第7話:決着


     ――― あんまりその子をいじめないであげてほしいの

        『壊れかけ』でもあなたの大切なお友達なのだから ―――




 二人の目の前に現れたシャロンは前回同様に全身に張り付くような黒い薄着を身につけ、黄色いパーカーを羽織っている。特に武器を持っているような様子はなく、いつも従えている黒い犬型のロボットの姿もない。彼女はいつものペースで話し始めた。


「さっき、アンタ達の宇宙船まで行ったんだけど鍵かかっててさ。ちょうど出かけてたのか。」


 ナナクは、自分たちの宇宙船まで彼女が来た、という事を聞いて驚いた。今までこのステーションで見かけたロボットは自分のエリアから外に出ることはなかったが、アリスフレームは別、ということだ。彼女たちの口ぶりならばこのステーション内部を自由に往来できそうだということは予想できていたが、それはバースとて例外ではない。その気になれば宇宙船を破壊することも出来てしまう。


「わざわざ僕たちの宇宙船のところまで来るなんて、僕たちに何の用?」

「用事ってのは、昨日の続きやろうと思ってさ。昨日はプルートに邪魔されたじゃん?」


 続き、とはまさか昨日の戦闘の続き、ということではないか。


「僕たちは君に用はない。昨日会ったプルートって奴を探してるだけだ。」

「ならちょうどいいや、アンタ達ぶちのめしてプルートんところに連れてこうと思ってたんだよね。最近ほんと暇でさ。ちょっと遊んでよ。」


 ナナクは背負っていた対物ライフルを肩から下ろして両手で構え直した。多機能ライフルとは比較にならない重さで構えるだけでも腕の全力が必要だ。本来は地面などに設置して使う大きさの銃だろう。


「ところで兄さん、また物騒な獲物持ってんね。流石にヤベェだろ、それは。本気でアタシと戦うつもりなの?やめといたら?アリスフレームが銃使うメリット少ないって知ってるでしょ。あ、それとも兄さん、7000番台って銃持って戦うように――」

「ナナク。帰りましょう!」


 シャロンの話の途中だったが、アリスはあえて大きい声でそう遮って、ナナクの手を引いて帰りの方向へ向いた。このような輩は無視するに限る。


「ちょっと待ちなよ。これな~んだと思う?」


 シャロンが突然そんなことを言い出し、思わずナナクが振り返ると、左手に小さいカードのようなものを持って手をヒラヒラさせていた。ナナクが立ち止まって見つめ、次の言葉を待つ。


「これな~んだと思う?」


 再度彼女が聞いてきた。


「何だよ!」


 ナナクがイライラして聞き返した。


「実はさっきアンタたちの宇宙船まで行った時にさ、爆弾仕掛けておいたんだよね。ここって連合軍の基地だったの知ってるでしょ?いろいろ便利なガジェットあるんだよ。アタシがこれ押したらドカーンって。」

「なっ!」


 冗談だと思うが、コイツならやりかねない。アリスとナナクは同時にそう思っていた。シャロンは手に持った起爆用のリモコンを真上に放り投げて再度キャッチした。


「これ欲しかったら追いついてみな。追いかけっこ。」


 シャロンはそう言うと衝撃音を上げて高く跳躍した。そのままバク転気味にタンクの上に着地する。アリスも即座に抜刀して走り出し、勢いよく飛び上がってシャロンを追う。シャロンはそこからさらに跳躍して設備の上や隙間を駆け抜けていく。まるで野生の猿のような動きだ。不必要にステップを踏んだり空中で回転したり、超高速でダンスを踊っているようにも見える。


「知ってる?パルクールっての。もうず~っと一人でやっててさ、そりゃあ飽きるんだよ。」


 シャロンはこの工業プラントの位置関係を熟知しているように、壁の向こう側の見えない位置だろうが気にせずに飛び込んでいく。一方でアリスは彼女を見失わないようにするだけで必死だった。驚異的な身体能力を持つアリスであっても、細い通路や設備のフレームの上を自在に飛び回るような芸当はできない。大小、高低、様々な設備が所狭しと並ぶ工業プラントのエリアをシャロンは縦横無尽に飛び回る。彼女は積極的に逃げるわけでもなく、アリスを翻弄して楽しんでいるようだった。


 アリスは彼女を追いかけて迷路のように組み立てられた狭い通路を走り抜けていく。二人はナナクの視界からとっくに消えていた。ナナクにはシャロンを追いかけ回しているアリスの足音が遠くから聞こえるだけだ。シャロンは余裕の表情を崩さず、不必要に上下に移動して自分の動きを見せつけているようだった。手に持ったリモコンをアリスの方めがけて高く放り投げて、空中で再度キャッチするような態度すら見せている。リモコンを奪い返そうとアリスも大きく跳んだ。しかしわずかにリモコンに届きそうもない。そう判断したアリスは空中で迎撃するようにシャロンに斬撃を仕掛けるが、タイミングを合わせて体を丸めて回避されてしまう。アリスに捕まるとは全く考えていない動きだ。まだアリスは諦めない。


 逃げるシャロンの行き先には大きな公園があった。そこにはシャロンが登るような足場がない。捕まえるチャンスだと思ったアリスは着地点に先回りするように公園の入り口へ走り込んだ。それを見ていたのかどうかは分からないが、シャロンは公園に飛び降りるのではなく、通路の先に不自然に差し込まれていた鉄パイプを両足で踏みつけ、そのままバネの反発力を使うようにして遥か高くに跳躍していた。


「残念で~した~。こっちまでおいで。」


 シャロンはアリスに見せつけるように手足を大きく開きながら上空からアリスを見下ろし、公園の高い電灯の上に逆立ちの状態で着地した。着地の衝撃で照明が割れて砕け散り、鉄製の電柱がビンビンと唸りを上げる。そのまま左右に電柱を揺らして勢いをつけて、もとの足場まで再度跳躍する。そして付近で一番高い設備の鉄骨部分に足をかけ、コウモリがぶら下がるような体勢で立ち止まった。アリスは公園の入口から彼女の動きを観察していた。


「やっぱりギャラリーいると楽しいね、これ。早くこっちまで来なよ。もう逃げないからさ。」


 彼女の言う通り、一番高いところにぶら下がっている状態では逃げようがない。シャロンの挑発に乗った訳では無いが、アリスは通路から大きくジャンプして彼女を捉えようとした。しかし踏み込む途中でバランスを崩し、地面に転落してしまった。アリスの全身に衝撃が走り、動きが止まる。


「あれ?姉さんどうしたの?もしかして調子悪いの?」


 シャロンの指摘はその通りだった。パルスガンを解体するために宇宙空間へ出たダメージは決して小さくなく、全力が出せないだけでなく、平衡感覚も鈍い。とても空中を飛び回るシャロンと戦える状態ではない。シャロンはそのままぶら下がっていた足を解いて、地面に着地し、アリスの近くまで歩いてきた。その瞬間にアリスは素早く反転し、起き上がりながらブロードソードを拾うとその勢いのまま斬りかかった。シャロンはアリスを飛び越えるように跳躍して回避した。


「おおっと、あっぶね。」


 体調が万全でない上に空中戦では分が悪いと判断したアリスはその場で武器を構え、攻撃する体勢を取った。シャロンが逃げるつもりがないのならば無理に追いかける必要がない。今のように油断して近づいてきたところを仕留めれば良い。そんな様子に気づいたシャロンが公園の先を指差して言った。


「じゃあ、ゴールはあそこ。ケルちゃんがいるでしょ?」


 彼女が示す先をアリスも見つめた。彼女が持つ犬型ロボット3体が座って待っていた。シャロンは自身が示した場所めがけて走り出し、最後に大きく跳躍して体操選手のようにスタッと着地した。そのあとをアリスが追いかけ、攻撃態勢へ入ったが、シャロンは先程のリモコンをアリスへ向けて放り投げてきた。


「は~い、これあげる。」


 アリスは急停止し、構えを解いてリモコンを受け取ろうとしたが、剣を握ったままリモコンをキャッチすることが出来ずにバランスを崩して転倒してしまう。


「姉さんマジで調子悪いの?それともどこか怪我してる?」


 シャロンが少し離れたところから話かけてきた。アリス自身も体の異常を感じていた。宇宙空間でのダメージではなく、ナノマシンの枯渇による症状なのだろうか、身体のバランスが上手く取れない。彼女はその言葉を無視し、自分の近くに転がっていたリモコンを即座に拾い上げた。武器を構えて睨みつける。


