第6話 急襲

「――ふぅ」


 祈りが通じたのか、ジャイアント・スライムの巨体は通り過ぎ、やがてぼくは触手の範囲外に出ることができた。


 一生分の運を使い果たした気分だった。


 だけど、まだたった一つの死線を運よく越えたに過ぎない。


 この階層には、他にも強力なモンスターが棲んでいるだろう。ジャイアント・スライムも一体だけとは限らない。


 背負っていたリュックの中身を確かめる。


 食料と飲み物は、予備を含めて二日分を持ってきていた。当初は丸一日かけて十階層までの道のりを往復するつもりだったが、途中の五階層で道子さんに出会って引き返したため、今手元にある分は一日と半分ほどである。

 二十九階層よりも下の階層にいることを考えると、この量は心もとない。


 だけど、たとえばそう。二十四階層よりも上の階層に何とかしてたどり着くことができれば、他の冒険者に出会える可能性が出てくる。事情を話して助けを求めれば、食料や飲み物を分けてもらえるだろうし、地上まで送り届けてくれるだろう。


 ――諦めるにはまだ早い。


 ぼくは岩陰から身を出して立ち上がる。


 全くの運だったが、さっきジャイアント・スライムから生き延びたという事実が、ぼくの心に少しばかり勇気を与えてくれていた。


「よし、行くぞ」


 ジャイアント・スライムが去っていったほうとは逆方向へと歩き出す。


 周囲にモンスターがいないか、警戒しながら進んでいく。

 このレベルの階層になると、戦闘になった時点で即死確定だろう。

 どれだけモンスターに見つからずに進めるかが鍵になる。


「道子さんがいればなぁ……」


 迷宮案内ダンジョンガイドのユニークスキルを持つ彼女がいれば、この階層からでも高い確率で生還できるに違いない。


 って、ないものねだりをしてもしょうがない。


 今頼れるのは自分だけなんだから。


 ――どれくらい歩いただろうか。


 一休みしようと岩陰に腰を落ち着けたところで、それは起きた。


 ゴゴゴゴゴゴォ――。


 巨大な洞窟が、まるで生きているかのように震え始めたのだ。


 ぼくは咄嗟に立ち上がろうとするが、揺れが大きくてうまく立ち上がれない。


 そばの岩を支えにして、ようやく立ち上がったとき――。


 ドガァァァン!


 ものすごい音がして、前方の岩の壁が吹き飛んだ。


 咄嗟に岩陰に身を隠す。


 強烈な勢いで飛んできた壁の破片がいくつも真横を通り過ぎ、中にはガンッ、ガンッと音を立てながら、ぼくが隠れた岩にぶつかってくるものもあった。


「――ぐっ!」

 どうやら大きな岩が飛んできたらしく、ぼくが隠れていた岩が、底から抉れるようにして割れてしまった。


 岩に殴られるようにしてぼくは後ろに吹き飛ばされ、地面を転がった。


 幸いにも岩の下敷きになることはなかったが、ごつごつとした岩場の上を転がったため、体のあちこちが痛かった。


 ギュガガガガ――!


 洞窟全体が震えるような雄叫び。


 ぼくは見た。ジャイアント・スライムが可愛く見えるほどの、凶悪かつ強大なモンスターを。


 それは、一言で表現するなら、巨大なムカデだった。


 圧倒的な硬さを感じさせる黒い装甲が全身を覆い、口元には巨大で鋭い牙が覗いている。噛まれたら即死だろう。


 書物ですら見たことのないモンスターだった。


 巨大ムカデは頭部を天井近くまで持ち上げて、眼下のぼくに狙いを定めているようだった。


 ダンジョンの壁を突き破って現れるなど、低い階層ではあり得ないことだ。

 いや、そもそも低い階層にはダンジョンの壁を突き破れるほど強力なモンスターがいないと言うべきか。


 ここは、低い階層で培ってきたぼくの常識が通用しない世界なのだ。


 とにかく逃げないと!


