アルカロイド

明日香みのる

アルカロイド


1

 決まって思い出すのは、白馬村の遠く透き通った冬の青空だ。くり抜いたみたいに浮かぶ雲の白色が濁っていないのを不思議だとも思わなかったけれど、ただ、すとんと決めたのは、30歳になったらここで自分を終わりにしたいということだった。


「しばらくお休みしましょうか」

 無駄に広い、会議室みたいな診察室で先生が言った。穏やかな口調に、私は冷静に頷いたつもりだったが、もしかしたら泣いていたのだろうか。息が苦しかった。

 どうでもよくなっていたのは本当で、こんなところ来るべきじゃなかったんだと何度も自問自答した。会社を休む手続きなんて無視して、黙って消えてしまえばよかったのに、自分の中にはそれを許さない蔦が絡みついていた。

 きちんとお金を払って診断書を受け取った帰り道、都営地下鉄の改札をくぐってしばらくベンチに座り込んでいた。目の前を通り過ぎてゆく人たちをずっと睨んでいた。どうして私は人並みに幸せに暮らせないんだろう。押し付けがましい恨みだった。段々と気力がなくなり、諦めたような気持ちで電車に乗る。診断書の写真を撮って上司に送れば、明日から1ヶ月会社に行かなくてよくなるらしい。何を間違えて、私は今このレールの上を走るのだろう。

 車内の電光掲示板でふと目に入った、明日夜流星群のピーク、という文字が網膜から脳に伝わって情報として処理されていく。考えたことはたった一つだけだった。星を見たい。


 新宿発白馬村行きのバスは11月というシーズンもあってか空いていた。スキーには早くキャンプには遅いちょうど隙間の時期なのだろう。到着予定は22時半で、席に着いてからようやく送迎付きのロッジを予約した。サービスエリアごとに降りて、徐々に冷たくなっていく空気を吸った。東京ではできない深呼吸が、山奥の人口道ではできるのが不思議だった。

 バスターミナルと呼べるかギリギリの小さなプレハブ小屋の前でバスが止まる。降りるのは私だけで、送迎の白いバンは到着時刻を予め伝えていたおかげか既に到着していた。

「佐々倉さん?」

 出迎えてくれたのは、ニット帽から白髪を覗かせた初老の男性だった。

「はい。よろしくお願いします」

「遠いところお疲れでしょ。乗って乗って」

 後部座席の扉を引きながら運転席に回ると、出発する夜行バスには目もくれずエンジンを付けた。車内は暖房で暖かい。

「お風呂入れるようにしてあるからね。晩御飯はいらないんだっけ」

「ありがとうございます。ご飯はもう食べました」

「寒いでしょ。すぐ着くから待ってね」

 昔、青森に行った時も似たようなロッジの送迎を頼んだことがあったけれど、どこのロッジもこういった親しみやすい雰囲気のオーナーが運営しているのだろうか。人によっては、特に都会生まれの人からしたら馴れ馴れしいと思うのかもしれないが、関東の小田舎育ちの自分にとっては居心地が良かった。特に、自分のことを全く知らない相手に親しげにされるのは、大学時代を過ごした大阪で随分慣れた。

「何しに白馬に来たの?」

「星を……見たくて。流星群」

「あー。そっか今日だったかね」

 残念そうにオーナーがバックミラー越しに笑う。なるほど確かに空は曇天だった。

「気長に待ちます」

 星が見たかったのが今となっては本当の気持ちなのか、自信がなかった。あの場から逃げ出したかっただけなのかもしれない。大都会。大勢の人。いつも踏み外す自分。

「ゆっくりしてって。何もないけどね」

 車はやや乱暴にカーブを曲がり、そのまま頭から駐車場に突っ込んだ。どうやら到着したらしかった。

 ロッジに入ると、奥さんらしき女性が手際よく会計をしてくれて、お風呂の場所を案内してくれる。それから、今日明日と泊まるのが自分だけだと言うことも教えてくれた。贅沢なこともあるものだ。

