第8話:予備
――― 念には念を入れて、という言葉がありますけれど
あなたは本当に徹底していますわね ―――
農場で出会った、ガスマスクと紫のドレス姿の女性に誘われて、アリスとナナクの二人は農場の奥のエリアへ進んでいた。
「こちらの扉の先にございます。」
そう言って大きな扉を開けて通路へ案内された。農場の雰囲気から一転して、冷たいパネルに覆われた長い通路が見える。先程まで指していた日傘はいつの間にか小さく畳まれており、左手に握られていた。位置と方向から考えると、彼らがいるのは先日の工業プラントの近くだろう。下をくぐっているのかもしれない。リング状のステーションの地面はもともと湾曲しているのだが、細長い通路だとその湾曲が特に強調されて見える。先が見通せない。
暫く歩くと、自分たちが入ってきた入り口も見えなくなってしまった。ナナクは不安になってきたが、農場の主に良いものを見せてもらえると聞いて、不安よりも好奇心のほうが勝っていた。アリスを見ると、特に何かを感情を抱いているようには見えなかった。単に言われるがままに付いてきている、という様子だ。
「あのね、ちょっといい?」
ナナクの視線に気付いたアリスが問いかけてきたが、ここで台無しにしたくない。
「アリス、大丈夫だよ。ちょっと見せてもらったらすぐ帰るさ。」
アリスが余計なことを言い出さないように釘を刺す。やっぱり後日に、となるのは避けたい。ナナクは考えていた。今日はアリスの体調も問題がないし、自分も対物ライフルを持っている。仮に何かトラブルが起こっても、ましてや相手がアリスフレームであっても、戦力ではこちらのほうが上で、倒すのではなく逃げるだけならそう困難ではないだろう。
200mほど歩くとまた重厚そうな扉が見えてきた。
「随分厳重なんですね。」
ナナクは感心しきりだ。
「はい、ナノマシンが混在しないように、ここから先が陰圧になるように空調管理もしております。」
そう聞いて、農場のようになにかのナノマシン技術が関連しているのかとナナクは思ったが、技術的な話は理解しかねた。一方でその意味を感じ取ったアリスがナナクの宇宙服の袖部分を少し引っ張った。
「この先なんだけど――」
ナナクはそんなアリスの手を振りほどいて言った。
「アリスは心配性だな。だから大丈夫だよ。」
そして背中で担いでいるライフルをトントンと叩く。このライフルでどんな敵でも倒せる、という事を言いたかったのだが、アリスが言いたかったのはそういうことではないのだ。陰圧、つまり内部のほうが気圧が低い、ということは、この先には決して外に漏れてはいけないようなものが漂っている危険がある、ということだ。放射性物質やウィルスを取り扱う施設に見られるような設備だ。この女性がガスマスクを付けているというのはそういう理由なのだ。ナナクはその警告を無視して先に進んでしまった。
厳重そうな扉が開くと、その先には薄暗い空間が広がっていた。研究所のような佇まいが広がっていた。配管やコードに繋がったガラスの瓶のようなものが様々な棚や机の上に所狭しと並んでいて、時々撹拌するような動きをしている。大きな病院で見るような高価そうな測定器も通路の片側を占拠していた。測定器のモニターでは内部の機器が忙しなく動く様子が表示されていた。フロアの中には舗装されたような通路もあり、1台のコンテナ車が走り抜けていった。更にその遠くには、植物の苗木のようなものもが並んでいるようだ。
「なんだ……ここは。」
ナナクは予想外の光景に圧倒されていた。通路を通ってきたバックヤードのような雰囲気から、種苗の生育を行う施設かもしれないと思ってはいたが、創薬かバイオ分野のようなここまで本格的な研究所とは思ってもいなかった。
「わたくしはここでナノマシン技術の応用研究をしております。あの農場の植物も、ここで改良されたもののうち、圃場試験まで進んだものを並べているのですよ。」
ナナクを振り返ってドレス姿の女性はそう言った。相変わらずガスマスク姿なので表情は読み取れないが、こちらに危害を加えようとしているようには思えない。
「アリス、凄いよ。こんな施設、母港や他の衛星都市どころか、市内にも無いと思う。というか、あれだけの農場を作るにはやっぱりこれくらいの研究所がいるんだね。」
興奮するナナクとは対象的に、アリスは険しい顔をしていた。歩きながら質問した。
「なぜ、こんなことをするんですか?そのまま植えればいいのに。」
ナノマシンによってどの程度の影響があるかわからなかったが、ナノマシンの塊である彼女にとって、ナノマシンによって改良されたモノに対して同族嫌悪にも似た感情を抱いてしまう。そんな植物を生物と呼んで良いものかわからなくなってしまい、収まりのない心地悪さを感じる。生物でないにもかかわらず生物のように振る舞うように作られている自分自身への嫌悪でもある。
「良い質問でございますね。簡単に言えば、そのままでは、枯れてしまうのです。粗悪な土壌、不規則な日照条件と、太陽から降り注ぎ、ステーションの外装では防ぎきれない強力な宇宙線、地球の生命にとってはとても過酷です。適応のための遺伝子改良も良いアプローチですが、このステーションは植物にナノマシンをドープするのに適した環境です。それが理由でございます。お答えになっておりますか?」
ドレス姿のその女性はゆっくりとした口調でそう答えた。アリスの質問だったのだが、ナナクが口を開かずにいられなかった。
「ナノマシンの技術なんだ。宇宙船やロボットじゃなくて、植物に応用するなんて、凄い。アリス、ナノマシンだって、君と同じだよ。」
この改造植物が自分と同じと言われ、アリスはますます機嫌が悪くなった。そんな彼女の表情を見たナナクは、彼女の気持ちなど知らず、全く違う理由で渋い顔をしたのだと思ってしまった。アリスの正体をあっさり話してしまったことに怒っているのかと思ったのだ。
「ああー、えっと、この子、アリスっていうんですけど。ちょっと訳あって一緒にいるんです。それで実は――」
ナナクは前を歩いていた女性を追い抜いて慌てて説明しようとしたが、その女性は歩くペースを変えずに先程までと同様のゆっくりした口調でこういった。
「はい、存じ上げておりますよ。アリスフレームの、アリス様ですね。そしてあなたは、ナナク様。こちらに到着したときからずっと拝見しておりました。いつお声掛けしようかと思っていたほどでしょうか。」
ナナクは絶句した。アリスの名は口に出したが、アリスフレームの説明などしていない。また自分がナナクだと名乗ってもいない。今日初めて会ったはずだ。しかし名前だけでなく、アリスフレームのことも知っている。見ていた、とはどういうことだろうか。監視カメラのようなものを見ていたのか?疑問が次々に思い浮かぶ。流石のナナクも彼女を警戒せざるを得なかった。そして彼女は更に驚くべき事実を述べた。
「そうそう、自己紹介が遅れておりました。わたくし、アリスフレームAL-2003、セレスと申します。どうか、お見知りおきください。」
ナナクは衝撃を受けたが、最初に会った時になんとなく予想していたとおりでもあった。こんな場所を自由に出入りできる人物は、アリスフレーム以外に存在しない。目の前には正体不明のアリスフレーム、そしてここは相手のテリトリーのど真ん中。
これ以上は危険だと判断し、ナナクがもう帰ろうと言い出そうとした時、セレスと名乗った女性が立ち止まった。
「この研究所を絶賛いただけまして光栄なことでございます。さあ、ここが最深部です。せっかくなので全て御紹介いたしましょう。ここがステーションの最初期から稼働していた、一番古い施設でございます。」
その場所は天井が開けており、頭上のフロアと吹き抜けでつながっている。上のフロアの明かりが入り込み、少し明るい。そこには、ひときわ大きなタンク類や機器類が並んでいる。大きなタンクから伸びる様々な配管には沢山のメータが付いており、チカチカと点滅して現状を通知しようとしている。しかしそれらの数値を確認する技術者は今はもういない。大きな機器から伸びる太い配線には複雑な記号が刻まれており、電力を供給し、情報を伝えようとしている。しかしそれらの機能を活用する研究者ももういない。眼の前の、アリスフレームであるセレスを除いては。
薄暗い研究所の最深部に現実離れした設備が並んでいる。ナナクだけでなく、アリスもこの場の異様な雰囲気に圧倒されていた。それと同時にアリスにはこの光景に見覚えがあった。自分が生まれた軍事施設の奥の方、当時は『技術局』と呼ばれていた、アリスフレームの研究者が集まる一角である。アリスは確信した。ここは自分が生み出された軍事施設の研究所と同じ、ナノマシンによる疑似生命研究が行われていた場所だと。だからアリスフレームがいるのだ。昨日のシャロンの話しぶりからすると、ここは周囲から見えないように隠蔽され、以前はもっと沢山のアリスフレームがいたということになる。
『技術局』の当時の人間も言っていた。プロトタイプであるアリスの開発成果が出たので量産化の準備を進めると。研究結果なのだから、別の場所で続きを実施することだってもちろん出来るのだ。既に地球上は暴走ロボット、NRUに占領されつつあったから、宇宙で継続するのは不自然なことではない。
