとは、到底思えない。それに打ち込んで、もし屋敷に愚連隊がいなかったらどうするのか?

 気長に愚連隊が出てくるのを待つしかないという幕僚会議の結論に、レオンがとんでもないことを言い始めた。

「ウジ虫が出てこねぇなら、クソ壷からあぶり出せばいい。屋敷に原因不明の火が出る。消火に駆けつけた親衛隊部隊が、逃げてきたやつらを人相改めして、たまたま発見した愚連隊のガキを殺るってのはどうだ?」

 荒っぽい第四中隊の幕僚も、さすがにたじろいだ。この人は、ヤルと言ったら殺しでも放火でも必ずやる。⋯マズい!

「し、しかし、放火は⋯」

「放火? なに言ってんだ? 不審火だよ。火が出はじめるのは十日後ぐらいかな⋯。ツテがあったら最後の警告をしてやれっ」

 レオン隊長は、最後の警告をしろと言っている。王宮親衛隊騎士は貴族であり、愚連隊が逃げ込んだ屋敷の主も貴族だ。縁戚関係や仕事のつきあいを利用して、忠告や警告を与えるくらいはできる。

 四方から寄せられる恐怖の警告に、屋敷の主は頭を抱えてしまった。グレて平民ごときを殺した出来損ないをかくまったら、屋敷を焼き討ちされる羽目になるとは! ルイワール公爵家滅亡を思い出した。あのレオンという男なら、必ずやる。最高位貴族の公爵を死刑に追いやり、その処刑を民衆の前で見世物にして首をさらすような男だ。国王陛下に訴えても無駄だろう。「犯罪者をかくまっておるのか」と、お叱りを受けるのが関の山だ。

 十数人の愚連隊が、『自殺体』で発見された。深夜に屋敷から走り出てきた馬車から、愚連隊の死体が放り出されるなんてこともあった。

 小知恵の働く逃亡愚連隊は、パパとママに守ってもらって王宮にたどり着き、国王に減刑を嘆願しようと悪あがきをしてきた。屋敷を出た瞬間から行動が把握できているので、路上で遊撃隊に攻撃させることもできる。だが、たとえ国王にすがりつこうとしても無駄だと教えてやることにした。

 王宮の入り口を護っているのは、もちろん王宮親衛隊だ。高位の保守派貴族が多い第一中隊の当番日を小狡く狙ったようだが、無駄なことだ。「死刑判決を受け、逃亡中の愚連隊がくる」と第四中隊の部下から門衛騎士に耳打ちさせた。

「とっ、通せ! 余はアイーガ伯爵であるぞ! 国王陛下に、お目通りにまかり越した」

 門衛騎士にとってアイーガ伯爵どころか国王よりも、レオン隊長の方がよほど恐ろしい。怒らせてプイーレ中尉のように首を刎ねられたらたまらない。黙って剣を抜くと、お互い目配せして親の目の前で愚連隊のガキを斬り殺してしまった。

 待っていたようにレオンがやってきた。王宮の入り口でアイーガ伯爵夫妻がへたり込んでおり、愚連隊の死体がころがっている。官僚貴族どもが見て見ぬ振りをして通りすぎ、王宮に入ってゆく。

 レオンは、いたって満足げだ。

「これはこれは、アイーガ伯爵閣下。殺人犯を連行して下さり、お礼を申し上げます。死体は検屍しますので、その後にお引き取りください。どうぞこちらへ。事情聴取にご協力いただきます」

 腰を抜かした伯爵が、どうにか取り繕おうとする。

「きっ、貴族は、国王陛下の勅許なしでは逮捕できないはずだ。し、死体を片づけろ。アイーガ家の名誉が⋯」

 レオンは、明らかに嘲笑している。

「あんたを、重罪犯隠避の現行犯で逮捕することもできますがね。そちらが望みですか? 貴族の犯罪でも現行犯なら国王勅許は不要でね。それと犯罪者の死体は、現場検証が終わるまで動かせねえよ。⋯おぅ! こいつらを連行しろっ!」

 いい機会だとばかりにレオンは、そのまま門前に死体を転がらせて放置し見せつけてやった。登城する貴族たちは、必ず王宮門を通り堀にかかった跳ね橋を渡って城に入る。数百人が愚連隊の死体と拘束されるアイーガ伯爵夫妻を見ることになった。指揮をとっているのは、もちろん例のマルクス中佐だ。

 失脚させやがった保守派貴族どもを威嚇しているのだ。親愛は裏切るが、恐怖は裏切らない。

 掃討作戦を開始してから四週間もたたずに、レオンは王都パシテから愚連隊を文字通り皆殺しにして一掃してしまった。愚連隊の暴力におびやかされていた王都民は、もう大喜びだ。レオンは、王都百五十万民衆の英雄になった。だが保守派貴族からは、ますます憎悪された。


 こんな調子でレオンは、王宮親衛隊第四中隊を鍛え上げた。豊富な資金を手に入れ、カムロの組織を整えた。わずか一年半でレオンは自由に使うことができる暴力装置と特務機関を作り上げたのだ。だが、国家権力の最強の暴力装置は、なんといっても軍だ。

 自分の失脚により開戦の時は多少延びたとはいえ、必ず内戦が始まるとレオンは予測していた。レオンの力で戦争が起こせるわけではない。社会の矛盾が戦争を不可避にしているからだ。王国軍も同様の予想をし、目立たないように戦争の準備を進めていた。

 戦争のどさくさに革命騒ぎを起こしても、おそらく周辺国の干渉で潰される。強力な民衆軍を創設して内戦に圧勝し、戦勝で力をつけた民衆と民衆派貴族による民主主義革命を行い、フランセワから封建遺制を一掃する。この政治革命が社会革命に波及する結果、生産力は急激に増大する。その力を背景にしてフランセワのブルジョア革命から永続革命・プロレタリア革命を完遂し、世界革命戦争に突入する。この世界革命に勝利した暁には、全世界で階級の無い、搾取も国家も無い共産主義社会が実現する。これが今のレオンの革命の青写真だ。

 戦争とは、同等の知能と意志力を持つ敵対者の存在する行為だ。現実の戦争においては、全てが複雑であり流動的であり、予測は不能となる。だからレオンは、青写真の通りにうまくいくとは最初から考えていない。ただ、戦争の目的が『世界革命の達成』であり、世界革命のための戦争目標が『敵の総せん滅』だと、ブレずに掴んでいた。

 革命の実現には、絶対に戦争に勝利しなければならない。そのための軍事力の強化には、土台となる生産力を増大させ、国力を強化することが必須だ。フランセワ王国でレオンが革命を成し遂げるためには、国家権力・軍権の掌握と、国力の裏打ちがある戦力の強化が絶対条件になる。革命のカナメは、大衆の支持とともに軍事力=暴力だ。

 国力と軍事力は、相関関係にある。なのでレオンは、フランセワ王国の国力を底上げしなければならない。それは容易な事業ではないように感じられるが、実はそうでもない。飼い殺されている二百五十万人の奴隷を解放すれば、国民が二割も増えたのと同じだ。領主貴族領を廃絶すれば、流通の重石がとれて経済活動の自由が劇的に改善する。その結果、フランセワ王国の経済は爆発的に発展するだろう。浮浪児に落とされ無意味に死んでいった余剰人口は、経済成長の原動力に転化する。例えれば日本は、明治維新で封建制と幕藩体制という重石を外し爆発的に発展した。レオンは、フランセワ王国の重石となっている領主制と奴隷制を滅ぼして、同じことを起こそうとしている。

 明治以降の日本は、他国を舞台に多くの戦争をしてきた。レオンは、そんな帝国主義植民地争奪戦争ではなく解放戦争を、世界革命戦争を貫徹するつもりだ。

 

 フランセワ王国軍は、将官は主に貴族の軍大学校出身者から、士官は貴族と平民出身の軍士官学校卒業生からなる。兵や下士官は、平民出身者の志願制で兵学校で訓練する。実力主義の士官学校寮で貴族と平民が五年も一緒に暮らすので、軍では士官層でも階級差別が少なく、民衆派に同情的だった。兵と下士官は、平民出身の兵学校出なのだから、民衆派だ。

 軍を動かすのは、現在のところは士官だ。将校団の支持を得なければ、軍を民衆派の傘下に置いたとはいえない。いずれはトロツキーのように、民衆に直接呼び掛けて武装させ赤軍を創設するつもりだ。

 オルグ対象は、まだ若い士官候補生に絞った。ツテを使い、士官候補生が学ぶ軍士官学校に特別講座を開いた。講義のテイで、若い士官候補生をまとめてオルグするつもりだ。この方法が最も効率が良いだろう。

 百年以上も本格的な戦争をしていないフランセワ王国軍にとっても、王都で実戦さながらの戦闘を行った王宮親衛隊第四中隊の隊長で、しかも王族のレオンが講師を引き受けるとは、願ってもないことだ。

 王族の特別講義ということで、一年生から五年生まで士官学校の士官候補生六百人と軍大学校の二百人が大講堂に集められた。学生たちは、英雄気取りの王族が愚連隊を追いかけ回して倒したとか自慢話をする程度に考えていた。まあ、実戦の経験談なら、少しは役に立つかもしれない。

 レオンが講義したクラウゼヴィッツの『戦争論』は、戦術について述べた書物ではない。ヘーゲルが大成したドイツ観念哲学の影響を受けて、戦争の本質について考察したものだ。後にドイツ帝国を打ち立てたプロイセンの参謀将校だったクラウゼヴィッツは、歴史上初めての国民軍を率いたフランス革命の申し子ナポレオンとの戦争を教訓にして『戦争論』書き、未完のまま没した。

 レオンは、革命的マルクス主義者を自称している。マルクス主義とは、イギリス古典経済学、フランス社会主義思想、そしてドイツ観念哲学が三つの源泉とされる。観念哲学が発展したマルクス主義と『戦争論』は、もともと相性がよいのだ。マルクスの生涯の盟友であったエンゲルスは、晩年は『将軍』というあだ名を付けられるほど『戦争論』などの軍事の研究に没頭した。ロシア革命の指導者・レーニンと軍事指導者・トロツキーも『戦争論』を熟読している。現代日本の過激派も、武装闘争を指向するセクトは全て『戦争論』を読んでいるはずだ。

 現実に女神が飛び回り病気治しをするような世界では、神学は生まれない。神の存在について突き詰めて考察する意味がないからだ。なので神学から分岐した哲学も、セレンティアでは発達しなかった。『戦争論』は、戦争を考察した哲学書ともいえる本だ。哲学の部分を剥がして講義しても本質を理解できない。かといってセレンティアに存在しない哲学をそのまま投げても、士官候補生に理解できるわけがない。

 レオン=新東嶺風は、マルクス主義の理解の助けにしたり主に革マル派との論争に利用しようとつまみ食いした哲学雑学を、記憶の底から引っ張り出した。革マルとの論争では、「閉じた中世スコラ哲学的黒田理論」「革命を無限の後景に押しやる革マル式イデア論」「唯物論から観念論に退化した黒田宗派」などと言って革マルを散々バカにしたものだ。革マルも、「千葉の片隅で百姓の私有財産を鉄パイプと火炎ビンで守ろうとする武装蜂起妄想患者」だの「トロツキー教条主義者の悪質カマトンカチ」だのと言ってきた。まぁ、おあいこだろう。


 講義は、ギリシア哲学のイデア論から駆け足で始めることにした。哲学など存在しないところに、レオンは図らずも『哲学』という新しい学を創ってしまった。これは歴史を作ることだ。

 講義を始めると講堂は驚愕に包まれた。最初は義務的に出席させられ迷惑そうな顔をしていた教授・教官たちの顔色が変わり、最近安くなった紙を出してメモを取り始めた。

 イデア論から戦争論まで一足飛びは、とても無理だ。レオンは、我ながら偏っている哲学概史を何時間か講義し、それから本題の『戦争論』について深めるつもりだった。こんなところだ。

 ギリシア古典哲学、キリスト教神学、仏教哲学、ストア派、スコラ哲学、ロマン主義、カント、デカルト、ヘーゲル、ルソー、ハイデガー、サルトル、ゲーテ、ドストエフスキー。そしてマルクス、レーニン、トロツキー、毛沢東⋯⋯。

 メチャクチャなようだが、レオン=新東嶺風の頭の中では、それなりに整理されている。

 早く戦争論に進みたいのだが、最初のギリシア古典哲学で九十分が過ぎてしまった。すっかりくたびれて教壇から降りた。すると八百人の学生と教官が総立ちとなり、熱狂的な拍手をおくってきた。なにがそれほどウケたのか分からないが、学生たちに軽く手を振って控え室に引き上げた。

 王族ご来臨ということで、控え室は磨き上げられていた。畏まった美人秘書のお姉さんから飲み物をもらい休んでいると、校長と教授・教官たちが押しかけてきた。質問責めにされ、分かることはどうにか答えた。レオン=新東嶺風は、東大をスベったが現役で国立の東北田舎大学に入っている。それなりに頭は良い。

「物質(質量)とエネルギーは同じ」「重力によって空間は歪む」「時間の流れは一定ではない」などと明治時代の人に言ったら、ビックリ仰天するに違いない。レオンは、それと同じことをした。哲学なんて無い世界に、哲学的思考をポンポンと投げ込んだのだ。レオンが漏らした何気ない言葉は、歴史に残る哲学者が生涯をかけて哲学した結果だったりする。

 一般に共産主義者は、知識人を好まない。共産主義者自身が結構なインテリだし、共産主義思想が人類が到達した最高の科学であると信じている。しかし、マルクス主義哲学とは、単なる理論や哲学ではない。革命家の行動の指針である。安全地帯で守られている知識人のお気楽な発言などは、卑劣であり『ブルジョアイデオロギー』を撒き散らす反革命にさえ見えてしまう。毛沢東主義ゲリラ上がりのポルポト派などという連中は、権力を握ると片端から知識人を殺しまくったほどだ。

 マルクス=レーニン=トロツキー主義者を自称しているにしては、レオンは知識人に好意的だった。尊敬するトロツキーが相当な知識人だったからかもしれない。前段のブルジョア民主主義革命の段階では、前衛党を中核とするにしても、民主的な知識人や民主主義政党を結集した人民戦線が必要だろうとも考えていた。

 セレンティアでは、知識人は希少だった。セレンティアの四大国のひとつであり比較的文教育水準の高い人口千五百万人のフランセワ王国ですら、大学は全学で四千人の王国大学と二百人の軍大学校しかない。識字率は、十パーセントあるかないかだ。

 軍大学校の下にある軍士官学校は、五年制の旧制高校にあたる。合格すれば、学費無料で騎士の身分が与えられる。平民出身でも卒業後は少尉任官で、貴族になるのも夢ではない。平民から貴族まで凄まじい人気があり、大変な倍率をくぐり抜けたエリートだ。この連中を将来の軍指導者というだけでなく、知識層としても掴まえてしまおうとレオンは考えた。

 大学らしいものは国内に二つしかないので、ちろん交流があった。本来は機密扱いのレオンの講義ノートは、軍大学校から王国大学に持ち込まれ、回し読みされた。学生たちがノートを囲んで学習会を開き、そのうち講師が加わり教授連も顔を出した。


「三角形は、完全に見えても拡大すれば必ず角が丸みをおびる。つまり完全な三角形はありえない。しかし、我々は三角形の存在を知っている。現実世界とは別に、真実在が存在するからだ」(プラトン・イデア論)

「石にとって投げられて上がるのが良いことでもなければ、落ちるのが悪いことでもない。束の間の意識を持つ人間にとっても、上がることが良くもなければ、下がることが悪いことでもない」(ストア学派 マルクス・アウレリウス)

「死とは何か? 何ものでもない。死は生命体の原子への分解であり、分解された原子は感覚や意識を持たない。したがって、死は安らぎでも恐怖でもない」(エピクロス学派)


 こんな程度のレオンのつまみ食い哲学でも、フランセワ王国の学者たちを驚愕させた。もともとこの世界には、深く思考して論理を突きつめ真理を探究するという習慣は無い。レオンは天才にも見えただろう。とりわけ知識層に衝撃を与えたのが、ルソーからパクったこの言葉だった。

「人間は生まれながらに自由である。ところが、いたるところで鎖につながれている。なぜか? その答えを出すには、人間を探究しなければならない。人間とはなんであるのか? どこから来てどこへ行くのか? なにをなすべきか? 失われた自由を取り戻すため生きることが、若者の任務だ」

 ヒネた現代人ならば、「王族サマがナニを言ってやがる」と一蹴するところだ。しかし、セレンティアの人たちは素朴で素直だった。特にフランセワ王国では、レオンには王族という箔がついていることもあり、素晴らしい理想として受け入れられた。

 それまでの大学は、出世のために知識や技術を学ぶためだけの場所だった。なので、なおさら理想主義は若者に受け入れられた。レオンにすっかり心服してしまったジュスティーヌ王女と同じである。

 王都の民衆の間のレオン人気はすごかったが、知識層にもレオンブームが起きた。王国大学学長が自ら王宮に赴いて特別講座の開講を願い、レオンは喜んで承諾した。殺しの天才だとは思われていたが、知性の方でも相当なものだと勘違いしてもらえたらしい。

 王国大学での講義は、大盛況だった。いい席を取ろうと朝から学生たちが列をつくっている。学生といっても、ほとんどが若い貴族だ。ごく少数だけ、運良く見出された天才的に頭の良い平民がいる。

 レオンは王族なので、学生は受講するには正装することを求められた。貧しい平民は正装など持っていない。だが、天才的な平民学生こそ、レオンが最も欲しい人材だ。

 レオンは、控え室を抜け出して講堂のまわりを見てまわった。案の定、貧乏学生たちが締め出されている。この世界でも学生と大学当局の関係は同じだった。数十人の学生が警備員に入れろと食ってかかり、押し問答をしている。レオンが割って入り、「優秀な学生を排除するとはナニゴトか! オレがいいと言ったらいいのだ!」と警備員を押し切って、貧乏学生たちの手を引くようにして講堂に入れてやった。学生たちが、マルクス伯爵自らの厚情に大感激したのは言うまでもない。

 レオンの講義は、平服で出席してよいことになった。それどころか、王国大学の学生でなくても意欲のある者の聴講を歓迎するとした。レオンは、講義というよりアジ演説をぶってるつもりだ。どうせなら大勢に聞かせたかったのだ。なので入場の制限を止めさせた。学生たちは、支配者が独占していた学問を大衆に解放したのだと岩波文庫の発刊辞みたいなことを考えて、レオンを持ち上げた。軍士官学校や貴族学校の生徒までやってきて、大講堂は立ち見が出る超満員だった。

 王国大学での肝心の講義では、最初からこんな調子で爆弾を落とし、聴講している学生たちの度肝を抜いた。


「哲学者たちは世界をさまざまに解釈しただけである。だが問題は、世界を変革することなのだ」(マルクス『フォイエルバッハ・テーゼ』)



 レオンは、既存の権力機関を利用した上からの革命と、組織した民衆による下からの革命を結合した『鋏状革命』を志向している。封建貴族をハサミで両断するイメージだ。

 政界からは失脚してしまったが、上からの革命の足掛かりになる王宮の貴族界から完全に追放されるわけにはいかない。完全失脚を免れるためにも、ここらで保守派貴族どもを懐柔しておきたい。

 ところがレオンは、怖れられてもいた。現国王の娘婿という、超高位貴族でもある。しかも、あの性格だ。レオンと正面から権力闘争しようと考える者は、まずいない。国王の面前で決闘騒ぎを起こすほど気性が荒く、しかも剣の達人なのだから、怒らせたら命が危ない。だから陰湿に足を引っ張ることはしても、表立って争うことはしない。

 こんな有り様では、話し合いなどできやしない。保守派貴族を懐柔して政界復帰を狙うどころではない。レオンは、知恵を絞った。将を得んとすれば⋯⋯⋯⋯そうだ、娘だ。


 公爵や侯爵といった高位貴族の長女は、だいたいが深窓の令嬢だ。美術品のように扱われて成長する。身体にも経歴にも、けっして瑕疵があってはならない。例外は、それ以上身分が高い者がいない王家の王女だ。

 フランセワ王家が海の近くの離宮に滞在した時は、王女たちが裸になって泳いだりしている。侍女たちにいつも入浴を手伝われているので、裸を見られることに抵抗が少ない。貴族たちの前では猫をかぶっているが、本当はジャジャ馬なジュスティーヌ王女などは、成人した十五歳になっても裸同然で海に飛び込んで喜んでいた。むしろアリーヌ侍女や護衛のローゼット女性騎士のほうが、肌をさらすのが恥ずかしくて困っていた。

 ジュスティーヌにとってそばにいる男といっても、どうせ父や兄弟たちだ。気にもせずに素っ裸で泳ぎ回っていると、目のやり場に困った王子たちに、「いい加減にしてくれ!」と叱られてしまった。通常の高位貴族の令嬢では、こんなことはちょっと考えられない。

 とりわけ王宮は、温厚で優しいアンリ二世国王の膝下だ。身分違いの恋愛でも、国王が後見して結婚させてくれるほど雰囲気は自由だった。専制君主なのにアンリ二世は、恋愛に関しては自由主義者だった。国王が口を利いてくれたおかげで、幸せな身分違い婚をした侍女は、何人もいる。おおむね幸せな家庭を築き、国王陛下に深く感謝している。

 とはいえ国王は政治家だ。若い二人に恩を売って、王家忠誠派の新しい貴族家をつくろうという下心はある。だが、娘であるジュスティーヌ王女が、レオンのような男と結婚することさえ許しているのだから、それだけではないのだろう。

 

 宗教は、民衆の阿片だ。容易に反革命に転じる。だから、できるなら使いたくないが、やむを得ない。人気取りに『女神の光』の傷治しを使うことにした。一日に二人くらいの小さな傷を治すことができる程度のチンケな能力だ。

 しょうもない力だが、セレンティア全土で信仰されている女神セレンとの繋がりを示す証明書にはなる。これのおかげで講義で「女神の容姿は、人間の美意識の反映である」「女神が人間をつくったのではない。人間が女神をつくったのだ」「女神とは人間のことである」とかなんとか広言しても、聖都ルーマの女神正教大神殿長のバロバは感心するばかりで怒られずにすんだ。

 高位貴族令嬢は、王女などよりよほど過保護に育てられている。政略結婚の『売り物』だからだ。それでも子供時代に、ちょっとした怪我くらいはする。成人した令嬢は、その時にできた『醜い傷跡』にひどく悩んだ。自分が『傷物』だと皆に知られたらどうしよう? 将来の夫に嫌われるのではないか? そんなことで苦悶している令嬢は、少なくなかった。

 王宮では、高位貴族出身の侍女と末席貴族出身の侍女に、差別は無い。仕事ができるかどうかだけだ。とはいえ、どうしても身分の上下で派閥に分かれてしまう。レオンが、そんな高位貴族侍女が溜まっている控え室に、ズカズカと入ってきた。こいつには、若い女性に対する遠慮なんてものは、全く無い。

 侍女たちにとってレオンは、恐怖でしかなかった。王宮侍女の筆頭格でレオンの至近にいるしっかり者のアリーヌ王家担当一級侍女が、レオンのせいで頭を抱えてたり、泣いているところを何度も見た。あのお優しいジュスティーヌ第三王女殿下に対する「ひどい仕打ち」も噂のタネになっている。それに深夜の王宮で貴族子息の首を斬り落とし、蹴り飛ばすような狂気じみた殺人者だ。

 貴族令嬢出身の侍女たちは、レオンの姿を見かけるとサーッと蜘蛛の子を散らすように消えていった。それほど恐ろしいレオン・ド・マルクス王宮親衛隊中隊長が、腰に剣を二本もぶち込んだ姿で、どういうつもりか侍女の控え室に乗り込んできた。

 さすがに悲鳴を上げて逃げるような侍女はいない。だが、貴族令嬢とはいえ若い女の子だ。お喋りしていた侍女控え室は、恐怖で凍りついてしまった。「誰かを捕縛しにきたのかしら? まさか、殺しに⋯?」。

 自らの手で何十人も斬り捨て、何百人も殺戮する作戦の指揮をとってきたレオンは、この頃やけに凄みが出てきた。十人ほどの侍女が恐怖で青ざめうつむいている控え室を、ジロリと見回した。⋯⋯誰が誰だかよく分からない。

「あー、休んでるところ悪いな。アイシャ・ド・スカニアは、いないか?」

 アイシャ侍女は、真っ青になった。殺人鬼に指名されてしまった。「どっ、どうしよう⋯。わたしは殺されるの?」。

「ちょっと来てくれ」

 卒倒しそうだが、なんとか立ち上がったアイシャ侍女は、ゆっくりレオンの方へ歩いていく。足許がおぼつかずフラフラする。ほかの侍女たちが、固唾をのんでアイシャとレオンをながめている。「殺しちゃうのかしら?」。

 貴族令嬢のわりに、アイシャには勇気があった。気絶も逃げもせずにレオンの前に立つ。

「ご、ご用でございますか?」

 無遠慮に腕を掴むと、グイッとアイシャの袖をまくり上げた。肘のあたりについた醜く忌まわしい傷跡が露出してしまった。

 いつもアイシャは、この醜い傷跡が将来の夫になる人に見られるかと思うと消えたくなった。なんども泣いたが、いくら泣いても傷跡は無くならない。このレオンという人殺しは、そんな苦しみの元である傷跡を無理やりさらすと、無遠慮にジロジロとながめ回している。四センチくらいの切り傷の跡だ。

 アイシャがその場で失神しなかったのは、武門の貴族家の出でかなり気が強かったからだろう。それでも恐怖にすくみ上がりふるえているアイシャに、レオンが言った。

「こんな程度の傷に、それほど悩むかねぇ⋯。消していいだろ?」

「くっ⋯」

 侍女とはいってもアイシャは、王宮勤めの侯爵令嬢だ。気位は高い。傷跡をさらされた恥辱に目に涙を浮かべながらも、返事もせずレオンをにらんできた。

「⋯消すぞ」

 野盗やら暗殺団やら愚連隊やらと殺し合ってきたレオンには、子猫がにらんだ程度にも感じない。

 レオンが人差し指を上げると、指先に銀色に輝くピンポン球が現れた。表面を金色の粒が浮遊している。

「女神の光だ。⋯なぞるまでもないな」

 つぶやくとレオンは、銀色ピンポン球をアイシャの小傷に当てた。その瞬間、あれほどアイシャを悩ませた傷は跡形もなく消えてしまった。

 !

 !!!!!!!!!


「女神セレン様の奇跡だわ⋯⋯」

 侍女の誰かがつぶやいた。レオンが苦笑しながら返した。

「奇跡なんてもんじゃない。小さい傷しか消せないしな。傷跡で悩んでる子は、いつでもおいで。じゃあな」

 レオンは、驚きで総立ちになった侍女たちを置いて、さっさと休憩室から出て行ってしまった。女臭くてかなわなかったのだ。

 レオンが消えると、腰を抜かしたようになって床にへたりこんでいるアイシャに侍女たちが群がり、気を遣って今まで触れないようにしていたアイシャの傷跡が跡形もなく消えたことを確かめた。

 事情通の侍女が、説明してみせた。

「ジュスティーヌ王女殿下が、野盗に怪我を負わされたとき。あのマルクス⋯⋯伯爵が『女神の光』で癒されたと聞きました。本当だったのですわ。国王陛下が、マルクス⋯伯爵様の『女神の光』について口外することを禁じられたとも聞きました」

 侍女たちは、目を見合わせた。ちっちゃな傷跡で悩んでいるのは、アイシャだけではない。その日の内にレオンが傷跡を消したという噂は、王宮中の女たちに広まった。

 一日先着二名までなので、レオンが居候部屋から出てくると間髪入れず侍女や女官に捕まる。どうやら女同士で談合して順番を決めているらしく、取り合いはない。さすがに王宮侍女や女官ともなると無意味な争いはせず、仕事ができる。

 手首を掴まれてどこかの小部屋に連行される。さすがに二人きりだとマズい。付き添いの女の子がついてくる。まぁ、良い宣伝をしてくれるだろう。

「お願いでございます。どうか、わたくしの醜い傷を消してくださいませ」

 平伏せんばかりである。まなじりを決した侍女に比べると、レオンは気楽なもんだ。「醜い傷? これがぁ⋯?」。こんな調子だ。

「いいですよー。傷をだしてくれー」

 侍女が真っ赤になり、口ごもりながらいう。

「あ、あの。太ももなのです⋯⋯」

 だからどうした? ⋯なのだが、セレンティアでは女の子が脚をさらすのは、すごく恥ずかしいこととされる。

「それじゃあ、太ももを出してくださーい」

「ううっ。はっ、はいぃ⋯⋯」

 太ももなんぞより、きれいな女の子が恥じらってる姿の方がよほどエロい。

「んー? 傷跡なんか無いぞ?」

「そんな! もっとよく見てください」

「うーん。⋯⋯んんー?」

 言われてみれば、五ミリほどのスジが有るような無いような⋯⋯?

「いやっ! そんなに見ないでくださいっ!」

 ⋯⋯どうしろというのだ?

 たぶんこれだろうと見当をつけ消してやったら、泣くほど喜び、感謝された。だいたいがこんな調子だ。

 傷跡消しで侍女にレオンが人気者になったかといえば、そんなことはなかった。だが、恐怖されていたのが、畏怖に代わった。侍女たちの間で、マルクス伯爵は女神セレンの使徒であるという説が広がっていった。

 女の子の実家から傷跡消しの礼品が大量に届いたが、レオンは受け取らなかった。保守派貴族に買収されたと勘違いされたら、かなわないからだ。「お気持ちの品は、病院か孤児院に寄付していただけると幸甚です」という手紙を添えて、全て送り返した。すると大抵は、寄付者名と寄付金額が玄関先に大きく掲示される病院の方に寄付をしていった。贈物をつっ返したおかげで、「レオン・マルクス伯爵には賄賂がきかない」が定説になった。


 アイシャ侍女のスカニア侯爵家では、できる限り家族がそろって食事をとる。ところがレオンが王家に入ってから、食卓で口論が絶えなくなってしまった。まず、当主のスカニア侯爵がレオンの悪口を言って口火を切る。

「あの成り上がり者は、王族でありながら下民と一緒になってドブ川の掃除をしたそうだぞ。まったく王家の威厳をなんと心得とるのか!」

 次期当主の嫡男は、ダンマリだ。若手貴族の間でのレオンの人気はよく知っている。嫡男もどちらかといえばレオン・シンパなのだが、この場で父侯爵に逆らうのは賢くない。だが、若く責任のない次男と三男がそろって反論する。

「王族でありながら少しもおごらず、汚れ仕事を民と共に行い汗を流す。これほど気高い心がありましょうか!」

「マルクス伯爵は、民を守り慈しむという貴族の手本を示しているのです!」

「王族がドブさらいだぞ! 身分というものをわきまえない愚か者のすることだっ。国王陛下は、なぜあの男を野放しにしておるのか」

「私たちのこの食卓も、民が汗をかき⋯」

「なにを馬鹿な。この愚か者がっ!」

 いつもはここいらでアイシャが父侯爵を加勢して、口論は二対二になるのだが⋯。

「お父さま、お兄さま。マルクス伯爵は、国王陛下のご寵愛深いジュスティーヌ王女殿下の夫君です。軽々にお話してよい方とは、思われませんわ」

「はっ?⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯?」

「えっ⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯?」

「へっ⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯?」

「ぽえっ⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯?」

 今までは父侯爵と一緒になってレオンの悪口を言ってたのに、突然どうしたのか? 意外だ。王宮侍女に合格し、兄弟姉妹の出世頭のアイシャである。父侯爵にとって娘のもたらすコネと情報は貴重だった。

「⋯どうした? アイシャ。王宮で何かあったのか?」

 アイシャは、悩みの種だった傷跡をレオンに消してもらったことを話していない。

「ええ⋯。はい、そうですわね。レオン・マルクス伯爵と敵対することは、避けた方がよいですわ。⋯決してです」

 アイシャがこのように断定的に話すことは、今までなかった。王家の内情と女神セレンの奇跡に関しては、どこであっても口外厳禁だ。たとえ家族でも、うっかり喋ると王宮保安部に必ずバレる。そうなったら出世はなくなり、いずれ実家に下げられてしまう。

 堅苦しく息が詰まりそうな実家の侯爵家より、外で仕事をしていた方がずっとのびのびできる。しかも地位の高い王宮勤めだ。クビになったら、たまらない。理由を尋ねても、アイシャは曖昧に首を振るばかりだ。

 スカニア侯爵は、保守派といってもなにか定見があるわけではない。レオンとの利害の対立もとくにない。貴族の権威をないがしろにして民衆に媚びているレオンが、階級意識的に気に入らないだけだ。レオンに敵対的な保守派貴族は、大半がこんな調子だった。

 男親は娘には甘い。保守派貴族の令嬢たちに恩を売ることで、表立ってレオンに敵対する貴族は、少しずつ減っていった。

 

 レオンは、愚連隊は根絶した。失脚して少々暇になったのをむしろ良い機会だと考え、進んで王都民の中に入り支持を広げることに専念した。スカニア侯爵が憤慨していたドブ川の整備もそのひとつだった。民衆の信頼を得られなければ、悲願である民衆軍など組織できやしない。

 スラムは、川に沿って密集している。川は、しばしば境界であり、川沿いは所有者が曖昧だからだ。いつの間にか貧民が集まり、スラムを形成した。悪臭や害虫などが発生し、生活環境は最悪だ。王都パシテを流れるパシテ川は、全く管理されておらず、大雨が降ると氾濫した。また、不潔な水は伝染病の発生源となった。

 専制君主国家では、王女が妻だと話が早い。レオンは、スラムの真ん中を流れるドブ川の有り様をジュスティーヌ王女に吹き込んだ。それだけでは足らないと、こっそりジュスティーヌを川沿いスラムに連れ出した。妻王女は、行動力があり知的好奇心が強い。喜んでついてきた。

 イタロ王国の聖都ルーマでもジュスティーヌをスラム街に連れて行ったが、王都パシテのスラムの方が状態が悪い。レオンの努力の結果、路上に餓死者が捨てられるようなことはないものの、餓死寸前の者や病死寸前の者はいくらでもいた。スラムは、飢餓と病気の地獄だった。平服に着替えた忠誠な護衛たちですら、伝染病が恐ろしくてスラムに入りたがらない。

 レオンが説明する。

「その国の程度は、刑務所とスラム街を見れば分かるんだ」

 賢いジュスティーヌになら、懇切丁寧に説明したり、スラムの隅々まで見て回る必要はない。

 王宮から徒歩で四十分程度の場所にあるスラムのこんな有り様は、王族には全く知らされていなかった。スラムに入り、死と病気と悪臭と不潔と貧困に取り囲まれたジュスティーヌは、強い恐怖と怒りと悲しみにとらわれた。

 すぐにスラムの顔役が飛んできた。一行の前で這いつくばるように跪く。

「はは───っ」

「跪礼は不要と言ってんのに。⋯⋯立て、ムーラス。死者の数は、どうなっている?」

「へへーっ。おかげさまで、去年の十分の一です。まだ大雨が、きておりませんので。はい、マルクス伯爵様」

『十分の一』という概念を知っているだけでも、ムーラスは、なかなかのインテリだ。識字率が十パーセント程度の世界なのだ。

「やはり川だな」

「はい。川でございます」

 王女が、スラムの伝染病に感染したら大問題になる。護衛のローゼット女騎士に布で顔半分を覆わされたジュスティーヌが、口をはさんだ。

「川、とは?」

「ああ、大雨が降るとあのドブ川が氾濫する。住民は慣れているので逃げて溺れることはないが、洪水の後に必ず伝染病が発生し、数百人死ぬ」

 おそらくコレラだろう。ジュスティーヌは、毎年そんなことが起きているなどと、まるで知らなかった。

「なんということでしょう⋯! どうして今まで教えて下さらなかったのですか? これは⋯どうすれば⋯⋯」

「簡単だ。ドブ川をどうにかすればいい。底をさらい、川幅を広げ、堤防をつくれば、もう氾濫しない。解決する」

 ジュスティーヌは、腹を立てた。無知だった自分や、今まで民をこんな状態に放置していた者たちに腹が立つ。

「そんなことで、数百人の命が救えるのですね」

 ジュスティーヌよりはるかに冷酷なレオンは、平民の貧困や苦しみは、許容範囲内ならば民衆派の勢力を伸ばすのに好都合だとさえ考えている。おめぐみ福祉や慈善は、大衆の目をふさぐ改良主義だ。むしろ革命を阻害する反動になりかねない。階級闘争においては、敵に対しても味方に対しても博愛主義は悪だ。社会を変えるのは、階級的な憎悪と怒りなのだ。レオンは、それに火をつけようと努力している。飢えは大衆を急進的にする!

 しかし、それは諸刃の剣でもある。毎年数百人の死者。さらにコレラが広がったら、万を超す死者を出すかもしれない。何万人も死者が出るようでは、許容範囲を超えている。地盤である平民が疲弊すれば、レオン率いる民衆派の力も落ちる。民衆の期待が大きいだけに、レオンの評判も下がるだろう。なにか手を打つべきだ。そこにジュスティーヌのような『甘ったるい感傷』が入り込む余地はない。

 そこでレオンは、治水と伝染病とをスラム住民の組織化と人気取りに使うことにした。スラムの住民に手をさしのべる権力者など、今の今までだれ一人としていなかった。まだ死にたくないスラム住民にとって、レオンだけが頼りだった。

 大勢の耳があることを承知で、レオンが暴露した。

「王宮中を駆け回ったんだがな。どいつもやる気がない。予算が無いだとさ」

 これはあまり事実とはいえない。レオンは、「王宮中を駆け回った」りしていない。王宮官房や関係部署に河川改修に関する建議書を提出しただけだ。レオンの提案には全て反対する保守派貴族に、予算不足を口実に拒否されてしまった。そうなることは最初から分かっていた。とはいえ、本当に「王宮中を駆け回った」としても、結果は同じだっただろう。

 見てしまったからには、これ以上なにも言わなくてもジュスティーヌが動く。表向きは優しく人当たりの良いジュスティーヌ王女は、保守派にも受けがよい。

 保守派と民衆派が正面からぶつかると、血を見る抗争になりかねない。民衆派の指導者であるレオンを抑えて操縦できるのは、貴族の中の貴族である美しいジュスティーヌ王女しかいないと思われている。

 ジュスティーヌは、貴族たちの前で彼らが見たいと願っている理想の王女を演じている。その意味でジュスティーヌは、物心ついた時から演技する偽善者だった。賢かったので、そんな自分に嫌悪さえ感じることもあった。だからこそ自分と反対に偽悪的に振る舞うレオンに、激しく惹かれてしまったのかもしれない。ジュスティーヌには、レオンを抑えるふりはしてみせても、本気で止めだてするつもりなど全くない。

 便所でありゴミ捨て場にもなっている不潔の極みのような川のまわりを、ムーラスに案内させ視察する。栄養不良のスラムの住人が、貴族サマを遠巻きにして黙って眺めていた。住民の栄養状態の悪さと川の殺人的な不潔さに、珍しくジュスティーヌの表情が険しくなった。

 不意にスラム野次馬の表情が明るくなった。レオンが振り返る。

「おう、来たな」

 カムロたちが食糧を満載した荷車を何台もひいてくる。

「三千食分ある。ムーラス、分配はおまえに任せる。売り飛ばしたりしたら、今度は殺すぞ。男の子がいるところに優先して配れ。行け」

 レオンが横目でにらむと、ムーラスは震え上がった。冷や汗をかいて平身低頭だ。

「へへーっ、マルクス伯爵様。承知いたしました。不始末はいたしません。このムーラスに、おまかせ下さい。へい、たしかにお預かりしました。へへぇ」

 何度もペコペコと頭を下げてムーラスは、ノタノタと荷車に向かい走っていった。それをレオンが冷然と眺めている。

「引き上げるぞ」

 レオンがきびすを返すと、まだ険しい顔をしているジュスティーヌが横に並んだ。スッと均整のとれた手を挙げると、二人の会話が届かないところまで護衛騎士たちが離れる。ようやく臭いスラムから離れられて、護衛連中は内心ホッとしていた。

 ジュスティーヌとて王女だ。人柄が良いだけの女ではない。

「あの者は、本当に信用できるのですか?」

 レオンが薄く笑う。

「信用? できないね。あんな顔してムーラスは、ここらのヤクザの親分なんだぜ。はははは!」

 暴力を持たなければ、スラムは治められない。ヤクザといってもスラムの顔役、自治会長のようなものだ。育ちの良いジュスティーヌは、スラムの仕組みが分かっていない。少し驚いた。

「なぜ、そのような悪人に食糧を渡すのですか?」

 王女という貴人でありながら、分からないことは率直に質問する。ジュスティーヌの美点だ。

「ムーラスは、自分の地盤を固めるために、あの食糧を利用する。やつは、オレの配下だ。やつがスラムの支配権を握れば、スラムはオレの影響下に入る。やつに分配させるのが、一番効率的なのさ。そもそもだ。他にどんな方法で食い物を配るんだ?」

 ジュスティーヌは、物心ついてから今まで宮廷内の陰湿な権力争いを見てきた。王宮親衛隊と民衆に足場を置こうとするレオンのやり方は、むしろ清々しいと感じるほどだ。しかし⋯。

「⋯⋯あの者は裏切りますわ」

 スラムの顔役の卑屈な態度に、ジュスティーヌは強い不信感を抱いたらしい。ジュスティーヌは、多くの人を見てきている。だから人を見る目はある。しかしそれは、王宮の貴族階級に限ったことだ。その日を生きてゆく底辺の人びとは、権力者に卑屈に媚びへつらわなければ踏みつぶされることさえある。生きるためなら裏切りだってするだろう。そんな弱者の悲哀は、王女の想像の外だ。

 顔に似合わないジュスティーヌの言葉に、レオンは思わず笑ってしまった。

「はは⋯。信用できる者を見つけるまで、スラムを放置するのか? ムーラスだって命は惜しいだろ。オレに力があるうちは、裏切らないね。まわりに何人かカムロを置いている。裏切ったら、すぐに分かる。そうなったら、クビだな」

 本物の首の方かもしれない。

 レオンは、良くも悪くも男女を区別しない。それはジュスティーヌが、よく知っている。なのに⋯⋯。

「なぜ、男の子がいるところを優先するようにと仰ったのですか?」

「分からないの?」という調子でレオンが見返してくる。

「男はいずれ戦力になる。それに女は餓死しない。最後に売るものが残っているからな」

「つっ⋯!」

 ひどい言いようだ。しかし、現代の日本でさえ社会から見捨てられ、困窮し売春の稼ぎで子供を養っているシングルマザーなど、いくらでもいる。

 ジュスティーヌは、「この人は、人間を『物』のように見ているのではないだろうか?」と思うことも、たびたびだった。だが、今までスラムの悲惨を放置してきたのは、自分をも含めた王族と貴族だ。そして、まがりなりにもスラムの状態をどうにかしようとした貴族は、レオンしかいない。

『清く貧しく美しく』など嘘だ。ひどく貧しければ、心身共に汚れる仕事をしなければならず、『美しく』などいられない。蔑まれ、心がねじ曲がり、無知に落ちてゆく。前世の聖女だった時に大衆に痛めつけられ、結局殺された経験をしたレオン=マリア=新東嶺風は、左翼によく見られる弱者主義からは決別していた。

「スラムでは、十万人近くが飢えて暮らしている。三千食くらい配っても、焼け石に水だ。それでも配ったのは、人気取りの宣伝のためさ」


 王宮に戻るとジュスティーヌは、さっそく動いた。

 穏健で温治主義をとっているとはいえ、専制君主国家である。国王が裁決しないと、なにもできない。公的な場で国王と面談するためには、用件を書いた願書を王宮官房に提出する。

 レオンの場合は、どうせ無駄だと分かっていたが筋を通すため、『スラム地区における河川改修に関する提言』を提出した。⋯もちろん音沙汰はない。ボツということだ。面会願いは、王宮官房の保守派貴族に握りつぶされていた。

 本来なら治水は行政の仕事だ。しかし、自分でカネをかき集めて不十分ながらもなんとかしようとまで考えた。慈善事業ではない。公益と私益を両立させるつもりだ。毎年数百人も死ぬ伝染病を防ぎ、十万人近いスラムの住人に恩を売り配下に置くことができる。河川改修を名目にして、スラムの連中の組織化を進めることもできる。王都内に、事実上の私領をつくるのだ。

 国王は、今もレオンを見放したわけではない。美形の優等生タイプが多い王族の中で、荒事が得意で戦争ができそうな者は、レオンしかいない。はじめはどうなることかと思ったが、ジュスティーヌは貴重な人材を拾ってくれた。

 印刷業と製紙業でレオンは、かなり儲けている。この国有数の富豪といってもよいほどだ。だが、入ってくるカネは右から左へと通り過ぎていき、まったく貯まらない。

 地方の都市にも浮浪児はいる。製紙と印刷で経済基盤を固めて、カムロ組織をフランセワ王国全土に広げたい。だが、莫大なカネが必要な土木事業を始めると、組織建設のピッチを落とすしかなくなる。カムロ組織の全国拡大か、十万人のスラム住民を影響下に置くか⋯。

 どうにも土木事業は予算がかかりすぎる。治水の方は、税金で何とかしてもらいたい。国費でスラムの住環境を整備させて、名声はフランセワ=マルクス伯爵家でいただく⋯。

 そこで、父王に最も愛されているジュスティーヌ王女をスラムに連れて行った。ジュスティーヌは、自分のことを卑しい偽善者なのではないかと考え、自己嫌悪してしまう程に潔癖な精神の持ち主だ。スラムのありさまを見て、王族の義務やら正義感やらをひどく刺激された。

 ジュスティーヌには、貴族どもがスラムの住民をゴミ程度にしか見ていないことが、よく分かっていた。レオンの河川改修案が無視されたのが、なによりの証拠だ。

 ジュスティーヌが政治に口を出すことは、まず無い。それがレオンの妻でありながら、保守派貴族に排斥されない理由のひとつだ。ジュスティーヌの中に潜んでいる政治家は、そのことを知っていた。保守派貴族に反対されずに、スラム地区の環境改善策をどうやって通せばよいだろうか?

 総理大臣に忖度する日本の官僚と同様だ。官僚貴族が国王にへつらうことを、この王女はよく知っていた。父王を説得できれば簡単だが、それでは娘王女の立場を利用して政治に口出ししたことになってしまう。王族の私室である内宮で「おねだり」するなど最悪だ。権力の私物化と見られても仕方がない。そもそも縁故政治を嫌う父王が、内宮での「おねだり」というだけで承認しないだろう。保守派貴族に警戒感を持たれるだけで終わる。スラム地区の治水事業を、保守派貴族すら喜んで賛同するように誘導しなければならない。

 王女といえども国王との公的な謁見を希望する場合は、王室官房に願書を提出する。『一、離宮の建設計画についての私案。二、王都で定期的に発生する伝染病の予防策について』。

 ジュスティーヌは直系の王族だ。やっぱり官僚が忖度した。翌日には、「明日の九時に謁見室にお越しくださいますように」という丁重な返書が届けられた。

 民衆派の提言とみなされると、適当な口実をもうけて潰されてしまう。なので、レオンは同行させられない。政治的な色のついていない王国大学の教授に補佐を頼んだ。謁見室では、国王を筆頭に関係閣僚や官僚が待っている。レオンは失脚したので、その場にいない。

 公的な場なので、ジュスティーヌは、娘王女であっても父王に自己紹介しなければならない。ただし王族なので跪礼はしない。おつきの三人侍女たちは、後ろに控える。

 並んでいる大臣や高官たちは、自分を子供のころから知っている。儀礼とはいえ、父親に自己紹介をするのが愚かしい。こんなふうに考えるようになったのは、レオンの影響だ。

「ジュスティーヌ・ド・フランセワ=マルクス第三王女でございます」

 二人の教授は、跪いて挨拶する。お爺さんの貴族だが、生涯ひたすら学問畑を歩んできた。こんな所に入るのは初めてだ。

「ロベール・ド・エルミール伯爵でございます。王国大学で土木工学教授を奉職しております」

「ヴィクトール・ド・レーベル子爵でございます。大学で医学と公衆衛生学教授を奉職しております」

 国王をはじめ大臣高官連は、あのジュスティーヌ王女がなにを言い出すか興味津々だ。マリアンヌ侍女とキャトウ侍女が、両端を持って大判の紙を掲げた。なにやらクネクネと二本の線が描かれている。

 レオンがたまげたことに、セレンティアには『グラフ』が無かった。紙の値段が、おそろしく高価かったからだろう。貴族の学者だったら工夫して使っていたかもしれないが、一般には全く知られていない。ジュスティーヌは、小学校の先生のようにグラフの説明から始めることになった。生徒の国王・大臣・高官は、やはり頭が良い。すぐに理解してくれた。

「こちらの青い線が、秋の洪水で冠水した面積を年ごとに繋げたものです。赤い線は洪水から三カ月以内に伝染病で亡くなった人の数です」

 あまりの分かりやすさに、目からウロコが落ちそうだ。国王が身を乗り出した。

「うーむ。きれいに相似形を描いておるな」

 ジュスティーヌは、大きくうなずいた。

「はい。洪水の無かったおととしは、疫病の死者は十二人です。ところが大規模な洪水にみまわれた去年は、二百人以上も亡くなっています」

 しかし、スラムの住民など人間とも思っていない連中も多い。そんな貴族を説得するには⋯⋯。

「グラフの二十四年前の部分をご覧ください。この年は平民街まで冠水する大洪水となり、一万二千人以上が疫病で死亡しています。五十年前にも同様の大洪水があり、その時も二万人以上が疫病で亡くなりました。資料によると、およそ二十五年周期で王都は大洪水にみまわれ、そのたびに万余の死者を出しています」

 大臣どもは、「へー、そうなんだ~」という調子で他人事のように聞いている。だがあとは、伝染病は人を選ばないということを納得させればよい。

「レーベル教授。お願いします」

 美しすぎる王女の講義にポーッとなっていたレーベル教授は、我に返った。

「え? あっ、失礼しました。えー、二十四年前の洪水後に広がった伝染性の疾患では、記録に残っているだけで貴族の感染者は約九百人。後遺症が残る例も多く、年配者と小児を中心に四百八十人が亡くなっております。この病、えー、洪水病と名づけましたが、発病するとおよそ二人に一人が死亡いたします。現在も治療薬は、ございません」

 だれか大臣がつぶやいた。

「二十五年周期ならば、今年か来年ではないか⋯⋯」

「もうそろそろ夏だぞ」

 大臣どもには年寄りが多い。自分が死ぬかもしれないとなったら、話しが違ってくる。少しは危機感を抱いたようだ。ジュスティーヌが、たたみかけた。

「治療法のない洪水病から逃れる方法は、ひとつだけです。エルミール教授、お願いします」

 この土木工学の先生も、レオンの紹介だ。レオンは、おそろしく顔が広い。干されても腐らずに、親衛隊宿舎を拠点にして軍士官学校、軍大学校、軍司令部、王国大学、学会、商工会議所、カムロ孤児院、子供剣道場、民衆のお祭り、地元ボスの屋敷にまでこまめに顔を出す。レオンの行動力に、ジュスティーヌはすっかり感心している。

「えー、要するにですな、パシテ川が洪水を起こさなければよいのです。あそこは病原菌の巣でありますからな。ジュスティーヌ殿下が集めて下さった洪水の資料を拝見しますと、毎年ほぼ同じ場所から出水しております⋯」

 国王が口を入れる。

「その場所をふさぐわけか」

「おそれながら、それでは別の弱い所が決壊いたします。氾濫を防ぐためには、一時に大量の水が流れぬよう上流域に遊水池を掘り、川幅を広げ、堤防をつくる。二十四年前の洪水時の水量でしたら、これだけで氾濫を防ぐことができます。他に方法はございません」

 大規模な土木工事で治水するというのだ。国王と大臣たちの顔が曇った。フランセワ王国では、歳入と歳出がほぼ均衡している。借金の無い健全財政だ。もちろん予備費はあるが、今年の分は、早々に使い切ってしまった。健全財政論者である国王は、貨幣の質を落としたり借り入れをするなどとんでもないという考えだ。増税をする気もない。フランセワ王国の発展段階では、そう無茶な政策でもない。過大な支出と増税を繰り返した結果、滅んだ国はいくらでもある。

 国王に「カネは出せぬ」と言われたらそれまでだ。さあ、ここからがジュスティーヌの正念場である。

「治水事業には、洪水と疫病対策以外にも素晴らしい効果が見込めます。流れを良くするために、川底をさらい汚物を除きます。川を清潔に保てれば、皆が悩まされている夏のパシテ川の悪臭が、緩和されます」

 洪水のたびに伝染病の発生源になるような川だ。生ゴミから糞便、果ては腐った死体まで浮かんでいて、不潔を超越した毒物だらけだ。特に夏場は、風向きによっては王宮にまで耐え難い悪臭が漂ってくる。

 もうひと押しだ。

「陛下。たしかに国庫は健全に保たねばなりません。ですが、王都の貴族が四百人以上も犠牲になりかねない洪水病を防がなければ、国家の存続に関わります」

「民衆の生活が~」とか「スラム住民の命が~」などと発言したら、王女とはいえ民衆派とみなされて治水事業は潰される。だから「貴族が~」「国家の~」とかいう言葉がポンポン出てくる。ジュスティーヌは、美しい偽善者だった。

 借金も増税も駄目なら支出を削るしかない。

「パシテ川の悪臭が無くなるのですから、夏の悪臭から逃れるため予定していた離宮の建設を延期したらいかがでしょうか? 我がフランセワの土台たる貴族の健康には、なにものも代えることはできません」

 実際は、だれ一人として「パシテ川の悪臭が無くなる」などと保証していない。ジュスティーヌは、しれっと嘘をついた。だが、父王は、ちょっと得意な気分だ。ついこの間まで子供だった可愛いジュスティ。今もまだ二十一歳の小娘だが、治水の財源まで見つけてきた。大臣たちも感心している。

 ジュスティーヌの腹の中の本心は、貴族の健康などではなく民衆の生存のための治水である。大勢の民の命がかかっている。だからこそ、涼しい顔をして大嫌いな嘘もつけた。ジュスティーヌの本音に気づいた者も、いくらかはいただろう。だが、この事業で大勢の貴族が洪水病から救われるのは間違いない。王族の贅沢にすぎない離宮の建設などとは、重要性は比べものにならない。ジュスティーヌが、離宮建設を「中止」ではなく「延期」としたところも賢い。離宮建設の延期などは、王族でなければ言い出せないことだ。

 国王が下問する。

「建設大臣。離宮建設の予算は?」

 六十歳を超える建設大臣は、中堅官僚だった二十年程前に、赤子のジュスティーヌを抱いたことがある。良識保守なので、暴れ者のレオンには大いに批判的だった。だが、貴族に対し常に礼儀正しく心優しいジュスティーヌには、父性的な感情を抱いている。それにこの爺さんはいい年をして美人が好きだった。くだけた場でジュスティーヌに甘えた声で、「おじさま♡」などと呼ばれると、フニャフニャになってしまう。だから余程のことでないかぎり、ジュスティーヌの味方だ。

「建設費と内装など、総額で百二十億ニーゼを予定しておりました」

「予定しておりました」などと、すでに過去形だ。

「エルミール教授。直答を許す。百二十億ニーゼで、パシテ川の治水事業は可能であるか? ⋯それにだ、まことに『悪臭は無くなる』のか? どうだ?」

 父王は、ジュスティーヌを見てニヤニヤ笑った。ジュスティーヌは、すました表情だ。でも、ちょっと脇に冷汗をかいている。


 有力貴族には、年寄りが多い。そろそろ流行すると予想される洪水病で、年寄りは死ぬかもしれないと学者に警告された。二十四年前。まだ若いころに、洪水病で悲惨な死に方をした貴族を何人も知っている。洪水病対策が優先だ。

 国王は、離宮建設を延期して浮かせた予算で洪水病対策の治水事業を行い、貴族どもに恩を売ることにした。王様だって洪水病に感染するかもしれないのだから、当然の判断だ。

 ジュスティーヌは、「この人たちにも、すぐに戦争の足音が聞こえてきます。そうなれば、離宮どころではなくなるでしょう」。そう考えている。

 


 ジュスティーヌが、親父さんからカネを引っぱってきてくれたおかげで、スラムのドブ川がなんとかなりそうだ。うまくやってくれた。

 妻が提案者ということもあって、レオンがパシテ川治水事業の総指揮者に納まった。こんな汚い仕事を他の貴族は、だれもやりたがらない。百二十億ニーゼも動く巨大公共事業なのに、バカだねえ。うまいこと工事を成功させれば、政権中枢へ復権する目が出てくるかもしれない。

 結婚披露宴会場を造ってくれたスレット建設を請負業社に指名した。現場作業には、スラムの住人を優先的に雇用させる。住民は、治水事業で働いてカネを貯めさせたい。左翼らしくない言葉だが、カネさえあれば大抵のことはなんとかなる。スラムからの離脱を助ける福祉事務所も設置した。スラムの住民というだけで、まともな仕事にありつけないのだ。

 川幅を広げるため、千軒を超えるスラム小屋が移転することになった。単なるボス交ではなく、何度も足を運んで公開の席で移転住民の代表と話し合い、一緒に何カ所か候補地を見てまわって移転先を選定した。顔役のムーラスも、住民の意見をまとめるのに役立ってくれた。

 毎年のように水害に見舞われ、今年は数カ月後には洪水で沈むかもしれない土地だ。皆さん喜んで無料の新居に移転してくれた。

 どうせ不法占拠なのだから、警備隊か軍をつかって追い散らせというやつがいた。民衆派が民衆を弾圧してどうする? そんな日本政府のような馬鹿なマネはしない。数千人もの住民の頭越しに空港建設を決めたため、分かっているだけで十二人もの死者と万を超える負傷者を出す大闘争となった成田空港を反面教師にした。日本国なんかより、よほど民主的に話し合いを進めたつもりだ。万一スラムで暴動でも起きたら、治水事業どころではなくなる。


 一カ月ほどで住民の移転が完了した。ようやく工事を開始する。セレンティアでも地鎮祭らしきものがある。レオンとジュスティーヌに三人侍女が最前で跪き、続いてスラムの代表になったムーラス、工事を請け負ったスレット社長が続く。

 飾り立てられた馬車で運び込まれた女神セレン像が設置され、神官がなにやら祝詞みたいな呪文を唱えた。⋯⋯オレが女神だった時には、こんな儀式はなかったぞ? こんな宗教でも二十五年も経つと、いろいろ儀典が整備されるもんだ。しかし、なぜに前前世の自分の像に跪かなけりゃならんのか?

 こんな儀式になんの御利益もないことは、元女神が保証する。こんなものにすがらねば生きるのが苦しい民衆には、マジナイ的な安心感を与えられるんだろう。

 運んでこられた女神像が、またひどく陰気臭くて出来が悪かった。「ひでえブスだな」とつぶやいたら、隣で祈りを捧げているジュスティーヌに思いっきり脇腹をつねられた。ジュスティーヌは、王女のくせに敬虔な女神正教徒だ。「宗教なんかは民衆の阿片で迷信だ。階級支配の道具で麻薬なんだ」といくら教えても、これだけは絶対に譲らない。

 ジュスティーヌがあんまり意地を張るものだから、実際に殺された当人であるレオンは、ムカムカと腹を立てた。

「女神なんかいねえよ。人間が殺した。自分から棄てて困った時だけ拝むとか、ずいぶんご都合がいいな。神は死んだ!」

 至極もっともなことを言ってやった。普段はしっかりしたジュスティーヌだがなのに泣いてしまい、いつもどこかふざけているキャトウまで神罰が下ると真っ青になった。マリアンヌからは、表情が消えた。ジュスティーヌが泣いたせいで、アリーヌは怒る怒る怒る怒る怒る怒る!⋯マルクス主義者は、唯物論者で無神論者なんだから仕方ないだろっ。

 ようやく妙な祝詞が終わってくれた。つぎはオレの演説だ。


「まず、住居の移転に同意してくれた住民の皆に礼を言いたい⋯。我々は、洪水と疫病に悩まされてきた。毎年、多くの者が家財を失い、病に倒れた。だが、それも今日までだ。我々は、手にスコップを握りしめ、立ち上がった。汗を流して働き、自らの手で洪水と疫病を根絶する。スラムの住民と蔑まれてきた我々が、王都の人びとの生命と財産を守るのだ。もし我々を蔑む者がいるならば、こう言ってやろう。手に血マメをつくり、日に焼かれ、全身に汗を流している我らの働きが、おまえたちの生活を守っているのだ。我々は、その努力にふさわしい当然の権利を要求する。この工事は、自然の力と人間の労働との戦いである。我々は、この戦いに打ち勝ってみせる。フランセワ王国国王から委任されたこのレオン・ド・マルクスが、必ずおまえたちに勝利をもたらすことを約束する。スコップを振るいツルハシを振り下ろすことで、我らは天に至る道を切り開く。共に汗を流す兄弟姉妹たちよ。戦う仲間たちよ。労働は尊い。自らを誇れ。団結せよ。労働者人民万歳! 我々は、必ずやり遂げてみせる!」

 労働を卑しいものとして蔑んできたフランセワ王国で、初めて労働と労働者を賛美したレオンの演説は、地鎮祭の神官によって書きとめられ、歴史に残った。


 過激派だった前前前世の癖が抜けず、アジ演説をぶってしまった。スラム住民労働者たちは、最初はポカンとしていたが、どうやら空気が入ったようだ。スコップを振り回したりしとる。

 仕事は、明日からだ。今日は前祝いにフランセワ=マルクス伯爵家が、皆に酒と食い物をふるまう日だ。樽酒を持ち込み蓋を叩き割った。食い物は、安くて量があって高カロリーなものを選んだ結果、モツ鍋になった。いい仕事をしてもらうために、このモツ鍋は毎日出すことにした。昼の給食つきの現場だ。

 同じ釜の飯を食った仲だと示すために、一番にオレがモツ煮をよそって食ってみせる。調味料といっても塩ぐらいしかないが、よく分からない内臓のダシがきいててけっこう美味い。「全部食ったよ~」とお椀をひっくり返して見せると、拍手喝采だ。スラム住民と同じものをお貴族さまが食ったことが、嬉しいのだ。

 でも、これをジュスティーヌが食うのは⋯⋯無理だろうな~。

「さあ! おまえたちの番だ。思いきり食って飲んで楽しめ!」

 労働者の皆さんは大鍋に群がり、王女サマのことなんか忘れてくれた。

 あとで見えないところでジュスティーヌにモツ煮を渡してみた。匂いをかいだだけで「うぅっ!」とえずいてしまい、口にも入れられない。アリーヌは、「ケモノの内臓など! 汚らわしいっ!」と、匂いをかぐことすら拒否。伯爵家の令嬢らしくお高い。平民出身のマリアンヌは、苦労してきたクセに「わざわざ食べたいものではありませんわ」などと言って、やんわりと拒否した。出世したタヌキ侍女は、お高くなっちまったようだ。キャトウは、「あはははっ。なっつかしー! おいしー! もっと下さいー」と、バクバク食っていた。ネコみたいな顔と性格だから、肉が好きなのかな?