「明日はどこか出かけるの?」

「まだ何も決めてないんです」

「じゃ、地図あげるよ。散歩とかいいんじゃないかな」

 奥さんがカウンターの下から三つ折りのパンフレットを渡してくれる。後から戻ったオーナーがそのパンフレットを指差しながら、ここがいいとかそれもいいとかおすすめの散策ルートを教えてくれる。こういった親切さは地方のロッジならではだが、流石に7時間近いバス旅を終えた頭にはあまり入ってこなかった。

「朝は食べるんでしょ?もしその時決まってなければまた相談乗るよ」

「ありがとうございます」

「それじゃ、あとはごゆっくり。おやすみなさい」

「おやすみなさい」

 平日の夜遅くに一人で目的もなくロッジに泊まる成人女性に何も聞かないでくれるのは、正直ありがたかった。

 もらった鍵で開けた部屋は宮崎駿の作品に出てきそうな木材の温かみのある雰囲気で、床暖房と石油ストーブのおかげで十分すぎるほど暖かかった。まるで夜逃げみたいに最低限しか持ってきていない荷物を詰め込んだリュックを床に置きベッドに倒れ込む。窓の外には小さなベランダと椅子が置いてあって、流星群を眺めるには絶好のロケーションだったが、タイミングの悪いことに窓ガラスを雨粒が叩き始めていた。しばらくの間じっとそのリズムを聞いていたが、一念発起して起き上がりお風呂に行く支度を始める。湯船の誘惑には勝てない。そういえば実家では毎日湯船に浸かっていたっけ。


 実家を出たのは高校卒業と同時だった。兄はもっと早かった。それは家庭環境が悪かったからではない。両親は本当に、両親なりによく私の面倒を見てくれたものだと思う。実家というよりも離れたかったのは土地そのもので、さらに言えばその土地にまとわりつくトラウマだった。

「彼氏できたの?」

「うん」

 友達に報告した時は、本当に自慢でしかなかった。ひとつ年上の高校生と付き合っているというだけで優越感に浸っていた。だから気づかなかったし、気づかないふりをしていた。いつも呼び出されては実家まで交通費を出して私が向かい、食事代を出し、少しずつ浸食してくる感覚に。

「なんで?」

「え?」

 決まって声音が変わったことを覚えてる。当時まだ流行り出したばかりのスカイプ。

「なんで俺が一緒にアニメ見ようって言ってるのに、寝るって言うわけ」

「明日も学校で……」

 何も間違ったことなんて言っていないはずなのに、沈黙が私の冷や汗を加速させる。深夜のテレビはそんなこと知る由もなく明るく番組を放映していた。ガンガンと頭が痛くなってくる。

「俺学校行けてないの知ってるよね。咲子が学校行ってる間俺ずっと一人なのに、帰ってきてからも一人にするわけ」

「違う、そうじゃなくて……」

「そうじゃん。どうせ寝るとかいって他の男と話すんだろ」

「そんなわけないじゃん」

「咲子は嘘ばっかりつくもんな。だから俺がこうやって怒る羽目になるのわかってる?」

 電話口からは机を叩くような音がする。彼の声はひどく低く、その口元が何度も鮮明に脳裏に浮かぶ。乾燥で切れた唇。愛しそうに私を見る目。素肌に触れる指先。呼吸が短くなってくるのが自分でもわかる。何も言い返せずいるとますます激昂していく。

「いつもそうじゃん。俺だって咲子を信じたいけど、信じられないのは咲子のせいでしょ?お前が悪いんだろ。なあ。俺間違ってないよな?」

 通話を切るとさらに悪化することはわかっていた。ごめんなさい、一緒に見ます、怒らないで、と言えば、いいよもう始まっちゃったし、と呟かれ、長く沈黙が横たわってから、ねえビデオつけて服脱いで、と言われる。


