第49話「順行」
ある日、僕は子供を籠の中に隠して連れながら散歩をしていた。まったく日に当たらないのは体によくないと考えてのことだった。
ふと、前の方から誰かが歩いて来るのが見えた。隠れるべきか迷ったが、その人物が誰なのかを認識した僕は、決心してこちらからも歩んでいった。
その人物は寡黙で不愛想だが、頼れる友人だった。そんな彼に僕は無礼を働いた。それを謝罪しようと思った。そして、今度こそちゃんと相談して、助言でも貰いたいと思っていた。
「……やぁ、ダルタ。久しぶりだね。少し、話したいことがあるんだけど、いいかな?」
正面まで来て立ち止まった彼に僕は問いかけた。
「ああ、賜術のことだろう? こちらで調べさせてもらったよ」
! わざわざ調べてくれたのか。それなら話が早い。相談したいことは山積みだったから、彼がその気になってくれているならとてもありがたいと、その時は思った。しかし。
「それだけではない。お前の近辺の情報も全て調べ尽くしてある」
「……? 例えば……?」
すぐに期待は嫌な予感に変わった。いつも寡黙な彼だが、いまは寡黙と言うより冷血に見えた。
「賜術の国から来た少女を匿っていることも、子供ができたことも知っている」
「……!」
彼は全て調べ尽くしてあると言っていた。こちらの事情は全て把握しているようだった。
「そ、それを知って、お前はどうするつもりなんだ?」
僕は恐る恐る尋ねた。
「……わからない。……いや、わからなかった。だが、お前のことを権者に告発したいま、俺には任務が与えられている。俺がするべきことは、その任務を遂行することだけだ」
そう言うと彼は僕を無表情に睨みつけてきた。それで僕はようやく気付いた。彼はたしかに僕の友人だった。しかし、いまはもう違う。
彼はずっと僕のことを友人だと思ってくれていたのだろう。いままで、彼にこんな眼を向けられたことなんてなかった。彼は不愛想でも、不愉快な態度を僕にとってきたりはしなかった。
いまの彼の僕を見る眼は、友人を見るものではない。同情も憎しみも、殺意も籠っているわけではない。ただ、こなすべき任務の対象を見る眼。
「……任務って、なんだ……? ……僕を殺すのか?」
僕は冷静を装って尋ねる。
「お前だけではない。お前たち全員だ」
彼は事もなげにそう言った。
「……っ!」
僕はさすがに怒りが込み上げてきた。しかし、彼の眼を見ていると、怒りはただ恐怖に変わった。
例えば、自動で動いている機械の可動部に足を挟まれてしまったとして、無慈悲に足を締め上げてくるその機械に対して、怒りの感情は湧かないだろう。そこにあるのは、そんな状態に嵌ってしまったことへの後悔。そして、自分では停止させることがかなわない状況と、それが導く結果に対する恐怖だけ。
「……くっ!」
僕は恐怖に負け、その場を逃げ出した。居住地を走り、隠れながら自宅にまで戻ってきた。
「セレナィア!」
椅子に座って本を読んでいた彼女の名前を呼んだ。
「マルテリクさん!? どうしたんですか! 急に! 大きな声を出して!」
彼女は本を置いて、楽しそうに大きな声で返してきた。産後はかなり荒れていたが、最近は陽気さを取り戻しつつあった。それなのにこんなことになるなんて……。
「すまない、セレナィア。その子を連れて、逃げてくれ!」
「逃げる? 何からですか? どこにですか?」
彼女はまだ状況を理解してくれない。
「君たちの存在が集落にバレた! 君たちを殺すためにこれから刺客がやって来る! だから、逃げるんだ! 君の故郷に!」
「!」
ようやく彼女は状況を理解したようだった。
「な、なんでですか!? ここなら、殺されないって!」
「……すまない、僕のせいだ。僕が身勝手に彼を突き放したから……。……とにかく、その子を連れて逃げてくれ!」
そのとき、玄関の扉が開けられた音がした。まずい、来てしまった。
「い、いや! あっちに行ったら殺される! ……せめて、マルテリクさんも一緒に逃げて!」