 

 比喩ではなく、ヘタしたら死ぬほど不潔な川の工事だ。現場で伝染病が発生したら、冗談にならない。労働終了後に小樽一杯分のお湯と布を支給し、体を拭いて清潔を保ってもらった。いずれ余った建設資材を活用し、どうにかして公衆浴場を建てるつもりだ。工事が終わってもスラム住民が利用できるようにそれなりのハコを建てたい。十万人に風呂場がひとつでは、焼け石に水だろう。だが、人気取りにはなる。

「スラム住民を気にかけて下さるただ一人の王族、マルクス伯爵さま。伯爵さまが、悪い貴族をやっつけてもっと偉くなられたら、二週間に一度くらい風呂に入れるようになる。毎日モツ煮が食えるようになる。今より良い暮らしができるようになる⋯」。決して空手形ではないぞ。自己満足の慈善でもない。スラム住民を組織化することで、十分可能になる。

 貴族がスラム住民を搾取しているというのは、間違いだ。スラム民には、ほとんど生産手段がない。だから搾取できるほどの資産さえ持たない。彼らの多くは、飢餓線上の極貧にいる。

 レオンら民衆派は、そんなスラムの住民に人間的な生活を保障する。そして、すり潰されるように死んでいった人々を、新たに社会活動や経済活動に組み込む。それによって、眠っていたスラムの生産力が目を覚まして動き始める。スラムがあるのは、なにも王都だけではない。フランセワ王国を覆い、社会を荒廃させてきたスラムの状態の改善は、国力の底上げに直結する。

 民衆派が敗北したら、スラムは希望のない元の地獄に逆戻りするだろう。それまで動物あつかいだったスラム民は、手に入れた人間的な生活を命がけで守る。スラムは、民衆派の不抜の拠点になるだろう。百五十万人の王都民のうち、スラム住民は十万人ほどだ。彼らは民衆派の岩盤支持層となり、レオンの手足として動くようになる。

 スラム民の十万に平民の一部が合流すれば、三十万人にはなる。彼らを煽動して貴族街でデモらせたり暴動を起こすことさえできる。取り締まる側の王都警備隊は、愚連隊狩りで手懐けて民衆派寄りだ。軍部にも着々と民衆派が浸透している。

 そうなったら領主貴族の次は、官僚貴族の番だ。いつまでもおまえらの思い通りになると思ったら、大間違いだ。封建制と串刺しにして貴族を滅ぼしてやる。単に殺すのではない。貴族という階級を地上から根絶するのだ。今のうちだ。せいぜい宮廷政治を踊っていろ。



 過激派だった前前前世では、よく工事現場で働いたものだ。過激派だって飯を食うし、闘争資金は絶対に必要だ。どこかの駅前でスピーカーを片手に情宣することもあった。アレは、まあ宣伝活動でカンパはそんなに入らない。働いた方が実入りは多い。手分けして団結小屋から外に働きに出た。

 なかには大学を辞めてタクシーの運転手になった人もいる。得体の知れない過激派学生を雇ってくれるようなところは、工事現場ぐらいだ。留置所で知り合った下っ端ヤクザの手配師と話しをつけ、日雇い仕事を紹介させた。人数がいると、手配師の運転するワゴン車が団結小屋まで送迎してくれる。こんな資金かせぎのバイトを『赤労』なんて呼んでいた。

 ドヤ街から手配師ワゴン車がやってきて、現場に労働者を降ろしてゆく。九時から土工仕事だ。日雇いの人たちは、意外なくらい真面目に働く。たまに役人や建設会社の社員が現場を見にきたが、日雇い労働者を露骨に見下すようなことはなかった。墨を入れてるような労働者もかなりいたから、ぶっ飛ばされるのが怖かったのだろう。暴力の威力だ⋯⋯。

 夏の飯場では、塩の錠剤が置いてあったり冷えた麦茶がヤカンに入ってたりと、世間の持つイメージよりもずっと待遇が良かった。だが、アオカンしながら日雇い労働についている労働者は多かった。

 暖かい季節のアオカンはまだよいのだが、真冬のドヤ街でたき火を囲んでいると、オマワリが水をかけ火を消して追い払ったりする。暖をとれずに凍死した労働者もいた。日雇い労働者は、ヤクザの路上バクチを目こぼしするくせに威張り返ってアオカン者を虐待する警察が大嫌いだった。だから死人がでるまで機動隊と衝突し空港反対闘争をしている学生たちに同情的だった。「おう、ゼンガクレン。こっちこいや!」。こんな調子だ。

 レオン=新東嶺風は、昼飯休みの時によく日雇い労働者と話しをした。彼らは、手配師にかせぎの一割を抜かれる『ピンハネ』に怒っていた。怒りが爆発した労働者は、時には暴動を起こしてドヤ街を監視しているマンモス交番に投石し、暴力手配師や私服刑事を捕まえて袋叩きにして土下座させた。労働者が立ち上がり実力で戦ったから、ピンハネが一割でおさまっていた。

 なんでも二十一世紀の日本では、『派遣業』と名を変えたピンハネ業が合法になり権力者が社長に納まり、五割や六割の中抜きは当たり前だそうな。ヤクザの手配師だってハネるのは一割だった。戦わない者は、労働を盗まれ富者を肥やすカモにされ、人生を棒に振る。

 新東嶺風にはもう関係ないことだが、そう思わずにはいられない。


 翌日から工事が始まった。

 既に何日も前からパシテ川の上流で軍の工兵隊が遊水池を造っている。軍を使えば、かかるのは資材代だけで人件費は無料だ。よい訓練にもなる。国王は、レオンの献策に一も二もなく飛びついてくれた。

 全国に散らばっている十個軍団が持っている工兵隊を集結させ、さらに独立工兵部隊も加えた。さすが軍隊だけあって仕事が速かった。いい機会だとばかりにレオンが各部隊を巡って様々な便宜を図り、兵士と交歓し、中堅将校と顔をつないだ。高位貴族の将官どもは、いずれ軍権を握ったら総入れ替えするつもりだ。

 遊水池が出来たら、川をせき止めて水を逃がす。数日後、歴史上初めて王都のパシテ川が干上がった。これは王都民の間で大変な話題になった。

 何カ所も造った遊水池が満水になり、再びパシテ川に水が戻るまでが工期だ。まず、溜まった毒ヘドロを除去し、増水しても簡単に溢れないように川底を掘り下げる。建設する堤防は、川に面した部分が石積みで、後ろから土嚢で支える。

 小脇にスコップを抱えたレオンが、短い演説をした。

「これより工事をはじめる。怪我をした者、体調の悪い者は、必ず申し出ること。我々はたった今、王都から『洪水』という言葉をなくす。かかれ!」

 レオンは、川底に降りるとスコップで毒ヘドロを掘り始めた。貴族⋯いや、王族が下民と一緒になって危険な肉体労働をするなど⋯。驚いた者、感激した者、怒った者もいた。

 これはキューバ革命の英雄、カストロとゲバラの真似だ。カリブ海の島国・キューバは、アメリカの傀儡独裁政権を倒し革命を成し遂げた。しかし、経済利権を握っていたアメリカは、経済封鎖を発動。小国のキューバを締め上げにかかった。

 物資の欠乏にあえぐキューバに、アメリカが送り込んだ反革命軍が上陸。革命軍が迎え撃ち、戦闘の末に全滅させる。戦闘には勝ったが、キューバの食糧は尽きつつあった。キューバ革命政府は、全世界の良識派に解放運動の危機を訴え、救援を求めた⋯。

 民衆を鼓舞するために、ゲリラから革命政府首相となったカストロと運輸大臣のゲバラは、農場に出て特産のサトウキビの刈り入れ作業を行った。もちろん政治宣伝だ。キューバ革命を救おうと、世界中の良識的な若者たちが数千人もキューバに集まり、サトウキビの刈り入れを手伝い、キューバの民衆と交歓した。

 この若者たちが、キューバの経済に貢献できたとは思えない。しかし、将来の左派や民主派の指導層となる若者が数千人も集まり、強い感銘を受けて故国に帰ったことは、キューバ革命にとって計り知れない利益をもたらしただろう。

 

 一日だけの宣伝とはいえレオンが川底で作業することに、ジュスティーヌは強硬に反対した。ドブ川は死病である洪水病の巣である。涙を浮かべ腕を掴むようにして止めるジュスティーヌに、レオンは冷ややかな目をして言った。

「スラムの民衆よりオレの命がそんなに重い理由を、分かるように説明してくれ」

 この冷ややかな目になった時のレオンを止めることは、誰にもできない。ジュスティーヌと三人侍女は、それを知っていた。

 レオンだってコレラなんかで死ぬつもりなどない。油紙製のカッパやタールを染み込ませた防水皮靴などの防護服を大量に用意した。この防護服を着ると、なんとなく土偶に似る。夏場は暑くてかなわないが、皆の命を守るためだ。

 工事のために川をせき止めて干上がらせるというだけでも驚きなのに、王族が先頭に立って半日もドブさらいをはじめた。それを川岸に鈴なりになった民衆が見ている。顔を隠すと宣伝効果が落ちる。レオンは、マスクをせず顔をさらした。

 レオンが倒れたり死んだりしたら、工事は止まってしまう。ここで治水事業が止まったら何度でも洪水が起こり、大勢の人たちがコレラで死ぬ。これが一般民衆よりレオンの命が重いとされる理由だ。レオンがコレラヘドロをいじるなど、本当は愚の骨頂だ。

 だがレオンにとって、コレラをなくすことは第二の目的だ。本来の目的は、国のカネで大衆の人気を取って自分の権力基盤を強化することなのだ。レオンとって、治水工事などうまくいって当たり前だ。工事を口実にして、スラム住民の生活水準の向上と、それを梃子にした住民の組織化を目指していた。

 清潔な講堂でインテリエリートに講義するだけでは、お話しにならない。たとえ一日だけでも悪臭を放つ泥の中に入りドブさらいをやってみせることで、大衆の信頼を勝ち得ることができる。

「洪水病が発生したら工事どころではない」という理屈で、工夫して浮かせたカネを流用し格安銭湯を何軒も建てた。「栄養価の高い食べ物を与えると作業が進む」といって昼食を出し、現場にいる時には牛や豚の内臓とクズ野菜の汁をスラム住民と一緒に食った。もちろん人気とりのためだ。

 王都の平民の人気者だったレオンは、もう愛され尊敬されるようになった。レオンは、民衆派の勢力を伸ばすためだったら、毒ヘドロの中にも入る。必要ならば、人だって殺す。

 レオンは、カムロに命じて洪水病の噂を大げさに広めさせた。さらにコレラの予防法と治療法を印刷し、無料で大量にばら撒いた。二十四年前に王都が洪水病の地獄となり、数万人が死んだ。このことは三十歳以上の者なら覚えている。今年は洪水病が流行しそうだというので、王都に恐怖が蔓延した。

 そこでマルクス伯爵の登場だ。王様を説き伏せて洪水病が発生する毒川をきれいにしようとしてくれている。しかし、王族が先頭に立ってヘドロの中に入り、作業をするなんて思いもよらなかった⋯。ありがたい⋯⋯。


 過激派だった前前前世で新東嶺風は、赤労で『ぼっとん便所』から汚物を回収する汲み取り作業もやっていた。仲間とバキュームカーでウンチを吸い出して回る。しつこくクソバエがまとわりついてきたり、いつの間にかウンチが作業着に付いたり、鼻が曲がるほど臭かったりしたが、慣れれば土方仕事よりもいい軍資金稼ぎになった。

 仕事が上がるとバキュームカーを事務所に戻す。風呂があって使わせてもらえた。機動隊にからまれながら団結小屋に帰ると、泥まみれの仲間の中で風呂上がりの自分が一番きれいだった。

 汲み取り業は、実力闘争の役にも立ちそうだった。いざ戦闘になったら満タンのバキュームカーを持ち出して、さんざん小突き回しやがった機動隊の前に立ちふさがる。タンクのテッペンに上ってノズルを開き、クソと小便の混合液を逆噴射して百人くらいの敵をまとめてクソまみれにして戦闘力を奪う『フン激決起』なんかを考えていた。ガソリンではなくウンチを撒いて機動隊を追い散らしていれば、新東嶺風は死なずにすんだだろう。


 汚物処理の経験があってちゃんと防護していたので、レオンはコレラなんぞに感染しなかった。ところが王宮の居候部屋に戻ると、三人侍女が洪水病ノイローゼに感染しており、マスクやら頭巾やら手袋やらで完全武装して待ちかまえていた。風呂場に追いたてられ、熱湯をぶっかけられ、頭まで湯船に沈められ、得体の知れない薬を浸したモップで執拗に擦り立てられ、着ていた服はまるで毒のようにゴミばさみでつまんで焼却炉に持っていかれた。

 父王命令でジュスティーヌは、王族の間に連れていかれてしまった。侍女たちも、当たり前のようにジュスティーヌについていった。

 一週間も夜の生活がなくなり、まだ子ができないジュスティーヌが寂しがった。それに子づくりは貴族、ましてや王族の義務だ。だがジュスティーヌにその知識がまるでないのをよいことに、レオンは黙って避妊していた。子供ができても、必ず殺されるとみているからだ。貴族から見れば、レオンは女を利用した極悪の簒奪者ともいえる。簒奪者の子を見逃すほど甘くはあるまい。そもそも貴族制度など滅ぼすつもりなのだから、『マルクス公爵家』など立てるつもりはない。

 レオンの仕事は、王宮の居候部屋に帰宅してからが本番だった。前前前世で、赤労の工事現場から大学生だというので引き抜かれ、事務仕事をやらされたのが役に立った。まず、過去の天候の記録を調べた。そこから高校の数学レベルの確率と統計を使って可能な施工期間を定めた。現場組織表をつくって組織構成を明確にし、計画工程表をつくって施工計画を立てた。面倒くさいが、レオンにしかできない仕事だ。

 それまでは、工事といってもいい加減な勘だよりで、計算に基づいた計画は、ほとんどなかった。レオンによる確率と統計を利用した作業工程表の作成は、エルミール教授とレーベル教授、それにスレット社長を激しく感動させた。

 この知識は、軍事に転用できる。効率的な輸送や補給計画。各戦闘での部隊の損耗率まで計算に入れた作戦計画。必要な予備軍の数。敵の作戦行動まで、ある程度予測できてしまう。つまり効率的に戦争ができるようになる。

 再びクラウゼヴィッツになるが、戦争能力は戦闘員や戦闘器材などの『資材の量』と『意志の強さ』の積であるとしている。レオンはそれに『組織能力』を加えるべきだろうと考えた。ドイツ軍が、資材の量は少ないのに強かったのは、組織能力が優れていたためだ。


 戦争能力 WP(War potential)

 資材量 AM(Amount of material)

 意志力 WI(Willpower)

 組織力 OC(Organizational capacity)


 WP = AM × WI × OC

 Own country WP > Enemy WP → Victory


 レオンは、こんなヘンテコな必勝公式までつくって喜んでいる。戦争とは不確実で刻々と流動する営為なので、こんな方程式で勝てれば苦労しない。

 とにかく確率と統計の軍事転用は、他国に知られると危険だ。軍事機密に期間指定して、七年間は発表しないよう三人に約束させた。機密漏洩するとスパイ罪となり、最高は死刑となる。とはいえ、どの国の軍中枢にもスパイが浸透しており、いずれ技術は流出する。機密が保てるのは、せいぜい七年だろう。


 離宮ひとつ分の予算しか与えられずに、しかもたった数カ月で王都を貫通する川の治水工事が完成するとは、国王は最初から期待していなかった。いくらレオンが頑張っても雨の季節に間に合わず、完成は来年だろう。追加予算をどこからひねり出そうかと考えていたが、予定通りに治水工事が完成するという報告を受けて驚いた。今の日本でも同じだが、公共事業はどんどん予算が膨んでいき工期が延びるものだ。

 治水工事で一番カネがかかるのが、堤防の材料費だ。石材の切り出しと運搬に大変な手間がかかる。この費用が大きく節減できたのが大きかった。

 川向きの三分の一だけに石材を使用した。堤防の外側は、タールに浸した麻袋に砂利を詰めた土嚢を重ね、さらに後ろから丸太を組んで支えた。

 麻袋作りでは、経済弱者である女に男と変わらない個数賃金を支払い、神様あつかいされるほど喜ばれた。


 レオンと違って姿をさらして人気を取ろうと考えない国王は、レオンに案内させお忍びで視察に出ることにした。そこで工事の手際の良さ以上に、レオンの独特の考え方に感心されられた。

 過去五十年の統計から予想される降雨日数と工事可能な期限を算出し、そこから作業可能日数を割り出した。それらのデータを基礎にして工程ごとに必要な作業日数を割り振る。工区ごとに気心の知れた者同士の集団を振り分け、資材を配置して工事を進める。現場監督に指揮を任せるが、監査係が進捗状況を毎日確認して報告する。問題が起これば、最高責任者のレオンが乗り出す。監督だけでなく実際に作業している者も交えて合議させ、できるだけ現場の者に解決させる。人員と資材が最適になるように数日ごとに検討し、必要なら再配置する。

 さすがに国王は賢かった。レオンが軍関係に行きたがっていることも知っている。

「このやり方は、戦争にも転用できるのではないか?」

 レオンは、我が意を得たりという感じだ。

「はっ。すでに軍事機密に指定しました。圧倒的な物量を背景にした戦争能力で敵を圧倒し、確率と統計、さらに偵察による情報を活用した柔軟な部隊運用が、これからの戦争の勝敗のカギを握ると思われます。また、中隊指揮官に広く指揮命令権を持たせることで、戦場における柔軟な作戦行動が⋯」

 主戦派のレオンが売り込みを始めた。治水工事と同様に戦争でもレオンは、天才的な手腕を発揮しそうだ。

「まてまて、ここに軍関係の話をしにきたのではないぞ」

 レオンの実体は、王族の入り婿にすぎない。後ろ盾は、妻王女と義父の国王だけだ。王宮内の貴族政治での野心やセンスは、まるでない。だが、天才的な指揮者で組織者だ。大衆の人気も極めて高い。戦争の危機が高まっている時期に、これほど使い勝手のよい臣下はいない。

 これ程の才気を見せられた国王は、いずれレオンに戦争の指揮をとらせるつもりになった。とりあえず大佐から将官に階級を上げなければなるまい。親衛隊中隊長と軍司令部の参謀でも兼務させるか⋯。いずれ内戦が開始されたら、レオンがフランセワ王国軍の指揮をとることになりそうだ。

 刻々と戦争の足音が迫っている。二人とも最後まで気付かなかったが、レオンとのつぎの会話が国王アンリ二世の命取りとなった。その意味で、レオンが国王を殺したと言えるかもしれない。

「いくら川をさらって清掃しても際限なく大小便が流れ込んでくるようでは、いずれまた伝染病の発生源になります」

 それは当然そうだろうと国王も考えた。

「下水道を造って汚水を浄化し、浄化した水を川下に流せば衛生問題は解決します。スラム住民や貧困層に職を与えることもできます」

 国王は眉をひそめた。言うのは簡単なのだ。

「大規模な工事になるな。莫大なカネがかかるぞ。財源がない。増税はできぬ」

 レオンが、こともなげに言った。

「国民を所有物として酷使し、国庫に入るべき税を横領し、莫大な財を蓄え、多数の騎兵を養っている⋯。そのような者からの徴税を検討されたらいかがでしょう」

 国王には、レオンが理にかなったことを進言していると分かっている。領主貴族をこのまま放置するならば、フランセワ王国の発展はない。

「領主貴族からの徴税の強化か⋯。検討せねばなるまいな。来年の予算編成時に議論するか⋯」

 国王といえども大きな税制改革には、それなりの根回しが必要だ。根回しの内容は、領主貴族に筒抜けになるだろう。独立公国の公主気取りで「領主領は領主貴族が女神に与えられた土地。国に税など納めさせられるなど女神の意思に反する」という領主貴族の領主権神授意識を、国王は甘く見ていた。この油断が命とりになった。

 戦争が始まるまで、あとわずかだ。


「人間の意識がその存在を規定するのではなく、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定する」(マルクス『経済学批判序説』)


「経済要因が意識を決定する」(マルクス)


 銭湯と給食に支出しても、まだカネは残った。レオンは、国王に「資金をお返しします」などとは言わない。

「スラムの環境改善のために、つかわせていただきます」

 いつもの厚かましさを発揮して、当たり前のように言った。これでもスラムの状態は、工事前に比べればずいぶんマシになったのだ。スラムのひどい有り様を実見して驚いた国王は、支出を承認した。レオンの実務能力にも、舌を巻いていた。

 帰城後に国王は、王宮保安部に命じてレオンが治水工事にかけたカネの流れをたどらせた。数日後、レオンが帳簿と証明書類を提出してきた。保安部の会計監査報告とつきあわせた結果、不正は一切なかった。


 治水工事を成功させたレオンは、ドブ板の修理からヤクザの喧嘩の仲裁、大学講師業、王立学術アカデミー会員までこなしていた。でも、暴れ者のなんでも屋というだけでは駄目だ。まぁ、そろそろ外国向けの『名声』も必要だろうと考えた。得意分野の印刷を活用しよう。

 菩薩の弥勒に頼んで『家庭の医学』のデータを受け取った。貧乏学生のバイト君たちに口述筆記させて、セレンティア初の大衆向け医学書を出版した。

 セレンティアの主神・女神セレンは、人々の病を癒す医療神だ。今も人々の尊敬を集める聖女マリアも、貧者への医療奉仕に力を尽くした。なので医療関係で貢献することが、セレンティアの人々の心に一番触れる。洪水病対策といい、今回の『家庭の医学』の出版といい、レオンには民衆のそういった気分が、よく分かっていた。

 平民を権力基盤にするつもりのレオンは、まず無料の診療所と孤児院を建てた。だがそれでは、王都パシテか、せいぜいフランセワ王国でしか売名できない。そこで、現代日本の医学書をパクって印刷し、全世界に配ることにした。

「私は、一度死んでいる。この本の知識は、その時に女神とお会いして授けられたものだ。自由に写し、万民の救済に活用していただきたい」。なーんて大ウソを序文にして神秘性を演出し、博愛精神をアピールしてみせた。

 せっかくなので、王族権威で箔をつけることにした。『レオン・アルフォンス・ランソワ・ド・マルクス伯爵』と、妻の『ジュスティーヌ・ペラジー・コルディエ・ド・ローネ・ド・フランセワ=マルクス王女』との共著にした。二人だけで書いたのではちょっと弱いので、王女の友人である『アリーヌ・ルイーズ・ド・スタール伯爵令嬢』の協力を得たことにした。

 たしかにジュスティーヌとアリーヌも、口述筆記に協力してくれたのだから、あながち嘘でもない。

 この序文のせいでアリーヌの名は、賢く忠実で愛情深く気高い伯爵令嬢出身のスーパー侍女として歴史に残った。数百年後に、アリーヌを主人公にした小説が出版されたほどだ。

『家庭の医学』は、三千ページを超える大著なので、カムロの王立印刷所でも三百冊印刷するのが精一杯だった。糸と糊をつかって慣れない製本を総出で頑張り、どうにかこうにか完成させた。ジュスティーヌを通じて『家庭の医学』を国王に献上し、またまた王族権威で箔をつけた。

 宗教権威・聖都ルーマのバロバ大神殿長にも、五十冊ほど送りつけた。世界各地の神殿に再配布して有効活用してくれるだろう。さらに外務大臣に談判して、各国の大使館に贈り物として配らせた。

 しかし、神殿や大使館だけだと民間人の目につかない。それでは民衆派としてはつまらないので、信頼できる旅商人に結構な額の手数料を渡し、各国の一番大きな図書館に『家庭の医学』を寄贈するように依頼。全世界にバラまかせた。

 やはり足元の王都が、とりわけ大切だ。レオンが建てた無料診療所などにも『家庭の医学』を置いた。これが非常に評判が良く、医師が行列を作って筆写し、活用してくれた。

 女神セレンが飛び回って病気治しをしたために医学が発達せず、セレンティアではセレンが神託した公衆衛生学と乳幼児医療以外の医学は、中世の水準で止まっていた。『家庭の医学』は、セレンティア医学復活の足掛かりとなった。グーテンベルクの『聖書』や江戸時代後期の『解体新書』と同様に、セレンティアの歴史的書物となった。


 政治の場から失脚したといってもレオンは、忙しく飛び回っている。治水事業の成功は、王都民のなかでレオンの存在を今まで以上に大きくした。

「あまりひどいことがあったら、マルクス伯爵にお願いすれば、なんとかして下さる」

 レオンは、今は神サマではない。神サマじゃないから、あまり雑務に押し寄せてこられても限界がある⋯。それでもとにかく出来ることは精一杯こなした。屈強な護衛を三人ばかり引き連れて二本差しで街中を駆け回っているレオンの姿は、百五十万都市である王都パシテの名物となり、民衆の希望の星ともなった。

 病人を助け、捨て子がいれば保護し、寡婦が困っていると食べ物を届け、雨がふると泥川になる道にドブを掘って板まで渡す。レオンは、まるで慈善の聖人だ。

 もちろんレオンには、無償の善行を施すつもりなどは、さらさらない。売名行為であり、偽善ですらある。これから始める革命と戦争でレオンを信頼して従い、レオンの指揮で死んでゆく大衆を育てている⋯とも言える。偽善どころか、悪事とさえ言えるかもしれない。

 常に正しくふるまおうとし、人々に尽くした聖女マリアは、さんざん迫害され無惨に斬り殺されてしまった。首をはねられ神殿で死体を見世物にされたのは、二十三年前だった。だが、レオン=新東嶺風の感覚では、ほんの三年前のことだ。

 マリアが殺された理由は、権力者とそして大衆には、正しいことを言う存在が目障りだったからだ。しかも、マリアはか弱いが美しく、人々の妬みや嗜虐心をそそった。

 生まれ変わったレオン=新東嶺風にとっては、大衆はコマだ。再びレオンは、権力者どもに都合の悪いことをする。だが、今世のレオン=新東嶺風は、あらゆる手段を弄して権力者に成り代わる。殺されるのは、今度は奴らの番にしてやる。レオン=新東嶺風は、過激派の初心に帰った。


 一部繰り返しになるが、レオンのフランセワ革命と世界革命の青写真はこうだ。

 今のフランセワ王国は、封建制から絶対王政に移行しつつある段階だ。王権とは、台頭しつつあるブルジョアを含む各階級の利害を調整する超権力といえる。近代社会に向かって中央集権制を目指す王権と、封建体制の支柱である領主貴族が対立し抗争するのは当然だ。

 王権に担保された国家権力の暴力を利用して上から圧力をかけ、組織した大衆の暴力によって下からも圧力を加える。上と下から領主貴族を圧し潰してやるのだ。


「革命が爆発するには、『下層』が以前のような仕方で生活することを欲しないというだけでは十分ではない。『上層』がこれまでのようにやっていけなくなるということが、また必要なのだ」(レーニン『共産主義における「左翼小児病」』)


 封建制が倒れれば、絶対王政を乗り越えて一気にブルジョア民主主義革命が進行するだろう。しかしブルジョアの革命性は不徹底だ。革命が一定の成果を上げた段階で大ブルジョアが革命を制動し、終了しようとする。その時に永続革命を発動する。ブルジョアから革命のバトンをもぎ取った労働者・農民が権力を握り、ブルジョア革命をプロレタリア社会主義革命に転化させる。

 しかし、一国だけの社会主義などあり得ない。フランセワ革命の勝利とともに、全世界に革命を輸出し、世界革命戦争に突入する。封建制さえ残る反革命国を圧倒する革命戦争の勝利は、全セレンティアをひとつの社会主義国とするだろう。その結果、生産力は無限に増大し、人間は自由となり、やがて国家は死滅し、共産主義に到達する。

 レオンは、こんなトロツキスト革命の青写真を描いている。当面は、ブルジョアや自由主義的な貴族と同盟して封建制の打倒から始めるしかない。封建制の最大の拠り所である領主貴族とそれを支える奴隷制の絶滅を追求する最左派として活動するのだ。


 レオンは、上部構造に食い込むために、そろそろ王宮内で復権したかった。ところが民衆人気はすごいのだが、領主貴族は当然としても、保守派の王宮貴族からも大変な嫌われようだ。『レオン・マルクス』と聞いただけで、保守派貴族どもが反発する。

 国王は、レオンを気に入っていることを隠さない。ジュスティーヌ王女とは、大変に夫婦仲が良い。若手王子たちも、領主貴族どもが大嫌いなのでレオンに同情的だ。しかし、王宮内での民衆派の勢力は、レオンとジュスティーヌを別格とすれば、ジルベールを筆頭とした少数の若手貴族と親衛隊所属の貴族しかいない。

 レオンは、親衛隊中隊長として捜査権と逮捕権を持っている。叩けばホコリが出るような貴族は、なかなか逆らうことができない。令嬢の傷跡治しで、一部の貴族に恩を売った。治水工事で、仕事ができるところを見せた。そんなことで、なんとか完全失脚を免れている。そうでなければレオンは、地方都市の総督にでも飛ばされたかもしれない。逆にジュスティーヌが、強硬にレオン追放を主張する貴族を何人か栄転に見せかけて外国や地方に飛ばした。

 宮廷内の権力闘争の内実は、見る者が見れば分かる。「ひどい男を夫にしたものだ」とは思われているものの、心身共に美しいジュスティーヌは、王宮の貴族たちから好かれ、敬愛されていた。今回も栄転のかたちで飛ばしたので、恨みを買ってはいない。しかし、いずれ報復されるかもしれない⋯⋯。

 王位継承順位六位程度の王族で、しかも女のジュスティーヌが権力闘争に首を突っ込んでもロクなことにならない。子供の頃から『ジュスティ』を可愛がっていた文部大臣の老人が、さり気なく忠言してくれた。損得勘定を抜いたおじいさまの親切心は分かっている。なのでジュスティーヌは、白い薔薇のように微笑んで応えた。

「ありがとうございます。温かくも厳しいお言葉は、胸に刺さるものです。ですがわたくしは、レオン・マルクスの妻なのです。妻が夫をたすけることに、何の不思議がありましょうか」

 言葉遣いはキレイだが、まるで聞く耳を持たない。『ジュスティ』は、こんなにも尽くすタイプだったのかと、文部大臣老はため息をついた。


 王家と王宮貴族は、いずれ領主貴族と内戦になるだろうとは理解している。その時にレオンが大いに役に立つとも考えている。

 戦争になれば若い貴族は、義務として出征させられる。親としても家としても国としても、大勢の貴族子弟が戦死したら困ってしまう。指揮官が無能では不必要な戦死者がでるだろう。長年平和だったフランセワ王国の高位貴族の中で、最も経験豊かで有能な戦闘指揮官は⋯⋯レオン・マルクス大佐しかいない。

 しかし保守派は、戦争の拡大を抑止し中途半端に内戦を集結させようとするだろう。戦闘で少し領主軍を痛い目にあわせたら、領主貴族とのボス交を始める。領主領から自治権をいくらか剥奪し、奴隷の待遇をちょっぴり良くする。そんな条件で妥協して戦争を終結させる⋯⋯。見え透いている。

 とんでもないことだ! レオンは、西方領主領を二度と立ち上がれないように徹底的に破壊し、領主貴族という階級を、その土台となっている奴隷制もろとも根こそぎ滅ぼすことを決意している。

 戦時には、軍などの実力組織の地位が飛躍的に向上する。軍は、兵士が支えている。軍の士官層も家格が低かったり、嫡男でない傍流貴族が多い。部隊内でいつも平民と接しているので、民衆派に理解がある。今は軍部に浸透し、戦争の準備をすることだ。戦勝の勢いで、保守派から奪権できる。戦争が始まれば、全てが一変するはずだ。


 レオンの失脚期間は二年近かった。完全失脚を免れるため、そのあいだ保守派と取引をした。保守派といっても代表者がいるわけではなく、一枚岩というわけでもない。レオンは、大嫌いな社交パーティーに現れ、大勢が聞き耳を立てている前で保守穏健派の大臣にへりくだり、「今までのやり過ぎを反省した。これからは貴族の名誉を尊重し、少しはおとなしくする」と明言した。ジュスティーヌの真似の猫かぶりだ。

『ジュスティ』のことを心配していた大臣や高官たちは、レオンが「改心」したことを喜んだ。領主領問題と奴隷制問題に、民衆派は口を出さない。すぐにでも奴隷解放戦争を始めるというレオンの主張は、引っ込める。

 民衆派の主要メンバーは、逆に暗い顔をした。内戦こそ、民衆派が前進するための手段であり悲願だ。王宮政治になれているジルベールが、「あんなもんは、空手形だよ。ハハハ!」とカムロたちをなだめた。


 政界に対する影響力の拡大ではなく、民衆派は王宮親衛隊第四中隊を中核として、軍や王都警備隊などに影響力を広げる方針をとった。目立たず静かに戦争の準備をしていれば、民衆派唯一の高官であるレオンの地位は、とりあえず安泰だ。

 レオンに忠誠な親衛隊第四中隊は、全員が士官で中隊長以上の指揮統制訓練を受けている。開戦したら、ただちに予備役兵を召集しそれぞれ二百人からなる中隊を編制する。親衛隊騎士百人が中隊長になって兵を指揮統率し、残りの五十人が連隊長や司令部要員となる。こうして親衛隊第四中隊は、王都守護を任務とする総勢二万人の第四親衛軍団に化ける。職業兵士からなる常備軍団に比べれば弱いだろうが、土地勘のある王都での市街戦でなら相当な戦闘力を発揮するはずだ。

 長年の平和で、この親衛軍団制度は形骸化していた。ところが第四中隊が母体となる第四親衛軍団は、ゆっくりと目立たないようにレオンが立て直していた。レオンは、王都に自分の戦闘部隊を持っている。保守派貴族は、自分たちの足元が揺らいでいることに気づいていない。



 治水工事が完成して数カ月後に、とうとう大雨が降った。土木作業の経験を積んだスラム住民を率いて現場に駆けつけたレオンは、雨の中で徹夜で待機した。

「我々の街は我々の手で守るのだ!」

 大雨の中でスコップを持ち、凄まじい音をたてて濁流がぶつかる堤防の上に立って川を見下ろしていたレオンの姿は、英雄を描いた絵のようだったと王都民の評判になった。数十年に一度の豪雨でもパシテ川は決壊しなかった。治水工事は成功した。もう洪水病が流行することはないだろう。

 

 レオンがおとなしくなって数カ月たった。軍司令部に顔を出して西方領主領地域での戦闘について作戦参謀と討論したり、王都民の困りごとの解決に駆け回ったりと失脚しても大忙しだ。

 戦争を待ちわびながらレオンは、親衛軍団の組織固めや民衆の組織化も進めていた。河川の氾濫を防ぐという名目でスラム住民を組織化したのと同様に、防火のためという名目で平民街の自治組織を公的に認めさせ、若干の予算もつけさせた。

 国王から平民まで火事が減ったと喜んでいる。だが、レオンの真の目的は、消防団などの自治組織を利用して人々を戦争と革命に動員することだ。

 セレンティアでは、十五歳が成人だ。カムロにも成人する者がでてきた。意外⋯でもないのだが、商家に勤めていたカムロに番頭として支店を任せたいとか、なかには婿養子にとりたいなんて話しが何件もきた。

 セレンティアなら大学講師くらいにはなれるレベルの知識を教えられ、王宮の王家担当侍女に貴族の礼儀作法を仕込まれて挙措端正。後見人のレオンを通じて王宮どころか王女や国王にまで繋がりがある。それは手放したくないだろう。

 もともと素質のある者を厳選してリクルートしている。浮浪児がカムロに加わると、知識、知性、教養、自己肯定感、連帯感などが身につき、さらに衣食住の状態がよくなる。栄養不良で小柄だった容姿が急速に成長して、見違えるようにきれいになった。そのうえ王宮親衛隊の有志が鍛えてくれるので、体つきが違う。レオンに吹き込まれた思想によって、正義の確信と使命感を持っているので、顔つきや目の輝きも違ってくる。浮浪児を集めて街のネタ集めをするつもりが、どうも美少年と美少女の集団になってきた。

 成人後のカムロの進路は、適性を見て要請はしても強要はしない。当たり前だが本人の希望を優先する。カムロは秘密組織であり、孤児たちの疑似家族でもある。外に出る者は、『草』として街に入っていった。


 保守派貴族どもを懐柔するために、レオンは我慢強く偽善を発揮した。フランセワ王国の王家と民衆のため、高潔にも無私で働いているように見せかけるのだ。そう見えれば保守派貴族は、簡単にはレオンを失脚させられなくなる。腹の虫を押さえて貴族に奉仕するような屈辱的な真似をしているのは、保身のためだ。さらに奴らを懐柔するために、貴族どもが喜ぶ特大の『プレゼント』を贈ってやった。

 先触れもなく王宮官房にレオンが現れ、国王との面会願書を提出した。普通なら使いの者が持ってくるものだ。こんなところは、以前と少しも変わらない。願書の用件は、こんなものだった。

『貴族女性の流産と死産を含む不妊症と『衰弱病』『踊り病』の原因と予防についての提言』

 例の『家庭の医学』のおかげでレオンは、医学者や慈善家として全セレンティア世界に名声がとどいていた。

 世界中の医学者が内容を改め、間違いがないどころか新たな医学的知見に満ち満ちた宝のような本であると太鼓判を押した。「あの世で女神から教えられた」などと神がかったことが書いてあるが、『家庭の医学』に書いてある治療をすれば治るのだ。信じないわけにはいかない。

 この知識を自分だけで抱え込んでいれば、どんな栄達も思いのままだろう。ところがあろうことかレオンは、私財を投じて印刷し全世界に配って自由に活用してくれという。これでどれだけの人を病気から救われたか分からない。まるで女神か聖女の再来だ。⋯⋯まあ、実際に、女神と聖女の再来なのだが。

 世界中の人たちが、レオンを無欲な慈悲の聖者みたいな人だと勘違いしている。もちろんそんな人間がいるワケがない。まぁ、前世の聖女マリアが近いだろうが⋯⋯。レオンは、「女神の加護を受けた天才」ということになった。この虚名のおかげで、保守派はレオンを攻撃しづらくなった。聖女マリアを殺した人類は、ファルールの地獄で大罰を食らったばかりだ。

 レオンは、王家の婿であり継承権は無いとはいえ王族だ。フランセワ王国の数少ない実戦指揮官であり、卓越した軍事理論で若手将校と士官候補生を指導している。剣術、医学、数学、哲学でも世界的な権威だ。保守派貴族にすら天才的な男だと認められている。天才だから性格が破綻し狂人と紙一重なのだろうと、王宮の大臣からメイドまでが納得していた。

 この才気があれば、どこの国でもレオンを受け入れるだろう。あまりいじめて敵対国であるブロイン帝国にでも亡命されたら、大変なことになる。


『貴族女性の不妊と衰弱病 ~云々~』が、国王との面会の用件だった。

 フランセワ王国では、貴族女性の短命と不妊が社会問題となっている。あのレオン・マルクス伯が、それをどうにかしてくれるらしい。奥方や令嬢の命に関わることだ。レオン嫌いの保守派貴族でも、握りつぶすわけにはいかない。

 翌日にはレオンは、謁見の間に呼び出された。百人以上の貴族が待ち受けていた。いつもの顔ぶれに加えて、学者貴族の姿がちらほら見えた。

 時間通りレオンが四人の美少年と美少女を連れて入場してきた。四人とも貴族好みの美形ぞろいだ。従者は、それぞれ布をかぶせた籠を抱えている。レオンは、王族の末席なので跪礼はしなくてよい。従者は主人の一部なので跪礼は不要という説と、国王の臣下なのだから跪礼せよという二説ある。籠を下ろしたり上げたりの時間が惜しく面倒くさいので、レオンは従者に跪礼させない。従者たちは、レオンの後ろに下がって国王を直接見ないよう視線を落とした。

「レオン・アルフォンス・ランソワ・ド・マルクス伯爵、まかり越しました」

 普段よりずっと身綺麗にしているが、国王の前に立つにしてはかなり質素な身なりだ。もちろんこれは、民衆派のアピールだ。

 国王は、レオンと会うと機嫌が良くなる。若いころは、よく王宮を抜け出した。今はすまして並んでいる大臣や高官とつるんで遊び、ヤクザとケンカして刺されたり、屋台を製作して焼き肉を売ってみたり、町娘をナンパして結構モテたりと、馬鹿なことをした。レオンと話すと、そんな青春時代を思い出して愉しくなるのだ。

 王様だけでなくジュスティーヌやジュリエットもそうだ。フランセワ王家の王族たちとレオンは、妙にウマが合った。大変な優等生なのに、羽目を外したいという願望を心の底に隠した人たちだからだろう。


 もともとフランセワ王朝を開いた初代は、地方軍の司令官だった。王に諫言したために僻地にとばされ反乱軍と戦っていると、王都で内ゲバのような争乱が起こり前王朝が自壊してしまった。

 やむなく王都パシテに戻って、どうにか秩序を回復。王家の生き残りを探したが、百人以上いたのに子供二人しか生き残っていなかった。親兄弟親戚の骨肉の血みどろ殺し合いを目のあたりにした二人は、柱にしがみつき泣きわめいて王座につくことを拒否。国内でまともに機能している組織は、初代が率いる軍だけだったのでフランセワ家に王座が転がり込んできた。

 王座に戻ることを拒否した前王朝のガペー家は、王都近くに小さな領を与えられ、代々フランセワ王家に厚く保護されている。女神生誕日や建国記念日などの重要式典の際に、ガペー前王家は儀典担当として式典を司り、王宮に招かれる。


「うむ、レオン。戦争をしたいとか言っておったが、頭が冷えたようだな。喜ばしいぞ。今日は、有意義な提言を期待しておる。普段は顔を見ない学者が、大勢きておる。ハハハ!」

 レオンのアタマは少しも冷えておらず、戦争したくてウズウズしている。だが、ここは国王の言う通りに振る舞わないと失脚してしまう。

「大変未熟な姿を陛下にお見せしてしまい、まことに汗顔の至りです。⋯⋯今日は、貴族女性に早世する方が多く、また不妊が多い現象に関してその原因を明らかにし、その対策を述べさせていただきたいと存じます」


 ザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワ!


 国王を前にして貴族が私語してざわめくなど、普通なら有り得ない。だが、レオンのことを大嫌いな保守派貴族でさえ、レオンの能力は認めていた。こいつなら、妻や娘が原因不明の衰弱病や踊り病で死ぬのを防いでくれるかもしれない。

 貴族女性の早死の多さと不妊は、フランセワ貴族界の大問題になっている。正室どころか側室にも子ができず、運良く産まれても虚弱ですぐに死んでしまう。やむ得ず分家から養子をとったり、外の女に産ませた子供に家を継がせることも多い。レオンの弟分の傷のジルベールなども、そのたぐいだ。

 さっそくレオンが話し始める。

「資料として『貴族年鑑』『貴族名簿』を使用しました。平民に関しましては、王都二十三街区と三十街区神殿の『信者名簿』と『過去帳』を参照しました」

 王宮保安部に保管されている『貴族名簿』は、許可がないと閲覧できない。レオンは、王族特権を思う存分使わせてもらっている。

「『ファルールの地獄』の惨禍が落ち着いて以降、この約二十年間の貴族男性の平均寿命は六十四歳になります。一方、平民男性の平均寿命は五十八歳です。貴族男性の寿命が平民より六歳も長いのは、栄養状態や衛生環境によるものと予想されます」

 淡々と話しているように装っているが、レオンは腹を立てていた。「寄生虫貴族同士で共喰いさせて、お前らの寿命を三十年は短くしてやる。その時まで待ってろよ!」。

「ところが貴族女性の平均寿命は、五十四歳です。それに対して平民女性の平均寿命は、六十四歳。貴族男性は平民男性より六歳長命なのに、貴族女性は平民女性より十歳も短命です」

 レオンの講義は、分かりやすいのが特長だ。具体例を挙げて噛んで含めるように説明する。

「偶然にこのような現象が起きる確率を計算しました。カイ二乗検定による解析によると、確率は0.00003パーセント以下でした。簡単に申しますと、貴族女性のこのような短命が偶然である可能性は、一千万は分の三以下にすぎません。統計学的に有意であり、偶然ではあり得ないと断定できます」


 貴族男(六十四) =平民女(六十四) > 平民男 (五十八) > 貴族女(五十四)


 レオンは大きな紙に、こんなことを書いて国王をはじめ居並ぶ貴族たちに見せた。

「早世する貴族女性の主な死因は、二つです。身体に力が入らなくなりベッドから全く起きられなくなる『衰弱病』。錯乱状態となり起き上がろうとして何度も転倒を繰り返す『踊り病』です。衰弱病は、腸の激痛をともない意識が混濁し発症後数カ月から数年以内に死亡。踊り病は、起きあがる体力を失った後も錯乱状態となり、やはり発症後数カ月から数年以内に死亡します」

「おおっ!」

 貴族たちが、どよめいた。ついこの前まで紙さえ一般的でなかったこの世界では、症状の実態を知る手段は主治医から聞くくらいだ。医者の間ですら症状の知見は、口頭での情報交換くらいで文書で共有化されていない。現実にこの場所にいる貴族のほぼ全員が、女の身内を『衰弱病』か『踊り病』で亡くしている。おそろしい死に方だった⋯⋯。

 レオンは、貴族たちが一番知りたいことを淡々と述べていく。

「また、平民女性の生涯出産数は四・二人ですが、貴族女性の生涯出産数は一・三人です。子供の十歳までの生存率は、平民は八割程度ですが、貴族の場合は四割以下です」


 ザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワ!


 貴族たちが動揺する。貴族に子供ができにくいとは知っていたが、ここほどまでとは! 記録と統計を使って具体的な数字で事実を突きつけられると、やはり衝撃だ。

 大貴族でも、最近は分家から養子をとることさえ難しくなっていた。分家にも子供が産まれないのだ。

 しかし、下賤な平民女を抱いて名誉ある家門に下等な血を入れるなど⋯⋯。


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 貴族に目をつけられた平民の娘が、だまされて、まるで汚いものでも触るような態度で犯され、子供を産まされた。産んだらすぐに赤子から引き離され、母親は涙金を渡されて貴族屋敷から追い出される。

 この事実は、レオンがつくったガリ版マスコミで報道され、貴族の継嗣を産むための機械にされた女たちに王都民の同情が集まっていた。

 レオンが謁見する十日ほど前に、赤子を抱いて裸足で貴族屋敷から逃げた産婦がいた。

 出産したばかりで足元もおぼつかない。とうとう力つきて初冬の路上にへたり込んでしまった。半死半生の体の母子を近所の民衆が取り囲み、どうしようと相談しはじめた。フランセワの民衆には、赤子を抱えて泣いている女に『自己責任』がどうとかいう腐った人間はいない。

 やがて貴族家のお抱え騎士団が十人も追ってきた。びっくりした民衆が道を開くと、騎士団は産婦を取り囲んだ。「産んだら用はない」「コジキ女がカネが欲しいのか?」「子供を渡せばめぐんでやる」「死にたいのか? 下民」などと罵りながら赤子を奪おうとする。

 髪を引っ張られ剣先で小突かれても、母親は子供に覆いかぶさって守ろうとした。亀のようになって動かない母子に業を煮やしたお抱え騎士は、とうとう母親の顔を思い切り蹴り上げた。数メートルも吹っ飛ばされた母親は、壁に激突し崩れ落ち、口から血を流して動かなくなってしまった。死んだかもしれない!!

 この一部始終を見ていた民衆が、カンカンに怒った。石を投げつけ棍棒で武装して罵声を浴びせる。騎士団も剣を抜く。とうとう暴動寸前の小競り合いになった。

 レオンにとって、怒れる人民が武器を握って立ち上がるのは、とても良いことだ。だが、まだ早すぎる。民衆が一方的に殺されるだけだ。

 本格的に血を見る前に、抜刀したレオンを先頭に五人の親衛隊第四中隊が駆けつけて割って入った。お抱え騎士団に剣を突きつけ、赤ん坊を奪還する。

「子供を置いて失せろ。さもないと殺す」

 石ころや棒きれを握った民衆は、もう拍手喝采だ。

 騎士団は追っ払ったが、赤ん坊を取り返されたらいけない。病院では、懲りずに乗り込んでくるかもしれない。仕方ないので母子を戸板に寝かせ、親衛隊宿舎に担ぎ込んだ。気絶していた母親は、顔半分が腫れあがっているが、まだ若く美しい娘だ。騙されて誘い込まれた奉公先の貴族屋敷で、手込めにされ、妊娠すると半年以上も閉じ込められて『子産み機械』にされた。生きてはいたが、ひどく衰弱してそのまま寝込んでしまった。

 第四中隊には、人を殺したことのあるやつなんていくらもいる。ところが百五十人もいるのに、子育てに縁のある者は一人もいなかった。

 親衛隊は、新生児を持てあました。昼夜分かたず赤ん坊がヒーヒー泣く。しかし、ナニをすればよいか分からない。夜中に弱々しく泣かれると、このまま死ぬんじゃないかと不安になる。隊員が何人も不眠になった。

 本当に死なれでもしたら、レオンが殺したんだと保守派は宣伝するだろう。カムロが保母を見つけてくるまで男所帯の親衛隊が、赤ん坊のオムツを換えたり山羊乳を飲ませようとしたりの右往左往で、斬り合いよりもよほどくたびれた。


 この事件でレオンは、民衆に大喝采された。我が子を死守した若い母親も回復し、身の安全を確保できた。赤ちゃん事件は、レオン御用マスコミの格好のネタになり、王都はおろかフランセワ王国中に知られることになった。

 貴族から見ればこんなゴタゴタを起こすので、レオンはますます保守派に憎まれることになった。「この成り上がり者が現れるまでは、下民どもは従順だった!」。

 ふざけるなっ!!! レオンは、醜悪な封建制と身分制を粉微塵にぶち壊してやるつもりだ。

 レオンは、保守派貴族に憎悪されるようなことを定期的にしでかす。高位貴族で唯一の民衆派なのだから、これはもうどうしょうもない。

 いくら病気治しをしたところで、人の階級意識や差別意識、社会悪は、どうにもならない。矛盾を無限に生み出す社会の構造を変えることはできないのだから、当たり前だ。おめぐみ奉仕は無意味なのだ。そのことは聖女だった時に、たんまりと味わった。

 今回のレオンの謁見は、人気取りにすぎない。もともと貴族という階級を絶滅させるつもりなのだから、レオンにとって貴族女が早死したり子供が産まれないことは、むしろ望ましい。やつらは敵なんだから、勝手に滅んでくれたらありがたいくらいだ。ははっ!

 保守派から見ればレオンは、最も高貴な女性をたらし込んで堕落させ、未熟で分別のない貴族子弟に愚劣な空論を吹き込み、下民を甘やかして増長させる⋯。階級秩序の破壊者だ。

 お互い不倶戴天の敵といってよかろう。民衆派と保守派が殺し合いにならないのは、国王による仲介と調停。それに領主貴族という共通の敵がいるからだ。


「階級社会では、だれでも一定の階級的地位において生活しており、どんな思想でも階級の烙印のおされていないものはない」(毛沢東『実践論』)


 赤ちゃん事件の件で、ゴロツキ貴族どもが親衛隊の王宮詰所に抗議にきた。例によって、貴族の名誉がどうとかこうとか実に鬱陶しい。

 レオンが「母親から赤ん坊を奪ったのがいけないんだろ」と言ってやったら、「下民に貴族の子を産む名誉を与えてやった」とかぬかしやがる。居合わせた貴族が遠巻きにしている中で、怒鳴り合いの喧嘩騒ぎになってしまった。

「てめえ、あの娘を強姦したなっ。地下牢にブチ込んでやるっ!」

「田舎者の暴力団がなにを言うかっ。ワシの騎士の耳を返せっ!」

 そう言われれば、ちょっと反抗的なやつがいたっけ⋯⋯。剣の一閃で耳を切り落とし、ビビらせてやった。

「はっ! あの小汚い耳か。はははは! 道ばたに転がってるだろ。自分で拾ってこい!」

 こんなんでもレオンの気性は、丸くなっている⋯。失脚前なら、お抱え騎士団が若い母親の顔を蹴った時点で飛び込んで斬りまくり、皆殺しにしていた。民衆の前で山になった死体を踏んづけて「誘拐犯どもを完全せん滅したぞー!」とか言い、血まみれの剣を頭上に掲げて振り回したりしただろう。挙げ句に「ゴミ捨て場に運ぶぞ!」と、貴族屋敷の門前に死体を運んで放り出すまでしたかもしれない。

 ⋯⋯今は貴族家のお抱え騎士の耳を切り落とし、民衆の前で踏みにじってみせるといった程度だ。それでも保守派貴族を、ひどく刺激した。

 保守派の憎悪が臨界点を越えると、国王もかばいきれなくなる。レオンは完全失脚だ。おそらく地方にでも飛ばされる。レオンを飛ばせという貴族に、ジュスティーヌがやった手口だ。レオン以外の民衆派も干し上げられるだろう。

 完全失脚したら、影響力が残っているうちに武装蜂起するか地方でゲリラ闘争をするしかない。しかし、苦しまぎれの蜂起をしても、混乱の末に王宮貴族と領主貴族が手を結ぶだろう。搾取することで生きている貴族どもの真の敵は、戦う民衆だからだ。石コロや棒きれの未熟な武装闘争は、いずれ敗北する。レオンの失脚は、民衆派の壊滅と同義だ。民衆派は、まだ若く弱い。

 それを避けるには、憎悪された以上の功績をあげ、点数を稼いで完全失脚を防ぐしかない。保守派貴族どもに「いなくては困る役に立つやつ」と思わせるのだ。治水事業はともかく、貴族令嬢の傷跡消しなんていう愚劣なことも敢えてやった。

 ところがぁー、今回の赤ちゃん事件で、またぞろ保守派は、レオン排除に動きそうな気配だ。だまして誘い込んで強姦し、監禁した末に産ませた子供でもいいから跡継ぎがほしいらしい。レオン率いる民衆派に、こんな悪行を邪魔されたら迷惑といったところだ。

 今は、王宮内での権力闘争で勝ち目は無い。どうにか保守派どもの機嫌を取って空気を抜かなければならない。屈辱的だが⋯⋯。

 レオンは、自分を過少評価しているようだ。保守派貴族は、『保守』ゆえに騒動を好まない。迫りくる危機から目をそらし、豊かで平穏な日常を続けたい。

 あまりレオンを追いつめると、あの気性だ。なにをするか分からない。実際にレオンは、最後の手段として王都でのゼネストと武装蜂起すら検討している。

 レオンにとって、暴力こそが手にしている権力の最大の基盤だ。武装解除されると判断したら、第四中隊を先頭に、若手貴族や軍の一部と民衆まで巻き込んで反乱を起こしかねない。あの男は、やるとなったら徹底的にやる。そうなったら、貴族邸宅は焼け落ち、王宮から地方に落ちて巻き返しを計るしかない。いったいどれだけの貴族が死ぬだろうか。それだけは避けなければ⋯⋯。


 ──────────────────


 レオンの前世は、病気治しの聖女だった。その前は医療神だ。どうやら、その意識が残っているらしい。無意味と分かっていても、病気を見つけると、どうしても治したくなってしまう。

⋯⋯病気? 治したい⋯⋯ウズウズウズウズ⋯⋯


 ザワザワザワザワザワ⋯⋯⋯⋯


 謁見の間でレオンが示した貴族女性の短命と不妊の現実。怖ろしい病状に、恐怖してざわめく貴族たち。

 貴族の女は、下民女より十年も寿命が短いだと? 貴族の子供は育たないだと? 静まるのを待って、再びレオンが語り始める。

「貴族女性だけが極端に寿命が短い現象には、必ず理由があるはずです。私は『貴族』『女性』が日常的に使用する何かに、身体を害する物質が含まれていると推論しました」

 実際に調べるまでもなく、衰弱病と踊り病の症状にレオンは覚えがあった。


 ザワザワザワザワザワ⋯⋯⋯⋯


 妻や娘が、毎日のように毒を浴びているだと? そのために子が産まれず、いずれ衰弱して狂死する?

 ここで話しを聞くことを止める父や夫は、いないだろう。

「衰弱病と踊り病に関しては、現在論文を執筆中です。しかし、事態は急を要すると判断し、公開の場で報告させていただくよう国王陛下にお願いいたしました。原因究明にあたっては、貴族女性の協力が不可欠です。パスティーユ・トゥール・ド・ラ・ガペー前王家息女殿下、ジュスティーヌ・ド・フランセワ=マルクス王女殿下のお二人を筆頭に、三十名もの王宮侍女の力添えがあったことを、御礼とともにご報告します」


 フランセワ王家は、前王朝のガペー家に礼を尽くすという建前なので、フランセワ家よりガペー家を先にしなければならない。それにジュスティーヌは直系の王族なので、公的な場ではたとえ夫でも『殿下』をつけて敬語で話さなければならない。⋯⋯面倒くさい。

 ガペー前王家のパスティーユ息女は、儀式があるたびに王宮に招かれる。ジュスティーヌと年が近く、子供のころからの顔見知りだ。レオンは、ジュスティーヌと一緒に猫なで声で居候部屋に招いて、箔付けの筆頭協力者として名前を貸してくれるよう頼んだ。

 前回の『家庭の医学』で名前を借りたアリーヌが、どういうわけか大人気になった。王宮侍女仕事の合間に、旦那様が執筆している難解な医学書を筆記する才女。まるで白薔薇に寄りそう白百合。たおやかだが賢く芯の強い名門スタール伯爵家令嬢アリーヌ侍女。⋯⋯⋯⋯実物と全然違うやんけ。

 世間の人たちが美化して、ちょっとしたアリーヌ・ブームだ。公爵家あたりからも結婚の申し込みが五十件くらいきて、アリーヌは断るのに迷惑している。

 パスティーユ息女は、アリーヌ人気にちょっとジェラってしまったらしい。「アリーヌという方は、それほど美しいのでしょうか?」なーんて言ってた。目の前で茶をいれとるよ。

 二匹目のドジョウを狙ったのか、二つ返事で名前を貸してくれた。ガペー前王家の家訓は、「政治に関わるな」だ。パスティーユ息女は、レオンの衰弱病研究が民衆派と保守派の政争の具にされるとは、夢にも思っていない。


 貴族のしきたりは、面倒くさい。名前を並べるのにも、複雑怪奇な序列があった。爵位だけなら、まだ分かりやすかった。家格だとか。どっちが古い家柄だとか。五百年前に本家がどっちだったとか。もらった勲章の数だとか。対立しているA侯爵家とB侯爵家で、A侯爵家を先にすると王家がA侯爵家を支持していると見られるだとか⋯⋯。知らんがな。

 嫌気がさしたレオンは、アリーヌに投げた。イノシシを斬ったりしなければ、アリーヌは有能で、まぁ優しい。こういう仕事は真面目にやってくれる。徹夜で仕上げて目にクマをつくり、フラフラと仕事部屋から出て行った。王家担当侍女を休むわけにはいかない。

 王宮侍女の協力とかいったって、こんな感じだ。

「おーい、スカラベ。おまえ、いつもなに食ってんだ?」

 スカラベ王宮侍女は、かなりムッとした。

「スカリナですっ。⋯出されたものを食べていますわ」

 ぷいっ!

「身長体重スリーサイズを教えろ」

 ムッ⋯

「失礼ですわね。知りませんっ」

 つーん!

「しょうがねえなぁ。おぅ、使ってる化粧品を貸せや」

「いっ、嫌ですわ!」

「なんでぇ。スカラベは、どケチだな」

「どけち⋯。くっ⋯⋯差し上げますわ。返して下さらなくて、けっこうですっ。それとわたくしの家名は、スカリナですっ!」

 ぷんぷん! ぷんぷん!


「論文にも掲載いたしますが、この場でも協力してくださった令嬢方の名前をあげさせていただきます。

パスティーユ・ド・ラ・ガペー前王家息女

ジュスティーヌ・ド・フランセワ第三王女

ラビュタン公爵家オセアンヌ王宮侍女

ヴィクトール公爵家リアリス王宮侍女

シャトーリアン公爵家マイリス王宮侍女

スカラベ⋯失礼⋯スカリナ侯爵家リア王宮侍女

スカニア侯爵家アイシャ王宮侍女

メーストル侯爵家ステイラ王宮侍女

ダンテス侯爵家レオリー王宮侍女

ポリニャック侯爵家アリ-ス王宮侍女

オスマン伯爵家カプシーヌ王宮侍女

アベル伯爵家ソフィア王宮侍女

ロルジュ伯爵家イヴォンヌ王宮侍女

ヴァンディエール伯爵家ルイーズ王宮侍女

ラルミナ伯爵家ヴィオレット王宮侍女

ロメニール伯爵家ジュスティンヌ王宮侍女

コリニー伯爵家ブロンシュ王宮侍女

ヴァリエール伯爵家ディアンヌ王宮侍女

マール伯爵家ヴァロティンヌ王宮侍女

ラジヴィ伯爵家オリヴィア王宮侍女

ポワソン伯爵家マルグリット王宮侍女

カジミール伯爵家リーリラ王宮侍女

レイエール伯爵家ミエス王宮侍女

ロベール伯爵家ポレット王宮侍女

ドルブリューズ伯爵家レーナ王宮侍女

ラサール伯爵家シャリア王宮侍女

グランジェ伯爵家イーネス王宮侍女

エレオノール伯爵家マイリス王宮侍女

リュゼ伯爵家ジャンヌ王宮侍女

ダルキア伯爵家マドレー王宮侍女

コンドルセ伯爵家エイネス王宮侍女

スタール伯爵家アリーヌ王宮侍女

 ⋯ぜーっ、ぜーっ、ぜーっ⋯⋯」


 最後にアリーヌが、実家のスタール伯爵家をコッソリまぎれこませたのがご愛嬌だ。徹夜で頑張ってくれたのだから、このくらいは当然だろう。

 ゴチャゴチャとややこしい名前を三十人も列挙したら、もう疲れてしまった。ここでだれかの爵位なんかを間違えたら、後で面倒なことになる。「スカラベ侯爵家」は、危なかった⋯。

 アリーヌに限らず貴族は見栄っ張りだ。家名も加えたのがこたえた。口頭だけならまだしも、論文にも載ってずっと残る。

「錚々たる名家の令嬢の名が連なっているのに、我が家門の娘の名がないではないか! レオン・マルクスに関わらないように言い聞かせたのが仇になった。やつが出した医学書は、世界中で絶賛されているという。侍医までほめちぎっておった! 忌々しいがこれから発表する論文とやらも、世界中で知られるようになるだろう。コンドルセ家やロベール家ごときが載っているのに、あの程度の家門に負けたなどと⋯。末代までの笑いものだ。祖霊に顔向けができぬ。うぬぬぬぬぬぬ⋯⋯。おのれコンドルセ。おのれロベール。どんな手を使いおった? やむを得ん。やつに頭を下げて、どうにか⋯」

 レオンは、懐柔できそうな高位の保守派貴族をテキトーに選んで並べただけだ。

 当主がレオンを訪ねると、「これはいけない。失念しておりました」とか言いながら、なにを要求するでもなく機嫌よく家名と令嬢の名を加えてくれる。そしてニコニコとこんなことを言ってくる。

「お互い誤解があったようですが、これからは誤解が生じないように心がけましょう」

「お互い誤解がないように~」とか下手に出るレオンを、頼みにきた側の保守派貴族がはねつける理由はない。その後も足を引っ張ってきたとしても、今までと同じというだけだ。令嬢の名前を書き加えただけのレオンには、なんの損もない。

 レオンの予想以上に、これは効いた。

「恩知らず」を、人は本能的に嫌う。そしてなにか世話になったら、「借りを返さねば」という思念が頭にこびりつく。

 貴族が平民に恥知らずで非道なことをするのは、平民を人間とも思っていないからだ。だが、レオンは高位貴族だ。ゴリゴリの保守派貴族が、レオン攻撃に関しては急に口が重くなることが多くなった。


「協力いただいた三十名の王宮侍女の方々には、病気の兆候は全く見られませんでした。この病は、二十代で発症する令嬢もおり、五十代になるとベッドから起きあがれなくなることも多い。王宮侍女は、健康な女性をよりすぐって集めたとはいえ、これも不思議です。衰弱病と踊り病の原因を特定するヒントになりました」

 大問題になっている衰弱病と踊り病について発表するというので、王都周辺の謁見の間に入れる貴族医者は全てこの場に集まっていた。「衰弱病と踊り病の原因を発見したのか!」。


 ザワザワザワザワザワ⋯⋯⋯⋯


「原因は、これです」

 レオンは、小瓶を二つ手に乗せて国王に見えるようにさし上げた。貴族たちの視線が集中する。

 受け取った秘書官が盆に乗せて、国王の前に小瓶を持っていく。『毒』のようなので、国王のすぐそばには置かない。後でだが、謁見の間に毒物を持ち込んだと、ちょっと問題になった。バカバカしいったらない。

 国王は、気味悪そうに小瓶を眺め回している。

「マルクス伯爵、これはなにか?」

「二つとも化粧品、おしろいです」

 貴族女がパーティーのたびに使う物だ。王妃や側妃、五人の王女を持つ国王なら、見たことくらいあるだろう。

「なにか問題があるのか?」

「はい。こちらには鉛が、こちらのおしろいには水銀が含まれています。⋯⋯両方とも猛毒です」


 ザワザワザワザワザワ⋯⋯⋯⋯


「鉛が猛毒? 食器や水道管にも使われておるぞ」

「すぐに症状が現れる毒ではありません。そこが恐ろしいのです。一旦体内に取り込まれた鉛は、排出されません。長年かけて蓄積され、一定量を超えると衰弱病を発症します。主な症状は、手足のしびれ、けいれん、激痛、そして死です」

 国王が身を乗り出した。

「鉛の酒器でブドウ酒を飲むことがあるが?」

「鉛毒の作用で味がまろやかに感じられるのです。鉛は、不妊や不能の原因ともなります。発癌性もございます。すぐに使用をおやめ下さい」

 そんな毒を毎日飲んでいたのか? 良くできた鉛の酒器は、銀器よりも高価で取引されることがある⋯。


 ザワザワザワザワザワ⋯⋯⋯⋯


「水銀⋯とやらは?」

「鉛より毒性が強く、経口だけでなく蒸気にもなって体内に取り込まれます。体内で蓄積されると、主に脳と神経を破壊します。発症すると激しい痙攣などの運動障害や、知能低下、妄想などの精神症状を起こし、やがて死亡します」

 国王と貴族たちは驚いた。そんな猛毒を女たちは身体に塗りつけているのか!