 「っ、」

 瞬間的に飛び起きた。時計を探すも部屋には無く、見ないようにしていたスマートフォンを仕方なく開くと0時40分だった。

 びっしょりとかいた寝汗にため息をつきながら夢の内容を記憶から消し去る。うっかり実家のことを思い出すと、引きずられてこんな夢を見ることがあった。今となってはどこまでが夢でどこからが現実なのかわからない。だって誰に打ち明けたらいい?こんなみっともない忌々しい過去。今でも私の携帯番号は、警察にストーカー被害者番号として登録されたままなのだろうか。実家に押しかけた沢山の制服警官の背中を遠くから見ていた。乗れなくなった電車もエレベーターも苦手なままなのに、大都会で暮らすことを何故選んだのだろう。

 窓の外の雨の音は静まっていて、換気も兼ねてなんとか窓を開ければ季節相応の冷たい風が吹き込む。ベッドのブランケットを肩にかけながら窓から身を乗り出し空を見上げたが、やはり曇ったままだった。

 眠り直すこともできず部屋を出る。しんと静まった廊下を歩き、洗面台で顔を洗う。いつまで囚われているのか、いつまで囚われていたらいいのか自分でもわからない。もう人生の何もかもが限界に近かった。

 

 翌日、オーナーが勧めてくれた散歩道を朝から歩いた。人ひとりいない空間で、携帯もロッジに置いて出かけて、ようやく少し呼吸ができるような気がした。

 川に沿って山に向かって歩く。目の前に二手に分かれる道があって、左に曲がると細い道がどんどんと山奥に近づいていった。山道にやや息が荒くなりながら進む。辿り着いた先は、元々繋がっていたであろう山への橋だった。朽ちたようにぶら下がり落ちてしまっていたその先は、昼間と思えない深い山の暗闇があって、そのえも言われない恐怖から私は全速力で走って道を逃げ帰ってきた。畏れと呼ぶのにまさにふさわしいあの空気から逃げ出して、見上げた空は高く青かった。


 息を整えながら、そこで決めた。私は30歳になったら、あの山で生きることを終わりにしようと。


 それからどうやってロッジに帰ったかあまり覚えていなくて、オーナーが作ってくれた晩御飯がすごく美味しかったって記憶は残っていた。二日目のお風呂を出てから、ロビーでぼんやりと暖炉を眺めながら、自分の人生のことを考えていた。あと5年だと思えば、辛くても悲しくても乗り切れる気がする。耐えられる気がした。まさに私にとっては希望だった。暖炉の横に置かれたノートがふと目についた。なんてことない大学ノートの表紙にはロッジの名前と、「2019〜」とだけ書いてある。パラパラと中を見ると、どうやらロッジに泊まった人たちの感想ノートらしかった。楽しかったです!ご飯がおいしかったです!スキー楽しかった!などと、明るい感想が並ぶ。いっそ書いてしまいたい清々しさだった。ここを死に場所に決めました、と。

 馬鹿馬鹿しいことを考えてるな、と思いながらノートを閉じようとした時、紙が一枚落ちてしまったことに気がついた。挟んでいたものらしい絵葉書を拾い、慌てて適当なページに挟むと、そのページに書いてある書き込みが目に留まった。


「仕事に疲れて、泊まりにきました。

 カボチャの馬車に迎えにきてほしくないシンデレラの気分。

 もう行かなくちゃ。」


 なんてことない書き込みだった。細く丁寧に書かれたその文字からは女性らしいことが窺えた。文章の後に、同じ筆跡で電話番号らしきものが書かれていて、私はその11桁を何度も頭の中で唱えていた。

 翌朝、二泊のお礼を言って早朝にロッジを出た。帰りのバスは予約していなかった。急いで帰る必要もなかったし、どこに行っても自由なはずだった。少なくとも今の私は、どこにも戻る必要なんてないのだ。

 不意に昨晩の11桁を思い出す。どこにも行かなくていいなら、行ったことのない場所で、会ったことのない人に会いたいと、衝動的に押した番号に、ためらうこと無くコールした。3コール、4コールして、ぷつ、と、相手が電話に出たのがわかった。