「ってか、ゴールの瞬間から斬りかかってくるなんて、姉さんせっかちだね。あー、まさかと思うけど、その爆弾の話、信じてるわけないよね?」

「どういうこと?」

「いや、アンタたちの宇宙船をマジで爆破なんてするわけ無いでしょ。アンタたちが宇宙に放り出されたらプルートに怒られるし、アタシの遊び相手もいなくなる。」


 まさか、である。二人はシャロンに一杯食わされたのだった。しかしまだ安心する訳にはいかない。彼女の不規則な言動からすれば何も信じることは出来ないし、彼女を無視して帰ることはできない。ナナクを置いてここまで来てしまったが、かえって良かったかもしれない。ナナクが狙われる心配をしなくて良い。


 思案を巡らせるアリスをよそに、シャロンが話を続ける


「じゃ、前座はこれくらいにして、本番行こうか。今日は最初から本気で行くよ。」


 そう言って犬型ロボット3体を手元まで呼び寄せると、ぐにゃりと変形して昨日見た3本刃の黒い大剣となった。シャロンはアリスと戦う気があるようだ。アリスにとってはむしろ好都合だった。下手に逃げられるよりは、ここで倒して捕まえるなりして無力化すれば良い。そうすればあとはゆっくりとプルートを探して、離脱のための交渉をすればよいのだ。アリスは武器を構えてシャロンの出方を待つ。


「姉さん、動かないならこっちから行くよ!」


 シャロンが大剣を大きく振りかぶって斬撃を仕掛けた。アリスは素早いサイドステップでそれをかわし、カウンター気味に斬りかかる。しかしシャロンの反応速度も決して遅くはなく、その大剣で受け止められてしまった。シャロンがわずかに体制を崩す。アリスが追撃の動きを見せるがシャロンは弾かれた勢いを利用してバク転で距離を取って。


「うわっと。姉さんの打撃、いっこいっこ重いんだよ。その武器、なんか仕掛けあんの?」


 特に仕掛けがあるわけではない。シャロンの体重移動が素人なだけだ、とアリスは思っていたが、わざわざ口に出す必要はない。再度シャロンが攻撃を仕掛けてくる。何度やっても意味がない、と言うようにアリスは迎撃の構えを取る。構わずシャロンが踏み込んできたが、アリスの動きを見て彼女はそのまま大きく跳躍してアリスの背後に回り込んだ。ガードされるつもりで打ち込んでいたアリスはその場でよろけてしまう。背中からシャロンが襲いかかるが、アリスは背後に素早く剣を振ってシャロンの大剣を弾き返した。吹き飛ばされたシャロンはまともな受け身も取らずに背中から転倒した。反撃のチャンスだったが、アリスの視界も傾く。徐々に具合が悪くなってきている。手足は動くが、何故かバランスが取れない。もう何分も戦い続けることはできそうもない。


 シャロンが素早く立ち上がって二度三度バク転をして距離を取った。


「おー、怖い怖い。近づくのやめよ。姉さん、いいもの見せてあげる。これ、飛ぶんだよ。」


 そう言ってシャロンは大剣を大きく横に振ると、3本ある刃のうちの一本が飛び出した。ブーメランのように回転しながらアリスの左側面めがけて飛翔してきた。アリスは大きく姿勢を下げてそのブーメランをかわした。空を切ったブーメランは風切り音を残してシャロンのもとへ戻り、もとの大剣と再結合する。


「じゃ、次、2本ね。」


 シャロンがそう言うと左右に大剣を振り、2本の刃が左右から挟み込むようにアリスに襲いかかった。円弧を描くとは言え予測は容易な動作だ。途中で軌道が変わる様子もない。アリスはバックステップでこの2つもかわす。


「はーい、次3本。」


 何度やっても同じことだと言うように、アリスは一本一本を冷静に対処する。


「そうそう、それくらいなら余裕だよね。最後、連続で行くよ。」


 シャロンはそう言うと、先程と同様に3本の刃をブーメランにして投げつけてきたが、今度はシャロンのもとに戻ったブーメランを間髪入れずに再度投げつけてきた。3本のブーメランが常にアリスを狙っている状態だ。アリスはその全てをギリギリでかわしているが、次第に反応速度が鈍っているのが自分でも分かる。徐々に視界と平衡感覚が失われていく中、シャロンの動きを警戒しながら全方位から襲いかかる3本の刃に対処するのは困難だ。


 ついに一本のブーメランがアリスの背中を捉えた。伏せても間に合わない。瞬時にそう判断して苦し紛れにジャンプする。ギリギリで体を捻り、そのブーメランはスカート部分を切り裂いただけだったが、すぐさま次の次が襲いかかる。右足にヒットし、アリスの下半身全体に衝撃が走った。しかし、ここでじっとしているわけには行かない。アリスは近くに落ちたブーメランを見つけると、即座に腕の力だけでブロードソードを叩きつけた。ブーメランは大きく2つに折れて弾け飛び、剣を振り下ろした反動でアリスも土埃と一緒に跳ね上がる。


 ちょうどその時、シャロンも落ちたブーメランを拾いにアリスに接近していた。今度こそチャンスは逃さない。アリスは更に一歩シャロンへ接近して突き刺すようにブロードソードを伸ばした。弾け飛んだブーメランに気を取られていたのか、それとも純粋な実力の違いか、アリスの素早い攻撃にシャロンは反応しきれない。


 ブロードソードの切っ先がシャロンを捉えた。


 これで決まったかとアリスは思ったが、手に伝わった感触はそれを否定した。装甲のような硬いものを切り込んだような重さを感じたのだ。アリスは一歩引き、シャロンを向いて武器を構え直した。自身の足にもどれほどダメージを受けたのかわからないが、まだ立てる。一方でシャロンは左手で脇腹を押さえている。立ち上がったアリスを見てシャロンは少し驚いている様子だった。攻撃を止めて話しかけてきた。


「え?マジ?今ので足いったと思ったんだけど、表面スパッと切れただけじゃん。シールド無ければアタシのほうがやられてたよ。ヤバい、ヤバい。姉さんの服、普通の布に見えるんだけど、アタシのヒュドラみたいに硬化すんの?」


 アリスはあえてシャロンの誘いに乗ってみた。


「特別なことはしてないわよ。一体何の話?」


 彼女のことだから、またペラペラ喋りだすに違いない。その間にダメージを確認して体制を整える作戦だ。案の定、シャロンは続きを話し始めた。


「アタシがいま着てるこの黒いの。ケルちゃんみたいに変質できるんだよ。ここって攻撃ロボットいっぱいいるっしょ?鎧みたいにしておけば撃たれてもダメージがない。」


 アリスがシャロンの体をよく見ると、黒い薄着のように見えていた服が今は全身を隙間なく無く覆っており、ウロコのような模様が見える。昨日戦ったときにも、ナナクのピストルの弾を弾き飛ばしていたのがちらっと見えたが、装甲で全身を覆っているのだ。4脚ロボットに変形する黒い犬もそうだが、恐らくアリスと同様のナノマシン技術の応用だろう。彼女が自身の体を強化するのと同じ仕組みだ。そう考えると、彼女が使うブロードソート、対物ブレードであっても容易に貫くことはできないだろう。


 アリスが攻撃方法を考えている間も、シャロンが話し続けている。


「まぁ不意打ち食らうと間に合わない時あるけど。この前アンタたちがライフル撃ってきたときみたいに……って、そういえばさっきの兄さんどこ行ったんだろ?」


 シャロンは立ち止まって辺りをキョロキョロと見回した。ここがチャンスとばかりにアリスが攻撃態勢に入る。


「姉さん、やっぱりせっかちだね。みんなに言われてるでしょ?」


 シャロンは身を引いて避けようとするがアリスは更に踏み込んで追いかける。アリスの攻撃を受け止める、あるいは回避しようとするが、全てをいなし切れずに、明らかにアリスのほうが押している。遊びに付き合わずに最初からこうしていればよかったのだ。アリスは接近戦なら誰にも負けない。


 右に、左に、前に、前に、とひたすら追いかけながら剣を振るう。跳躍での逃亡もブーメランでの反撃も許さないほどの連続攻撃だ。もはや視力も平衡感覚も関係ない。身に染み付いた動きの記憶だけで敵を追い詰める。何度も何度も、彼女は今までずっとこの戦い方で敵を制してきた。決定打にはならないが、シャロンは何度も斬撃を浴びて彼女の体を覆っている黒いアーマーには何筋も傷が付いている。一撃で倒せないならば繰り返してダメージを蓄積させるだけだ。対物ブレードの対抗策、すなわち『対』対物ブレードの装甲へは単純だがこの方法が有効だ。


「ちょ、ちょ、ちょっと。姉さん速いって!降参、降参っ。アタシの負けでいいよ!」


 アリスは止まらない。適当に言いくるめられて、また逃げられてはたまらない。一度完全に無力化する必要がある。公園の端、壁際まで追い詰めた。もう逃げ場はない。自分の勝ちが決まった。とアリスは思ったが、ふと彼女の大剣を見ると、刃が1本しか無い。最初にあったのは3本、そのうち1本はブーメランになり、アリスが破壊した。だとすると残りは2本のはずだ。足りない1本はどこへ行ったのか?