 ぼくは走り出した。


 恐怖で体が動かないことはなかった。あまりにも唐突な出来事だったので、何が何やら分からないうちに走り出した、といった感じが強かった。


 走って、走って、走って、走った――とにかく前を見て走り続けた。


 頭上を見上げることはしなかった。見上げた途端に巨大ムカデが襲いかかってくる気がした。


「――っ!」

 だけど、ぼくの逃走は長くは続かなかった。

 ぼくの行く先に、ぬっと巨大ムカデが頭部を下ろしてきたのだ。体はゆらゆらと波打っている。

 巨大ムカデの頭部に行く手を阻まれて、ぼくは立ち止まるしかなかった。


 ぼくと巨大ムカデは真正面から顔を合わせた。


 にやり、と巨大ムカデが笑った気がした。弱者であるぼくを弄んで楽しんでいるのだと分かり、ぞっとした。


 このモンスターは高い知能を持っている。


 口を開けて、ギュイイイ――と嘲るような声を出したかと思うと、長い尾をしならせて振るってくる。


 ドガンッとぼくのそばに尾が打ち付けられた。


 飛び散った岩の破片がぼくを襲った。


「――がっ!」

 立っていられず、地面を転がった。


 ギュイイイ――と巨大ムカデが嘲笑の声を上げている。


 圧倒的な戦力差だ。


 このまま為す術もなく、弄ばれながら殺される……。

 そんな未来が頭をよぎった。


 それでいいのか?


 ――いや、いいはずがない。

 ――だけど、どうすればいい。


 立ち上がったぼくを、同じように岩の破片が襲った。

 ぼくは地面に転がった。

 巨大ムカデの嘲笑う声が聞こえる。


 ――勝ち目はゼロに等しい。

 ――だったら、諦めるのか?


 ぼくは立ち上がった。

 飛んでくる岩の破片で地面を転がった。


 ――好奇心が冒険者を殺す。

 ――それは冒険者を戒める意味の他に、もう一つの意味も込められている。


 ぼくは立ち上がる。

 岩の破片で膝をつく。


 ――冒険者は、死ぬまで好奇心を持ち続けろ。

 ――ぼくは、ありったけの好奇心で想像する。

 ――この巨大な化け物から生き延びたら、ぼくにはどんな未来が待っているのかと。


 ぼくは、立ち上がる。


 ギュギギギギ――!

 巨大ムカデが初めて軋むような音を出した。何度攻撃しても立ち上がってくるぼくにイラついているようだった。


 頭部を高く持ち上げて、威嚇してくる。

 ギュガガガガ――!


 洞窟全体が、まるで巨大ムカデに怯えるように震えた。


 内臓を鷲掴みにされ、上下に揺さぶられたような気持ち悪い感覚がぼくを襲う。


「――負けるかぁあああ!」

 両脚を踏ん張って耐える。ここで死ぬのだとしても、最後まで足掻いてやる。


 ぼくの決意を嘲笑うかのように、巨大ムカデは頭部を猛烈な勢いで近づけてくる。

 ゴオッと風を切る音がした。

 巨大な鋭い牙がぐんぐんと近づいてくる。


 ぼくは死を覚悟して、思わず目をつむった。どれだけ自分を奮い立たせても、やっぱり死ぬのは恐かったのだ。


 キュインッ!

 死の代わりにやってきたのは、そんな甲高い音だった。


 恐る恐る目を開けると、ぼくの前に青い半透明の壁のようなものができていた。

 その壁が、巨大ムカデの突進を受け止めていた。


「な、なんだ!?」

 ぼくはこんな防御スキルは持っていなかった。


「――これか?」

 首に着けていたペンダントが青い光を放っていることに気づく。

 どうやらこのレアアイテムの効果らしい。


 ペンダントは一際強い光を放つと、巨大ムカデの突進を弾き返した。


 ギュガッ!

 巨大ムカデが大きく退いた。


「す、すごい」

 あの突進を弾き返したペンダントの力に感心したが、どうやら一回限りの効果らしい。

 ペンダントは光を失い、元は青かった水晶が黒く変色していた。

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