『……はい』

 不機嫌そうな女性の声だった。思わず息を吸う。自暴自棄になっている自覚はあったが、いざ踏み出すのは勇気がいるものだと初めて知った。

「あの。白馬村の、ロッジで。ノートを見て、電話しました」

『……』

 返事が無く、私は、そりゃそうだよな、とどこか冷静になっていた。書いたことすら忘れているかもしれない。現実逃避を繰り返してきたのもここまでで、切られるな、と思ったのに、電話口の女性が息を吸ったのがわかった。

『今白馬村にいるんですか?』

「え、……あ、はい」

『じゃあ、名古屋まで来られますか?そこで落ち合いましょ』

「え?」

『私、香澄っていいます。あなたは?』

「咲子です。佐々倉咲子」

『咲子さん。よろしくね』

「え、あ……はい」

『着いたらまた電話して』

 そのまま電話は切れた。駅前に、足湯はこちら、と書かれた貼り紙を見つけ、ふらふらと向かってお湯に足を浸す。名古屋までの経路を調べながら、現実味のない展開に頭がぼーっとしていた。


 

 2

「ありがとねえ、いつも」

「こちらこそ!またね」

 夜のお店はいつもきまって同じ匂いがする。アルコールとイソジンの少し混じったような、鼻の奥を刺すような香り。退勤して送りの車に乗り込む度、自分の身体に染み付いたような気がして、早く湯船に浸かりたいと思う。

「かおりさん、いつものコンビニ前で大丈夫ですか?」

 馴染みのドライバーさんにそう尋ねられる。疲れきった女性を送る夜職のドライバーはタクシーの運転手も比にならない丁寧さだ。

「うん、大丈夫。着いたら起こして」

「わかりました」

 ありがたいことに今日は送りの車内はわたしひとりだった。窓の外に広がった、ようやく眠りにつき始めた夜の街の明かりですら今のわたしには眩しくて、たまらず目を閉じる。店から高速に乗っても、家のそばのコンビニまで40分強。くさい。きたない。性とアルコールとイソジンのにおい。べとついて気持ち悪い肌の感触。早く現実に戻りたいと思うけど、いまこの時間だって間違いなく現実だった。


 風俗に勤めだしたのは8か月ほど前で、大学を卒業して小さな食品メーカーの事務職として採用されたものの、大学の奨学金の返済で余裕がなく、すり減らして暮らしていた頃だった。なにひとつ知識もないまま、ふらふらと自宅近くの歓楽街を歩いていたところで声を掛けられた。普段なら絶対に無視するはずなのに、つい顔を上げてしまったのは、声をかけてきた青年からひどく甘い匂いがしたからだった。バニラにも似た甘く後を引く香り。

「源氏名は何にしましょうかね」

 応接室に通され、店長から2、3点質問をされた後すぐそう尋ねられた。刺青の入った指先がトントンとバインダーを叩く。ややあって意味を飲み込み納得する。そりゃそうだ、本名を使う風俗嬢なんていない。

「うちの店舗と、系列店にいない名前だったらなんでもいいですよ」

 青色のバインダーを差し出される。ずらりと並んだ源氏名を見ながら、ふと頭に浮かんだ名前を何の気もなく口にした。

「『かおり』でお願いします」

 躊躇いがなかったわけじゃない。それでも、今の自分を少しでも変えたいと思ったのは本当だったはずだ。


 出勤日は必ずアップする決まりになってる写メ日記のお陰で、今までは撮ったこともなかった自撮りが上手くなった。付けたこともなかった香水も着けるようになり、お風呂ではボディスクラブを使うようになった。幸か不幸かこの仕事を始めてから身なりが少しばかり整い、お金にも余裕ができた。皮肉なものだと思う。精神的にはどんどん削られていくのに、外から見た私はどんどん豊かになって見える。

 一人で旅行に行くのは学生時代からの趣味だった。就職してから休みをろくに取ることもなく、体力も無くなったせいで今までのバックパックや夜行バスに耐えられなくなって、久しく遠ざかっていた。ようやく時間を取ることができて、いざどこに行くか悩んでしまう