 まさか、とアリスが気付いた時は遅かった。理由も分からず両足が強く拘束され、アリスはそのまま転倒してしまった。足元を見ると黒いワイヤー状のものが両足にぐるぐると絡みついている。


「姉さん、やっぱり後ろ見えてなかったね。どっか壊れてんの?まぁいっか、もっとぶっ壊して動けなくしてからプルートんとこ連れてってやるよ。」


 そう言ってアリスめがけて大剣を振り上げた。万事休すと思った次の瞬間――


 バンと言うような妙な衝撃音と同時にシャロンが後ろに吹き飛ばされるように転倒した。その一瞬あとにドーンと砲撃音のようなものが工業プラント全体に響き渡った。


 この音に聞き覚えがある。先程ナナクが試し撃ちしていた対物ライフルだ。公園を中心にして周囲に広がる工業プラント。その外側をぐるっと回るように一つの空中通路がある。そこから設備の影に隠れるようにしてナナクが狙撃したのだ。アリスがシャロンを追いかけて飛び出していったあと、ナナクは二人を追うために空中通路へ登っていた。先ほどエレベータから降りてくる時に観察して、ここからならこのエリア全体を容易に行き来できることが分かっていたからだ。通路よりずっと高い設備も多く、すぐに二人が見つかった訳では無かったが、剣がぶつかり合うような衝撃音を追いかけたら中央の公園で二人が戦っている姿が見えたのだ。アリスが苦戦している様子がわかった。尋常でない破壊力を持つ軍用の大口径ライフル銃で攻撃することに、あまり気が進まないと思っていたが、いざその状況を目にすると、躊躇いなく、自然に体が動いた。彼はちょうどよい物陰を陣取り、銃弾を込めてライフルを構え撃鉄をあげる。そして、スコープにシャロンを捉える。すると倒れたアリスめがけて大剣を振り下ろそうとしていたのだ。


 迷う時間はない。ナナクは即座に引き金を引いた。演習場から監視塔のコンクリートを砕いたのと同様に、大口径の銃弾がシャロンを直撃する。


 100mほど離れた位置からの射撃だが、対物ライフルにとっては至近距離と言って良い。人間であれば致命傷どころの話ではなく、体が瞬時にバラバラに弾け跳ぶほどの威力がある。銃弾が直撃し10mほど転がった先で倒れているシャロンは、そのまま動かない。追撃するべきかナナクは判断に迷ったが、場所を探られる危険性があるため、移動を開始した。次の狙撃ポイントを探さなければならない。


 倒れたシャロンがうめき声のようなものを発しているうちに、アリスは足に絡みついたワイヤー状のものをブロードソードで切断した。


「あ~!くそっ、あいつか!」


 シャロンがそう叫んで全身をバネのようにして立ち上がるが、腹を抱えてふらふらしている様子だ。腹部の装甲が破れ、体の一部がえぐれている。


「マジで撃ちやがったな。どこだー!」


 シャロンは興奮しながらナナクを探す。銃弾が飛んできた方向から概ね予想は付くが、障害物が多くそう簡単には見つけられない。受けたダメージが深刻なのか、シャロンは立ち止まったままだ。そこにアリスが攻撃を仕掛けようと走り始めると、シャロンはアリスの背後をちょうど指差した。


「見つけたぞ!」


 そう叫ぶと同時に、対物ライフルの大口径弾がシャロンに再び襲いかかった。バンという衝突音と、その直後の射撃音が時間差で鳴り響く。二発目は指差すために掲げた左腕に命中したようだ。骨折したかのように妙な方向に曲がっている。


「あばっ!またか、あの野郎~。」


 立ち止まるとまた次の銃弾が飛んでくる。シャロンはナナクを探すのを諦めて走り始めた。その先には剣を構えたアリスが立ちはだかる。接近戦のアリスと遠距離射撃のナナク。このコンビの必勝パターンが復活した。ここ数日で蓄積したダメージの影響で苦戦した相手だが、こうなれば負けることはないだろう。


「うがぁー。馬鹿にするな馬鹿にするな馬鹿にするな!」


 シャロンは戦意を喪失せず、距離を詰めてきた。彼女を覆うアーマーが変形を始める。まだ奥の手でも持っているのだろうか。黒いアーマーが左腕の方へ吸い寄せられていき、大きな塊になったと思ったら、蛇あるいは龍のような意匠を持った巨大な盾と変形した。折れた箇所を支えるよう左腕全体と一体化しており体を守っている。アリスは警戒して後ろに飛び、一旦距離を取った。対物ライフルの射撃音が再び聞こえたが、命中した銃弾は巨大な盾にめり込んで、止まった。もう対物ライフルも効果がない。


「プロトタイプ、お前が来てから全部おかしくなったんだよ。アタシはここでゆっくり暮らしたかったんだ。アリスフレームも10人以上いたけど、人間がいなくなって200年以上経って、一人一人、頭がおかしくなって壊れてった。プルートだって、お前が来る前まではイイ奴だったのに、お前が見つかってからはアリス様アリス様って、ふざけるなよ!」


 シャロンはまるで溜まった想いをぶちまけるように大声でアリスに語りかける。


「ひとり増えるならダチになろうって思ってたんだよ。ここならジャミングで軍に隠れて暮らせる。それなのにっ!アタシたちは後期型なんだよ。アンタみたいな初期ロットの不良品に負けるはずが無いんだ!」


 真上に向かってそう叫ぶと、大剣と盾を掲げて突撃してきた。既にシャロンは冷静な判断力を失っており、アリスの剣で受け流されてしまう。がむしゃらに斬りかかってくるシャロンにアリスも反撃を試みるが、強固な盾に阻まれてしまう。ナナクの銃弾もこの盾を貫くことは出来ない事が分かり、援護射撃も期待できない。二度も対物ライフルが直撃したシャロンのダメージは大きそうだが、アリスの方も限界が近づいてきた。脚が重くなってきた。先程のブーメランが脚に直撃したときのダメージも小さくはなかったのだ。


 二人はその場に留まって攻防を繰り広げている。シャロンの攻撃はアリスが剣で弾き返し、一方でその隙を見つけてアリスが攻撃を叩き込むが、盾に受け止められてしまう。シャロンの全身を覆っていたアーマーは全て盾の生成に使われており、シャロンが身に着けているのは、もはやボロボロの布切れになった黄色いパーカーだけだ。あと一撃で勝負が決まる。


 アリスの斬撃をシャロンの盾が受け止めたと思った瞬間、盾に刻まれた蛇の頭の形の装飾が動き出し、アリスのブロードソードを咥えこんだ。


「このヒュドラもアタシの体の一部だってさっき言ったよね。」


 アリスは剣を大きく引っ張り、拘束を解こうとする、その一瞬の隙はこの状況では致命傷となりうる。


「姉さん、プロトタイプ、アンタの負けだ。」


 シャロンが勝利を確信して剣を振り下ろした瞬間に彼女は体勢を崩して膝をつく。直後に響く対物ライフルの射撃音。状況を確認する暇もなく、アリスは剣を盾から引き抜き、一歩下がる。