 王宮侍女たちは、仕事を持っているので社交舞踏会にはそれほど出られない。だから化粧が少なく、『衰弱病』『踊り病』を発症しないのだ。

「さらに怖ろしいのは、胎児性水俣病⋯⋯⋯いや、失礼しました。⋯水銀は、妊娠中の胎盤やへその緒を通り、胎児にまで到達します。大人は発症しない少量でも、水銀は胎児に重大な影響を与えます。子宮内で脳と神経を破壊するのです」

 貴族医者が声をあげた。国王の直問中に口を挟むなど、普通は考えられない。夢中になってしまったのだ。専門家の意見の表明として国王も特に咎めない。

「お待ち下さい! 毒物は胎盤で浄化され、胎児には届かないはずです」

 レオンが速答する。

「通常の毒物ならば、その通りです。しかし水銀は、胎児の脳にまで到達します」

 この貴族医者は、数歩後ずさった。思い出したのだ。死産に終わった多くの貴族の赤子たちの姿を。そして、産まれると同時に消されていった嬰児たちの姿を⋯⋯。

「そうか⋯そうだったのか⋯⋯。あれは、踊り病だったのか⋯⋯」


 新東嶺風も見た。

 県立の進学校で剣道に励んでいた嶺風は、社会勉強のつもりで水俣病の抗議運動に顔を出した。そこで生まれながらに健康を破壊された胎児性水俣病患者を見た。原因企業のチッソに抗議に行った漁民と機動隊が乱闘になり、百人以上の負傷者を出したことを知った。別の工場に向かった二十人の交渉団を二百人のチッソ社員が襲いかかり、同行したアメリカ人カメラマンを失明させる程の暴力を振るったことを知った。工場排水の毒性が明らかになった後ですらチッソの下請けの水俣市民が、「工場を止めるな」と陳情したことも知った。そのくせ『市民』らは水俣湾の毒魚を買うことを止めた。貧窮した漁民は自分の捕った魚を食べ、水俣病を発症して死んでいった⋯⋯。彼らには、嘲笑、罵倒、中傷、差別、そして無関心が投げつけられていた。水俣病の死者は二千人近い。

 踏みにじる側にいながら、ご都合の良い民主主義を空念仏にして多数者の暴力を振るう。そのくせ善人面をした連中に腹が立った。そこから抜け出したかった。嶺風は、受験勉強も剣道も止めてしまった。そして一番権力と戦っている団体を探した。『三里塚を闘う高校生共闘』に加わり、鉄パイプと火炎ビンを握った。


 レオンが合図すると、美形カムロが二人前に出て籠を覆っていた布を外した。中で四匹ばかり駆け回っている。

 チュー

 チュウチュウ

 チュチュー

「ネズミです。王宮の地下室で捕獲しましたので、陛下の財産です」

 国王は苦笑いしている。謁見の間にネズミを持ち込んで、国王に差し出すなど前代未聞だろう。

「で、このネズミがどうかしたのかね?」

「はい。私の言葉だけでは、信じがたいと思います。この籠のネズミには普通のエサを、もう一方には化粧品を加えたエサを与えて下さい。一カ月ほどで結果が出るはずです」

 対照実験だ。ひとつの条件を変え、他の条件を同じにして行う。実験結果から、変えた条件によってどのような効果が生じたのかがわかる。中学理科レベルだが、セレンティアにはこの程度の知識もない。

 国王は聡い。すぐに筆頭侍医を呼んだ。

「なるほど⋯。シャーイ子爵。そのように実験せよ。結果は、王宮保安部に文書で毎日報告するように」

 国王の侍医が、うやうやしげにネズミ籠を奥に運んでいく。その間にレオンが述べる。

「結果がでるまで一カ月程度かかります。こちらの籠のネズミは、一カ月前から実験を行っていたものです。ご覧になりますか?」

 もちろん国王は見てみたい。

「おぉ⋯。見せよ」

 レオンが三個目の籠の布を外した。四匹のネズミが籠の中を駆け回っている。

 チュー

 チュウチュウ

 チューチュー

「こちらが通常のエサを与えていたネズミです。至って元気で、元気が余って一匹は妊娠しました」

 続いてもう一つの籠の布をあけた。ネズミは一匹しかおらず、不自然に転んだり起き上がろうとしたりして転がり回っている。国王はすぐに悟った。

「他の三匹は、もう死んだのだな?」

 貴族医者たちが、このネズミ籠の周りに寄ってきた。

「これはまさに⋯」

「踊り病ですな⋯なんと」

「ううむ、間違いありません」

「踊り病を人工的に発症させるとは⋯」


『猫四百号実験』だ。チッソ付属病院院長は、水俣病の原因を解明するため、千匹以上の猫に様々な実験を行った。そして『猫四百号』と名付けた実験体に、水俣病を発症させることに成功した。それは親会社のチッソの工場廃水を餌に加えていた猫だった。院長は、水俣病の原因物質がチッソの工場廃水であることを会社に報告するが、発表を禁じられ辞職。実験結果は、十一年間隠蔽された。『猫四百号実験』が明らかになったのは、院長が死の床についた病院で行われた水俣病裁判の臨床尋問だった⋯⋯。水俣病による死者数は、判明しているだけで千八百人を超える。


 国王は、肝心なことをたずねた。

「治療法は、あるのか?」

 レオンは、少しでも自分を大きく見せなければならない。「治す方法は、ありません~」では、お話しにならない。

「鉛鉱山で働く者は、被曝量に比べて衰弱病の発症が少ないことに気づきました。鉛鉱山に行き、彼らの衰弱病の予防と治療法を聞き取り、まとめました」

 高位貴族が鉱夫に聞き取り調査など、貴族界では考えられない。だが、レオンは平気でそういうことをする。「貴族らしくない」などと批判する保守派貴族は、そんなレオンが見つけてきた治療法に助けられる立場だ。

「踊り病はどうか?」

「水銀は、一年程度で全て体外に排出されます。しかし、症状が無い方でも水銀を摂取した場合は、一年は妊娠を控えた方がよろしいでしょう」

「治療法は?」

「残念ながら、ございません。破壊された脳や神経を修復することは不可能です。切断された腕が二度と生えてこないのと同じです」

 フランセワ王国国王は、日本国政府よりも有能で良心的だった。なので、ただちに対策を講じた。

「書記官! 口述せよ。フランセワ王国国王は、下記の勅令を発する。鉛および水銀を使用した製品の製造、流通、販売を禁止する。故意に本勅令に反した場合は、殺人もしくは傷害罪に問われる。過失により本勅令に反した場合は、重過失致死傷罪に問われる。本勅令が有効となる範囲は⋯⋯」

 レオンが口を入れてきた。

「「フランセワ王国国王の行政権が及ぶ王国領土」でいかがでしょうか?」

 国王が顔を上げ、レオンをにらんだ。レオンの言う範囲は、つまり領主貴族領以外のフランセワ王国のことだ。領主貴族領をあえて外している。いくら対立しているとはいえ、このような病気が領主貴族の女子供に蔓延することを放置しろとは⋯⋯。

 国王は、レオンを高く買っていたし気に入ってもいた。しかし、目的のために手段を選ばないレオンの一面には、危惧も感じていた。


 やべえ、ご機嫌をそこねちまった。そう感じたレオンは、一歩下がって頭を下げる。

「心無いことを申しました。お気持ちを害し、申し訳ありません。今後このような誤りをいたさぬよう、注意いたします」

 レオンを抑えられるのは、国王だけだ。頭を下げているレオンを目を細めて数秒間眺め、国王が応じる。

「今後、不適切な発言は控えるように⋯⋯。本勅令が有効となる範囲は、フランセワ王国領土である。女神歴二十六年十二月十五日。⋯王印を」

 国王がレオンをかわいがっているのは、なにも娘婿だという理由からだけではない。王政は、封建領主貴族とブルジョアを先頭にした新興階級のバランスで保たれている。奴隷制による綿花農業を基礎とした領主貴族領の生産力は数百年間変わらず、逆にこの数十年で新興階級の経済力は各段に伸びた。そして、このレオン・マルクスという男の登場で、都市の民衆が組織化され天秤は新興階級の側に、さらに大きく傾いた。なによりマスコミの発達によって、「奴隷制は悪だ」という考えが民衆はもとより王都の貴族にまでに広がりつつある。

 王宮内でも、領主貴族に宥和的な保守派の声は次第に小さくなっていった。数は少なくても民衆派と王家忠誠派の強硬論の声が大きくなった。なによりも国王自身が、諸外国の産業革命と経済の自由化による爆発的な産業の発展に危機感を抱いている。

 国王は、領主貴族と新興階級とのバランサーから、新興階級の側に軸足を移しつつある。支持階級を、ブルジョアと大衆に乗り換えつつあるのだ。

 奴隷制を廃止し領主貴族領を廃絶するには、どうしても内戦は避けられない。いかに戦争を小規模に止め、外国の介入を防ぎ、早期に収束させるかが政治の仕事だ、と国王は考えている。逆にレオンは、大規模に徹底した戦争を行い、フランセワ王国から奴隷制と封建的領主制を根絶しようと考えている。いずれにしても、いざ戦争となった際に民衆を戦争に組織し動員できる王族は、レオンしかいない。

 

 国王は切り替えが早かった。

「レオン・ド・マルクス伯爵。みごとである。これで多くのフランセワ貴族が救われるだろう。⋯⋯褒美を取らせない訳にはいくまい?」

 どーだ? といった調子で国王が左右を見渡す。衰弱病と踊り病の研究は、レオンが想像していた以上に貴族たちに衝撃を与えたらしい。反対の声を上げる者はいない。

 レオン復権!

 レオンは、だれが思いもよらない希望を言い出した。

「二つお願いがございます」

 あいかわらず厚かましい。居並ぶ貴族たちは、身構えた。「暴力マニアのコイツのことだから、どうせ軍関係の要職を要求するだろう」。

 保守派貴族どもの渋い顔に対して、レオンは涼しい顔をしている。

「わたくしを、文部政務次官に任命していただきたくお願い申し上げます」

「親衛隊総隊長にしてくれ」とか「軍の指揮をとらせろ」だとか言い出すと予想したら、「文部政務次官」! 貴族連中は、耳を疑った。

 省とはいっても文部省の実態は、内務省の外局にちかく、王国内に十数カ所ある貴族学校と王国大学、それに王立学術アカデミーを管理運営しているだけともいえる三流弱小官庁だ。『ジュスティ』を心配して忠言してくれた貴族の爺さんが大臣をやっている。レオンがアッという間に実権を握るのは、目に見えている、が⋯⋯。

「文部政務次官? レオン、なぜその職を希望する?」

「我が国を強くするためです。フランセワ王国の識字率は、約十パーセントです。それを五年以内に八十パーセントまで引き上げ、読み書きと四則演算程度はできるように致します」

 ほとんどの国民が、読み書きができるようになる。それがどれほど国力を高めるか、国王をはじめ高位貴族には分かっていた。ではなぜ、今までそれをしなかったのか? 人口の一パーセント程度の貴族による民衆支配には、大衆教育は有害だったからだ。砕いて言うと大衆を愚民にしておいた方が、統治に都合が良かったのだ。


「かつては民を愚味ならしめるために学芸が最も狭き堂字に閉鎖されたことがあった。今や知識と美とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに進取的なる民衆の切実なる要求である」(岩波茂雄『岩波文庫発刊に際して』)


 愚民化政策が統治に都合がよい? 今まではそうだったろう。しかし、もうそんなことは言ってられない。封建貴族を切り捨てて、ブルジョアと大衆に軸足を乗せた王権と官僚貴族にとって、大衆の教化は必要不可欠なことになった。国民が読み書き計算もできなくては、産業革命もなにもない。

 レオンは、多くの貴族連中が考えているような戦略・戦術の天才ではない。専門教育を受けた職業軍人ですらない。やらせれば形にはするだろうが、隊形変換だの翼運動だの機動だのといった部隊指揮など執ったことはない。

 個々の戦闘は有能な部下に任せて、戦う前から敵を圧倒する戦力を築くことに注力する。そうレオンは考えている。戦力=国力なのだから、あらゆる方法で国力を増すことが戦勝のカギだと考えた。そのために最も早くて安くてすぐに取りかかれるのは、民衆への教育の普及だ。

 さっきまで内心では「こいつに軍権を握らせたくない」と反発していた保守派貴族は、「文部政務次官」にアッケにとられたりたじろいだりしている。国王も驚いたが、さすがに表情には出さない。

「⋯検討しよう。もうひとつは、なにか?」

「はい。わたくしを軍士官学校校長に任命していただきたく、お願い申し上げます」

 また教育関係だ。士官学校の校長などは、退役が間近い軍人の閑職にみえる。だが、こっちはさらに生臭い。

 百五十万都市である王都パシテだが、意外なくらい軍事力は薄い。常駐しているまとまった戦力は、王宮親衛隊七百名と王都警備隊の千三百名の合計二千名程度だ。正規軍団は、全て意図的に王都から三日以上離れた場所に駐屯させている。

 王宮親衛隊と王都警備隊を勢力下においたレオンが、王都に他の暴力装置はないかと見回したら、意外なところにあった。軍士官学校だ。五年制で、一学年百五十名。七百名もの士官候補生を抱えている。軍大学校の士官も加えれば九百名になる。戦力的に、これはなかなかバカにできない。しかも十四歳から二十二歳と若いので、向こう見ずで忠誠心が強い。

 ロシア十月革命の際に、最後まで臨時政府に忠誠で武装蜂起に抵抗したのが士官学校生徒だった。中国革命でも、国民党は黄埔軍官学校を設立し、蒋介石が校長に就任した。これが孫文の死後に蒋介石が国民党で権力を握る基盤のひとつになった。

 レオンが軍士官学校校長に就任すれば、現在の王都の実力組織のほとんどを掌握することになり、将来はレオンの教え子が軍の中枢を担うだろう。

 とはいえ領地や爵位ならともかく、褒美に官職をよこせというのはさすがに乱暴だ。普通は根回しをする。大臣・高官の任免権を持つ国王でも軽々に返事はできない。

「希望は分かった。追って沙汰する」

 剣を閃かせて王都を駆け回り、民衆を圧迫していた貴族と対峙し流血沙汰を起こしていたレオンが、文部政務次官やら軍士官学校校長やらの行政官に納まってくれるならむしろ願ってもないことだ。貴族の反対の声は、全く無かった。それに連中は一刻も早く邸宅に帰り、妻や娘から猛毒の化粧品を取り上げたかった。


 謁見の数日後、レオンは少将に昇進。文部政務次官と軍士官学校校長に勅任された。親衛隊第四中隊長の後任には、レオンの推薦でジルベールが中佐に昇進し勅任された。

 文部政務次官に勅任されてから一年、レオンは教育改革に飛び回っていた。二カ月後には、レオンは、男しか入学できなかった王国大学に百人の女子枠つくり、親が反対しても家を出て勉強できるように女子寮を建てた。定員五十名の女子士官学校も設立した。大変な高倍率だったが、ブラックデューク事件の際に婆さんを支えて、「こいつが、お父さんと、お母さんと、弟たちを殺しました!」と愚連隊の御輿貴族を指弾したエステルちゃんも合格している。

 なぜレオンがこうも女性教育に熱心かというと、男女平等論者だからではない。体力ならともかく知能で男女に優劣がないことを知っているからだ。レオンの戦略の基本は、国力で敵を押しつぶすというものだ。ならば人口の半分を占める女も戦争や生産に動員し、物量の増加をはかろうとするのは当然だろう。

 初等教育の立ち上げが一番大変だった。教師がいないのだ。そこで目をつけたのが王国大学の新卒生だ。千人のうち約六百人が官職に就く。官僚になりたければ一年間地方で子供に読み書き計算を教えてこいと、貴族の親の反対を押し切って最高学府の卒業生を地方に下放してしまった。サルトルも出たフランスのグランゼコールの真似で、教師不足に対する苦肉の策だったのだが、これが意外なほどうまくいった。

 代官や村長宅に居候して、村の子供たちに読み書きを教える⋯⋯。レオンが吹き込んだネオ・ルソー主義にかぶれた若者たちの多くは、教育熱のかたまりとなった。視学官が巡回し、抜き打ちで教育の進み具合をチェックするのだからなおさらだ。

 ガリ版印刷のパンフレットや新聞のたぐいが、地方にも流れ込んでいた。農家の次男三男は、いずれ都会に出なければならない。これからは読み書きができなければ、もう就職はできないだろう。まず自作農や小商人の子供が、神殿や急遽建てられた小屋に集められ、最初の一年で十五万人以上が字をおぼえた。

 一年後、年季が明けた卒業生は、新卒者と交代で王都に呼び戻された。しかし、十数人が帰都を拒否。地方に学校を建設することに生涯を捧げ、教育機関をいくつも創設した。

 さらにレオンは国王に働きかけ、「軍に所属する者は兵士であっても読み書き計算ができなければならない」という勅令を出させた。士官が教師になり訓練時間を削って読み書き計算を講義。半年の速成教育で十万人の兵士が字を読めるようにした。

 フランセワ王国の八割を占める国王直轄地では、次々と封建的な遺制が撤廃された。移動の自由、商工ギルドの廃止、領主徴税権の廃止などによって空前の好景気に沸いた。

 女神歴二十七年は、建国以来初めて一人の餓死者や野垂れ死を出さなかった年とされた。しかし、領主貴族領で『奴隷』にされている国民は、どうだったろうか?


 領主貴族と保守強硬派貴族は、封建制国家が永遠に続くことを望んでいた。しかし、ブルジョア国家に舵をきったフランセワ王国は、王都パシテを中心とする政治改革により、国土の八割を占める国王直轄地の封建制は、滅びつつある。

 その反封建制改革は、領主貴族にも向けられた。領主貴族領の自治権の剥奪、領主領軍の国軍への編入、奴隷制の廃止である。これを飲んだら領主貴族は、半独立国の主から単なる国王の代官となり、財産のほとんどを失うことになる。西部の大領主貴族は手を組んで、徹底抗戦の構えだ。

 先の見えない戦争に突入するか? それとも降伏するか?

 領主貴族は第三の道を選んだ。王都の保守強硬派と結んで軍事クーデターを決行し、王宮を血に染める反動攻勢をかけてきたのだ。追い詰められた領主貴族は、おとなしく滅ぼされはしなかった。しかし、そのおかげでレオンの運は、大きく開けた。


『クーデター』とは、支配階級内での、しばしば暴力をともなう非合法的な権力の移動を意味する。単なる権力の移動なので、社会の構造が変わることは、ほとんどない。

 レオンの目指す『革命』とは、被支配階級が支配階級を打倒し、権力を奪取し新たに社会を根底から作り変えることだ。政治革命から社会革命・文化革命に至り、風俗や文化、宗教まで変えてしまう。クーデターと革命は、まったく異なる。


 フランセワの十二月は、夕方の五時には日の入りとなる。貴重な油を浪費することをせず、平民は八時には寝てしまう。日の出は六時過ぎだ。そろそろ明るくなる五時頃には、街が動きだす。

 ほとんど眠らなくても平気なレオンは、今度は民衆の人気取りに小説を書いていた。『アンクル・トムの小屋』をパクった奴隷制の非人道性を攻撃した内容だ。いずれ必ず開戦するのだから、今はおとなしくアジ小説でも書いて「文化革命だ!」⋯なんてことを考えていた。

 深夜三時に、王宮一階から人が斬られる断末魔の叫び声と激しく斬り合う音が聞こえた。場所が場所だし、時間が時間だ。これはただごとではない。

 五分もすると王宮中に散らしていたカムロたちが居候部屋に集結してきた。王宮内で大規模な戦闘が起こっているという。まさかクーデターか⋯⋯。だれがどうやって兵を集めたのか?

 当番カムロにジュスティーヌと三人侍女を起こさせた。明らかに集団戦闘の音が三階まで響いてくる。

「あなた! なにが?」

 目を覚ましたジュスティーヌが、小走りで寝室から出てきた。直系の王族だから第一級の確保対象だろう。マリアンヌとキャトウは、特殊訓練を受け侍女に偽装した保安護衛要員だ。こんな時には頼りになる。

 奇襲を受けた一階は、十分もたず制圧されたようだ。主戦場の音は二階に移り、王宮親衛隊第一中隊と『敵』が斬り合う音がすぐ下から響いてくる。居候部屋は三階で、『王族の間』は五階にある。脱出しなければ、無事では済むまい。

「命令だ。マリアンヌとカムロは、偵察任務につけ。王族の安否、敵部隊の所属、敵兵数と装備の情報を優先入手せよ。十分以内に戻れ。敵に補足された場合は、降伏しろ。抵抗するな」

 伝令係に二人ほど残し、部屋からカムロが出ていく。

「アリーヌとキャトウは、侍女服を脱げ」

 なにが起きているのかまだ理解できていないアリーヌが、怒りだした。

「なんですか。服を脱げだなんて、いやらしい! 嫌ですっ!」

「バカだな。王家侍女服を着ていたら、捕まって拷問されるぞ。王女をどこに逃がしたんだってな」

 聞いた瞬間、アリーヌとキャトウは飛び上がった。大あわてで王家侍女服を脱ぎ捨て、服入れにとりついて一般侍女服に着替え始めた。

「おー、おー。王家侍女服は、見つからないように隠しとけよ~」

 カムロたちが戻ってきた。報告を聞く。

 敵は、騎兵装備の兵を主力とし貴族の私兵を加えた混成部隊。数は確認できただけで百人以上。王宮内の大階段に主力を置き、五階の『王族の間』に向かって突進している。親衛隊第一中隊が抵抗しているが、突破されるのは時間の問題だ⋯⋯。

「ここに来やがるのも、すぐだな。よし、ズラかるぞ!」

 ずいとジュスティーヌがレオンの目の前に立った。怒っている。

「逃げるですって? どうして反撃しないのです? お父さまを救出するのです」

 さすがは王女。こんな時でも気が強い。

「オレが斬り出ても、死体がひとつ増えるだけだろ。今は脱出して親衛隊に合流し、部隊を率いて反撃する」

 霧が晴れたように、ジュスティーヌが笑顔になった。この女も相当に腹が据わっている。

「アリーヌ、そこのロープを持ってこい」

「あ、あの汚らしいヒモですか?」

 いつか王宮から逃げ出す羽目になるのではないかと予想し、持ち込んでおいたのだ。

「早く持ってこい。暗い内に脱出しないと、見つかって捕まるぞ」

 ロープをベッドの脚に結わえて下に放る。王宮だけあって天井が高い。居候部屋は三階だが下までは十六メートルほどある。現代日本のビルならば、五階建てマンションの屋上くらいの高さだ。下は堀で水が張ってある。もう十二月末だから、さぞ冷たいだろう。

「ジュスティーヌとオレの脱出が最優先だ。⋯すぐに戻ってくる。カムロは王宮内に散って偵察任務を行え。反撃部隊が突入したら先導しろ。マリアンヌとキャトウは、オレたちが降りた後に続き、ジュスティーヌを護衛すること」

 アリーヌが、オロオロし始めた。

「あ、あの、わたくしは? その?」

「あぁ、アリーヌがここから降りるのは、無理だなぁ。オレたちが出てったら、一般侍女にまぎれて隠れていろ」

 三階は、客間や侍女部屋だと分かっているらしい。三階まで達した敵は、広がらず斬り合いながら上階に登っていく。

「すぐに敵が来るぞ。ジュスティーヌも服を脱げ。着衣では泳げない。油紙を出せ。着替えを包む」

 ジュスティーヌが、思い切りよく素っ裸になった。侍女に入浴の手伝いをさせたりで、他人に裸を見せるのにあまり抵抗がない。周囲にいるのは、同性の侍女と夫だし。

「パンツはけよ。尻にドジョウでも入ったらどうする?」

「まあ、それは嫌ですわね」

 パンツ一丁の王女⋯。侍女といっしょに油紙に女物の着替えを入れる。

「オレの服は、シャツとズボンでいい。剣はいらない。五分で親衛隊宿舎だ。⋯⋯おっと、王家のティアラを持ってけ」

 度胸のいいジュスティーヌだが、さすがに不安げだ。

「わたくし、本当に降りられるかしら⋯⋯?」

 深夜でたすかった。景色が見えたら、とてもロープで降りることなど無理だったろう。

「降りたほうがいいぞ。敵の手に落ちたら、殺されるかもしれない。王族でマルクス少将の妻だからな。ロープが滑らないように手袋を重ねてつけろ」

 近くで凄まじい斬り合いの音がする。これでは、いずれ第一中隊は全滅だろう。

「オレたちがいなくなったら、アリーヌは泣き真似でもしながら侍女部屋に逃げ込み、侍女たちから王族の安否や居所を探れ」

「本当に泣きますわよ。もう⋯⋯」

 明るくなったら、もう逃げられない。グズグズしている暇はない。まずレオンが、裸に風呂敷をかついだ泥棒スタイルで窓から出た。

「ロープがゆるんだら、オレが下に着いたってことだ。次はジュスティーヌを降ろせ。全員降りたらアリーヌは、ロープを切って落とせ。逃げ道の痕跡を残すな。じゃあな!」

 王宮の壁は意外にでこぼこがあり、降りるのにそう苦労はしなかった。ただ、十二月深夜の堀の水は冷たい。三十分も浸かっていたら凍死しそうな感じだ。幸い十分足らずでパンツ一丁のジュスティーヌが降りてきて堀の中に入った。

「一度ロープで王宮から降りてみたかったのです。⋯⋯水が冷たいですわね」

 やけにのんきだ。生まれた時から物に動じない訓練をさせられてきたのだ。

「堀の水を飲んだら腹をこわすぞ。早く出よう」

 いくつか死体が浮いている十五メートルの掘を泳いで渡り、石垣を登ってなんとか地面にはい上がった。王宮外にも敵がいるかもしれない。そのまま裸足で五十メートルほど走り、王宮からは見えない物陰に隠れた。

 これから王族の象徴になってもらうジュスティーヌの身体をふいて服を着せ髪を整えた。レオンにはこれ以上は無理だが、マリアンヌとキャトウが合流したら、見栄えをどうにかしてくれるだろう。

 王宮親衛隊宿舎まで五分もかからない。現代の日本で第一機動隊の隊舎が皇居の堀の隣に置かれているのと同じだ。

 親衛隊の連中は、なにも気づかず寝ていた。宿直がなにか仕事をしている。扉をぶっ叩いた。

「レオン・マルクス少将だ。緊急召集。第二、第三、第四中隊は、完全武装で前広場に集合。戦闘が王宮内で行われている。音をたてるな」

 宿直は驚愕して固まっていたが、すぐに我に返り、親衛隊宿舎の中に飛んでいった。王宮親衛隊に付いている伝令カムロがきた。

「女性騎士部隊を呼べ。ジュスティーヌ王女殿下を守護する。⋯⋯あと体をふくものと服をくれや」

 ジュスティーヌを暖かい宿直部屋に押し込む。もうひとりのカムロに命じる。

「カムロ宿舎に行き、戦闘・偵察・伝令任務が可能な者を、全てここに集合させろ」

 親衛隊の緊急召集は、十分以内の集合が義務づけられている。

 十分後に前広場に集まった親衛隊員は、三百人もいない。王宮親衛隊の中隊の定員が百五十名で、合計四個中隊で六百名。王宮警護任務についていた第一中隊は、戦闘中だ。残るは、三個中隊四百五十名。非番なので、実家に帰ったり夜遊びに行ったりと出かけており、二百七十名しか残っていない。最初に駆けてきたカムロに、親衛隊騎馬隊を全員連れてくるように命じる。騎馬隊は五十名。馬の世話があるから三十名くらいは残ってるだろう。少しでも兵力がほしい。

 女性騎士部隊より先に、半裸でびしょ濡れのマリアンヌとキャトウが裸足で駆けてきた。タヌキ顔の巨乳美人と、シャム猫美人があられもない姿で飛び込んできて真っ青になっている。この二人がジュスティーヌ王女付きの侍女だということは、皆知っている。集合した王宮親衛隊員たちは、なにか大変な事態が起きていることを悟った。

「ジュスティーヌ王女殿下は、この部屋だ。すぐに女騎士がくる。⋯⋯ジュスティーヌを暖めて王女らしくしてくれ。必要な物は、なんでも徴発してかまわない」

 現在、四時少し前。日の出は六時過ぎだ。ほとんど時間がない。まず親衛隊の指揮権を掌握しなければ。訓練場に出てきた三百名ほどの親衛隊騎士に告げる。

「まず、口をきくな。静かにしろ。⋯⋯一時間ほど前に正体不明の部隊が王宮を襲撃し、現在第一中隊と交戦中である。国王陛下をはじめ王族方の所在は、ここにおられるジュスティーヌ第三王女殿下以外は不明だ」

 身なりを整え、持ち出してきた王家のティアラを身に着けたジュスティーヌが前に出る。まだ髪が濡れている。

「フランセワ王家王権継承順位六位、ジュスティーヌ・ド・フランセワが、王宮親衛隊にアンリ二世国王陛下の救出を命じます。所在不明の王宮親衛隊総隊長の代行としてレオン・マルクスを任命し、指揮を委ねます」

 専制君主国家で、国王から継承順位五位までの王族が生死所在が不明なのだから、継承順位六位のジュスティーヌ第三王女が王権を執行する。

 レオンが引き取った。

「現時点より作戦行動を開始する。戦場は王宮内である。時間を十分間やる。必要な者は、屋内戦闘用装備に換装せよ」

 半分以上の者が親衛隊宿舎に飛び込んだ。装備を整えている。そこに女性親衛隊隊長のローゼット・ド・クラフト子爵夫人が、駆けてきた。一緒にルーマに行って、安居酒屋で斬り合い寸前のケンカをした仲だ。知らなかったが階級は、大尉だった。かなり偉い。

「いったい、なにが⋯⋯」

「王宮で戦闘だ。国王の所在は不明。オレが反撃の指揮をとる。女性親衛隊騎士は、すぐに何人あつまる?」

「じゅ⋯⋯十五人⋯です」

 少ない。子持ちもいるから、非番の日は実家に帰っているのか。

「現在は作戦行動中だ。戦闘もある。そのつもりでいろ」

 レオンの普段のくだけた様子との落差に、ローゼット女性騎士隊長は驚いた。

「女性騎士部隊の任務は、ジュスティーヌ第三王女殿下を厳護することだ。突入部隊が敗北した場合は、騎馬をもって王女殿下を軍総司令部にお連れしろ。これは最重要任務だ」

 ローゼットは、レオンがクーデターを起こしたのではないかと疑った。たしかにやりかねない。だが、ジュスティーヌ王女殿下が保護されている宿直部屋に入り、顔見知りのマリアンヌとキャトウに事情を聞いて驚愕し、すぐに怒りにふるえた。王宮内に正体不明の軍勢が突入し、戦闘状態とは⋯⋯。王女殿下がご無事なのは、たしかにレオンの功績だ。

 第二・第三中隊長は、不在だった。いたら指揮権がどうだとかゴチャゴチャうるさかっただろう。かえってたすかった。レオンに忠誠な第四中隊隊長のジルベールが親衛隊宿舎に残っていたのも運が良かった。

「ジルベール中佐。重要な仕事をしてもらう。オレの側にいろ」

「フフ⋯⋯。血を見ることになりそうですな」

 通常は親衛隊第一中隊長が、親衛隊総隊長を兼務する。その第一中隊が警備する日を狙って、敵は王宮に突入してきた。指揮系統を麻痺させるつもりか。王宮内部に、手引きしてるやつがいる⋯⋯。

 騎馬隊員が、三十人ほど非武装で駆けてきた。

「ようやく来たな。屋内戦闘、実戦だ。武装は親衛隊宿舎の武器を自由に装備しろ」

 女性親衛隊騎士、騎馬隊員らが集まり、兵力は三百名をなんとか超えた。伝令を散らせる前に簡潔に状況説明だ。あと一時間で、空が白み始める。

「一時間半ほど前、正体不明の部隊が王宮内に突入し、警護の第一中隊と戦闘になった。偵察の結果、敵は領主軍の騎馬兵と貴族私兵の混成軍と思われる。王宮前広場に繋がれている軍馬の数から逆算し、敵兵数は五百から六百名だ。敵は第一中隊を制圧し、五階『王族の間』に突入した」

「ウウゥ⋯⋯。ククッ」

 喋るなといわれていても、さすがに親衛隊騎士たちからうなり声が漏れた。

「王宮を脱出されたジュスティーヌ王女殿下以外の、国王陛下をはじめとする王族の安否は不明である」

 王家のティアラを身につけた簡素な白服のジュスティーヌ王女が、再び姿を現した。こんな時でも美しい。嬉し泣きする者、悔し泣きする者、復讐を誓う者、怒りで体をふるわせる者⋯⋯。三百 対 六百。数で劣っているのだから、せめて志気を上げねば。

「我々は、これより王宮内に突入する。賊徒の手に落ちた王族方を解放し、よってフランセワ王国を守護するのだ」

 そう言っているレオン以外の全員が深くうなずいた。本当はレオンは、ジュスティーヌ以外の王族の命なんてどうでもいい。

「跳ね橋を上げられ、掘を通れない状況である。第四中隊第二小隊、泳げる者は、なん人いるか?」

「はっ、ここにいる十四人全員が泳げます」

「よし。おまえたちは泳いで堀を渡り、物資搬入用の通用口から王宮内に侵入。跳ね橋を下ろせ。通用口は複数ある。部隊を分けるなど作戦の細部は、小隊長にまかせる。必要な人員・資材は自由に使ってよし」

 戦国期だったら考えられないが、正面入口以外に通用口があって細い橋を架けて野菜を運び込んだりしている。そこから王宮内に入り込んで正面の橋を下ろそうという算段だ。お貴族様の親衛隊騎士は、通用口の辺りは詳しくない。王宮の下働きをして構造を知悉させたカムロをつけることにした。

「跳ね橋が下りると同時に、第四中隊は王宮門に進出し跳ね橋を確保・死守する。続いて第二・第三中隊が王宮内に突入。奇襲をもって各階を占拠している敵兵をせん滅する。敵兵掃討の機を見て第四中隊は全隊を挙げて王宮内に突入。一気に『王族の間』まで突進し、拘束されている王族方を奪還する。『王族の間』まで、ジュスティーヌ王女殿下は第四中隊とご一緒される」

 戦場に王女を連れて行く? ローゼット女性騎士隊長が思わず立ち上がった。しかし、なにも言えない。なによりジュスティーヌ王女が、王宮に突入する気満々だ。凛とした王女の声で声でアジる。

「フランセワ王国と王家の命運を、あなた方にゆだねます。王族の義務として、わたくしも親衛隊部隊と共に王宮に入りましょう。父祖が築いた王宮と王都を賊軍の手から取り戻すのです。そのためには、どうして命を惜しむことがありましょうか。王宮を奪った者どもは、フランセワ王国をも奪い、民を虐げ、この美しいフランセワを滅ぼすでしょう。わたくしは、忠勇なる王宮親衛隊の騎士と、我が夫・レオンを信じております。わたくし、ジュスティーヌ・ド・フランセワ=マルクスは、最後まであなた方と共にあります」

 レオンは、「王国が滅びるとかいったって、国なんて組織のデカいやつだろ。階級支配の搾取装置にすぎない。滅んだとしても次の王朝に交代するだけだ」と考えている。だから「国のために死ぬなんて愚の骨頂だ」なのだ。そんなやつが、国や王家のために戦って死のうという三百名もの騎士たちの指揮をとることになった。ひどい皮肉だ。

 ジュスティーヌ王女の演説で、親衛隊の戦意が倍増した。王宮侵入部隊は、黒服に着替えて堀の脇まで先発した。十四人の部隊は、板切れを持ってきてピート板のように使って堀に入る。石垣をよじ登り八名が王宮に入り込んでいった。同時に別の通用口から六名が入る。二手に分かれて陽動の効果を狙った。


 作戦をざっくり述べるとこうだ。

 跳ね橋が下りると同時に、三十名ほどの第四中隊部隊が入口を確保し死守。すぐに続いて第二・第三中隊の百八十名が突入する。数時間前に反乱軍がしたことをやり返す。奇襲である。かなりの損害を与えるはずだ。敵の抵抗が弱まったら、残った第四中隊が『王族の間』に向かって突進する。最後にジュスティーヌ王女を守護する女性部隊が、堂々と橋を渡って王宮に入城し。反乱の失敗と、王宮の奪還をアピールする。


 ⋯⋯⋯⋯このレオンの作戦は、はっきり言って無茶苦茶だ。どの国の士官学校のテストでも、0点だろう。

 専制君主国家で最も大切なのは国王を筆頭とする王族なのだから、橋が下りたら一気に全部隊を王宮に突入させ、しゃにむに『王族の間』まで突進させるべきなのだ。

 第二・第三中隊のみが突入し第四中隊を加えないという、兵力の逐次投入がまずい。数が多い敵にすり潰されて損害が増える。奇襲の衝撃から立ち直った敵が、反撃してきた場合はどうなる? 敵の数を減らしてから中枢部に精鋭部隊を突入させるという作戦が崩壊する。消耗戦になると数に劣る突入部隊が不利だ。レオンの作戦では、第二・第三中隊が下階で斬り合っている間に、国王・王族が殺される可能性すらある。

 もちろんレオンは、そのくらいのことは考えている。そのうえでこの作戦をとった。いくらレオンでも、義父であり散々世話になった国王が死んでくれた方が都合が良いとまでは、考えていない。しかし、もう国王は殺されていると確信していた。レオン程度の準王族に対してですら襲撃をかけたルイワール公爵家は断罪された。武装して深夜に王宮に打ち入るなどして失敗したら、一族郎党の命は、まず助からない。敵も必死だ。権力を奪うために、真っ先に国王と男性王族を始末するはずだ。

 レオンが軍権を独裁的に握るには、優れた能力を示さねばならない。「占拠された王宮に部隊を突入させて勝ちました」では、そのやり方が正しくても能力を示すことにならない。知謀の限りを尽くし半数にも満たない兵力で王宮を奪還。忠勇無比の英雄。そう見えるように戦場という舞台で演じるつもりだ。どうせ王様は殺されている。次の国王に、受けが良いだろう。

 いずれは第四中隊の元部下たちで、政権と軍部を固めるつもりだ。そのために第四中隊を、文字通り手塩にかけて育ててきた。くだらないクーデター騒ぎなどで、一人たりとも失いたくない。『名誉の戦死』を遂げるのは、最初に突入する第二・第三中隊にまかせる。レオンは、こんなクーデターなど一時的に成功してもいずれ破綻すると、最初から見切っている。

 レオンに忠誠な民衆派で固められているとはいえ、第四中隊の血気盛んな騎士たちが、安全な役まわりでは納得しない。そこで、跳ね橋を落とす特殊任務を第四中隊にやらせたり、最後に突入して王族を守護するだとか、ジュスティーヌ王女殿下をお護りするだとか、美辞麗句を並べ立て、ジュスティーヌの王女演説の力まで借り、その場の雰囲気で納得させた。

 兵数不足は、それほど心配していなかった。王宮親衛隊中隊第一中隊は全滅するだろうが、残った三個中隊で合計四百五十名だ。そのうち百八十名は、実家か女の部屋かどこかで寝ている。突入部隊は女性騎士団も加えて三百名程度だ。だが、第四中隊は強い。それに騎兵と伝令カムロが叩き起こしにまわっているので、二時間もしないうちに百五十名程度の二次部隊を編制できるだろう。

 それより問題は、跳ね橋が下りなかった場合だ。この人数で城攻めなど、できない相談だ。その時は軍総司令部まで撤退。ジュスティーヌの王族権力と王宮親衛隊の武力で、日和見で動かない軍部首脳部を威圧し、軍権を奪取。国境に配置されている軍団を呼び寄せて王都に突入させ、王宮を取り囲んで総攻撃する。火矢の雨を降らせて、城ごと敵を丸焼けにしちまうのが手っ取り早い。

 ⋯⋯こっちの方が面白そうだな。


 しかし、十分ほどで橋が下りた。

 近くまで接近し、敵に発見されないように伏せていた第四中隊の騎士たちが、一斉に橋を渡って城門を確保する。

 レオンが剣を抜き、剣先で城門を指した。

「よーし、王宮を取り返すっ。突撃!」

 見つからないよう、橋から百メートルほど離れて待機していた第二・第三中隊の百八十名が、伝令カムロを引き連れて橋に殺到した。奇襲は成功だ。しばらく一方的に斬り立てられる叫び声が続き、やがて斬り合いの音に変わった。ここに第四中隊も加わっていれば、それで勝負がついたかもしれない。


 反乱軍は、激戦の末に王宮親衛隊第一中隊を制圧した。さらに要人を拘束するなど王宮を点検し終えて、休憩に入ったところだった。反乱軍部隊の大半が一階に集まり床に寝ころんだのと同時に、第二・第三中隊が突っ込んできた。

 意外にも、第二・第三中隊も強かった。アッという間まに五十人くらい斬り倒した。まだ暗いが、勝手知ったる王宮だ。賊徒に神聖な王宮を汚されて怒り狂ってもいた。休んでいたり城内の占拠に散らばっていた反乱軍は、容赦なく斬り伏せられた。

 奇襲で反乱軍部隊が崩れて潰走したら、それで終わりだ。だが、そうはいかなかった。王宮という閉所での戦闘だ。逃げることはできない。反乱軍の騎兵は練度が高く、上階に散らばっていた兵士を集め部隊を再編成して反撃してきた。暗い王宮内は、剣戟で火花が飛び散る凄まじい斬り合いとなった。

 緊急事態の戦闘で反乱軍の見張りがいなくなり、監禁部屋から侍女やメイドの女の子たちが出てきた。勇気のある娘たちが、敵兵に壷やら熱湯やらを投げ落として攻撃する。落ちていた剣を拾って戦い、とうとう斬られて重傷を負った勇猛な侍女もいた。

 一般侍女に変装したアリーヌは、半ベソをかきながら侍女・女官・メイドたちが監禁されている大部屋の中を巡り、王族の消息を尋ねてまわっていた。たまたま一般侍女服を着ていたため大部屋に押し込まれていた国王担当の同僚を見つけた。床にぐったりと倒れ込んでいる。

「フレアさんじゃない! 大丈夫? 無事だった?」

「アリーヌさん。はあっ、はあっ、はあっ⋯⋯たったた大変です⋯⋯。国王陛下が⋯⋯」

 長身のアリーヌの声は、よく通る。ゾッとして総毛立ち、思わず立ち上がって、大声で叫んでしまった。

「たっ、大変だわ! 国王陛下が、殺された!」

 王宮侍女のリーダー格で伯爵令嬢のアリーヌは、いい加減なことは絶対に言わない。一瞬静まり返った女たちが、声を上げてワッと泣き出した。

「本当ですかっ! アリーヌさん」

「なんで? 陛下! 女神様!」

「いやぁ! いやぁぁ!」


 双方が斬り合っている二階大階段にも、この声は響いた。さらに斬り合いが激しくなる。反乱軍は負ければ死。親衛隊は憎悪の塊。

 国王死亡の情報は、飛んできたカムロによってすぐに王宮外のレオンに伝えられた。

 明るくなってきた。街が動き出している。騎馬兵や伝令カムロが街を駆け回っているのだから、なにかとんでもないことが起きていることは、誰にでもわかる。数万人の野次馬が、王宮を取り囲んだ。王宮の窓から堀に転落する者がけっこういて、血の混じった水しぶきを派手にあげる。そのたびに野次馬がどよめいた。

 一時間もすると、非番で実家に帰っていた親衛隊騎士が百五十名ほども集まってきた。なかには、くやし泣きに泣いている者もいる。

 隣に立っているジルベールが、つぶやいた。

「そろそろ見せ場ですなぁ」

 戦力は、駆けつけてきた第二・第三中隊の混成部隊が百名。温存していた第四中隊の百四十名。騎兵隊が三十名。親衛隊女性部隊二十名。あとは、ジュスティーヌ王女殿下か。ジュスティーヌがいれば、これからも部隊は集まる。

「騎兵隊は、ジュスティーヌを逃がす際に必要だ。勝ちが決まるまで投入できねぇな」

 ジルベールが、大仰に驚いてみせる。

「へぇ? いざとなったら、逃げるつもりなんですか?」

「戦場は流動的で、不確定だ。五分後に後ろから敵の援軍が現れても驚かない」

「うーん。早急に決着をつける必要がありますな」

 レオンが、第二・第三中隊の混成部隊にアジ演説をぶつ。

「おまえたちは、肝心な時に後れをとった。だがっ、今なら取り戻せる。混成部隊には、これより王宮内に突入し、戦闘中の第二・第三中隊に代わり主戦力となり反乱軍を撃破する栄誉を与える! 遅れをとるな! 軍装の最終確認。一分後に突撃!」

 遅刻組は、戦いたくてたまらなかった。一分後にすごい勢いで城門に突進していった。第四中隊の騎士たちも戦闘をしたいのは同様で、レオンをチラチラと伺っている。彼らが勝手に王宮に突入しないのは、軍紀違反でその場でレオンに斬られかねないからだ。それにレオン隊長の命令に従えば間違いない⋯⋯。

 ジルベールは、突っ込んでいく混成部隊に冷ややかだ。

「二倍の敵が守りを固めてる大階段を突破できるとは、思えませんね」

 レオンが応える。

「そこでジルベールの出番だ。第四中隊の百四十名をいくつかに分け、裏の小階段やハシゴを活用して背後から敵を突破、というよりも浸透か。⋯⋯やり方は任せる。できるだけ戦闘を避けて五階の『王族の間』に到達しろ。五階を制圧後に大階段に進出。下の混成部隊と共動し、敵残存部隊を上下から包囲せん滅しろ」

 残った全部隊の指揮をまかせられてジルベールは、かなり驚いた。驚くと言葉が崩れる。

「センパイは、どうするんすか?」

「オレが王宮内に入る頃には、敵部隊は崩壊しているよ。女騎士団とカムロを連れて、ジュスティーヌ王女殿下を王宮内にご案内する。馬を借りるぜ」

 ジルベールが、第四中隊の騎士たちに作戦の説明している。細かい経路は現場の連中にまかせれば大丈夫だ。とはいえ親衛隊騎士は、普段は裏階段など使わない。王宮の下働きをさせていたカムロを何人か案内につけた。

 出撃直前にジルベールに伝えた。

「国王は死んだ。損害を省みずに『王族の間』に強行突入する必要はない」

「げえっ!」となって、しばらくジルベールの動きが止まった。反乱軍が、そこまでやるとは思ってなかったらしい。

「マジっすか? 間違いなく? ⋯⋯もしかして王家で生き残っているのは⋯⋯」

 チラッとジュスティーヌ王女の方に視線を送った。

「アリーヌからの情報だ。目撃した王家担当侍女と接触した。しっかりした女だから、間違いなかろう。騎士たちには口外するな。抑えが効かなくなる」

 数分後、ジルベール率いる第四中隊が、王宮内に侵入した。激戦の大階段を避け、二手に分かれて裏手に回る。小階段や梯子にとりつき音を立てずに登っていく。大階段の二階あたりで戦闘が続いていた。だが、加勢するより、王族救命と敵の背後を突くことが優先だ。無視して上がってゆく⋯⋯。

 レオンの性格だったら、剣を抜き放ち部隊の先頭に立って突っ込んで行きそうなものだ。ところが、出世が止まった機会にカムロを中心に様々な組織づくりに励み、第四中隊を鍛え、レオンは変わった。「今までは、自分の手で敵を殺してきた。これからは、部下に命じて敵を殺させる。違う方法でオレは手を汚す」。

 斬り合いの音で概ね戦況がつかめる。十数分後、急に斬り合う音が激しくなった。やはり第四中隊は強い。人が斬られた際にあげる悲鳴が頻繁に聞こえる。「王族の間を解放したな。後ろから大階段の敵を包囲・せん滅している段階か」。


 斬り込み隊長の『傷のジルベール』は、侯爵家の妾の子だった。将来は弁護士の試験に合格し、貧乏人のために働きたいと漠然と考えていた。ところが本妻の子が急死したため、なりたくもないのにフォングラ侯爵家を継ぐことになった。

 平民暮らしが長かったので、王家以外の高慢で見栄ばかり気にする貴族なんぞ心底軽蔑しきっていた。王宮親衛隊に入ったのは、虚飾の社交界がいやだったからだ。騎馬隊に入ったのも、貴族連中と一緒にいるよりも馬と一緒の方がずっと気分が良いからだ。

 名家の出身で、優秀で、下町育ちの平民派。レオンの目に止まらないはずがない。しかも、この二人は妙にウマが合った。レオンは、自分ひとりがエベレストになっても、いずれ壁にぶつかると考えていた。

 このクーデター事件で、ジルベールに限らず第四中隊の若手貴族たちは、大出世するはずだ。クーデターに荷担し処断される保守派貴族どもの穴を埋めてやろう。



 斬り合いの音が消えた。勝負がついた。さて。橋を渡って王宮を取り巻いている野次馬どもを楽しませてやろう。まずは華やかな女性騎士団だ。

「ローゼット・クラフト大尉。現在、女性騎士は何名いるか?」

「は、はい。二十名です」

 そう異様なものを見る目をすんな。せっかく厳格な指揮官を演じてるんだから。

「全員、軍装を整えよ。ジュスティーヌ王女殿下をお護りして、これより王宮に入城する」

 しかし、敵の敗残兵に襲われたら、女軍だけではちょっと心もとない。最後の予備兵力を出そう。

「親衛隊騎馬隊は、全員下馬。十分以内に兵装を屋内戦用に換えよ。入城されるジュスティーヌ王女殿下をお護りする」

 親衛隊騎士を起こすために王都を駆け回りヘトヘトなのに悪いのだが、最後にひと働きをしてもらう。ついでに見栄えのよい白馬と赤馬を引いてこさせた。

 宿舎から持ち出してきた親衛隊総隊長の赤いマントを着用した。本物の親衛隊総隊長は、もう死んでるだろうから、かまわないだろう。最初から着けなかったのは、「隊長だよ。狙ってくれ」と目印にしているようなものだからだ。連合赤軍浅間山荘事件では、ヘルメットに白テープを巻いた指揮官表示を狙われ警視庁特車中隊長と警視庁第二機動隊隊長が射殺されている。


 仮にジュスティーヌが殺されたら、フランセワ王朝は絶えるかもしれない。いずれ王政は滅びるにしても、今ではない。まずは三十名の騎馬隊騎士を王宮内に入れ、敵がひそんでいないか索敵し先導させる。

 しとやかな外見に似合わず活発なジュスティーヌは、かなり乗馬をやる。簡素な白服姿のまま躊躇せず、ひらりと白馬にまたがった。王家のティアラが、キラキラ輝いている。聖女然とした白く美しいジュスティーヌは、長身でスタイルも良いのに遠目からは少女にも見えた。

 ジュスティーヌは、もともと心優しい人間だ。しかし、生まれながらの王女でもある。王女として育てられてきたジュスティーヌは、王家と国と国民を同一視していた。「王家に仇なす者は、国を害し民を苦しめる者」。そんなジュスティーヌにとって、危急の際に騎士が王族唯一の生き残りかもしれない自分のために戦い死ぬのは、当然事だった。⋯⋯たしかにそのための王宮親衛隊だ。

 さらにレオンの影響の結果、ジュスティーヌはこんなことを考えた。「騎士の皆さんに戦さに熱中していただくには、もっともっと火をつけて煽り立てなければなりません。そのためにわたくしは、ア、アジ演説?をしなくては」。

 夫のレオンが、寝物語で過激派独特のアジ演説の芸をして、それがあんまりおかしいので、ベッドにもぐりこみ体をよじらせて笑ったことを思い出した。本来なら王女のジュスティーヌは、たとえ相手が夫でも人前でバカ笑いしたりしない。大声も出してはならないのだが、今日は特別だ。騎士と民衆を、思いきりアジった。美しいソプラノで、よく通る声だ。

「今こそ、父祖より受け継いできた尊い王宮を、賊軍から取り戻す時です。光輝あるフランセワ王国王宮親衛隊の、勇気と忠誠に期待します。あなた方の流す聖なる血は、永遠に讃えられるでしょう。女神よ! どうか我らに、悪を祓う力を!」

 普通なら、王女さまのお声なんて聞けるもんではない。野次馬どもが、どよめいた。

 オォォォ────────────ッ!


 ジュスティーヌ王女の周りを、女性騎士団が、素早く囲む。ローゼット大尉が駆けてきた。

「準備完了しました。しかし、王女殿下に王宮内にお入りいただくのは、危険ではないかと⋯⋯」

 最初に王宮に入った王族は、絶大な権威を手にすることができる。レオンのそういった政治性は、ローゼットにはない。

「王族に隠れていろというのか? 危険と思うなら敵をあぶり出して倒せ。必要とあらば、死んで殿下をお護りしろ!」

「うっ」となったローゼット大尉は、そのまま黙って女性騎士団を指揮する位置に戻った。

 レオンは、深紅のマントをひるがえして赤馬にまたがり、先頭に立った。しかし、もう戦闘はほとんど終結している。自ら手を血で汚すことはないだろう。


「火のように赤い馬が現れた。その馬に乗っている者には、地上から平和を奪い取って殺し合いをさせる力が与えられた。また、この者には大きな剣が与えられた」(ヨハネ黙示録 第6章)


 前前前世の記憶を思い出し、格好をつけて赤っぽい馬を選んだ。剣を閃かせて前を指す。よぉーし。さあ、血の海の中に入るぞぉ!

「聞けっ! 王宮と王都は、フランセワ王家の手に取り戻された。ジュスティーヌ・ド・フランセワ王女殿下が、王宮に帰還される。全員抜刀! 前進!」

 女性騎士団も一斉に剣を抜き、掲げる。美人を集めた半ば儀典兵だから、こういうことは上手だ。野次馬どもは、もう、拍手喝采だ。民衆の大歓声に包まれて、白馬の王女がゆっくりと王宮に繋がる二十メートルほどの橋を渡り、正面から堂々と城内に入った。本来の主人が、強盗から取り返した自宅に戻ったと全国にアピールしたつもりだ。

 ロープで降りて冷たい掘に逃げ込んでから王宮に戻るまで、けっこうな苦労をさせられたものだ。武力での戦いは、半日で勝負がついた。ここから先の王宮内では、政治による戦いになるだろう。


 野次馬の中に有名な画家が混じっていて、この様子を大作の絵に描いた。

 赤マントのごっつい筋肉ムキムキ男が太刀を振りかざし、なぜか棒立ちになった赤馬をあやつり先頭に立っている。白金に輝く鎧甲の美女軍団がきらめく剣を掲げ、王女を囲んで守護している。中心は白馬に横座りした金髪碧眼の美少女姫だ。けなげにも決意の表情で、黒く開いた城門を見据えている⋯⋯。

 えらく誇張されているこの大作は、歴史に残った。数百年後のセレンティアでは、女子中学生が美術の教科書を見て

「えー? この赤マント、お姫様の旦那さんなのー?」

「つりあわなーい。カワイソー!」

 ⋯⋯などと話しをするのだった。


 たった三十メートル程度を乗馬して行進したのは、演出だ。おかげで名画のネタになった。城内に入ったら狙ってくれと言わんばかりの赤マントをすぐに外して、カムロに預けた。常に数人が周りについていて、偵察や伝令の役に立ってくれる。

「王族の間にゆく。ジルベールをよべ」

 カムロが走っていった。

 ジュスティーヌの女性騎士団を連れて主戦場だった正面大階段に行くと、文字通り死体が山になっていて、血の海だ。まだ死体を片づける者はいない。

 王族の間を解放したジルベールが、十分もせずに駆けてきた。レオンは、まず一番肝心なことを尋ねた。

「王族は、どうなった?」

 ジルベールは貴族を憎んでいるくらいだが、王族に対してはかなり思い入れがある。

「国王陛下、王太子殿下、第二王子殿下は、死亡。第三王子殿下は、⋯⋯まあ、まだ生きとります。第四王子殿下と第五王子殿下は、無傷で生存」

「第三王子か⋯⋯。四番目と五番目の王子は、生きてるんだな。女の王族は?」

 レオンには、王族なんぞにリスペクトは、全くない。せいぜいが御輿といったところだ。

「ジュスティーヌ様以外の女性王族では、正妃陛下が倒れてしまいました。命に別状はないでしょう。第四、第五王女殿下もご無事です」

 十人の王族兄弟姉妹のうち、男が二人死んだか⋯⋯。赤ドレスのジュリエット第四王女は、どうなるか⋯⋯。

 正妃は、有力な外戚をつくることを嫌って、東の辺境の小貴族から迎えられた女だ。あのジュスティーヌ王女の実母だがおとなしい性格で、政治に口を出したことはない。優秀な子供を何人か産んだことが最大の功績のような穏やかな妃だった。夫と実子が、目の前で殺されたんだから、そりゃあ倒れるだろう。

「第四王女⋯⋯赤い薔薇のジュリエットか。無罪ですむとは思えねえな。今回の手柄の褒美に、命乞いしておまえがもらってやったらどうだ? 王族になれるぞ」

 階段を上りながら遠慮なく話してるので、この会話はジュスティーヌや護衛の女部隊員の耳にも入る。指揮をとっているローゼット大尉は、もう顔面蒼白だ。

「嫌っすよ、あんなの。王族の間に、閣僚や高位貴族どもが監禁されてたんで、そのまんま一緒にしています」

「おう、よくやった。絶対に一人も外に出すなよ。で、損害は?」

 これも聞こえてしまったローゼットは、高位高官貴族たちを「外に出すな」とはどういう意味かと考え、激しく動揺した。それに損害を聞くのが怖かった。

「第一中隊は死亡百五十名、生存者無し。全滅です。親衛隊総隊長も死亡。第二中隊と第三中隊は死亡約五十名、重傷八十名。軽傷は残り全員。第四中隊は、軽傷が八名。敵の損害は、約五百名が死亡。捕虜が約百名。今の王宮には、敵味方合わせて七百も死体が転がっとります」

「各所の病院に騎馬で伝令を送り、医者と看護師をよべ。至急だ。登城を拒否する医者は拘束し、連行。それと、もう敵兵にトドメを刺さなくていいぞ。なにか情報を持ってるかもしれないからな」

 話している内に、『王族の間』の前にきた。入口を屈強な親衛隊第四中隊騎士が警備している。王族や高官ではないジルベールやローゼットは、平時なら入れないのだが、今はそんなことは言ってられない。

「赤マントをくれ。さて、ここからが本当の戦争だ」

 赤マント再着用は、レオンの指揮でクーデターを鎮圧したことを、高官連中に見せつけるためだ。レオンを先頭に、部隊に護られたジュスティーヌ王女たちが『王族の間』に入場する。

「おぉ! ジュスティーヌ様、ご無事でしたか」

 疲労困憊のありさまなのだが、何人か貴族が立ち上がって王女にあいさつをおくる。どうやって王族の間にもぐり込んだのだか、一般侍女服を着用したアリーヌが飛びついてきた。

「ああっ! 良かった! ジュスティーヌ様っ! うあああぁぁ!」

 百畳以上ありそうな『王族の間』には、ソファーや椅子が持ち込まれ、反乱軍に監禁されていた王族や高位高官貴族らが、グッタリと座っていた。皆が一斉に軍装のレオンに注目する。

 レオンが状況説明を始めた。

「王宮親衛隊総隊長は、戦死した。第二、第三中隊長の所在は不明。よって、反乱軍の王宮占拠時に王族序列最高位であったジュスティーヌ第三王女殿下の指名により、王宮親衛隊総隊長代行としてレオン・ド・マルクス少将に軍事指揮権が委ねられた。王宮親衛隊は敵部隊をせん滅。すでに敵の指揮系統は崩壊し、残敵掃討の段階に入っている。王宮から敵を一掃するのは、時間の問題だ」

 やっと王宮親衛隊の指揮官が現れてくれた。事態を掌握しているのは、今はこの男だけだ。高官が何人か不平を並べ始めた。

「遅いではないか!」

「なにをしていた。レオン」

「国王陛下をお連れしろ」

「早くここから出せ」

「事態はどうなっておる?」

 だが、すぐにレオンの後ろにジュスティーヌ王女がいることに気づいた。続いてレオンの手勢の四十名の第四中隊の騎士たちが、入室してきた。死体の山をくぐって血を浴び殺気立ち、完全武装している。高官貴族どもは、気圧されて黙ってしまった。

 ジュスティーヌが、二歳下の弟を見つけ駆けていく。腹違いだが二人は年が近いこともあって、子供のころからとても仲が良かった。

「あぁっ、シャルル! 無事だったのですねっ!」

「姉上っ! 良かった! レオン、礼を言うぞ」

 第三王女と第四王子が抱き合う。感動のご対面だ。だがレオンは、シャルル第四王子をどう利用するか考え始める。仕事をせねばならない。

「一掃したとはいえ、残敵がひそんでいる可能性がある。まだ王宮内は戦場だ。王族の間から出ることを禁止する。ここから出た者の生命の保証はできない。戦時法の規定により、王宮内の指揮監督権・司法権・執行権は、王宮親衛隊総隊長に委任されている」

 いつも口うるさい高位貴族どもを、ちょっと威嚇してやった。「オレのいうことを聞かないと、死ぬかもしれないよ」と婉曲に言ってやったのだ。連中が黙ったところで、状況説明を再開する。

「王宮内の敵は、ナッサウ公マウリッツ及びノアイユ公ローベルトを中心とした領主軍部隊だ。ブランジ伯爵家騎士団、パストール伯爵家騎士団、ユリーナ子爵家騎士団⋯⋯それにマクシム第三王子配下の騎士団が加わり、約六百名の混成部隊が深夜三時より王宮を攻撃した」

 王宮内で千人もが戦闘だと? 大半の者が愕然とした。ずっと王族の間に監禁されていて、音は聞こえても斬り合いを見たわけではない。信じられない。

「マクシム第三王子殿下が? 王族だぞ。証拠はあるのかっ!」

「ナッサウ公とノアイユ公が謀反だと? バカな!」 

 レオンは、口ばかりで無能な貴族連中が大嫌いだ。腹の虫を抑えて答えてやる。

「装備と捕虜の証言、それに騎士の顔ぶれから、この二公を中核とした反乱であることは間違いないっ。⋯⋯マクシム第三王子からは、これから直接お話があるでしょう。ジルベール、お連れしろ」

 保護という名目で監禁していたマクシム第三王子が、騎士たちに囲まれ連れてこられた。なかなかの大男の偉丈夫だ。この場にいる者で第三王子を連行し監禁する権力と度胸があるのは、レオン、ジュスティーヌ、あとはジルベールくらいだ

 マクシム第三王子は、憎しみに満ちた目でレオンをにらんだ。こいつさえいなければ⋯⋯。

 努めて事務的な口調で、レオンが語り始めた。

「本来、王族による犯罪は、王族会議で非公開で裁かれます。現在は非常事態のため、このような形になりました」

 レオンは第三王子という立派な王族が、自分の主導で死んでいくさまを高位高官に見せつけてやるつもりなのだ。反感を買わないように、あえて事務的な口調でしゃべっている。

「評決権を有するのは、成人した王族のみです。シャルル第四王子殿下、ジュスティーヌ第三王女殿下、ジュリエット第四王女殿下のお三方です。私は準王族として、評決権は持ちませんが評議権を有します」

 つまりレオンは「口は出すけど、責任はないよ」と言っている。腹黒いようだが、法的には完全に正しい。しかし、事実上レオンが訴訟指揮を執っているだから、ズルいといえばズルい。

「マクシム第三王子の公訴事実は、今ところ六点です。第一は、国王アンリ二世陛下弑逆」

 国王が殺されたっ!

 知らなかった者も多かったようだ。恐怖の叫び声が、広い王族の間を満たした。

「アドリアン王太子殿下殺害、フレデリック第二王子殿下殺害」

 年長の王子が二人とも殺された! 貴族たちは総立ちになった。多くの者は監禁されていたため、これほどまでに王族に被害が広がっているとは、想像していなかったのだ。

「私兵団による武装反乱の指揮。王宮をはじめ政府施設に対する攻撃。多数の政府要人・貴族の殺害と拉致監禁」

 レオンが、手に持った紙切れをヒラヒラさせた。

「これは、先ほど第三王子の書斎から発見されたものです。あらかじめブロイン帝国にクーデター計画を通報しておられる。一体なにをなさりたかったのですか?」

 第三王子に訊くまでもなく、父王と兄二人を殺して国王になりたかったんだろう。そんなことに仮想敵国の許可を取ろうとするとは、愚かな。

「おまえだ! レオン! おまえに吹き込まれたアンリ二世は、領主貴族に対して、真綿で首を絞めるような政策を取り始めた。それは王国を滅ぼす⋯⋯」

「なるほど。そこで領主貴族と手を組んで、国王になろうとお考えになった?」

 第三王子は、一瞬たじろいだ。だが、今さら引くわけにはいかない。

「私が国王にならねば、いずれフランセワ王国は中央と領主との内戦になる。それを防ぐために私は決起したのだ⋯⋯」

 そこまで見えていて、なぜ分からないのか? 一刻も早く中央集権国家を成立させねば、王家どころか国が滅亡する。封建体制の申し子である領主貴族と近代国家は、相容れない。

 シャルル第四王子が立ち上がった。怒り心頭の様子だ。

「もうよい! この男は、死刑だっ! よくも父上を⋯⋯」

 続いてジュスティーヌ第三王女が、静かに立ち上がった。重要な政治に関わる場では、表情を殺し余計なことは一切言わない。

「⋯⋯死刑です」

 もう一人残っている。赤い薔薇の第四王女だ。いつの間にかレオンが横に立っている。すでに三人の王族のうち二人が死刑を宣告している。意味がないように思えるが、実はそうでもない。王族の死刑という国を揺るがす重大事の責任の所在を明らかにする。

「わた、わたくしは、その、そのっ、いっ、意見はありません。気分が優れないので、下がらせていただきますわっ」

 赤いドレスをひるがえして退出しようとする。

 パシッ!