俺は玄関の方を向く。もうすぐにここまでやって来る。俺は少しでも彼の足止めをしたい。彼女たちが逃げられるように。
……仕方ない、こんなことを言うのは夫失格だろう。だがそれでも、生きていてほしい。
「……向こうで殺されるのは君だけだ! その子は狙われない! その子のために、ここから逃げてくれ!」
「――っ!」
ようやく、セレナィアは子供を抱えて窓へ向かった。こなれた手付きで窓を開けると、そこから洞窟の方に向かって駆け出した。一瞬、こちらを振り返ったときに見えた彼女の目には、涙が溜まっていた。
もし彼女が出会ったときのままだったなら、おそらく僕の意図を汲んで逃げてはくれなかっただろう。
彼女は、『故郷にいれば殺される』という偏執を抱き続けている。もちろんそれはいまも変わらない。……しかし、僕の考えではそれはおそらく彼女の思い込みだ。彼女は別に命を狙われたりはしていない。家族にも、かつての少年にも。
それでも彼女の中では、『故郷にいれば殺される』というのは真実に他ならない。それなのに彼女は故郷に向かって走り出した。自分の命を擲ってでも、あの子を守るために。
彼女は最後に僕のことを見た。恨みの眼だっただろうか? いや、違う。あとから僕にも来てほしいという願いの眼だった。
すまないが、それはダメだ。僕はここに残らなければならない。彼女は一生、殺される恐怖に苛まれながら生きていくことになるだろう。それでも僕はここに残らなければならない。
眼前には、かつての友人の姿がある。しかし、目線は開け放たれた窓の方を向いていた。行かせない。彼女たちのところには。
僕はタガネを取り出した。あいにく武器になりそうなものはこれしかない。ここでできるだけ時間を稼ぎたい。そう考えてこちらからは動かず、彼が動くのを待った。
すると彼は僕には目もくれず窓の方に歩いて行こうとした。
「! 行かせない!」
僕は両手でタガネを掴み、彼に向かって突き刺そうとした。しかし、彼はまるで初めからわかっていたかのように隠し持っていたナイフでタガネを弾き、バランスを崩した僕の首筋にナイフを突き刺した。
彼は噴き出す血を浴びることなく僕から離れ、僕には目も向けず、そしてなにも言わずに窓から出て行った。
……たったこれだけで終わりなのか。足止めなんてまったくできていない。これで彼女たちは、逃げ切ることができるだろうか?
体はもう動かない。これ以上もうなにもできそうにない。
憎しみも恐怖も、もうなくなっていた。これから死ぬというのに、頭の中にあるのは後悔と彼に対する申し訳なさだけだった。
……いや、やめよう。最後には彼女たちのことを考えていたい。
彼女とはもう4年くらい一緒にいた。その間も彼女は偏執から解放されることはなかったが、それでも変わっていった。子供が生まれた時の取り乱しようはかなり久しぶりだった。しかし、それでも次第に彼女なりに折り合いを付け、ちゃんと子供と向き合ってくれた。
子供も可愛かった。僕は家にいれないことも多かったが、それでもはっきりと顔を覚えている。やはり彼女に似ていると感じた。
彼女と子供の顔を同時に思い浮かべる。
大きくなったら、どんな子になったのだろうか。僕にはもう想像しかできない。顔は彼女に似ているとして、身長はどうだろう。彼女も僕も、身長は普通だ。それなら子供も普通くらいだろうか。
次第に頭に思い浮かべていた彼女たちの顔が、よりはっきり見えるようになってきた。まるで夢の中のようだった。もう自分が眼を開けているのかどうかもわからない。
目の前の彼女たちに向かって僕は謝る。助けてあげられなくて、ごめんと。
もう二度と会えないと思うと、悲しい。
しかしそれでも、いまこうして彼女たちの顔を見ながら死んでいけることが、僕には幸せに思えた。
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