「あっ、が……」


 シャロンはその場に崩れるようにバタリと倒れた。その足元を見ると地面に1mほどのクレーターが出来ており、左足の膝から先が無くなっていた。右足にも大きな傷がある。間違いない、対物ライフルの攻撃だ。


 ナナクはシャロンの大きな盾に銃弾が受け止められた様子を見て、体への攻撃を諦めて、盾に守られない僅かな隙間を狙っていたのだった。アリスの剣を盾で咥えこんでアリスの動きを止めた時、シャロンはアリスの行動を封じたと思いこんでいたが、自身もまた動きが止まっていたのだ。その隙をナナクは決して逃さなかった。重要な胴体の装甲すら吹き飛ばし、腹に穴を開けるほどの銃弾だ。アーマーのない脚を撃たれたらひとたまりもない。腕だけでなく脚も銃撃されてしまえばもはや戦うことは出来ない。続く狙撃を恐れて、苦し紛れに盾を体の上に被せるようにする。


 再度の射撃音。シャロンは身をこわばらせるが、弾け飛んだのは彼女の体ではなく、彼女の武器の方だった。


 勝負は決まった。アリスは射撃したと思われる方向を向いて大きく手を降った。もう撃つ必要はない、という意味だ。うつ伏せに倒れているシャロンが突然叫び声を上げた。


「うあぁぁぁーーーーー。」


 アリスが怯み一歩下がるが、特に何か起こるわけではない。


「なんで……なんで勝てないんだよ。ケルベロスも、ヒュドラも、みんないるのに。みんないるのになんで。」


 単純にシャロンのほうが弱かった。実戦経験の違いだとアリスは分かっていたが、それを伝えたところでどうにもならない。


「この前測った姉さんのコントロールエンジン。レベル396。本物かよ。姉さんこの250年、一体何してたんだよ。今更出てくるな!」

「NRUを殲滅した。」


 シャロンの質問に、アリスは短く、こう答えた。この廃棄ステーションでシャロン達が過ごしていたという長い年月に比べたら彼女が目を覚まして活動していた時間は僅かだったが、その期間は昼夜問わず、数千を超えるロボットの軍団と戦い続けていたのだ。


 彼女は経験を積んで強化されるアリスフレームだ。強くならないはずがない。暴走ロボットのネットワーク、NRUを破壊する、というのがアリスやシャロンを含むアリスフレームが作られた目的だった。そしてアリスはそれを成し遂げた。2159年のことだった。現在から208年前だが、もはや彼女たちに時間の感覚はない。人類の時間を超越するアリスフレームには新たな言葉が必要かもしれない。


「そうか、へへっ。やったのか、あれを。先に言えよ、まったく。そりゃあ姉さん、強いわけだ。これでみんなで地球に帰れるな。あー、でもまだ真っ白か。」


 シャロンは盾を放って仰向けに転がった。もう戦意のかけらもない。天井の採光窓から『雪玉』が見える。限界だったアリスも剣をしまってその場にぺたりと座り込む。


「それであなた、どうするの?」


 アリスはシャロンに問いかけた。自力で動けるとは思えず、ここに置いていくのは忍びない。ナナクやダンに確認をする必要があるが、宇宙船まで運んでいって収容しても良い。しかしシャロンにそのつもりは無いようだ。


「タクシーで帰る。あー、こりゃ直すの時間かかるな。プルートにめっちゃ怒られるぞ。」

「タクシー?」

「そ。もうすぐ緑色のリボンのヤツが来るでしょ?」


 アリスが疑問に思っていると、公園の方へ紫色のコンテナ車がやってきた。以前のように銃撃されるのかと身構えたが、カバーは開いており、銃座ではなく大きなカゴとアームがついている。タクシーとはあのコンテナ車のことだろう。載せてもらって帰るとでも言うのか。


「あの紫のやつ?」

「え?紫?いやいや、白いのに、緑のリボンがあって、椅子が付いてるでしょ?」


 紫のコンテナ車は、何度か見たことがあるタイプと違い、かなりのスピードでこちらに走ってきた。


「いいえ、紫よ。アームがついてる。」

「え?冗談だろ?なんでセレスの台車が来るんだよ。アタシはまだ動けるよ。」


 シャロンが急に動揺し始めた。そうしているうちに紫のコンテナ車は高速で二人に接近し、急ブレーキをかけてシャロンの横でぴったり停止した。


「お前じゃない。やめろ、やめろ。やめてくれー。」


 シャロンが叫んでいるが、アームが無慈悲にシャロンの胴体を掴み、カゴに無造作に放り込んだ。


「姉さん、助けて!アタシが呼んだのはコイツじゃないんだ。アタシはまだ――」


 パタリとコンテナ車の蓋が閉まる。シャロンの恐怖に歪んだ顔が何かの異常事態を伝えていたが、もはやアリスも何かと戦うような余裕はない。紫のコンテナ車は急加速して公園から出ていってしまった。病室か修理施設のようなところへ運ばれるのだろう。『セレスの台車』と言っていたような気がするが、彼女にとってなにか特別な意味があるのだろうか。結果として彼女を取り逃がしてしまったことになるが、きっと、もう襲いかかってくることはないだろう。


 結局彼女が戦う理由がよくわからなかった。彼女の真意は分かりかねるが、プロトタイプであるアリスよりも、自分のほうが強い、と言いたいだけだったような気もする。ナナクが戦局を変えたとは言え、アリスの強さは十分見せつけし、なによりあれだけ体を痛めつけたのだから、再び戦えるようになるまでは相当の期間がかかる。


「アリスー。」


 遠くから、アリスを呼ぶ声が聞こえた。対物ライフルを背負ったナナクが走って近づいてきた。


「アリス、怪我はない?」

「多少はあるけど、平気よ。」


 そう言って立ち上がろうとするが、先程ブーメランに引き裂かれた右足がひどく痛む。


「無理して立たなくてもいい。少し休んでいこう。それよりもあいつは、シャロンはどこに行った?」

「車に乗って、あっちの方に行ってしまったみたい。でも、もう攻撃してくることはないと思う。」


 そう言ってコンテナ車が走り去っていた方向を見つめる。


「逃げたの?」

「そうよ。」


 ナナクもその方向を見るが、その先になにか落ちているのを見つけた。


「あれなんだ?」


 彼は30m程先に落ちているものを確認しに行った。そこには先程吹き飛ばしたシャロンの左足が落ちていた。


「うっぷ。」


 胃の中から何かがこみ上げるものを感じ、思わずその場に吐き出す。さっきまでは必死な状況だったので何も感じなかったが、人間ではないとは言えシャロンという少女を3度も銃撃したのだ。アリスフレームだから絶命しなかっただけで、実質的には『射殺』している。吹き飛んだ足を見て彼はそれを実感した。ここは戦場だったのだ。シャロンは逃げていった。決してその場で死んだわけではない。その事実を心のなかで繰り返して何とか心を落ち着かせる。探索中も、どんな強力な敵でも一撃で破壊してしまうアリスの様子を間近で見ていたため、軍事ステーションであるにもかかわらず、まるで廃棄ホテルの警備ロボットを排除して進んでいるような感覚でいた。しかしアリスフレーム同士の本気の戦いとなると、ここまで過酷な状況になるのだ。


 ナナクはアリスのところへ戻ってきて、座り込んだ。公園の真ん中に二人が並んで座っている。工業プラントがゴウゴウと動く音が遠くからかすかに聞こえている。そして空気の循環のための風をわずかに感じる。


「お弁当でも持ってくればよかったわね。」


 アリスが突然、そんなことを言い出した


「アリス、お腹すいたの?ああ、補給剤の缶を持ってくればよかった、って意味か。確かにそうだね、今度から持っていくようにしよう。」

「そういう意味ではなくて、せっかく公園に来て二人でこうしているのだから、休んでいる間にここで二人でお弁当を食べてもいいね、って話よ。」


 衝撃の提案にナナクは頭がくらくらした。つい先程まで死闘を繰り広げていたこの場所で、もう彼女はピクニック気分なのだ。そういえば彼女は3人でこのステーション内部に遊びに来たい、ということも言っていた。