「どこか行きたいところないの?」

 店の待合室で先輩のユキナさんに尋ねられて首を傾げた。

「なんていうか、派手なところは行きたくなくて」

「派手なところ?」

「沖縄とか、京都とか」

「派手かな」

「派手っていうか……誰かに自慢するための旅行先って感じ」

「そりゃ偏見だね」

 マルボロを咥えながら笑うと、ユキナさんは1枚の写真をスマホに表示して見せてくれた。雪を被った山脈が遠くに映り、手前には小さな橋がかかっている。

「ここ良かったよ。温泉もあったし」

「どこですか? ここ」

「えーっとね」

 airdropで共有されたアドレスを開く。お店の子同士での連絡先交換はご法度なので、いつもこうしてやり取りをしている。

「長野?」

「そうそう、渋くていい感じだし、名古屋からなら特急出てるからね」

「ふうん……」

 春夏秋冬の写真を見比べる。桜や紅葉の色、空の青、映る全て澄み渡って綺麗に見えた。

「元彼と行ったんだけど、キャピキャピする感じの旅行地じゃなかったからさぁ、一人旅にはちょうどいいんじゃない?」

 やや失礼な発言を受け流しながら自分のスマートフォンのブックマークに追加する。列車のチケットを検索していたら、店長が待機室に顔を出した。

「かおりさん、ユキナさん、そろそろ」

「はぁい」

 灰皿で火を消してユキナさんが立ち上がる。タバコくさいですよ、と意図を込めて香水を渡したら、慣れた手つきで受け取って首筋に振る。

「ありがとね」

「そろそろ自分で買ってください」

「考えとくよぉ」

 ヒラヒラと手を振って短いワンピースを揺らすと赤色のTバックが見える。まだここまでの域には来れないな、と思った。ユキナさんは勤めて長い。普段何をしているとか、なんのためにここにいるのかとか、そういうことは一切知らない。それくらいの距離感がお店の中では適切だった。知りすぎないことでお互いを守っている。近すぎる距離に疲れてしまうような私にとってはひどくありがたかった。


 知らない番号からの電話は基本出ない。イマドキ普通のことだと思う。ただ、この携帯番号はちょうど先週変えたばかりで、まだ誰にも教えていない番号だった。いろんな書類の手続きもまだで、ただひとつだけ心当たりがあったのは、あの長野の小さなロッジの旅行帳だった。

「……はい」

 息を吸って応える。

『あの。白馬村の、ロッジで。ノートを見て、電話しました』

 今日の昼職が終わり、カフェで時間を潰してからお店に向かう途中だった。たぶんこれから来てくれれば、夜の仕事が終わる頃には落ち合えるはずだ。不思議と、会わないという選択肢はなかった。

 電話を切って名前を反芻する。咲子と名乗った女性は心細そうな声だった。訛りのない綺麗な喋り方を聞く限り首都圏から来ているのだろう。連休でもシーズンでもないのに一人でロッジに泊まる女性に何の理由もないと考える方が難しい。どんな人なんだろう。何の話をしよう。今までにない経験に浮き足立つ。いつもならカフェオレを頼むところをキャラメルラテに変えて、いつもと同じ窓側のカウンター席に座る。普段より甘い口当たりと共に自分の機嫌が良くなっていることに気がついた。いろんなことに飽きてきた日々でふらりと行った旅行先、リスクをあえて冒して記入した携帯の番号が新しい刺激を持ってきてくれたことが純粋に面白かった。


 待ち合わせに指定した名古屋駅の時計塔は地元の人間にはわかりやすい。いろんな人が待ち合わせしているから、最悪危なそうな雰囲気が遠くからでも分かれば誤魔化して逃げられるだろうという一応の安全対策だった。