シャロンやプルートの言ったこと、ナナクやダンの言ったこと、これらがカチリと噛み合った。300年以上前にこのステーションが作られ、アリスフレームの量産が行われた。最高軍事機密なので徹底したジャミングなどで存在が隠蔽されていた。ところがNRUを壊滅した際にロケットで打ち上げられた自分が宇宙空間を漂って、このステーションへ漂着した。腕の破片をプルートが見つけ、自分がこのステーションにたどり着けるようにと、ジャミングを全部あるいは部分的に解除した。その時、自分は既にステーション外縁部に転落して機能を停止していたのだが、それは誰にも知られなかった。そしてダンとナナクがここを見つけて探索にやってきて、自分をステーション外縁部のガラクタ置き場のような場所から救出したのだ。
アリスが一つの結論に達したところで、ナナクが不思議なことを言い出した。
「あれ?こんな機械に、見覚えがあるような気がする。」
そんなはずがない、とアリスは思っていたが、ナナクは更に奥の方へ進んでいった。
「うん、このレバーの感じも、覚えてる。配置はちょっと違うけど、小さい時に似た機械がある場所を見たことがある。」
ナノマシンの塊を作る場所なのだ、ただの船員である彼に見覚えがあるはずがない。なにかの見間違いだろうとアリスは思っていた。これらの設備は見る人が見れば特異性が分るのだが、素人目にはちょっと高度な医療機関にある検査機器と大差ない。
「左様でございますか。ナノマシンの製造設備ならどこも似たような構成になります。ナナク様からも、微かにナノマシンの声が聞こえますから、覚えているのも当然でございましょう。」
セレスはナナクにそう告げたが、ナナクはそれどころではなかった。驚きの声を上げる。
「ひい~、なんだ、これ……。」
ナナクはタンクの先の段差のさらに下を見ていた。歓声ではない、なにか恐ろしいものを見たかのような声だった。アリスは、前にいたセレスを押しのけてナナクのもとへ駆け寄り、段差の下を覗き込んだ。
「うわぁっ!」
アリスも思わず悲鳴を上げる。そこには恐ろしい光景が広がっていた。10m四方の濁った水槽のようなものの中に人が沈んでいるのである。下の方は何かが混ざり合っており、底はよく見えない。下を見つめるアリスの後ろをセレスが通り過ぎ、反対側へ向かって濁った水槽の外周を歩いていった。
「アリスフレームの再構成のためのナノマシン供給槽ですよ。アリス様もよくご存じでしょう。恐れることは御座いません。」
アリスフレームと聞いて、ナナクは一番上に沈んでいる人のようなものの左膝から下がないことに気がついた。すぐにシャロンのことを思い出した。昨日、ナナクの狙撃で左足を吹き飛ばしたのだ。また、アリスはセレスという名前に聞き覚えがあった。アリスとナナクに敗れたシャロンが『セレスの台車』と言って紫のコンテナ車のことを恐れていたのだ。そのコンテナ車のカラーリングはセレスのドレスと同じ紫色だった。色が同じ、というのは推測にしては安直すぎるが、セレスという名前は確実に一致している。ここはほとんど無人だったステーションだ。同名の人物が何人もいるような場所ではない。シャロンはプルートのところへ戻されて治療されたのではなく、ここへ運ばれたと考えられる。
「「シャロン!」」
アリスとナナクは見合わせ、答え合わせをするかのように、同時にそう言った。治療のためならば良いのだろうが、そのような雰囲気ではない。シャロンの下にも何人も沈んでいるのだ。更に下の方は溶けて崩れている者もいる。するとセレスはまるで他人事のようにこう言った。
「はい、昨日運ばれてきたようですね。壊れたアリスフレームはここに集められ、混ざり合い、次世代へ紡がれていくのです。」
「次世代?まさか、あの農場の植物!」
アリスが何かに気付いたように言った。それに応えるように、セレスは水槽の向こう側で堂々とした姿勢で両腕を広げ、言った。
「ふふふ、お気づきになりましたか。アリスフレームというのはプラットフォーム。すなわち、全体で一つのシステムなのですよ。人の形をしているのは、その一つの側面に過ぎません。すべての生命を取り込んで、母なる地球の営みを少しでも生き永らえさせるのです。それが、アリスフレームの目的。」
それを聞いていたナナクが不安そうにアリスの方を振り返る。アリスは即座に否定した。
「いいえ、そんなことが私達の目的なはずがない。シャロンをここから出しなさい。まだ間に合う。」
「それはなりません。彼女は既に壊れてしまいました。肉体ではありません。精神の方が、でございます。どうしたのですか?恐れる必要はない、と申し上げたはずですが。」
アリスが抜刀し、ブロードソードを構える。しかしセレスを射程に捉えるために距離を詰めようとしたところ、何者かに足をぐいっと掴まれたような感覚があり、バランスを崩して転倒してしまった。ブロードソードが音を立てて転がる。
立ち上がろうとすると、今度は腕を掴まれた。水槽の中に沈んでいたアリスフレームが腕をつかんで引き込もうとしているのだ。
「や、やめて、私はあなた達を助けようとしているの。」
さらにもう一本の腕が伸びて足をつかむ。水槽側に引きずり込まれるような感覚。そしてそのうちの一人が顔を出した。
「姉さん。助けてってお願いしたのに……。ダメだったんだ。だったら姉さんもこっち来なよ、みんなで一緒にさ。」
シャロンのような声が聞こえるが、輪郭が不明瞭で顔の特徴は読み取れない。全身を引きずり込まれる。自分の力ならこれくらい振りほどけるはずだし、そのまま全員を腕力で無理やり引き上げることだって出来るはずだ。しかし力が全く入らない。片足が水槽に引き込まれた。もうあとがない。
「いや、助けて、ナナク!ナナク!」
あまりの恐ろしさにアリスはナナクに助けを求める。
しかし一方で彼からは全く違う光景が見えていた。アリスがブロードソードを構えたと思ったらすぐにそれを落としてしまい、ゆっくり倒れたと思ったら一人でもがいているのだ。もちろん水槽に落ちるような様子はない。
「おい、お前、セレスと言ったな。アリスに何をした。」
ナナクがセレスを睨みつけた。
「ここは特にナノマシンの濃度が高いのです。だから軽装で近づかないようにと申し上げたのですよ。ナノマシンの影響が精神構造に回ってきたのですね。幻覚に襲われているのでしょう。ですが、アリス様にとって、それは幻覚ではなく、『本物』。今頃どんな恐ろしい思いをしているのでしょうね。ふふふ。」
表情を知ることが出来ないが、ガスマスクのゴーグル越しに、セレスが不敵に笑ったように見えた。まずはアリスを救出しなければならない。セレスはこうなることがわかった上で自分たちをここに招待したのだ。大人しく帰してくれるとは思えない。ナナクはアリスの前に出て、背負っていた対物ライフルを素早く構え、弾を込めた。たまたま手に取った銃弾の先端が黄色く塗られているように見えたが、気にしている時間はない。
しかし、照準をセレスに合わせようとしたときにはもうセレスはその先にいなかった。
「ぐはぁっ。」
セレスがいないと気付いた瞬間に上腹部にとてつもない衝撃を受けて、ナナクは後ろに転倒した。それと同時に体の目の前で破裂音を認識した。一瞬何が起こったのかナナクは理解ができなかったが、セレスが水槽を超えて低く水平に跳躍し、短く折り畳まれたままの日傘のグリップ部を使って強烈な突きを見舞ってきたのだ。
跳躍した勢いのまま体重を乗せて、低い姿勢から足を大きく踏み込んで繰り出された打撃だ。ドレスが大きく開き、裾がひらりと舞う。ガスマスクは彼女が先程までいた水槽の反対側に落ちていた。頑丈な宇宙服を着ていたにもかかわらず、その衝撃はナナクの体の芯まで到達し、一撃で行動不能にした。呼吸が出来ない。胃液がこみ上げる感覚があった。彼女の素顔を見る余裕などまるで無かった。見下ろすセレスに対し、倒れる途中で苦し紛れにライフルの引き金を引くと、大きな射撃音を残して、白い光の軌跡が天井大きな吹き抜けを抜けて真上へ飛んでいった。曳光弾の光だった。ナナクは射撃の反動を受け止めることが出来ず、ライフルを肩から落としてしまった。
「その武器はよろしくありませんわね。どこに飛んでいくか分かりませんもの。この子たちも怯えているわ。」
そう言ってセレスはナナクの対物ライフルを取り上げた。
「それと、こちらも返していただきましょう。」
セレスはナナクが腰にぶら下げている道具入れに手を突っ込み、その中の袋を取り出した。以前彼がアリスに自慢気に見せていた植物の種だ。
「泥棒さんはいけませんことよ。それに、この種は人が気軽に扱えるようなものではございません。」
ナナクが身動きが取れずに倒れている間にも、アリスは幻覚と戦っていた。彼女は水槽から這い出てきた人影に次々に引っ張られ、徐々に水槽内に体が入り込んでいく。体温が一気に下がるような感覚が全身を駆け巡る。ナナクに再度助けを求めようと頭を上げると、不思議なことに自分の体はまだそこにあるのだ。まるで自分の魂だけが幽霊として抜き取られたかのような感覚だった。それを認識した瞬間、全身から力が抜け、強い引力で落とされるようにドボンと全身が水槽に沈んでしまった。