 レオンが、ジュリエットの腕をつかみ、引き戻した。

「おおっと! 棄権される場合は、理由を明らかにしていただかないと違法です」

「ぶっ、無礼者っ! 身分をわきまえなさい! 誰かこの男をどこかにやってっ。お姉さまっ、あなたの夫でしょうっ!」

 普段の余裕のある態度はどこへやら、真っ青だ。逆にレオンは、どこか愉快そうに見える。

「外は血の海で、千ばかりの死体と負傷者が転がっています。お出にならない方が、御身のためでしょうよ」

 そのままジルベールに、放るようにして引き渡した。

「どうやらお疲れのようだ。見ていてさしあげろ。⋯⋯目を離すなよ」

 ジルベールは、遠慮なくジュリエットを羽交い締めにした。高慢な貴族女は、ジルベールの最も嫌いなタイプだ。自分と同じで側室の子であるいうことも、ジュリエットに対する同族嫌悪感を増した。

「おっとっと、アンタはもう終わりだぜ」

 もがいているジュリエットの耳元に、ジルベールは笑いながらコッソリとささやいた。その様子をレオンは、冷ややかにながめている。

「不思議なんですよ。国王陛下は、領主貴族の動向に常に注意を払っておられた。なのに地方の領主貴族と、ブランジ伯爵ら王都の不平貴族が、どうやって結びついて連絡を取り合えたのか? そのうえ第三王子と、どこで繋がったんでしょう? 私は、それができる方を一人だけ知ってます。パーティーがお好きでしたな。⋯⋯遊び半分で社交界をかき回しているつもりが、とんだ大事になったもんだ」

 再びシャルル第四王子が立ち上がった。

「くっ! ジュリエットっ。おのれぇぇ⋯⋯。大逆罪、内乱罪、外患誘致罪。どれひとつでも国事犯として死刑だ!」

 ジュスティーヌは、兄である第三王子と妹のジュリエット第四王女から目を背け、もう口を開かない。優しいジュスティーヌでも、王族として政治に関わる時には冷徹だ。

 レオンが、第三王子の正面に立った。『王族の間』の空気が、さっと冷える。いくら第三王子が偉丈夫でも、レオンは剣の達人と知られている。一瞬で斬られて血の海に沈むだろう。

 ところがレオンは、土壇場の第三王子に対してやけに丁寧な口をきき、慇懃だった。こんな様子のレオンの方が、むしろ危険なのだが。

「私には、評議権があります。準王族として、意見を述べさせてください」

 問答無用の勢いで斬ってしまうかと思ったら、なにか説得を始めた。まさか助命する気なのか? ジュスティーヌ第三王女が、ほとんどレオンの言いなりなのは、高位貴族なら誰でも知っている。ジュスティーヌ王女が反対に回ったら、賛成一、反対一、棄権一で、死刑は否決される。

「反乱を起こした第三王子が、父王と兄王子二人を弑した。そして今度は、妹の第三王女と弟の第四王子が兄王子を殺す。いかにも体面がよろしくありません。どうしても、骨肉相い食み、血を血で洗う王座争いに見えてしまう」

 まだ二十歳のシャルル第四王子は、体をふるわせるほど怒り狂っている。

「それがっ、どうしたっ。国王殺しだぞ! 父を殺されたのだ! 私は⋯⋯」

 怒りのあまり顔が青くなって絶句し、ガックリへたり込んでしまった。ジュスティーヌが駆け寄って抱いた。

「シャルル、落ち着いて下さい。倒れてしまいます」

 やはりこの姉弟は、とても仲が良い。

 かまわずレオンは続けた。

「殺し合いで血塗られた王座を恐れる者はあっても、愛し敬う者はおりません。そこで王室、ひいてはフランセワ王国と民衆のためにも、当事者であるマクシム第三王子に提案、いえ、お願いをさせていただきたいのです」

 いまさら第三王子になにを? 全員が疑問に感じるなかでレオンが振り返り、ローゼット親衛隊女性騎士団長を呼んだ。

「ローゼット、守り剣は持っているな? 貸せ」

 女性騎士は、敵に捕まった際に辱め⋯強姦されぬように、自決用の短刀を常に身に付けている。最近は形骸化して玩具のような短刀を持っている女騎士が多いのだが、子爵夫人で真面目な雌豹系美人のローゼットは、しっかりした女物の短刀を差し出した。

 受け取ったレオンは、実用一点張りで飾り気のない短刀をもう一本どこからともなく取り出した。マリアンヌやキャトウに投げ剣を教わり、いつも持ち歩いているものだ。ルイワール公爵家騎士団からの襲撃事件では、こいつのおかげで命拾いをした。

 レオンは、二振りの短刀を第三王子に差し出した。

「これで、どうぞ。最後はご自分で。⋯⋯拷問や斬胴刑は痛いですよ」

 剣で貫かれる痛みは、女神と聖女だった時にめった刺しに切りきざまれたレオンが、一番よく知っている。

 第三王子は、薄く笑いながらつぶやいた。

「おまえがいなければ、今ごろオレは王座についていたはずだ。だが、最後の最後に、おまえに感謝しようとはな⋯⋯」

 レオンこそ、礼を言いたかった。王族殺しに手を染めるのは嫌だったのだ。マクシム第三王子にだけ聞こえるように、小声でささやいた。


「この人が王であるのは、単に人々が彼に対して臣下として振舞うからでしかない。ところが逆に彼らは、この人が王だから自分たちは臣下だと思い込んでいるのだ」(マルクス『資本論』)


『国王』も『王国』も『臣下』もあったものではないレオンの本心だ。第三王子は、死を前にしていまさら驚かなかった。ただ「こんな男に勝てるはずもなかった」と感じた。

「ハーッハッハッハッハッ! レオンよ。おまえの本音か! 面白い男だっ。もっと親しくしておくべきだったなっ!」

 優等生タイプの王族が多いなかで、第三王子は、豪放磊落型の男で、レオンとはウマが合いそうだった。そう思っていたのだが、王家と対立する領主貴族の軍事力を利用して、その王族が自滅的なクーデターを起こすとは、レオンにも予想できなかった。

「私も残念です。親しくしていただけていれば、ここであなたが死ぬこともなかったでしょう」

 王子の死に対して「薨去」と述べず、あえて「死ぬ」と言った。この発言でレオンは、マクシムが王族以前に罪人であると居並ぶ高位貴族に宣明したのだ。今のレオンは、そんなことができるだけの力を持っている。

 マクシム第三王子は、しばらく短刀を見比べた。やがて「綺麗な方で⋯」とつぶやき、ローゼットの守り剣を取った。短刀を持ったまま、王子は黙って奥にある王族の私室に入っていった。

 静まり返った王族の間で、レオンがジュスティーヌに小声でささやいた。

「あそこに抜け道や、逃げ場はあるのか? 逃亡のどさくさに死んでくれるのが、一番好都合なんだが」

 この期におよんで冷徹なレオンに、ジュスティーヌは驚いた。

「えっ? そんなものはありませんわ」

 レオンは、一段高い所に設置されている豪華な王座をみた。王の血を浴びている。「こんなもののために⋯⋯」。革命的マルクス主義者であるレオン・ド・マルクス=新東嶺風にとって、『王の権威』のたぐいを真に受けるなど、愚かしいだけだ。


「王という身分は、人と人との相互関係にもとづいている。王が王であるのは、ただ数百万の人々の利害や偏見がこの人物を通して屈折して反映しているからにすぎない」(トロツキー『国家社会主義とは何か』)


 レオンの本心はこんなところだ。とはいえ、利用できる間は『王の権威』を一番尊重しているように振る舞うつもりだ。

「アリーヌ王宮一級侍女、マリアンヌ王宮一級侍女、キャトウ王宮一級侍女。王座を清掃しろ!」

 ジュスティーヌ付きの三人の侍女が、無言で前にでた。近くに掃除道具などはない。アリーヌが侍女服の上着を脱ぎ、それで血の付いた王座を拭き始めた。マリアンヌとキャトウもそれにならい、王座の回りに散らばっている肉片や血痕を素手で清め始めた。カムロのだれかが加わろうとしたが、レオンが止めた。

「手伝うな。ジュスティーヌ王女の侍女が新王の座を清めることに、意味がある」

 道具が無くても、さすが王宮侍女は手際がよい。十分足らずで王座の周りは、きれいになり、周辺を掃除しはじめた。


「さて。⋯⋯ジルベール。そろそろ行くか」

 レオンとジルベールは、第三王子が入っていった王族の私室に連れ立って行った。全ての者が、固唾をのんで二人を見守っている。

 十メートルほどの薄暗い廊下が続いている。血の臭いが充満していた。すぐに血だらけの斬殺死体が二つ転がっているのを見つけた。

「アドリアン王太子と王太子妃です」

 真っ先に『王族の間』に突入したジルベールの部隊が、すでに点検を済ましている。今はジルベールが案内係だ。ちょっと先に、もうひとつ死体が転がっている。

「フレデリック第二王子の死体です」

 逃げ回ったらしく、無惨に全身を切り刻まれている。

 国王の死体は、あとで見世物にでもするつもりだったのだろうか。おそらくは何人かに押さえつけられ、前から心臓をひと突きにされていた。無念の表情をしている。聖女マリアだった時に、聖遺骸とか称して頭と胴が離れた自分の死体を見世物にされたことを思い出した。

「気のいい親父だったのになぁ」

 ジルベールが応えた。

「この人が殺られちまうんじゃあ、だれが国王をやっても殺られちまう⋯⋯」

 一番奥のつきあたりで、先に入ったマクシム第三王子が喉を突いて自決していた。二人は、第三王子に息がないことを確認し、血溜まりに落ちていたローゼットの短刀を拾い、一分後には取って返した。


 王族の間にいる全員が立ち上がり、二人を待っていた。レオンは、ローゼットの短刀を掲げた。血が滴っている。第三王子は、自殺した。だれも王族殺しで手を汚さずにすんだ。張りつめた空気が緩んだ気がする。だが、ここからが本番だ。

 レオンは、最初に小さな失敗をした。

「役に立った」と言って、第三王子の血にまみれた短刀を、ホイとローゼット女性騎士団長に返したのだ。「王族は女神に選ばれた方々」などと本気で信じているローゼットは、顔面蒼白になり気絶しそうになった。


 余談だが、クーデター事件がひと段落すると、ローゼットは、裸足になって神殿に入り女神セレンに懺悔。『王族を弑した忌まわしい刃』を神殿に納め、暇さえあれば神殿に通って嗚咽しながら祈るようになった。どうやら王権神授説を真に受けていたらしい。雌豹のような美しい女性騎士が、毎日のように神殿で懺悔している。怖ろしい国王殺しに関わってしまったらしいという噂が王都に広がり、見物人が集まる有様だ。自宅でもローゼットは、泣きながらお祈りばかりしている。おかげで勤務成績は落ちるし、夫婦仲も悪くなった。これぞまさに神罰であるとローゼットさんは、とうとうノイローゼになった。まだ二十五歳なのに、「離婚して神殿に入り神女になる」「子供ができないのは神罰」「生涯かけて罪をつぐなう」などとわけの分からないことを言い出して、有能な女性軍人としてローゼットを高く評価していたレオンを、あわてさせた。


 最高敬語は難しい。前前前世の受験勉強が、こんなところで役に立った。

「レオン・マルクス王宮親衛隊総隊長代行が、この場にいる全ての者に伝える。アンリ二世国王陛下は「崩御」された。また、アドリアン王太子殿下とアリア王太子妃殿下も「薨去」された。フレデリック第二王子殿下も「薨去」された。なお、第三王子は、自らの手により絶命した」

 だれもが予想していたことだが、王宮と王都の最高指揮権を握っている者に宣言されると衝撃的だ。だがジュスティーヌ王女は、泣かない。そんなジュスティーヌに目をやり、レオンが大声で指示する。最高指揮官としての発言だから、あえて敬語は使わない。

「なにをしている? シャルル殿下を、王座にご案内しろ」

「えっ? ええ! そう、そうだわ。そうですわね!」

 ジュスティーヌが、青ざめているシャルルに耳打ちしている。

「さあ、勇気を出して。王族の義務を全うするのです。あなた以外に、だれがいるのですか?」

 実際には成人した王族は、三人生存している。上から、ジュスティーヌ第三王女、シャルル第四王子、ジュリエット第四王女だ。

 反乱に手を貸した容疑が濃厚のジュリエットは、問題外だ。

 ジュスティーヌ第三王女は、正妃の子で幼少期から英明なことで知られていた。男に生まれていたら今回のクーデターで殺されるか、逆に自力で第三王子を倒して王座につくかしていただろう。

 二十歳のシャルル第四王子は、側妃の子だ。二歳上の腹違いの姉であるジュスティーヌと、仲が良い。年若いが、あのジュスティーヌの弟と言われても納得できるほど賢い。今回の事件ですぐに殺されなかったのは、第三王子より王位継承順位が低かったからだ。それに知恵があるので、救出されるまでおとなしくしていた。

 年上で正妃の子だが、女子。夫と共にクーデターを潰した。

 年下で側妃の子だが、男子。姉とその夫によって救出された。

 ジュスティーヌが女王即位を宣言することは、十分にできた。しかしレオンは、王座争いでジュスティーヌは負けるとみた。最大の理由は、自分だ。

 このカウンター・クーデターで、レオンは株を上げた。とはいえ保守派貴族どもからは、文字通り『蛇蝎』・ヘビやサソリのように嫌われている。ひとつ間違えたら今回のクーデターだって、レオンが国王に無茶なことを吹き込んだために起きたとされかねない。

 ここは王位を譲る⋯⋯どころかシャルル王子の背中を押してみせることで、地盤を固めるべきだ。ジュスティーヌ王女は、倒れてしまった母正妃に代わって女性王族の筆頭になった。弟で未婚のシャルルの補佐にうってつけだ。そしてジュスティーヌ王女に知恵をつけるのは、レオンだ。女王の夫などよりも、よほど動きやすい。

 昨日まで王国大学の学生だったシャルルは、国王になるための準備などまるでない。今だって本人は、国王になるなど本当に嫌だった。シャルルは、父王と兄王子たちが殺され、なんの心構えもないままに、深夜に反乱軍が王の私室に斬り込んでくるような国の王に担ぎ上げられてしまった。高潔な知恵者の姉と、とにかく戦闘には滅法強い義兄が、最大の後ろ盾であり頼みの綱に思えた。

 前国王に政治家として長く仕えてきた法服官僚貴族たちも、心からホッとしていた。王位継承順位が三位に上がったジュスティーヌ王女が即位を宣言していたら、その場でシャルル王子ら王族はレオンに殺され、旧臣たちの命も危なかったのではないか? 難を逃れても、全国でシャルル派とジュスティーヌ派の戦闘が始まる。それに領主軍が加わり、フランセワ王国は収拾のつかない三つ巴の内乱になる⋯⋯。

 内戦を防ぎ当面の敵である領主貴族を対峙するには、今は王位継承順位一位になったシャルルが即位し、それを姉王女のジュスティーヌが支えるのが最良だ。王都パシテの貴族は、今は一致してシャルルの即位に賛同するしかない。フランセワ王家と王都の官僚貴族の結束を示そう。

 しかし、貴族の旧臣たちは、大変なことを見落としている。レオン・マルクスの存在だ。支配階級=貴族にとって内乱よりはるかに恐ろしい『革命』を、やる気満々なのだ。最初からレオンは、領主貴族も王宮貴族も関係なく、階級としての貴族を根絶するつもりでいる。フランセワ王国だけではない。人類の最後の戦争となる『世界革命戦争』を貫徹し、全セレンティアの社会構造を根底から覆す。新しい理想の社会に組み直すのだ。

 誰であろうと人はいずれ死ぬ。ならば意味のある死を贈ろう。ジュスティーヌですら、レオンがそこまでやる気だとは分かっていない。


 心底嫌ではあったが「王族の義務を果たす」ため、青ざめながらシャルルは王座に着席した。右の王妃座に女性王族序列一位のジュスティーヌが座る。

 いつの間にか、王座の横にレオンが立っている。

「シャルル一世陛下が、即位された! 全員、跪礼せよ!」

 居合わせた宰相からメイドまで、一斉に跪いて新国王シャルル一世に頭を下げる。その場で起立しているのは、王座・王妃座の脇にひかえているレオンだけだ。

 レオンの次の言葉に、ジュスティーヌを含めた全員が驚いた。

「ご即位を、お祝い申し上げます。わたくし、レオン・ド・マルクスの親衛隊総隊長代行の任を、お解き下さい。国王陛下に王宮最高指揮権をお返し致します」

 二十歳の学生第四王子。なんの覚悟も準備も経験も知識も無い青年に、戦争状態の王宮と王都パシテの統治権を返すというのだ。今の状態でシャルル新国王に統治などできるわけがない。

「うっ。そ、それは⋯⋯」

 ジュスティーヌが怒った⋯フリをした。

「あなた、そのようなことを! フランセワの王女の夫ならば、最後まで義務を全うするべきです」

「姉上⋯⋯。うむ。勅令。レオン・ド・マルクスを、王宮最高指揮官とし、王宮親衛隊総隊長に任命する。王宮最高指揮官兼王宮親衛隊総隊長に、王宮及び王都パシテの指揮監督権を委ねる。フランセワ王国の行政権・司法権・刑執行権は、国王が秩序回復を宣言するまで、王宮最高指揮官に委任される。王宮最高指揮官兼王宮親衛隊総隊長は、掌下の部隊を率いて早急に秩序を回復せよ⋯⋯レオン、秩序を回復するまでどのくらいかかる?」

 あまり長期間だと、「レオンは王権の簒奪を狙っている」などと保守派貴族が騒ぐ。なに。短めに言っておこう。いざとなったら延長すれば良いのだ。

「三日間です」

 シャルル新国王には、思ったよりはるかに短いように思えた。

「そうか。⋯⋯この緊急処置は、十二月十九日深夜十二時まで有効とする」

 事実上の軍政と戒厳令に合法性を持たせることがレオンの狙いだ。レオンの権力の源泉だった王宮親衛隊総隊長代行の地位は、王族だが国王ではない妻のジュスティーヌ第三王女に委任されたというあやふやな裏づけしかない。例えば前国王に勅任された第二中隊長・第三中隊長が現れたら、どうするのか? レオンの指揮する戦闘や逮捕・処刑などは、ひとつ間違えたら違法行為として処罰されかねない。ついさっきレオンの部隊に命を救われたばかりの貴族どもが、すぐに手の平を返すのは目に見えている。

 それを避けるには、レオンの行使してきた王宮親衛隊の指揮権に国王の承認が絶対必要だった。なので辞任をチラつかせて脅しをかけた。即位したシャルル一世が最初にした仕事は、レオンの権力を固めるための緊急勅令の公布となった。

 反レオン派の貴族が異を唱えることなど、できるはずがない。「なら、おまえらが領主軍と戦え」と返されたらどうするのか?


 騎兵部隊や女性部隊までかき集めても、今のレオンの動かせる戦闘部隊は三百名ほどだ。たった三百名が、人口千五百万人のフランセワ王国政府が今自由にできる軍組織なのだ。

 保守派貴族の子息が多かった王宮親衛隊第一中隊の百五十名は、全滅した。第二中隊・第三中隊も半数が死亡。もしくは負傷している。熱烈なレオン支持で固まっている第四中隊だけが無傷だ。

 口約束を信じてはならないことは、レオンは前前前世の空港反対闘争で骨身にしみていた。必ず人々の前で明言させ文書にさせねばならない。

「書記官!」

 ようやく解放された文官たちは、新国王即位に必要な書類やら、前国王の崩御にともなう書類やらの作成に駆けずり回っている。近くにいた書記官長は「もう少し待って下さい」とか言って、汗まみれでどこかに駆けていってしまった。新国王即位に体裁をつけることの方が、軍事よりも優先されるらしい。

 忙しくて人手不足は、戦況に影響がでなければレオンにとって好都合だ。偵察や伝令で、二百人のカムロたちが活動している。騎士や、うまくしたら貴族に取り立てられる者もいるだろう。王宮の戦闘で嫡子を亡くした名門貴族家も多い。国王を押さえていれば、養子に入れることもできる。

「しょうがねぇなぁ⋯⋯。ローザ、筆記しろ」

 とんでもなく美しい少女が立ち上がり、前に出た。金髪碧眼でジュスティーヌに似ている。十八か十九歳くらいに見える。実際にはローザは、十七歳になったばかりだ。水商売女の娘に生まれ、虐待されて成長した。十三歳になった日に客を取らされそうになり、自宅兼売春酒場から逃げ出して浮浪少女に転落。路地裏で餓死しかかっているところをレオンに拾われて、カムロ組織に加わった。

 ガリガリに痩せこけ十歳くらいにしか見えなかった少女が、四年でジュスティーヌに匹敵する美女に成長した。ジュスティーヌが白薔薇なら、色白で少し陰のあるローザは香る白百合に見える。

 ローザは空いている机に着席してペンを執り、先ほどのシャルル一世の言葉を一言も誤らず書き写した。美貌だけでなく頭も抜群に良いようだ。

「~緊急勅令。レオン・ド・マルクスを、王宮最高指揮官とし、王宮親衛隊総隊長に任命する⋯⋯~」

 作成した書類を新王陛下の元にうやうやしく届けた。所作もジュスティーヌに似ている。ローザに礼法を仕込んだのが、アリーヌだからだろう。アリーヌには、教師の才能もあったようだ。礼儀作法も完璧だ。今のローザは貴族の令嬢出身の女官にしか見えない。

 ローザがレオンの手の者であることは、誰の目にも明かだ。生首事件以降、保守派貴族に抑え込まれていた民衆派のレオンが、民の力を集めて着々と地力を伸ばしていたことに多くの者が気がついた。その場の貴族の一割くらいは「さすがレオン・マルクス。いざという時に頼りになる」と感心し、二割は「こんな時には役に立つが⋯⋯危険な男だ。この事件が済んだら、どう抑えるか⋯⋯」と考えた。

 マクシム第三王子の自殺によって領主貴族のクーデターは、既に失敗している。もう残党狩りの段階だ。しかし、現状を把握できていない王宮内保守派の混乱に乗じた第二クーデターを、レオンは進行させつつあった。平時ならば絶対にあり得ないローザの秘書官抜擢は、その一環だ。今はとにかく人手が足りない。クーデターの間は、身の危険も省みずシャルル一世から離れずに実務を担い、ローザは見事な仕事ぶりを見せた。

 事件が終わった後で、レオンはローザを正式に国王付きの秘書官として王族の間に押し込んだ。いつの間にかローザ秘書官がいなければ、シャルル新国王の仕事が回らなくなっていた。これでシャルル一世の言動ばかりか、勅令や勅許などの法令・通達や貴族どもの請願なども、ローザを通して全てレオンの耳に入るようになった。


 正式に『王宮親衛隊総隊長』となって『王宮最高指揮権』を手に入れたレオンは、さっそく保守派貴族どもからの奪権に動き出した。まずは揺さぶりをかける。

「陛下、ご報告致します。王都警備隊本部が、未だに反乱軍に占拠されております」

 王族の間は、新国王を頂点に上位貴族・高級官僚たちの臨時閣議室兼避難所と化している。その臨時閣議室のメンバーが総立ちになった。

 王都警備隊本部とは、現代日本で例えれば警視庁と都庁を合わせた組織に近い。王宮からは徒歩十分ほどだ。騎馬なら五分とかからない。

「て、敵軍がそこにいるというのか?」

「間違いありません。現在、偵察隊を派遣し、監視を続けております」

 貴族どもが、わいのわいのと騒ぎ出した。

「敵が攻めてきたらどうする!」

「こっちから攻めて行ったらどうだ?」

「敵は何人いるんだ?」

「王都の治安は、どうなっとる?」


 平時には、それなりに仕事をこなしている者どもが、非常時にはこうもうろたえ無能をさらすとは⋯⋯。シャルル新王は、目が覚める思いがした。まともに答えられるのは、事態を掌握しているレオンだけではないか。

「敵は屋内にいるため、正確な数は不明です。しかし、繋がれている馬匹の数などから百名前後と推定されます。各地区の治安に関しては、王都警備隊地区分隊が独自に動いており、問題ありません」

 また無責任なことを言うやつがいる。

「百人程度なら、こっちから攻めたらどうだ?」

 レオンは、チラとそいつを眺めそのまま無視してシャルル国王に向かって説明した。レオンの高位貴族に対するそんな態度が、反感を買うのだが⋯⋯。

「王宮を厳護するのに、現在の三百名の部隊でも不足です。兵を分けるのは得策ではありません。他にも敵が潜んでいる可能性もあります。手薄になった王宮を突かれると危険です。それに⋯⋯⋯⋯」

 本当のところレオンは、「敵が潜んでいる」はずがないと考えていた。潜んでいる敵とやらは、一番肝心な時に何をしていたのか? まあ、仕事しやすいように、せいぜい貴族どもにはビビっていてもらおう。

 シャルル新国王が、うながした。

「それに、なんだ? レオンが口ごもるとは珍しいな」

「あくまで私見ですが⋯⋯。敵軍の主力は、マウリッツ公爵とノアイユ公爵の五百名の領主軍騎兵部隊でした。真の敵は、担ぎ出された第三王子ではありません。領主貴族どもです。やつらの騎兵隊は足が速い。その気になれば、西方国境の領主領からでも数日で王都に到達します」

 臨時閣議室は、今度は水を打ったように静まりかえった。領主ごとに分立しているとはいえ領主騎兵隊は、合わせれば一万を超える。しかもカネと暇に飽かせてよく訓練されていて精強だ。千騎の騎馬部隊を持つ領主貴族さえいる。今の混乱の中で千名規模の部隊に王都に突入されたら、クーデターどころではない。王宮は落城して、フランセワ王朝は終わりだ。王宮に寄生している官僚貴族も終わる。

 シャルル新国王は、ふたたび顔面蒼白となった。父祖から受け継いだ王朝を、自分の代で滅亡させるわけにはいかない。

「新手が攻め込んでくるというのか? レオン、どうすればいい?」

 軍事問題でまともに相談できる相手は、レオンしかいない。

「王宮の混乱が領主貴族に知らされるのは、早くて明後日です。領主騎兵隊が王都に到達するのは、最速で二日はかかります。王宮が囲まれるまで、最悪でも四日は猶予があります。それまでに事態を収拾して迎え撃つ準備を整えれば、戦闘にはならないでしょう」

 現実には、王都パシテでクーデターが発生したという報告が届いたからといって、詳しい状況も確認せず翌日に軍を出す領主などいるはずがない。しかも届いた報告は、「王宮内に突入した部隊は、全滅した。クーデターは失敗。鎮圧された」という内容になるのだからなおさらだ。

 そんなことは百も承知のレオンなのに、自分の影響力を強めるために、シャルル新国王の危機感を煽りたてた。混乱状態に突然投げ込まれた者は、冷静な判断力を失い常に最悪の事態を想定してしまう。シャルル新国王をはじめ王族の間の高位高官貴族らは、そのような精神状態に陥っていた。

 さらに、これからの仕事をやりやすくするために、レオンは領主貴族どもに対する恐怖と憎悪をシャルルの脳内に、ここぞとばかりに注ぎ込んだ。善政を敷いていた父王と、常に公正だった兄王太子、上品で優しかった義姉の王太子妃までもが惨殺されている。「これが人間のすることか」と、シャルルはそれを思うだけで怒りで目が眩みそうだった。そして、あの残忍な殺され方をするのが、次は自分の番かと思うと、ゾッと背中に氷柱を差し込まれるような気持ちになった。

 弑逆は、第三王子が主犯ではない。その後ろには、兵を養い無傷でいる百家近い西方領主貴族どもがいる。レオンに吹き込まれシャルル一世はそう確信した。

 レオンは、シャルルの直感的で感情的な考えを、筋道立て整理してささやいた。

「領主貴族どもは、独立国の君主に納まりたいのです。それには、フランセワ王国を統一する王家は邪魔な存在です。やつらを放置すれば、何度でも反乱事件が起こります。やがてフランセワ王国は分裂して、周辺国に吸収され滅亡するでしょう。領主貴族どもは、自分の領が保てれば国が滅んでもよいのです」

 シャルル一世は、その通りだと考えた。そして領主貴族ども対する近い将来の開戦を、深い憎悪とともに決意した。

 その剣となるのは、レオン・アルフォンス・ランソワ・ド・マルクス。姉の夫だ。「さすが姉上だ。人を見る目がある。この男がいてくれて助かった。レオンの反撃がなければ、わたしも殺されていただろう」。







 新国王は、王族救命の功でレオンを伯爵から公爵に陞爵させることをその場で宣言した。 

 レオンは、王宮の司法・行政と戦闘部隊⋯今は三百人しかいないが⋯を指揮する王宮指揮監督権者に勅任された。王都パシテは、王宮の付属物とみなされる。なのでレオンは、王都の事実上の軍事独裁官だ。

 しかし、よほどのことがなければレオンは独裁権を行使しようとはしない。シャルル一世に耳打ちして策を授け、勅令として発布させた。レオンの提言は、必ず採用されるのだから、国王を通した方がよい。独裁者となったレオンだが、神ではない⋯⋯前前世は女神だったが⋯⋯。後知恵で揚げ足を取ることは容易だ。しかし国王の勅令を後から非難することは、誰にもできない。

 ついさっきレオンの推薦で国王秘書官に勅任され大出世したローザがシャルル国王の横につき、動かぬ証拠の『お言葉』をひと言も漏らさず記録している。

 レオン・マルクスは、日本人の新東嶺風の転生だ。左翼とはいえ無意識に日本的無責任体制の元である天皇制を模倣していた。

 レオンは、国王という絶対に責任を問うことのできない神格的な存在を政治利用している。その神格的な存在に形式的に政策を通すことによって、為政者の政治責任を神的な王権の中に蒸発させてしまうのだ。この手口を使うと権力・強制力は行使できるのに、責任の所在は消えて無くなってしまう。


 レオンと話している内に、シャルル一世の顔色がだんだん明るくなっていった。レオンは、問題を丁寧に解いてみせる教師のように、文字通りシャルルを導いていった。

「優先順位が高いものから、手を打っていきましょう。数日後に来るかもしれない領主軍の騎馬部隊よりも、王都警備隊本部を占拠している目の前の反乱軍を無力化します」

「だが、王宮からは部隊は出せないと言ったではないか?」

「二十人ほどなら、出せます。おそらく王都警備隊長官は殺されています。しかし、占拠されたのは警備隊本部だけです。他の地区警備隊は、警備隊本部との連絡を絶たれ、現状を把握できていません」

「地区警備隊は無傷か。早急に新たな王都警備隊長官を任命せねばなるまい」

「はい。新しい王都警備隊長官には「全警備隊員は王宮前広場に集合せよ」と通達させます」

 国王が直問中に廷臣が口を挟むなど、普通は考えられないのだが、非常時だ。誰かが言った。

「警備隊が領主騎兵隊に勝てるのか?」

 まあ、もっともな疑問だ。レオンの計画は、警察署から警官をかき集めて米軍の精鋭部隊と戦わせろというようなものだ。

「たしかに戦闘になったら勝てません。王宮前広場に警備隊を集めるのには、他に目的があります。フランセワ王国政府が機能していることを目に見えるかたちで示し、敵を孤立させるのです」

「敵の戦意を殺ぐわけか。では、王都警備隊長官にはレオンを⋯⋯」

 レオンが手を上げて押し止めた。

「お待ち下さい。私は王宮内で指揮をとらねばなりません。各地区警備隊に出向く必要のある警備隊長官を兼務するのは無理です。王都警備隊長官には、ジルベール中佐を推薦します」

「ジルベール? おおっ、フォングラ侯爵家の傷の男か。助けられたぞ!」

 新国王のジルベールに対する覚えは、至ってめでたいようだ。

「はい。決死隊を率いて王族の間に最初に突入した男です。ジュスティーヌ王女殿下がルーマで暗殺団に襲われた際には、ラヴィラント隊長と共に五人の賊と戦い、顔に太刀を浴びても一歩も退きませんでした」

 シャルル新国王は、大いに喜んだ。賊徒と戦える者がレオンたった一人だけとは心許ないが、他にも勇猛な男がいた! 敵をなぎ倒し、血刀を振りかざして王族の間に突撃してきた男だ。

 貴族たちは、ジルベールがレオンの弟分で、親友に近い仲だということを知っている。ジルベールは、生まれや育ちからみても民衆派だ。「レオンという男は、この混乱に乗じて自分の派閥の権力を固めるつもりなのか?」。もちろんその通りだ。

 妾腹の不良にしか見えないジルベールをほめちぎって国王に推薦するレオンに、多くの貴族は眉をひそめた。しかし、表立って反対もできない。対案がないからだ。だが、いずれ反乱部隊が鎮圧された時には⋯⋯。「それまでは待ってやる。それからだ。下民にへつらう粗暴なやつらを排除するのは⋯⋯」。

 今の局面では、戦闘という暴力が全てを決する。王宮の守備隊が領主軍に負けたら、この場の全員が殺されても少しも不思議ではない。必要なのは軍事指揮官だ。シャルル新国王も保守派貴族たちも、そんなことは分かりきっていた。だからジルベールの抜擢に、反対はない。

「ジルベール・ド・フォングラ中佐を、王都警備隊長官に勅任する」

 引っ張ってこられ直立不動の姿勢で国王の前に立ったジルベール中佐が、拝命した。レオンが口を出した。

「王都警備隊長官は、中佐では務まりません。併せて進級が必要です」

「それはそうだな。警備隊長官の階級は?」

「少将です」

 ジルベール中佐はその場で二階級特進し、二十二歳でフランセワ王国史上最年少の将官になった。本人が一番驚いている。

 レオンが呼び込んだカムロたちが、例のコンニャク印刷機を使ってたちまち印刷した。三十枚ばかりの紙を受け取ったレオンは、ジルベールに押しつけた。

「ほら、全部にサインしろ。⋯⋯くっそ、警備隊印が無いな。仕方ない。陛下、王章をお借りします」

「あ、ああ⋯⋯。好きにしろ」

 レオンとジルベールとローザの三人で、あっという間に王都の警備隊を掌握するための命令書がつくられた。


「布告

 王都警備隊本部が、武装した反乱部隊により占拠された。警備隊長官の所在は不明である。国王陛下は、ジルベール・ド・フォングラ少将を新長官に勅任された。王都警備隊は、フォングラ少将の指揮下に入る。各地区警備隊は、地区分署に最小限の人数を残し、速やかに王宮前広場に集合せよ。

 レオン・ド・マルクス王宮最高指揮官

 ジルベール・ド・フォングラ王都警備隊長官」


 王都警備隊本部が占領されているため警備隊印が無く、代わりに王章と王宮親衛隊印を押印した。

「よし。騎馬隊に渡して地区警備隊に配らせろ。警備隊兵が集まったら、王宮の武器庫を開き武器を分配する。二十人ばかり親衛隊を貸すから部隊を編成し指揮をとらせろ」。第四中隊の騎士は、全員が中隊長水準の指揮統制訓練を受けている。

 ジルベールがニヤニヤし始めた。こいつも頭が良い。レオンにだけ聞こえるように小声で言う。

「敵の騎兵部隊がここまで突入してくると、本気で考えてるんですか? へへ⋯」

 思わずレオンも笑いそうになった。だが、居並ぶ貴族どもを黙らせるには、やつらを案山子に怯えさせていなければならない。

「可能性はあるだろ。敵部隊の攻撃があった場合は、おまえが指揮を執り、王宮前広場で全滅するまで戦え」

「どうして王宮前広場で戦うんです?」

「敵が狙うとしたら王宮だ。街で戦闘したら、民衆に被害がでるだろうが。火事が出ても消すやつはいないぞ」

 あくまでレオンは、民衆派だった。「民に被害が及ばないように王宮前に敵を引き寄せる」というレオンの計画は、ノブレス・オブリージュにかぶれた若手騎士たちを感動させ、「高貴な王宮より下賤な平民街を優先するのか」と、戦闘に巻き込まれるのが怖い保守派貴族を憤激させた。

「ジルベール長官は、伝令を使って王宮から指揮をとれ。警備兵が集まるまで、オレ⋯王宮最高指揮官の近くから離れるなよ」


 まだまだカウンタークーデターの仕事は山積みだ。レオンは、小走りでシャルル新国王の前に立った。戦争状態ということになっているので、礼法は免じられる。

「報告いたします。軍総司令部と連絡が取れません」

 正式には、『フランセワ王国軍総司令部』。常備軍である十個軍団十万人を擁する。さらに士官学校、特殊部隊、保安部、情報部、特務機関なども加え、計十一万人を指揮するフランセワ王国最大最強の暴力装置だ。総司令部は王宮近くの官庁街にあるのだが⋯⋯。

 シャルル新国王は、思わず王座から腰を上げた。

「軍総司令部が? どういうことだ? まさか敵に?」

 百年近くも本格的な戦争がなかったため、軍総司令部は無能貴族の閑職となっていた。おかげでレオンがこのチャンスを掴むことができた。

「戦闘突入前の深夜から何度も使者を送っているのですが、拘束されたり追い返されたりです。しかし、敵対行動を取るわけではありません⋯⋯」

 この非常時に王宮親衛隊からの使者を軍総司令部が拘束するとは、どういうことか? 困惑するシャルル新国王に、レオンがこの男らしい率直な物言いをした。

「どちらが勝つか、日和見していたのでしょう。反乱軍を王宮から叩き出したことを知ったら、向こうからやってくるのではないかと」

 シャルル新国王は若い。若いから潔癖であり、卑怯なやつが嫌いだった。

「おのれっ! 軍総司令官を解任するっ!」

 レオンには、それだけでは足らない。

「今回の不服従は、軍総司令部の総意です。総司令官だけでなく全幕僚を調査し、日和見分子は拘束し軍法で裁くべきです。そのうえで各地に駐屯している軍団を王都防衛に呼び寄せましょう」

 軍団は、主に国境地帯に配置され、敵対国と対峙している。その軍団を王都に向けるのか? それは、しかし⋯⋯。

「来るとすればですが、領主領軍の騎馬部隊が王都に到達するのは、おそらく五日か六日後です。軍団は徒歩ですので、一番近い部隊が最速で進んでも五日はかかります」

 シャルル新国王は考え込んでしまった。やはり軍団を国境から離すことを危惧しているのだ。

「千名程度の騎馬部隊など、一万名の軍団が接近していると知ったら、引き返します。この処置で、王都内での戦闘を未然に防ぐことができます」

 殺された父王同様に、シャルル新国王も平和主義者だった。外国との戦争は避けたい。そのためにこそ敵対国に隙を見せたくない。

「駐屯地にいくらか軍団兵を残して、敵対国を牽制します。ついで王都に到達した軍団の圧倒的な軍事力をもって速やかに反乱を鎮圧。再び国境にとって返せばよいのです。作戦は十二日間で終了します」

 たしかにこのまま反乱軍とにらみ合っていても、どうしょうもないのだ。再び敵の奇襲を食らわないとも限らない。今の王都では、なにが起こるか分からない。シャルル新国王としては、一刻も早く事態を収拾したい。

「それしかない⋯か⋯。だが、軍総司令官はどうする?」

 これこそレオンが欲しかったものだ。『なにくわわぬ顔』とは、このことをいうのだろう。

「私が、やらせていただきましょう。いずれ軍団が王都に到着したら、王宮最高指揮官の指揮下に入ることですし」

 猫なで声のレオンは、新国王のみならず居合わせた高位高官貴族をだまくらかした。たしかに緊急時の武官職には、レオンが最もふさわしい。しかし、こいつに軍権を与えたらどうなるか、この場でそこまで考えることができた者は数名だった。何万もの軍を首都に引き込んで忠臣ヅラをしたレオンは、なにをするつもりなのか? 数時間前に集団で斬り合い、ついさっきまでいくつもの死体が転がっていたこの王族の間で、そこまで考えを至らせることは難しいだろう。シャルル一世も同様だ。

「ああ、早急な事態収拾には、それしかないだろう。レオン・ド・マルクスを大将に進級させ、フランセワ王国軍総司令官に任命する。緊急勅令だ」

 緊急勅令は、大臣たちの会議や承認をすっとばした。国法さえ超越する超権力だ。アッという間にローザ秘書官が、公文書にして王章を捺してしまった。

 女性王族の序列一位として王妃の席に座っていたジュスティーヌ王女は、四年近くも夫婦として暮らしていたので気づけた。隠しているが、レオンは喜色満面だ。

 実際にレオンは、ガッツポーズでも取りたい気分だった。王都の治安警察組織は、親友のジルベールが握った。シャルル新国王の最側近として、妻のジュスティーヌとカムロメンバーのローザ秘書官が控えている。そしてレオンが、王宮・王都の独裁権と国軍の指揮権。王都内に軍団を進入させる許可まで取った。

 王宮に巣くっている貴族どもには、軍事力も新国王の信頼もない。「官僚どもが貴族ヅラして威張り返りやがって。さぁ、寄生虫退治だ!」。

 たんまりと恐怖を味わせてやろう。

「陛下、軍団の到着前に王都の反乱軍を壊滅させる手を、できる限り打ちましょう。領主貴族どもやブロイン帝国の介入、それに民衆の被害を防ぐためにも、手を打つのは早いほどよいでしょう。軍団の投入は最後の手段です」

 ついさっきは、軍団を呼び寄せて反乱を鎮圧するとか言ってたくせに⋯⋯。レオンは、窓を指差した。王族の間は、王宮の五階にある。天井が高いので現代の日本ならマンションの十階くらいの高さだ。

「ご覧ください。数十万もの民衆が、フランセワ王家を慕って王宮を取り囲んでいます」

 実際は単なる野次馬で、なんの役にも立たない烏合の衆なのだが⋯⋯。王座を立って外を眺めた新国王は、王宮の周りにひしめく王都民の数の力に圧倒され、感動してしまった。

「父王陛下の仁政の賜物だ。たしかに軍団の王都での戦闘は、最後の手段にしたい」

「はい。悪逆な反乱に民衆も憤っております。王都の総力を挙げ、反乱軍撃退に協力させましょう」

 実は、これがレオンの最もやりたかったことなのだ。これに比べれば、軍の指揮権さえも問題ではない。そのために都合のよいことをベラベラしゃべり、若い新国王を煽る。

 誰かが異を唱える前に急いでローザ秘書官に、口述筆記をさせた。カツオ節を前にした猫のようだ。


「布告

 本日深夜に王宮内で一部の悪逆な貴族による反乱が発生した。王宮親衛隊の反撃により反乱は速やかに鎮圧され、王宮内の敵は既に壊滅した。しかし、少数の敵敗残部隊が王都内市街地に逃亡し、一部は王都警備隊本部に逃げ込み、同所を占拠している。

 フランセワ王国国王及び王宮最高指揮官は、全ての王都民に対して、いついかなる場合においても反乱部隊に属する集団・個人に対する飲食料、移動手段の提供など、あらゆる便益の供与を厳に禁止する。この緊急令に反した者は、反乱に組したとみなされ、最高刑に処せられる。反乱分子から貴族位とそれに伴う特権、ならびに国家に保護される権利は、全て剥奪された。王都パシテの治安責任者である王宮最高指揮官は命令する。全ての王都民は、その身分を問わず武器を取り、残存反乱分子を摘発し、発見し次第攻撃せよ。武器は、王宮親衛隊と王都警備隊により供給される。武器が不足する場合は、熱湯、布切れ、棍棒、レンガ、包丁などあらゆる物を武器に転用せよ。地の利を生かし、時と場所を選ばず敵を攻撃せよ。反乱分子を倒した者には、あまねく報償が与えられる。

 フランセワ王国国王シャルル一世

 王宮最高指揮官・軍総司令官レオン・ド・マルクス大将(王宮印・親衛隊印)

 王都警備隊長官ジルベール・ド・フォングラ少将(急遽作らせた警備隊印)」


 ローザ秘書官が筆記した高級紙を満足げに手にしたレオンは、うやうやしげに新国王に差し出した。

「どうぞこちらに、ご署名と王章をお入れ下さい」

 この肝心な時に立ち上がり、声を上げた男がいる。

「それはっ! お待ち下さい!」

 元王宮親衛隊騎馬隊隊長のラヴィラント伯爵だ。野盗に襲われたジュスティーヌの救援に駆けつけたり、レオンとジュスティーヌのルーマ巡礼隊の隊長も務め、暗殺団に襲われた時にはジルベールと共に先頭に立って戦った。レオンとは、よく知った仲だ。そういえばラヴィラント隊長からカネを借りては、毎晩のように乱痴気騒ぎをしたこともあった。⋯⋯カネは返したっけ?

 ラヴィラント伯爵家は、フランセワ王家の股肱。代々の忠臣で、宰相や大臣を輩出している伯爵家の筆頭だ。侯爵に陞爵しないのは、中位貴族のまとめ役として期待されていることと、侯爵にしてしまうと実務に使いにくくなるためだ。数代前に王女が降嫁していることもあり、家格は並みの侯爵家よりも高い。

 ラヴィラント伯爵は、親衛隊騎馬隊の隊長職が気に入っていたが、国王直々に王太子をはじめとする王子たちの教育・調整係に勅任された。次の国王の教育係なのだから、国王が代替わりしたら宰相に任命されると目されていた。文官となり、王太子らと寝起きを共にしていたので、クーデター軍に捕らわれ監禁されていた。

 レオンは、王宮貴族など馬鹿にしきっていた。なので頭が良くて気骨のあるこの男を見落としていた。舌打ちしたい思いだ。男女王族のトップを丸め込んで、事実上の軍事独裁者と化しているレオンに刃向かうラヴィラント伯爵は、決死の面もちだ。

「民衆に武器を渡し、戦に差し向ける。そのような布告は、おそれながら我がフランセワ王国の将来に、多大な禍根を⋯⋯」

 即座にレオンは、ラヴィラント伯爵を政治的に殺す決心をした。「ラヴィラントさんに、これ以上喋らせたらヤバい!」。そして昔のスターリン主義国の悪辣政治家のような真似をすることにした。⋯⋯政治はきれいごとではない。

「伯爵の地位にありながら、反逆者どもと打ち払おうという布告に反対するとは、信じがたい暴挙ですな。王太子殿下をお護りもせず、どこに隠れていたのやら。⋯⋯スパイかもしれない」

「なっ!」

「ええっ!」

「そんなっ!」

「いやっ! それは!」

 人格識見に優れており、そもそも王太子が国王に即位したら宰相の座が約束されていたラヴィラント伯爵が、クーデター軍のスパイのはずがない。レオン以外のその場にいた全員が、新国王も含めて仰天した。

 たまりかねたジュスティーヌ王女が、割って入った。ラヴィラント伯爵のことは子供のころから知っている。ルーマのクラーニオの丘では暗殺団から命を救われた。

「あなたっ! ラヴィラント伯爵に、それはあまりに⋯⋯」

 なにも言わず、冷ややかにジュスティーヌを見下ろすレオン。その目は「黙っていろ」と言っている。レオンがこの目をした時に無視をすると、大変なことをしでかす。ラヴィラント伯爵を殺してしまうかもしれない。

 レオンの性格を熟知していたジュスティーヌ王女は、下を向きそのまま黙ってしまった。その場にいた貴族は、弟国王の前で姉王女を黙らせたレオンに恐怖の目を向けた。

 おそらくこの場で最も賢いジュスティーヌは、考え込んだ。「あの温厚なラヴィラント伯爵の強硬な反対。レオンのあわてぶり⋯⋯。なにかある⋯⋯。なに? 民衆に呼びかけて反乱軍の糧道を断ち、武器を配って戦わせる。良い考えだわ⋯戦わせる? 民衆を戦わせる⋯⋯。軍団まで呼び寄せたのに? 民衆に武器。⋯民衆⋯平民⋯貴族。⋯平民と貴族の違いは? 貴族は武器を持ち、戦う義務と権利がある。平民は武器を持てない。平民に戦う権利はない。平民が、武器を取り戦う権利を手に入れる。平民の集団が反乱軍の貴族を倒す。そうなったら貴族と平民にどんな違いが? 平民が武器を手にした時に貴族と対等になり、貴族制の土台が無くなる。貴族の頂点に立つフランセワ王家は、その時どうなるの?」

 人口の一パーセント程度の貴族が、権力と富を独占するフランセワ王国。貴族の力の源泉は、暴力の独占だ。そんな国で革命を成し遂げるには、民衆に武器を手渡し組織しなければならない。クーデター騒ぎは、良い口実だ。レオンは、そう考えていた。これが一番やりたいことだ。


「武器の使いかたに習熟することに努めないような被抑圧階級は、⋯奴隷としてとりあつかわれる値うちしかない」(レーニン『プロレタリア革命の軍事綱領』)


 レオンだってラヴィラント伯爵をスパイだなどとは、毛ほども思っていない。だから気が引けてどうしても丁寧な口調になる。

「ラヴィラント伯爵。残念ですが、あなたにはスパイ容疑がかかっています。容疑が晴れるまで、別室でお休み下さい」

 反対意見を述べたくらいで拘束するのはやり過ぎだと、今度は新国王が口をはさもうとする。シャルル一世にとってもラヴィラント伯爵は、師匠でありその人柄は子供の頃から知っている。

「レオン、ま⋯⋯」

 ジュスティーヌ王女が、弟王に素早く耳打ちした。小声で話しているが、静まりかえった屋内では、意外によく響いた。ラヴィラントの耳にも入った。

「シャルル。ラヴィラント伯爵とレオンの間に、すれ違いがあるようです。二人は王国の柱石です。話し合いをさせなければなりません。会議が終わったら、すぐにレオンを連れてラヴィラント伯爵と話し合いを持ちます」

 だから、このまま黙って連行させろと言っている。四歳からラヴィラントを知っているジュスティーヌだが、口をふさぐための言いがかりだということを承知で、レオンの側に立った。

 代々王家に忠誠で穏健なラヴィラント伯爵には、レオンのような狂気じみたところはない。後でも言葉を尽くして謝罪すれば、なんとか納まる。民衆武装計画が潰されたら、レオンはもうなにをするか分からない。ジュスティーヌはそう考えた。レオンは、まるで猛獣だ。でもジュスティーヌは、レオンの獣じみた部分に、麻薬のようにどうしょうもなく惹きつけられてしまう。

 シャルル新王は、物心ついたころから自分の手を引き先導していた二歳上の優れた姉に頭が上がらない。姉は常に公正で賢い。意見がぶつかった時は、いつでも姉が正しかった。たしかに今は、二人を離して落ち着かせた方が良いかもしれない。⋯⋯仕方がない。

「ラヴィラントは、罪人ではない。少し席を離れるだけだ。貴族に対する敬意を持ってあつかえ」

 裏切りを連発されたラヴィラント伯爵は、もう言葉も返さず黙って元部下の親衛隊騎士に連れられていってしまった。

 レオンに直言できる最後の一人が声を上げた。ジルベールは、驚いたのだ。少将に大出世したのに、下町で生活していたころの素がでてしまった。

「おいおい、センパイ。こりゃ、いったいどうしたんですかい?」

 レオンだって、常に自分をかばってくれていた恩人に、こんなことはしたくない。ため息をついている。

 若手貴族には熱烈な支持者が多いとはいえ、王宮で地位のある高位貴族の中では、民衆派のレオンは孤立している。内心ではレオンの識見に感心している中立派貴族はいるものの、本当の味方といえば、妻のジュスティーヌ。レオンを見所のある婿とみていた前国王。ジルベールが親しくしているので引きずられたフォングラ侯爵家。あとは王家忠誠派のラヴィラント伯爵家くらいだ。

「ふーっ。⋯⋯ジルベール。王宮前広場の警備隊は、どのくらい集まった?」

 ラヴィラント伯爵の件に関しては、答えるつもりはないという意思表示だ。取りつく島もない。

「⋯五百といったところかな」

「よし。親衛隊騎士二十名と警備隊兵五百名で部隊を編成し、軍総司令部を包囲しろ。通信・交通を遮断し、蟻一匹外に出すな」

 ジルベールの頭からラヴィラント伯爵のことなんか飛んでいった。戦うことが大好きなのだ。

「包囲だけですか?」

「非武装で総司令部に入り、軍総司令官及び幕僚全員が罷免されたことと、王族の間に出頭せよと伝えろ。ローザ秘書官、命令書を書け。陛下、ご署名とご押印をお願いいたします」

 反乱軍に突撃して暴れることができると喜色満面だったジルベールは、あきらめない。

「敵が命令に従わなかった場合は?」

「『敵』じゃねえだろ!」とレオンは舌打ちしたかった。この状況で軍部を敵に回してどうする。

「そのまま包囲を継続。考える時間をやれ」

「攻撃があった場合は?」

 本当に戦闘がしたいんだな。戦争は手段であって目的じゃないぞ。

「ただちに反撃してせん滅せよ。⋯⋯ローゼット・クラフト大尉!」

 ジュスティーヌの側から離れたローゼットは、王族の間の警備に加っていた。第三王子が自殺に使った短刀が自分の懐にあるのが恐ろしい。

「は、はい⋯」

 ほんの四年前に、安居酒屋で乱痴気騒ぎをして護衛の自分と剣を抜いてケンカをしたこの男は、今は国軍の総司令官にまで出世した。立ち居振る舞いなど、まるで別人だ。ローゼットは、そのこともまた恐ろしく感じた。

「ジュスティーヌ殿下をお護りした抜群の功績により、ローゼット大尉を少佐に進級させる。⋯どうした。 顔色が悪いぞ?」

 少佐といえば、女性軍人としてはかつてない最高位だ。

「いっ、いえ。わたくしは、その⋯⋯」

「おまえの短刀で、第三王子が自殺したのを気に病んでるのか? 気にすんな。民衆から委ねられた権力を私物化しようとするような奴は、死んで当然だっ!」

 日ごろレオンからそんなことを吹き込まれている警備の第四中隊騎士は、ウンウンと頷いている。ジュスティーヌ王女は、当然とばかりに顔色も変えない。新国王もジュスティーヌ王女の影響で民衆派に寄っていた。日頃から姉に『王権民衆委任説』とでもいうものを吹き込まれていたシャルル一世は、王権は女神から授けられた絶対不可侵の権力という『王権神授説』をとらなかった。「民の声は、神の声なり」なのだ。保守派貴族たちは、罪人とはいえ王族に対する公然の不敬発言に強い反感を持ったが、面に出すとラヴィラント伯爵の二の舞だ。そもそも当の王族たちは涼しい顔をしている。

「ジルベール少将! ローゼット少佐を副官につける。戦闘開始は、必ずローゼット少佐の同意を得なければならない。これは絶対命令だ。協同して作戦を遂行すること!」

 ルーマ巡礼で一緒だったローゼットの慎重な性格を知っているジルベールは、「それじゃあ戦闘ができない」と不満そうだ。挑発するかテキトーな理由をつけて、王都の真ん中で大好きな戦争を始めるつもりだったのだ。レオンは、それを危惧してローゼットを付けた。

 フランセワ軍の敬礼は、胸に拳をドンと当てる古代ローマ式に似ている。敬礼してジルベールとローゼットが出ようとすると、レオンが呼び止めた。

「まて! これを持っていけ。王都の隅々まで、貼りまくれ」

 例の民衆総武装の布告を印刷したビラだ。印刷カムロを総動員して短期間で刷らせた。五千枚以上もある。しっかり王宮印と王都警備隊長官印、軍団総司令官印、それに王宮親衛隊印まで捺されている。もう手当たり次第だ。


「⋯全ての王都民は、その身分を問わず武器を取り、残存反乱分子を摘発し、発見し次第攻撃すること。武器は、王宮親衛隊と地区警備隊により供給される⋯⋯」


 この布告は、フランセワ革命の実質的な第一歩を記すものとして歴史に残った。三百年後の高校教科書にも載った。レオンが民衆に武装権と交戦権を与えるために周到に準備していたという学説と、クーデターに対抗するための場当たりという二説あるらしい。

「そうだ。犯罪者の尋問に慣れた警備隊員を三十人ばかりよこして、捕虜を尋問させろ」

「そっちの戦闘の方が大変そうだよな」

 軽口を叩くジルベール少将がローゼット少佐を連れて、今度こそ王族の間から出て行った。


 まだ暗い早朝四時の作戦開始から、十時間たった。十時間前のレオンは、少将で文部政務次官で伯爵だったが、今は大将で国軍総司令官になり、事実上の軍事独裁者で、公爵に陞爵した。

 占拠された王宮に親衛隊部隊を突入させ、戦闘の末に王族の間を奪還。監禁されていた王族や政府高官を解放した。さらに三個軍団を王都に急行させている。

 攻めてくるとしても千騎程度の領主軍を三個軍団の三万名で迎え撃つのは過大なようだが、レオンはこう考えた。「呼び寄せた軍団の指揮官が王都の軍事占領を企むのは容易だ。だが、三個軍団が集結すれば、お互い牽制してそんなこともできないだろう。それでも反乱が軍にまで波及していたら、ジュスティーヌの手を引いて王家に忠誠な軍団に逃げよう」。


 西方国境地域の領主貴族と王都の不平貴族が手を結び、第三王子を御輿に担いで起こしたのが今回のクーデターだ。

 クーデターは、計画的だった。クーデター部隊の一部は、政府高官の邸宅に押し入って殺害したり、拉致連行して王族の間に監禁した。

 王宮親衛隊第二中隊長と第三中隊長は、自邸で殺されていた。レオンが殺されなかったのは、機密性の高い王宮内に居候していたからだ。王族夫婦が、使われてない客間で暮らしているとは誰も思わない。

 クーデター部隊に連行されるままに王族の間に軟禁され、ぼんやりしていた保守派高官どもに、死の恐怖をたんまり見せつけてやろう。レオンにとって領主貴族が第一の敵ならば、王宮内の保守派貴族が第二の敵だ。

 保守派貴族は、説得と懐柔、それに領主貴族の良識に訴えて領主特権を一枚ずつ返上させることを主張していた。穏健な前国王は、悲惨なことになる内戦を嫌い、領主貴族政策では保守穏健派に同調していた。その結果、死ぬことになった。

 領主貴族と結んだ不平貴族のクーデターで、保守穏健派の政策は破綻した。既得権益にすがりつく階級に、良識や説得などに訴えて平和裡に特権を捨てさせることなどできないのだ。

 シャルル新国王に保守穏健派がどれほど言葉を尽くして平和を説いたとしても、「領主貴族がいなくなるまで、武装騎兵隊に深夜襲われる恐怖なしに眠ることはできませんよ」というレオンの現実の言葉には敵わない。実際にそうして父王が殺されたのだから。

「おそれながら、次は陛下の番でしょう」

 歯に衣を着せず生命の危険を直言するレオンに、シャルル新国王は感謝に近い感情さえ抱いていた。実はシャルルも、自分がいつ殺されてもおかしくないと考えている。

 シャルル新国王に義務として背負わされたのは、王座という名の死の恐怖の地獄だった。おべっかを使わず、不興を買うのも恐れず厳しい現実を直言し、最善の策を練るレオンは、忠臣の鑑に見えた。しかも姉の夫、義兄だ。父王がレオンをもっと重用していれば、死なずに済んだのではないだろうか?

 目の開いた者には、フランセワ王国の抱える問題は一目瞭然だった。農地の面積あたりの収量は倍増したのに、領主貴族の土地占有のために耕作地は増えない。独立王国と化している領主領が障害となり、物流は三百年前と変わらず未発達だ。

 結果、農村の余剰人口が大量に都市に流れ込んでくることになった。彼らの多くは、貧民街やスラム街に沈み仕事もなく飢え、いずれ死ぬことになる。食糧は増産できるのに!

 王都で、まだ多数の餓死者がでていないのは、毎年の豊作と、ジュスティーヌやレオンを頭とする民衆派の努力の結果だ。しかしレオンは、それが革命家としては大変間違った努力であることを知っていた。

 いずれそう遠くない未来に、干魃や冷害が起こる。領主貴族は、都市に食糧を供給することを拒否するだろう。その結果、王都では数十万人の餓死者がでるはずだ。その時こそ、蜂起のチャンスなのだ。飢えた百万の民衆の先頭に立って王宮を取り囲み、兵には士官の命令に服従しないように呼びかけ、民衆派が保守派貴族を一掃し権力を奪う。

 しかし、この頃のレオンは、革命家としてまだまだ軟弱で甘っちょろかった。社会的に弱い人たちが飢えて死んでいく姿を座視するのが、嫌だったのだ。冷めた目で飢饉が訪れるのを待ち、それまで革命党を組織し蜂起の準備を整える冷酷さを持ち合わせなかった

 レーニンは、第一次世界大戦でロシアとドイツが死闘を繰り広げるなかで、ドイツ軍部の協力を得て亡命先からロシアに帰国した。敗色が濃厚なロシアで『革命的祖国敗北主義』を掲げて武装蜂起し、革命政権を打ち立てた。革命政権はドイツ帝国に事実上降伏し、ヨーロッパ・ロシアの半分近くをドイツに差し出した。

 広大な領土や数百万人の国民すらも、革命のために犠牲にする。このレーニンの冷徹さが、レオンにはなかった。本人もこの甘さを自覚し、自嘲していた。「オレはブルジョア社会主義者なのか?」。


「ブルジョアジーの一部は、ブルジョア社会存続のために社会の欠陥をとりのぞこうとする。経済学者、博愛家、人道主義者、労働者階級の状態の改良家、慈善事業家たちが、これにはいる。ブルジョア社会主義である」(マルクス・エンゲルス『共産党宣言』)


 貧民が百万人も餓死するのが嫌ならば、レオンが取る手段はひとつしかない。領主貴族に対する戦争だ。

 簡単なことなのだ。農地の生産力の増大による余剰生産物は、大半が領主貴族によって租税として搾取される。租税は大衆の生存や生産力の増加のために向けられず、領主軍の増強や無意味な奢侈に費やされている。

 領主貴族が土地の所有権を放棄し、放置されている土地を耕作地に変え農民に分配する。徴税権を国に移譲し、それを原資にして公共事業を行い余剰人口に職を与え国力を増大させる。

 こんな簡単で必要なことを奴隷制に寄りかかった領主貴族は拒否した。ならば、もう戦争しか残されていない。百万の細民の餓死か、数万の贅沢三昧の貴族とその手先の死か、どちらかを選べということだ。両方助けるという、そんなお調子の良い選択肢はない。

 百万の細民が餓死したら、しばらくは社会は安定する。だが、やがて再び絶対的過剰人口が生じ、大量死は何度でも繰り返される。逆に領主貴族の絶滅は、奴隷制や小作制の廃絶など、社会を封建領主制の軛から解放する。分配が適正に行われるようになり、生産力は上がり、物流は改善し、社会は効率化される。再び悲惨が起こることがなくなる、⋯とはいえないが、かなりマシにはなる。

 ならば抵抗する領主貴族を殺し尽くしてやろう。手を汚すのだ。


「暴力は新社会をはらんでいる旧社会の助産婦である。さらに暴力は、それをもって社会的運動が自己を貫徹し、そして硬直し麻痺した政治的諸形態を粉砕する道具である」(エンゲルス『反デューリング論』)


 説得と懐柔で領主貴族に土地所有権や徴税権を放棄させるという保守派貴族の計画は、当然ながら完全に失敗した。ならば表舞台から降りてもらわなければならない。

 レオンら民衆派にとって第二の敵が、王宮内のこの保守派貴族だ。王宮貴族や法服貴族といっても、本質は官僚だ。こいつらがいなければ、行政が動かない。官僚らしく強い者につくという習性を持つ者が多かったが、レオンら民衆派を敵とみなす者も多かった。

 とくに悪質な分子は、国に寄生しているくせに民衆を搾取の対象としか見ない身分差別主義者。そして領主貴族からおこぼれを頂戴している奴隷使いの縁戚どもだ。身近にいるこの二種類の寄生虫とスパイをどうにかしなければ、領主貴族との戦争は貫徹できない。

 クーデターの失敗によって、王宮内の勢力バランスは大きく崩れた。しかし、まだ保守派の勢力が優勢だということは変わらない。

 これが二年後だったら、レオンが校長をやっている軍士官学校の卒業生四百人。王宮親衛隊の過半数五百人。数百人の若手貴族。特務機関や初期ブルジョアジーに成長したカムロたち。軍部や王宮保安部と情報部にも民衆派が根を張り影響力を持っていたはずだ。

 だが、今は早すぎた。王宮に常時出入りを許されていた貴族は、約千人。そのうちレオンの民衆派が約五十人、さっき連行させてしまったラヴィラント伯爵が筆頭の王家忠誠派が約二百人、残りは保守派かせいぜい中立だ。

 危機は目に見えているのに何も手を打たないことを主張し、社会を腐らせる保守派は敵だ。敵なのだが、こいつらが今いなくなると国家の機能が麻痺してしまう。

 保守派といっても、概ね二派に分かれていた。保守強硬派はクーデター失敗で大打撃を受け壊滅した。残ったのは保守穏健派だ。

 いずれ近い将来、戦争が始まる。いや、始めるのだ。その準備に王宮内でレオンが取れる方法は限られている。恐怖で日和見主義者を縛る。排除した保守強硬派の地位を日和見出世主義者に与えて懐柔する。

 今のところ保守派がおとなしいのは、領主軍の攻撃が怖く、レオンに司法警察権と刑の執行権まで握られているからだ。数日もすれば領主軍など攻めてこないと分かる。レオンは司法警察権を剥奪される。そして今回の事件でレオンの力を知った保守派は、生まれたばかりの民衆派を潰しにかかってくるに違いない。残された時間はわずかだ。

 やはり当面は保守穏健派を操縦し、時期をみて民衆派と入れ替えるしかない。操縦する手段は、飴と鞭だ。飴は、地位や利権。鞭は、死の恐怖だ。


 まずは、恐怖からいこう。

 権力者が大嫌いな自分の、権力者そのものといった行動にレオンはゲンナリした。しかし、嫌でもやらねばならない。無能高官どもに、死の恐怖を見せつけてやる。

 革命の墓堀人・スターリンの手先となって多くの革命家を処刑し革命的民主主義と世界革命を絞め殺した秘密警察GPU。アメリカ帝国主義の尖兵として全世界の民族解放運動・革命運動を圧殺してきたCIA。独占資本と国家官僚の権益を守るためブルジョア法すら踏みにじり社会運動の弾圧に狂奔している警視庁公安部。この三者から最も激しい弾圧を受けてきたトロツキスト・革命的共産主義者である新東嶺風=レオン・マルクスは、やつらの弾圧の手口を熟知していた。そいつを使うのだ。

 裕福なポーランド貴族でありながらロシア革命に加わったジェルジンスキーは、逮捕と拷問で生涯残る傷を負わされた。シベリア流刑地では、汚物の始末など皆が嫌がる作業を進んでしたという。「革命の最も汚い仕事をするのだ」。その言葉通り、秘密警察を創設したジェルジンスキーは、両手を数十万人の血に染めた。

 革命や戦争はきれいごとではない。どんな仕事であっても、敵に対しては冷酷で残忍に容赦なくやり遂げなければならない。


 監禁されていた王族の間から、百人を超える政府高官は一歩も出ることが許されない。劇場におあつらえむきじゃないか。

「やつを連れてこい」

 すぐに血のにじんだ包帯でグルグル巻きの男が引きずってこられた。後ろ手に縛られ、新国王の前に転がされる。

「謀反の首魁の一人です。レイーブ・ド・ノエル子爵。王宮総務部運輸課勤務。四十歳」

 初めてクーデター指導者を見たシャルル一世とジュスティーヌ王女の目が、憎しみに満ちる。父と兄たちを殺し、王家をメチャクチャにしたやつだ。高官どもも、わざわざ立ち上がって見たり、ざわついている。

「国王陛下の御前で尋問を行う。まずは尋問に応じる気があるか答えろ」

 先王が殺されたのを知った突入部隊が激高して殺しまくったせいで、王宮を占拠したクーデター指導部の生き残りは、こいつぐらいだ。本当は、なんとしてでもクーデター支持者の名を吐かさなければならない。

「答えん。殺せ」

 まあ、そうくるだろう。ここからが『警視庁公安部』の腕の見せどころだ。

「楽な死に方は、できないぞ?」

「勝手にしろ」

 こいつは、もう死ぬ気だ。こうなると生半可な脅しは効かない。拷問は、訊かれたことに答えるだけで、全てを吐くわけではない。最も知りたいのは、まだ把握できていない王宮内のクーデター派メンバーの名だ。

「おまえの罪状は、大逆罪、内乱罪、反逆罪だ。国王弑逆は、『九族斬胴の刑』が適用される。良いのか? オレは、子供を胴斬りにするのは気が進まないが」

「『九族斬胴』? な、なんだ?」

 ノエル子爵が、動揺しはじめた。

「ちゃんと調べておけよ。本当に知らないのか?」

 フランセワ王国では、二百年以上も国王殺しの反乱なんてなかった。

「『九族』ってのは、父母、妻、子、孫、兄弟姉妹、祖父母、伯父伯母、従兄弟、それらの配偶者と子、妻の兄弟姉妹とその配偶者、妻の両親。おまえの屋敷に住む者全て。妾。使用人。一人残らず死刑だ。おまえの罪に連座して死ぬのは、今のところ五百二十七人。系図をたどって、まだ増えるだろうよ。族殺刑だからな」

 ノエル子爵は蒼白になった。大逆罪は、一族郎党皆殺しの刑になるとは、知らなかったらしい。それともクーデターが成功すると信じて、考えなかったのか?

