第50話「逆行」

「はぁっ……はぁっ……」


 私は走り続ける。


「……あっ……ぐっ!」


 なにかにつま先を引っかけてすっ転んだ。ずっと外出なんてしていなかった所為で、地面に手を着くこともできなかった。胸から叩きつけられて苦しい。せっかくの服も泥だらけになってしまった。


「……くっ」


 それでも、私は起き上がって走り出した。逃げなければならない。殺させないために。


 私たちはもうこの集落にはいられない。4年もここでバレずに生活してきた。このままずっとここにいられると考えていた。しかし、そうはならなかった。……それでも、この子は殺させない。私が殺されることになっても。


 目的地は、南にある私の故郷。


 そこにいけば私は殺される。しかしここではこの子も殺される。それなら、私はこの子とあの人のために、故郷に向かうしかない。そう考え、私はあの人と4年間暮らした家を飛び出して走り続けた。



 *



 洞窟の前までやって来た。4年前、私は故郷からここまで来て力尽きた。それを、あの人が拾って看病してくれた。もしも私を見つけたのがあの人じゃなかったら、私はとっくに殺されていたのだろうか。


 そうであれば、あの人と結ばれることは無かったし、この子が生まれてくることも無かった。そう考えると、恐ろしい気持ちになった。昔、殺されると悩み続けていた頃とはまた別の恐ろしさ。


 この子が殺されることに比べれば、自分の死なんてなんともない。


 私は覚悟を決めて洞窟の中に入っていった。


「……はぁっ……はぁっ」


 真っ暗な洞窟の中を、灼賜術の炎を頼りに走って進む。本当は賜術なんて使いたくない。この子に怪我を負わせてしまうかもしれない。それでも、この暗闇の中を進むにはそれしかなかった。私は両腕で包むように我が子を抱きかかえながら走る。


 ずいぶん走り続けてきたが、一向に出口の光は見えない。走って抜けるにはあまりにもこの洞窟は長い。何度か後ろを振り返って耳を澄ます。追って来ている様子はない。


 追っ手は諦めたのだろうか? もしそうだとしても、戻るわけにはいかない。私はまた、故郷に向かって走り出そうとした。その時。


 前から、誰かがこちらに向かってくるのに気づいた。誰かはわからないが、隠れるところなんてない。そもそも炎の明るさでとっくに気づかれているだろう。


 私は動けずに立ち竦んでいた。すぐに目の前まで誰かはやって来た。真っ黒い髪をした2人。


 こんな髪色の人を私は見たことが無かった。すぐに気づいた。私を殺しに来たのだと。


 ……いや、違う。恐ろしさに呑まれてはいけない。ここはまだ、大丈夫。私が狙われるのは故郷に着いてからだ。


 私は2人を無視して通り抜けようとした。


「……その子供、混じり物か」


 横を通り過ぎようとしたとき、1人が呟いた。


「なら、今のうちに殺してしまうか」


(――!)


 私は走り出した。しかし――。


 私の正面には突然、黒い壁が出来上がった。すぐに出来上がった黒い壁に炎をぶつけてみるが、壊すことはできそうになかった。これでは、故郷へ進めない。


 仕方なく、私は追っ手の来ていなかった集落側に向かって走り出した。誰か、この子だけでも助けてくれる人がいるかもしれない。そう信じて。


「……ふん、追うぞ」


 そんな声が背後から聞こえた。私は振り返ることもなく走り続けた。


 来る時よりも炎の明るさを抑えて走る。追っ手が来ていてもなるべく気づかれにくいように。


 走るのも賜術も数年ぶりだ。私はとっくに限界だった。へとへとになりながら走り続けていると、前から光が見えた。来る時よりもだいぶ早く入口に着いたのかと一瞬錯覚したが、すぐにそれが人の持つライトの光だと気付いた。


 と、そのとき、足がもつれた。同時に、足に激痛。走っていた私の体は、ぴたりとその地点に縫い付けられた。


 下を見ると、黒い何かがせり上がり、私の体を次第に飲み込んでくる。とても痛い。黒い何かは、私の体の中にもめり込んできているようだった。


 痛みに表情が歪む。だけど、だからこそいま動かなければならない。黒い何かはもう私の腰辺りにまで登って来ていた。


(この子を……巻き込むわけにはいかない……!)


 私は全力で、両腕に抱えていた我が子を放り投げ、手放した。しかし大した距離は投げられなかった。それでも、私からは多少離れた距離に転がる。


(これなら、届かない……!)


 黒いなにかは私を飲み込んでいく。それを眼前の男が呆然としながら見ていた。この男のことなんてどうでもいい。私は地面に落としてしまった我が子を見た。


 ずっと黙っていたが、泣き出してしまっていた。当然だ。むしろ今まで泣いていなかったことの方が不思議なくらい。


 全身を黒い何かに飲み込まれかけている。もう痛みも気にならない。それでも口が動かなくなる前に、最後に言いたかった。


「――――ごめんね……。一緒にいて、あげられなくて……」


「……愛しているわ、マディエス――――」


 よかった、言い切ることができた。どうせ、この子に伝わることはないけれど、最後にどうしても口にしておきたかった。



 *



 ……もうピクリとも動けない。なにも見えないし聞こえない。意識も薄れてきた。


(――ごめんなさい、マルテリクさん。この子を、助けてあげられなくて……)


(それでも、あなたたちに出会えて私は、幸せでした――)


 そう最後に頭の中で唱えながら、暗闇に落ちていく感覚に私は身を任せた。

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