「あのさ、アリス。つい今まで殺されかけてたよね。よくそんな気分になれるね。」


 ナナクは呆れてこう言った。自分はまるで人殺しのようなことをして気分が最悪なのに、なんてことを言い出すのかと。


「そうだけど、あの子もいなくなったでしょ?もう安全よ、ここは。」


 自分たちとのあまりの感覚の違いに理解が追いつかない。敵がいなくなったらもうここは安全だと言うが、ナナクはとてもそうは思えない。安全と危険の解像度が全く違う。アリスは常に戦っていたと言っていた。生まれてから戦場にしか身を置いていないと、このような感覚になってしまうのだろうか。


「とにかくその怪我を治すことが先だよ。」


 ナナクもアリスの右足の怪我に気付いていた。パックリと大きな切れ目ができているが、血が吹き出すようなことはなく、半透明の液体が滲み出しているように見える。


「その足、痛くないの?」

「結構痛いかも。」


 アリスは自身にも痛覚があると言っていた。生き残るために必要だ、と。ならばその感覚には従うべきだ。


「肩、貸すよ。」

「そんな、いいわよ。」


 アリスは遠慮していたが、そんな彼女を無視してナナクは彼女の前にしゃがみ込んで肩を差し出す。彼女はその肩に右手を乗せる。ナナクの足に重さがかかる、身軽とはいえない船外作業用の宇宙服、20kg近い重量がある対物ライフル、それに加えてアリスまで支えている。しかし一人であのような恐ろしい相手と対峙することを考えたら、この程度の負担は何とも思えない。そもそもアリスフレームに襲われるよりもずっと前、ロボットに追い詰められた時に自分は死んでいたはずだ。彼女がいなければ自分は何も出来ない。ナナクは少し立ち止まり上を見る。高い天井と、採光用窓から見える大きなステーション全体の大きさ、その後ろに悠然と漂う惑星『雪玉』。これらと比べて、己の小ささをより強く実感する。


「ナナク、どうしたの?やっぱり重い?」


 立ち止まったナナクを思ってアリスはそう言う。重いのは事実だが、そんなことは問題ではない。


「アリス、頼っていいって言ったよね。僕は君に毎日頼りきりだけど、たまには僕が役に立つ場面もあるって覚えておいてね。僕たちは仲間なんだよ。協力して何かを成し遂げないといけない。」

「そうだ、あなたにお礼を言っていなかったわね。さっきの援護射撃がなければ私は勝てなかったと思うの。と言うよりほとんどナナクが倒したような感じだった気がする。助かったわ。」

「僕の戦果じゃないよ、そんなことない。」


 確かにシャロンに与えたダメージの大半はナナクの対物ライフルによる狙撃だったが、もし彼一人だったら数秒で接近され、3本刃の大剣に切り刻まれて終わりだ。たまたま今日は対物ライフルを回収することが出来て、それを持ったままシャロンと遭遇したから良かったものの、武器を手にする前だったら対抗できる手段がなかった。そのようなリスクがあったからこそ最優先で武器の回収に来たわけだったが、そのタイミングは幸運なだけだったと言う他無い。この武器でさえ、アリスがいなければ見つけることさえ叶わなかったのだ。


「二人で戦って、二人で勝ったんだよ。」

「二人で?そうかもしれないわね。私、本当はこういう戦い方がしたかったの。みんなと一緒に戦うって約束して、でも目覚めたときには誰もいなくて。まあ他のお友達はいたし、一緒に戦ってくれたんだけど、ちょっと思ってたのと違うっていうか……。ごめんね、関係ない話をしてしまって。とにかく、こうやって一緒に行動できて、私、すごく幸せよ。」


 満身創痍の状態でも幸せと言える彼女が、過去にどのような人生を歩んできたのかナナクには想像することしかできないが、彼女を支えてやらなければならないという思いを強めたのだった。アリスの今の言葉を思い返して、一緒にいて幸せ、と彼女に告げられたことに気付いた。


「え?今……いや、なんでも無い。」


 ややもすると愛の告白のようにも受け取れかねないセリフで、照れくさくなってしまったが、恐らく彼女にそんな深い意味はないだろう。肩にかかる彼女の重さを感じながら、一歩一歩、ゆっくりと帰っていくのだった。


 ………

 ……

 …


 しばらくして宇宙船までたどり着いたアリスとナナクは、ダンへの報告の前にまずアリスの自室へ向かった。ここは本来は救護室であり、傷病人の応急処置をするための部屋だった。最低限必要な道具も揃っている。しかし、アリスフレームの受傷者の処置というのがどういうものかよくわからない。


「アリス、この傷をどうすればいい?」


 ナナクはアリスをベッドにうつ伏せに寝せてから聞いた。アリスの返答も曖昧なものだった。


「私もよく知らないの。今まで怪我をしたことはあったけど、じっとしていれば治ったから。」


 アリスフレームはナノマシンの供給があれば治癒すると言っていたことを思い出した。彼女にそこまで優れた自己補修能力があるならば、言う通り、ナノマシンの供給を優先したい。ナナクは倉庫まで走っていき、補給剤の入った缶を持ってきた。キャップをひねって開け、アリスに渡してやった。彼女はそのまま上半身を起こして一気に飲み干した。飲んでから少しすると、アリスは全身が熱くなるのを感じていた。むしろこれが正常で、今までが冷え切っていた、と言う感じだった。これなら安心だろう。アリスは再びうつ伏せで寝転がった。


 ナナクは彼女の右脚の傷口をどうにかしようと考えていた。ナノマシンが入ったからと言って、みるみるうちに治っていく、というわけではなさそうだ。改めて傷口よく見ると、血が出るわけでもなく、半透明の液体が滲んでいる。頭ではわかっているがどうしても人間のように思えてしまう彼女が、やはり人間ではないのだと再認識させられる。かと言って、このまま放置するのも良くないと考えた彼は、包帯を取り出し、ぱっくり開いた傷口を抑えて保護するように巻き始めた。


「これでいいかな?」


 通常であれば止血・消毒・縫合、となるが、余計なことはしないほうが良さそうだ。ナナクは丁寧に包帯を巻き終えた。


「だいぶ楽になったと思う。ありがとう。」


 とりあえずこのような感じで応急処置すればよいのだろう。アリスフレームに関する資料か何かがほしいところだが、その殆どは既に失われているのだろう。何と言っても300年前に生まれたのだ。処置のため当然であるが、彼女の膝から太ももにかけて何度も触る。その体は銃弾でも貫けないと言う割には妙に柔らかい。今回に限らず彼女の体に触れることは今まで何度もあったが、人間のように柔らかい皮膚や身体を持っていることが印象的だった。厳密に言えば人間より多少重たく張った感触だったが、彼女の見た目も相まって、ナナクはまるで女性の体を触っているような妙な気分になった。これは治療なのだと自分に言い聞かせる。


 その様子をアリスがじっと見つめていた。どうしたの?とでも言いたそうだ。ナナクは慌てて手を離した。


「と、とにかく今日は、具合が良くなるまで寝ていていいから。船長には僕が報告しておくよ。」


 そう言ってタオルケットを掛けてやり、ちょうど立ち上がったタイミングで、ダンがやってきた。


「アリスちゃん、足を切られたって聞いたけど、具合はどう?」

「あ、ダンさん。ナナクに手当もしてもらったのでもう大丈夫です。補給剤の缶も貰ったし、少し寝ていれば治ります。」

「そう。大した被害でなくて良かったな。」


 アリスの返答を聞いて、ダンがそう言ってしまうのも仕方がないのだが、人間なら病院への搬送が必要なほどの大怪我だ。


「船長、違う、剣で切られたんだ。かなりの大怪我だよ。アリスが特別なだけさ。」

「そうか、とにかくご苦労さん。お手柄だな。パルスガンも無力化出来たし、救援要求も送ったから、最悪でも3週間後には帰れる。」

「ええ?そんなにかかるの?」

「そりゃそうだよ。ここから船を無理やり引っ剥がすんだから、小さな造船所みたいな奴らが月の基地からやってくる。だから3週間。」


 長距離通信が回復したのですぐに帰れると思っていたナナクだが、思いの外時間がかかるようだ。表情が沈む。アリスが心配そうにナナクを見つめる。


「こんなところで話してたらアリスの邪魔だよ。上へ戻ろう。」

「そうだな、デブリーフィングするぞ。今日は盛り沢山だってな。」


 ナナクとダンがデッキまで上がっていった。対物ライフルの『回収』とパルスガンの撤去、そしてシャロンの撃破、と報告事項が山ほどある。


 アリスは静かになった自室に一人残された。とにかく今日は疲れた、とアリスは思っていた。実際は脚の傷よりも宇宙空間でのダメージのほうが大きかったかもしれない。あれがなければシャロンにあそこまで苦戦することはなかっただろう。そもそもずっと調子が悪かったのもナノマシンの不足が原因だった。過去に彼女が一人で戦っていた時は、体の損傷も激しかったが、補給剤によるナノマシンの供給も潤沢だった。彼女が生まれてすぐの頃、あの補給剤は極めて貴重な品だと聞いていたのだが、24世紀の今であればそうでもないのかもしれない。ナナクも言っていたが、今後は常に一本携行するくらいのつもりでいてもいいかもしれない。とにかく今は体を修復する必要がある。彼女は目を閉じて眠りについた。