「斬胴刑というのは、すぐ死なないように横腹を三十センチばかり斬る。おまえの目の前で一人ずつな。斬ったら後ろ手に縛って大通りに放り出し、苦しみ悶えて死ぬところを民衆に見物させる。トドメは刺さないので、死ぬまで十時間くらいかかるそうだ。おまえは、それを特等席で観ることになる。全員死んだら、最後におまえの番だ」

 こんなことが二百年以上も改定されていないフランセワ王国法典に書いてある。もちろんレオンは、そんな馬鹿げたことをする気はない。だが、脅しには使える。

「おまえの息子のキルド・ノエルとアデン・ノエルは、貴族学校で逮捕された。斬胴刑の時に十秒ぐらいは会えるだろうよ」

「き、教室で逮捕したのか?」

「昼の食堂だな。数百人の生徒が、総立ちだったそうだ。部隊が抜刀して食堂に突入し逮捕した。大逆犯に逃げられたら、大失態だからな」

 ノエル子爵は、下を向いてなにかブツブツ言っている。顔面蒼白を通り越して、もう灰色だ。

「イリシア夫人は、美しい方だが病弱だそうだな。逮捕時も寝室でお休みだった。今は寝間着のままで連行中だ。あぁ! すまんな。馬車が足りなくて家畜用馬車に詰め込んだそうだ」

「貴族になんてことを⋯⋯。か、家族は関係ない。妻は、身体が弱いんだ。今も病気で⋯⋯」

 ふぅぅ⋯⋯。あと一押しか⋯⋯。

「そんなことは知っとるよ。おまえの屋敷にいた全員を逮捕した。可哀想に、たまたま御用聞きに来ていた八百屋まで逮捕された」

「つ、妻はどうなる?」

「言っただろ。全員斬胴だよ。この寒い中で寝間着一枚で縛られたまま地下牢行きだから、執行までに死ぬかもな。まあ、そのほうが幸せだろう」

「や、止めてくれ。お願いだ」

 周囲の高位貴族たちが、恐怖で固まっている。このレオン・マルクスという男は、鬼なのか?

「娘さんのリディア嬢は、心配ではないのか? 六歳だったな。年食ってからできた子は、かわいいというがなあ」

「娘になにをした! やっ、止めろっ!」

「まだ、なにもしとらんよ。今は両手両足縛られて、馬糞まみれで運ばれているところだ」

 伝令がレオンになにか耳打ちし、紙切れを渡した。興味深そうに読んでいる。

「困ったな⋯⋯。前庭の噴水池に放り込んで、モップで洗ってから取り調べろ」

「ま、まさか。イリシアとリディアを、どうするつもりだ?」

「どうするもこうするも⋯⋯。馬糞臭くて地下牢に入れられないから、噴水池で洗うんだよ」

「十二月だぞ! 死んでしまう。止めろ!」

 レオンが、せせら笑った。

「ハッ! おまえらが攻めてきたせいで、オレは夜中にドジョウが住んでる堀を泳ぐ羽目になったぞ? ジュスティーヌ王女殿下もだ。自分が王族したことを、女房と子供にされるのは嫌か?」

 貴族連中が一斉にジュスティーヌを見た。いつもと変わらず優美そのものの王女が、ほんの半日前の夜中に堀を泳いで渡ったなど信じ難い。本当は少し魚臭くなったので、アリーヌが香水を大量にぶっかけてごまかしている。

 弟王が王座から立ち上がった。なかなかのシスコンなので、姉王女が害されたとなると激高する。

「それは本当かっ。レオンっ!」

「はい。ほかに王女殿下をお助けする手段は、ありませんでした」

 自分の女房なのに公的な場では、「王女殿下」とか呼んで馬鹿みたいな敬語を使わないとならない。面倒くさい。

「おのれぇ⋯よくも王族を愚弄しおってぇ⋯⋯。逆徒に容赦するなっ!」

「⋯⋯全滅させます」

「ハハハハ! よく言った! レオン。頼んだぞ!」

 ご機嫌が直った若い王様の信任を得たので、尋問を再開する。

「リディア嬢は、ずいぶん利発だな。親切な騎士が、リディアちゃんに忠告したそうだ。『全部白状して王様にあやまるようにお父様にお願いなさい。そうすればひょっとしたら⋯』ってな。リディアちゃんの返事ときたら⋯。こりゃ傑作だ!」

「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」

「手紙を読んでやろう。『⋯お父さまへ。こわい人たちがきて、侍女たちや侍従も、つかまってしまいました。いまは、お馬をはこぶ馬車にいます。お母さまは、しばられて床にねています。すこしせきをしています。でも、私が体をつけてあたためているので、だいじょうぶです。お父さまが、わるいことしたなんて、しんじません。はやくお父さまにあいたいです』」

 ノエル子爵は下を向いてふるえている。あとひと押しだ。だが、なんだかムカムカと腹が立ってきた。手紙を丸めて顔に投げつけた。

「嫌な仕事をさせやがって! 内臓を引きずり出されたガキが、十時間も悶え苦しむさまを見たいのか!」

 ノエル子爵は、痙攣したようになった。ジタバタしながら叫びはじめる。

「うわーっ! やっ、やめてくれっ。もう沢山だっ! はなすっ! なんでも話すから、妻と子供はゆるしてくれ。なんでもする。お願いだあっ!」

「よぉ───し! おまえの女房子供一族郎党、全て助けてやろう。そのかわり、一味の名前を洗いざらい吐くんだ。いいな?」

 周囲の者たちが、

「?」

「!」

「!」

「! レオ⋯」

 再び新国王が王座から立ち上がり⋯⋯そうになった。

 ジュスティーヌが隣りの王妃座から手を伸ばし、弟王を制止している。

 レオンは、新王の声に全く頓着しない。耳元になにかささやき始めた。ノエル子爵は、ガタガタとふるえている。


『家族』でしばるのが、公安警察の常套手段だった。身元が割れると、聞き込みと称して二人組みで実家に現れる。困惑する親からネタを聞き出し、「息子さんが警察官にガソリンをかけて焼き殺すような恐ろしい団体に加わっている」と吹き込む。⋯まあ、それは事実だが⋯⋯。大学当局や就職先にも現れる。これで会社をクビになった同志は多かった。高校時代の担任のところにまで現れたのにはあきれた。ヘビのように執念深く、ダニのようにいやらしく、あとをつけ回して社会的に孤立させる。日本の情勢ではまだ肉体的に殺すのは困難だから、社会的に殺そうとする。

 ステ貼りなどの微罪で逮捕して、また親のところに現れ「次は取り返しのつかないことになる。連合赤軍のように人を殺したら終わりだ」とかなんとか吹き込む。親切ごかして四国だか九州だかから千葉まで親たちを連れてきて、団結小屋の前までご案内して座り込みをさせたのにはたまげた。警察のやることか?

 殴られたり逮捕されたり仕事をクビにされたりの本人に対する弾圧より、親を使われるのが一番くたびれた。団結小屋を出入りする時、誰かの親が思い詰めた顔で座り込んでる。「お疲れさまです」と言うのも皮肉みたいだし⋯⋯。子供、といっても成人なのだが、が出てくるまで、テコでも動かない。話し合おうにも「言いくるめられたら駄目だ」とか吹き込まれているので、口も利いてくれない。これにはまいった。

 KGBやCIAは、本人ではなく肉親を目の前で拷問にかける手をよく使った。レオンは、この肉親を利用する非道なやり方の真似をした。とはいえ、まだこの時期のレオンには、リディアちゃんのような子供を拷問にかけたり殺すつもりなど、最初からなかったのだが。


「ほ、本当に家族を助けてくれるのか? どうやってだ?」

 おいおい。家族以外の親族や使用人はどうなってもいいのかよ、と言ってやりたい気分になる。さすがあの前国王を裏切って殺すだけあって、なかなかロクでもない野郎だ。

「⋯大逆犯には、主犯と従犯がある。わけの分からないまま謀反に参加させられた兵士などが従犯だ。従犯は本人は罪に問われるが、連座刑はない。オレは、『王宮最高指揮官』に勅任されている。司法権を行使して、おまえを従犯にしてやる」

 ノエル子爵の顔色が、みるみる良くなっていく。レオンは猫なで声だ。

「奥さんとリディアちゃんは、すぐ温かい風呂に入れてさっぱりさせてやる。でもなぁ、おまえの財産は、全て没収されるぞ。反逆者の家族が無一文で放り出されたら、餓死するしかないだろうな」

 ノエル子爵が再び青くなった。

「夫人は、ボラン王国国境の小領主貴族の娘だったな」

「⋯⋯なぜそれを?」

「ノエル家門に関しては、全て調べ済みだ。全員斬胴刑に処するんだからな」

「待て! 待ってくれ!」

「オレが奥さんと子供たちを、奥さんの実家まで連れて行ってやる。そこで暮らすなりボラン王国の本家に行くなり、自由だ。ああ、それと従犯には、斬胴刑はないぞ」

「マルクス伯爵! いや、公爵。あ、ありがたい。ありがとう。話すっ。なんでも話すっ!」

「オレは約束は、必ず守る。おまえも隠さずに全部吐け。いいな。名誉をかけた約束だ。⋯⋯数日前に一味の集会があったな?」

「な、なぜ知ってる?」

「調べ済みだと言っただろ。ウソや隠しごとは、すぐにバレるぞ。そうなったら約束もご破算だ」

『名誉』など、レオンには一文の価値もない。クーデター決行直前に、主要メンバーが集まり最後の調整をするのは当然だ。カマをかけた。

「ナッサウ公爵、ノアイユ公爵、ブランジ伯爵、パストール伯爵、ユリーナ子爵⋯⋯。他にだれがいた?」

「どうして知ってるんだ?」

「調べはついてるって言っただろ。さあ」

 どうして知っているかといえば、この連中の死体が転がっていたからなのだが。「指揮者と貴族は殺さず捕らえろ」とジルベールに言い忘れたレオンのミスだ。

「マクシム王子殿下、ウェート伯爵、グレイグ子爵、アスカルト男爵⋯。これだけだ」

 オォ──────────ッ!


 王族の間の貴族たちが声を上げて総立ちになる。

 レオンも立ち上がった。わざとらしくヤレヤレといった調子で肩をすくめ、背を向けた。

「約束も、これまでだ。おまえは嘘をついた。嘘は、嫌いだな」

「ち、ちがっ! うっうっ嘘は⋯⋯」

「領主貴族ばかり挙げやがって。王宮勤めの貴族どもは、どこに行った? ん?」

「待ってくれ! ゆるしてくれ! 全部言う! ゲイソン伯爵、オクトー伯爵、フォッシュ子爵、プロヴォ男爵、カツォーニ男爵⋯⋯」

 レオンが叫んだ。

「オクトーがいるぞ! 捕らえろっ! 殺すな!」

 親衛隊騎士が一斉に抜刀し、高位貴族の群れの中に突っ込んで行く。数分でオクトー伯爵が捕らえられ、後ろ手に縛られ連れられてきた。

「こんな物を持ってました」

 親衛隊騎士が、三十センチほどの短刀を差し出した。「ふん」と鼻を鳴らしたレオンは、鞘から抜いた短刀をわざわざ新国王に献上する。国王の危機感が強くなればなるほど、レオンの権力は強化され、民衆派に有利に働く。

「刺客が、陛下を害するために所持していた凶器です。ご確認ください」

 意外に重くてギラギラした抜き身の短刀を渡された国王は、青ざめていた顔色をさらに青くした。遠くでもみ合っているのを見るだけなのと、自分が刺されていたかもしれない刃物を見せられ渡されるのとでは、恐怖の重みが違う。フランセワ王国で最も安全なはずのパシテ王宮王族の間に、短刀を持った刺客が入り込むとは⋯⋯。

「くっ、その者を殺せっ!」

 レオンは動かない。

「なりません。陛下。まだ一味が潜んでいます。逆徒の名を白状させるのです」

 ジュスティーヌ王女が、弟王の手を握った。小声で言う。

「シャルル、あなたは王なのです。うろたえてはなりません。王らしく振る舞わなければ」

 ジュスティーヌは、ルーマ旅行で野盗に襲われ、クラーニオの丘で暗殺団に命を狙われ、半日前にクーデター部隊に襲撃された。フランセワ王家の軍人貴族の性格を受け継ぎ、三度も修羅場をくぐったからだろう、弟王よりよほど肝がすわっている。

 ジュスティーヌ王女の後ろにひかえていたフランセワ=マルクス公爵家の三人侍女が、前にでてきた。マリアンヌとキャトウは、もともと一級保安員で王族警護が最優先任務だ。侍女服のスカートのひだに開けた隙間から手を入れ、太ももに取り付けた短刀を鞘から抜いている。普段は優しげな目のマリアンヌ。いつもクリクリと面白げに目を動かしているキャトウ。普段とまるで違う鋭い視線で、周辺を警戒している。

 アリーヌ侍女は、ジュスティーヌの前に立った。賊が短剣で襲ってきたら、自分の体を盾にして姫様を守るつもりだ。訓練を受けた保安員ではなく普通の伯爵令嬢なので、恐くて足がガクガクしている。

「ひっ、姫様。大丈夫です。アリーヌがお護りします。お護りしますから大丈夫なんです。お護りします。姫様。姫様。大切な姫様。ご安心下さい。アリーヌがお護りします。あんな男のモノになっても愛してます。ハアハアハアハアハアハア⋯⋯」

 恐怖と緊張のあまり、少し錯乱して過呼吸になってきた。

 ジュスティーヌの方が、よほど落ち着いている。健気なアリーヌが、賊の攻撃を防ぐのにはなんの役にも立たないことも分かっている。

「アリーヌ。落ちついて。下がってください。前が見えません」


 軍総司令部に派遣したジルベールとローゼットが、親衛隊騎士たちを率いてドヤドヤと戻ってきた。戦闘にならなかったらしく、ジルベールは欲求不満気味だ。

「総司令部のやつらを二十名連行⋯じゃなくてお連れしましたっ! 甲羅に頭を引っ込めた亀みたいな連中ですよ。ハハハハハ!」

 戦闘が無かったことにレオンは、内心安堵のため息をついた。念願の軍総司令官になったのに、その軍との戦争が最初の仕事では、たまらない。ジルベールは、血の気が多すぎるのが困る。

「次の任務だ。凶器を所持した刺客が王族の間に潜伏していた。王宮内に潜んでいる敵性分子を摘発しろ。これがリストだ」

 ノエル子爵が吐いた人名リストを渡す。カムロのコンニャク印刷で、三十枚ばかり印刷済みだ。

「王族の間に潜り込んでたんですか? そりゃあすげえな⋯⋯。ほう、こいつらが主謀者か。意外に多いですね」

「まず、王族の間から掃除しろ。徹底的にやれ」

 命令を受けたジルベールは、張り切った。今度は敵を殺せるかもしれない。

「聞けっ! 王宮親衛隊及び王都警備隊が、王族の間にいる者の人相改めと身体検査を行う。抵抗する者は、斬る! かかれっ!」

 一斉に剣を抜いた親衛隊騎士が高位高官貴族らを部屋の隅に追い立てダンゴにする。ダンゴから一人ずつ引き抜いては服をはぎ取り始めた。まるで狼が羊の毛刈りをしているようだ。ジルベールは、喋り方がなんだかレオンに似てきた。

「パンツも脱がせろ! ケツの穴からキンタマの裏まで確認するんだ! 少しでも逆らうやつは刺客だっ! 殺せっ!」


 レオンの方にも、次から次へと仕事がくる。

 目を血走らせた親衛隊騎士に剣を抜いて取り囲まれている軍総司令部の幕僚たちは、王族の間の有り様に驚愕して目を白黒させている。急ぎ足でレオンがやってきた。

「オレが、軍総司令官に勅任されたレオン・マルクス小将⋯⋯じゃなくて大将だ。軍総司令部の指揮権を引き継ぐ」

 若い新国王は、軍総司令部が親衛隊の支援要請を無視したことに激怒している。幕僚たちは、生きてここを出られるだろうか?

「ヒョリー元大将。勅命によりあんたは、軍総司令官を解任され、階級を剥奪された。逮捕命令が出ている。容疑は、大逆罪、反逆罪、戦場における抗命、反逆的な怠慢、伝令兵の監禁⋯⋯などだ」

 どれか一つでも死刑になって不思議ではない大罪だ。どちらが勝つか日和見していただけなのに、大変なことになってしまった。レオンが、元大将から指揮官章と階級章をむしりとった。

「副司令官。あんたも軍法会議行きだ⋯⋯」

 こんな調子でレオンは、幕僚十二人の階級章をむしって逮捕・連行させた。この場で殺しちまって軍部に敵をつくるのは得策ではないので、あとは軍法会議に投げて任せる。

 残った八人の幕僚たちには、うって変わって猫なで声になった。

「あー、おまえらが王宮救援を主張したことは分かっている」

 調べもしていないのに、分かるはずがない。レオンの口からのでまかせだ。

「不幸な行き違いがあったようだが、現在は正す時間がない。このありさまだ」

 王族の間では、高位貴族、大臣までもが服をはぎ取られ、四つん這いにされて尻の穴の検査までされている。

「おまえらの制服を見て勘違いし、攻撃する部隊がないとも限らない。指揮命令系統が、まだ立ち直ってないもんでな」

 死刑は免れたとしても、王宮で親衛隊に斬り殺されたら同じことだ。

「用意した部屋で、しばらく待機してもらいたい。鍵は閉めないが、王宮内を出歩いたら生命の保証はできない。止めておけ。従者をつけ、不自由はさせない。フフフ⋯王宮蔵のいい酒を飲めるぞ」

 テイのいい監視役のカムロに、「こいつらを居心地の良い部屋に連れて行き酒をあてがっとけ」と命じ、引率させる。逮捕を免れた八人の幕僚たちは、胸をドンする敬礼をして後ろを振り返りながら退室していった。

 百年以上も大きな戦争がなかったフランセワ王国では、軍司令官や幕僚は貴族の名誉職化していた。もちろん、そいつらは無能だ。国軍の総司令部に警備兵を入れても百人もおらず、クーデターが発生しても動かないなど異常だろう。

 軍が単なる貴族の天下り先になってしまってはさすがにまずいので、十年ほど前に軍士官学校がつくられた。成績次第では平民も入学できる数少ない教育機関で、一年前にレオンが校長になった。十四から十八歳まで五年間も寄宿舎で同じ釜の飯を食って厳しい訓練に励めば、貴族も平民もなくなる。卒業後に指揮する部隊の兵も平民だ。士官学校出の軍人は、ほぼ全員が民衆派だった。

 さっきのレオンの言動は、軍の中枢である司令部に巣くっていた天下り貴族から指揮権と階級を剥奪して投獄し、士官学校出の民衆派軍人を保護したということだ。

 天下り貴族軍人をその場で処刑しなかったのは、そんなことで軍部の敵を増やしたくなかったし、軍が組織として自律的に無能を排除することを期待したからだ。本格戦争はなかったとはいえ、周辺国との小競り合いはあるので、軍はフランセワ王国では数少ない実力重視の組織だった。

 最初からレオンは、国家権力の最大最強の暴力装置である軍を足場にするつもりだった。妻の王女と王宮権力だけが頼りの準王族でいるつもりなど、さらさらない。


 騒ぎが起きた。親衛隊騎士に誰かが取り押さえられている。

「こんな物を持ってました!」

 息を切らした親衛隊騎士が、レオンに短刀を差し出す。王族の間に無許可で刃物を持ち込んだら、それだけで死刑もある重罪だ。

「さっきの短刀と造りが同じじゃねえか。マヌケだなぁ。一味だと白状してるようなもんだ」

 再び国王のもとに短刀を持って行く。

「フォッシュ子爵の従僕が紛れ込み、持っていました。この様子では、まだまだ王宮に刺客が潜んでいそうです」

 にぶく光る刃物を見てシャルルは、心の底から嫌気がさした。いつまでこんな物で命を狙われなければならないのか? 国王などになっても、良いことはひとつもない。しかし、成人もしていない弟に王座を押しつけるわけにはいかない。「姉上が女王になって下されば良かったのに」と恨めしげにジュスティーヌを見る。

「従僕では、なにも知らないでしょう。少し派手に殺して良いですか?」

 姉上の夫は、頼りになるが殺伐としたことを平然と言う。⋯⋯どうでもいい。

「好きにせよ」


 短刀の従僕は、親衛隊騎士に取り囲まれ床に押さえつけられている。レオンがモノを見るような目でそいつを見下ろした。あの世で弥勒に付けられた冷酷モードが発動している。

「放してやれ。チョムチョムをやるぞ」

「えっ! チョムチョムですか?」

「ここでチョムチョムを! いいんですか?」

「本気ですか? チョムチョムなんて!」

「ハハハ! 驚いた! チョムチョムだ!」

「チョムチョムかぁ! ヘヘヘ⋯」

「久しぶりだな。すげえ!」

 襟首を掴まれて、従僕が立ち上がらされる。親衛隊騎士が一斉に剣を抜いた。

「一番槍はもらうぜ。オラァ!」

 ザッ!

 背中を斜めに斬り下ろした。浅手だが、盛大に血が噴き出る。

「うわっ。うわああああ」

「次はオレだぁ。おりゃあ!」

 脇腹を横一文字に斬った。血が飛び散るが、内臓に届かず致命傷にならない。

「ヘヘヘヘヘ⋯⋯。籠手いくぞ。おらーっ、セイッ!」

 指が飛び、バラバラと床に転がった。

「ギャハア!」

「まだまだー! 正面いくぞぉ!」

 ドシュ!

 左目から顎まで一直線に斬り下ろされた。目玉が飛び出した。

「ハハハハハハハハ!」

 取り囲んで、死なないようにわざと浅手に斬っているのだ。外から眺めると、親衛隊のカゴの中で人が血を噴きながら踊っているように見える。『チョムチョム』の名は、団結小屋に置いてあったボクシング漫画からとった。

 ビュッ!

 ザクッ!

 ビシャッ!

 ザッ!

 とうとう短刀の従僕は、クタクタと膝を折って自分の血の海の中に倒れ込んでしまった。

 襟首を掴んで持ち上げた親衛隊騎士が、残念そうに言う。

「あー。チョムチョムは、ここまでですねぇ。もうすぐ死にますよ」

「くたばる前に、こっちに投げろ。アレをやるぜぇ」

 身体検査の監督をしていたジルベールだ。いつの間にかこっちにきて、楽しそうに見ていた。とうとう我慢できなくなったらしい。

「レオン隊長に習ったアレですか?」

「そりゃあいいや」

「行きますよ。そりゃあ!」

 ヨタヨタヨタ⋯⋯

 血だらけで死にかかった従僕が持ち上げられ、ジルベールに向けて押し出された。ジルベールは、レオンに教わった居合いで、下から上へ逆袈裟に斬り上げる。

「おりゃあ!」

 シュバッ!

 大量の血が噴きでて、天井にまで届いた。

「ハハハハハハハハ! 見たかぁーっ!」

「ひょう!」

「おぉ!」

「やりましたねー」

 死体は、そのまま倒れず「トットットッ」と後ろ歩きする。その先にレオンがいた。

「フン⋯⋯」

 何十人も斬っているうちに、レオンも人殺しがうまくなった。レオンの剣が閃くと、胴から離れた頭が四メートルも飛翔して、身体検査されている貴族の群の中に飛び込んだ。どこかの大臣の胸に生首がぶつかり、大臣は腰を抜かしてしまった。

「うわっ! まだまだ勝てねぇなぁ」

「やったあ! すげえっ!」

「うおーっ! はははははは!」

 貴族子弟からなるエリート部隊だった王宮親衛隊第四中隊は、愚連隊狩りで人を殺し回っているうちに、どんどんガラが悪くなっていった。平気で部下に殺人を命じるくせに、自分では手を汚さないぼっちゃん育ちの高官貴族から見ると、まるで殺人鬼の集団だ。「これでは、クーデター部隊の方がマシだったのではないか?」。

「くまなく探して摘発しろ! 敵は巧妙にまぎれ込んでいる。誰だろうと容赦するなっ!」

「おう!」

「分かりましたっ!」

 チョムチョムで空気の入った親衛隊騎士たちは、血刀を下げ、団子になった高位貴族の群れに躍りかかっていった。

 床が血だらけだ。掃除しなければ血の臭いに慣れたレオンですら気分が悪い。

「マリアンヌ、キャトウ。屋内を清掃しろ!」

 死んだ目でチョムチョムを眺めていた二人が血の海になった床を手拭きし、落ちている指やら肉やらを拾って集める。王族の間に棒の類は、モップすら持ち込むことができない。

 侍女の皮をかぶった王族警護の保安員であるマリアンヌとキャトウは、特殊訓練を受けてきた。まだ少女の時期から処刑場に連れていかれ、人が殺されるところを特等席で何度も見させられた。その結果、人が残虐に殺される場面に遭遇すると、精神が壊れないように心の一部をシャットアウトするようになった。その状態になるとロボット化して創造性や自発性は失われるが、与えられた仕事はキチンとこなす。

 同僚のアリーヌは、普段は仲良しの二人の目がドロンと濁り、表情を失って黙々と死体の始末を始めた様子に、チョムチョム以上の衝撃を受けた。手伝わなければと思うのだが、怖ろしくてウロウロオロオロするばかりだ。本物の伯爵令嬢であるアリーヌには、こんな作業はとてもできない。真面目だが修羅場では、腰を抜かしたり過呼吸でダウンしてしまう。とうとうレオンが笑いながら「アリーヌは、王族がたのお世話をしろ」と命じた。


 レオンが、残虐で非道なことをしているように見えるだろうが、実はそうでもない。凶器を持って王族の間に侵入した者は、大逆罪の主犯となる。国王の目の前での現行犯では、レオンでもかばいきれない。九族斬胴の刑が適用され、本人さえ存在を知らなかった遠い親戚や使用人まで皆殺しだ。

 何百人も巻き添えに胴斬りされて十時間も苦しみ悶えて死ぬくらいなら、数分で終わるチョムチョムの方が、はるかにマシだろう。精神の八割を現代日本人の新東嶺風が占めているレオン・マルクスには、連座の族殺刑が不合理で残虐で愚かしいものとしか思えなかった。うまくすれば新国王がチョムチョムに圧倒されて、九族斬胴刑を中止するかもしれない。⋯⋯この考えが甘かったことを、すぐにレオンは知ることになるが。

 ジルベールと違ってレオンは、人殺しが楽しいわけではない。むしろ不快だ。前世では、三度もひどい殺され方をしている。死ぬときには、気が狂いそうな激痛に襲われた。それは他人も嫌だろうから、なるべく殺人は避けようと考えていた。

 王宮は、保守派貴族の牙城であり、民衆派と王家忠誠派は合わせても五分の一程度だ。この機会に保守派貴族を皆殺しにしようかとも考えたが、やはり難しい。ならば五分の四の保守派を無理矢理にでも従わせるしかない。従わせる方法は、暴力と恐怖に裏づけられた権力だ。

 若手が主力でレオンを首領とする民衆派は、王宮親衛隊、軍組織、王都警備隊、そして民間暴力を押さえた。高位貴族は馬鹿なので、具体的に力を示し目に焼きつけてやらないとわからない。わかるように血刃で脅しつけ、貴族服を剥いで四つん這いの屈辱的な格好をさせてやった。チョムチョムで、レオン率いる親衛隊に逆らったらどうなるか見せつけて威嚇した。

 レオンは、貴族制になんの感傷も抱いていない。貴族とは民衆を搾取する社会の寄生虫であり、いずれ滅んで歴史のくずかごに消え失せる階級だ。保守派貴族などといっても、大半は単なる日和見主義者で、搾取に励み贅沢な暮らしを維持したいだけの連中だろう。骨のある者は、ほとんどいない。

 若い新国王は、父を殺した領主貴族を決して許さないはずだ。レオンは新国王に、ある個人が前王を殺したのではなく、国家の統一と相容れない領主貴族という階級が殺したのだと気づかせた。

 国王と王家と王国が生き残りたければ、領主貴族との内戦は不可避だ。危機を先送りし民衆の犠牲を増やすだけの交渉や妥協を許さないために、できるだけ早く戦争を開始したい。戦端が開かれれば日和見主義者たちは、主戦派に従うだろう。

 それまでレオンは、力を蓄え時期を待つしかなかった。だが、クーデター事件で一気に天秤が傾いた。カウンタークーデターでレオンは、一時的とはいえ王国の独裁権を手にした。そして反乱軍鎮圧を口実に、国軍の指揮権と民衆の武装権をもぎ取った。さらに間髪入れず王宮内で親衛隊を使った恐怖政治を開始し、保守穏健派を威嚇している。

 レオンを止められるのは国王だけだ。しかし、事態の推移の速さに圧倒されるばかりで、国王にそんな意志や能力はない。

 レオンの意図に気づいていたのは、妻のジュスティーヌ王女だけだ。レオンと一緒に何度か殺されかかり、愚連隊狩りの返り血を浴びて帰宅したレオンの血を自らの手で洗い流した。ジュスティーヌには、美しい手を血で汚す覚悟ができていた。弟王が顔を背けている横でジュスティーヌは、冷然とチョムチョムを眺めていた。「これは不快であっても、必要なことなのだわ⋯⋯」。

 

 ノエル子爵が吐いたせいで捕縛されたオクトー伯爵が、王座の前に引き出された。屈強とは程遠い、タコのような顔をした初老の小柄な男だ。短刀まで所持していたのだから、言い逃れのしようはない。シャルル国王とジュスティーヌ王女の前で、レオンが尋問を始めた。

「ノエル子爵の話しは、聴いていたな? 素直に答えれば、罪はおまえ一人にとどめる」

 オクトー伯爵は、なかなか食えない男だった。この期に及んでも、まだ皮肉を飛ばす。

「レオンさん。あなたが新しい国王陛下ですかな? なんともありがたいお言葉ですなあ」

 エラくなりやがって。おまえの言うことなんぞ信じるわけないだろ、と皮肉っている。

「オレは、約束は必ず守るよ。クーデターは失敗した。なにか隠しだてする意味は、もうないだろう。⋯⋯おまえの任務はなんだ?」

「王族の間に監禁された高位貴族の中にまぎれ込んで情報収集し、我々が擁立した国王になびくよう誘導すること、ですな」

「なぜ短刀を持っていた?」

「マクシム第三王子殿下から渡されたんですよ。正体がバレたら自殺しろということでしょう」

「陛下を狙ったんじゃないのか?」

「ははは⋯。できるとお考えですか?」

 こんな貧相な男が、刃物を使ったテロなど無理にきまっている。

「クーデターの目的を述べろ」

 オクトー伯爵の目つきが変わった。

「王家よりも歴史の古い領主貴族の土地と財産を奪い王国に亀裂をもたらさんとする暴君を廃し、君側の奸を払い、英明な新王の元にフランセワ王国の再建を⋯⋯」

「おのれっ! 父を愚弄するかっ!」

 新国王シャルル一世が、いきり立った。

「ははは! このような若い方が王座につくとは⋯。いやはや、この国も先が見えましたなあ⋯⋯」

 オクトー伯爵は、もう完全に死ぬ気だ。レオンは急に砕けた口調になる。

「で、オレは『君側の奸リスト』の何番目にいる?」

 オクトー伯爵は、大仰に目を丸くしてみせた。

「知らなかったんですか? 一番ですよ。一番!『発見し次第、殺せ』です。いや、しかし、お美しい王女殿下をお連れして堀に飛び込むとは、やられましたなぁ」

 レオンは、面白がり嬉しがってさえいるように見える。

「敵に憎まれることは、良いことだ。⋯⋯毛沢東だったかな。『土地』はともかく『財産』っておまえ、奴隷のことだろ? 国民を奴隷にして財産扱いしたら、駄目だろうが」

 痛いところを突かれると、人間は攻撃的になる。オクトーもそうだった。

「奴隷ごときを国民などとは片腹痛い。下賤な平民風情と親しく交わり、王家の尊厳と血統を穢し、貴族界の秩序を乱す無法無頼の輩、レオン・マルクス。女のおかげで成り上がった田舎者めが。あなどって先に始末しなかったことが、悔やまれるわ。こんな若造を国王に仕立て上げて、何をするつもりだ? 姉と弟を乳繰り合わせるのか? ははははははは!」

 自分らで前国王を殺し、レオンの命を狙っておいて、ひどい言いがかりをつけてくる。だが、レオンがいなければ、クーデターは一旦は成功していた可能性が高い。真っ先に排除しておかなかったのが失敗だったというのは、あながち間違いでもなかろう。

 レオンは、大判の紙をオクトー伯爵の前につきだした。判明しているクーデター指導者のリストだ。

「はっ、笑わせるなよ。奴隷使いが⋯⋯。おぅ、胴斬りが嫌なら、こいつに誰か加えろ」

 オクトー伯爵は、興味深そうにリストを眺めている。

「ほう、これは立派なものですなあ。こんなに早く組織の全貌をつかみましたか? おや、ワシの知らない名まである」

 オクトー伯爵が口を滑らせた「組織」という言葉に、レオンは反応した。「やはり領主貴族の単独行動ではない。王都の貴族を巻き込んだ計画的な軍事クーデターだ⋯⋯」。

 シャルル新国王に耳打ちする。

「これから王宮情報部長と保安部長を拘束します」

「なぜだ? 後々困るのではないか?」

「これだけ大きな陰謀団体が、情報機関の網にかからないはずがありません。どこかで情報が止められていたのです。情報部と保安部を厳重に組織点検する必要があります」

「⋯うぅむ。そのようにせよ」


 レオンとシャルル新国王がヒソヒソと話をしていると、不意にオクトー伯爵が笑い始めた。

「どうした? なにがおかしい?」

「肝心な方が抜けているではありませんか。意図して抜いたんですか? ははははは!」

 珍しくレオンが渋い顔をした。その通り。レオンが意図的にリストから外したのだ。

「ここに引っ張ってきて晒しあげるわけにもいかないだろうが」

 シャルル新国王が、口を挟んだ。

「誰のことだ。申せ」

 レオンは黙っているが、オクトー伯爵は嬉しそうに笑って口を開いた。

「ははは⋯。赤い⋯ドレス⋯女⋯⋯」

「ジュリエットのことか?」

 もうなにも怖くないオクトー伯爵が、せせら笑った。

「我らの会合には、いつもいらっしゃいましたなあ。暴君が王宮貴族と領主貴族の交流を禁じていましたから、我らを結びつけることができるのは、監視のない王族のみでした。はははははは!」

 実際には、これは正しくない。王族は王宮保安部の厳重な保護監視下にあるはずだ。レオンが、近くで待機している部下に耳打ちした。

「保安部と情報部の関係部署を、ただちに閉鎖しろ。資料を保全する。いかなる理由があろうと、何者も入れるな。組織点検で灰色の者は、全て拘束し身辺を洗え」

 オクトー伯爵は、笑いながら引き立てられて行った。

 ジュリエット第四王女は、シャルル新国王のすぐ下の腹違いの妹だ。もうじき二十歳になる。フランセワ王国では、とっくに成人だ。

「おのれぇ⋯父殺しがっ⋯。レオンっ! ジュリエットはどこにいるっ!」

「第四王女殿下は、護衛をつけ安全な部屋で休息していただいております」(*訳 見張りをつけて閉じこめているよ)

「連れてこい! この場で死刑を言い渡してくれるっ!」

 ジュスティーヌ王女が介入してきた。

「陛下。ジュリエットは王族です。王族の⋯犯罪⋯は、王族会議で裁かれる掟です。この場での御裁断は、どうか⋯⋯」

 ジュリエット第四王女は、自殺した第三王子と違って首謀者とは思えない。シャルル新国王は、姉の諫言には素直に引いた。

「わかった。ジュリエットは、王族会議で裁く」

 強制身体検査が終わり王座の周りに集まっていた貴族たちは、改めて優しく気高く勇気のあるジュスティーヌ王女を見直した。レオンが付いていたとはいえ、王族でただ一人戦闘中の王宮から脱出し、親衛隊の部隊を率いて反撃しクーデター軍をせん滅した。⋯⋯惜しい。男だったら⋯⋯。

 優しいだけでなく、芯が強いから新国王にも諫言できる。きっと王族会議でジュリエット殿下の命乞いをされるのだろう⋯⋯。なんというお方だ。

 実のところジュスティーヌは、腹違いの妹のジュリエットのことを蛇や蝎よりも深く激しく嫌悪していた。

 年の近い腹違いの妹なのだから、自分によく似ている。でも、どことなく下品に感じる顔立ちが、嫌いだった。声まで似ているのが、不快だった。わざとイライラさせるような喋り方も、いやだった。姉王女が持っている物は何でも欲しがる子供の頃からの卑しさを、軽蔑した。ジュスティーヌが白ならばと、シルエットがそっくりの赤いドレスを着て張り合おうとする妹が、気持ち悪かった。自分と似た顔で男に媚びた下品な表情をつくるのには、もう目を背けたかった。高位貴族出身の侍女を十人も引き連れることで権力を誇示しているつもりの浅はかさは、鼻持ちならなかった。母親が娼婦だったことを吹聴し哀れな身の上を売り物にする自己憐憫は、もうたまらなかった。自分と体つきまで似ているジュリエットが複数の男と汚らしい浮き名を流すのには、吐き気がした。ジュリエットを思わせるあらゆる物が、忌まわしかった。ジュリエットの好む赤い色が嫌いになったほどだ。

 ジュスティーヌは、この世界では奇跡的なほど開明的で平等主義的な考えの持ち主だった。現代日本風に言えば、リベラルだった。それなのに、自分の妹がこれほどまでに下劣なのは、売春という醜業についていた母の血のせいなのかと考えてしまう。

 とりわけジュリエットが夫のレオンに色目を使うことに、ジュスティーヌは激しく苛立った。義妹という立場を利用して、大勢の貴族が見ている前でレオンの腕に触れ、下品に潤んだ目で見上げ、媚びて笑いながら顔を近づけ、耳元でなにかささやいたりする!

 ジュスティーヌが動揺していることを悟れば、しめたとばかりに調子に乗って挑発してくるのは目に見えていた。絞め殺してやりたいほどの憎悪を感じながら、「ジュリエットをお願いしますわ」などと言ってその場を離れた。この不潔な女が、自分の夫の腕にベタベタと触れているのを見たくなかったのだ。それを想像しただけでおぞけ立ち、全身の血が逆流する思いがする。

 レオンにその気が全くないのが救いだった、が⋯⋯。ジュスティーヌは、レオンが誘い出されてジュリエットと密会する場面を、どうしても想像してしまう。


「ねぇん。お姉さまって、ターイクツな女ですわよねぇ」

「んー? そうだなぁ」

「かわいそうなレオン。アタシだったら、つまらない思いなんかさせないわぁ。⋯⋯ねぇ。くらべてもいいのよぉ? ウフフフ~♡⋯⋯」

「へーっ。そりゃいいや! 姉妹で味が違うか、実験だーっ! ワハハハ!」


 王女殿下とは思えない、なかなか下品な想像だ。だが、ジュリエットの性格とレオンのかつての行状を鑑みると、いかにもありそうな気がする。

 ジュスティーヌは、レオンを深く愛していた。尊敬すらしている。とはいえ、依存気味ではあるが、完全に洗脳されているわけではない。妻でありながらレオンの貞操観念に関しては、全く、一ミリも信用していなかった。一時期は諦めの境地にまで達っしていたくらいだ。

 ところが結婚したとたん、レオンの凄まじい女遊びはピタリと止まった。それは嬉しかったが、いずれ再発するかもしれないとも恐れている。でも、でも、でも、でも、たとえ千人の女と浮気されたとしても、ジュリエットとだけは我慢できない! あの女は、レオンに色目を使い、さかんに集会とやらに誘っていた。クーデターの勧誘だったのかしら? 別のお誘いだったのかしら? とにかく、あの女には消えてもらいたい。死んでほしい!

 しかし、大勢の貴族がいるこの王族の間で新国王がジュリエット第四王女に死刑を宣告することは、弱体化したフランセワ王家の権威を失墜させ、王権をさらに弱めると考えた。なので王族としての義務を果たした。だが、王族会議でジュリエットを弁護する気など、ジュスティーヌには毛頭ない。

 王族会議は、成人した直系王族と正妃によって行われる。クーデターで国王をはじめ成人王族が四人も死に、正妃は倒れてしまった。議決権を持つ王族は、シャルル、ジュスティーヌ、ジュリエットの三人だけになった。被告人のジュリエットは、会議から外される。残ったシャルルとジュスティーヌは、妹を死刑にする気満々だ。


 シャルル新国王が、顔色を青白くして静かに口を開いた。あまりに怒りすぎると、怒鳴ったりしなくなるらしい。

「レオン。反逆者のリストに載っている者を全て九族斬胴刑にせよ」

 オクトー伯爵の「姉と弟を乳繰り合わせるのか? はははははは!」という嘲笑が決め手になったようだ。

 国王直々の勅命なので、臣下のレオンが「嫌です」と返すことはできない。

「ざっと数えましたが、一万人以上を斬胴することになりますが?」

「かまわん。反逆者の一族を根絶やしにしろ」

 王族の間が静まりかえってしまった。どこで反逆者と縁戚として繋がっているかわからない。自分も斬胴刑に引っかかるかもしれないのだ。

「陛下を怒らせるのが、オクトーの策略なのです。即位と同時に怒りにまかせて一万人も殺すなど、民衆から暴君と見られてしまいます」

「かまわぬ! 処刑しろっ! 王命だっ!」

 シャルル新国王は、二十歳と若かった。若いから頭に血が上りやすく、向こう見ずで残酷だった。

 処刑される一万人は、犯人の顔を知っているかどうかもあやしい遠い親戚や使用人が中心で、多くは平民だ。貴族同士を争わせ力を殺ぐことには熱心だったレオンだが、平民殺しには全く気が乗らない。貴族相手でも斬胴刑などという馬鹿げたことをさせられるのは、まっぴらだった。特に子供を殺させられるのは、御免だ。

 古代ローマでは、奴隷が主人を殺すと連座してその家の奴隷が全員処刑されたという。実際に奴隷による主人殺しが起きて、罪のない奴隷が数十人も処刑されたことが何度かあった。そのたびに処刑に反対するローマの民衆が暴動を起こして、ローマ軍が出動する騒ぎになった。そんな世界史のエピソードを思い出した。

 民衆は連座刑を嫌う。つぎは自分が罪をかぶせられ、連座し殺されるかもしれない。

 叛徒の一族を根絶やしなど、無茶な話だ。殺される一万人には、親族、友人や知人が数十万人単位でいる。彼らは処刑を命令した新国王と、残虐な見世物処刑を指揮するレオンを深く恨むだろう。王都民のレオン人気は大暴落してしまう。一万人もの斬胴刑など、民衆派の領袖であるレオンが到底受けられる命令ではない。では、どうすればよいのか? 方法はひとつしかない。

 レオンは小さくため息をついて切り出した。

「私の力不足のため、陛下のご期待に添える働きはできません。どうか王宮最高指揮官の職を解き、改めてその任に適した者をご指名下さい」

 レオンの本音は、「胴切りなんかやってらんない。罪もない平民を一万人も殺せなんて腹立ちまぎれに命令するやつなんぞ、もう知らん」だ。

 シャルルと貴族たちは、驚愕した。まさか事実上の独裁官の職を放り出すとは!

 もちろんレオンは、そんなにチョロい人間ではない。しっかり魂胆がある。まず、辞任は拒否されるとみていた。レオンを引き留めるために新国王が胴切りを引っ込めることで、自分の発言力が増す。仮に王宮最高指揮官をクビになったとしても、大して痛くもない。本当に欲しかった軍の指揮権と民衆の武装権は、すでに手に入れた。

 早く軍の改革と、民衆の武装に手をつけたい。戦争準備に集中できるから、罷免はむしろ好都合と言えるくらいだ。

 謀反だ、反乱だ、クーデターだ、などといっても、しょせんは貴族間の権力争いにすぎない。コップの中の嵐の結果、貴族の権力者が交代したところで、社会の構造は何も変わらない。こんなものは、欺瞞的なブルジョア選挙を殺し合いにしただけのシロモノにすぎない。

 下部構造を根底からくつがえし、それによって政治・文化・宗教・言語という上部構造をも一変させ、搾取階級を粉微塵に消し去る。そのための、政治革命→社会革命→文化革命→世界革命。この革命に比べて貴族どもの利権争いの殺し合いは、なんと矮小なものだろうか。

 こんなクーデターは、これから爆発する革命の下準備の道具に使わせてもらう。レオンは、早く軍の武器庫を開いて民衆に武器を手渡したいのだ。

「ローザ秘書官。筆記しろ」

「⋯⋯はい」

「王宮最高指揮官命令 ジージョ・ド・ラヴィラント伯爵を釈放せよ。 公爵レオン・アルフォンス・ランソワ・ド・マルクス大将(印)」

 指輪がハンコになっており、それで書類に押印すると公文書としての効力を持つ。自らの手で無実の罪を着せて投獄したラヴィラント伯爵の釈放を最後の仕事にするつもりらしい。レオンが、本気で辞めるつもりなのが伝わってきた。

「もうひとつだ。『勅令 レオン・アルフォンス・ランソワ・ド・マルクスを王宮最高指揮官より解任する』」

 レオンは、ローザ秘書官から自分をクビにする書類を受け取ると、うやうやしく新国王に差し出した。

「御署名と王章を押印されましたら、勅状が有効になります」

 シャルル新国王は、頭から冷水をかけられたような気持ちになった。冷や水をぶっかけられたので、上っていた血が下がった。

 クーデターは小康状態にあるが、まだまだ状況は流動的だ。あの温厚な先王を弑するような連中だ。何をするか分からない。いま頼れるのは武力だけだ。レオンが王都警備隊兵を集めたり、民衆に武器を配っているのも、つまりは兵を集めるためだ。その中核となるのは、やはり王宮親衛隊だろう。王宮親衛隊の指揮をとれるのは、レオン、ジルベール、ラヴィラントの三人しかいない。

 ジルベールは、身分と経歴は申し分ないが若すぎる。それにレオンの弟分だ。王都警備隊長官に任じられて、今も警備隊部隊の編成やチョムチョムやらで駆け回っている。戦闘指揮官としては優れているが、司令官としての適性は不明だ。

 レオンを解任したら、後を任せられるのはラヴィラント伯爵しかいない。王家に絶対の忠誠を誓う忠臣ラヴィラントは、高潔でレオンよりも穏健な良識人だ。だから、だからこそ一万人の公開斬胴刑には、全力で反対するだろう。王家忠誠派であっても、シャルル王絶対忠誠派というわけではない。シャルル一世の治世がフランセワ王家を危うくすると判断したら、どう出るか分かったものではない。

 最も信頼している姉のジュスティーヌも、離れていくだろう。夫と弟のどちらが大切か、シャルルにだって分かる。鶴と熊のような組み合わせなのに、この二人はとても夫婦仲が良い⋯⋯。

 残るは保守派貴族だけだ。しかし、反逆者は全てこいつらの中から出ている。まだまだ潜んでいて機会を伺っていそうだ。

 それに、たしかに一万人も殺したら、王都民の憎しみを一身に受けることになる。これでは裸の王様ではないか? そんな裸の王様が殺されるのは時間の問題だ。

 しかし、いまさら九族斬胴刑命令を引っ込めるわけにもいかない。レオンの辞職の圧力で斬胴を取り止めたら、シャルル新国王はレオンの傀儡だと広言するようなものだ。

 そのくらい分からないレオンではないのに、辞表を出すという形で正面から反対してきた。年若く未熟な国王を身を挺して諫めるポーズを取って、どう転んでも損がないように民衆派の政治力の拡大を図っている。

 いつもレオンがやり過ぎると止める役のジュスティーヌ王女が、ここでも介入してきた。

 夫婦であってもレオンとジュスティーヌは、百パーセント一致しているわけではない。ジュスティーヌにとってシャルルは、かわいい弟だ。フランセワ王家の王女であると同時に、誕生したばかりのフランセワ=マルクス公爵家の女主人でもある。生まれながらの王女であるジュスティーヌは、レオンと同じような完全な民衆派というわけにはいかない。フランセワ王家が滅んでしまっては父祖に顔向けできないという意識も強い。

「レオン、あなたがそんなに我を張っては、シャルル陛下の政務が滞ってしまいます。陛下、まず反乱軍を討ち払うことが先決ではないでしょうか。この件は、事態が落ち着いてから検討することになさっては?」

 ダウンしてしまった母正妃に代わって女性王族の序列一位として王妃座に座っている。夫だが身分は下のレオンを「あなた」と呼んで夫婦だとアピール。国王を「シャルル陛下」と名前で呼んで、弟が国王であることもアピール。レオンとシャルルは、自分をはさんで親戚であることを思い起こさせる。斬胴問題での罷免願いを、「我を張って」とレオンのワガママが原因の身内のいさかいのように矮小化してみせる。今さら九族斬胴刑命令は取り下げられないので、「事態が落ち着いてから検討する」として棚上げする。もちろん永遠に「検討」なんかしない。

 姉の助け船に、新国王は飛びついた。

「姉うえ⋯ジュスティーヌ王女の助言を採用する。レオンは罷免しない。その職に留まり、予定通り反乱軍を鎮圧せよ」

 ジュスティーヌのおかげで、レオンは辞める口実がなくなってしまった。無理に辞めれば辞められないことはないが、そのせいで政治力が落ちることは避けたい。ならば現職に留まり、クーデターの後始末をして仕事ができることをアピールしたほうが得策だろう。どうせ、「鎮圧せよ」と命じられなくても既にクーデターは失敗し、クーデター派は自壊している。

「はっ。承知しました」

 国王は、安堵のため息をついてレオンの罷免願いを破り捨てた。

 顛末の一部始終を見ていた貴族の一部には、レオンは虐殺を身を賭して諌めた剛直な人物にみえた。別の一部には、位人臣を極めようとしていたレオンが、たかが下民のために地位を投げ出すなど、愚の骨頂にしか見えなかった。また別の一部は、勅命に公然と逆らってみせたレオンに、叛心ありとみた。


 胴斬り騒ぎが落ち着いたところに、王都警備隊長官に出世したジルベールがやってきた。クーデター派リストをヒラヒラさせている。

「センパイ⋯じゃなくてマルクス最高指揮官。警備隊の部隊に余裕ができました。今からこいつらの屋敷に突入させ、全員検挙します。二百人は網にかかりそうです。ぶち込む場所がもう無いですよ。どうせ死刑ですから、全員殺しちまいますか?」

 おそろしく物騒なことを言う。

「あわてるな。いいか。敵拠点を厳重な監視下に置き、今は手を出すな。領主貴族の騎馬部隊が来るとしたら~、来ないだろうが⋯、五日後だ。三日後に全敵拠点に突入し一斉検挙する」

「はあ。⋯⋯どうして三日も待つんすか?」

 フランセワ王国には政治警察は無い。だから、反体制秘密組織の潰し方なんてだれも知らない。前々世で過激派の活動家として公安警察と追いかけっこをしてきたレオン=新東嶺風は、政治警察のやり口を知悉していた。反体制活動の経験から弾圧の手口を学んだ点は、五回も逮捕されてシベリアに流され、六回脱走した革命家時代のスターリンにちょっと似ている。

「敵の立場になって考えろ。王宮に突入した部隊とは、連絡が取れない。反乱の首魁とも音信不通だ。外に残った連中は、どうすると思う?」

「そりゃ、状況を把握するために偵察を出し、横の連絡を取り。ああ、⋯⋯なるほど。ハハハ⋯」

 ジルベールは、内心レオンの仮借なさに驚き、それを隠すために笑ってみせた。

「アジトを監視下に置き、敵を泳がせて組織をあぶり出す。一斉に摘発して王都から反逆者を根絶やしにする。取りこぼしは許さん。一人残らずだ」

 シャルル新国王が、大きく頷いた。やはりこの男を辞めさせるわけにはいかない。


 このやり方は、政治警察が反体制組織を弾圧する際の常套手段だ。レオン=新東嶺風が高校生だった時に起きた連続企業爆破事件が典型だろう。

 爆弾グループの掲げた『反日革命』だのといった理論は、およそマトモな左翼ならば相手にしないものだ。とはいえ嶺風は、持ち前の極左軍事主義の気分を発揮して、興味深く事件の推移を観察していた。

 昼休みの丸の内に爆弾を仕掛け八人もの通行人を爆殺した『東アジア反日武装戦線』に対しては、「人民大衆の革命性を信じることができず、大衆的実力闘争の代用に時限爆弾を持ち出し、肝心の人民を無差別に殺した」と、全く共感はできなかった。こんな爆弾闘争は、いずれ破綻する。

 わずか八カ月後に東アジア反日武装戦線が一斉検挙され、壊滅したことには驚かなかった。

 隠れて爆弾を仕掛けるような連中を逮捕するなど困難を極めると考えそうだが、実はそうでもない。東アジア反日武装戦線は、反日革命なる理論を信奉し、地下出版した爆弾教本『腹腹時計』にも理論編としてそれを載せていた。こんな極論を真に受ける者は、ごく少数だ。爆弾闘争を決行するほどのグループならば、非合法活動に入る前に必ずメンバーの誰かが同様の思想傾向の集会に顔を出し、合法活動に参加している。

 当局は、危険性が高いとみなした集会には公安刑事を潜入させ、集会解散後には参加者を尾行する。集会の参加者の身元は、ほぼ全てが公安に割れているという。この時点で容疑者は、数千人程度に絞られる。あとはしらみつぶしに思想傾向が近い者を洗い、絞り込むだけだ。

 東アジア反日武装戦線の場合は、数カ月で組織の一端が掴まれ、徹底した監視の元に泳がされ、本格的な爆弾闘争を始めてたった八カ月ほどで一斉検挙され壊滅してしまった。

 大衆に依拠できないたたかいは、脆い。高校三年にして『三里塚を闘う高校生共闘』に加わっていた新東嶺風は、東アジア反日武装戦線の敗北をそのように総括した。

 しかし、嶺風がテロを全否定していたのかといえば、まるで違う。むしろ革命にテロルは不可欠であり、絶対に必要だとさえ考えていた。この考えは嶺風だけでなく、周りの仲間たちも同様だった。

 嶺風の考えていたテロルとは、単発的な爆弾テロではない。敵対党派のアジトに夜討ちをかけ、頭にバールを撃ち下ろして殺す陰惨な内ゲバの個人テロでもなかった。嶺風=レオンの考えている革命に必要不可欠なテロとは、大衆テロだ。多数を占める被抑圧階級がかつての支配階級を摘発し包囲し、次々と公然と処刑する。階級敵を、赤色大衆テロルによって、恐怖させる。

 現状のフランセワ王国を例にするなら、領主領に民衆軍を突入させ領主制の経済的基盤をなす奴隷を解放する。民衆軍と解放奴隷軍に、領主貴族に対する大衆テロを発動させる。これが、セレンティアでの世界革命の第一段階となる。

 階級敵に対するテロルや処刑などというと、非人道的に感じられるだろう。しかし、数万人の領主貴族とその追随者を除かなければ、二百五十万人の平民が数世代に渡って奴隷として使役されるという地獄が続くことになる。

 少し知恵の有る王宮貴族ならば、「このままでは大変なことになる」といった程度の認識は共通していた。レオンは、戦争で領主領を解体するしかないと主張したため、穏健な前国王によって生首事件を口実に政府中枢から遠ざけられてしまった。

 今回のクーデター事件で、前国王とそれを取り巻いていた保守派貴族から、シャルル新国王と民衆派のレオンらに権力が移動した。

 しかし、新国王と同様に民衆派は、あまりにも若く未熟だった。国家を運営するには、どうしても保守穏健派の協力が必要だ。どうやってか? 簡単だ。「領主貴族を倒さねば、おまえの生命が危ない」。この現実を納得させればよい。

 貴族の中の貴族である王族が、五人も血を流して倒れた。シャルル新国王もクーデター部隊によって軟禁され、ひとつ間違えばどうなっていたか分からない。高位高官貴族たちも、内戦やむなしに傾いていた。

 

 実務能力の高いレオンがテキパキと指示を出し、フランセワ王国は国家機能を回復しつつあった。主要官庁に伝令を走らせ、王族の間に事実上軟禁している大臣たちの頭越しに命令を下す。荒事しかできないと見ていたレオンの行政官としての有能な働きぶりに、同室の高位高官貴族たちは驚愕した。

 ふと気づくと、王族の間にいる者は、朝からなにも食べていない。殺し合いでそれどころではなかったからだ。さすがに腹が減った。

 レオンは、食事の用意をさせるために王族の間を出た。親衛隊関係者以外は、大臣であろうとここから出ることは許されない。

 転がっていた五百以上の死体は、あらかた片づけられていた。各所を点検しながら地階のメイド部屋に行くと、女の子たちがグッタリしていた。メイドといっても初期ブルジョアジーの良家の娘たちだ。いいところのお嬢さんが、再び戦場になるかもしれない王宮に出仕してきた勇気にレオンは、内心舌を巻いた。

「よう。無事だったかい?」

 レオンの顔を見ると、メイドちゃんたちは一斉に駆け寄ってきた。泣いちゃってる娘もいる。

「おう。もう大丈夫だぞ。悪いやつらは、やっつけたからな」

 民衆派の指導者だけあって、レオンは平民に優しいし慕われている。

「レオンさまーっ! うわあぁあん! 頭が、頭が落ちていて⋯」

 死体片付けの手伝いまでやらされたらしい。

「国王陛下がぁ! ええええーん!」

 顔にアザをつくってのびているメイドがいた。どうしたのか訊いたら、宿直している時に「悪い人たち」が攻めてきたので、皿や瓶を投げつけて抵抗。捕まってぶん殴られたそうだ。⋯⋯よく殺されなかったものだ。西方領主領の騎兵には、騎士道のようなものが残っているようだ。

 レオンは、のびているメイドを担架に乗せると王族の間の国王の目の前に運び込んだ。シャルル国王は、困惑している。

「レオン、この少女は⋯⋯?」

「王宮メイドです。反乱軍が攻め込んできた際、勇敢にも戦い、このように負傷しました」

 顔の右半分は美少女だが、左半分はぶん殴られて紫色に腫れあがっている。国王の前なのに意識が朦朧としていて動けない。

「平民のメイドがか? なんと忠義な」

「ぜひ、名誉を与えて下さるよう、お願い申しあげます」

 高貴な者のために平民ごときが死ぬのは当たり前だと考えている貴族は多い。だが、このけなげな平民少女の姿を見せられて、そんなことを言えるような奴は、なかなかいない。それに年若い国王は、感動している。

「同然だ。勲五等王国勲章と王国軍戦傷者勲章を下賜する。よく手当てし、決して死なせてはならぬ」

 殴られたくらいで死にはしない。それより、役にも立たなかった保守派貴族と、ほとんど素手で反乱軍に立ち向かった平民少女。それを国王に見せたかったのだ。


 王族の間にサンドイッチのたぐいの簡易食が運ばれてきた。若いシャルル新国王は嬉しそうだったが、これを国王に食べさせるわけにはいかない。

「お待ちを。陛下はこちらをお召し上がり下さい」

 レオンは、麻袋からふかした女神イモ=ジャガイモを取り出した。まだ少し温かい。

「これは⋯なんであるか?」

 サンドイッチに比べても、女神イモに塩をかけてかぶりつくというのは、あまりにも貧弱だ。でも、レオンは頓着しない。

「私が監視して作らせた安全な食糧です。持ち込まれた料理は、今は毒物対策ができておりません。ここが戦場であることをお忘れなきよう」

 本当は、メイドちゃんたちが夕食にしようとふかしていた女神イモを拝借してきたものだ。たしかに間違いなく毒は入ってないだろう。メイド部屋の炊事場から瓶に入れて水も運んできた。

「水も、こちらからお飲み下さい。何者からであろうと渡されたものを飲んではなりません。敵は、前国王陛下を弑した者どもです。なにをするか分かりません」

 せっかく命拾いしたのに毒殺されたらたまらない。新国王は、ゲンナリしながらレオンに従った。ナイフやフォークの類は、持ち込み禁止だ。新国王は、生まれて初めて皮つきの女神イモを手づかみで食べた。「国王などに、なるものではない⋯⋯」。


 夕方になり、王都警備隊本部を監視していた偵察隊から、息を切らせて伝令兵が飛んできた。占拠していた反乱軍が動いた。

「警備隊本部から百名ほどが出てきていました。騎乗の準備をしています」

 王族の間は騒然となった。

「敵が攻めてくるのか?」

「迎え討つ準備は?」

「早くっ! 早くしないと!」

「警備隊で勝てるのか?」

 落ち着いているのは、戦闘経験のある親衛隊騎士や軍務についたことのある貴族くらいだ。一番落ち着いているレオンがローザ秘書官に命令を口述させる。

「十七時十五分、王宮最高指揮官より通達

 敵騎兵隊が行動を開始した。王宮親衛隊及び王都警備隊は、厳重な警戒態勢をとれ。王宮内の非戦闘員は、二階以上に退避せよ」


 カムロたちがコンニャク印刷機でアッという間に六十枚ほど印刷した。いつの間にやら王宮内を自在に駆け巡っていたカムロたちが、王宮内外の要所を固める隊長に配布して回る。

 百人やそこらで王宮に攻め込んでくるほど、敵も馬鹿ではあるまい。しばらくして伝令兵が再び飛び込んできた。

「敵数は、約百二十騎。全員騎兵です。西門方面に向かっています。武装した王都民の散発的な攻撃により、若干の被害が出ている模様」

 レオンの予想通りだ。

「逃げたか⋯。賢明な判断だな。ジルベール。退却する敵を騎兵で追尾しろ」

「あー、払暁から騎兵を酷使してきましたからねえ。五騎くらいしか出せませんよ」

「それでいい。目的は偵察だ。戦闘は避けろ」

 新国王が、口を入れた。

「なぜ追撃しない?」

「我が方には騎兵がありません。追撃は不可能です」

 半日前に父と兄二人が殺されたのだ。新国王にとって下手人の一味を逃がすことは、我慢ならない。

「おのれえぇぇ⋯⋯。レオンっ! 国王殺しどもを根絶やしにしろっ!」

「はっ! やつらは、領主領に逃げ帰るのでしょう。いずれ主人の領主貴族もろとも全滅させます」

 シャルル新国王は、若かった。大勢の貴族の前で言ってよいことではないのだが、言った。

「いつだ? いつ誅滅するっ!」

 レオンは、内心舌なめずりをしている。フランセワ王国は専制君主国家だ。国王の言質を取った者の勝ちだ。

「開戦致しましたら、三カ月で領主貴族どもをこの世から消してご覧に入れます」

 王族の間は静まりかえった。

「うむ。いつ開戦できる?」

 早急に開戦しないと、戦争反対を口実に保守派貴族が巻き返しにでるだろう。

「一カ月後です。取りこぼしの無いように西方領主領地域を軍団で包囲し、一斉に突入して蹂躙します」

 民衆派の中でも穏健と見られていたジュスティーヌ王女でさえ、当然事のように頷き、止めだてしない。シャルル新国王が王座から立ち上がった。

「ハハハハハ! よく言ったぞ、レオン! 秘書官。筆記せよ。『勅令 フランセワ王国は、戦争状態にあるっ。敵は、西方の領土を占拠している反逆者である。我が軍は、一カ月後に攻勢を開始する。あらゆる物的・人的資源を戦争に動員せよ』」

 国家のあらゆる物的・人的資源を戦争に動員するという『総力戦』は、レオンがこの世界に持ち込んだ思想だ。王国大学でレオンの講義を受けていたシャルルにまで影響を与えていた。

 戦争の歯車が回り始めた。だれにも、いずれ国王やレオンにさえ止めることはできなくなる。


 戦争宣言をしたシャルル新国王は、緊張の糸が切れてばったりと王座に座り込んでしまった。真っ青になり肩で息をしている。これ以上は無理だろう。御退場いただこう。

「ジュスティーヌ。陛下を寝所にお連れしろ」

「大丈夫だ。私はまだ⋯⋯」

 ジュスティーヌと三人侍女がシャルルを支えて立たせる。

「なりません。あなたまで倒れたら、フランセワ王国はどうなるのですか? 少しでもお休みにならなければ」

 寝所に連れて行かれるシャルル新国王に、レオンが十数枚の書類を手渡した。

「⋯なんだ? ⋯これは?」

「王宮総務部から持ち出してきました。写しはありません。だれにもお見せにならないように」


 寝所の巨大ベッドに、シャルルは倒れ込んだ。賊兵どもに叩き起こされ、血の滴った抜き身の剣を突きつけられて連行されたのは、たった十八時間前だ。精神的にも体力的にも、もう限界だった。

 クーデター前となにもかもが変わってしまった。

 間近で父王の激務を見ていたシャルルは、国王どころか政治に関わりたいと思ったこともなかった。政務は兄王太子に任せ、自分はどこかの貴族家に婿入りして好きな魚類の研究⋯⋯食用魚の養殖の研究をしてフランセワ王国に貢献したいなどと考えていた。

 それが今や『シャルル一世』だ! 反逆者どもに虎視眈々と命を狙われている。王族の間にまで入り込んだ刺客が所持していた短刀を思い出し、巨大ベッドの上でシャルルは頭を抱えてしまった。隣に姉王女のジュスティーヌが座り、優しく背中をさすってくれている。

「姉上、姉上が⋯⋯」

 女王になってくれれば良かったのに、と再び言いたくなった。だが、もう手遅れだ。今さら姉に「死ぬのが怖いから王座を引き受けてくれ」と懇願するわけにはいかない。

 ようやくシャルルは、レオンに渡された書類に気がついた。人名が書かれている。

「姉上、なんですか。これは?」

 ジュスティーヌが答える。

「今日、登城した者の名簿だそうです」

「なぜそんなものを?」

 珍しくジュスティーヌが苦々しい顔をした。

「登城する者は、いつもは八百人ほどと聞きました。今日、登城したのは六百人です⋯⋯」

「!⋯⋯賊軍におびえて、二百人も逃げた⋯のか⋯?」

 たしかに王宮は戦場と化し血の海となった。再び敵が攻めてくるかもしれない。命惜しさに出仕しない者もいるだろう。

 実際に職場放棄したのは、百五十人ほどだ。王宮総務部から登城者名簿を接収したレオンは、反民衆派や戦争反対派のリーダー格といった邪魔な連中を五十人ほどリストから抹消して新国王に渡した。⋯⋯これで奴らは国王の信頼を失い、レオンたちは仕事がやりやすくなる。渡したのは原本で写しはないので、改ざんがバレる可能性はない。

「くっ! 臆病風に吹かれおってっ。この者どもは敵前逃亡罪で厳重に処罰する!」

 自分が死ぬような目に遭っている時に逃亡した臣下に、シャルルは激怒した。ジュスティーヌ姉王女の方が冷静だ。弟王を誘導する。

「これほど多くの臣下が逃亡したと知れたら、敵に侮られましょう。表沙汰にせず、少しずつ政治の中枢から外すのです」

 たしかに王宮に勤務している者を四分の一も処罰したら、行政の機能が停止してしまう。しかも、これから戦争を始めようという時だ。

「ふうぅ⋯⋯。国王といっても不自由なものだ」

 シャルル新国王は、逃亡者を閑職に追いやり、いずれ政府から追放することを固く決意した。そして誰かを要職につける際には、必ずこの名簿を確認するだろう。

 シャルルは再び名簿を眺め、高位高官貴族の逃亡が多く、メイドや下働きの者が忠実に登城していることに感銘を受けた。紫色に顔を腫れ上がらせ、息も絶え絶えに見えたメイドの少女を思い出した。

「いざという時に、貴族は頼りにならない⋯⋯」

 名簿にかじりつき、いつまでも寝そうにない弟に、ジュスティーヌが呼びかけた。

「⋯⋯陛下の安全は、私たちがお守りします。さあ、休みましょう。休息するのも国王の仕事です。フフ⋯⋯同じ部屋で寝るのは、十年ぶりですね」


 シャルル新国王とジュスティーヌ王女が、王族の間から退室した。もうレオンを止めることができる者はいない。

 もともとレオンは、例の名簿の五十人をクーデターのどさくさで消してしまおうと考えた。クーデター派の犯行にみせかければいい。すぐに戦争が始まるのだから、調べる間も無くうやむやになる。

 数日中にクーデターの失敗が明瞭になる。そうなったらもう民衆派は用無しだ。独裁権を握っている今のうちに、これまでさんざん邪魔立てしてきやがった保守派貴族どもを血の海に沈めてやる。やつらを消さねば戦争は中途半端に終わり、民衆が流す血が無駄になる。汚れ仕事だが必要なことだ。⋯⋯やるか?

