第5話 暗転

 九階層まで潜ったことのあるぼくにとって、四階層までの道のりは楽勝だった。


 それに、さっき道子さんと帰りに通った道を逆から進んでいけば、モンスターに出会うことはほとんどなかった。モンスターとの遭遇回数がゼロじゃなかったのは、モンスターも移動しているからだろう。


「確か、この辺りだったはず……」

 壁を手探りしながら進んでいると、隠し空間は間もなく見つかった。


「よし!」


 緑色の光に包まれた空間が目の前に広がる。


「確か、奥のほうって言ってたよな」


 通路を奥へと進んだ。


「――あった!」


 宝箱だ。

 わくわくしながらふたを開けた。


「お! これは!」

 入っていたのは、青い水晶が埋め込まれたペンダントだった。おそらく装着者に何らかの補助効果を付与するアイテムだろう。

 どんな補助効果かはギルドで調べてもらわないと分からないが、着けておいて損はないだろう。


 ぼくはペンダントを首に巻いた。


「よし。帰るか――ん?」

 踵を返そうとしたところで、道が左のほうへ続いていることに気づく。


 まだ奥があるのか。


 ちょっと確かめてみよう、くらいの軽い気持ちだった。


「――うわっ!」

 前しか見ていなかったため、凸凹している地面に躓いて、盛大に転んでしまう。


「いたたたた……」


 痛みをこらえて立ち上がり、奥に進んだ。


 もう一つ宝箱があった。


「お!」

 嬉しさに声を上げる。


 宝箱のふたに手をかけたところで、小首を傾げる。

「道子さん、宝箱が二つあるって言ってたっけ? 二つあるなら教えてくれそうなものだけど……。単に言いそびれただけかな」


 気にせず、ふたを開けることにした。


「――ん? どういうことだ?」

 ふたを開けても、中には何も入っていなかった。空っぽだ。


 誰かが先に持ち去った? だけど、手前の宝箱には中身が入ってたし、こっちの宝箱の中身だけを取っていったというのも変だよな……。


 そんなことを思って首を傾げていると、突然の浮遊感に襲われた。


「――っ!」


 足元を見れば、さっきまで立っていた床が消えていた!


「――うわぁあああ!」


 長い筒状の物の中を滑り落ちていく。

 ものすごいスピードだ。


 とても長い時間が経った気がする。


 ドガッと音を立てて、ぼくはしりもちをついた。


「いたたたた……」


 お尻の痛みに顔をしかめながらも、ゆっくりと立ち上がる。


「ここは……」

 見たことのない光景だった。


 巨大な洞窟で、天井は見上げるほどに高い。三十メートルはあるだろうか。紫色に輝く岩々が洞窟の壁を覆っていて、辺りには不気味な雰囲気が漂っている。


 足元もごつごつとした岩でできていて、歩きにくい。


「何階層だ……?」


 四階層から下に落ちたので、五階層よりも下の階層だというのは間違いない。

 九階層までなら潜ったことがあるが、こんな雰囲気の場所は見たことがなかった。

 となると、十階層より下の階層だろうか……。


 こめかみを汗が伝う感覚があった。


 今思えば、直前に開けた宝箱はトラップだったのだ。ぼくはまんまと引っかかって、こうして下の階層に放り込まれてしまった。


 街でぼくがダンジョンに引き返そうとしたとき、道子さんは何かを伝えようとしてくれていた。あれは、宝箱の近くにトラップがあるから気を付けて、ということを教えてくれようとしていたのだろう。ちゃんと最後まで話を聞いておけばよかった。今更後悔しても遅すぎるけど……。


 ぼくは周囲の様子を窺った。


 ……恐ろしいほど静かだ。


 何とかして地上に戻らなければ。


 そうだ! さっき落ちてきた穴から上に行けば、四階層に戻れるんじゃ――。


 穴があったと思われる場所の近くを隈なく探してみたが、どこにも見つからなかった。


 ひょっとすると一方通行で、穴は閉じてしまったのかもしれない。


 こうなると、地道に一つずつ上の階層へ続く階段を見つけていくしかない。


 ぼくは辺りを見回した。

 

 どうやらこの辺りは一本道のようだ。分かれ道は見当たらない。

 しかし、右と左、どちらに行けば上の階層に繋がる階段があるのかが分からない。


「うーん……」

 