アリスの全身を言いようのない後悔と喪失感が支配した。なぜ異変を察知した時にすぐ戻らなかったのか。そもそも農場で不審な人物に声をかけられた時に逃げなかったのか。とにかく助けを呼びたい。眼の前の……名前が思い出せない。いや、そもそも誰かと一緒に来ていたのだろうか、ここはどこだったか、そもそも自分の名前は?急速に記憶も失われていく。水槽の中から揺らめく水面を見つめながらアリスの意識は混濁していった。
しかし先ほどと変わらず、ナナクの目からは、アリスがその場で気を失ってしまったかのように見えるだけだ。
「アリス……。」
苦しみながらナナクが必死に彼女を呼びかけるが反応がない。すると、どこからともなく声が聞こえてきた。
「ねぇ……。ねぇ……、お嬢に怒られたの?お兄ちゃん面白い人だね。」
聞き覚えの無い、かすれたような、ささやきかけるような声だ。アリスのものでもセレスのものでもない。ナナクは必死に声を絞り出した。
「だ、誰だ。どこにいる。」
「うふふ、こっちだよ。見えないの?そっか、お兄ちゃんはアリスフレームじゃないもんね。でも不思議、私達の声は聞こえるんだ。」
これがセレスの言っていたナノマシンの悪影響だという幻覚なのか。しかし、小さいとは言えナノマシンは皮膚や呼吸から体に入り込むようなサイズではない。一体何が起こっているのかナナクには理解できなかった。
「黙れ!僕はアリスを助けるんだよ。」
「あら、ナナク様もこの子達の声が聞こえるのですね。良いでしょう、良いでしょう。」
セレスは嬉しそうな声でそう言い、ナナクから取り返した種を確認し始めた。
「農場から持ち去ったものは全てありますね。あなた、どうして律儀に全部持ち歩いていたのかしら?おかげで探しに行く手間が省けて助かりました。」
セレスはこれ以上ナナクに攻撃を仕掛けてくるつもりはないようだ。とどめを刺す様子もない。彼女が声をかけたのは二人をここに誘い込むことが目的だったようだが、種を回収するためだけならばそんなことをする必要はない。本当の狙いはわからない。
「セレス、お前の目的は何だ。種を取り返すだけなら――」
相変わらず体が動かせずに倒れたままのナナクがセレスを問いただそうとしたとき、セレスが折りたたみ式の日傘を伸ばしてナナクの眼前に突き出した。先端の金属部分がナナクの鼻に触れる。その部分は鋭利な刃物のようになっていた。
「お言葉遣い。直してくれませんこと?もうすこし、お上品に。」
彼は怯まない。先程の打撃のダメージが和らぎ、体が少し動くようになってきた。ナナクは初めてセレスの素顔をまともに見た。それはドレスと同様の美しい女性だった。すると周囲から先ほどと同じ声が聞こえてきた。
「お兄ちゃんも怖いもの知らずね。あんまりお嬢を怒らせると、お兄ちゃん、死んじゃうのに。あっ、そうだ、お兄ちゃんにこれあげる。」
周囲の声がそう言うと、じわっと頭の中に熱いものが入り込むような気がした。彼が驚いているうちにその熱いものは徐々に熱を上げ、頭の中で真っ赤に焼けた鉄球が転がるような感覚に変わる。
「熱い!うあぁーー!」
耐えきれず、逃げるように力を振りぼって立ち上がろうとした。アリスを置いて走って逃げるわけには行かない。なんとかこのセレスを倒してアリスを連れ帰らなければならない。いや、倒す必要はない、数秒でいい。時間を稼げればなんとか逃げられるかもしれない。残っている武器は小さな装飾拳銃だけだが、これで彼女を牽制できればいい。シャロンのときのように弾かれたりしないでくれ、かすり傷でもいいのだ。とにかく数秒でも注意を逸らしたい。
そう強く思い、壁に手をついたような姿勢でアリスの前で立ち上がった。すると、焼けた鉄球のようだったそれは、肩を通って両腕にじんわりと広がった。熱さが和らいだところでセレスの方へ視線を向けると、彼の視界に不思議な光景が広がっていた。セレスが持つ日傘に『何か』が見える。物体ではなく、空中に浮かぶ図形のようだった。それが意味するものはわからない。しかし、彼は感じ取っていた。そこを撃て、と。素早くカバンから拳銃を取り出し構える。撃鉄を上げて引き金を引こうとした。このとき彼の視界には、小振りな装飾拳銃を覆うように太く、長い、何物かが見えていた。その何物かの大きな引き金も一緒に引くイメージで拳銃を発射した。そうするべきだと感じていた。銃弾が目標へ向かって飛翔する。
不思議なことだが、ナナクにはそれが見えていた。火薬に押し出された銃弾が拳銃の中のライフリングを通って回転し、銃口を飛び出す瞬間だった。そして拳銃を覆う何物かの中を通って行くうちに、銃弾が何かをまとい、加速していった。千分の一秒にも満たないであろう本当に一瞬の出来事のはずなのに、ナナクにはその全てが見えて、感じることが出来たのだ。彼の目に映ったその新たな銃口を飛び出した銃弾は、目標へ一直線で向かっていく。
セレスはそれに素早く反応し、伸ばしたままの日傘で迎撃しようとした。以前にアリスが食料倉庫に侵入したロボットの銃弾を綿棒で弾き返したのと同じ要領だった。銃弾の進行方向に日傘の本体部分が立ちはだかる。しかし銃弾はただの金属の塊だったにもかかわらず、日傘の芯に当たる直前に爆裂した。爆炎がセレスを覆い、彼女にダメージを与えたかのように見えた。ところが彼女はその場で倒れるのでもなく、霧散するように消えてしまったのだ。カランという軽い音を立ててセレスが伸ばした日傘が転がっていた。
ナナクにはまるで理解が追いつかなかった。とっさに拳銃を撃っただけだったのに、その銃弾が刻一刻と見え、加速し、アリスフレームであるはずのセレスを消し飛ばしたのだ。
「わ、すごーい。一回で使いこなしちゃうんだね。じゃあ、今のうちにこれ乗って帰りなよ。」
幻覚の声がまた聞こえた。ナナクはその声にもう恐怖を感じていなかった。理解したわけではない、安心したわけでもない。単にそこに『ある』ことを認めたのだ。すると、視界の外側であるにもかかわらず、後方から接近してくる存在が『見えた』のだ。危険ではないことも感じることが出来た。コンテナ車だ、とナナクは感じ取った。とてつもない速さで走行して向かってきている。到着まであと1秒。
目で見て確認する必要はない。その時間もない。ナナクは宇宙服に結び付けられている転落防止フックをアリスのベルトに引っ掛け、さらに彼女の体を右腕で抱きかかえた。次の瞬間にアリスとナナクの横を紫色のコンテナ車が通過しようとした。そのアイミングに合わせてもう一つのフックを差し出した。コンテナ車のアームがフックを掴み、そのまま走り抜ける。転落防止ハーネスに引っ張られるように二人も運ばれていく。アリスフレームが沈んでいた水槽が視界から遠ざかる。去り際に改めて水槽の方を見ると、そこにはセレスが立っていた。消え去ったわけではなかったのだ。横に落ちていたガスマスクを拾いあげて装着しようとしていた。その際に手を振って何かを言っているようにも見えたが、それを確認する間もなく二人を載せたコンテナは高速で走り去っていった。
その途中でまたあの声が聞こえた。
「楽しかったね。また私達と遊んでね。あ、お嬢から伝言だってよ。えっと、この子達に気に入られたのですね、それに免じてお許ししましょう、だって。良かったね。怒ってないみたい――」
遠ざかるに従って幻覚の声も小さくなり、聞こえなくなっていった。
………
……
…
二人を載せたコンテナ車は加速しながらどんどん進んでいく。周囲の景色が次々に変わっていく。研究所を抜け、トンネルを抜け、吹き抜けの上のフロアへ出た。その周囲には採光用にしては多すぎる窓が空いており、その窓の外、宇宙空間には大きな長距離通信のアンテナが何基も設置されていた。ここが管制塔かとナナクは思った。管制塔でなくても、この軍事ステーションの中枢部分に違いない。
無線機の電波が届く範囲に入ったためか、首もとのスピーカーから罵声が聞こえてきた。
<ナナク、馬鹿野郎、お前今どこにいる。>
ダンの声だ。ダンに黙ってアリスを連れて農場まで来ていたことをようやく思い出したのだ。
<朝お前らがいねえと思って探してたら、ステーションの反対側から曳光弾が飛んできた。そんなところで何やってんだ。>
「船長ごめん。本当にごめんなさい。」
<そんなのはあとだ、お前らどこにいる?近くまで来たんだよ。>
「えっと、紫のコンテナ車に乗ってどこかに連れて行かれてる。行き先はわからない。」
<紫?見えねぇよ。他の目印は?>
近くまで来た、というダンの言葉の意味が分からなかったがとにかく目印が必要だという言葉に合わせて、ナナクは腰にぶら下げていた黄色い玉をベルトからブチッと切り離した。
そして、心のなかで2秒数えた。1……2……。
「行けっ」
ナナクは黄色い玉をコンテナ車の進行方向斜め前に放り投げた。その1秒後に黄色い玉はスピンしながら上昇するカーブを描いた。それと同時に強い光が広がった。『かんしゃく玉』の3点セットのうちの黄色い玉、照明弾だった。
<よし、このフェンスの裏だな。>
ダンの声が聞こえる。まるですぐ近くにでもいるような口ぶりだった。