 ジュスティーヌ王女は、レオンの魂胆を見抜いた。ジュスティーヌにとっては、この五十人の保守派貴族たちは子供の頃からの顔見知りだ。彼らは民衆派と政治路線が異なるというだけで、決して悪人ではない。まして殺さねばならないほどの悪事を働いたわけではない。

 王妃座から立ったジュスティーヌは、レオンを引っ張って隅に連れて行くと、小声で話し始めた。

「彼らとて、フランセワ王家の臣下です」

「毒蛇の頭を斬り落とす千載一遇のチャンスだ。今しかない」

「いけません。血は血を呼ぶものです」

「これは貴族と平民の闘争なんだ。うまくやってやるさ」

「力に驕ってはなりません。彼らを政治的に無力にすればそれで良いではありませんか」

「⋯⋯⋯⋯⋯⋯甘い。後ろから刺されるぞ」

「わたくしが、させません」

 わずか数分の立ち話と耳打ちで、ジュスティーヌは五十人の命を救った。対案としてジュスティーヌがレオンに手を貸し、改竄名簿を弟国王に提出した。そのことで敵対派閥の貴族の命を救い、しかし政治的には抹殺したのだ。


 スパイの冤罪をかけられ拘束されていたラヴィラント伯爵が、王族の間に戻ってきた。さっきレオンが釈放命令を出した

 気骨のある中位貴族が集まった王家忠誠派の筆頭で次期宰相が、国王の面前でスパイの汚名を着せられ連行されたのだ。これほどの恥辱はないだろう。この場でレオンに斬りつけても不思議ではない。幸いラヴィラント伯爵は、丸腰だが。

 帯剣しているレオンは、ラヴィラント伯爵を見つけるやスタスタと近づいて行った。今度はレオンがラヴィラント伯爵を斬ってしまうのではないかと、王族の間は静まりかえった。ラヴィラント伯爵は、死ぬことをおそれるような男ではない。顔色も変えずレオンと対面する。

「⋯⋯なんの⋯御用ですかな?」

「王都は、三日後の十九日深夜十二時まで戒厳令下におかれます。ラヴィラント伯爵には、それまで行政機能の回復と各省庁の監督と調整をお願いしたい。私は、敵の掃討と治安維持を行います」

 次期宰相候補だったラヴィラント伯爵に、行政を担当させようというのだ。これではスパイ容疑をかけたのは冤罪だったと自白したのも同然だ。

「⋯⋯私は、スパイなのでは?」

 レオンは、顔色も変えない。鉄面皮とは、このことだろう。

「過去に不幸な行き違いがありましたが、王家のためです。お願いします」

 ラヴィラント伯爵家には家訓があった。

「フランセワ王家に忠誠を尽くせ。王家のためならば、国王に諫言することにひるむな。たとえそのために流刑になっても王家危急の際には、どこからでも家宝の剣を携えて王宮に馳せ参ぜよ。路銀がなければ、物乞いをし路端の雑草を食って王都にたどり着け。王宮に入れられなければ、剣を抱き王宮の壁に寄りかかり、餓死するまで王家を守護せよ」

 穏健な常識人に見えるラヴィラント伯爵だが、こんな凄まじい家訓を幼児期から叩き込まれてきた。今は文官となって王宮に詰めていたために、クーデター部隊に武装解除され国王弑逆を阻止できなかったことは、ラヴィラント伯爵だけではなく王家忠誠派貴族にとって血を吐くほどの痛恨の極みだ。

 もともとフランセワ王家からの独立志向の領主貴族と王家忠誠派貴族は、犬猿の仲。宿敵同士だった。レオンは、民衆派と王家忠誠派が共闘すれば保守派貴族を抑えて、領主貴族を絶滅させる戦争を貫徹することが可能になると考えた。そのためには、人望があり王家忠誠派の筆頭であるラヴィラント伯爵を政権に加えたい。

 穏やかな人を決意させるとこわい。ラヴィラント伯爵は、クーデターが単発的なものでなく領主制という制度がもたらしたものだと理解していた。今回のクーデターを鎮圧したとしても、領主制が存在する限り領主貴族は、何度でもフランセワ王家に牙をむくだろう。王家を厳護するには、領主貴族を滅ぼすしかない。

 有能であり、高潔な精神を持ったラヴィラント伯爵は、自らが受けた恥辱を晴らすよりも、フランセワ王家に害をなす領主貴族を倒すことの方が比較にならないほど重要だと考えた。そのためには、レオンと手を握るしかない。王家と民衆。向いている方向は反対でも、目的は同じだ。

「⋯⋯やりましょう」

 レオンにとってフランセワ王家の絶対王政は、革命に利用できるから利用しているだけで、恩義はあるにしても王家に対する尊崇の念などクスリにしたくてもない。

 貴族制どころか王制の廃止すら視野に入れている極左の民衆派と、王党派の右翼といってもよい王家忠誠派は、同床異夢の手を握った。

 改竄名簿で保守派の多くは失脚する。左右の両派で王宮貴族の四分の一でも握れば、領主貴族を滅ぼすという共通の目的のため保守派を圧倒することができる。


 レオンが動かせる忠誠な兵力をかき集めることが、今は最重要だ。

「軍士官学校に伝達。士官候補生部隊は、完全武装で王宮前広場に進出。王都警備隊と交代し王宮を死守せよ」

 士官候補生は、十四歳から十八歳だ。子供好きのジュスティーヌ王女や体面を重んじるシャルル新国王がいなくなった途端に、レオンは士官学校生徒を戦争に動員した。だが、良識のあるラヴィラント伯爵がいる。

「子供を戦闘に参加させるのか?」

 フランセワ王国では、十五歳で成人だ。必ずしも子供とは言えないのだが⋯⋯。

「警察⋯いや、警備隊は、これから反乱分子の摘発で忙しくなります。実戦は生徒の良い経験になるでしょう」

 もともとレオンは、軍士官学校の校長だ。自ら教鞭もとっている。生徒たちには、まるで軍神のように尊敬されている。このくらいの年齢の青少年の向こう見ずな勇気や忠誠心を、レオンは、よーく知っている。それに士官候補生部隊の指揮をとるのは、選りすぐった士官から選抜した教官だ。街のお巡りさんを集めた警備隊部隊よりも、士官候補生部隊の方がよほど強いだろう。


 王都に戒厳令が布告された。レオンが事実上の戒厳司令官だ。

 王都への出入りは、厳禁された。夜の闇にまぎれて王都から脱出しようとした貴族の馬車は、カムロ組織やレオンが張り巡らせた自治組織からの通報で、全て問答無用で逮捕され投獄された。

 戒厳令が長期間続くと民衆が貧窮してしまう。反感を買わないようにレオンは、戒厳期限を三日間とした。民衆に武器を配り、接近してくる正規軍団と連絡を取り、さらに反乱分子一斉摘発の準備にと大忙しだ。


 戒厳令最終日の十九日早朝から、親衛隊騎士が指揮し警備隊と士官学校生徒などから編成した部隊が、五十を超える貴族家に突入し、ほとんど抵抗されることなく二千人もの貴族と使用人を捕縛した。大逆罪および反逆罪容疑である。クーデター騒ぎでなにか被害を受けたわけでもない王都の民衆だが、連行される貴族や使用人に罵声を浴びせ石を投げつけた。

 敵の反撃に備えて武具を身に付け、早朝から王族の間に詰めていたシャルル新国王は、夕方になってほとんど抵抗せず反逆者どもが捕縛されたと聞かされ、胸をなで下ろした。追いつめられた反乱軍が王宮に攻め込んでくる可能性すら考えていたのだ。だが深夜になっても敵の反撃はなかった。

「レオン。逆賊は全て捕縛したのか?」

「はい。王都に潜んでいた敵は、一掃しました。残るは本体である領主貴族どもだけです」

 逮捕された二千人の中で、実際にクーデターに加担していた者は、五十人いるかいないかだろう。大半は、反乱貴族の縁戚やクーデター派の名簿に勝手に載せられていた何も知らない者たちだ。彼らは何もしていないのだから、大半が予防検束だ。

「⋯⋯よくやってくれた。今後は領主貴族対策を迅速に進めよ」

 今回の逮捕者は、全てが保守派貴族とその関係者だった。「しばらくぶち込んで、無実の奴でも貴族身分を剥奪。王都から追放してやれ」くらいにレオンは考えていた。⋯⋯しかし、後にそんなことを言っていられなくなる。

 二千人も収監できる刑務所は無い。仕方なく王都の隅の空き地に板塀の即製収容所を建設し、手枷に足鎖をした逮捕者を放り込んだ。このせいで後で大変な事件が起きることになる。


 十一時になった。セレンティアでは深夜だ。あと一時間で戒厳令は解除される。

 もともと手持ちの兵力が少ないのに一斉摘発に部隊を出したため、王宮の防備が手薄になった。早朝から極度の緊張を強いられたシャルル国王と政府高官連は、もう疲労困憊だ。レオン以外で元気なのは、現場で作戦を指揮したジルベール警備隊長官、家宝の剣を携えて官庁に指示を出すラヴィラント伯爵くらいだ。

 クーデター派壊滅作戦の指揮者であるレオンと行政の立て直しを担当するラヴィラントが、国王の前に立った。戦時なので二人とも剣で武装し、跪礼はしない。戒厳令下の最高指揮権者であるレオンが奏上する。

「あと一時間で戒厳令は解除されます。しかし、残念ながら我が国に内乱が発生し、戦時下にあることに変わりはありません。戦時内閣の素案をお持ちしました」

 本来なら国王が宰相を指名し、宰相が大臣候補の名簿を作成して国王に提出。組閣名簿を国王が承認して内閣が成立する。前宰相はクーデターで殺されてしまったので、全権を委任されたレオンと行政を担当したラヴィラントが協議して組閣を代行した。

 組閣名簿を読んだシャルル国王は、顔を上げてレオンを見た。再び組閣名簿をながめる。国王の困惑した様子に、居並ぶ高位高官貴族は、嫌な予感しかしない。

「戦時内閣⋯⋯戒厳令の延長か?」

「あのレオンが宰相なのか⋯⋯?」

「軍務大臣を兼務するかもしれん⋯⋯」

 まだシャルル国王は、困惑している。顔を上げてレオンとラヴィラントを見た。

「本当に、これで良いのか?」

「はい。速やかに領主軍を粉砕し内戦に勝利しませんと、外敵の介入を招くおそれがあります。王国の全力を引き出すには、これが最適かと思料致します」

「閣内で対立が生じるのではないか?」

「その場合は、陛下がいずれかを罷免なさればよいのです」

 シャルル国王は、レオンの戦争に対する執着に驚かされた。なりたければ宰相にもなれるのに⋯⋯。

「ラヴィラントも了承しているのだな? ⋯⋯分かった。閣僚人事を承認する。ラヴィラント宰相、閣僚名簿を発表せよ」


宰相ジージョ・ド・ラヴィラント伯爵(王家忠誠派)

国王補佐ジュスティーヌ・ド・フランセワ(民衆派)

内務大臣ベルナール・ド・グラフォン侯爵(保守穏健派)

外務大臣ジャン・ラ・フォンテーヌ公爵(保守穏健派)

軍務大臣モーリス・ド・ノーム伯爵(王家忠誠派)

大蔵大臣ブルム・ド・ブルボン伯爵(保守穏健派)

農務大臣レザード・ド・デュポン伯爵(保守穏健派)

法務大臣ノーブル・ド・デュルセ伯爵(保守穏健派)

領主領及び奴隷問題担当特任大臣、軍総司令官レオン・ド・マルクス公爵(民衆派)


 シャルル国王と貴族たちは、民衆派のレオンと王家忠誠派のラヴィラントの二頭立てで保守派をパージした戦時内閣を予想していた。なのに主要閣僚の数は、民衆派二、王家忠誠派二、保守穏健派五だ。また、国王補佐というよくわからない新役職に女性王族のジュスティーヌが就任した。

 貴族の多数派に忌み嫌われているレオンでは、宰相は務まらない。そんなことは、本人が一番分かっている。戦争中に後ろから刺されたらたまらない。そこで人望の厚いラヴィラント伯爵に宰相就任を依頼した。冤罪で連行された事件以来レオンに思うところが多いラヴィラントだが、「王家のためだ」とグッとこらえて宰相就任を受諾した。

 民衆派と王家忠誠派だけで組閣しても、国力の全てを挙げて戦争に取り組むことは出来ない。どうしても保守派の協力が必要だ。そこで実務に強い中堅どころを一本釣りして取り込んだ。通常なら大臣の大半は高位貴族の公侯爵から出すのだが、中位貴族の伯爵が多い内閣になった。例外は外務大臣で、代々外交畑を担当している公爵を指名した。

 レオンは内戦の口実である奴隷解放と領主領問題を担当する特任大臣となり、同時に軍総司令官として西方領主領地域での戦争を指揮する。それを実務内閣が国を挙げて支える。これはレオンが持ち込んだ『国民国家による総力戦』という思想が反映された戦時内閣だ。


 十二時になり、戒厳令は解除された。クーデターから四日間も王族の間に缶詰めにされていた高位貴族たちは、ようやく解放された。邸宅に帰る全ての貴族は、一カ月後には戦争が始まることを確信していた。

 その翌日シャルル国王は、『奴隷解放宣言』を発した。奴隷を所有し売買する者は、この日以降、監禁罪と人身売買罪に問われ罰せられる。殺したら殺人罪だ。意外にも王宮貴族の反対は、全くなかった。


 失脚後にレオンは、軍士官学校の校長を務めていたが、付属の軍大学校の学長でもあった。軍大学校は、教育機関であるとともに軍事技術の研究所でもある。優秀な教官や士官大学生を集めたレオンは、一年も前から領主軍との戦争の研究を行っていた。戦術や武器ばかりでなく、既に民衆軍の訓練や動員計画まで策定済みだ。

 正規軍団に民衆軍を加え、数十倍の物量で騎兵隊を主力とする領主軍を圧倒する。これが基本戦略だ。王都の街区ごとの防火組織や村の自警団をそのまま民衆軍の部隊として編成した。もともとそのつもりで防火組織を作ったのだ。それまで行っていた消防団や自警団の訓練は、軍事教練でもあった。

 二十日で武器の扱い方などを叩き込み、攻撃発起点に送り出す。生産が間に合わなかったという口実で、民衆軍の軍旗は、赤旗に部隊番号を書いたものにした。軍服の供給が間に合わなかった部隊には、左腕に赤い腕章をつけさせた。そのため民衆軍は『赤軍』と呼ばれるようになった。


 領主領の総人口は約三百万人。そのうち奴隷が二百五十万人、平民が五十万人、貴族と騎士が三万人。総兵力は騎兵一万五千騎といったところだ。ほとんど歩兵はいない。その敵騎兵部隊に歩兵主体の十万名の正規軍団と三十万名の民衆赤軍が攻勢をかける。人数だけで比較すれば実に二六倍だ。騎兵の戦闘力は、歩兵の十倍と言われている。それでも戦力比は三倍近い。

 レオンは、領主軍のせん滅だけでなく、領主制を支える経済基盤を崩壊させることを目指している。封建制を二度と立ち上がれないように根本から破壊するためだ。

 領主領と奴隷制を根絶させる前に王都の政府が停戦したら、領主制廃絶の目標は達成できない。しかし、領主制と奴隷制を残置したい本心を隠して、「やりすぎだ」「人道に反する」などと主張する奴が必ず現れるだろう。二百五十万人もの奴隷のことは、今までなにも言わなかったくせに!

 そんな裏切りを許さないために、戒厳令の最終日に貴族五十家、使用人も含めて二千人もの一斉検挙という大掃除を行ったのだ。しかし、このやり方は恐怖政治まであと一歩だろう。


 領主貴族どもは、寄り集まって領主連合国をつくり独立宣言をしたかと思うと使節団を送ってくるなど、文字通り右往左往していた。シャルル新国王は、使節団と謁見もせず、レオンが起草した降伏勧告文を発表した。


『国王弑逆者の即時引き渡し。領主軍の解体。王国軍の領主領の無期限駐留。領主領の行政権、司法権、徴税権、警察権の撤廃。奴隷制廃止令の即時実行。解放奴隷への二年分の賃金の即時支払い。過去に奴隷を殺害した者は殺人罪に問われる⋯⋯』


 とても領主貴族が受け入れられるものではない。それが狙いだ。レオン⋯⋯というよりもフランセワ王国政府には、もう領主貴族と交渉を行うつもりなど無かった。国王弑逆の怒りが強い内に開戦し、速やかに敵を打倒する。そのためには圧倒的な兵力を集中させ、迅速に戦端を開く必要がある。だからレオンは、一カ月後に開戦すると新国王に請け負った。

 事実上戦争を主導しているレオンは、多忙を極めた。戦時内閣下のあらゆる政府機関が戦争に向かって動いている。こちらはラヴィラント宰相にまかせればよい。しかし、消防団のたぐいを元にして、レオンはほとんどゼロから民衆軍を創設しなければならない。

 領主貴族がカネとヒマにあかせて育てた騎兵部隊と戦闘になれば、民衆軍は勝負にもならないだろう。それでも良いのだ。平民がその手に武器をとること。そして騎兵が出撃して不在の領主領を蹂躙し、奴隷とされている民衆を自らの手で解放すること。そこに歴史を動かすほど大きな意味がある。


 戦闘開始の十五日前。ひとつ間違えるとレオンが再び失脚しかねない大事件が起きた。

 あと十日で全部隊を攻撃発起点に送り出し、策源地を建設しなければならない。ほとんど寝ていないレオンは、軍総司令部に詰めて作業をしていた。日が暮れた六時過ぎに、息を切らせた伝令カムロが飛び込んできた。

「たっ、大変です! 収容所の前で民衆が暴動を起こしています!」

 民衆に暴動を起こさせるほどクーデター派が王都に浸透していた? あり得ない。最初は誤報かと思った。しかし、次々と報告が入る。

「暴徒は、槍や剣で武装しています!」

「収容所を囲んでいる民衆の数は、数千人。一万人を超えているかもしれません」

「暴徒は、門を破り収容所になだれこみました!」

 一瞬ぼう然としたレオンだが、どうにか立ち直って命令を下す。できる限り王都での戦闘は避けたいが⋯⋯。

「軍総司令官より王宮親衛隊総隊長に伝達。王宮護衛部隊以外の親衛部隊は、完全武装で出動待機せよ。軍士官学校校長に軍総司令官命令を伝達。士官候補生部隊は、完全武装で出動待機せよ」

 王宮親衛隊は、本来は国王の直轄部隊なのだが、今は戦時なので軍総司令官の指揮下に入っている。それでも、これでようやく千人だ。万を超えているらしい暴徒を鎮圧するには、まるで足りない。前世では過激派の『暴徒』だった新東嶺風=レオン・マルクスは、暴徒鎮圧に赤軍の投入を決断した。やはり貧困地域の赤軍が、王国政府⋯⋯というよりレオンに忠誠だ。

「総司令官命令。赤軍二十二兵団、三十五兵団、三十六兵団に非常呼集をかけろ」

 赤軍兵団の定員は三千名だ。これを百兵団も編成し、三十万人で領主領を蚕食する作戦だった。王都の三個兵団九千名で、暴徒と互角の数になる。

 前線司令官に任命したジルベール少将が駆け込んできた。先日、フォングラ侯爵家の当主が隠居させられ、二十五歳ながらジルベールは今や立派な侯爵様になった。もちろんこれにはレオンが絡んでいる。

「敵の攻撃ですか? 王宮は蜂の巣をつついたような騒ぎっすよ。いったい敵は何者です?」

 レオンにも分からない。⋯⋯またカムロが駆け込んできた。

「ぼっ、暴徒が⋯⋯。収容所から囚人を引きずり出して殺しています!」

 暴徒は、どうやら『敵』でないようだ。しかし⋯⋯。

「総司令官より、王宮親衛隊、士官候補生部隊、赤軍兵団に伝達。別命あるまで、その場で待機。防御以外の戦闘行為を禁ずる」

 レオンは二本の剣を腰に差して立ち上がった。その場にいた数人の親衛隊騎士と十数人のカムロがしたがう。ジルベールもついて行こうとするが⋯⋯。

「司令部に残ってくれ。オレの死亡が確認されたら部隊を出動させて暴徒を粉砕しろ」

「なにが起こるか分からんすよ。すぐ追い散らしたほうが⋯⋯」

「王都で殺し合いの争乱が起きたら、領主貴族の討伐どころじゃなくなるだろ。オレが行って止めてくる」

 敵が貴族だったら、「よーし、包囲して総せん滅するぞぉ。一人たりとも逃がすなっ。皆殺しだ!」くらいは言うだろうに、相手が平民となるとレオンはずいぶん弱腰になる。


 収容所は、貧民街に隣接する空き地に大急ぎで建設された。三メートルもある板塀で原っぱを囲み、雨風をしのぐバラックとテントが建っている。これでは簡単に脱走されてしまいそうだが、収容者は全員手鎖と足枷で拘束されている。

 護衛や伝令カムロが二十人もついてきたので、レオンたちは数台の馬車に分乗した。普段なら夜は人気のない道なのに、途中で大勢の平民たちが収容所の方に歩いていくのに出くわした。子供連れまでいて、なにやら楽しげに見える。まるで祭りに向かう人たちのようだ。

 とうとう密集した人に阻まれて馬車列が進めなくなった。馬車から降り、案内のカムロに連れられて進む。

「おっ、マルクス伯爵様だ」

「バカ。公爵になられたんだよ」

「公爵様。悪い奴をやっつけてくだせえ」

「キャア! 親衛隊よ」

「ステキねぇ」


 暴徒と命のやりとりをする覚悟でやって来たのに、民衆はやけに友好的だった。急いでいるのに民衆が声をかけてくる。愛想を振りまきながら、ようやくレオンたちは、収容所の門前にたどり着いた。

 収容所の門が、ぶち破られている。門番の警備隊兵が血だらけになって転がっている。かがり火の代わりに大きな焚き火が燃えていて周囲を照していた。その横に死体の山があった。死体の数は、優に二百を超えているだろう。地面に血の池ができている。

 レオンたちが唖然として立ちつくしていると、槍や剣で武装した連中が、収容所から手鎖と足枷をされた中年の男を引きずってきた。民衆の罵声が飛び交う。

「来やがった!」

「貴族野郎!」

「ぶっ殺しちまえ!」

 死体の山の前に立たされた手鎖の男は、顔面蒼白になった。

「たっ、助けてくれ。私は、なにも知らない。無実だ!」

 護衛の親衛隊騎士が、レオンに耳打ちする。

「大蔵省のロータス子爵です」

 ロータス子爵を囲んで民衆が罵声を上げる。

「いつも威張りくさりやがって!」

「オレたちが戦いに行ったら、後ろから襲うつもりだろ!」

「裏切り者!」

「国王殺し!」

「こいつも殺せっ!」

 四方から槍が突きだされロータス子爵は、血を噴き出しズタズタになって倒れた。トドメのつもりなのか、肉厚の剣で頭を切り落とされ、死体の山に投げ込まれた。囲んでいる民衆は、躍り上がって拍手喝采している。本当に踊っている奴までいる。

「ざまぁみやがれ!」

「特権に胡座をかきやがって!」

「死ね! 死ね! 死ね! 死ね!」

 ロータス子爵を殺した槍は、レオンが軍大学校の教官たちと開発した対騎兵用の兵器だった。大量生産して赤軍兵団に配備している。ロータス子爵の頭を切り落とした肉厚の剣は、陣地内に侵入した騎馬の脚に斬りつけ戦闘力を奪うためにレオンたちが開発した兵器『斬馬刀』だ。これも赤軍の下士官に装備させている。⋯⋯こんなことに使われるとは。

 今度は、手鎖された十二~三歳の貴族の少女が引きたてられてきた。死体の山の前で立ちつくし、青くなってふるえている。

 レオンのような男でも、未成年者や貴族家に奉公しているだけの平民が殺されるのは看過できない。しかし、貴族である親衛隊騎士が介入したら、大衆に反発されて戦闘になるかもしれない。⋯⋯ここはカムロに任せよう。

「可能なら、助けてやれ」

 町娘の格好をした少女カムロが、半ば気を失っている貴族娘に飛びつき腰にすがりついた。

「お嬢さま! なんてこと!」

 もちろん二人に面識などない。貴族の少女は呆然としている。

「みんな! お嬢様は、とてもお優しく使用人に良くして下さいました。まだ十三歳なんです。お願い、殺さないで! わあああああん!」

 血の滴った槍を構えていた連中が動揺する。その中のひとりが念を押した。

「こいつ、奴隷使いの貴族じゃねぇんだな?」

 カムロには美少女が多い。かわいい女の子が泣きながら哀願すると説得力も倍増だ。

「違いますっ! お嬢さまは、奴隷はいけないとおっしゃってました。お嬢さまをたすけてっ!」

 群衆にまぎれていたカムロが声を上げた。

「おう、奴隷使いじゃねぇなら、牢屋にもどせよ!」

「まだ子供じゃねーか!」

「女の子だぞ!」

 群衆は、しばらくワイワイ言っていたが、貴族娘は、もとの収容所に引きずられて行った。


 革命家としてレオンは、やはり甘っちょろい。ロシア革命の指導者レーニンと赤軍の創設者トロツキーは、ウクライナで農民暴動が起こると部隊を差し向け、毒ガスまで使用し数万人を殺して鎮圧している。毒ガスには大人も子供もないだろう。そのトロツキーから権力を奪ったスターリンは、富農の絶滅政策を行い数百万人を餓死させた。富農の孤児が都市に流れ込むと、彼らに食料を与えることを禁じる命令を出し、子供まで容赦なく餓死させている。

 収容されている貴族は、ほとんどが保守強硬派の関係者だ。十三歳の少女であっても、平民など虫けら程度にしか見えていないだろう。その虫けら平民が命をたすけてやっても、自分の家や地位を奪った平民をさらに憎むだけだ。セレンティアでは十五歳で成人する。十三歳の少女は、二年後には立派な反革命家に成長するかもしれない。

 革命や戦争は、殺し合いだ。敵を容赦なく打ち倒さなければ、味方が倒される。自分の心を安らかにするために、敵に手心を加えるなど、革命戦争において悪と言える。

 なにも考えずに、単に「カワイソウ」だから助けてやるというならば、まだ良い。レオンは、それが革命に害をなす行為だと理解していながら、自分のために貴族少女らの命をたすけた。つまり革命家として脆く甘いのだ。

 レオンは、この大量虐殺を民衆の革命性の表れとみていた。自然発生的な赤色大衆テロだ。どうせ無実であろうと無かろうと、いずれ貴族は滅びる。ならば死ぬのが早いか遅いかの違いにすぎない。そこまで分かっていながらレオンは、子供や無実の人が殺されるのが嫌だった。

 革命の指導者がそんな有様では、革命は敗北するか無意味に殺し合いが長びいてしまう。レオンは、領主領地域の戦場でも、そんな感傷的な態度がとれるだろうか?


 レオンは、駆けつけてきたカムロリーダーのグロカンとボンタに指示を下した。

「収容所から未成年者や平民が引きずられてきたら、一般人を装って命乞いをしてやれ」

「へえ⋯⋯。大人の貴族は、どうします?」

「⋯⋯ほっとけ。民衆の好きにさせろ。危険を冒すなよ。三十分ごとにレポを送れ」

 カムロリーダーに現場を任せ、レオンと親衛隊騎士は、すぐにその場を離れた。いつまでもこんな所につっ立っていたら、虐殺を見逃し煽ったとみられてしまう。

 お祭り気分でやってくる民衆の群れをかき分けて馬車に向かう。その途中で少し奇妙なことがあった。レオンはすぐに忘れてしまったが、その場に居合わせた者の多くは、この出来事を生涯忘れることができなかった。


 道に沿ったちょっとした広場に、かなりの人だかりができていた。ここでも誰かを殺しているのかとレオンはうんざりし、念のため様子を見ることにした。

 血なまぐさいものは、なにもなかった。しめ縄みたいなものを巻かれた大きな机ほどの岩に古い剣が突き刺さっていた。その古剣を抜こうと男たちが並んでいる。それなりに有名な観光スポットらしいのだが、忙しく飛び回っていたレオンは何なのか知らなかった。

「なんだい、ありゃあ?」

 カムロの一人が説明する。

「女神さまが刺したそうです。あの剣を抜くと、英雄になれるんだとか。ずいぶん昔からあるそうですよ⋯⋯」

 そんなもん刺してねえよ。

「くだらねえな。引きあげるぞ」

 しかし、親衛隊騎士団は目立った。群衆に取り囲まれてしまう。

「親衛隊さんだ!」

「挑戦してくださいよ」

「親衛隊の騎士さんなら抜けるかもしれない」

 騎士の腕をつかんで古剣のほうに引っ張る酔っ払いまでいる。民衆派のレオンとしては、楽しい気分の大衆を威嚇して追い散らしたりしたくない。古剣抜きに挑戦すれば、みんな満足するだろう。⋯⋯早く王宮に戻りたいのだが。

 護衛の四人が挑戦したが、ビクともしない。案内のカムロが大汗をかいても、やはり抜けなかった。最後はレオンだ。親衛隊騎士たちは、「ひょっとしたらこの人なら⋯⋯」とレオンを見た。

 レオンは、古剣を冷笑していた。

「古釘を抜いても英雄になれそうだな。ゴルディアスの結び目かぁ。危ないから離れてな」

 キィィ─────────ン!


 例の居合いで古剣を真ん中から二つに叩き切った。切断された剣は、宙を舞い地面に転がる。

「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」

「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」

「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」

 我に返った騎士の一人が、剣を拾って切断面をながめた。金属でできた古剣を見事な切り口で両断している。

 これでも剣を抜いたことになるのだろうか⋯⋯?

「なにをしてる。行くぞ。急げ!」

 涜神行為に驚愕し凍りついた人だかりにレオンが向かうと、無言の群衆は、自然に道を開いた。


 王宮に戻ったのは九時ごろだった。現代日本の感覚では十二時前ぐらいだ。親衛隊騎士の門衛に声をかけられる。

「マルクス閣下、国王陛下が五階の執務室でお待ちです」

 ⋯⋯閣下?? ああ、オレのことかと手を挙げて了解し、国王の執務室に向かった。

 分厚い扉の外まで怒鳴り声が響いている。執務室では、シャルル国王、ジュスティーヌ国王補佐、ラヴィラント宰相、保守派の内務大臣と法務大臣に大蔵大臣。ジルベールの代理を任された王都警備隊長官代行らがやり合っていた。

「警備隊部隊を出動させ、暴徒を蹴散らせ!」

 と、平民相手には強気な内務大臣。

「群衆は、一万人以上集まっております。こんな時間では警備隊部隊は五百人も集められない。火に油を注ぎ、騒乱が大きくなるだけです!」

 と、民衆派寄りの王都警備隊長官代行。民衆派ナンバー2のジルベールは、暴動鎮圧準備で総司令部に待機していて不在だ。王都警備隊長官代行が集中砲火を喰らっている。

「王都警備隊は、なんのために多額の予算をつかっているのかね? こんな時のためだろう!」

 と、保守派の大蔵大臣。

 いつもと逆に保守穏健派が軍事行動を要求し、民衆派が抵抗している。

 入室すると、怒鳴りあっていた連中が黙って一斉にレオンを見た。クーデターの影響で王宮情報部と保安部は、組織点検と再編成でまだ機能不全状態だ。レオンが独自の情報網を持っていることは皆知っている。

 内務大臣が、わざと皮肉な口調でレオンに尋ねる。

「ようやくお出ましだ。どこに行っとったのかね? あなたの民衆がなにをしでかしとるのか、教えてくれんかな?」

 レオン特任大臣は、全く悪びれない。

「民衆が国王弑逆者の収容所に押し寄せて門を破り、大逆犯を自ら処刑しています」

 内務大臣が飛び上がった。

「処刑だとっ! 平民が貴族を殺しているのか? なんたることだ。何人殺された?」

 内心はともかくレオンは平然としているように見える。

「今のところ、死者は約三百人ですな」

「⋯⋯この責任をどうとるつもりだ?」

 レオンは、一歩も引かない。

「責任ですと? 奴隷制問題の特任大臣である私に責任があるとおっしゃる? 収容所の管轄は法務省でしょう」

 今度は、法務大臣が飛び上がった。

「マルクス特任大臣。平民どもに対するあなたの影響力は、よく知られているところではないかっ!」

 レオンがせせら笑った。

「私が平民に命令して襲わせたようなおっしゃりようですな。そんなことは、できません。それにどうせ大逆犯は死刑ではありませんか」

 王宮貴族ではあるが実態は法務官僚である法務大臣は、引き下がらない。

「裁判も証拠も無しで貴族を処刑するなど、あってはならんことだ!」

 レオンが親衛隊の高官になり『愚連隊狩り』を始めるまで、貴族が遊び半分で平民を殺してもなんの罪にも問われなかった。「なにを言っていやがる」だ。

「今は戦時です。民衆は手に武器を握り、戦地に向かっている。戦闘部隊が王都を離れた隙に裏切り者が収容所の門を開き、騒乱を起こすことを民衆はおそれて行動したのです」

 ラヴィラント宰相が口を開いた。

「その民衆が握っている武器は、どこから現れたのかね?」

 民衆が握っているのは、レオンが民衆赤軍に供給した例の対騎兵用の槍と斬馬刀だ。どうせバレているが、はぐらかすしかない。

「⋯⋯部隊を送って鎮圧行動をとると、王都警備隊長官代行の意見の通り、武装した民衆と流血の騒乱になるでしょう。私の手の者を送って群衆を慰撫しています。それが最善かと」

 こうしている内にも、収容所から引きずり出された貴族が虐殺されている。だが部隊を介入させると、民衆派同士の戦闘になりかねない。レオンが拒否するだろう。

 開戦直前のこの時期に、民衆派の首領で軍の最高司令官であるレオンを追いつめるのは、得策ではない。

 ラヴィラント宰相が結論を出した。

「王都警備隊長官代行は、非常事態に備えて待機。部隊による鎮圧はしない。暴徒の慰撫をレオン・マルクス特任大臣に任せる。法務大臣は、犯罪行為の調査を行う。⋯⋯陛下、これでよろしいですね」

 今まで沈黙していたシャルル国王は、クーデター派の残党が収容所を襲い反乱分子を解き放って暴動を起こしたのではないかとおそれていた。おそれるだけでなく、父王と兄王太子の仇の大逆犯どもを一族郎党胴切りにしてやりたいほど憎んでもいた。収容されているクーデター・シンパの貴族どもに対する同情心などは、全くない。

「⋯⋯それでよい。マルクス総司令官、戦争計画に変更はあるか?」

 実際は冷や汗をかいているのだが、レオンは自信満々に見える。訊かれてもいないことまで言う。

「ございません。今回の騒ぎは、国王弑逆者に対する民衆の怒りの表れです」

 そういうことにしておけば、新国王と王家忠誠派に受けが良いだろう。実際は、特権階級に対する下層民の憎悪の爆発なのだが。

 ノックがあり、伝令がレオンに紙片を渡して去っていった。紙片を眺めていたレオンが口を開いた。

「部隊を出動させるまでもなく、民衆は解散しつつあります」

 険しい顔をしたラヴィラント宰相が訊ねる。

「犠牲者数と、その身分は?」

「三百人以上四百人以下といったところです。ほとんどが貴族か護衛の騎士階級です」

 ジュスティーヌを含む全ての大臣が、戦時の後顧の憂いを断つためにレオンが虐殺を煽ったのではないかと疑っていた。

 だが、シャルル国王は、満足げに頷いた。レオンに止められるまで、反乱事件に関わりのある一万人を胴切りにしろと命令するほど激怒していたのだ。たった三百人の処刑など手ぬるいぐらいだ。気持ち的には、この大量虐殺でさえ「良くやった」と言ってやりたい。「もっとだ。もうすぐ父上の仇をとれる」。

 今まで青くなって沈黙していた国王に元気が出た。

「以上で臨時閣議を終了する。全閣僚は、非常事態に備えて今夜は王宮で待機するように。⋯⋯続いて王族会議を行う。参加資格のない者は、退室せよ」


 王族会議は、国王、正妃、成人の王位継承権者とその配偶者の男性準王族のみが参加する。閣議室は、シャルル、ジュスティーヌ、そして議決権のない準王族のレオンの三人だけになった。クーデター前には、十一人もいたのに⋯⋯。

 大臣たちが退出し、フランセワ王家の若い身内だけになった。シャルル国王が口火を切る。

「さて⋯⋯。議題は、あの女に関してだ。開戦までに決着をつけたい。罪状は、大逆罪、反逆罪、内乱罪、スパイ罪、尊属殺人などだ。どれひとつとっても死罪は免れない」

 シャルル国王の憎悪に満ちた言葉を聞いただけで、妹のジュリエット第四王女を死刑にする気満々なのが伝わってくる。腹違いの妹とはいえ、父と兄の仇で自分の人生を狂わせた武装反乱の国事犯だ。ジュスティーヌ第三王女の気持ちも同様だ。

「国王陛下の御意見に賛成します」

 レオンは、王族であるジュスティーヌと結婚したことが自分の異常に早い出世に繋がったことを、よく理解している。ジュスティーヌ王女が妻でなければ、良くて失脚。おそらく消されていただろう。王家の権威は、シャルル国王やジュスティーヌ王女が考えているより、はるかに民衆に浸透していた。意識して平民の間に入っていったレオンには、それがよく分かる。

 レオンは、稀少な王族であり美人でもあるジュリエット第四王女には、まだ利用価値があると考えていた。

「王宮保安部の組織点検の結果、数人の内通者を摘発しました。再生させた保安部の最初の仕事が、王族による反乱の関与の調査です」

 ここで言う「王族」とは、ジュリエット第四王女を指す。

「たしかに第三王子と領主貴族どもを引き合わせ、謀議の場を提供しています。しかし、ですが⋯⋯」

「なんだ? はっきり申せ」

 レオンが苦笑を漏らした。

「あの性格ですので、クーデター派も扱いに困ったようです。ジュリエット殿下は、反乱計画には全く関与しておりません」

 今度は、腹違いの妹が大嫌いなジュスティーヌが反論した。

「反乱計画に関与していないなどと⋯⋯。反逆者を引き合わせ、謀議の場所を提供しています」

「それがですね⋯⋯。前王陛下の言いつけに背くのが楽しいという理由で謀議の場を提供したようです。肝心の謀議の内容には関心がなく、国王殺しの衝撃で何日か寝込まれていました」

「それでもだっ。たとえ王族といえども、大逆犯として極刑を適用する!」

 憎々しげにシャルル新国王が吐き捨てる。クーデター事件のおかげで魚類学者になる夢を断たれ、常に反乱やら暗殺やらに怯えて暮らす国王なんぞになる羽目になった。

 ジュスティーヌは、シャルルよりさらにジュリエットへの嫌悪の念が強い。

「父王と兄王太子を弑した一味です。血族であるからこそ最高刑以外あり得ません!」

 兄と姉が揃って十九歳の妹を処刑しようとしている。なかなか凄まじいありさまだ。レオンとて、ジュリエット第四王女に利用価値があるとみているから、命を助けようとしているだけだ。⋯⋯どうやって二人を納得させるか?

「第三王子の死は、戦闘中であり、しかも自殺でした。ですが、無抵抗で拘束されているジュリエット殿下の処刑は、王座争いによる妹殺しととられかねません。既に直系の王位継承権者は、五人しか残っておられません。そのうち二人は未成年で、成年の王族はジュリエット殿下を含めて三人だけです」

 クーデター派と知らずに場所を貸したとか、人を引き合わせたという罪状では、王族を死刑に処することは法的にはできない。国法を越えて行政命令である国王勅令で処刑したら、それこそ王権争いの妹王女殺しに見えてしまう。性格はあんなでもジュリエットは、若く美しい女だ。貴族、民衆を問わず同情が集まるかもしれない。

 シャルル新国王は動揺したが、ジュスティーヌ王女はゆれない。

「どのような言い逃れをしても、ジュリエットが父殺しに手を貸したことに変わりはありません」

 レオンは王族の弱点を突いてみた。

「フランセワ王朝三百年の歴史で、兄と姉が妹王女を処刑したような前例がありますか?」

 無いのだ。ガペー前王家を滅ぼすどころか厚く保護したように、フランセワ王家は穏やかな温情政治を統治の基礎としてきた。貴族に対しては、三百年間ほとんど死刑は行われていない。戦死はあっても王族が死刑にされた例は皆無だ。

 レオンが親衛隊を率いて不良貴族子弟を殺しまわったのは、貴族とブルジョアが率いる大衆の抗争の表れであり、封建制の崩壊という歴史の転換期における例外的な現象だ。

 レオンは、若い国王に対して遠慮なくもの申す。よく言えば直言する。

「血を分けた兄弟である新国王の寵を奪い合い、姉王女が妹王女を殺したと民衆は噂するでしょう。姉王女が弟国王とねんごろになり、邪魔な妹王女を処刑させたとか⋯⋯」

 フランセワ王国で最も育ちの良い二人は、口さがない連中のこの上なく下品なうわさ話にまで考えが及ばなかった。姉弟で愕然としている。

「あなたっ、止めて下さい! 汚らわしい!」

 芥川龍之介は、ロシア革命の指導者・レーニンについてこんな詩を書いている。

「誰よりも民衆を愛した君は 誰よりも民衆を輕蔑した君だ」

 レオンは、そんなレーニンとトロツキーを尊敬している左派共産主義者だ。

「フッ。大衆なんて、そんなもんだよ。根も葉もない噂でも、物好きが書き留めて歴史に残るぞ」

 即位して三週間もたたずに妹殺しをする暴君。姉と妹を相手にした近親相姦の三角関係? いくらジュリエットが憎くても、さすがに外聞が悪すぎる。シャルル新国王は考え込んでしまった。

「⋯⋯だが、どうする?」

 さすがに無罪放免とはいかない。無期限軟禁が穏当なところだが、今は戦時だ。万一にでもジュリエットが反対派の手に渡ったら、大変なことになる。錦旗に持ち上げられるだろう。

「あと十五日で、西方の領主連合と開戦します。領主領の西は、ブロイン帝国との国境です。領主貴族どもは、ブロイン帝国の援助を受け、介入を求めるでしょう」

 殺された先王が領主貴族に弱腰だった理由には、これもあった。領主貴族どもが、国王殺しという大逆をはたらいても、なんとかなるとタカをくくっている理由もここにある。いざとなったら領主貴族は、フランセワ王国から分離してブロイン帝国領になってしまうか、ブロイン帝国を戦争に引き込むつもりだ。シャルル新国王も、それはよく分かっていた。

「売国奴めがっ。ブロイン帝国の介入を防ぐためにも、短期に戦争を終わらせる必要がある」

「最高戦争会議でも申し上げましたが、ブロイン帝国が介入をたじろぐほどの大軍を派遣し、一気に攻勢をかけてせん滅し、抵抗する領主領を徹底的に破壊します」

 だが、ブロイン帝国とジュリエット第四王女の処分が、どう関係するのか? レオンは、しれっと言い放った。

「ブロイン帝国に、フランセワ王族の人質を送りましょう」

 シャルル国王とジュスティーヌ王女が眉をひそめた。敵対国に王族を人質に差し出すなどという屈辱は、フランセワ王家三百年の歴史でそれこそ一度もない。

「ジュリエットをか? だめだ。王族を人質などと⋯⋯」

 さっきまで殺してしまおうと相談していたのに、人質として差し出すのはいけないらしい。

「この場で、ジュリエット殿下の王籍を剥奪すればよろしいでしょう。発表せず公文書にだけ残し、極秘にします。ブロイン帝国は、王族を預かったと思っていても、実態はただの罪人です⋯⋯」

 ジュスティーヌが口を開いた。

「王籍を抜いたとしても、王家の血族が人質として他国に差し出されるなど⋯⋯。フランセワ王国と王家の権威を損ねる暴挙です」

 ジュスティーヌも、ジュリエットのせいで穢れた娼婦の血が王家に入ってしまうとか考えているくせに⋯⋯。

 戦争を指揮する立場のレオンは、少しでもブロイン帝国の介入の可能性を減らしておきたかった。いずれ君主制は滅びる。戦争を有利にはこぶためには、「王家の権威」などなんら問題ではないというのが本音だ。ブロイン帝国が参戦したら、泥沼の長期戦になってしまう。いずれは戦う相手だが、今は両国の戦力は拮抗している。レオンは、常に数倍の戦力で敵を圧倒する戦いを好んだ。

「人質ではなく、婚姻という形をとったらどうでしょうか? 実は十日ほど前に外務大臣を通じて、ブロイン帝国皇室に打診しました。ジュリエット王女を受け入れるとの公式の返答が、数時間前に届きました」

 シャルルとジュスティーヌは、降ってわいたようなジュリエットの結婚話に当惑している。

「なぜだ? ブロイン帝国になんの利がある?」

 レオンは、既に王宮と軍の情報機関を握り、私的な特務機関まで持っている。対外諜報活動は軍情報部の管轄だ。

「ブロイン帝国も、本格戦争に巻き込まれることをおそれているのです。フランセワ王国正規軍の九割にあたる十万名の兵と三十万人の民衆軍を結集させた我々の断固たる決意に、ブロイン帝国首脳部は、軍事介入は両国の全面戦争に発展すると判断しています」

 そうは言っても国境地帯で四十万ものフランセワ軍と領主連合軍が内戦を始めたら、ブロイン帝国にとって脅威でしかない。ブロイン帝国の常備軍は、約十万名だ。

「ブロイン帝国に我が軍の戦争計画の一部を送り、我が国に侵略の意図がないことは説明しています。しかし、やはりおそれているのです。侵略の意図が無いことを示す人質として、ジュリエット殿下を送りましょう。⋯⋯むこうで宮廷をかき回してくれたら、好都合ですし」

 おそろしく急だ。だが殺してしまうより良いかもしれないと、政治家になりつつあるシャルル国王は傾いた。だが、聞いておかなければならないことがある。

「ジュリエットは、だれと婚姻するのだ? 正妃なのか?」

「それが⋯⋯なにぶん急なので不明です。皇帝か皇太子か皇族なのか⋯⋯。フランセワの侍従や侍女も付けられません。身ひとつでブロイン皇室に輿入れすることになります。⋯⋯結婚相手は、むこうが決めてあてがうでしょう。それが誰だろうと問題ではありません。フランセワの王族を、ブロイン帝国に預けることに意味があるのです」

 さっきまでジュリエットを殺す相談をしていたくせに、シャルルが少し気の毒そうな顔をした。

「あのジュリエットが、おとなしく従うだろうか?」

 この三人の中で最も冷酷で人をモノのように見ているのは、レオンだ。だからこそジュリエットを殺さずにブロイン帝国に送ろうとしている。

「ブロイン帝国行きを拒否したら、いずれ殺されることになります。あれで賢い方なので、承諾されるでしょう」

 王族を外国に出すことにジュスティーヌが反発したように、王家忠誠派も強く反対するはずだ。

「王家に忠誠な者たちは、強硬に反対するぞ」

「彼らが騒ぎを起こす前に、早急にジュリエット殿下をブロイン帝国に送るのです。二週間後には戦争が始まり、ジュリエット殿下どころではなくなります」

 シャルル国王が、ジュスティーヌ王女の方を見た。ジュスティーヌの意見は変わらない。

「死罪です。他にあり得ません」

 今、二票の内の一票は死刑だ⋯⋯。王族会議で票が同数に割れた場合は、国王の裁定に従う。シャルル国王は、ジュリエットを殺すことにためらいはなかったが、益がないと考えた。

「ブロイン帝国の介入の可能性を、少しでも減らしたい。ジュリエットの王籍を剥奪したうえでブロイン帝国に送る」

 フランセワ王家には、婚姻外交を行わないという伝統がある。人質同然に王女を外国に嫁入りさせるなど、三百年の歴史で一度も無かった。

 ジュリエット第四王女の命は、首の皮一枚つながった。いや、もう『王女』ではない。


 王家忠誠派などは、フランセワ王家には女神の血が流れており、そのために代々賢君が続いたのだと本気で信じている。その高貴な血を敵対国の皇室に分けるなどとは、狂気の沙汰だという。政府高官でそんな不敬なことをする者は、⋯⋯レオンしかいない。

 数万人の平民を王宮前広場に集め、ヤグラの上で自分を暗殺しようとしたルイワール公爵の首を斬り飛ばし、喝采する民衆の中に投げ込んで高笑いしたという男だ。たぶん天才なのだろうが、半狂人だとも思われている。

 平時に宰相や外務大臣がこんなことを画策したのなら、おそらく王家忠誠派の貴族に暗殺されていただろう。しかし、今は戦時で、レオンは前国王陛下の仇をとるための戦争の総司令官で、三度も王族の命を救った準王族だ。しかも王家忠誠派のラヴィラント伯爵を宰相に推した。フランセワ王家への尊崇の念が不足しているとはいえ、地上に舞い降りた女神のようなジュスティーヌ王女殿下の夫でもある。テロでレオンを排除するのは、どうしてもためらわれる。

 保守派は保守派で、騎兵部隊とはいえたかだか二万名程度の領主連合軍に四十万もの軍を差し向けるレオンに疑念を抱いていた。領主連合軍を倒したら、国境を越えてブロイン帝国に攻め込むつもりではあるまいか? あるいは占領した西方領主領地域に居座って自分の国を立てるつもりではあるまいか? 奴ならやりかねない。そんなことをされたら大戦争になってしまう。「平和を守る」という名目で、いくつかのグループがレオン・マルクス暗殺計画を練り始めた。

 そんな時にジュリエット王女をブロイン帝国に送るという計画が聞こえてきた。それは、対外戦争の可能性を大きく減じさせるように思える。領主貴族の討伐にとどまるなら、その総司令官を殺す意味はない。大半のレオン暗殺計画は、一旦停止された。

 ⋯⋯ほとんどの暗殺計画は、レオンの情報網にキャッチされていた。保守派とはいえ暗殺計画を立てるような連中は血の気が多い。開戦するとレオンは、連中を最も危険な最前線に送り込んだ。彼らは喜んで出征していった。


 王族の犯罪に対する判決は、王族会議に参加した王族が言い渡さなければならない。シャルル国王は、気が進まなかった。

「では、レオンがジュリエットに判決を言い渡し⋯⋯」

 ジュスティーヌが立ち上がった。

「いいえ。王籍を剥奪されたとはいえジュリエットは、フランセワ王家の血族です。わたくしが話しをいたします。陛下。王族会議は、これで終了でよろしいでしょうか?」

 ジュスティーヌ姉上が⋯⋯? 嫌な予感がする。

「⋯⋯ああ、王族会議を終了する」

 ジュスティーヌは、振り返りもせずに閣議室から出て行った。軟禁されているジュリエット元王女のところに向かったのだ。

 シャルルにとっては、物心ついた時から手を引かれてきた二歳上の姉だ。普段は猫をかぶって理想の王女を演じている姉が、自分よりもよほど度胸があって思い切りがよく気性が激しいことを、よく知っている。普段は優しい姉上だが、怒るとおそろしい⋯⋯。⋯⋯怒ってるよな?

「ジュリエットは、大丈夫だろうか?」

 レオンが肩をすくめた。

「本心なのか嫌がらせなのか分かりませんが、ジュリエット殿下は、ジュスティーヌの目の前で何度か私の気を引こうとしました。それがよほど腹に据えかねていたようですね」

 シャルルは、姉であるジュスティーヌへの恋慕の念を隠している。そんな自分の想いに罪悪感を持つ常識人だ。だから、なおさら腹を立てた。

「義兄にか? 下劣なっ! おのれ⋯⋯」

 しかし、たとえ国王といえども王族会議の裁決をひっくり返すことは、もうできない。

 それよりレオンは、ジュスティーヌがジュリエットを殺しちまうんじゃないかと心配していた。訊かれてもいないのにつぶやいた。

「ジュリエットに面会する者には、国王陛下以外は王族といえども徹底した身体検査を行うように厳命しています。たぶん大丈夫でしょう⋯⋯」

 子供の頃からこの姉と妹の気性と関係を知っているシャルルが、再びつぶやいた。

「本当に大丈夫だろうか⋯⋯」


 ジュリエット元王女は、王宮の空き部屋に軟禁されていた。さすがに王女を地下牢にぶち込むわけにはいかない。

 ジュスティーヌは、看守をやらされている親衛隊の騎士に入り口で止められてしまった。もう十一時だ。現代日本の感覚では丑三つ時である。

「ジュスティーヌ・ド・フランセワ第三王女です。ジュリエットの面会にきました。通しなさい」

 第三王女と第四王女の不仲は、王族に最も近いところにいる親衛隊ではよく知られていた。それに「王族といえども徹底した身体検査を~」とレオンに釘を刺されている。レオンの元部下でジュスティーヌにとっても顔見知りの親衛隊騎士なのだが、顔をこわばらせて一歩も引かない。

「失礼ですが、お体をあらためさせていただきます。女性騎士が参じますまで、しばらくお待ち下さい」

 お付きの侍女のアリーヌが色をなして抗議する。しかし、親衛隊騎士は、丁重だが断固として取り合わない。アリーヌの声が高くなったところで、ジュスティーヌが制した。人が集まったら困る。

 夜中にたたき起こされて飛んできた不眠気味のローゼット親衛隊女性騎士団長らに、ジュスティーヌ王女は身体検査を受けた。入室を許可されたのは、ジュスティーヌのみだ。侍女の入室は許可されない。なのに後から監視の騎士がついてくる。

「ジュリエットと二人で話します。下がりなさい」

 普段はうるわしいジュスティーヌ王女の厳しい声に、監視の騎士が動揺する。

「しかし、それは⋯⋯」

「王族会議の裁決を伝えにきました。王家の機密に関わる内容です。何者であろうと同室は許しません」

 フランセワ王家の私兵ともいえる親衛隊に「王家」の名を出したのは、効果絶大だった。頭を下げて監視役は下がっていった。

 ジュリエットは、身体検査騒ぎの際のアリーヌ侍女の抗議の声で目を覚ました。最後に見苦しい姿を晒したくなかったので、寝衣を脱いで質素な普段着に着替えた。もう殺されることを覚悟していた。この女も度胸があった。

 ところが険しい表情のジュスティーヌが、一人で入室してきた。処刑人が同伴している気配はない。どうやら今は死を免れたらしい。

 ジュリエットは、ひとつだけある椅子に座り、入室したジュスティーヌを立ち上がりもせずに迎えた。この期に及んでも作り笑顔で挑発する。

「あら、お姉様でしたの。残念だわ。レオンじゃなくって」

 実際にレオンが来たとしたら、死刑の宣告と執行だったろう。

「ジュリエット・ド・フランセワ。あなたは王籍を剥奪されました。もう、フランセワの王族ではありません」

 王族会議の判決が死罪ではないことに、ジュリエットは内心安堵した。だが、顔色に出さない。それどころかさらに憎まれ口を叩く。

「わたしを殺したいお姉様より、レオンの方が口が達者だったようね。レオンは、わたしを大切に思っているのかしら。フフッ」

 そんなわけないのは、分かっている。なのにジュスティーヌは、いら立ってしまう。見透かしたようにジュリエットが続けた。

「それで? わたしは、どこの田舎に流されるのかしら?」

 険しい表情に見えていたジュスティーヌだが、どこか満足げに宣告した。

「あなたは、ブロイン帝国に嫁ぎます。出立は明後日です。仕度をしておきなさい」

 さすがのジュリエットも、人質として敵対国に差し出されるとは想像していなかった。顔色を変えた。

「なっ⋯⋯。レオンの思いつきね! よっ、よくも⋯⋯。フランセワの王族は、政略結婚で外国に出ることは⋯⋯」

 ジュスティーヌの青い目が、腹違いの妹を見下した。

「あなたは、もうフランセワ王族ではありませんよ。⋯⋯言わなかったかしら」

 王家の血を汚す娼婦の娘でしょう?という意識がジュスティーヌの頭をチラリとよぎり、急いで打ち消した。

 ジュスティーヌ第三王女は、「娼婦や浮浪者、それに貧しい病人などは保護すべき弱者であり、王家にはその責任がある」という、この世界にしては奇跡的なほど開明的な考えの持ち主だった。しかし、妹王女ジュリエットの行状に触れるたびに、「娼婦の娘だから」という醜い感情が鎌首をもたげてくる。ジュリエットという妹は、ジュスティーヌの中の偽善と卑しい差別意識を突きつける存在だった。いくら打ち消そうとしても、ジュリエットにはなんの責任もない『娼婦の娘』と見下す想念がジュスティーヌの内心に黒い泡のように浮かんでくる。

 愚かに見えるジュリエットだが、元々感性が豊かで賢い少女だった。出自のせいで性格が歪んでしまい、感情のままに不合理な言動をするので愚かに見えるだけだ。

 正妃の娘であるジュスティーヌがいくら隠そうとしても、血肉化した心底からの侮蔑の念はどうしても伝わってしまう。姉ジュスティーヌは善良な心の持ち主だ。妹を不潔な存在と見てしまう自分を責め、そんな間違った醜い感情を打ち消そうと努力していた。そんなことまで敏感なジュリエットには伝わるのだから、妹はさらに傷つき歪んだ。

 二人をよく知る者には、美人ではあるが知性や品性などで劣る妹王女が、姉王女に対して攻撃的に嫌がらせをしているように見えた。実際は逆だった。人前で並び立つたびに比較され、言葉を交わすごとに傷つけられていたのは、ジュリエットの方だ。やがてこの異母姉妹は、お互いに深く憎み合うようになった。

 領主貴族との内戦に勝利したらレオンは、いずれブロイン帝国に戦争をしかけると、この二人ともが見ていた。そうなったら人質として差し出されたジュリエットは、どうなるか分からない。しかし、フランセワ王国にとどまっても、国王か王家忠誠派貴族か民衆かに殺されるだけだろう。

 ジュスティーヌが自分のネックレスを外し、にらみつけている異母妹に手渡した。

「わたくしが贈ることのできる最後の品です。使いたければ、お使いなさい」

 フランセワ王家は、もともと軍人の家系だ。女性騎士が捕虜になった時に辱めを受けぬよう自決用の短刀を懐に入れているのと同様に、王女が成人すると自決用の毒が仕込まれたネックレスを国王から渡される。形式的な儀式なので、王女たちは毒ネックレスなど王宮総務に預けて忘れてしまう。ジュスティーヌは、それを持ち出して贈った。「これで自死しなさい」ということだ。それが憎しみからか、それとも憐れみからなのか、ジュスティーヌ本人にも分からなかった。

 厳重な身体検査をくぐり抜けた毒ネックレスを渡し、憎悪に青ざめているジュリエットに一瞥をくれると、ジュスティーヌは、そのまま何も言わず軟禁部屋から出て行った。


 ジュリエットは、そんな毒などで死ななかった。ブロイン帝国に入る時に関所で下着まで脱がさせられ、フランセワ王国の品は、なにひとつ持つことを許されない。

 ところがジュリエットは、上手くごまかして毒ネックレスをブロイン帝国に持ち込んだ。そして、ここぞという時に使い、レオンを唖然とさせることになる。



 王族会議が終わり、執務室からジュスティーヌ王女が出ていった後は、レオンとシャルル国王の二人だけでの話し合いになった。

「つかみ合いになるかもしれません。まぁ、大した怪我をすることはないでしょうが」

 レオンは、ジュスティーヌが毒ネックレスを持ち出したことなど知りはしない。

 一番王族然としたジュスティーヌ王女が部屋から出たので、残った男二人の口調がくだけた。

「戦争の準備はどうなっている?」

「順調ですよ。今日の大衆テロのおかげで後ろから刺される心配も少なくなりました。最後まで戦争を回避したポーズを取るために、改めて奴隷解放宣言と無条件降伏勧告を出して下さい」

「分かった。内容は任せる。そういえば、また領主貴族どもが交渉団を送ってきたぞ⋯⋯」

 レオンが嘲笑する。

「国王陛下を弑しておいて、交渉もなにも無いでしょう。開戦と同時に逮捕して地下牢行きです。それまで交渉を引き伸ばして、甘い夢を見させてやって下さい」

 もともと『奴隷』という階級は、フランセワ王国に存在しない。王家の手の及ばない地域の領主貴族が、法を無視して平民を奴隷として監禁し、強制労働させている犯罪である。⋯⋯こんなレオンのプロパガンダで、奴隷制に対する怒りは、王都から地方の平民にまで広がっていた。万一にでも領主貴族が戦争に勝ったら、平民は奴隷に落とされるのではないか?