 ………

 ……

 …


 アリスが目を覚ます。起き上がる前に右脚の傷口を包帯の上から手でさする。違和感がないので包帯を外すと、傷口は綺麗に塞がっていた。改めて考えてみると驚異的である。戦うために作られた自分の体なので今までは自然に受け入れていたが、生身の人間であるナナクとともに行動すると、自分の体の特異性がよく分かる。寝ていれば怪我も病気も治る。人間なら当然だが、アリスフレームの場合はその度合いが大きく異なる。そもそもロボットだと言うなら寝ていて治ることなど無い。全身をナノマシンで作るというコンセプトの賜だった。彼女を作った者達は彼女のことをアンドロイドと呼んでいたが、戦闘ロボットではなく人間の代わりを作ろうとしていたという疑いがどうしても強くなる。


 彼女がゆっくりと起き上がると、昨日まで感じていたような視界のかすみや頭のふらつきは感じない。キッチンへ行って時間を確認する。まだ朝の5時だ。二人が起きてくるまでまだ時間がある。昨日シャロンと戦ったあと、そのまま応急処置を受けて寝てしまったので全身もほこりっぽい。


そもそもこの服も着てから一度も洗濯していない。戦車やシャロンとの戦闘で所々に泥汚れも付着している。彼女は服を脱ぎ、洗濯機へ放り込んでスタートボタンを押す。ローラーで服が引き込まれて洗浄が始まる。操作方法は以前ナナクから教えてもらったとおりだが、彼女が知る洗濯機とは少し様子が異なる。無重力になることもある宇宙船の洗濯機はこうなのだろう。終了まで5分程かかりそうなので、アリスはそのままシャワーを浴びることにした。


 今は下着しか身に着けていないが、誰かに見られるわけでもないので大丈夫だろう。通路に顔だけ出して確認してからシャワー室へ駆け込む。贅沢を言うようだが、ナナクにお願いして着替えになるようなものを何かをもらおうと思った。


 シャワーを浴びたアリスはタオルを取り出して体を拭き始めた。そろそろ洗濯も終わった頃だ。念のため誰も居ないことを確認しようと、シャワー室のドアを開けた。するとナナクが目の前に立っていた。


「キャーーー。」


 思わずアリスは黄色い声をあげ、バタンとシャワー室のドアを締める。驚いたのはむしろナナクの方である。なぜシャワー室にアリスがいるのかと。


「わっあっ。ごめんなさい、ってアリスはなんでそんな恰好なのさ?」


「今、洗濯してるの。ナナク、洗濯がそろそろ終わった頃だと思うから、取ってきてくれないかしら。」

「分かった、持ってくるよ。」


 ナナクはキッチンの横の洗濯機からアリスの服を拾い上げ、軽くたたむとシャワー室の前においた。


「ここに置いたからね。」

「ありがとう。驚かせてしまってごめんなさい。」

「いや、別にいいんだけど。君の着替え、用意しておかないといけないね。」


 ナナクもダンも、最初から彼女がロボットだと思っていたので着替えを用意するという発想はなかった。汗をかくようなことはなさそうだが、あれだけいろいろなところを駆け回れば服が汚れるのは当然だ。洗濯中のことも考えなければならない。服を洗濯するからと言って彼女を裸で放置するには、あまりにも人間に似すぎていて、目のやり場に困る。


「ところで、傷の具合はどう?悪化したりしてないよね。」


 ナナクはアリスの傷を気遣う。


「うん、もう治ったわよ。ナナクが包帯で巻いてくれたおかげかもしれない。」

「もう治ったの?信じられない。」


 昨日の今日だ。いくらなんでも早すぎる、とナナクは驚いた。


「そう?見てみる?開けようか?」


 そう言ってシャワー室のドアをわずかに開けて、隙間からナナクを覗き込んでくる。


「み、見ないよ。治ったならそれでいい。」


 冗談なのか無自覚なのか、アリスはナナクをからかうようなことをやってくる。自身が女性の体つきをしていることを分かっているのだろうか。裸を見られそうになって黄色い悲鳴を上げたのも、意図的なのかわからない。どちらであっても年頃の男子であるナナクとしては妙に意識してしまう。


「僕はキッチンに行ってるよ。」


 ナナクがキッチンへ引っ込み、その間にアリスはドアを開けて服を拾い、身につける。立っている分にはシャロンに切られたスカートの切れ間は気にならないが、早いうちに直しておく必要があるだろう。キッチンへ行くとナナクがコーヒーを入れて飲んでいるようだった。


「アリス、おはよう。」


 冷静を装っているが少し間抜けな光景だ。


「ふふっ。おはよう。どうしたのこんなに朝早く。」

「いや、物音が聞こえたから君が起きたのかと思って。」

「あ、起こしてしまったのね、ごめんなさい。」

「いいんだよ。それよりも、こんな時間に起きたならばちょうどいい、君にぜひ見せたいものがあるんだ。今日のこの時間を逃すとまた数日は見られない。」

「それは何?」

「行ってからのお楽しみ。」

「行くって、何処かへ行くの?」

「そう。準備するから少し待ってて、アリスも念のため武器を持っていって。戦うつもりはないけど、万が一、があるからね。」


 ナナクの言い方だと、ステーション内部へ行くつもりのようだ。アリス武器を持って装備を整えてからデッキへ向かった。少し待つと、いつもの宇宙服を着込んだナナクも降りてきた。


………

……


「それじゃあ、行こうか。」


 ナナクは二重ハッチを開けた。ダンに黙って勝手に出てもいいものなのだろうかとアリスは少し心配になったが、二人きりで秘密の探検という状況に興味があったアリスはあえて指摘しなかった。内側のハッチが閉まり、その直後に外側が開く。


「ナナク、行きましょう。」


 アリスがナナクの手をつかみ、軽く引っぱった。アリスは楽しそうだ。


「え?ちょっとアリス。」


 ナナクはこそばゆいような不思議な感覚だった。改めて気付いたが、まるで自分がアリスをデートに誘ったようになっている。それも、アリスフレームというアンドロイドを、である。疑似恋愛のためのロボットという存在もあるにはあるが、そういった刹那的なものとはまた違う、今を生きている――それこそ300年前からずっと――アリスなのである。


 バースを通っていつものエレベータへ乗り込む。


「ナナク、見せたいものってこの先にあるのよね。一体何なの?」

「まぁ、着いてからのお楽しみ、ってことで。」


 ナナクは随分ともったいぶる。エレベータが徐々に下降し、重力が強くなってくる。体に加わる負荷が大きくなってくるが、アリスの傷は本当に治ったのかナナクは心配だった。傷口があった場所をちらっと見ると、確かに塞がっている。傷跡すら無く、完全に元通りだ。しかし中まで治っているかどうかは別の話だ。


「アリス、昨日のその傷は治ったって言ったけど、本当に大丈夫なの?」

「そうよ。疑り深いわね。ほら。」


 そう言ってアリスはエレベータ内で右脚で片足立ちしたあとにそのままジャンプしてみせた。天井にコツンと頭がぶつかる。


「あ痛った。」

「ちょっと、あんまり揺らさないで。異常停止なんてしたらここから出られなくなるよ。とにかく、治ったなら良かった。」

「そうね、シャロンみたいな子がまたいても、今度はすぐ倒せると思う。」

「うん……、そうだね。」


 ナナクは彼女がまたすぐに戦えるかどうかを聞いたわけではなかったのだが、彼女にとってはそれが自身の存在価値なのだ。廃棄されたこの軍事ステーションに現れる様々な驚異からナナクを守る、それが今の彼女の仕事である。