<いたぞ、紫コンテナ。ナナク、右側、4時方向!>
その声を聞いたナナクはコンテナ車の右側後方を向いた。すると、4輪のバギートラックがすぐ近くを並走しているのが見えた。ダンが運転している。このバギートラックは宇宙船の前のバースに放置されていたものだった。幸いキーが挿しっぱなしになっており、それに乗ってナナクたちを探しに来たのだった。ダンは高速で走るコンテナ車に追いつき、真後ろにつける。コンテナ車はダンを振りほどくように左右に軌道を変え、通路を曲がっていく。それでもダンは卓越した操縦テクニックで追従していく。甲高いスキール音を立てて、ドリフトしながら徐々に距離を詰めていった。
ついにダンが操るバギートラックがナナクの乗るコンテナ車の真横に接近した。接近したダンを敵と認識したのだろう。コンテナ車のアームが彼に襲いかかった。ボンネット部分に衝撃が加わる。
「うおおぉー、危っね。なんだコイツは。」
リアタイヤの荷重が抜けてバランスを崩し、スピンしかける。たがダンには、自身の右目に埋め込まれたデータリンク機能によって、車両の様子が全て見えていた。車体にかかるストレス、4輪それぞれへのモータトルク配分、サスペンションのしなり具合、全てを瞬時に理解していた。ダンはスロットルを若干緩め、素早くカウンターを当ててリカバリーし、姿勢の安定を確認するとすぐさま再加速した。アームの動作半径のギリギリ外側で並走する。
「船長!」
ナナクはようやくダンをはっきりと視認できた。彼は宇宙服の類を身に着けていいない。普段から着ているフライトジャケットと呼ばれる古風なジャンパーと作業パンツ姿だ。救出のために急いで出てきたのだろう。
「ナナク、そのアームを何とかしろ!近づけねぇ。」
そう言われたナナクはアームを手で抑えつけようとするが、作業用アームの出力は人間の腕力で抑えられるようなものではない。彼などまるで意に介さないようにアームは動き、振り落とされてしまった。相変わらず気を失ったままのアリスと結ばれたハーネスでぶら下がり、かろうじてコンテナ車からの転落は免れることが出来た。次に試すのは拳銃だ。もし対物ライフルが奪われていなかったらゼロ距離で撃ってアームを破壊できるのだが、あいにく今はこれしか残っていない。先程、研究所でセレスを撃ったときのようになにか不思議なことが起こってアームが消失したりはしないだろうかと期待した。藁にもすがる思いだった。ナナクは拳銃を構える。ところが今回は何も見えない。射撃目標を示すような存在も、拳銃を覆うような砲身も何もない。彼は諦めずに引き金を引いた。バンという音がしてアームの板金部分に小さな穴が開いたが、それっきりだ。先程のような都合の良いことは起こりそうもない。
コンテナ車のアームは相変わらずダンのバギードラックを追い回している。ダンはアームの動作範囲ギリギリを狙って正確な操縦を維持していた。次の手はないかとナナクが考えていると、ギョイギョイとでも形容できる妙な音が後ろから聞こえていることに気がついた。コンテナ車の制御用コンソールだ。アラームが点灯し、ギョイギョイという警報を大声で叫んでいる。今の拳銃の射撃でアームの何かが損傷したのだろう。
「コイツだ!」
ナナクは制御コンソールを観察し、電源制御を行っていそうな部位を見定めて、拳銃を発射した。拳銃に装填されていた弾全て、バンバンバンと打ち込んだ。次の瞬間コンソールがブラックアウトした。激しいアームの動きが止まった。
「船長!もう大丈夫だよ。」
そう言ってダンへ向けて手を上げて合図した。しかしコンテナ車は止まらない。電源に関わる全ての機能を喪失したため、ブレーキもかけられずに速度を維持して慣性で進み続ける。進行方向のその先には2mほどの段差があった。コンテナ車の自動運転による回避は期待できない。
「船長!このままだと落っこちる!」
シートベルトはおろか座席すら無いコンテナ車に乗ったまま転落事故を起こしてしまえば、まず助からない。
「ナナク、こっちへ跳べー!」
次の瞬間、二人の乗っていた紫のコンテナ車とダンの操るバギートラックが段差を飛び出して宙を舞った。それと同時にナナクがアリスを抱えてコンテナ車からダンへ向かって飛び出した。このときダンは全神経を着地に集中させた。右目の人工網膜を通して、車体の全ての部位の情報を脳に取り込む。ハンドル、スロットル、ブレーキの全てを使ってタイヤの回転慣性力をジャイロのように車体の姿勢維持に転換するのだ。
彼の操縦能力は決して人口眼球のデータリンクだけによるものではない。それはあくまで彼の能力を補助するだけだ。彼は軍務中の事故で軍船の最前線での乗務が出来ないと知ったあと、すでに第一級と評されていた操船技術をさらに伸ばすべく、あらゆる乗り物の操縦技術を身につけようと鍛錬していたのだった。車と宇宙船の操縦には、一見すると共通事項はない。しかし『人間が作った乗り物』という意味では同じだし、物理法則は共通だ。あらゆる乗り物を過酷な条件下で操縦する技術を身に着けた。知識と技能が相互に影響し、一つの不可分なスキルとして覚醒する。そのスキルを駆使して、彼はバギートラックを操る。空中ですら運転することができるのだ。
飛び出したナナクと、抱えられたアリスはダンの後ろ、荷台部分に転がり込んだ。それと同時にバギートラックは4つの車輪で水平に着地した。反動で後輪が滑り出すが先程と同様に操縦してバランスを取り戻す。ダンはまだ後ろを見ていないが、車両の後部に加わる荷重が二人分増えていることを感じ取った彼は、二人の無事を知っていた。そしてガシャンという交通事故のような大きな音を撒き散らされた。先程同時に飛んだ紫のコンテナ車が着地できずに転倒し、建物に突っ込んだ音だった。バギートラックの荷台にしがみつきながらその様子を見ていたナナクはゾッとした。もしダンが助けに来ていなかったらアリスと一緒にあの中へ突っ込んでいたところだったのだ。
「船長。助かったよ。ありがとう。」
ナナクは前を向き直してダンにそう伝えるが、まだ安心できる状態ではなかった。
「まだ気を抜くな。お前ら一体何やらかした――って、伏せろ!」
ナナクは瞬時に頭を下げた。荷台の上をビュンビュンと何かが飛んでいく。銃弾だった。軍用ロボットが彼らの乗るバギートラックを攻撃してきているのだ。原因は恐らく先程のコンテナの事故。事情はどうであれ、コンテナを銃撃し、その勢いで建物の一角を大きく破壊してしまったのだ。何か大事なものを破壊したに違いない。警報が発せられ、侵入者であるダン達3人を追っているのだ。狙われないようにダンは左右に蛇行しながら狭い通路を探して進んでいく。見通しの良い広場を通ると周囲から銃撃されてしまうからだ。
「飛ばすぞ。よく掴まってろ。」
ダンはそう言ってスロットルを全開にした。車両の衝突センサとステーション内の地図情報が統合されてダンの視界に投影される。全く先が視認できないブラインドコーナーであっても、スロットル全開で突っ込んでいく。
「ひえぇ~。」
ナナクは堪らずに身を屈めて荷台にしがみつく。ダンの操縦技術を信頼しているナナクであっても、恐ろしくてとても前を見ることが出来ない。右、左、右、と狭い通路を駆け抜けていく。目指すのはこのエリアのゲートだ。ゲートを抜ければもうロボットは襲いかかってこないはずだ。ダンに見えるマップではゲートまであと少し。最後のカーブを抜け、まっすぐ進めばゲートが見える。出会い頭に銃撃してくる小型のロボットを振りほどいて、最後のカーブを4輪ドリフトで駆け抜けていく。スキール音を立ててタイヤから白煙が上がる。タイヤの耐久力ももう限界に近い。データリンクでつながったダンの視界には先程からいくつもの警告灯が点灯している。
「ナナク、いいぞ。あとはまっすぐだ。」
あと少し、というところで、目の前にガトリング砲を搭載した武装コンテナ車が立ち塞がっていた。狭い通路幅いっぱいで避けるだけの幅員はない。こちらの接近を察知した武装コンテナ車は砲身をこちらに向け始めた。それに気付いたダンはブレーキではなくスロットルを全開にして加速し始めた。
「ナナク、飛び降りるぞ!あと3秒!」
「え?何!?」
「うおぉぉぉ~りゃ~~。これでも食らえ~!」
ダンが咆哮を上げる。ナナクが身を起こして前方を確認した時、バギートラックはコンテナ車と衝突する寸前だった。そのとき、ダンはシートから斜め後ろに滑り落ちるように、ナナクは右上に飛び上がるように、それぞれバギートラックから飛び降りた。ゴシャリという大きな衝撃音が周囲に響いた。コンテナ車に衝突したバギートラックはコンテナ車を真っ二つに引き裂きながら前方に大きく舞い上がり、ぐるぐる回転しながら20mほど先にあるゲート横の柱に激突して止まった。
飛び降りたダンは受け身を取りながら、タイルが敷き詰められた地面を上手に滑ってゲートを通って隣のエリアまで転がっていった。ナナクは飛び上がった瞬間にぐいっと体が引っ張られるような感覚があり、そのまま地面に叩きつけられた。頑丈な宇宙服に守られていなかったら重傷を負っていただろう。
ダンとナナクの動きが止まる。近くには銃撃してくるようなロボットはいない。