 領主貴族の立場を例えれば、畜産農家が突然こんな命令をされたようなものだ。


「今日から牛に人権を与える。畜舎の扉を開いて自由に出入りさせろ。逃げても連れ戻してはならない。数日中に牛に二年分の賃金を支払え。過去に牛を殺したり売買した者は、犯罪者として裁かれる。土地建物その他の資産は、犯罪収益なので没収する。査問するので一族郎党は、直ちに王都の収容所に出頭せよ。収容所の安全は保証できない。民衆に殺されるかもしれないが、命令に従わない場合は、確実に死刑だ」


 それでも「負ける戦争をするよりは」と、いくつかの領主貴族家が命令に従おうとした。だが、殺気立った主戦派領主貴族に阻まれて王都に出発することができない。突破しようとしたら逃亡者として殺されてしまうだろう。

 シャルル新国王には、領主貴族と本気で交渉するつもりなど全く無い。領主貴族どもは、父王の頭痛の種だった。粘り強く交渉して穏便に解決しようとした挙げ句に、父王は奴らに殺されてしまった。穏やかで秀才型の性格のシャルルだったが、親兄弟を惨殺した奴らを許すことなど到底できない。「領主貴族とは殺るか殺られるかだ」と、もう腹を括っていた。

 実際には、約三万人の領主貴族と配下の騎士の中で国王殺しのクーデターに多少なりとも加担したのは、千人にも満たない。なのに王国政府は、彼らが絶対に飲むことのできない領主権の返上と奴隷制の即時廃止を命令してきた。領主貴族たちは連合し、交渉団を派遣した。しかし王国政府は、一切譲歩しない。「滅びたくなければ、命令を即時無条件で受け入れろ」という態度だ。

 領主領という独立王国が国内に存在することが、国の発展を阻害し存続をも危うくする。そう判断した王国政府は、領主貴族を滅ぼして中央集権国家を建設することを既に決断している。それを先導したのがレオンだ。

 奴隷制など論外だった。完全廃絶あるのみだ。奴隷に多少の権利を与えてお茶を濁すなどということは、あってはならない。奴隷制を残したら、いずれ領主制が息を吹き返すだろう。

 奴隷制は文明的とはいえないが、奴隷制の文化は存在する。レオンは、西方領主地域にはびこる奴隷制文化までもを、この世から消し去るつもりでいる。


「宗教、家族、国家、法、道徳、学問、芸術等等は、それぞれが生産活動の特殊な在り方であるから、生産活動の法則に従う」(マルクス)


「生産活動の法則」とは、奴隷制のことだ。領主制の経済的な土台となっている奴隷制を、この戦争で上部構造もろとも跡形もなく破壊するのだ。その結果、自由になった人間による自由な経済活動は、この国を爆発的に発展させるだろう。

 レオンがそこまでやるつもりだと気づいた者は、ほとんどいない。数十万の軍が領主領地域を包囲しつつある。十二時を過ぎた。あと十五日で開戦だ。


 この頃、情報将校を中心とした反レオン派軍人が秘密裏に集まり、この戦争の見通しを討議している。

「フランセワ王国軍が、この戦争に勝利することは確実だ。しかし、ブロイン帝国が介入すると事態は変わってくる」

「領主領とブロイン帝国から輸入した綿花による紡績業で利益を得ているブリタリア王国が、ブロイン帝国を支援するだろう。参戦する事態もありうる」

「我が軍のほとんどが西方に集結している。その隙をついて北のルーシー帝国が、緩衝地帯の小国群に侵攻する可能性は十分に考えられる。その場合は、西部戦線から軍団を引き抜き、東部の防衛にまわさねばならない」

「フランセワ王国の内戦が、世界大戦に発展するというのか?」

「可能性の問題だ。三大国を相手にした二正面戦争では、我が国は必ず敗北する」

「西方領主領戦争を止めることは、もはや不可能だ。しかし、すみやかに終結させる方法はある。レオン・マルクス総司令官を排除し、国王陛下を確保する。軍政をひき、即時停戦を宣言する」

「我々が掌握している部隊を使い総司令部を攻撃すれば、レオンの殺害は十分に可能だ」

 シ──────────────ン⋯⋯


「まて! レオン死後の状況を検討したのか? 王家は瓦解しフランセワ王国は、無政府状態に陥る。王都を中心に暴動が広がり、争乱状態になるだろう。我々は事態を収拾できるのか?」

「レオンが死んだら軍の指揮権はジルベール前線司令官が握る。奴は四十万もの軍団を率いて王都に帰還してくる。レオン以上に過激な男だ」

「争乱は王都だけでは済まない。全土で民衆派と保守派、王家忠誠派、それに領主貴族による内戦になる」

「レオンを排除したとしても、軍政は国王の信任を得られないだろう。第三王女も排除するつもりか?」

 反レオン派将校たちは、手詰まりだ。

 激論を交わしている最中に、ジュリエット王女のブロイン帝国輿入れの報が飛び込んできた。驚愕で室内が静まりかえった。

「⋯⋯宮廷外交で政治や軍事を動かせると考えているのか? レオンは、甘ちゃんだな」

「いや。ブロイン帝国政府は、介入派と不介入派に割れている。フランセワの王族を人質に差し出せば、不介入派の発言力が増す。時間を稼いで内戦を終結させることができる」

「王女に見初められて王室入りした田舎の末席貴族が、たった四年で軍部と治安機関を握り、戦争を始めようとしている。レオン・マルクスを甘く見ては危険だ」

「軍士官学校と王国大学まで影響下において、軍人と官僚を民衆派に入れ替えようとしている」

「そうだ。先日、貴族出身の将官が三十人以上退役させられ、代わって軍大学校出の佐官が将官に進級した。ほとんどがレオンの影響下にある。将校団は、民衆派で固められた」

「あれは無血クーデターではないのか? 将官に召喚状が届き、王宮謁見室に入ると国王・宰相・大臣、それに民衆派の軍人が待っていて、国王勅令で三十人がその場で解任された。自分の部隊に戻ることも許されず、地方の領地に引退だ」

「罷免された将官は、監視下にあるのか?」

「いや。田舎で放置されている。無能だからな⋯⋯。貴族将官でも仕事ができる者は、残している。あの男らしい」

「奴は軍権を握り、なにをするつもりだ?」

「権力を握っただけで満足するような男ではない。軍事力の行使⋯⋯対外戦争だろう。ブロイン帝国が内戦に介入しなくても、いずれレオンが戦争を仕掛けるのではないか?」


『カナリア』というコードネームで呼ばれているリーダー格の将官が結論を出した。

「現在の状況では、合法的にレオン・マルクスを排除することは不可能だ。しかし、奴が今後も戦争政策を続けるなら、フランセワ王国は滅亡する。それを防ぐために我々は、必要なら非常手段を取らざる得ない。今後も極秘裏に会合を持ち、情勢を分析する。時期がきたら部隊による決起も視野に入れる」

 うなずいた反レオン派将校たちは、席を立ち、一人ずつ謀議の部屋から出て行った。


 レオン暗殺計画など、これまでも何件となく企てられていた。今のレオンには、そんなものにかかずらう時間はない。街の消防団や村の自警団を赤軍に再編成する作業に文字通り寝食を忘れて忙殺されていた。

 王族会議の二日後には、ジュリエットがブロイン帝国に出立させられる。もう開戦まで時間がない。

 長く小競り合いをしてきた二大国の和解の象徴として、ジュリエットの嫁入りは、花が舞い歌と踊りのパレードで見送られるのが当然だ。しかし、フランセワ王家は、見送りを拒否した。さすがにそれではブロイン帝国への手前もある。ほとんど寝ずに動いているレオンに、王族代表としてお鉢がまわってきた。

 だが、レオンは準王族にすぎない。ブロイン帝国大使も随行するのに、ジュリエットの血縁者が一人も見送りしないのは、いくらなんでも体裁が悪い。本来なら国王が見送るべきなのだ。


──────────────────


 オレ以外に血縁の王族がいないのはマズい。

 ジュスティーヌに見送りを頼むか⋯⋯。うーん。最後の最後でジュリエットと罵り合いを始めるかもしれないなぁ。⋯⋯大使の目の前でも罵り合うだろうな。ダメだ。

 シャルル国王は、「やはり死刑にすべきだったか」と今も悔やんでいる。手の届かないブロイン帝国に行ってしまうジュリエットを見たら、憎しみにかられてその場で死刑を宣告してしまいそうだ。絶対王政の国では、法よりも国王の意志の方が上だ。その場で処刑ということになりそうだ。たぶんオレが、死刑執行を押し付けられるぞ。⋯⋯嫌だ。義妹殺しの汚名をかぶるのは、避けたい。

 十四歳のジョルジェ第五王子のところに行ってみた。

「私が成人していたら、死刑に投票して父上と兄上の仇を取ったのに!」

 そう言って地団太踏んでいる。⋯⋯これはダメだ。

 最後にシャルロット第五王女の私室を訪ねた。金髪碧眼で明朗快活なのがフランセワ王家の王女の特徴だ。ところがこの第五王女は例外で、亜麻色の髪に灰緑の目をしたおとなしく気の優しい十四歳だ。聖女マリアに容姿と性格が似ている。顔を合わせる機会があると、なぜかポッと頬を染めて侍女の後ろに隠れてしまう。

 義妹とはいえ王女様の私室にズカズカと入り込むわけにはいかない。人を送り、侍女に取り次ぎを頼んだ。応接室に出てきたシャルロット第五王女にジュリエットの見送りを切り出すと、シャルロットちゃんは、小さくふるえてうつむいてしまい、やがて床にポタポタと涙が滴った。そしてそのままなにも言わず、奥に引っ込んでしまった。

 後ろに控えていたちょっとアリーヌに似ている侍女は、性格もアリーヌに似て忠誠心と気が強かった。

「姫様は、お疲れですっ。お引き取り下さい!」

 とんがった声を出すや、外に押し出され目の前でバターンと扉を閉められた。まったく取り付く島もない。やれやれ⋯⋯。


 花嫁のはずのジュリエットの評判は、最悪だ。「父王殺しの手引き者」だと上は高位貴族から下は貧民街の住民まで、「死刑にしろ!」と怒っている。でも、本当に殺しちまうと、民衆は悲劇の王女あつかいするんだよなぁ⋯⋯。勝手なもんだ。

 輿入れの件が漏れるとやっぱり王家忠誠派の貴族には、「フランセワ王家には、女神の血が流れている。この尊い血を敵国に盗まれるくらいなら、いっそ⋯⋯」などと訳の分からないことを言ってジュリエット暗殺を企てる連中まで現れた。

 現政権の実体は、民衆派とラヴィラント宰相がリーダーの王家忠誠派の連立に保守派の一部が協力しているという体制だ。民衆派と王家忠誠派が衝突したら、戦争なんかできっこない。モタモタしていたら王家忠誠派が暴発してしまう。そんな事情もあって出発を急いだ。

 王宮と王族守護が任務の親衛隊が、クーデターでは一番被害が大きく、半数近くが戦死した。当然だがジュリエットに激怒している。親友を殺されていきり立つ親衛隊騎士連中の前に立ちふさがって剣を抜き、「オレを倒してからジュリエット王女を殺せ!」とやって、なんとか鎮めた。なんでオレが⋯⋯。

 王族の輿入れなら、数十台の馬車を連ね、数百人の随員を従えて国境に向かうものだ。ところがジュリエットの車列は、馬車数台に二十人の護衛という寂しさだった。同行するブロイン帝国の大使が、自分の車列とそう変わらない貧弱さに驚き目をむいている。

 仕方がない。大使には苦しい言い訳をした。

「全てを戦争に動員しているのです」

 戦場となる西方領主領の向こうにブロイン帝国がある。領主領を迂回して国王直轄地から国境に達することもできる。だが、その気になれば足の速い領主軍の騎馬隊に捕捉されるだろう。あえて有力な領主領を通る街道を行かせることにした。

 やりたくない仕事だが、護衛隊の隊長と副隊長のローゼット女性騎士に厳命した。

「もし領主軍がジュリエットを奪いにきた場合には、護衛隊が全滅する前に、確実にジュリエット王女とブロイン大使を殺せ!」

 自分の短刀で第三王子が自殺したせいでノイローゼ気味だったローゼットは、顔面蒼白になった。他に有能な女性騎馬指揮官がいないのだから、可哀想だがどうしょうもない。

 ジュリエットを領主軍に渡すわけにはいかない。巻き込まれた大使は、領主軍に殺されたことにしてやろう。領主貴族とブロイン帝国の連携を断つ材料になるだろう。

 ジュリエットが無事にブロイン帝国にたどり着けるかどうか、五分五分ぐらいだろうか。到着したら、仮にも隣国の王女様だ。ブロイン帝国の介入戦争を遅らせることができる⋯⋯かもしれない。

 もし途中で殺されても、「平和の使者として送られた王女と付き添いの大使を、領主貴族どもが殺した」とかなんとかプロパガンダに使える。悔しまぎれみたいに妹王女を処刑するより、よほど戦意高揚の役に立つぞ。


 最後の挨拶くらいはしとこうかね。

 馬車の中でジュリエットは、両脇と前を侍女たちに固められて座っていた。侍女といっても正体は王族警護の女性保安員だ。暗器を隠し持ち、全員が戦闘訓練を受けている。もし車列が襲われたらジュリエットを始末するのは、この女どもになるのだろう。

 オレに気づくとジュリエットは、青く燃えるような眼でにらんできた。

「よくも⋯⋯。レオン、これはあなたのしわざね」

 処刑から救ってやったのに、ひどいことをしたような言い草だよ。

「この国にいたら、いずれ殺されますよ。感謝されてもいいと思いますがね」

 ジュリエットが叫んだ。

「わたしは、なにもしていない!」

 やはりこの元王女は、なにも分かっていない。

「あなたがクーデター派に加わり国王弑逆をしたなら、まだ救いがあった」

「なんですって?」

 思わず笑い声になってしまう。

「あんたの協力がなけりゃあ、クーデターを起こせたかもあやしいもんだろ。敵に利用された挙げ句に、『わたしは、なにもしていない~』ときたもんだ。愚かだねぇ」

「どきなさいっ!」

 ジュリエットは、手荒く侍女をどかし馬車の窓を開けた。

「レオン。もっと近くにきて。⋯⋯どうしてわたしを選ばなかったの?」

 フランセワ王家の女たちに、オレは妙にモテる⋯⋯ような気がする。オレが、フランセワ王朝を立てた初代国王の肖像画に似ているからかな?

 旅先まで追いかけて強引に結婚に持ちこんだジュスティーヌ。既婚者の第一王女と第二王女にも、なにかの行事で会うとチヤホヤされる。シャルロット第五王女も、なんだかオレに好意を持ってるみたいだ。そして、このジュリエット。王家の女たちは、変な電波でも受信しているんだろうか?

「シャルルとジュスティーヌは、フランセワ王国を守ろうとする。わたしは違う。一緒になれば、なにもかも壊せたのに」

 王族の女と革命家の男は、いずれ袂を分かち、殺し合いになるかもしれない。でもね⋯⋯。

「あなたと知り合ったのは、ジュスティーヌと結婚してからですからね。ははは⋯⋯。早いもん勝ちですよ」

 ジュリエットが猫なで声を出した。

「もう二度と会えないかもしれないわね。もっと近くにきなさい」

 そう言うと、窓から思いきり身を乗り出してきた。侍女たちが、あわててジュリエットの腰をつかんで押さえる。

「おいおい、馬車から落ちるぜ」

 落っこちて顔に傷でもつくったら困る。あわてて近寄ると、ジュリエットに両手で髪をつかまれ、ぶつかるような激しいキスをされた! なかなか情熱的だ。舌を入れてくる。お返ししようかと思ったが、まあ、やめておこう。

 気が済むまで好きにさせようと思っていたら、おもいっ切り唇に噛みつかれた。

 いってえ!

 下唇が四センチほどザックリと切れ、派手に出血した。首の辺りが血だらけだ。ジュリエットも口の周りが真っ赤になっている。

「舌を入れてきたら、噛み切ってやったのに!」

 おーおー、危ない危ない。⋯⋯痛えなぁ。

 こんな傷は消してしまおう。人差し指をジュリエットの目の前に突き出した。指先から、銀と金色のピンポン玉のような球を出した。

 ヒイイィィィ──────ン⋯⋯


 この女が、傷治しを見るのは初めてだろう。

「め、女神の光⋯⋯」

「ふん。そう呼ばれているね。皆こんなもんを有り難がるから、仕事がやりやすかったぜ」

 銀と金色のピンポン玉を唇に当てると、瞬時に傷が消えた。

「くっ! ちくしょう⋯⋯」

 ジュリエットは、王女らしくない言葉遣いになった。

「あんたとジュスティーヌは、必ず殺してやるっ!」

 命を助けてやったオレが、なんでそんなに恨まれなきゃならんのだ? 王女みたいに振る舞って隠しているが、フランセワ王家の王女たちは、恋愛には激しく一途だし、情が深い面がある。「愛情と憎しみは紙一重」なのかな?

「ははは⋯⋯。自分のお命を心配するんですな」

 そう言って馬車から離れた。また噛みつかれたらかなわない。

 傷は消えても血は消えない。オレの首周りは、血で真っ赤なままだ。近寄ってきたブロイン帝国大使が、異様な目で見ている。

「えー、ちょっとした事故がありました。もう解決しましたので、ご安心ください」

 人斬りで有名らしいオレが、目の前で血だらけになっているのだから、安心できるわけがないだろうが。

 ラヴィラント宰相が説得しているとはいえ、ぐずぐずして王家忠誠派の過激分子が斬り込んできたら大変なことになる。一刻も早く出発させてしまおう。

「大使閣下。お時間です。ジュリエット殿下が出立なさいます」


 王宮の居候部屋に戻って血だらけの服を着替えていると、オレが怪我をしたと聞いたジュスティーヌが飛んできた。

「ひでえ女だよ。舌を食いちぎられそうになったぜ」

 ジュスティーヌの碧眼がスッと細くなった。

「ジュリエットと接吻なさったのですね」

 いいえ、唇に噛みつかれたんです。なのにジュスティーヌは、きびすを返して部屋から出ていってしまった。怒ってやがる。⋯⋯無理矢理の騙し討ちチューだったのに。

 侍女のキャトゥが、床に散らばっている血のついた服を手早く片づけながら言った。こいつは遠慮がない。

「アハッ、バカですねえ~」

 そんなことねぇぞ。調子に乗って舌を入れ返してたら、食いちぎられていた!

 死なないまでも当分喋れなくなる。喋れなきゃあ、戦争の指揮をとれるわけがない。オレがはじめたような戦争なのに、色仕掛けの女に噛みつかれて最後に脱落とか、とんだ赤っ恥だ!

 最後の最後まで復讐と攻撃を忘れない。まったく、とんでもない女だったぜ!



 三日後、ジュリエットは、無事に国境の関所に到着しブロイン帝国に引き渡された。西方領主連合の指導部は、ジュリエット王女を拉致する決断が出来なかったようだ。

 関所でジュリエットは、騒ぐことなくフランセワ王国の服や持ち物を脱ぎ捨て全裸になり、ブロイン帝国が用意した衣服に着替え、馬車を乗り替えて帝都バルレンに向かった。

 例の毒ペンダントは、油紙に包み飲みこんで持ち込んだ。毒が漏れたらジュリエットは死んでいただろう。この女にも度胸があった。「人質に差し出されるフランセワの王女が、道中で毒殺される。⋯⋯面白いわ」。

 関所までつきそったブロイン帝国大使が、ジュリエットの身柄引き渡しに立ち会った。口数が多く、どこか浮薄な印象を与えたジュリエットだったが、この三日の間に急に無口になり、姉のジュスティーヌに似てきたように感じられた。

 丸一日かかった手続きが終わり、王都に帰ろうと駐車場に戻って驚いた。フランセワ王国の護衛騎士と侍女たちは、とっくに全員騎馬で出発していて一人も残っていない。領主軍に捕捉されたら護衛部隊は全滅すると考えたのだ。

 一刻も早くこの場から離脱するためだろう。馬を外した王家の超高級馬車は、そのまま放置されていた。もちろん大使一行の馬車は残されているが、護衛騎士たちの急ぎぶりを見たブロイン帝国の御者や随員は不安の色を隠せない。

 取り残された大使は確信した。「戦争は、もう覆しようのないフランセワ王国の国策である」。

 開戦まであと十日だ。四十万の部隊が西方領主領地域を包囲しつつあった。


 これから始まる戦争について詳しく述べることは、次作に譲る。だが、レオンが始めるこの戦争では、英雄的な行為とともに、避けることのできた多くの悲惨があったことだけは述べておこう。

 開戦にあたってレオンが発表した文章を転載しよう。レオンとエステルという弱冠十六歳の少女の合作だ。

 レオンに見出され戦争が始まると総司令官の秘書として召集され、作戦参謀以上の働きを見せた。小柄な可愛らしい少女なのに、良くも悪くも猛烈な働き者でレオン以上の極左だった。

 総司令官秘書という職務についていたが、物腰は柔らかくにこやかで少しも偉ぶらない。軍人とはいえそんな少女が、自分の死も、人を死に追いやることも全く怖れなかった。

 レオンは、末席とはいえ貴族の出身だ。なので底辺の民衆の声を反映させるためにも、最底辺から這い上がった天才少女の知恵を借りようとした。

 この二つの宣言を読めば、どのような戦いが行われたのかを概ね知ることができる。


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 赤軍宣言 フランセワ王国軍総司令部

 民衆の軍隊、赤軍が結成された!

 大衆が武器を握り、自らの為に戦う権利を手に入れたのだ。民衆の武装が遠い未来のことではなく、現実のものになったのだ!

 赤軍を創設したフランセワ王国軍総司令部は、全ての平民に呼びかける。民衆の軍団を組織せよ! 全ての平民は、奴隷使いに対する戦争に参加せよ! 武器をとり、武器を使うことに習熟しようとしない者こそが『奴隷』なのだ。

 今まで、民衆が武器を握り武装することが、あたかも夢物語であったり、永遠の未来であったり、とてつもないことであるといった奴隷の精神が植えつけられてきた。「平民が武器を持つことは悪である」などという奴隷の考えによって国中が覆いつくされてきた。

 しかし、奴隷制に対する憤りを梃子にして平民大衆の怒りの声が地鳴りのように沸き上がり、ついに民衆の精神に巣くっていた奴隷根性は打ち砕かれた。そして一部の者の特権であった武装し戦う権利を、民衆がその手にもぎ取ったのだ!

 いたるところで軍団を組織し、赤軍に志願せよ!

 フランセワ王国軍総司令部は、民衆の軍団=赤軍に武器と資材を供給し、戦術を指導し、戦闘を指揮する。奴隷解放のためだけでなく、平民が手にした武力を拠り所にして自らの力を解放するためにも、この戦争に赤軍を動員する。

 ひとたび武器を手にして戦場に立った平民は、もはや無力な『下民』ではない。遊び半分で殺されることもなければ、意味もなく打擲されることもない。自らと自らの愛するものが悪と不正から保護される権利を持つ兵士となり、市民となるのだ。

 赤軍に結集せよ! 

 自らを兵士としてうち鍛えよ!

 奴隷使いとその追随者を打ち倒せ!

 解放戦争万歳!

 民衆の赤軍万歳!


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 戦争宣言 フランセワ王国軍総司令部

 ①奴隷使いとその追随者どもよ

 フランセワ王国正規軍と民衆の赤軍は、お前たち奴隷使いを奴隷解放戦争の場に叩き込んで一掃するために、ここに宣戦を布告するものである。

 貴族を僭称する奴隷使いどもよ!

 お前たちが、たとえどれほどの財貨を抱え込み騎兵軍を養っているとしても、傭兵を雇い入れ裏切り者の平民までをも動員したとしても、フランセワ王国は正規軍と民衆赤軍の下に団結し、必ずやお前たちを絶滅させることを通告する。

 お前らの歴史的罪状は、もうわかりすぎているのだ。

 奴隷使いの歴史は、血塗られた歴史である。二百五十万人もの民衆を奴隷として監禁し、強制労働で酷使し鞭打ち、親子を引き裂いて売り飛ばし、疲労と虐待のために働けなくなると容赦なく虐殺してきた。そのような悪行の果てに、がっぽりともうけて贅沢三昧してきたのだ。

 お前たちは搾取し略奪するために、数百年に渡って民衆を虐げ殺してきた。なのに「平民と奴隷は違う。奴隷は特別だ」などと虚言を弄している。

 民衆は、もうそんな言葉にそそのかされ、だまされはしない。否、そそのかされ、だまされないだけではない。過去のうらみを持ってお前らをのろうとともに、お前たちのやろうとすることに対して、今度は我々の側には用意がある。

 奴隷使いどもよ。いつまでもお前らの思い通りになると思っていたら、大まちがいだ。

 お前たちは、説得で奴隷制を廃止しようとした前国王を騙し討ちに殺した。

 新国王が奴隷解放を宣言すると、最後の機会だとばかりに必死になって我が国の民衆を外国に売り飛ばしている。そうしてかき集めた金で傭兵を雇い入れ、殺人のための武器を買い集めている。

 お前たちの魂胆は見え透いているのだ。

 今や、フランセワ王国とそれを支える民衆は、お前たちの好き勝手にされることをきっぱりと拒否することを宣言する。

 奴隷制の時代は、終りなのだ。奴隷制が廃絶されることは、あまりに当然であり正義である。そのための戦争は、正義のたたかいの貫徹である。

 我々は、この世界から『奴隷』をなくすために、すなわち奴隷解放戦争の勝利のために、お前たちをこの世から抹殺するために、最後まで徹底的に戦い抜く。

 国王を殺し、『奴隷』とされた者たちを今も殺し続けている憎むべき奴隷使いとその追随者どもは、「暴力は人間を堕落させる。どんな戦争も悲惨な悪だ」などとほざいている。自らの殺人と悪行を棚に上げて偽善の言葉を吐き散らしているお前らは、今も『奴隷』を監禁し、殺しているではないか!

 我々の戦争は、カネを稼ぐために『奴隷』を鞭打ち、見せしめになぶり殺すという奴隷使いの腐敗した暴力とは違う。人生を奪われ、今この時も虐待されている『奴隷』を解放するための輝かしい正義なのだ。

 今まで武器を取ることのなかった民衆は、ついに目覚めた。解放戦争の嵐のなかで武器をガッチリと握りしめ、奴隷使いどもを手当たり次第になぎ倒し、自己を実現し自らを高め清めていく。奴隷制廃絶のために赤軍に結集した民衆の志気は、いよいよ高く、その精神は、ますます純潔である。

 この聖なる戦いは、憎むべき人類の敵が絶滅するまで終わることはない。常習的な殺人、拷問、誘拐、監禁、傷害、強姦、人身売買、強制労働。お前たちは、あらゆる法と人道を踏みにじってきた。極悪の犯罪のむくいを受ける時がきたのだ。

 奴隷使いどもよ。解放戦争の前に戦慄するがよい! 赤軍は、お前たちが蔑んできた平民が組織した恐怖となるだろう。悪に対して怒り心頭に発した民衆による無慈悲な戦闘と赤色テロルは、奴隷制を根絶するまで終わることはない。

 各所に点在する奴隷使いの追随者と裏切り者に警告する。我々の奴隷解放の事業を邪魔する奴は、誰

であろうと、何処であろうと、何時であろうと、容赦なく抹殺する。お前らは、奴隷使いと一緒に串刺しにされるのが嫌ならば、奴隷制を擁護する口を閉じ、隠し持っている武器を後ろに向けるのだ。お前たちをそそのかし、後ろであやつっている奴隷使いどもに向けて!

 貴族を僭称する奴隷使いよ。国王弑逆者よ。民衆を殺し続けてきた者どもよ。フランセワ王国国王、王族会議、閣僚会議、元老院、貴族院は、満場一致でお前たち大逆犯に死刑を宣告した。民衆は、奴隷使いに対する死刑という素晴らしい判決に総立ちとなり、歓呼の声を上げて街を練り歩き、熱烈な支持を表明している。我々は決して後退しない。

 我が軍は、奴隷使いとその傭兵どもを圧倒的な戦力で包囲し、せん滅する。これは満天下に死刑を宣言された極悪の犯罪集団に対する討伐作戦である。お前たち全てが地にひれ伏すまで、正規軍と赤軍は間断なく処刑攻撃を続けるだろう。

 お前たちがどこに逃亡したとしても、地の果てまでも追いかけ、文字通り草の根を分け川の底をさらってでも見つけ出して、一人残らず処断する。

 取引や交渉の試みは、無駄である。戦闘開始後の降伏は、一切認めない。戦闘開始前に武器を棄て全面的に我が軍門に下る者に対して、一定の顧慮を加えるのみである。

 団結せよ!

 戦争宣言をここに発する!


 ②『奴隷』とされてきた皆さん

 ようやくこの時がきました。十二月十六日払暁、四十万名のフランセワ王国正規軍と志願した民衆からなる赤軍は、人類に対する犯罪である奴隷制を廃絶するために、満を持して西方領主領地域に突入しました。私たちは、奴隷使いどもからあなたがた『奴隷』を、一人残らず解放します。

 今まで私たち平民は、生きることに精いっぱいで、その生涯を終えてきました。学ぶ時間も、考える余裕さえありませんでした。貧しさ故に無知であり、生きるために悪に染まることさえありました。

 しかし、私たちは目覚めました。あなたがた『奴隷』の解放のために、手に武器を取って立ち上がります。なぜならば『奴隷』とされているあなたがたの今日は、全ての平民の明日の姿でもあるからです。

 フランセワ王国と民衆は、奴隷制という忌まわしい悪習から長いあいだ目をそらしてきました。その意味で私たちには、大きな責任があります。私たちは、あなたがたが流してきた血の債務を負っていると考えます。幾世代もの血債を返すために赤軍に結集したフランセワの民衆は、あらゆる労苦も、死をもおそれず奴隷解放戦争の主力になります。

 近い将来、奴隷小屋の扉は民衆の鉄槌によって打ち砕かれ、あなたがたは解放されます。我が軍は、あなたがたに食料を供給し、病人や怪我人に適切な治療を施します。もう、カネのために人が売られ、母親から赤子が引き離されるようなことを決して許しません。

 あなたがたは、今まで暗く不潔な小屋に押し込められ、字を読むことも許されず、自ら考えることすら禁じられてきました。そのために、まだ戦う準備ができていないかもしれません。しかし、我が軍と共に働くことで、奴隷解放の事業に協力してほしいのです。

 あなたがたは、もう『奴隷』ではありません。労働には、それに見合った対価が支払われます。そして解放戦争の勝利と同時に、あなたがたは完全に自由になります。自由とは、他人を害さない限りあらゆることをなしうる権利です。

 戦争の過程であなたがたは、悲惨な光景を見ることになるかもしれません。しかし、それはどうしても必要なことなのです。

 奴隷使いを貫く槍は、『奴隷』とされてきた人びとの怒りです。奴隷使いに振り下ろされる剣は、目覚めた民衆の鉄槌です。奴隷使いが流す血は、今まで『奴隷』が流してきた血の河です。奴隷使いを吊す縄は、彼らが自ら編んだ縄です。奴隷使いの城を焼く炎は、奴隷制を一掃する業火です。奴隷使いの死体は、滅び去った奴隷制のむくろです。私たちは、決してたじろぎません。わが国から奴隷制を根絶するまで、それらを断行します。

 私たちにとって「過激だ」といわれることは、むしろ誇りです。手に武器を握りしめ、虐げられた民衆、自由を求める民衆の先頭に立ち、解放のために血を流してたたかう。これ以上に気高い行為が、ふたつとあるでしょうか。

 貴族などと自称する奴隷使いどもは、自らの欲望のために数百年も『奴隷』の血と汗の上に寄生してきました。奴隷制を生存の土台としてきた領主貴族は、その支配の道具であった差別と分断を自らの中に持ち込み、腐敗し破滅します。今まで『奴隷』や『下民』に向けて浴びせられてきたありとあらゆる侮蔑の言葉は、奴隷使いにこそふさわしいのです。

 奴隷制が許される時代は、終わりました。私たちは、奪われたものを、尊厳を、この手に奪い返します。

 奴隷解放宣言を突きつけられた奴隷使いどもは、「夜も眠れない」などとほざいています。私たちは言ってやりましょう。

「そうだ、お前たちに眠ることのできる夜は二度とこない。なぜなら、民衆の夜明けが迫っているからだ」

『奴隷』の解放。それは『奴隷』とされている人びとだけの解放ではありません。自らを縛りつけている鎖から、私たちを苦しめている無知と貧困から、あらゆる人びとを解放する事業の一環なのです。

 自由を求める民衆は、死を賭して最後までたたかい抜きます。

 奴隷制に死を!

 友よ。手を携え共に進もう!


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 レオンとエステルが書いたこの宣言は、こう謳っている。

「平民は強くなった。武器を取り、同じ平民である奴隷を解放する戦争に参加する。だから貴族と同じ権利をよこせ」

 明言こそ避けているものの、これは身分制の否定だ。身分制の否定は貴族制の廃止、いずれ王制の廃止につながるだろう。

 読む人が読めば、この宣言で書かれている自由と平等といったブルジョア民主主義は、絶対王政にとって大変な危険思想だとわかる。ところがレオンは、開戦のどさくさにこの宣言を全国にばら撒いて大衆を煽った。


「思想は大衆の心を掴んだ時、力となる」(レーニン)


 赤軍に結集した平民大衆は、武器を取って領主貴族軍と戦うだろう。そして勝利した戦争の経験から、自らの力に強い自信を持つようになる。

 戦争と暴力こそ革命の母胎なのだ。この世界でレオンは、世界革命を起こすつもりだ。


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 三年前の夕方。わたしは、父と母、それに弟たちを殺した貴族愚連隊ブラックデュークの根城に、親衛隊第四中隊が攻め込んだことを知った。

 近所の人たちが、興奮し大声でしゃべっている。寝たきりだったお婆ちゃんに肩を貸して、斬り合いをしている愚連隊のアジトまで行くことにした。

 まだ十三歳だったので力が無く、着くまで一時間もかかってしまった。でも、どうしてもお婆ちゃんに、家族の仇が死んだ姿を見せかった。

 愚連隊の根城になっていたお屋敷は煙につつまれ、大勢の野次馬が囲んでいた。お婆ちゃんを支えてきたわたしを見て事情を察した人たちは、気の毒そうな顔をして道をあけてくれた。おかげで一番前に出ることができた。

 野次馬が、血刀を持った狼のような親衛隊の指揮官を遠巻きに囲み、固唾を飲んで見守っていた。血に染まった男が指揮官の足下に転がっている。

 きっとこの血刀を持った人が、レオン・マルクス隊長だ。王族で伯爵様なのに、平民の味方をしてくださるただ一人の貴族⋯⋯。

 マルクス隊長は、群衆に向き直った。

「さあ、みんな。こいつをどうする?」

 !

 驚いた! 血だらけで転がっている男は、お父さんやお母さん、それに弟たちを殺せと笑いながら命令した奴だ!

 それを訴えたら、きっと仕返しに愚連隊に殺される。わたしは死んでもいい。でも、わたしがいなくなったら、お婆ちゃんはどうなるの? 皆も黙って下を向いてしまった。

 目をギラギラさせたマルクス隊長が、大声を出した。

「どうした? こいつは、おまえたちを虐げていた愚連隊の御輿だぞ?」

「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」

「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」


 ヒョロロ~、ポテ⋯⋯


 地面に倒れている仇のお腹のあたりに、小石が落ちた。

 お婆ちゃんがいないっ!

 寝たきりだったお婆ちゃんが、仇のすぐそばにいた。自分で歩くなんて! ヨロヨロと足下の小石を拾っている。あわてて駆けていって支えた。

 お婆ちゃんは、小石を投げた。

「セガレを、かえせぇ~」

 ヒョロロ~、ポテ⋯⋯

「ヨメを、かえせぇ~」

 ヒョロロ~、ポテ⋯⋯

 支えながら小石を拾ってお婆ちゃんに渡した。

「マゴを、かえせぇぇ~」

 ヒョロロロ~、ポテ⋯⋯


 マルクス隊長は、真っすぐこっちを見て尋ねられた。

「どういうわけだ?」

 言ってやろう。殺されたっていい。家族の仇をとるんだ。

「こいつが、お父さんと、お母さんと、弟たちを殺しました」

「ほう。なぜ?」

 もう怖くなんかない。

「分かりません。気に入らないとか言ってました。笑いながら、お父さんと、お母さんと、ジェイ君と、ケイちゃんを殺して川に投げ込んだんです」

 マルクス隊長は、膝をついて目線を合わせてきた。

「名前は?」

「あの⋯、エステルです」

「いい名前だ。何歳だ?」

「もうじき十四歳になります」

「婆さんの状態は? そろそろ死ぬのか?」

「⋯⋯分かりません。近所の人が親切にしてくれるので⋯まだ⋯」

「危なくなったら王立診療所に連れていけ。満員でもレオン・マルクスの名を出せば受け入れてくれる。⋯⋯さーてと、この野郎は婆さんより先にあの世行きだ⋯」


 マルクス隊長は、仇をとってくれた。

 帰り道で、お婆ちゃんが動けなくなってしまった。わたしもくたびれてお婆ちゃんを支えられない。仕方なく道の端に二人で座り込んだ。

 グッタリしていると、後ろから声をかけられた。

「よう。エステル⋯⋯だよね?」

 愚連隊が仕返しにきたのかな? 予想よりもずっと早い。振り返ると健康そうな黒髪黒目の男の子と、平民の服を着てるけどきれいなお姫さまみたいな金髪で青い目の女の子が立っていた。ニコニコしていて優しそうだ。人殺しの愚連隊には見えない⋯けど⋯。

「⋯⋯殺しにきたの?」

 勝てなくてもいい。マルクス隊長みたいに、たたかってやる。

 二人は驚いて顔を見合わせ、少し笑った。

「違う違う。驚かせてごめん。婆ちゃんをおんぶしてやるよ。帰るんだろ?」

 男の子は、簡単にお婆ちゃんを持ち上げると、おんぶしてしまった。

「軽い軽い。さっ、行こうぜ。ああ、オレはマーロウ・ターミャっていうんだ。今は建設現場で働いてる」

 女の子が、斜めがけしていた麻のザックから土瓶を出した。

「のどが渇いてるでしょ? お水よ。あたしは、ローザ・ノーブル。フォングラ侯爵様のお屋敷で下働きをしてる。二人とも十五歳よ」

「⋯⋯早くわたしから離れて。愚連隊が襲ってきたら、巻き添えになるわ」

 マーロウ君とローザさんが、顔を見合わせた。

「それはないな」

「ないわね」

 ブラックデュークには、後ろに公爵家がついていて、警備隊だって手を出せないのに。

「レオン様が、愚連隊を全滅させたからなぁ。もう、あいつらはお終いだぜ」

 行きは一時間もかかったのに、二人が手伝ってくれたおかげで十五分で家に着いた。家といっても元は物置部屋だ。

 ひとつしかないベッドにお婆ちゃんを寝かせて、外に出た。部屋は明かりがないから真っ暗だ。外は月明かりがある。

「ありがとう。すごくたすかったわ」

 こんな貧しい暮らし向きを見ても、二人は驚いた様子がない。餓死する浮浪児が大勢いるんだ。わたしは、まだ恵まれている。

「エステルは、仕事はなにをしてるんだい?」

「市場で荷運びしたり、事務所で帳簿をつけたりしてる」

 わたしの貧しさには驚かなかったけど、帳簿をつけていると言ったら二人はビックリした。

「へぇ! 字は、どうやって覚えたんだい?」

「自然に覚えたわ」

「⋯⋯帳簿のつけかたはどこで習ったの?」

「係りの人が三十分くらい教えてくれた。足し算とかけ算くらいだし」

「すごいな。オレは、字を覚えるのに二カ月かかったぜ」

「普通は、それくらいかかるわよ⋯⋯」


 愚連隊が、仕返しにくることはなかった。でも、あれから一カ月後にお婆ちゃんが死んだ。きっと思い残すことがなくなったからだ。

 ほとんどおカネがなかったので、お葬式を出せない。無一文で野垂れ死にする人は多い。そんな死体を集めて捨てるお役所がある。でも、お婆ちゃんをそんなふうにするのは、嫌だ。

 マーロウ君とローザさんが、力を貸してくれた。友だちを大勢集めて、みんなでお葬式を出してくれた。感謝してもしきれない。

 お仕事とお婆ちゃんのお世話で忙しくて、今までわたしには友だちがいなかった。お婆ちゃんが死んでしまったのは悲しかったけど、二人のおかげで大勢友だちができた。マーロウとローザ、それに新しい友だちが、よく家に顔を見せてくれた。生活にも少しだけど余裕ができた。

 嫌なこともあった。マルクス隊長が、王様に遠ざけられてしまった。平民の味方をして人殺しの貴族を懲らしめたので、命を狙われて襲われた。そいつらを返り討ちにしたら、ずる賢い貴族に陥れられたんだそうだ。みんな怒ってた。ローザは泣いてた。わたしも、すごくすごく悔しい。

 お婆ちゃんのお葬式を出して半年たったころ、どんどん綺麗になっていくローザが、最近発明された印刷機で書かれた紙を持ってきた。

「女子軍士官学校生徒募集」と書いてあった。

「エステル、受けなよ! 合格したらタダで勉強できて俸給までもらえるんだよ!」

「むっ無理だよう。よく読んでよ。五十人しか受からないんだよ。勉強する時間なんかないし、なにを勉強すればいいかもわからない⋯⋯」

 翌日、ローザがマーロウを連れてきた。

「やあ! ほら、貴族高等学院の教科書だ。こっちは王国大学の受験参考書な!」

 びっくりしてしまった。

「こ、こんな高価いもの、どうしたの?」

 まさか⋯⋯。

「心配ご無用。最近は王立印刷所で働いてるって言ったろ? 試し刷りや印刷ミスのものをもらってきたんだ」

 でも、こんなに良くしてもらったのに、落ちてみんなをガッカリさせるのが、こわい。

 ローザが、貴族高等学院の教科書をパラパラとめくりながら言った。

「エステル。このくらいの本なら一回読んだら全部暗誦できるよね?」

「えっ? う、うん。たぶんできる」

「『三十かける三十』まで暗記してるよね?」

「だって、その方が早く計算できるし⋯⋯」

「習ってもいないのに、どうして方程式や関数が使えるの?」

「どうしてって⋯⋯。その⋯⋯。できるから?」

 マーロウが、カバンからロウソクを出して机に並べた。三十本くらいある。

「仲間たちからだ。みんな応援してるぜ。でも、目を悪くすんなよ」

 こんな高価なものを⋯⋯。みんなだって毎日の生活に精いっぱいなのに!

「お、落ちるのが、こわいよ」

 マーロウが、ため息をついた。

「オレは、今までエステルほど頭の良いやつに会ったことがないね。⋯⋯いや、一人だけいるかぁ」

「ねぇ、エステル。勉強すれば、あなたなら必ず合格できるよ」

「ローザ⋯⋯。でも、試験まで三カ月しかないのに⋯⋯」

「どうしても時間がなければ、仕事を辞めりゃあいいさ。黒パンと売れ残りの野菜くらいなら毎日持ってくるぜ。印刷所は給金がいいからな」

 貴族高等学院の教科書をながめて、簡単なのでちょっと驚いてしまった。「これなら」という気はする。でも、みんなに迷惑をかけるのに、落ちたらどうしよう。そんなのイヤだよ⋯⋯。

「うぅ⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」

 ローザが真剣な顔をして言った。

「ねえ、エステル。聞いて。女子の士官学校は、平民の女の子に機会を与えようって、保守派貴族の反対を押し切ってレオン様がつくったものなの。もしうまくいかなかったら、レオン様は王都から追い出されるかもしれない。でも、あなたならきっと、レオン様の期待に応えられる」

 レオン様が王都からいなくなる! そんなことになったら、だれが平民を守ってくれるの? また貴族の愚連隊が、はびこるに決まってる。お父さんやお母さんみたいに殺される人が大勢でる。

 雷に撃たれたようになって、弱気が飛んでいった。

「⋯⋯受験する。お願い。必ず合格するから、手伝って」


 五週間で貴族高等学院の五年分の教科書を終えた。ためしに王国大学の入試問題を解いたら七十五点だった。高等学院の教科書だけじゃ足りないみたいだ。

 困っていたら、王国図書館で下働きをしているマーロウの友だちが、裏口からこっそり入れてくれた。図書館が閉まってから下働きの部屋で、毎日勉強させてもらった。

 入学試験は、二日間おこなわれた。初日は筆記試験と運動。二日目が面接だ。

 筆記試験は、解答を全部埋めることができた。運動は、校庭を一時間ひたすら走るというものだった。市場の荷運びの仕事を続けていたので、ずっと全力で走りきることができた。

 二日目の面接の前に、ローザたちがやってきて一番良い服を貸してくれた。わたしの服は、ボロボロだったので、嬉しかった。

 面接会場に着くと、昨日の試験の合格者がもう張り出されていた。五百人は受験していたのに、百人くらいしか残っていなかった。合格したこの百人しか面接を受けられない。面接の順番を待っていると、緊張しすぎて吐きそうになった。

「エステル・ヴァンジェ。入れ」

 面接室に入り、五人の試験官と対面した。貴族のきれいな女性もいる。頬に大きな傷のある金髪の人は、愚連隊を懲らしめる指揮をとっているのを見た。真ん中にいるのは、マルクス隊長だ!

 試験官に「仕事はなにをしているのか?」とか、「どうやって勉強したのか?」などと訊かれた。口頭試問だと考えていたので、普段の生活について質問されたのは意外だった。

 最後にマルクス隊長に訊かれた。立派な方ということは知っているし、口調は優しかった。だけど、凄みがあるというのだろうか。すごい威圧感だ。

「この国には、貴族、平民、それに奴隷がいる。出自によって職業や居住地を分けているわけだ。身分制と呼んでいるが、おまえは、この身分制についてどのように考えるか?」

 ツッ⋯⋯! 身分制は、この国の常識だ。だから、わたしの内心の意見は、非常識になってしまう。でも、落ちてしまうかもしれないけど⋯率直に答えよう。

「⋯⋯間違っていると思います」

「ほう。なぜだ?」

「優秀な人は、平民や奴隷にも大勢います。生まれでその能力が発揮できないのは、その人や社会にとっても大きな損失です」

「平民や奴隷にも、貴族に負けないほど優秀な者がいるというのか? 根拠は?」

「わたしの経験からです」

 一瞬マルクス隊長の目が笑ったように見えた。

「面接を終わる。退室しろ」


 エステルが退室すると、馬術講師をやることになっているローゼット親衛隊女性騎士団長がつぶやいた。

「ずいぶんと過激な思想の持ち主のようね⋯⋯」

 少将の階級を持つ老校長は民衆派寄りだ。

「いやいや。あれぐらい負けん気が強くないと、全教科満点、持久走一位は無理でしょう」

 非常勤講師にとレオンが引っ張ってきたジルベールも試験官にまじっていた。

「愚連隊を退治した時にいた子ですよね。血を見ても顔色も変えなかったな。へへ⋯⋯。いいねぇ、度胸がある」


 エステルは、なにも間違ったことは言っていない。ここで「身分制度は正しい」などと言ったら、出身階級を問わず試験で優秀な者を集めるという軍士官学校の存在意義を否定することになる。身分で軍内の階級や職位を決めるなら、士官学校の試験など不要だ。

 女子軍士官学校は、失脚した時期のレオンが駆け回って創立にこぎつけた。いつもレオンのやることなすこと邪魔してくる保守派貴族どもは、「あの男がまた妙なことを始めた。小娘を集めてなにができる?」とせせら笑っている。おかげで大して邪魔が入らず、設立することができた。

 試験官五人のうち、王家忠誠派のローゼット以外の四人が民衆派。軍の士官学校の試験なのに、三人が王宮親衛隊関係者だ。ここが誰の影響下にあるかは一目瞭然だ。

 前前前世で過激派だった新東嶺風は、知っていた。闘争の中で女性同志は、激しい弾圧にさらされても非転向でたたかい抜く強さがあった。地味な任務を粘り強く献身的に担っていた。それに、しばしば女性同志の方が行動力があった。

 セレンティアでもレオンの暗殺は、もうこの頃には十件くらい計画されていた。だが、実行に移し武器を持って襲ってきたのは、ルイワール公爵家のサフィナ令嬢だけだ。

 女子軍士官学校に合格したのは、本を手に入れて勉強することが可能な、それなりに余裕のある層の娘が中心だ。下級貴族や騎士階級の娘が多かった。エステルのような孤児や貧困層出身者は少ない。だが富裕層出身者でも、大抵の娘は悔しい思いを味わった経験があった。

「女のくせに」「女だから」「女らしく」「女のわりに」⋯⋯。

 家族に隠れて勉強し、親に受験を禁じられたのを振り切って士官学校に飛び込んできた少女も多かった。全寮制の女子軍士官学校が閉鎖されたら、もう帰るところはない。この学校を設立し守っているのは、伯爵ながら民衆派の領袖であるレオン・マルクス大佐だ。

 孤児のエステルを筆頭に五十人の女子士官候補生は、一人残らずゴリゴリの民衆派になった。『人間の意識がその存在を規定するのではない。人間の社会的存在がその意識を規定するのだ』。女子軍士官学校生徒たちは、このマルクスの説の見本のようだった。

 保守派貴族は、「小娘になにができるか」とあざ笑った。だが実は、そんなことは言ってられない。もともと民衆派が強い軍士官学校で、男子生徒は、一学年百五十人だ。それに五十人の女子生徒が加わる。実に三割近くも定員が増えた。その新しい女子生徒は、徹底した民衆派だ。

 軍士官学校で五年間学び、優秀な者はさらに軍大学校で四年間教育を受ける。やはり体力面では女子は劣るので、男は戦闘部隊に、女は王都の総司令部や軍務省に配属されることになる。

 軍部の全てを民衆派で占める必要はない。権力の中枢は王都にある。軍を支配下に置くには、前線の部隊ではなく王都の総司令部を固めればよいのだ。民衆派の女子軍士官学校卒業生は、大いに役に立つだろう。

 エステルたち女子生徒が、軍士官学校を卒業するのが五年後。軍大学校を出るのは九年後だ。ずいぶん気が長いようだが、クーデター事件前のレオンは、民衆を武装させて解放戦争を起こさせるのには、十年以上かかるだろうと予測していた。だが、ひとたび動きはじめた歴史の流れは、レオンの想像を超える速さで進んだ。


 朝一番で友だちが駆けてきて、女子軍士官学校に合格していたことを知らせてくれた。みんな自分のことのように大喜びだ。お菓子を持ち寄ってお祝いのパーティーを開いてくれた。

 入学手続きを終えたら、準貴族あつかいの兵長になった。希望者には俸給を前借りさせてくれる。手助けしてくれるみんなに負担をかけずにすんで良かった。支給された制服を着てみんなに見せるのは、気恥ずかしかったけど嬉しい。

 これからは、寮で暮らすことになる。外出できるのは、月に一日くらいだ。五年もみんなとほとんど会えなくなるので、さびしい。

 入寮の前日にマーロウと二人きりで、他愛のないお話しをした。この人は優しいけど、わたしを好きってわけではない。それにわたしは、汚れているし、ひどい嘘もついている。だから、お礼しか言ってはいけない。

「あのね⋯⋯。今までありがとう」

 マーロウは、ちょっと困ったような顔をしていた。

「エステルがこのまま進んでいけば、いつか一緒に仕事ができるさ⋯⋯」

「エステルは違う世界の人になった」なんて言われなくて良かった。でも、やっぱり、さびしくて泣いてしまった。本当にまた会えるだろうか?

 ローザたちに見送られて軍士官学校の門をくぐった。

 入校式では校長から、わたしが女子士官候補生の生徒隊長に任命された。ビックリした。成績と適性で判断したって言われたけど、わたしに五十人の生徒をまとめられるだろうか? 全力を尽くそう。

 ジュスティーヌ王女殿下が、来賓としていらした。まるで女神セレン様のようで、こんなに気高くて綺麗な方がこの世にいることが信じられなかった。わたしなんかとは、全然違う。

 旦那様のレオン・マルクス大佐が、王家の代表という立場から挨拶された。軍士官学校の講師もされている。貴族なんか大キライだけど、王族の方々は別だ。


「入校おめでとう。ここにくるまで大変な苦労があったと思う。それゆえに君たちの能力の高さには、一点の疑いもない。君たちは女性である。だからこそ期待している。

 なぜ君たちの多くは、家に押し込められ、会ったこともない者と結婚を強制されねばならないのか? それは家と結婚とが、男が女性を支配するための道具と化しているからだ。家制度と結婚制度が、男女間の不平等を助長し、性差別を支えてきた。君たちには、第二の奴隷制というべき女性差別に風穴を開けてもらいたい。

 元始、女性は太陽だった。しかし、今、女性は月である。他によって生き、他の光によって輝く月になってしまった。今こそ女性は、太陽を取り戻さなければならない。その先達が、君たちなのだ。君たちの前に道はない。だが、君たちの後ろに道ができる。

 人間の半分は、女性ではないか! 女性が天の半分を支えているのだ! 王家と軍は、女性士官の育成にあらゆる助力を惜しまない。期待している」

 

 いつも「女だから」とか「女のくせに」とか言われ続けていた同期生のみんなは、目を輝かせたり、目を潤ませている。なかには嗚咽している子もいた。目の前を覆っていた霧が一瞬で晴れたような気がした。

 女子軍士官学校が開校した。

 みんなの階級は兵長なのに、わたしだけ伍長にされた。⋯⋯困ってしまう。

 わたしが任命された生徒部隊の隊長は、学級委員長とは違う。学校といっても軍組織なので、同期生からなる部隊を統制する指揮官になる。命令に従わない場合は、同級生でも軍法にもとづき処罰できる。

 騎士階級の子は「なんとしてでも合格しなさい」と猛勉強させられ、逆に貴族家の子は「貴族女学院に行きなさい」と士官学校の受験を禁止され隠れて勉強してきた。商家の子は、変わり者あつかいで勉強するとバカにされる。わたしみたいな孤児は極端だけど、貧乏な家の子も少数いた。みんな、言葉にできないような苦労をしている。そんな出身がバラバラの五十人をうまくまとめられるか心配だった。

 入校して最初に、士官学校生徒部隊の生徒隊長が持つ指揮命令権と司法権の範囲を調べた。もちろん念のためで、実際に同期生に命令することなんかないと思っていた。そう思っていたんだけど、クーデターの時に士官学校女子生徒部隊の隊長として、王宮前広場でみんなを指揮することになってしまった。

 体力では、女子は男子にかなわない。だからって男子生徒に負けっぱなしでいるわけにはいかない。運動も頑張るけど、座学で男子を圧倒しようと同期生に呼びかけた。みんな本当によく勉強した。試験問題は男子と一緒だ。いつも十位以内に女子生徒が七人か八人は入っていた。

 ⋯⋯えっと⋯。一位は、毎回わたしだった。全教科で百点をとれば、必ず一位になれる。

 二年生の終わりには、卒業までの一般科目を全て終えてしまった。軍大学校は、士官学校を卒業して総司令部に配属されないと入校できない。十六歳では、無理らしい。でも、三年も無駄にできない。推薦していただいて、王国大学の聴講生にさせてもらった。本当なら大学一年は十九歳なので、十六歳の聴講生は史上最年少だそう⋯⋯です。

 軍士官学校は、郊外にあるので王国大学まで歩くと四十分くらいかかる。体力をつけるためにいつも走って十五分くらいで着いた。

 今までは王国大学は、男子だけが毎年千人しか入学できなかった。どれだけ優秀でも女子は、大学に入ることができない。でも、レオン様のおかげで、王国大学に百人の女子枠が設けられた。入学を家族に反対された人のために、女子寮まで建てて下さった。なんて優しい立派な方だろう。

 やっぱり大学では、背が小さいのに軍服を着ている女の子は目立っていたみたいだ。女子大生のお姉さんたちが、気にかけて守ってくれた。でも、戦闘訓練を受けているから、ケンカになっても負けなかったと思うけど。


 助け合ってだれも脱落することなく、わたしたち一期生は三年になった。女子軍士官学校がつぶされず、後輩が増えて嬉しい。それに悪い貴族に陥れられていたレオン様が、復権されて少将に進級し軍士官学校の校長に就任された。

 マルクス校長の講義は、絶対に受けたい。生徒部隊長の仕事や軍事実務科目の授業もある。軍士官学校と王国大学を、毎日駆け足で行ったり来たりしていた。

 そして、クーデターが起きた。

 三年生になって一カ月半、十一月十五日の早朝、緊急呼集で全生徒が校庭に集められた。教官たちが青ざめている。王宮で戦闘があり、多数の死者がでているらしい。武器庫が開かれ生徒に槍が配られた。わたしは生徒指揮官なので、槍ではなく剣を佩く。この剣を向けるのは敵にではない。脱走者や抗命者がでたら、この剣で⋯⋯。裏切り者や臆病者に、容赦は無用だ。

 王宮や軍総司令部も混乱状態で、なにが起こっているか分からない。教官に私服の女子生徒を偵察に出すことを進言し、いれられた。できるだけ軍人らしくない容姿の女の子を選んで町娘の服を着せ、二人組で三組偵察に出した。

 偵察隊によると、深夜に反乱軍が王宮に侵入して戦闘になったけど、親衛隊が反撃して撃退したらしい。王宮前広場には千近い死体が並んでいるそうだ。そして反撃を指揮したのは、レオン・マルクス校長とジルベール教官らしい⋯⋯。きっとそうだ! そうに決まってる!

 校長のレオン様が不在なので、副校長に士官候補生部隊の指揮権がある。わたしは生徒指揮官なので、上官に進言する権利がある。

「指揮官! 王宮親衛隊にも相当な被害がでたことが予想されます。防御が薄くなった王宮を防衛するため、士官候補生部隊が王宮前広場に進出することを進言します」

 ダメ、全然ダメ。副校長先生は「命令がないと部隊は動かせない」と言って、動こうとしない。指揮命令系統が混乱状態で、命令が届かないのに! マルクス校長だったら、もう出撃している。今、王宮を守らなくてどうするの? でもダメだ。これ以上『進言』すると、指揮権を剥奪されてしまう。

 王宮が再び戦場になるかもしれないというのに、わたしたち士官候補生部隊は、校庭に座り込んでのんきに朝御飯と昼御飯を食べた。ようやく十八時すぎに、騎馬の伝令が命令を届けてきた。

『士官候補生部隊は、全員が完全武装をもって王宮前広場に進出。王宮を死守せよ』

 ようやくだ。持てるだけの糧食と野戦調理器具を荷車に積んで出発した。運ぶのは、入校してまだ一カ月しかたたず戦力になるとは思えない一年生の男女生徒たち。とっくに準備はできていたので、すぐに出られた。

 残念だけど野戦では、女子は男子に劣る。なので王宮前広場に到着した女子生徒部隊は、後方支援に徹した。特に野戦食を調理して配ったのは、朝からなにも食べてなかった親衛隊騎士や警備隊の兵士に喜ばれた。

 千人の士官候補生の三日分の食糧は、すぐに無くなってしまった。王都は、封鎖されたので食糧が入ってこない。朝になって市場が開いても、食べ物が並ぶかあやしい。でも、糧食を大量に貯蔵している所が目の前にある。

「指揮官! もう食糧がつきました。王宮内に保管されている兵糧を使用する許可を取って下さい」

 士官学校副校長の大佐にそんな権限があるはずないことは、分かりきっている。でも、副校長の腕をつかんで王宮に引っ張った。普通は下士官が指揮官の大佐にそんなことはできない。わたしが十六歳の女の子だから大目に見られることは計算済みだ。

「兵を餓えさせるわけにはいきません。王宮に許可をとりに行きましょう!」

 副校長先生は、越権行為で罰せられるのは避けたいと考えたみたいだ。

「⋯⋯エステル・ヴァンジェ伍長、王宮内の関係部署に食糧の供給を要請し、結果を報告するように。私は、ここで指揮をとる」

 副校長も、女の子だったら大目に見られると計算したのかな。いざとなったらわたしの独断だと切り捨てるつもりだろう。⋯⋯それに「王宮内の関係部署」ってどこにあるのよ?

 とりあえず王宮に向かった。戦闘服姿で階級章と生徒証を見せてニッコリしたら、門衛の親衛隊騎士さんは簡単に王宮内に入れてくれた。

「食いもん、たすかったよ」

 そう言って笑っている。あはっ、食べたんだ。わたしが指揮している姿も見てたのかなあ。未熟なのに恥ずかしい。

 門衛さんに、とりあえず総務部に行くとよいとアドバイスをもらった。まだ血の臭いがただよう薄暗い王宮の一階を、しばらくウロウロした。貴族の侍女様は、ツンツンしていて話しにくい。通りかかったメイドさんに場所をきいて、なんとかたどり着いた。

 ⋯⋯ダメ。全然お話にならない。総務部長が王族の間から出ることを許されず、責任者がいないんだって。王宮は、いざという時に籠城できるように一週間分の兵糧を蓄えている。今が「いざという時」でしょうに。仕方ない。五階の王族の間に行くことにした。

 王族の間の入り口を警備している親衛隊騎士たちは、門衛さんよりずっと殺気立っていた。制服に血の染みがついている人もいる。ううう⋯⋯。

 拳を胸にドンと当てる敬礼をした。若い女の子がこれをやると、滑稽に見える人もいるらしい。笑う人がいるけど、親衛隊騎士たちは、胡散臭そうにわたしを見てニコリともしない。なかには青白い顔で剣の柄に手をかける騎士もいるぅ!