 仕事が終わり、ネットカフェでシャワーを浴びてから駅に向かう。お店にはシャワーはない。いくら衛生的と謳っていようと性病をもらったことは何度もあった。検査費用はお店負担とはいえ、結局身体を消費していくのは自分自身だ。こまめに手を洗うから手荒れもするし乾燥もする。イソジンでうがいをするよう言われているが、接客が続くと喉が痛んだし、殺菌力が強すぎるせいか喉が弱くなった気もする。すぐ風邪をひくようにもなっていた。

 それでも、今の自分の暮らしが、ベストではなくてもそれなりに気に入っていた。同時にこの暮らしがいつまでも続かないことも分かっていた。続けられないその時がきたら、私は元の単純な暮らしに戻れるのだろうか。

 目印に指定した時計塔の手前でショートメールを送る。

『そろそろ着きます。探すので、どんな格好しているか教えてもらえますか?』

 すぐに既読を知らせるマークが付く。

『デニムのワンピースです。今時計塔の真下にいます』

 目をやればすぐに分かった。白いキャップを被り、やや俯きがちに立つ小柄な女性だった。妙に緊張しているのを感じながら歩みを進める。女性がこちらに気がついて顔を上げた。

「……香澄さん?」

「はい、香澄です。咲子さんで合ってる?」

「そうです。すみません、急に電話なんか……」

「いいよ、書いたの私だし。場所変えてゆっくり話さない?」

「あ、はい」

 年齢は大して変わらないように思え、気が抜けてタメ口で話してしまったが咲子さんは気にしていない様子だった。

 ゆっくり話せるところとは一体どこだろう。人に訊かれたくない話も多分ある。かといって騒がしいところも、白馬村経由で来た彼女には酷だろう。個室のご飯屋さんも今から探して予約するのは億劫だ。

「咲子さん、お腹空いてる?」

「えっと……あんまり」

「よし」

 行き先を決めて歩き出す。遅れて咲子さんが着いてくるのを確認しながら、自分の足取りがひどく軽くなっていることを感じていた。


3

 香澄さんに連れられて着いた先はラブホテルだった。動揺して戸惑っているうちに、手慣れた様子で部屋を選びエレベーターに乗り込む背中を何とか追いかけ、入った部屋はアジアンテイストの豪華な一室だった。

「こ……」

 言葉が続かず立ち尽くす私を横目に香澄さんは冷蔵庫から水の入ったペットボトルを2本取り出し1本を渡してくれる。受け取ってもなお、ぼうっとしていると、

「座んないの?」

 香澄さんは水を飲みながら中央の大きなベッドの端に腰掛けた。促されるまま腰掛け、受け取ったペットボトルのキャップを開ける。

「仕事でね。たまに使ってた」

「仕事……」

「お昼は普通のOL。夜は今はピンサロ。最初はデリヘルだった」

「デリ……え?」

「風俗嬢だよ」

 何も隠すことなくつぶやくと、おもむろに部屋のテーブルの上からメニューを取り、

「咲子さん本当に何も食べない? 私パスタとか頼もうかな」

「そんなのあるんだ……」

「あるよ。私ラブホテルってちょっとリッチなネットカフェだと思ってる」

 渡されたメニューには軽食や飲み物をはじめ、パスタやケーキのメニューもあった。呆気に取られながらも、個室に入って安心したからか今更空腹を感じて、目に留まったシーフードパスタを頼むことにした。香澄さんに伝えると、手際よく2人分の注文を済ませてくれる。少し雰囲気に慣れてきた私は、ベッドの向かいに設置された大型のテレビの電源をつけ、適当なバラエティ番組を選ぶ。東京とはチャンネルも放送局も違っていて新鮮だった。

 頼んだご飯はすぐに届いた。作りたての美味しそうな香りが食欲をますます刺激する。ここ最近は食欲もほとんどなかったから久しぶりの感覚だった。お腹が空いた。

「……普通に美味しい」

「意外とね。いけるのよ」

 初対面の女性と2人で知らない土地のラブホテル。行儀悪くベッドの上でパスタを食べていたら、無性に笑いが込み上げてきた。ついこの前まで、朝は6時に起きて18時には退勤して、家に帰って晩御飯を食べてお風呂に入って寝るだけのなんてことない毎日を送っていたはずなのに、突然違う人の人生を借りてきたみたいわ