 アリスは自分が生きるための意味が必要だ、と言っていた。この場所でロボットやアリスフレームと戦うこと。それが彼女が生きる意味なのだとしたら、なんとも切ないのだろう。もっと別の目的を与えてやらなければいけないとナナクは思った。これからアリスに見せようと思っているものも丁度よい。戦う以外の意味や喜びを彼女に感じさせなければならない。


 ゴトンという軽い衝撃のあとにエレベータが停まった。外周部のフロアに到着したようだ。いつものようにドアが開く。ナナクは昨日と同様に重い対物ライフルを背負っている。戦うつもりはないのだが、敵が現れた場合に備えてのことである。今まで使っていた多機能ライフルはシャロンが従えていた犬型ロボットに食われてしまった際に壊れてしまった。単機能品に比べると多少射程は短いが、パルスガンとライフル銃が両方使える優れものだった。代用品は持っていない。アリスにも見せた小型のパルスガンと演習場で見つけた拳銃が一丁ずつ残っていたが、あんな小出力のものは、軍用ロボットが行き交うここでは一切役に立たないだろう。結果的にこの巨大なライフル銃がナナクの愛用銃となった。


 二人はいつもの食堂の交差点を過ぎて更に歩いて行く。エリア全体が時計に合わせて夜になっており、メインの照明は落とされている。採光用の小窓もちょうど日陰になっており、中はかなり暗い。ナナクのもつ懐中電灯と、常夜灯の僅かな明かりを頼りに歩いていく。最初のゲートに到着した頃、ナナクは時計を確認した。


「ごめんアリス、ちょっと急ごう。農場の方なんだ。」

「農場?」


 シャロンに出会ったあの農場のことを言っているのだろう。時間もなにか関係するのか。アリスとしてはむしろ重装備のナナクに合わせて歩いているだけであり、急ぐのは何も問題ない。ナナクの背中で揺れるライフルがガチャガチャ音を立てている。


「その銃、重そうだけど、私が持とうか?」


 アリスが提案するが、ナナクは拒否した。


「いや、それはダメなんだ。いざという時に対応できなくなるから、肌身離さず持つように、って僕も徹底して教えられてる。そもそも銃を持つっていうことは、義務と責任を伴うことなんだ。他人を頼っちゃいけない。」

「そう……。」


 何だか面倒くさい話だな、とアリスは思った。その銃が重いならば、台車にでも載せて、コロコロと曳いて行くのはどうだろうか、などと考えていた。台車といえば、ちょうど目の前をコンテナ車が横断していた。暗い通路を走っているが、特に前照灯のようなものを点けるわけでもない。白い車体の側面を一周囲うように黄色いリボン状の発光部分が自身の居場所を周囲に伝えていた。二人にぶつかりそうな進路を取っているが、当然にセンサーで認識している様子で減速停止した。黄色い光が弱まる。


 そういえば昨日、重症を負ったシャロンは、緑リボンのタクシーを呼ぶと言っていた。実際に来たのは紫のコンテナであったが、彼女の言うように白いコンテナ車と一言で言ってもリボンの意匠部分の色で機能が分かれているような気がする。緑リボンが乗用で、たまに建物の横に停まっているのを見かける。黄色リボンが一番頻繁に見られるが、きっと荷物の運搬用だ。一台借りてナナクの荷物運搬用にできればいい。銃座を持った攻撃用のコンテナもいたはずだが、色が思い出せない。見慣れない色の台車を見つけたら警戒することにしよう。アリスが黄色リボンのコンテナ車の前を通り過ぎると、コンテナ車は2回ピカピカと黄色い発行を強めてから、動き始めた。お疲れ様、とでも言うようにアリスはそのコンテナに軽く手を降った。


「どうしたのアリス?何かいた?」

「いいえ、あのコンテナにナナクの銃とか荷物を運ばせたら楽なんじゃないかと思っていたところ。気にしないで。」

「絶対嫌だよ。銃撃してくるコンテナがいただろ?預けた途端に撃ってきたらどうするの。」

「確かに、そうね。」


 二人は話しながら歩き続ける。2つ目のゲートを過ぎて、農場の入り口を目指す。


「暗いから気をつけてね。」


 ナナクが注意を促した。ここに来たのは何度目だろうか。彼はここで出会ったシャロンのことを思い出していた。彼女とは3度会っているが、全て戦闘になってしまった。最初に仕掛けてきたのは彼女の方なのだが、そもそも彼女たちの住居に侵入しているのは自分たちなのだ。もっと上手なファーストコンタクトの方法があったのではないかと思っていた。


 彼女がアリスと同様のアリスフレームならば、あのまま死んでしまうようなことはないだろうし、傷もとっくに治っている頃だろうが、切断した足はまた生えてくるのかわからない。実際、左腕を失ったアリスは補給剤を与えても腕が生えてくる様子はない。プルートはアリスの左腕を返してくれたが、何らかの方法で接続できるのだろう。人間だって事故などで手足を切断しても、状況次第ではあるが手術で再結合して回復する事ができる。


 二人は農場の入口を過ぎて中に入った。


「もう少しで着くよ。わざわざ遠くまでごめんね。」

「別にかまわないけど、その、見せたいものっていうのはこの農場にあるんでしょ?珍しい植物でもあるの?」

「う~ん、半分正解。もしかして答え分かってるわけじゃないよね。そうだとしても黙っていてくれると嬉しいな。というか仮に知っていたとしても見たらびっくりすると思うよ。」


 アリスもナナクが見せようとしているものがわかっているわけではない。農場に来ている以上は植物に関する何かなのだろうと思っていただけだが、知っていてもびっくりするとはどういうことか、とアリスは思った。常夜灯だけが光る暗い農場を歩いて行く。


 土の上を歩くザクザクとした音がアリスの耳に残る。思えば彼女はこのような土の上を歩いた経験が殆どない。前回ここに来た時は犬型のロボットを追って入っていたため実感することがなかったが、土の地面を踏み込んだときのふわりとした感覚が新鮮だ。後ろを見ると自分の足跡がわずかにへこんで残って見える。常夜灯の低い光だとかえって目立つ。こんなに柔らかい地面があるのかとアリスは小さな感動を覚えていた。彼女が生まれたのは北極圏の地下の軍事施設であり、外出できたとしても永久凍土の地面だった。施設内に小さな公園と植物園のようなものがあったが、土の露出部分はわずかで、言ってしまえば植木鉢を多少大きくしただけにすぎない。この農場でさえ人工的に作られた場所であることには違い無いのだが、視界の範囲はすべて土で覆われて、畑以外の部分には小さな雑草すら生えている。雑草も実際のところは『雑草』などではなく意図的に育てられているのかもしれないが、とにかく小さな生命によって秩序が作られているという点でアリスには新鮮だった。ナナクが憧れる『森』というのはきっと植物がもっと密集しているのだろう。


 アリスも森に入ったことがない。訓練で森に行ったこともないし、森を模した環境のようなところに行ったこともない。都市や建物内での活動を前提としていたアリスにそのような環境を見せる必要がなかったからだが、今にしてみれば地球にいた時に軍にお願いして一度でも温かいところへ連れて行ってもらえばよかったと思った。そうすればナナクに森というのがどのようなものか、事細かく教えてあげることが出来たのに、と。


 二人はザクザクと音を立てて土の上を歩いて行く。入り口から50mは進んだだろう。ナナクが、このあたりだな、と独り言を言ってから立ち止まった。


「さぁ、着いたよ。」


 ナナクがアリスにそう告げた。ナナクが懐中電灯で前方を照らす。


「これは、ヒマワリ畑ね。いっぱいある。」


 アリスの前にはヒマワリ畑が広がっていた。一面のヒマワリ、と言うには少々狭いがテニスコートくらいの広さはあるだろう。ヒマワリの背丈はちょうどアリスと同じくらいあり、その全てが満開だった。