「し、士官候補生部隊女子生徒隊隊長、エステル・ヴァンジェ伍長です。王宮を防衛する部隊に食糧を供給する任務に関して、王宮総務部長殿にお願いがあって参りましたっ」

 頼みの綱の生徒証を差し出すと警備の親衛隊騎士が受け取って、王族の間に入っていった。はあぁ⋯⋯。

 しばらくして出てきたのは、軍士官学校で非常勤講師をしているジルベール教官だった。

「おう! エステルじゃないか。上から見てたぞ。食糧の配給で、大活躍だな。警備隊にも食わしてくれたな。王都警備隊には、補給部隊は無いから助かったぜ」

 再びドンと胸に拳を当てる敬礼をして、事情を説明する。

「ジルベール教官、いっ、いえ、フォングラ中佐殿。士官学校から持ち込んだ食糧は、もう無くなってしまいました。王都が封鎖されているので、市場が開くかも不明です。王宮で貯蔵されている兵糧を使わせていただきたく、総務部長殿にお願いにあがりました」

 なぜかジルベール教官は、面白そうにわたしを見ている。

「今は、戒厳令下の戦時体制だからなぁ。王宮兵糧の供出は、王宮最高指揮官の承認が必要だ。一筆書かせるから、待ってろ。⋯⋯ああ、伍長じゃ相手にされないなぁ。よし! 将官権限でエステル・ヴァンジェを、少尉に非常時進級させる」

 士官がみんな戦死してしまった部隊で下士官が指揮をとるような場合、一時的に下士官の階級を士官に上げることがある。それが非常時進級だ。でも、それができるのは直属の将官だけ。中佐のジルベール様には、そんな権限はない。

「少尉⋯⋯。でも、それは⋯⋯」

「心配すんな。オレもさっき少将に進級した。しかも王都警備隊長官だぜ。はははは! それによ、王宮最高指揮官は、公爵レオン・マルクス大将だ」

 レオン様、偉くなった! 嬉しい。

 ジルベール少将は、軍服のポケットをゴソゴソやって階級章を引っぱり出した。正式には家名のフォングラ少将が本当だけど、お名前のジルベール少将と呼んでも失礼にはならない。

「敵前逃亡しやがって階級を剥奪した総司令部の奴らからはぎ取ったんだけどな⋯⋯。少尉の階級章は無いなぁ。あぁ、中尉の階級章があったぞ。よし! エステルは、しばらく中尉だ」

 ジルベール少将は、階級章をわたしの胸に付けようとして手を引っ込めた。

「おっと。女の子の胸に触るのは、よくねぇな。自分で付けてくれ。よーし! エステル・ヴァンジェ特任中尉には、王宮守備部隊への食糧配給の指揮をとってもらう。正式な辞令を交付するから心配すんな。ちょっと待ってなよ」

 

 王族の間に戻ったジルベールが、レオンに報告した。

「士官学校のエステルが来ましたよ。王宮の備蓄兵糧をよこせって。ちっこいのに度胸のある娘だ」

「ああ。あいつがいなかったら、兵を餓えさせていたな」

 エステル伍長が指揮した炊事部隊は、親衛隊や警備隊にも食糧を供給した。非常時の食い物のことなんか考えていなかったので、大助かりだ。もちろん王宮守備の最高指揮官であるレオンの耳にも入る。五階の王族の間からでも、エステルが駆け回って指揮しているのがよく見えた。

「王都封鎖は三日が限度⋯⋯。それ以上は、王都民が餓えてしまうか」

「士官候補生のエステルに教えられるとはねぇ。そういやレオンさんは、愚連隊退治の時に、この娘は大物になるって言ってたっけ。どうして分かったんすか?」

 レオンはニヤリと笑った。エステルの仕上がりが、予想以上だったらしい。

「ローザ秘書官、筆記しろ。『王宮最高指揮官命令 王宮内に貯蔵している糧秣の王宮外への持ち出しを許可する。糧秣管理課および関係部署は、王宮守備隊への食糧補給の指揮をとるエステル・ヴァンジェ特任中尉の求めに応じ、最大の便宜をはかること』。よーし、持ってけ!」

 レオンが押印と署名をして渡すと、カムロの少年が紙片をつかんで外で待つエステルの所に駆けていった。その後ろ姿を、ローザ・ノーブル秘書官が見送っている。

 エステルが入校してからさらに美しく、貴族令嬢のような容姿と所作に磨きがかかったローザは、エステルと同じくレオンに見出された孤児であり、エステルの恩人であり、親友でもあった。「ここで一緒に働くことになりそうね」。そう考えてローザは小さく微笑んだ。後にローザは王妃になり、エステルは侯爵夫人になる。


 戒厳令下の三日間、敵の攻撃はなく、逆に最終日に反乱分子の一斉摘発が行われた。

 突入部隊には、必ず二人以上の女子生徒が配置された。貴族令嬢さえ容赦なく拘束する予定なので、女性を縛ったり見張るのが任務だ。女子生徒にも「大逆犯に情け容赦は無用である」と厳命されている。

 戒厳令が解除されると同時にフランセワ王国は、戦時体制に移行した 。

 士官学校生徒は、主力は引き続き王宮守備隊として警戒にあたり、優秀者は司令部要員として配置された。使命感に駆られた士官学校生徒は、最前線に行きたがったが、何年も教育した将来の軍の中核を兵として消耗するわけにはいかない。

 エステルの階級が中尉だったのは、三日だけで、戒厳令が解除されると元の伍長に戻った。

 それまで若干十六歳の特任中尉としてクルクル駆け回って三百人の指揮をとり、王宮守備隊の腹を満たしてくれたエステルは、ちょっとした人気者だった。栗色の目と髪をした可愛らしい少女だ。小柄なので、まだ十五歳にもなっていないように見えた。とても軍人には見えない。ところが特任とはいえ、十六歳で中尉の仕事をこなした。普通は、二十三歳で中尉に進級できれば出世頭だ。

 士官学校の五年の課程を二年で終了し王国大学の聴講生になるほど優秀なのに、エステルには秀才特有の尊大さが全くなかった。軍務を離れると、いつもニコニコしていて人当たりが良く愛嬌がある。レオンが熊でジュスティーヌ王女が鶴だとすると、エステルは雀やリスを連想させた。


 戒厳令が解除されてホッとする間もなく、エステルに招集命令書が届いた。「二十日午前七時に総司令官執務室に出頭せよ」。

 もともと総司令部は別にあったのだが、全軍を指揮するには手狭なうえに敵に急襲されたらアッという間に制圧されそうな造りだったので、レオンは王宮の一階大広間を突貫工事で仕切って総司令部に変えてしまった。ジュスティーヌと結婚式をひらいた場所だ。

 一介の伍長と国軍の総司令官が面会するというのは、異例だ。校長のレオン・マルクス少将とは立場が違う。エステルが副校長に招集命令書を持って行くと、なにも言わず当日の任務を解除してくれた。

 遅刻するわけにいかないので、かなり早く王宮に着いた。顔見知りの王宮門衛さんだけど、招集命令書をじっくりと改められた。総司令官が、こんな女の子に一体なんの用だと驚いたらしい。

 総司令官執務室は、入り口のすぐ近くにあった。普通は地位が高い者は奥の方にいるものだが、出入りに便利だという理由で、門衛の詰め所のすぐ近くを執務室に改造した。総司令官がそんな場所に陣取っているものだから、作戦会議室や司令部付き将校の勤務室も入り口あたりにかたまっている。

 民衆派唯一の高位貴族だったレオンは、それまでも殺人的に忙しかった。軍士官学校校長に納まっても、意味のない行事のたぐいは副校長に任せて、レオンは生徒たちの答案や論文を読むことを好んだ。

 エステルが入校したこの二年ちょっとのあいだに、二人が対面して話したことはない。しかし、群を抜いて優れているエステルの答案や論文を、レオンは、よく読んでいた。

 総司令官執務室のすぐ隣で、軍の伝令兵と特務機関員となったカムロたちが待機している。三十分くらい待って、七時になる一分前に急造のベニヤ板みたいな執務室の扉をノックした。

「⋯⋯入れ」

 殺風景な十二畳ほどの部屋の奥に大きな机が据えられ、レオンが一人で書きものをしていた。剣を二本も立てかけた大机に書類が積み上げられ、レオンの向こうには計画書や地図を保管する資料室があるようだ。

 書類仕事をしていてもレオンの姿は、ギラギラしていてあの愚連隊ブラック・デュークをせん滅し、殺された家族の仇をとってくれた時と変わらないように見えた。エステルは、胸をドンする敬礼をした。脚がふるえる。

「軍士官学校女子生徒部隊隊長、エステル・ヴァンジェ伍長。まいりましたっ」

 レオンは、手を止めエステルの顔をながめ、当たり前のように言った。

「ヴァンジェ伍長は、本日をもって士官学校を卒業とする。少尉として任官し、総司令部付き将校となる。今後は総司令官の秘書の任務についてもらう。すぐ辞令を書くから受け取れ。寮から私物を持って、指定された王宮内の個室に搬入後、ただちに仕事にかかれ」

 エステルは、めまいがした。伍長が大将に反論するなど普通はあり得ない。でも、レオン様は民衆派だ。

「おっ、お言葉ですが。わたくしは、まだ勉強が足りておりません。少尉、まして総司令官閣下の秘書など、力不足です」

 普通の将校なら、怒鳴りつけて命令に従わせて終わりだ。ところがレオンは譲歩した。

「⋯⋯士官学校に未練があるのか? お前には、もう学ぶことはないと思うぞ。まぁ、いい。学籍は残しておく。しかし⋯⋯士官学校を卒業しないと士官にできねえな。とりあえず一階級進級して軍曹だ。オレは忙しい。早く荷物を取ってきて仕事を手伝え」

 否も応もない。レオンもエステルのような逸材は、軍大学校まで進ませてじっくり育てたかった。フランセワ王国の人口は、約千五百万人だ。なのに高等教育機関は王国大学と軍大学校しかなく、学生は全部で五千人しかいない。ちなみに現代日本の学生の数は、約三百万人だ。フランセワ王国に限らず封建社会のセレンティアでは、知識層が致命的に不足していた。だが、もう時間がない。

「あと二十五日で開戦だ。そのつもりでいろ」


 エステルは、思い切り働いた。自分にミスがあったら兵隊が死ぬかもしれない。真剣だ。

 総司令部も人手不足だった。有能な働き手はいくらでも欲しい。エステルの働きを見て、レオンは炊事部隊から優秀な女子生徒を二十人ばかり引き抜いて総司令部の細々した雑務を任せた。総司令部要員は、みんなオーバーワークなので、保守派に近い将校からさえ反対の声は出なかった。

 男ばかりの軍に若い女の子を混ぜたら問題が起こるのではないかという懸念は杞憂に終わった。王宮メイドを犯そうとして殺したプイーレ中尉をレオンがその場でぶった斬った事件が知れ渡っていたからだろう。

 レオンの秘書という立場でエステルは、参謀将校を集めた作戦会議に出席した。参謀たちが驚いたことにレオンは、よく後ろを向いて「これはどう思う?」と小柄で可愛らしい若い秘書に意見を求める。少女は、しばしば「うっ」となるような鋭い意見を述べた。

 レオンと少女は、意見が食い違うと居並ぶ参謀将校たちの前で論争をはじめた。エステルは、自分になにが求められているのか理解していた。総司令官に対して全く遠慮がない。少女の方に理があると判断すると、レオンは自分の意見を引っ込めてエステルの対案を取り入れることもしばしばだった。総司令官付き秘書という役職のエステルだが、実態はレオン・マルクス総司令官の首席参謀だった。

 軍事に関してほとんど知識のない若い国王は、戦争問題ではレオンに絶大な信頼を寄せている。レオンは、貴族の名誉職化していた無能将官を三十人も王宮に呼びつけ、国王の前で勅命として即時退役を言い渡し隠居させた。「この者たちは無能です。退役を申し渡して下さい」とレオンが上奏してリストを渡せば、即日その通りになる。悪徳ブラック企業のようだが、クビになった将官たちは本当に無能だったのだから仕方がない。戦場に出なくてすんで、内心ホッとした者も多かった。

 レオンは、軍事に関しては容赦も遠慮も一切しなかった。大勢の兵の命がかかっているのだ。ほとんどいなかったが、抗議してくる者には「抗命罪と不服従罪で拘束する」と恫喝して黙らせた。軍では、両方とも死刑もあり得る重罪だ。レオンだったらやりかねない。

 レオン・マルクス総司令官による軍部の粛清は、将校団を震撼させた。有能ならば中佐くらいでも将官に進級させ正規軍団の指揮をとらせた。だが、能力不足を露呈すると、どんな高位貴族であろうと、それどころか民衆派であっても容赦なく解任する。

 開戦直前に解任されたら自決ものの大恥だ。経験はあるが知識のない年長の将官と、知識はあるが経験不足の若手佐官は、お互い協力し合って不足する部分を補うようになった。レオンも同じだった。思考が大ざっぱで飛躍のある自分が誤った判断を下さないように、エステル軍曹を目付役につけている。

 実際にエステルは、天才だった。日本で例えるならば、十四歳で東大医学部に首席で合格して、三カ月後には高等文官試験と司法試験と外交官試験にも合格してしまうというレベルだ。

 上官になるレオン=新東嶺風は、東大をスベって東北の田舎国立大学に引っかかった程度だから、秘書の方が頭がよい。まぁ、高校生の時に空港反対闘争にハマって受験勉強を放棄したのだから、頑張った方だろう。ところが本物の天才であるエステルは、レオンを天才だと信じて疑わず、心から尊敬している。

 エステルは、秘書であるとともにレオンの身の回りの世話係でもあった。お貴族様の将官なのに、レオンはまったく手が掛からなかった。ひとことで言えば粗衣粗食だ。

 食事は、地下のメイド部屋からもらってきた黒パンと干し肉を、仕事しながら食べる。飲み物は、足元の土瓶に入れた水を飲むだけだ。

 服装にもまるでこだわらない。軍服に勲章を付けても「邪魔だ」と言い、むしってそこらに投げ捨てたりする。エステルや毎日様子を見にくるジュスティーヌ王女の侍女がどうにか格好を整えた。

 なかなか風呂にも入ろうとしなかった。国王の前で臭かったりしたらまずいので、面倒くさがるのをなだめてエステルと侍女たちが身体を拭いた。さすがに美少女秘書と美人侍女に前を拭かせるのは宜しくないという程度のデリカシーはあるらしく、「自分で拭く」と言って手荒く拭いてから、キャトウ侍女に手ぬぐいを放って「ギャッ!」と悲鳴を上げさせたりしていた。念のために書くと、王族が侍女に全身を拭かせるのは当たり前で、ジュスティーヌ王女もそうしている。悲鳴を上げるキャトウ侍女の方が、王宮では非常識ということになる。

 眠らなくても平気な異常体質らしく、寝ているところを見たことがない。エステルもレオンに合わせて仕事をしたが、一週間で気絶して倒れてしまった。何時間か昏睡して目を覚ますと、レオンから「一日に最低五時間は眠ること」と命令された。

 王宮守備部隊の食糧供給を指揮して駆け回っていた少女が、レオン・マルクス総司令官の秘書に出世した。いつもレオンの後についていて、必要な書類を指示される前に既に取り出していたりする。はたから見ても有能だ。一週間もすると総司令部でエステルを知らない者はいなくなった。

 ところが数百人の総司令部要員に顔を見られたために、エステルが心底おそれていたことが起きてしまった。ずっと、女子軍士官学校に入校した時から、エステルが、ずっと恐怖していたことだ。


 セレンティアでは深夜となる九時ごろ、まだエステルは奥の資料室で書類をまとめていた。なのでノックの音に気がつかなかった。

「ジグリー少佐です。入室いたします」

「おぅ。入れ。どうした?」

 王宮親衛隊第四中隊でレオンの元部下だった男だ。親衛隊の騎士たちは、クーデター鎮圧の功によって一階級か二階級進級し、少佐や中佐になって総司令部の参謀将校や赤軍兵団指揮官に任命されている。レオンは、第四中隊の元部下には口調が親しげになった。

 ジグリー少佐は、入室するや執務室を見まわした。エステルが見当たらないことに、なぜかホッとしたようだ。

「エステルという娘について、お耳に入れたいことがあります」

 書類に向かっていたレオンの手が止まった。

「娘⋯⋯? エステル軍曹のことか。なんだ?」

「えぇ⋯⋯。その⋯⋯。あの娘は、街に立っていかがわしい商売をしておりました。そのような者をお側に置くことは軍の名誉を汚す⋯⋯」

 レオンが顔を上げた。

「ほう。根拠は? なぜ、そんなことを知っている?」

 ジグリー少佐は、少々動揺した。

「いえ、その⋯⋯。何度か客として買いましたもので⋯⋯」

 レオンは、「売春は軍の名誉を汚すけど、買春は清らかなのか?」と言ってやりたかったが、グッとこらえた。

「どのぐらい前のことだ?」

「四年ほど前かと記憶します」

 エステルは、今十六歳だ。だが、この世界には十二歳の娼婦などいくらでもいる。

「数年前にエステル軍曹によく似た娼婦を買った。それが根拠か?」

「いえ、それが⋯⋯。先日夜食をとりに居酒屋に入ったのですが、たまたま隣の席にいた男が、「淫売だった姪が士官学校に入った」とクダを巻いておりました。少し酒を与えたところ、名前は『エステル』だと述べたのです」

 レオンは、小さくため息をついた。どうやってごまかしてエステルを守るか考えている。

「エステル・ヴァンジェ軍曹が、オレが校長を務めていた軍士官学校の生徒であることは知っているな? 士官学校の入校に際しては厳重な身辺調査が行われる。オレの秘書につけた際にも、最深度調査を行ったばかりだ」

 嘘が嫌いなレオンは、身辺調査の結果がどんな内容だったかは、なにも言わない。

「お前には、エステル軍曹を告発する権利がある。だが、保安部の調査資料という公文書がある。勝ち目は無いぞ⋯⋯。本当にその娼婦は、エステル軍曹だったのか? 髪や目の色が似ているだけじゃないのか? エステルの叔父とやらを、証言台に立たせられるのか?」

 ジグリー少佐は、動揺しつつも粘った。

「⋯⋯その、娼婦にはヘソの横にホクロがありました。それを見れば⋯⋯」

 レオンがニヤニヤと笑った。あとひと押しだ。

「エステル軍曹に「ヘソを見せろ」とでも命令すんのかよ? とんだことだな。⋯⋯それにな、フフフ⋯⋯エステルのヘソにホクロなんか無いぞ。任務に支障がでる。もうそれくらいにしとけ」

 レオンの顔をポカンと見たジグリー少佐だが、すぐに総司令官の『愛人』にとんでもないことを言ったことに気づき青くなった。本当はレオンは、エステルの裸に興味などない。もちろん身体の関係なんぞない。ヘソなんか見たこともない。

 ジグリー少佐は、我に返り姿勢を正すと胸ドンの敬礼をした。

「もっ、申し訳ありません! 私の思い違いでした。今後このような間違いを犯さぬよう、慎重に調査したうえで進言させていただくよう肝に銘じますっ!」

「いや、気がついたことがあったら、今まで通り進言してくれ。だが、エステルの妙な噂は、流すなよ。オレの秘書で、ヘヘヘ⋯『世話係』なんだからな。⋯⋯それより戦争が終わったら、第四中隊で戦勝祝いの宴会をしたいもんだな」

 王家守護が任務の親衛隊騎士は、口が堅い。こいつはもう大丈夫だ。

 これほどレオンがエステルを引き立てていたら、いずれレオンの愛人だとかいう噂も立つだろう。遅かれ早かれだ。レオンが引き立てているのは、エステルの才能なのだが。


 戦勝祝いの幹事を引き受けた遊び人のジグリー少佐がレオンの執務室から退出すると、入れかわりに奥の資料室からエステルが出てきた。脚がふるえ顔面蒼白だ。フラフラとレオンの横を通り、大机を挟んで相対した。しばらく黙って床を見ていたが、顔を上げた。

「あっ、あの人の言ったことは、本当です。わたしは、売春をしていました」

 そう言うと脚の力が抜け、その場にへたり込んでしまった。息が荒い。過呼吸だ。

「わっわたしは、汚い、汚いんです。身体が汚れて、心も醜い。みっ、みんなを裏切りました。マーロウもローザもレオン様も⋯⋯。だましたんです。どっ、どうか、わたしを裁いてください」

 レオンは、エステルが街娼をしていた過去など、とうに把握していた。エステルの保護・教育係だったマーロウとローザの二人も、知っている。

 売春婦だったなんて不利な過去を隠すことは、レオンには当たり前に思えた。なので、エステルがこれほど強い罪悪感にとらわれていたことに少々驚かされた。そして、まるでデリカシーがなかった。

「⋯⋯戦争が落ち着いたら、ヘソのホクロをとっておけよ」

 エステルは、まだなにかしゃべろうとした。だが、息が詰まり喉を押さえてしばらく悶え苦しみ、とうとう気絶してしまった。

 レオンは、エステルの才能を高く買っていた。だが、総司令官執務室で二度も卒倒したのがバレたら、秘書を解任せざる得ない。過呼吸で死んだ者はいない。外に出さず、資料室にエステルを運んで床に寝かせておくことにした。幸い深夜だ。誰にも見つからないだろう。レオンは、仕事を再開した。


───────────────


 お父さんとお母さん、それにお兄ちゃんと弟が殺されたのは、わたしの十二歳の誕生日だった。腰を痛めて歩くのが不自由だったお婆ちゃんに店番をお願いして、家族でお食事に行く途中だった。

「あっ! あの屋台のお菓子、すごくおいしいんだ。買ってくる」

「エステル。転ぶわよ。気をつけなさい」

 屋台のおじさんとは顔なじみだ。

「このお菓子、五個ちょうだい」

「あいよ。嬢ちゃん、お出かけかい?」

「うん! みんなでねぇ⋯⋯」

 その時、お母さんの悲鳴が響いた。驚いて振り返ると、お父さんとお母さんが真っ赤になって倒れていた。血の滴った剣を持ってるやつらがいる。愚連隊だ! 愚連隊がやったんだ!

「ヘヘヘ⋯⋯。ガキを逃がそうとしやがった。先に殺しちまったぜ」

「親の前でガキをなぶり殺すのが面白いのにな」

「ははは⋯⋯。たかが下民だ。早く殺せ」

 ジェイ君とケイちゃんが捕まってる。

「へへ、苦しむところをもっと見たかったぜ」

 愚連隊が大きな剣を叩きつけると、ジェイ君の首がもげた。ケイちゃんは、思い切り地面に叩きつけられて動かなくなった。上から剣を突かれ、えぐられている。

「ハハハハ! くたばったな。おい、川に捨てるぞ」

「待てよ。女のガキがいねえぞ」

「知るか。分かりゃしねえよ。へっ!」

 わたしは、家族のところに駆けて行こうとした。行こうとしたんだ!

「おかぁ⋯⋯ひっ!」

 大きな手が肩をつかんだ。振り返ると屋台のおじさんだ。

「嬢ちゃん、はやく逃げなっ。母ちゃんたちは、もう無理だ。はやくっ!」

 ⋯⋯わたしは家族を捨てて逃げた。臆病で卑怯だからだ。

 お家にたどり着くと、お店の前でお婆ちゃんが放り出されて尻餅をついていた。知らない人たちが、お家とお店から荷物を運び出している。近所のおばさんが、棒立ちになっているわたしに気づいて教えてくれた。

「あいつら愚連隊の手先の運送屋だよ。ヴァンジェさんはどうしたんだい?」

 家族は、みんな殺されてしまった。ここにいたら、お婆ちゃんも危ない。お婆ちゃんに肩を貸して、必死で家の前から逃げた。


 王都パシテは、浮浪児でいっぱいだ。文無しのわたしとお婆ちゃんが入りこむ余地なんて、ほとんどない。たどり着いたのは、川沿いスラムの橋の下だった。スラムの中でも一番底辺の場所だ。

 パシテ川は、毒の川だ。いつでも汚物や腐った物が浮いている。臭いもひどい。死体だってよく流れてくる。こんな川に落ちたら病気になり、死んでしまうこともある。決壊した時、スラムの人たちは逃げることができる。でも、橋の下のわたしたちは、毒水にのまれてしまう。

 わたしとお婆ちゃんが橋の下にたどり着くと、そこに住みついている人たちは黙って場所を開けてくれた。大怪我をして働けなくなった人、体が腐る伝染病にかかって棄てられた人、目が見えなくなった人、四歳くらいの骸骨のような孤児、頭が変になってしまった人。そんな世間から見捨てられた人たちが寄り集まって、死ぬのを待っていた。

 お婆ちゃんは、殺された家族とずっとお話しするようになった。わたしのことが分からなくなったみたいだった。腰が悪かったのにひどくぶたれたせいで、自分では歩けなくなってしまった。

 夜が明けると、お婆ちゃんを置いて食べ物を探しに出かけた。野菜屑でも落ちていないかと探したけれど、もうとっくに拾われてしまっていた。ゴミ箱をあさろうとしたけど、グループの縄張りが決まってるって浮浪児たちに追い払われてしまった。

 なにも見つからなかった。お家がないと井戸も使わせてもらえない。住んでいたお家やお店のそばの井戸なら使わせてくれるだろうけど、愚連隊に見つかったらきっと殺されてしまう。しかたなく道端の泥水をすすった。

 半日ウロウロして夕方になった。なんにもならなかった。

 わたしに売ることができるものは、ひとつしかない。


 盛り場の隅にある通りに行った。少し前にお母さんと通りかかったことがあった。昼だったのに、女の人が何人も道端に立っていた。お母さんは、「見ちゃいけません」と言ってわたしの目をふさぎ、足早にその場所から離れた。

 夕方なので、その場所に女の人が大勢立っていた。こわかったので、女の人たちから三十メートルくらい離れたところに立つことにした。 

 すごく恥ずかしかった。だからずっと下を向いていた。男の人が近くを通るたびに、体がビクッとなって後ずさりした。そんなことをしているうちに、気がついたらすっかり夜になっていた。わたしは盛り場から逃げ出した。途中、拾ったお皿に道端の泥水を入れて橋の下に帰った。お婆ちゃんは、まだ家族とお話しをしていた。

 翌朝、起きると大怪我をして傷にウジ虫が涌いていた人が、そばで野垂れ死んでいた。すぐに臭くなるので、何人かで毒川に投げ込んで捨てた。ウジ虫を拾って食べている人がいたけど、わたしには無理だった。

 ずっと食べ物を探して歩き回ったけど、あきれるほどなんにも落ちていなかった。三日も食べていないので、フラフラした。なんとかしないとお婆ちゃんが死んでしまう。まだ明るいけど、盛り場に立つことにした。

 もう、恥ずかしがってなんかいられない。女の人たちから十メートルくらい離れた所に立った。女の人たちは、いじわるな人もいれば親切な人もいた。

 夕方になっても、男の人は通り過ぎるだけで、だれも、わたしを買ってくれる人はいなかった。

「新顔だね。あー。あんた、昨日も立ってただろ。ダメだよ。そんなんじゃ、お客はつかないよ」

 胸の開いた黄色い服のお姉さんが話しかけてきた。荒んだ感じはしたけど、本当は親切な人だった。病気の家族を養ってるって言ってた。

「いいかい。あたしたちは身体を売ってるんだよ。肌を見せなくっちゃ」

 そう言ってわたしの上着のボタンを四つくらいはずした。

「下を向いてちゃダメだよ。顔を見せて。お客が見にきたら、笑って誘うんだよ。誰だって愛想のいい店に入るだろ?」

 死にたいほど恥ずかしかったけど、教えてもらったとおりにした。たいていの男の人は、わたしやお姉さんたちに無関心だった。なかには眉をひそめ顔をそむけて通り過ぎる人もいた。

 顔や体をながめまわすのが、お客さんだった。そんなふうに見られるのは初めてだった。でも、お客さんをとらないと、餓死してしまう。教わったとおりに、笑い顔をつくって見せた。きっと顔がこわばっていたんだと思う。お客さんは、他のお姉さんの方へ行ってしまった。

 何十人もお客さんが通って、そのたびに笑い顔をつくった。だけど誰もわたしを買ってくれなかった。もう暗くなってきた。わたしは必死だった。

 通りかかったお客さんが、わたしの顔を見て、ボタンを開いた胸元を見て、少し迷ってから行ってしまいそうになった。

「おねっ⋯⋯お願いです。わたしを、買ってくださいっ」

 お客さんは、ちょっと考えてからわたしの目の前に指を三本つきだした。

「これでいいか?」

 意味が分からなかったけど、わたしは何度もうなずいた。男の人は、歩き出した。

「どうしたんだ? 来いよ」

 おなかが空いてフラフラした。我慢してついて行くと、三分くらい離れた場所に掘っ建て小屋があった。お客さんが番人におカネを払って、いっしょに中に入った。薄暗くてすえた嫌な臭いがした。シミだらけのベッドがあって、そこでわたしは裸にされた。

 すごく痛くて、すごくすごく気持ちが悪かった。笑ってないといけないのに、少し泣いてしまった。

 血が出ているのを見てお客さんは、驚いたようだった。笑いながら四千ニーゼくれた。お客さんが出てってからも、なんだか寒気がしてしばらくベッドの上でふるえていた。おカネを握って外に出ると、もう真っ暗だった。盛り場のお店でお水と黒パンを買って、橋の下のお婆ちゃんのところに帰った。お婆ちゃんにしがみついて泣きながら眠ってしまった。

 つぎの日は、気持ちが悪くてなかなか起きられなかった。お婆ちゃんが家族のみんなと話す言葉を聞きながら、寝たり起きたりしていた。でも、夕方には盛り場に行った。

 指三本は、三千ニーゼという意味だそうだ。⋯⋯わたしが初めてで血が出たので、四千ニーゼくれたみたいだ。お姉さんたちは、「初物だったら、一万ニーゼはとらないとねぇ」と言って笑った。でも、そんなこと、わたしには分からない。

 それからわたしは、毎日盛り場に立って身体を売った。一日立っても売れない日があったし、お客さんが二人つく日もあった。まだ身体が小さいので、二人もお客さんをとると痛くなって苦しかった。赤ちゃんができたらどうしようとお姉さんに相談したら、生理というのがくるまでは妊娠しないと教えてくれた。

 新入りは目こぼししてもらえるけど、毎日立っているとヤクザに場所代を払わなければいけなかった。一日千ニーゼで、払わないとピンク色のランプがついたお客さんのくる場所から追い出されてしまう。何日もお客さんがとれなくておカネが払えず、殴られるお姉さんもいた。

 ヤクザなんかよりこわいのが警備隊だった。突然やってきて取り囲み、警棒でみんなを脅した。カバンや袋の中身を地面にぶちまけて、おカネを取り上げた。服を脱がされポケットも調べられた。なかにはどこかに連れて行かれて犯されたお姉さんもいた。

 おカネを持っていないと大勢の人が観ている中で数珠繋ぎにされ、地区警備隊の牢屋に入れられてしまう。一日で出てくるお姉さんもいれば、一カ月も閉じこめられたお姉さんもいた。なんでこんな差がつくのか、誰にも分からなかった。

 何度も何度も警棒でぶたれて気絶してしまったお姉さんがいた。運ぶのが面倒だったんだと思う。お姉さんを置いて警備隊はどこかに行ってくれた。盛り場にお店や屋台を立てている人は、お姉さんたちに同情していた。好きで売春なんかしてる人なんて一人もいない。みんな事情を抱えていることを知っていたからだ。気の毒そうに見ていた屋台のお兄さんが、お姉さんを抱き起こしてくれた。その時、こう言うのが聞こえた。

「もう、こんな商売やめなよ⋯⋯」

 でも! でもっ! だったら、どうやって生きていけばいいのっ!

 わたしも逃げ遅れて、警備隊に捕まってしまったことがある。蹴飛ばされて転び、背中を警棒でぶたれた。ぶちながら、「きたない」とか「にんげんのくず」とか「はじしらず」とか叫んでた。すごくこわかった。ポケットの奥に隠していた五千ニーゼを出して、ひざまづいて差し出して、「ゆるしてください」って泣きながらたのんだ。おカネをむしり取って警備隊は、どこかに行ってくれた。背中が青く腫れ上がり、何日も痛かった。でも、おカネを取られてしまったので、売春は休めなかった。

 警備隊よりこわいのは、お客さんだった。あの黄色い服のお姉さんが、お客さんをとってどこかに行くのを見かけた。数日後、お姉さんが首を絞められて殺されたって聞いた。やってきた警備隊は、「恥知らずな淫売は、不潔だから、死んだほうが街がきれいになる」って言ってた。犯人を捕まえる気なんて全然なかった。

 黄色い服のお姉さんは、わたしに親切にしてくれた。それに病気の弟たちを養うために売春してたって言ってた。お姉さんが死んだから、きっと弟たちも餓死してしまっただろう。わたしたちは不潔だから、死んだほうがいいんだろうか。

 わたしだって売春の小屋に入ったとたん、お客さんにぶたれたことがあった。床に倒れたら、お腹を蹴られた。殺されるかもしれないと思って、這いつくばってふるえていた。お客さんは、わたしの頭や背中を笑いながら踏んづけた。抵抗しないで泣いていたら、しばらくしておカネを投げて出て行ってくれた。

 お客さんに、耳飾りごと耳たぶを引きちぎられたお姉さんもいる。血が出るくらい乱暴にされることも多い。知らない男の人と密室に入るのは、すごくこわかった。

 親切なお姉さんにこぼすと、少し考えて古着屋さんに連れて行ってくれた。

「アンタの格好は、いいところの嬢ちゃんがお出かけしてるみたいだよ。それじゃあねぇ。淫売のコツはね、たくさんお客をとって、いいなじみをつくるのさ」

 紅色で胸の開いたワンピースを持ってきてくれた。

「ほら。着てごらん」

 着替えるとお姉さんは、満足そうにうなずいている。スカートの丈が短く、なんだかすごく下品で、『売春婦』という感じがする服だ。

「あの⋯⋯。この服は、ちょっと⋯⋯」

「まだ嬢ちゃん気分が抜けないのかい。いいかい? あたしたちは、身体を売ってるんだよ。この服はね、看板なんだ」

 そうだ。わたしは売春婦なんだ。売春をしてるって一目で分かる服を着ないとダメだ。売春婦の制服を着て盛り場に立ち、お客さんを誘わないといけないんだ。

 わたしは、靴を売っておカネをつくり、この服を買った。

 紅色の売春婦の服は、たしかに効果があった。薄暗い街頭でピンク色のランプに照らされ、胸の開いた赤い服を着て娼婦の笑いでお客さんを誘うと、今までよりたくさんお客さんがとれた。いい場所をもらうために、ただでヤクザの相手もした。わたしは、どんどん汚くて卑しくなった。

 どんなに気持ちが悪くても、お客さんの求めることをして娼婦の笑いを浮かべていれば、お客さんは満足して優しくしてくれる。気持ち悪い物を口の中に出された時は、えずいて吐き出しそうになる。でも、必死に我慢して飲みこむ。そうしてお客さんを上目づかいに見て笑うと、お客さんも満足そうに笑って千ニーゼ余計におカネをくれることもあった。でも、お客さんが小屋から出て行くのを待って、口の中に指を差し込んで吐いた。涙がぽろぽろ出た。

 他にもたくさん汚らしいことをしたので、なじみのお客さんができた。なかには親衛隊の騎士様までいた。安くて手軽だって笑ってた。お客さんがとれない日は、ほとんどなくなった。おかげで、少しはお客さんを選ぶことができるようになった。いつも死にたいと思っているのに、ぶたれたり殺されるのがこわいなんて、自分でもおかしいと思う。

 少しずつおカネを貯めて、毒川が増水する秋がくる前に、スラムの橋の下から物置小屋に引っ越すことができた。長雨をしのいでも、やがて冬が来る。引っ越しができなかったら、お婆ちゃんとわたしは、野垂れ死にしていただろう。

 お婆ちゃんは、なんだか小さくなった。あの日からずっと夢の中で家族とお話をしている。お仕事が忙しいお父さんやお母さんに代わってかわいがってくれていたのに、もうわたしのことは分からなくなってしまった。

 わたしを買った人は、五百人を超えると思う。気持ち悪い行為にだんだん慣れてしまい、気持ち悪いと感じられなくなっていく自分が、気味悪くておそろしかった。

 お婆ちゃんが家族のところに行ってしまったら、わたしもついて行こうと決めていた。ケモノみたいになったわたしを見て、お父さんは怒るだろうか? お母さんは泣くだろうか?

 ⋯⋯本当は、本当は、早くお婆ちゃんが死んでくれないかなんて、よく考えた。売春なんかしているから、心まで人間ではなくなったのかもしれない。

 わたしが盛り場に立つようになって一年くらいたった頃だった。その日も夕方から紅色の売春婦の制服を着て、物色にくるお客さんにいやらしい娼婦の笑いを返していた。

 お客さんか通行人か、簡単に分かる。その人は通行人だった。わたしなんかには全然関心を持たず、通りすぎていった。でも、通りすぎてから、ビクッとなって振り返った。足早に戻って来ると、わたしの顔を見て驚いている。

「⋯⋯エステル? エステルじゃないか! なにをしているんだっ!」

 その人は、叔父さんだった。身内にこんな姿を見られたのが恥ずかしくて、わたしは下を向いて泣いてしまった。叔父さんは、わたしの手首をつかむと盛り場から引っ張っていった。

 五分も歩けば盛り場から出る。通りがかった人たちが、ジロジロと見ていた。うす暗くなっていたけど、紅色の売春婦の服は、ものすごく目立つ。こんな服を着ている女がどんな商売をしているか、子供でも分かる。

「おっ、叔父さん。着替えさせて。⋯⋯恥ずかしい」

 板塀の裏に回って、家族が殺された日に着ていた服に着替えた。あれから一年以上たったのに、服は小さくならず、逆に大きくなったような気がする。栄養不良のせいで、身体の成長が止まったんだろう。

「ついてこい」と言うと叔父さんは、怒ったみたいにずんずん歩いていった。わたしは、小走りになって追いかけた。十分ぐらい歩くと青果市場に着いた。門番が立っている。浮浪児が入ろうとすると、棒でぶたれて追い返されてしまう。でも今日は叔父さんの後について行ったので、青果市場に入れてもらうことができた。

 門から少し歩くと事務所の小屋があった。叔父さんが入って、事務の人に声をかけている。わたしも後について入った。

「主任はいないか?」

 背の低い男の人が立ち上がった。

「⋯⋯なんだ。珍しいな?」

 なんだか叔父さんを警戒しているみたいだ。

「おまえ、市場で荷運びを使ってたよな。この子、どうだ?」

 そう言って叔父さんは、わたしの背中を押した。主任さんは、わたしをジロジロ見た。

「おっ、お願いしますっ! いっしょうけんめい働きますっ!」

 もう売春しなくてすむなら、なんだってする。やれといわれれば靴だってなめるし、毒川に飛びこむことだってできる。

「間に合ってるんだが⋯⋯。ずいぶん小さいな。荷運びが務まるか?」

「大丈夫ですっ。もう十三歳です。がんばりますからっ。いっしょうけんめい働きますからっ!」

 叔父さんが口添えをしてくれた。

「なあ、たのむよ。落ち着く前はいっしょにヤンチャした仲じゃないかよ」

 しばらく主任さんは、わたしと叔父さんを見比べていた。「ちっ」と小さく舌打ちした。

「仕事は、朝四時から夕方六時までだ。市場で野菜を運ぶ。日当は千ニーゼだ。雨の日は仕事はない。それでいいなら、明日から来い」

 降って湧いたような幸運! 天に上るみたいだ。

「あっ、ありがとうございますっ。わたし、いっしょうけんめい働きますっ!」


 事務所から出ると、叔父さんはどんどん行ってしまった。ついて行こうとすると、手をあげてパッパッと払うしぐさをした。ついてくるなっていうことだ。

 ⋯⋯それはそうだ。売春婦なんかと歩いているのを誰かに見られたら、叔父さんまで汚いと思われてしまう。叔父さんの後ろ姿が門の向こうに消えるまで、何度も何度もおじぎをした。それから二度と叔父さんとは会っていない。

 孤児がちゃんとしたお仕事をもらえるなんて、奇跡みたいだ。翌日から市場で荷運びの仕事をした。届いた野菜を競り場に運んだり、落札された野菜を八百屋さんの荷車に運んだりする。手にマメができ、マメがつぶれて手のひらが血だらけになった。すごく痛かったけど、売春なんかよりずっとマシだ。もう売春婦に戻りたくない。明け方から暗くなるまで必死で働いた。

 日当は、一日千ニーゼだった。売春すれば、ヤクザや警備隊にとられてしまっても二千ニーゼくらいは残る。収入が半分になってしまったら、やっていけるか心配だった。でも、青果市場には野菜屑がいっぱい落ちていた。それを拾って食べれば、なんとかやっていけた。

 でも、長雨が続くとお仕事がないので困ってしまった。一週間も雨が続いた時は、お腹が空いて我慢できず五日目に市場に行った。

 仕事なんかないことを知っているのに、門番の人はわたしを見逃して入れてくれた。それはわたしが、よごれた人間だからだ。

 売春婦だった時は、いやらしい笑いでお客さんを誘った。今は、『一生懸命働いている明るい健気な女の子』を演じて、市場の人たちにニコニコと愛嬌を振りまいて媚びた。誰かクビになるとしたら、力の無いわたしが最初だって分かっていた。もし市場の偉い人に身体を差し出せと命じられたら、いわれたとおりにしただろう。だって、ヤクザにはその通りにした。

 雨の中、だれもいない市場を歩き回り、隅のほうに落ちていた野菜屑を拾った。二日ぶりになにか食べられると思うと嬉しかった。「おつかれさまでぇす」と、いつも媚びている門番の人に『明るい健気な女の子の笑い』を投げ、びしょぬれになって物置小屋に帰った。

 長雨の時期が終わると、やがて冬になった。お布団なんてない。寒かった。このままでは、お婆ちゃんもわたしも凍死する。だからわたしは、盗みをはたらいた。

 倉庫の隅に野菜を入れる大きな麻袋が積んであった。麻袋の中にパンパンになるまで他の袋を詰めこんだ。麻袋をかつぎ、荷物を運ぶふりをして門を出た。いつものようにニコニコと門番さんに挨拶したけど、本当は全身から冷や汗が出た。お家に着くと、大家さんからハサミを借りて麻袋を切り、お布団にした。ゴワゴワして寝心地は悪いけど、これでもう凍え死ぬことはない。

 わたしは、盗んだ。わたしは、泥棒だ。わたしは、ひどいことをした。仕事を紹介してくれた叔父さんを裏切った。雇ってくれた主任さんを騙した。多くの人の親切を踏みにじった。誰かが一生懸命働いて作った物を盗みだした。恥ずかしい。苦しい。わたしは汚い。こんなに辛いのに、卑怯だから死ぬこともできない。だったらせめて、心を殺そう。心が無くなったら、きっとなにも感じないでいられる⋯⋯。

 

 市場の仕事にありついてから十カ月たった。お家に帰ると近所の人たちが、マルクス隊長の王宮親衛隊が愚連隊の根城に斬り込んで戦闘になっていると大声で話をしていた。

 家族を殺したやつらが死ぬ姿を見たい。お婆ちゃんに肩を貸して、わたしは愚連隊の根城に向かった。


「こいつが、お父さんと、お母さんと、弟たちを殺しました。笑いながら、お父さんと、お母さんと、ジェイ君と、ケイちゃんを殺して川に投げ込んだんです」

 マルクス隊長は、膝をついて目線を合わせてきた。

「名前は?」

「あの⋯、エステルです」

「いい名前だ。何歳だ?」

「もうじき十四歳に⋯⋯⋯⋯」


───────────────


 目を覚ますと、奥の資料室に寝かされていた。総司令官が運んでくださったんだろう。公爵様が平民を運ぶなんて⋯⋯。

 勇気を出して資料室から出た。総司令官はまだ仕事をなさっていた。

「起きたな。三時間休みをやる。自室で寝ろ。五時に総司令官執務室に出務すること」

 レオン様は、わたしを許してくださるつもりだ。でも、いずれまた同じようなことが起きる。だからもう、軍にはいられない。

「わ⋯⋯わたしは、汚れています。心も身体も汚れてるんです。軍の名誉をけがす存在です。閣下にも、大変なご迷惑を⋯⋯」

 レオン様は、うんざりしたように手を振った。

「おまえは、王国大学の聴講生だったな。オレの講義にも出ていた。いったいなにを聴いてたんだ?」


 立ち見がでるほど大盛況のレオンの講義だが、エステルは公務なので最前列で受けられた。エステルの横には、パシテ大神殿の神官や学者貴族が座り、後ろが特待生や軍大学校士官の席だった。小柄で十四歳くらいに見える少女が、軍服を着て特等席で講義を受ける姿は目立った。

 売春婦だった過去の自分を知っている学生がいるのではないかと怖ろしかった。だが、ほとんどの学生は貴族だ。ジグリー少佐のように好んで下等な街娼を買うような物好きは、そうそういなかった。それに軍服を着ると、別人のように見えるものだ。

「講義したはずだぞ。人間が社会をつくるのではない。社会が人間をつくる。おまえが汚れているなら、それは社会の汚れの反映だ。個人の責任ではない」

「で、でもっ、限度があります。わたしのしたことは⋯⋯汚いっ!」

 この世界では、エステルのような悲惨はめずらしくもない。元々エステルは、家と店舗を持つ裕福な両親に育てられた。出身階層は中の上といったところだ。それが婆さんと一緒に、一気に社会の最下層に突き落とされた。エステルの知恵と行動力がなければ、二人とも数日で死んでいただろう。

 社会の最下層にまで突き落とされた平民の少女を、社会の最上層にいる王族のレオンは、噛んで含めるようにオルグした。

「『悪いことをしてまでメシを食ってはいけない』と説教を垂れる奴がいる。だが、そいつが善人でいられるのは、餓えていないからだ。腹が減ったら、どんな人間でも正しくはいられない。弱い者が、餓えにさらされて悪に染り死んでいく現状は、社会の構造がそう仕組まれているからだ。オレは、そんな社会を打ち壊し、つくりかえる。いつまでも続く真綿で首を絞めるような棄民政策を許さない。そのために敵を倒す。邪魔をするやつは殺す」

 王国大学の講義やレオンの普段の言動を知っていれば、この男がそんなことを考えているのは明らかだ。だが、「口だけだろう」という楽観、準王族という地位と権力、そして軍と親衛隊の暴力がレオンを守っていた。

 レオンは本気だ。戦争だけでなく、社会を覆す革命までやるつもりだ。それに気づいているのは、妻のジュスティーヌ王女、ラヴィラント宰相、ジルベール前線司令官、そしてローザなど数人のカムロ幹部くらいだろう。

 レオンはエステルに、人間の精神が社会をつくるのではなく、社会が人間の精神をつくるのだと教えた。


「人間の物質的生活を決めるのは社会の経済的機構である。この土台の上に、法律的政治的上部構造がそびえ立ち、また人々の意識もこの土台に対応する」(マルクス『経済学批判序説』)


 エステル・ヴァンジェは、社会機構の圧力で娼婦に堕されたのだとレオンは、説いた。

 女奴隷が鞭打たれて犯されるのも、平民が餓死か身体を売るかを選ばされるのも同様ではないか。そんな選択を迫ったのは社会なのだから、エステルには、なんの罪もない。そして、自分を売春街に追いこんだ社会を転覆する権利がある。


「財産の差が生じるにつれて (- 略 -) 女子の職業的な売春が、奴隷の強制された肉体提供とならんで現れるようになる」(エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』)


 レオンは、エステルを煽った。レオンは、ただの男ではない。この国の最高権力者のひとりで、軍事学、哲学、医学、数学、それに剣術の天才とも謳われている。空論ではなく、思想を実現できる地位と能力がある。

 なによりプロパガンダやオルグ技術を使って人の心を捉えるのがうまかった。もともとこの世界にはプロパガンダはなかった。アジ・プロにスレていないので、エステルのような高知能の相手でも容易に落とすことができた。

 あの黄色い服のお姉さんを殺したのは、現象的には殺人犯だが、本質は社会機構だ。警備隊は「淫売が死んだら社会がきれいになる」と言ってたじゃないか。社会が底辺者への殺人や餓死を是認しているのだから、殺される側にも、抵抗し、反撃し、殺し、そんな社会を打ち壊す権利がある。

 エステルが、なにを求めているか見抜いたレオンは、パズルをはめ込むように報復のイデオロギーを注入した。レオンのカムロ組織の導きで、エステルは、軍人になった。軍人は、人を殺すのが仕事だ。

「おまえは、やられっぱなしで引っ込むような人間じゃないだろう。おまえの力が必要だ。オレと革命戦争をやるんだ」

 泣きそうになってうつむいていたエステルの顔に、やがて笑みが広がった。それは娼婦が客を誘う笑いでもなければ、野菜屑を拾うため青果市場のチビ権力者に媚びる笑いでもなかった。腹の底、心の奥から浮かんだ本物の笑いだ。

 エステルは、十六歳になっても生理がなかった。十二歳から一年も売春を続けていたせいで、子供を産めない身体になったのだと考えていた。そして身体だけでなく心まで壊されていた。上手に隠していたが、エステルの心に熱があるとすれば、それは憎悪だった。「復讐⋯⋯できる。わたしを踏みにじったあらゆるものに、大切なものを壊した奴らに、復讐できる。死んだっていい。なんだってする。どんなことでもやってやる!」。

 のちに西方領主領戦争と呼ばれることになるこの戦争は、『明』のレオン・マルクスと『暗』のエステル・ヴァンジェの二人が主役といえる戦いになった。

 レオンは、革命の第一歩として奴隷解放を名分に領主貴族を根絶やしに滅ぼすと公言し、その通りに実行した。ところが、子供を殺すことだけは避けようとした。子供が好きだったし、子供は罪のない白紙であり未来であると考えていたからだ。

 エステルには、レオンのようなセンチメンタルな道徳性はなかった。相手が何者であろうと敵と認識したなら、あらゆる手段を使って死に追いやろうとした。敵の死は、全ての問題を解決するからだ。自分は救いようがなく汚れているのだから、レオンさえ嫌がる最も汚い仕事に手を染めようと考えた。


 エステルは、憑き物が落ちたような本物の笑顔を見せて胸ドンの敬礼をした。

「五時に軍務に復帰します。二度と任務を放棄するようなことは致しません」

 エステルは、執務室のドアを開けて出ようとしたが、立ち止まって少し迷い、レオンを振り返った。

「⋯⋯どうしてわたくしを、これほど助けて下さったのですか?」

 もうレオンは、書類にあれこれ書き込んでいて顔も上げない。

「親衛隊や軍は、慈善団体じゃないぞ。早く休め」

 エステルは、レオンの方に数歩戻ってきた。

「愚連隊を倒した時に、祖母を抱えて動けなくなったわたしを、マーロウとローザは『エステル』と呼びかけて手助けしてくれました。あの時、あの場所で、わたしの名前を知っていた人は、レオン様だけです」

──────────────

「名前は?」

「あの⋯、エステルです」

「いい名前だ。何歳だ?」

「もうじき十四歳に⋯⋯⋯⋯」

──────────────

 今度は顔を上げたレオンは、苦笑していた。

「よく覚えているなぁ。助けたのは、おまえに育てる価値があると判断したからだよ。だがな、マーロウやローザの親切は、任務の枠を越えた本心だぞ」

 マーロウやローザが声をかけてきた最初から、どうして自分の名前を知っているのか不思議だった。でも、これを訊いたらみんなとの関係が切れてしまいそうで、怖かったのだ。

「⋯⋯ありがとうございました。ご期待に応えるよう最善を尽くします」


 エステルがレオンの執務室から退室してから一時間後、カムロの暗殺部隊『SY』のリーダー、ハサマが呼び出された。

 日常的に餓死者がでるほどの悲惨の極にあった浮浪児を救済するとともに、街の噂を集めていたカムロ組織は、わずか四年で製紙工場や印刷所を擁する数千人規模の企業体となった。カムロの裏の顔は、特務機関でありレオンが育てた私兵団だ。任務は情報収集と政治宣伝が中心だが、破壊工作・テロ・暗殺に特化した非公然部隊を持っている。

 ハサマは、レオンの前に立って右手で握りこぶしを作り頭の横に置くカムロ式の敬礼をした。

「オレの秘書のエステル・ヴァンジェは知っているな? やつの係累図だ。持ち出しは許可しない。暗記しろ」

 レオンは、大机ごしに書類を渡した。ハサマは、黙って受け取った。非合法活動家は、余計なことを言わないし訊かない。

「エステルの叔父がいるな?」

「はい。母親の弟ですね」

「殺せ」

 ハサマは少々驚いた。

 保守派貴族には殺人鬼のように思われているレオンだが、襲われたのを返り討ちにしたり、民衆を好き放題に殺していた愚連隊を倒したりはした。しかし、悪事を働いたわけではない非武装の人を殺したことはない。

 失脚させられた時でさえ、非合法・非公然組織を持っているのに、政敵の暗殺に手を染めていない。政治的な主張が異なるからといって、そいつらを個人テロで殺しても、きりがなく無意味だからだ。

 この殺人は、SYの初仕事になる。なぜ?どうして?という質問はしてはならない。ただ任務を果たすだけだ。

「静かにやりますか? それとも見せしめで派手に殺しますか?」

「静かにだ。時間はかかってもかまわない。絶対にSYの関与を疑われる痕跡を残すな。目撃者は最小にしろ。ターゲット以外を殺してはならない。命令は口頭で行え。文書に残すな」

 ハサマは、握りこぶしを頭の横に置くカムロの敬礼をして執務室を出た。


 レオンは、エステルの叔父のような小物は見逃すつもりだった。しかし、居酒屋でエステルが街娼だったことをベチャクチャしゃべくるようでは、話しは違ってくる。

 エステル軍曹を育てるのに、三年という時間と相当な労力と資金がかかった。それに、もう手放せないほど有能だ。

 愛人疑惑のある女性秘書が売春婦だったということが知られたら、必ず軍の名誉がどうとか騒ぐやつがでるだろう。これから戦争をしようという軍の総司令官としては、打撃になる。

 軍部の粛清を断行したために、軍内にもレオンの敵は多い。こんなことを口実に肝心な時に総司令官を解任されたら、戦争が中途半端に終わってしまう。今までの苦労が水の泡だ。

 エステル・ヴァンジェは、三回も身辺調査をされている。カムロ組織が保護・育成を始めた時、女子軍士官学校を受験した時、そして総司令官秘書に抜擢された時だ。

 調査で一番注目されたのは、エステルが売春をしていたことではない。愚連隊に親兄弟が殺された事件だ。

 ヴァンジェ一家は、明らかに狙い撃ちに殺されている。エステルが殺されなかったのは、たまたま菓子を買いに離れていたからだ。祖母は、腰を痛めて残ったために命拾いした。

 調査してもヴァンジェ一家には、愚連隊との繋がりはなかった。愚連隊は、雇われてヴァンジェ一家を皆殺しにしようとしたのだ。だれが依頼したのか? カネの流れをたどれば簡単に割れた。

 エステルが自宅に逃げ帰った時、すでに家財の運び出しがされていた。ヴァンジェ一家が皆殺しになることを知っていた者が、遺産を相続したテイで早々に売り飛ばしたのだ。買い主は、ルイワール公爵家がバックにいるヤクザ不動産屋。売り主は、エステルの叔父だ。

 死んだはずのエステルが街娼をしているのを見て、さぞやたまげただろう。無力なエステルの姿に、罪悪感をなごませようと職を世話したのが、文字通りの命とりになった。

 殺人教唆は、殺人と同罪になる。財産目当てで一家四人を殺したら、まず死刑だ。だが、裁判に引き出すと、どうしても娼婦だったエステルの過去が明るみにでてしまう。カネを与えて口をふさぐのは⋯⋯、カネだけ受け取って酒場でいい気分でしゃべるだろう。

 これから戦争で大量殺人をしようというレオンに、こんな程度の殺しをためらう理由はない。

 エステルをこれ以上の人間不信にしないため、叔父の件は教えないことにした。だが、エステルは、そんなに甘い人間ではなかった。

 かわいらしい容姿からは全く窺い知れなかったが、この少女は、旧社会とそれを構成する人間に対して、心の底から憎しみを抱いていた。この憎悪は、『敵』と見なした者に対する冷酷さと、容赦のない残酷さとなって現れた。

 エステルは、レオンとはまた違う種類の怪物だった。自分の心を守るため、他者への同情心や共感性を圧殺していたのだ。天才だったエステルは、そのために創造性や独創性を失い、教条主義者になった。エステルにとってほとんどの人間は、モノだった。そうしなければ、エステルは、狂うか自殺していただろう。

 十二歳のエステルにとって『死』は救いだった。ピンク色に染まった街頭に毎日立ちながら、ずっと死にたいと思いつめていた。一年以上もそんな境遇にあったために、エステルは、死を怖れなくなっていた。

 エステルにとっては、人間も石コロも同じだ。だから、どんなむごたらしいことでも石を転がすように淡々とこなせた。石のはずなのに、敵を殺すと強いカタルシスを感じた。

 もしも、クーデターの時に脱走した同期生がいたら、逃亡を企てた敵として顔色も変えずに背中から斬り殺したはずだ。周囲は、普段のにこやかで物柔らかなエステルとの落差に恐怖しただろう。


 この世界に四十万人もの民衆軍を動員する戦争は、かつて無かった。

 最大の問題は、四十万人を支える補給だった。それまでの補給は、せいぜい荷車に食料を乗せて運び、無くなったら戦地から引き上げるというものだった。レオンは、継続して食糧と武器と兵員を前線に送り続ける兵站という考えを持ち込んだ。

 兵站を構築し時刻表のような補給計画を立てる能力があるのは、子供の頃から現代日本の勉強をしてきたレオン=新東嶺風と、天才であるエステルしかいない。もしエステルがいなくなったら、レオンひとりでは膨大な補給計画を支えきれない。兵站は崩壊し、四十万人の部隊は立ち枯れてしまう。

 エステルのような悲惨は、他にいくらでもあった。当時のレオンには、全ての浮浪児を救う力はなかった。役に立ちそうかどうかで、選別するしかない。レオンが非合法のテロまで行使してエステルを助けるのは、慈善や同情ではない。戦争にエステルが必要だったからだ。


 これまでの戦争は、いうなれば陣取り合戦だった。戦争は短期で、民衆と切り離された封建領主軍同士がぶつかった。勝った側は、領土を奪ったり敵国に譲歩させたりした。

 レオンと、その教えを受けたエステルの戦争は、次元が違った。敵を倒すだけでは済ませない。

 レオンとエステルの戦争は、千年も続いてきた社会の土台を打ち砕き転覆しようという革命戦争だった。その手段は、国力の全てを戦争に動員する総力戦と、可能な最大限の暴力を行使し敵を完全に打倒するまで戦う絶対戦争だ。

 総力戦と絶対戦争の思想をレオンは、隠そうともせずに軍大学校で士官学生に公言していた。

 ⋯⋯ほとんど全員が、思考実験だと受けとめていた。だが、レオンは本気で革命戦争をやるつもりだ。


「共産主義者は、自らの意図や信条を隠すことを軽蔑する。共産主義者は、いっさいの社会秩序を暴力的に転覆することによってのみ自己の目的が達成されることを公然と宣言する。支配階級よ、共産主義革命の前に戦慄するがよい」(マルクス / エンゲルス『共産党宣言』)


 どの国でも政府や軍部にはスパイが潜入している。大国の軍事高官であるレオンの発言は、諸外国にも伝わった。本気でそんなことを実行するつもりなのか半信半疑だった世界は、現実となったレオンの戦争を目の当たりにして戦慄するだろう。

 それまでセレンティアは、中世的な静止した平和が保たれていた。しかし、レオンのあけた蟻の一穴が堤を決壊させた。歴史が動きだしたのだ。その最初の段階が、奴隷解放戦争だ。



 女神歴二十七年十二月十六日。フランセワ王国王都パシテ。パシテ王宮『王族の間』。

 深夜三時に国家の中枢ともいえるこの場所で、儀式が行われた。実質的な意味はない形式的な儀式なので、参加は強制されない。しかし、歴史的瞬間を見ようと、深夜にもかかわらず王宮にいるほとんどの貴族が王族の間につめかけた。

 王座に国王シャルル一世。王妃座に姉王女のジュスティーヌ国王補佐が非常時正装で着席している。簡素な服なのに美しかった。王妃座の横には、夫のレオン・マルクス公爵が軍服に帯剣して立った。勲章を廃し、略章を付けている。国王の斜め後ろに王位継承順位二位のジョルジェ第五王子、ジュスティーヌ第三王女の斜め後ろに王位継承順位四位のシャルロット第五王女が着席している。

 フランセワ王家直系の王族は、四人だけだ。たった一カ月前には、九人いたのに。三人殺され、一人自殺し、一人は敵対国に追放された。

 王家といっても父王の賢明で温厚な性格もあって、それなりに仲が良く円満な家族ではあった。そんな父と兄たちを惨殺されたフランセワ王家の、領主貴族に対する憎悪は深い。

 時間がきた。国王の斜め後ろに立っていたローザ・ノーブル秘書官が澄んだ声を上げた。

「公爵レオン・ド・マルクス総司令官。国王陛下がお召しです」

 以前のレオンだったら王座の間から飛び降りたかもしれない。しかし、四年も王宮暮らしをしているうちに、横に回って階段を降りる程度の常識は身についていた。

 国王の前に立ち、軍司令官として呼ばれたので、軍隊式の胸ドンの敬礼をする。

「レオン・マルクス。お召しにより参じました」

 シャルル一世国王が、小さくうなずいた。

「総司令官、我が軍の準備は完了したか?」

「全軍、準備が完了しております」

 再びシャルル一世が、うなずいた。数秒間目を閉じる。やがて口を開いた。

「フランセワ王国軍総司令官に命ずる。フランセワ王国軍は、予定の行動を開始せよ」

 レオンは再び胸ドンの敬礼をした。「とうとうやった⋯⋯。やってやった。戦争だ」。

「フランセワ王国軍は、本日四時より西方領主領地域において作戦行動を開始します」

 いつの間にかレオンの斜め後ろにエステル・ヴァンジェ軍曹が立ち、公文書用の用紙を広げている。

「総司令官命令⋯⋯⋯⋯⋯⋯えぇっと⋯⋯」

 レオンは、数千の書類の山に埋もれている。いい加減訳が分からなくなってきた。エステルが、秘書の仕事をした。

「⋯⋯第九十二号です」

「総司令官命令第九十二号 西方方面軍は本日四時より所定の作戦行動を開始せよ」

 もうひとつ。念押しを忘れない。

「総司令官布告 この戦争は奴隷制の根絶を目的に行われる。我が軍は解放軍として行動しなければならない」

 開戦命令と布告をエステルが筆記し、レオンに捧げ渡す。受け取ったレオンは、指輪になっている総司令官の印章をこの紙に押印する。この瞬間、戦争が始まった。もうだれにも、国王にさえ止めることはできない。

 三百年ぶりの本格戦争だ。予定の儀式なのだが王族の間は、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。

 内務大臣

「フランセワ王国は、戦争状態に入った。総督、代官、街区長、村長等の自治体首長に、軍にあらゆる便宜をはかるよう通達しろ。赤軍の編成に協力を惜しむな」

 外務大臣

「フランセワ王国軍は、西方地域を占拠している武装集団に対し戦闘を開始した。我が国は戦争状態にあると各国大使館に通告しろ。ブロイン帝国大使を呼べ」

 大蔵大臣

「大蔵省徴税徴発部隊は、軍部隊に追随し、領主貴族が隠匿した財貨・物資を没収、後送する。金銀貨のみでなく絵画や宝石類も没収せよ」

 法務大臣

「武装法務部隊は、西方地域において奴隷とされていた者に対する犯罪の証拠を収集し、犯人の身柄を確保。抵抗する者は処刑せよ。軍人は軍法務部に引き渡し、民間人の容疑者のみを後送する」

 文部大臣

「全ての貴族高等学院は、午前の授業で、この戦争の意義について特別講義を行うこと。本日以降、体育は軍事科目とする。健康な四、五年生の男子には、放課後二時間の軍事教練を義務づける」

 この文部大臣は、失脚したレオンが文部政務次官をしていた時の上役だ。気のいい爺さんだが、アッという間にレオンに実権を奪われた。穏健保守だったのに、戦争になったら張り切った。

 儀式を終えたレオンとエステルは、さっさと総司令官執務室に引き上げた。

 熱に浮かされたような狂騒の王族の間で、宰相のラヴィラント伯爵だけが唯一冷静だった。

「宰相官邸において、関係省庁の戦争政策調整会議を行う。各省事務次官は八時に集合のこと」

 たった今、レオンに開戦を命じた国王シャルル一世は、この騒ぎを目の当たりにして内心激しく動揺した。本当に内戦を避けることはできなかったのか? 無理だ。個人の力ではなく、なにか大きな流れが、この国を戦争に引きずっ ていった。


 カラン! カラン! カラン! カラン!


 王宮の外で、振り鐘を鳴らしている音がする。新聞屋をまかせられたレオンの手の者が、号外を出したのだ。一緒に『赤軍宣言』と『戦争宣言』を配っている。

「開戦! 開戦! 戦争だよ! 国王陛下とレオン総司令官が、奴隷使いどもを退治するよ~! 開戦っ! 奴隷解放戦争だーっ!」

 目を覚ました群衆が王宮前広場に集まってきた。なにか叫んだり手を振ったりしている。日が昇るにつれてどんどん人が増え、群衆は数十万人にふくれ上がった。

 ギリギリまで訓練していた後衛の赤軍部隊が、赤い軍旗を掲げ革命歌『同志よ固く結べ』を高唱しながら王宮前を通って戦場に向かう。人々が花を投げ、喝采を送る。

 この曲は、奴隷解放の歌としてレオンが作詞したことになっている。『プロレタリア』とはなんなのか、この世界で知っているのはレオンしかいないのだが。


 同志よ固く結べ 生死を共にせん   

 いかなる迫害にも あくまで屈せず

 われらは若き兵士 プロレタリアの


 固き敵の守りを 身もて打ち砕け

 血潮に赤く輝く 旗をわが前に

 われらは若き兵士 プロレタリアの


 朝焼けの空仰げ 勝利近づけり

 搾取なき自由の国 たたかいとらん

 われらは若き兵士 プロレタリアの


 暴虐の敵すべて 地にひれ伏すまで

 真紅の旗を前に たたかい進まん

 われらは若き兵士 プロレタリアの



 歴史を前進させようとする『正』の流れと、それを止めようとする『反』の流れの衝突。個人の思惑を越えたこの対立・闘争から、どのような『合』が導かれるだろうか。

 しかし、紙幅がつきた。それらを書くのは、次巻以降にしよう。


『異・世界革命Ⅲ』に続く

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異・世界革命Ⅱ 空港反対闘争で死んだ過激派は異世界で革命戦争を始める 北のりゆき @tanukikun0325

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