「咲子さんは?普段何してるの」

「普段……」

「何の仕事?」

「小さい役所の事務員だよ。今はお休み中だけど」

「お休み中か」

 残すことなく綺麗に平らげたお皿をテーブルに置くと香澄さんはそのままベッドに大の字に横たわった。ロングヘアがシーツに広がる。

「お風呂のお湯貯めよっか。今日泊まるんだよね?」

「え……あ、」

 まるで昔から友達だったみたいに気軽に尋ねられて面食らいつつ、今日帰る必要はないなと確かに思う。見ず知らずの相手と一晩を共にするのは怖い、と普段なら思うはずなのに、香澄さん相手にはそういう警戒心が解けてしまう気がするのが不思議だ。

「泊まる……うん。泊まる」

「じゃあ準備してくる」

 勢いよく上体を起こしお風呂場に向かう背中を見ながら、ようやく食べ終わったパスタの皿をテーブルに並べ、香澄さんの真似をして大の字になってベッドに倒れ込んだ。天井でぐるぐると回るプロペラを目で追う。遠くからお湯の音がして、微睡に任せて目を瞑った。やけに疲れた。そりゃそうだ。今までの人生では絶対にやってこなかったようなことを立て続けにやってきて、極め付けがこれだ。私も人のことを言えないが、香澄さんも警戒心みたいなものはないんだろうか。例えば今この瞬間に私が香澄さんの荷物の中から財布だけ奪って出ていく可能性だってゼロじゃないのに、彼女は呑気に浴室で鼻歌を歌っていた。

 世の中に薄く膜のように広がる悪意に疲れていた。明確に突きつけられたものでなくても、毒みたいに吸っていって致死量に達したのだ。そういう説明しか付けられなかった。過去の古いトラウマに苦しむのはもう慣れていたのに、どうして今更毎日がこんなに苦しいのだろう。眠れない夜に消えてしまいたくなり、眩しい朝日に溶かされそうになる、このまま生きていたって何も生み出せない、何にもならないなら、もう今すぐ終わらせたいって何度も思ったのに、結局思い切れないまま、たどり着いたのがこのホテルの一室だった。ある意味似つかわしいのかもしれない。


 何のきっかけもなく目が覚めた。明るいままの部屋で隣を見ると規則正しく寝息を立てる香澄さんがいた。いつの間に寝たんだ、と思いながら身体を起こすと、ベッドが揺れたせいか香澄さんも目を覚ました。

「ごめんなさい、起こしました?」

「ううん、大丈夫……あ、お風呂のお湯貯まったよ」

「まだあったかいかな」

「どうだろう、そんなに寝てないと思う」

 大きく伸びをすると香澄さんは苦笑いした。艶のある肌に持ち上がった口角に同性ながらドキっとする。暗くなった部屋で薄ぼんやりと見える笑顔。

「ねえ。よかったら一緒に入ろうよ」

「いっしょ……一緒に?」

「ふふ」

「……いいよ」

「ほんと?」

 頷きながら自分が自暴自棄とも違う気持ちになっているのを感じていた。目の前でびっくりしたように香澄さんが目をパチクリさせる。どちらかというと凪に近い、来るものを全部受け入れたいというのが素直な気持ちだった。起き上がって勢いよく服を脱ぐと香澄さんは笑った。この人が笑うたび、それが心の底からのものならいいと祈るような気持ちになる。


 湯船に浸かったまま湯気の向こうに香澄さんを見る。まとめられた髪の下、白く綺麗な背中に痛々しいアザが何箇所かはっきりと見えた。聞くべきじゃないだろうな、と思いながら、じっと見つめていたらくるりと振り向いて、