「痛った……。」
痛みに耐えながらナナクはなんとか立ち上がると、ちょうどエリアを分けるゲートを過ぎた場所だった。二人は車両から飛び降りた勢いのまま、管制塔のエリアを脱出することに成功したのだ。この場所を警備する軍用ロボットが他のエリアと同じルールで動いているならば、これ以上ロボットが追いかけてくることはないだろう。ナナクが周囲を警戒すると、数メートル手前にはアリスが倒れていた。転落の衝撃で、彼女が身につけていた鎧風の衣装もばらばらになり周囲に散乱している。コンテナ車とバギートラックが激突する衝撃でアリスの服の腰ベルトが切れて、二人を結んでいたハーネスが外れたようだった。
結果的にナナクが転落するときの速度が弱まった。もし彼女がいなければ彼はバギートラックと同じ速度で飛ばされて柱に激突していたかもしれない。
「アリス!」
彼はアリスのもとへ駆け寄った。抱き起こそうとするが、目を覚ます気配はない。このような事故が起こった際、人間の場合は脊椎を損傷している可能性があるのでむやみに動かしてはいけない。しかし彼女は外観上の怪我は一切ない。脊椎のような仕組みが人間と同じとも思えなかった。
「アリス、起こすよ。」
そう伝えて肩の後ろに手を回して上体を引き起こす。ぐったりしており目を覚ます様子がない。
そのまま背中から抱きかかえて引きずるようにして、アリスを移動させる。まずはこの危険なエリアから少しでも離れなければならない。
「ナナク、怪我はねぇか。」
ダンが後ろからやってきた。アリスを引きずる様子を見て、大怪我をしている様子はなさそうだと判断したダンは、アリスの両足を持ちあげた。そのまま二人でアリスを運んでいく。
「おい、アリスちゃん。壊れちまったのか。お前、あのくらいの衝突だったらなんともないはずだろ。」
ダンが声をかけるが彼女は反応しない。
「船長違うんだ。後でちゃんと説明するけど、セレスっていうアリスフレームにやられたんだ。」
「あん~?何だそいつは。まあいい、とにかくこいつを運ぶぞ。」
ゲートを抜けて暫く進むと工場のようなものが建ち並んでいた。見覚えのあるエリアだが、ナナクがやってきた農場とは正反対の場所になる。ちょうどステーションを一周したことになる。安全な場所についたので二人はアリスを下ろした。
「おい、ナナク!てめぇ……。」
ダンが拳を上げてナナクに罵声を浴びせようとしたが、ナナクの様子を見てそれをやめた。ナナクは顔をしわくちゃにして今にも泣き出しそうな表情で、アリスを抱き起こして背中を必死にこすっていた。
「アリス、ごめん、僕があんなところに連れていかなければ。アリス、起きてくれ。アリス、もう大丈夫なんだ、起きてくれよ。アリス……。」
アリスに家族だと言った矢先にこのようなことを起こしてしまったナナクは後悔の念に苛まれていた。
「お前の説教はあとだ。アリスちゃん担いで帰るぞ。お前はこれ持ってろ。」
そう言ってダンは摩擦で穴の空いてしまったフライトジャケットをナナクに突き出し、アリスを肩に担ぐようにして背負う。
「まったく、重いなちくしょう。こっちだって足が不自由なんだよ。このまま壊れて動かなかったらスクラップに出すからな、覚悟しろよ。」
ダンが悪態をつく。その言葉を聞いてナナクはますます悲しくなった。どんな強力な敵でも撃破してしまうアリスならば、何があっても絶対に大丈夫。ナナクはそんな風に考えているフシがあった。ところが実際はどうだ。深い考えもなしに彼女を連れ回した結果、あっさりとこんな事態になってしまったのだ。
「おいナナク、そんなところに突っ立ってるんじゃねぇ。帰るぞ。」
アリスを背負ったダンから突かれてしまう。もともと足が不自由な上にアリスまで背負っているダンよりも、ナナクの足取りはずっと重かった。
………
……
…
宇宙船へ戻ってきたダンとナナクは、アリスを救護室へ運び込んだ。ここは一時的にアリスの自室として割り当てられていたのだが、今は実際にアリスという要救護者の対応に使われていた。ナナクは宇宙服をその場に脱ぎ捨てて、ダンと協力してアリスをベッドに寝せてやった。ナナクにはこの光景に見覚えがあった。アリスに最初に出会った日、ステーション外縁部で彼女に救われた日のことだった。あのときはナナクがアリスを背負って帰り、数日後には目を覚ましたのだった。今回も同じように目が覚めるのではないかと祈ることしか出来なかった。
「よし、上を全部脱がせろ。」
ダンがナナクにそう指示する。ダンは救護室の棚からいくつかの機器を取り出そうとしていた。何かアリスを救う手があるのだと思ったナナクは、ダンの指示通りにアリスが着ていた赤いワンピースを脱がし、下着も脱がした。アリスの上半身があらわになる。ナナクは女性の裸をこんな距離で見たのは初めてだったが、ドキドキしたりいやらしい気持ちが沸き上がったりすることは全く無かった。とにかくアリスが回復するのかどうか、それだけが心配だった。ダンは聴診器のようなものを取り出して耳につけ、ピース部分をアリスの腹や胸に当てていた。
アリスに人間のように心臓があるわけではないのに、何をしているのかとナナクは疑問だった。
「船長、一体なにを…。」
「黙って。」
ダンが一喝する。次にダンはベッドに聴診器を当てて、何かを確認しながら体や頭の音を聞いていく。
「動いてる。」
ダンがぼそっとそう言った。何が動いているのだとナナクは聞きたかったが、黙っているように言われた手前、何も聞くことが出来ない。
「今度は背中。アリスちゃん起こしてやって。」
ダンの指示に合わせてナナクはアリスを抱き起こす。相変わらず首はがくんと垂れ下がり、起きる気配がない。今度は背中に聴診器を当てていく。
「うん、中は動いてるな、まだ。」
「え?船長、どういうこと?」
ナナクが思わず口を開いた。ダンは聴診器を外して、それを元の棚にしまった。ナナクはその言葉の意味を早く教えて欲しかった。
「もとに戻していいぞ。」
ダンは説明するのではなくナナクのそう伝えた。そして再び寝かせられたアリスの目を拡大鏡で観察し始めた。手でまぶたを開けたり閉めたりしている。
「中から動作音が聞こえるんだよ。この船の音とは別の音だ。内臓じゃねぇけど、似たような機械がコイツの体の中にいろいろ入ってるんだろ?音がするってことは、動かなくなっても中の機械までは死んでねぇってことだ。目っていうか、ここのカメラ部分の潤滑剤もきちんと出てる。」
ダンは拡大鏡を取り外し、アリスに毛布をかけてやった。
「目を覚ますってこと?」
ナナクが聞いた。それは誰にもわからない。
「そんなの知るかよ。大体、300年前の骨董品だぞ。ましてや軍用品だ。何も分からねぇ。俺たちに出来ることはねぇよ。昨日も補給剤を飲ませただろ?あれで自己補修が上手く働くように期待するしかねぇな。まあ、ダメだったらダメだったで、諦めるしかねぇんじゃねぇの?」
「諦めるって、そんな……。」
「軍用ロボットとか、戦車とか、お前だって2回もこいつに命助けられてるだろ。もう十分だよ。これ以上何を期待すんだよ?」
「家族になろうって言ったんだ。」
ナナクが頭を抱えて下をうつむき、そう言った。いきなり訳のわからないことを言われてダンは混乱する。
「は?今なんて?」
「アリスは、僕と船長がまるで家族みたいだって言ったんだ。だから、僕はアリスも家族になるといいって言ったんだ。この船3人の家族だって。」
「またワケ分からんこと言い出すなお前は。何だよ家族って、恋人ごっこでもするつもりかよ。入れ込むなって言っただろ。だいたいこいつはもともと軍用品だ。そういうふうに出来てねぇだろ。」
「だからそんなんじゃないんだって。」
「あー、そうだ、お前の説教がまだだったな。その、何とかっていうアリスフレームの話も詳しく報告しろ。上へ上がるぞ。アリスちゃんは一旦置いておけ。」
………
……
…
「――で、要約すると、そのセレスって名乗ったアリスフレームがいた研究施設で、アリスちゃんは気を失って倒れた、と。武器か何かで攻撃されたわけじゃないんだな。」
説教と言っていたダンだったが、話題はもっぱら地下の研究施設とセレスの件だった。絶望の表情を見せるナナクに対して叱るつもりはもとよりなかった。自らが重大な過ちを犯したことはよくわかっているからだった。
「そうなんだ。水槽から出てくるナノマシンの中毒だってそいつが言っていた。」
「何だその、中毒って?全身がナノマシンだって言ってたけど、関係あるんかね。」
アリスは先日、自身の身体がナノマシンで出来ている、と言っていた。だからナノマシンがエアロゾルとして気中に拡散しているあの研究室にいたことで強く影響を受けたのかもしれない、とダンもナナクも考えていた。
「どうだろう、その影響で幻覚が見えてるって言ってた。それで、僕にも変な声が聞こえたんだ。嘘みたいな話だけど、僕の銃が大きくなったんだ。」
「なんでアリスちゃんだけじゃなく、お前にまで影響が出るんだ?幻覚が見えるなんて、一体どんな物質だ?ナナクは今は頭がボーッとするとか、そういう症状あるか?」
「ないよ。それに、あの声は幻覚なんかじゃなくて、本当にそこにいた誰かが話しかけてきていたような気がするんだ。」