 一か八か右のほうに進もうかと思ったところで、突然悪寒に襲われた。


「――っ!」

 咄嗟に岩陰に身を隠して、警戒レベルを最大限に引き上げる。


 なんだ――何か近づいてくる……。


 しゅー、しゅー、と、空気が吐き出されるような音がする。


 岩陰から顔だけを出して、洞窟の先をじっと見つめる。


「――っ! そんな……」

 現れたモンスターを見て、戦慄した。


 十メートルはあろうかという巨大な紫色のスライムが、ゆっくりと近づいてくる。


 長い触手を伸ばして、辺りの岩を溶かして体内に取り込んでいる。先ほど空気を吐くような、しゅーという音は、岩を溶かす音だったのだ。


 ぼくはあのモンスターを知っていた。幼い頃から冒険者に憧れて、過去の冒険者たちが書いた様々な本を読んできた。その中にあのモンスターのことも書かれていた。


「……ジャイアント・スライム」


 間違いなく強力なモンスターだ。ぼくが足元にも及ばないほどに。


 圧倒的な強者を目の前にした恐れはもちろんあった。

 だが、それにも増して恐ろしかったのは、今ぼくがいるこの階層にジャイアント・スライムがいるという事実だった。


 ぼくが読んだ本に書かれていた一文を思い出す。


 ――ジャイアント・スライムは、二十九階層から四十階層に生息している。


「ははっ……ははははは」

 もはや笑うしかない。


 ジャイアント・スライムがいるということは、ぼくは少なくとも二十九階層にいることになる。最悪、ここは四十階層だ。


 ようやく九階層まで潜れるようになったばかりのぼくが、生きて帰れるとは到底思えない。


 それに、もう一つ――ぼくが抱いていた淡い希望も、完膚なきまでに砕け散ってしまった。

 ――偶然居合わせた他の冒険者に助けてもらう。

 場合によったら、そんなこともあり得るかも――そんな淡い希望を抱いていた。


 だけど、その可能性はなくなった。


 なぜって、現在最強と言われるパーティーでも、二十四階層までしか到達できていないからだ。他の冒険者がぼくのいる階層にやってくるはずがないのである。


 二百年ほど前には、今では信じられないような伝説の冒険者パーティーが複数存在した。〈漆黒の七傀儡しちくぐつ〉や〈八色紅はちしきこう〉などというパーティー名だったらしい。

 彼らはダンジョンの奥深くまで潜り、多くの記録を書物として残した。ぼくがジャイアント・スライムについて知ったのも、彼らが残した本を読んだからだ。


 彼らはどのような最期を迎えたのか。


 ダンジョンで強力なモンスターに殺されたという話もあれば、ダンジョンの最深部に到達し、寿命が尽きるまでダンジョンで暮らし続けた、なんていう御伽噺のような伝承もある。


 本当のところは分からない。


 ぼくとしては、彼らがダンジョンの最奥にたどり着いたという話が、夢があっていいなと思っているけど。


 いずれにせよ、彼らのような強い冒険者は、この二百年間現れていない。


 しゅー、しゅー。


 岩を溶かす音が段々と大きくなってきた。


 死、という現実がすぐそこまで迫ってきている。


 ぼくは気持ちを落ち着かせようと、腰に着けていた両親の形見のブローチに触れようとした。


 ――ない!?


 どうやらブローチをどこかに落としてしまったらしい。


 ――どこだ!? どこに落としたんだ!?


 辺りを見回すが、ブローチはどこにも見当たらない。


 ――落ち着け、落ち着くんだ。


 今は探している場合じゃない。死が間近に迫っているんだ。


 ぼくは再びジャイアント・スライムを岩陰から見つめる。


 到底敵う相手じゃないし、他の冒険者の助けも望めない。

 絶望的な状況だ。


 だけど、それでもぼくの頭は、どうやったら生き延びることができるだろうかと、気づけば考えている。


 ジャイアント・スライムの進む速さ自体は大したことがない。走ればぼくのほうが速いくらいだ。


 問題は、奴の触手だった。


 先ほどから周りの岩を次から次へと溶かし吸収している触手は、どうやらかなり伸びるらしく、伸縮速度も速い。ぼくが全速力で走っても、逃げ切れる気がしない。


「……運に任せるしかないか」


 ジャイアント・スライムは周りの岩を溶かしながら進んでいるが、岩の数が多く、通り過ぎる岩をすべて溶かしているわけじゃない。


 少ない数ではあったが、溶かし残しがあった。


 冒険者として情けない話だが、どうやらこのまま岩陰に隠れて、ぼくのいる岩が溶かされないことを祈るのが、最も生存率が高そうだった。


 生存率が高いと言っても、雀の涙ほどの確率ではあるが。


「――っ!」


 ついにぼくがいるほうへ触手が伸びてきた。


 近くで見ると触手はかなり大きく、伸びる速さも尋常じゃなかった。むやみに岩陰を飛び出して逃げようとしていたら、見つかってすぐに溶かされていただろう。


 しゅー。


 ぼくの隠れている岩のすぐそばに触手が付着し、紫色の岩々が溶かされていく。


 このジャイアント・スライムの体が紫色をしているのは、この辺りの岩を取り込んでいるからだろうな、などとどうでもいいことを考えて、恐怖を紛らわせた。


 触手が持ち上がり、別の場所へ岩を求めて飛んでいく。


 来るな、来るな、来るな、来るな――。


 真横を通り過ぎる巨体を横目に見ながら、ぼくは懸命に祈り続けた。

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