「目立つ? やっぱ」

「……あざですか?」

「うん」

「目立ちます。……ごめんなさい、ジロジロ見て」

「気にしてないよ」

 お湯がつるりと肌を滑っていく。香澄さんは恥ずかしそうな素振りも見せず、湯船に向かい合わせに浸かった。まじまじとその顔を見ると、ようやく照れたように目線を外した。

「背中ね。いつも噛んでもらうの」

「噛んでもらう?」

「うん。お願いしてる」

「ふうん……」

 誰かに印をつけられる、跡をつけられる。まるで物みたいに所有されてる。若かったあの頃の自分はそれに日々苦しめられていたけれど、目の前の香澄さんはそれをまるで希望かのように語っていた。

「なんか全部どうでもいいやって思っちゃう時あるじゃない?」

「ありますね」

「そういう時にね、アザが痛いと、まだ生きてるって思い出せるの」

 ぐ、と指先で背中のアザを推して香澄さんは笑った。思い出せる、と、彼女はそう表現するけれど、おそらくそれは自傷行為に近い何かなのかもしれない。誰か自分以外の相手にそれを担わせることがいいのか悪いのか私にはわからなかった。

「咲子さんはどうするの? どうでもいいやって時」

 思えば今まで、私はそんな日々をどうやって乗り越えてきたのだろう。

「……膝抱えて泣いてましたかね」

「我慢強いんだね」

 今までずっと私は。

「そうかもしれない」

 今までずっと、何を我慢してきていたのだろう。キュ、と、シャワーを止める音がして、はにかみながら香澄さんと向かい合わせにお風呂に入った。


 湯船につかりすぎたのか、ほぼのぼせた状態でベッドになだれ込んだ。身体が火照る。さっき蓋を開けたペットボトルに手を伸ばしたけど届かなくてじたばたしたら笑われてしまった。代わりに取って渡してくれたのにお礼を言いながら、

「明日帰るよ」

 自分でも驚くくらい自然に言葉が落ちた。

「そっか」

 きっと私も香澄さんも確信していたのは、もう二度と会うことはないだろうということ。ホテルのバスローブを羽織って布団に潜り込む。枕元のボタンで電気が消えた。じっと見つめる天井にはやはりプロペラが回っている。横を見ると香澄さんと目があって、それから、誰にも内緒で手を繋いで眠った。私たちはこの瞬間だけ世界の全てから守られて、たった2人でも幸せだった。どんな人の温もりにもこの手のひらはきっと敵わない。分けあった痛みが主張する。明日生きていても、来週生きていても、来年生きていても、5年後死んでいても、私の痛みがいつか誰かに届くこともなく消えてしまっても、目の前のこの人がいつか私を想ってくれるなら、今はもう十分に思えた。


4

 寒くなる前に来ようと思っていたのにすっかり山の冠は白く、防寒具で荷物はいっぱいだった。駅から迎えに頼ることなく歩いてたどり着いたロッジの扉を開けると、変わらないオーナーが迎えてくれた。

「今年は雪が早くてね」

 チェックインの作業をこなしながら教えてくれる。

「散歩するにはちょっと寒いかもよ」

「大丈夫ですよ。あったかくしてくから」

 部屋の鍵を受け取って、早々に荷物を置くとその足のまま玄関に戻る。着込んだユニクロのウルトラライトダウンは今日のために買ったものだ。

 駅前の足湯には地元の中学生らしい男の子が2人いた。楽しげに話す横を通り過ぎて田んぼに沿った川の横を歩いていく。白い息がしんと冷えた空気に溶けて消える。大きな山が見えてきて、二手に分かれた道の前で立ち止まることなく左に曲がった。息が上がってきて、鬱蒼と茂る草に途中足を取られながら進む。真っ直ぐ、ずっと行った先、ぶら下がり朽ちた橋の手前には立ち入り禁止の黄色いロープが掛かっていた。

「カボチャの馬車が来るの、思ったより早かったね」

 リュックサックからペットボトルの水とコンビニであらかじめ買っていたパスタを取り出して膝に置き、近くの木のそばに腰掛けた。

「さむいね」

 私たちには似合わない彼岸花が風で揺れた。くすんだ空は遠く、どこまでもずっと、続いていた。 

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