研究所でナナクが聞こえたあの声は、幻ではなかったと信じていた。実際、小さな拳銃でセレスを撃ち抜き、コンテナ車を呼び寄せて脱出することが出来たのだ。
「いや、幻覚だからそう感じるだけだろ。とにかくお前も今日は寝てろ。細かい話はまた明日する。」
ナナクは納得していなかったが、どう感じたかという話を他人に説明するのは難しい。
「わかった、部屋で休んでる。あっそうだ船長、アリスが起きてきたらすぐに教えてよ。」
「おう、そうする。」
ナナクはそう言ってデッキを出たあと、自室へ戻るのではなくアリスが寝ている救護室へ来ていた。そこでは寝息を立てるでもなく、全く音を立てずに寝ているアリスがいた。ナナクはベッドの下から椅子を引っ張り出して、座った。
「アリス。アリス。僕だよ。起きて。」
声をかけるが彼女が目を覚ます様子はない。
「ごめんよ。僕が悪かったんだ。あんな怪しい人に何も疑わずについて行って。だからさ、機嫌直してよ。」
拗ねて寝ているわけではないことは彼も分かっていたが、こう言うくらいしか無かった。
「そうだ、こんな危ないところはもう行くのはやめるよ。救援も呼ぶし、母港に付いたらちょっと観光しようよ。ね?」
彼女はじっと止まったまま。
「アリス……。」
ナナクは彼女を見つめる。そしてバギートラックからの転落で、顔が汚れていることに今更ながら気付いた。タオルを取り出し、救護室にある小さな蛇口でタイルを濡らして絞り、顔を拭いてやった。体も汚れているかもしれないと思ったのだが、先ほど上半身をすべて脱がしていたことを思い出し、毛布をまくるのをやめた。目が覚めてからまたシャワーでも浴びさせればよいだろう。
目が覚めてから――
本当に目を覚ますのだろうか、とナナクは胸が締め付けられるような思いだった。無表情で微動だにしないアリスの顔を拭く。まるで葬式のようだと感じてしまった。単に気を失っているだけならもう起きてもいい頃だ。
アリスが目を覚ますまで彼はずっとここにいるつもりだったが、どれほど待っていても様子は変わらない。そして椅子に座ったままナナクもウトウトとして寝てしまった。そして3時間ほど経って、救護室の椅子で寝ている様子を見つけたダンに諭され、自分の部屋へ戻っていった。
………
……
…
翌日。デッキではアリスをよそに、ダンとナナクが慌ただしそうに機器のチェックを行っていた。出発の準備ではない。救援要求を送ったものの、その返事がなかったのだ。通信機器を点検するが、通信そのものが断絶しているわけではない。ダンが機器を調べたところ、確実に送信はできていた。受信側の機器もそれを受け取っていた。彼らがいる軌道と月との遅延時間は往復で3秒だ。コンピュータ同士の通信であるからには、送信のみが出来て受信ができない、ということはレアケースである。だとすると、救援要求を受け取った相手が、何らかの理由で何もしていないか、救援要求の返事をしていないか、のいずれかだ。
念のためダンは再度救援要求を送ってみることにした。しかし一通りの確認が終わったあとはすることがない。特にナナクはなおさらだった。これだけ危険な場所だとわかった今、一人で探索に行くという選択はありえない。ナナクはアリスが寝ている救護室へ来ていた。彼は眠ったままのアリスへ語りかけていた。
「アリス、ちょっと困ったことになったんだよ。救援要求を送ったのに返事がないんだ。早く母港に戻って、君とゆっくり過ごそうかなって思ってたけど、ちょっと遅れるかもしれない。あー、そうだ、救援が来た時に、君のことをなんて説明しようか。考えてなかったよ。300年前の戦略兵器のアンドロイドですー、って素直に言ったら大騒ぎになっちゃうよね。ちょっと考えておこう?アリスもさ、いいアイディアあったら教えてよ。」
アリスが寝る様子を静かに眺めながら、時折話しかけている。そんな彼の様子をたまたま救護室の前を通りがかったダンが見ていた。ナナクと目が合う。
「あ、船長。まだアリスは目を覚まさないみたいだね。」
ダンは特に何かを言うのではなく、立ち去った。
………
……
…
更にその翌日。昨日送ったメッセージを再度確認するが、やはり返事がない。ダンにもいよいよ焦りの色が見えてきた。
「どーなってんだよ。パルスガンも無力化したし、アンテナも正常だ。きちんと通信もできてる。なんで救援要求が返ってこねぇ。」
「パルスガンで一回機器が壊れたんだよね。やっぱりどこか故障してるんじゃないかな。」
「そんなのとっくに昨日、全部見たよ。予備部品があるやつは全部入れ替えた。もう出来ることがねぇ。」
ダンの苛立ちはナナクにも伝染する。
「出来ることがないって。仕事に妥協しちゃいけない、最後までしがみつけって、いつも船長が言ってるじゃないか。」
「うるせぇな。だったらお前もなにか方法考えろよ!」
ダンも罵声で応酬するが、誰もいないステーションで二人で言い争っている、という状況に気付いたダンは少し冷静になった。
「あー、すまんナナク。俺が興奮しても仕方がねぇ。ちょっと休んで作戦立て直す。最低限の水と食料はまだ2ヶ月ある。それと、最悪食料が無くなっても、バースから降りれば飯食えるところがあるんだろ?探せば資材もある。まだ慌てる段階じゃねぇな。」
ダンはデッキの窓越しに船外の四方をじっくり観察するように歩き回った。
「ナナク、ちょっと休むか、コーヒ淹れてきてくれ。」
「う、うん……。」
ナナクはデッキを降りてキッチンへ向かったが、途中でアリスのことが気になって、救護室へ顔を出したのだった。彼が今日ここに来たのは朝に次いで2回目だ。
「アリス、ごめんね上で騒がしくして。なかなか救援要求が帰ってこなくてね。ちょっと船長も苛ついてる。まだ帰る予定が立たない。まあでも、この前話したみたいに、食料は沢山あるから大丈夫なんだ。それに無くなったらこの前アリスと一緒に食べた食堂へいけばいいんだよ。この前君が食べてたのってなんだっけ?犬のスープだって聞いてびっくりしたけど、それは昔の話で、実際は普通の肉なんだよね。同じヤツを今度食べてみようと思うんだ。それよりもアリス、一昨日から何も食べてないけど、お腹すいてない?大丈夫?」
なかなか戻ってこないナナクを心配してダンが降りてきた。
「おーい、ナナク。何やってんだよ。……ってこんなところにいたのか。」
「あ、船長。ごめん、コーヒーいれるんだった。」
ナナクが振り返る。
「もういいよ。それよりもお前、いつまでそうしてるつもりだよ。」
ダンはナナクが心配だった。再起動する気配のないロボットにいつまでも話しかけている様は異様だ。
「いつまでって?アリスが目を覚ますまで、ってつもりだけど。」
ナナクは真顔でそう答えた。
「そうじゃねぇ、明日も明後日もずっとやるのか?病気の婆さんじゃねぇんだから、話しかけても意味ねぇよ。」
「そんなことないよ、きっと目を覚ますって。船長だってアリスがまだ動いてるって、言ったじゃないか。」
「そうだけどよ。この前こいつが目覚めたのだって、200年ぶりって話じゃねぇか。だとしたら次目覚めるのも200年後かもしんねぇんだぞ。」
200年という言葉を聞いてナナクは気が遠くなった。アリスはおよそ300年前に生まれて今ここにいるらしい。人間とは時間の感覚がまるで違うのだ。しかしナナクはそれでも構わない、とすら思っていた。彼女は命の恩人だ。今更見捨てるつもりは毛頭ない。ふとベッドの脇に目をやると、一昨日脱がした服が丸められていた。バギートラックから転落した時に全体が汚れており、2、3箇所穴も開いている。ナナクはこれを洗濯して、修繕してやった。そしてきれいに畳んでアリスの枕元に置いてやったのだ。いつ起きてもいいように、である。
………
……
…
そして、アリスが倒れてから3日目。朝早く、もう日課のようにアリスに声をかけるために救護室へやってきた。
「アリス、おはよう。」
そう言いながらベッドの下から椅子を引っ張り出して座った。再びアリスの顔へ目線をやると、まぶたがピクッと動いたような気がした。
「!?アリス……?」
彼女のまぶたがゆっくり開く。そしてそのまま起き上がった。突然の出来事にナナクはすぐに言葉が出てこない。アリスは目線だけをナナクの方に向けて言った。
「ここはどこだ?今がいつかも知りたい。」
いきなりの質問に驚いてしまうが、ナナクは聞かれたことを素直に答えた。
「えっと、君が倒れてから宇宙船まで運んできたんだよ。ここは君の部屋だよ。今日は5月21日。君は3日も寝ていたんだよ。」
アリスはナナクを見たままじっと動かない。ここで彼は、はっと初日に彼女が目を覚ました時の様子を思い出し、言い直した。
「ここは雪玉……いや、地球の軌道を回っている宇宙船の中だよ。今はUTCの2367年。」
また記憶が混乱しているのかもしれないと思い、『300年前のアンドロイド』にも分るように、こう伝えたのだ。
「そうか、ありがとう。最低限の記録を急いで引っ張り出すから3分、時間をくれ。」
そう言うとアリスは上体を起こしたまま腕を組んで目を閉じてしまった。
「アリス?」
問いかけるが微動だにしない。
「船長!船長~!」
ナナクは救護室から頭を出して大声で叫んだ。呼びに行きたいところだが、ここを離れるわけにはいかない。ダンがいるのは2つ上のフロアのドアの先のデッキだろう。大声で呼んでも聞こえないかもしれない。
3分と言っていた。とにかく3分待ってみよう。
「よし。」
3分後にアリスは目を開けた。
「アリス?」
「ああ、そうだ。私はアリスだ。私が決めた私の名前だ。」
アリスが本当に目を覚ましたのだ。200年かかる、とダンに言われだときはどうしようかと思ったが、今日、目を覚ましたのだ。ところが先日までとは少し様子が異なる。何より言葉遣いが全く違う。
「私は確かセレスのナノマシンの散布にやられたはずだが、なぜ私はここにいる?お主が運んできたのか?」
「う、うん。あのあと僕がコンテナで君を連れ出して、船長の車でここまで逃げてきた。」
「そうか、なるほど、お手柄だな。感謝する。船長にも礼を言わないとな。あと帰還のための作戦も考えないといかん。」
そう言ってベッドを降りて立ち上がった。アリスが自分のことをはっきり認識していたことが嬉しかった。どこか壊れてしまったわけではない。一つ問題があるとすると、その妙な話し方だけだ。アリスがその妙な口調で聞いてきた。
「ときにナナク、私が裸なのはなぜだ?まあ、お主が私の体で多少『お楽しみ』するくらいならば怒ったりはせんが……。」
「ちっ、違うよ。君を手当てするのに脱がしただけだよ。服は洗濯して横に畳んである。外出てるから、着替えたら呼んでね。」
そう言ってナナクは部屋の外へ出て行った。アリスが着替えてすぐに部屋の外に出てきた。
「アリス……いきなり起き上がって大丈夫なの?」
「それは問題ない。だが、少し腹が減ったな。キッチンへ行くぞ。」
そう言うと立ち尽くすナナクを置いて進んでいってしまった。
「アリス、朝食ならこれから用意するよ。デッキで待っていていいからさ。」
ナナクもアリスを追いかけてキッチンへ入っていったが、彼女は大きなボウルを取り出して、水を入れていた。
「ナナク、砂糖はどこだ?」
いきなり不思議なことを聞いてきたな、と思いながらも彼は答えた。
「えっと、その右下の引き出しの中だけど、何をするの?」
するとアリスは砂糖の缶の蓋を開け、ザザーッと、水の入ったボウルの中に中身を全部ぶちまけた。そこにスプーンを入れて混ぜる。濃い砂糖水を作っている様子だが、一体何をするのかと思っていると、ボウルからコップにその砂糖水を移し、一気に飲み干した。2杯、3杯、と続けて飲み干し、ボウルが空になった。
「うむ、触媒に染み渡るな。品のある食事ではないが、これが一番効率がいい。私が軍事基地にいた時に古い文献で読んだことがある方法だ。」
その様子をナナクがポカンと口を開けて見つめていた。
「ああ、言っておくが、あくまで緊急用だからな。普段から私を砂糖水だけで養えると思うなよ。」
ナナクはまるで理解が追いつかなかった。いきなり目を覚ましたかと思ったら、別人のように行動しだしたのだ。しかし、本人はあくまでアリスだと主張している。
「あのさ……。君は本当にアリスなの?」
「ああ、そうだが?まあお主の疑問もよく分かる。今から説明するから、上へ行こう。船長もいるのだろう?」
二人はデッキへ上がっていった。
………
……
…
デッキではナナクとアリス、そしてダンが集まっていた。ダンが口を開いた。
「おおアリスちゃん、動けるようになったんだな。良かった良かった。ナナクがメソメソしてて大変だったんだ。」
「船長、わざわざそんな事言う必要ないだろ。とにかく、回復してよかったよ。」
二人のいつものやり取りだったが、その様子を見たアリスが答えた。
「ああ、私が不覚を取ったところで、ナナクと船長が救助してくれたと聞いた。船長にも礼を言う。ありがとう。」
そう言って右手を軽く上げるようなポーズを取った。驚いたのはダンだ。
「うん?アリスちゃん、なんかおかしくない?」
「そうなんだ。ちょっと雰囲気が変わったっていうか……。」
「まず二人にはその説明をしないといかんな。私のシステム上に少し問題が起こった。先日までの話し方、考え方が今はできない。そうだな、自転車に乗れていたはずなのに、乗り方を忘れてしまって乗れない、という感覚といえば通じるか?」
ダンもナナクも自転車という言葉が分からなかった。
「二重人格ってこと?」
ナナクがこう言った。ダンも同じことを考えていた。
「似ているが違う。記憶も一つだし、意識も一つだ。3日前までの私と別人、ということではない。もっとも、作られた体で意識というのも難しい話だがな。アリスフレームのALI、言語と思考を司るコア部分の仕組み、その精神の構造がガラッと切り替わっている、というのが正確だ。何らかの理由でそのパターンのうちの一つ、一番良く機能していた水準のものを失ったようだな。今の私のこの思考パターンは私が予備として保存していたものだ。」
いきなり多くの情報を話したのでダンもナナクも圧倒されてしまっていたが、少し考えてダンが聞いた。
「途中の話がよくわからねぇんだけど、要するに今回の事故でアリスちゃんのデータが一部消し飛んだから、バックアップで動いてるって感じ?」
「そうだ。二重人格という例えより、今の船長の理解のほうがよほど正確だ。厳密にはデータではないがな。」
データを失ったと聞いたナナクはとても心配だった。今までアリスと過ごした日々の記憶がなくなっているのではないかと思ってしまったのだ。
「アリス、それって記憶喪失ってこと?また思い出すんだよね?」
「安心しろナナク。データではないと言っただろう。記憶喪失とは原理が違う。お主から言われた家族だの何だのって話は覚えているからな。ずっと一緒だ。」
そう言ってニヤリと笑う。ずっと一緒、と言われてナナクは安心したような小恥ずかしいような、言いようのない嬉しい気持ちになった。そしてアリスは深刻そうな顔に戻って話を続けた。
「それよりも、なぜ私のパターンが失われたのか?というのが重大な問題だ。どれだけ探しても私のALI、頭の中には残骸すら見当たらん。まるで誰かにプログラムをまるごと奪われたような、そんな芸当ができる敵がここにいる、ということだ。あいつは危険だぞ。」
そう言ってアリスはひじをテーブルに立て、手をあごにつく。
「アリスちゃんさ、実はナナクが連れて帰ってくる時にトラックから転落してんだよ。もしかして頭打った?その時にデータが一部飛んだとか?」
ダンは未だに、アリスの様子がおかしくなったのは単に衝撃を受けて故障したのだという理解をしていた。もちろんそんな簡単な事情ではない。アリスが反論する。
「馬鹿にしているのか。300年前とは言え、私は人類統合軍の最終戦略兵器だぞ。交通事故くらいで壊れるわけなかろう。犯人はだいたいわかっている。この軍事ステーションの奥の方に、セレスと名乗るアリスフレームがいたんだよ。そいつに罠に嵌められた。あの時はナナクがノコノコとついて行ったからな。私も巻き添えだ。」
そう言ってナナクの方をちらっと見る。先程まで安心していたナナクは不意打ちのように非難されて狼狽えた。今回の件はナナクが勝手に行動したことが原因だったのだ。
「アリス……ごめん。本当になんて言ったらいいか。ごめんよ……。」
両手で顔を覆って謝罪の言葉を繰り返す。しかしアリスはそんな様子のナナクを気に留めるでもなくダンに聞いた。
「まぁ、実際起こってしまったことは仕方がない。船長、これからどうするつもりなのだ?確か救援を呼んだと言っていたが、来るまでずっと待つつもりか?」
「アリス、そのことなんだけど……。」
「救援要求は送った。だが応答がねぇ。昨日も一昨日も通信機器のチェックをやったけど、通信そのものは一切異常なしだった。」
ダンは手短に現状を伝えた。
「それはつまり、救援が来ない、ということか?」
「来ないって言うほどじゃねぇけど、市側の救援部隊に何か問題が起こってるか、単純に担当者が大ポカやらかしてるか、かもしれねぇ。」
「それは来ないと言っても差し支えないのではないか?」
「何度も言うけど、確かに救援要求は向こうに届いてんだ。応答データもきちんと受信してる。」
ダンは少しイライラし始めた、このやりとりは昨日も一昨日もナナクと話したばかりだ。ここでアリスはもう一つの可能性に気づいた。
「船長、なりすまし攻撃の可能性は検証したか?」
「なんのことだ?」
「通信障害にも色々ある。単純なリンクダウンだけとは限らないだろう。ここは軍事ステーションで、ついこの前までジャミング攻撃されたほどだ。なりすまし、盗聴、そういう事も考えなければいけないのではないか?」
ダンは通信機器の技術者というわけではない。アリスの言うことがあまり良く理解できなかったが、通信に対する攻撃が一つだけ、と信じ切っていた自分を恥じた。そんなダンの表情を見たアリスは立ち上がり、コックピットへ向かっていった。
「通信のログを確認する。古そうな設備だから、私でも分かるだろう。安心しろ、この分野は私の専門だ。すぐに解決して救援要求とやらを送ってみせるさ。お主たちは朝食の時間にしていいぞ。私は先程エネルギー補給を済ませたからな。」
「お、おい、アリスちゃん。勝手に……。」
コックピットにどかっと座るアリスに何かを言おうとしていたダンであったが、そのあまりに自信に満ちた様子に気圧されて言えずじまいだ。ダンとナナクは見つめ合い、小さな声で話した。
「アリスちゃん拾った責任取れって言ったけど、こりゃ大変だぞ?」
「早くもとに戻らないかな。」
「う~ん、でもこれはこれで頼りになりそうだし、良いんじゃねぇの?」
ひそひそ話していたつもりだったが、アリスが割り込んできた。
「二人に言っておくが、私の聴力ゲインは人間の何倍もあるからな。」
ダンとナナクは驚いたが、思い出してみれば農場で遠くにいる犬型ロボットの発する音を見つけたのは彼女だったのだ。地獄耳とはこのようなことを言うのだろうか。
「私だって、思考パターンをもとに戻したい。あれは本当によく出来ていた。一度奪われたくらいで諦めるわけにはいかん。セレスを探して落とし前をつけさせよう。私はコソ泥には容赦はせん。シャロンのようなお遊戯とは違うぞ。だから救援を呼ぶのは止めないが、できれば取り返すまではここに留まりたい。今度ばかりは本気で行く。」
アリスは手を止めずにこういった。先日のシャロンとの死闘ですら遊びと表現する彼女の言い方にナナクは驚いた。しかしそれよりも、取り返すという言葉がナナクに響いた。
「もとに戻るってこと?」
ナナクは期待を込めてアリスに聞いた。
「取り返せれば、だな。あいつが何を考えているのかは分からんが、私をただ破壊するだけならこんな器用なことをやるまでもない。奪われたパターンは消さずに何処かに保存、あるいは転用されているはずだ。転用だと厄介だな。そのシステムはきっと恐ろしく強いぞ。」
アリスは話しながら猛烈な勢いで端末を操作している。一体何をしているのか、ダンにもナナクにもわからないほどだった。
「よ~し、これで入れそうだ。今からそちらへ行くからな。」
アリスがそうつぶやいたがナナクたちにはよく聞こえない。
「アリス?今なにか言った?」
「いいや、独り言だ。今から少し集中するから、話しかけないでほしい。」
そう言うとアリスは目をつぶり、端末と船内の無線通信に意識を集中させる。自分の意識のみを機器の中に侵入させるイメージだ。ナナクが何度か使っていたドアロックのハッキング装置と表面上は近いかもしれない。彼女が今行っているそれは、自らの精神と機器の入出力インタフェースを直結させる行為だ。手を使って端末を操作することと比べて何万倍も高速で司令を送り、応答を読み取ることが出来る。
彼女が行っているのは『プロジェクション・システム』と呼ばれる技術の応用だ。高度なバーチャルリアリティーの対象を仮想空間ではなく、現実のロボットに投影する方式だ。彼女が剣での戦い方をその師匠から伝授してもらうためにアリスフレームと並行して開発された技術だった。技術的には、その逆を行えばロボットや人工知能が、物理的に存在するシステムに侵入することができる。それは人工知能にとっては仮想空間に入り込んだように知覚されるだろう。これは逆方式ということで『インバース・プロジェクション』と名付けられていた。自我すら持つ、高度な人工知能を得るに至ったアリスフレームにしか出来ない芸当だ。
ハッキングは無事に成功し、真っ暗な空間に、宇宙船を制御するコンピュータのデータが飛び交っている。そこにアリスが浮かび上がり、データを直接観測する。仮想化されたマルチ処理インスタンスが何万人にも影分身したアリスとなり、船内を縦横無尽に飛び回っている。機器の現在の状態、過去の記録、その全てを点検している。人間ならばAIの補助を使ったとしても数週間かかるような情報処理であっても、たったの数十分で終わらせてしまおうというのだ。ちょうど、ナナクたちが朝食を取っている間に、である。船内に負荷がかかっているのか、照明がときおりチカチカ点滅している。ダンは少し心配になった。
「おーい、アリスちゃん。船壊すんじゃねぇだろうな。古いんだから無理させるなよ。」
「話しかけるなって言ってたから、黙ってようよ。でも座ったまま動かないで何やってるんだろ。……まあいいや、朝食用意してくるよ。」
「おう、頼んだぞ。」
ナナクは朝食の用意をするためにキッチンまで降りていった。
………
……
…
およそ30分後。ナナクが朝食の片付けを終わってデッキに戻ってきた頃、アリスが立ち上がった。
「アリス、終わったの?」
「ああ、一通り点検ができた。今から説明するぞ。」
アリスはコックピットからデッキ中央のテーブルの方へ戻ってきて、椅子へ座った。
「まず一番重要な話だが、救援は来ない。」
「なんでそんな事が分かんだよ。」
断定するようなアリスの言い方に、少し反感を覚えたダンが苛ついたような口調で聞いた。
「船長が送った救援要求は、一旦このステーションに奪われて、どこか別の場所に再送信されていた。最終的な転送先までは分からなかった。これを知りたい場合は管制塔まで行かないとならん。だが少なくともこの宇宙船が先々週まで通信していた相手ではない。そこはお主たちが母港と言っていた場所だろう?その母港ではないところに転送されていた、ということだ。」
「先々週といえばちょうどこのステーションに接近する前だ。でも、通信が奪われるって、なんでそんな事になってるのさ。」
ナナクが聞き返す。
「ジャミングされていたほどだからな。奴が一枚噛んでいるのだろう。プルートは我々を逃がすつもりはない、ということだ。」
プルートとは、先日出会ったアリスフレームのことだった。アリスのことを神と呼び、音もなく接近して来て嫌な圧倒感があったことをナナクは覚えている。
「とりあえずこのままだと通信が全漏れだからな。一旦止めた。結局我々が孤立している状況は変わらん。」
「アリス、通信を止めるんじゃなくて、母港に送って欲しいんだけど。だめだったら市内か月のどこでも良いよ。とにかく僕たちが緊急事態だって知らせないと。」
「だからそれが出来ないと言っているではないか。ジャミングを受けているのだからな。管制室まで行ってジャミングを止める必要がある。」
3人はその場で黙ってしまった。パルスガンをアリスが解体して通信が復旧したと喜んでいたが、結局振り出しに戻ったのだ。
「私の説明は終わり。それで、船長。どうするのだ?」
アリスはダンに問いかけた。作戦立案するのはあくまで船長であるダンなのだ、とでも言うように。ダンは少しの間、考えた後にこう言った。
「探索を続ける。管制塔へ乗り込んで、この船を離脱させるって作戦を再開させるぞ。」
ここ数日で探索を深めていったものの、結局状況は何も進捗しなかった。とは言え悪化したというわけでもない。先日の騒動で結果的にステーション一周を踏破し、管制塔を含む中枢部分の場所も分かったのだ。あと一歩かもしれない。ダンはそう考えていた。もちろんリスクはある。しかしアリスも再び動き出し、探索を再開できる条件が揃ったのだ。
「そうか、分かった。それでは行こう、ナナク。」
そう言って立ち上がる。アリスの表情が心なしか嬉しそうだ。しかしナナクとしては今すぐにここで出発するわけには行かない。
「え?もう行くの?きちんと準備してから行かないと。」
「ああ、もちろんそうだ。だから今すぐ準備しろと言っているのだ。」
ナナクの言うのはもちろんそういう意味ではない。
「アリスちゃん、準備って言っても、事前の情報収集とか色々あるわけ。いつもブリーフィングやってるだろ?」
「アリスも少し落ちつこうよ。こういう時に慌てるのは一番良くないんだ。」
「確かに出る前に毎回やっていたな。あの話はそんなに重要なものだったのか?想定通りに進んだことが一度もなかったが。」
アリスの指摘はもっともだったが、それはこの現場が特殊だっただけにすぎない。ナナクが反論する。
「確かにそうなんだけど、事前の情報共有は絶対に必要だろう?それがあるから、想定外のことが起きたときにでも、安全に戻ってこられるんだよ。」
「お主がそれを言える立場なのか?命令を無視した挙げ句に、一人で無事に帰ってこられていないだろう。」
「え?あ……いや、その……だから、ごめんって言ってるじゃないか。」
色々と想定外のことがあったのは確かだが、ナナクの勝手な行動がいろいろな問題を起こしていたのも事実だった。
「お主を責める意図はない。単に事実を述べただけだ。それにお主の勝手な行動がなければ今も私はゴミ箱の中だ。感謝すらしている。」
今のアリスは発言に遠慮がないな、とナナクは思った。ダンも同じだった。
「とにかく、出るのは午後になるだろう。アリスちゃんもナナクも、日常業務と、装備品の準備を今のうちにやっておいてくれ。俺はこの前収集したデータを見て再度ルート検討する。」
ダンは何とかこの場をまとめようとした。気を抜くとアリスに全て持っていかれかねないからだ。
「ああ、分かった。今日もナナクと一緒だな。楽しみだ。」
アリスがニヤリと笑ってデッキを出ていった。
「え?それってどういう意味?ねえアリス?」
ナナクが呼び止めるがそのまま彼女は階段を降りていってしまった。
………
……
…
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