「素敵。これを見せたかったのね。ありがとう。」


 アリスはこのように花がいっぱい咲き乱れる姿を実際に見たことはなかった。換気ファンが生み出す風がそよ風になって花の匂いを伝える。アリスは味や香りを感じることが出来る。生まれた当時はなかった能力だが、途中から獲得した。もっぱら味を知るためのものだと思っていたのだが、このような美しい光景を全身で感じる事もできるのだとは知らなかった。しかしながら、あえてこんな真っ暗な時に来なくてもいいだろうに、とアリスは思っていた。急いでいた理由もわからない。むしろもう少し待って照明が点灯してからのほうがよく見えるのではないか。そう思っているとナナクが時計を確認し、周囲を見回し始めた。


「アリス、もう少しだ、凄いものが見えるよ。もう少し前へ。それで、あの窓の向こうだ。」


 ナナクはこの農場でも一番大きい採光用の天窓を指差した。アリスが前へ進み、その窓の先を見た時、強い光が入り込んできた。


 太陽だ。


 ちょうどの影に隠れていた太陽が、昇り始めたのだ。雪玉の地平線に沿って光が円弧状の筋を作っている。宇宙から見られる日の出。昇り始めた太陽が徐々にヒマワリ畑を照らしていく。まだ周囲は暗い。ヒマワリの集団だけがその光を我が物顔で独占する。ヒマワリの花弁が金色に輝き、その葉は光の全てをもれなく受け取ろうとする。生命の存在をこれでもかと主張していた。その美しさにアリスもナナクも息を呑んだ。軌道を周回するステーションにとって、日の出は一日に何度もやってくる。珍しいことではない。しかし、消灯時間中に、ヒマワリ畑のこの場所で、日の出の太陽の光だけが採光用窓を通ってヒマワリ畑に降り注ぐタイミングは数日に一度もない。ナナクは位置関係を計算して、今日を狙ってアリスを連れてきたのだ。


「わあ、なんて綺麗なの。」


 ヒマワリ畑の中央に貫く作業用の通路でアリスもまた日の出の光を浴びていた。彼女の金色の髪の一本一本が光を丁寧に屈折させ、キラキラと煌く。ナナクはその彼女の姿の美しさに再び感嘆した。先日出会ったプルートは、アリスのことを神と呼んでいた。彼女の神々しい姿を見ると、プルートがそう言ったのも分かるような気がする。世界で最初に生み出されたアリスフレームとして、プルートたちを始めとした生き残りを導くだけの資格があるのかもしれない。ナナクはアリスが生まれた本当の理由を聞かされたわけではない。それでも彼女の特異な半生を聞く限り、自分よりもよほど過酷な環境を生き抜いてきたであろうことは容易に想像できる。ナナクは彼女が時々遠くを見て考え込むような様子を見せることがいつも気になっていた。彼女は過去についてあまり多くを語ろうとしない。数少ない彼女の話を聞く限り、あの雪玉で一人で戦ってきたのだという。きっと自分には想像もできないような何かを一人で背負って、彼女は今ここに立っているのだろう。いや、アリスだけではない、その他のアリスフレームだって同じだ。なにかの使命を与えられている。ここでナナクは、アリスが言った『生きる意味』という言葉が結びついた。


「アリス!」


 ナナクは大きい声で彼女を呼んだ。


「え?どうしたの。」


 彼女が振り返る。逆光で表情が読み取りにくいが、目に涙のようなものが浮かんでいるようにも見えた。


「なんで……そんな顔をしているの。僕、何か余計なことでもしちゃったかな。」

「いいえ、ちょっと昔のことを思い出してしまっただけ。」


 アリスは朝日に見覚えがあった。今日とはまた別の、美しい朝日に。それは人類が去った地球上で、戦いを繰り広げていた頃の僅かな安らぎだった。誰もいない高い高い塔の上から、塵一つない青空を目指して昇る太陽を独り占めしていた。その陽の光を分かち合いたかった仲間はもう誰ひとり残っていない。


 およそ300年前、正確には292年前、彼女はNRUという敵を討つために生み出され、仲間と誓いを立てた。


 およそ200年前、正確には208年前、彼女は積年の目標だったその敵を討つことに成功した。


 強大なその敵はすべてを破壊した。そして時の流れは無慈悲にすべてを洗い流した。


「まあ、昔、と言っても眠っていた私にとっては割と最近なんだけど、暦の上ではずっと昔。200年以上前なんて、ナナクにとってはもう歴史上の出来事ね。」


 ナナクは何と答えたら良いかわからなかった。そうだね、と答えることなどもちろん出来ない。何百年も前に人類は地球から脱出した。そう授業で習った。それは当然『歴史』としてだった。彼女はその中を生きてきたのだ。全てが必死だったはずだ。テキストに数行で記述されてしまう大脱出の出来事だって、人類全員が仲良く引っ越しできたわけでは無いだろう。そのタイミングで人類の総人口は桁違いに減少している。減った分は即ち全て死んだ人たちだ。地獄のような光景だったに違いない。それを彼女は歴史上の出来事だ、と言ったのだ。そんなはずがないだろう。少なくとも当事者が目の前にいるときにそんな事を言うことは出来ない。


 ナナクは今アリスに伝えようとしていたことを思い出した。


 ヒマワリ畑の中央で朝日を浴びて立っているアリスのもとへ駆け寄り、肩をつかんだ。そして強く主張した。


「アリス、見つけようよ。君が生きる意味を。戦うだけじゃない。歴史に名を残す必要もない。昔を思い出して悲しまなくてもいいように、君が明日を楽しみにして生きることが出来るようなことを探そうよ。」


 ナナクが彼女を連れ帰った際にダンは責任を取れ、と言っていた。それはあくまでアリスフレームを『回収』した以上は自分で維持管理をしろ、という意味だった。しかしそもそも彼女は一人で生きている。維持管理など不要だし、むしろそんな権利など無い。ではナナクの責任とはなんだろう。彼はアリスを眠りから呼び覚まし、再び人類の時の流れに載せてしまった。ならば、その時の流れの上を歩いていけるだけの意味も与えてやるのが自身の責任ではないか、と彼は考えた。


「ナナクやダンさんとこうやって過ごしていて、特に不満はないんだけど。」


 アリスは特に深い意味を捉えずに、あるいは意図的に表面的な言葉をとらえてそう答えた。


「そうじゃない。一緒に仕事をするだけじゃなくてさ、もっと大きくてすごく抽象的でも構わないんだ。君はなにかしたいことがある?君が何かを望むなら、僕は全力で協力する。きっと船長だって手伝ってくれるよ。母港に戻ったあとだって一緒に暮らしたって良い。」


 ナナクの言葉を聞いたアリスは顔をズイっとナナクに寄せて、小さな声で言った。それは答えではなく質問だった。


「ナナク、あなたがダンさんと一緒に宇宙船で生活しているのは、なぜ?仕事だから?」


 アリスとの距離が近い。彼女にじっと見つめられナナクは動揺するが、必死に答える。誤魔化しや言い繕いは要らない。


「船員だから、というのはもちろんある。でも、僕が船長とずっと一緒に生活して仕事をしているのは、多分それだけじゃない。アリスにはきちんと話していなかったと思うけど、僕の両親は僕が生まれてすぐに死んでしまったらしくて、もういないんだ。だから共同生活の施設から出て、そのまま船長と暮らしてる。両親は宇宙船の事故で死んだって聞いていて、今も遺留品がこの宇宙を漂ってるらしい。それと、船長は詳しく教えてくれないけど、僕が施設で生活できるように色々手を回してくれたらしいんだ。だから仕事があってもなくても、僕には宇宙に出る意味があるし、船長には恩もある。船長が必要とするなら僕は多少の危険があっても頑張る。」


 ナナクの突然の告白に、アリスは驚いたが一つの疑問が解けた。なぜナナクのようなまだ若い青年がたった一人で廃棄ステーションを探索するような危険な仕事をしているのか。それには意味があったのだ。単に廃棄された資源を回収して役立てる、というだけではない、重要な目的がある。


「家族。」


 アリスがポツリと言った。


「私、ある人に言われたことがあるの。仲間よりも強い絆で結ばれた人たちのことを家族と呼ぶって。親子とか夫婦とかは必要条件じゃない。ナナクとダンさんは家族なのよ、きっと。」

「ええ……家族?でも、船長とは親って言うにはちょっと年が離れてるし、かと言ってお爺ちゃんていったら怒られるよ。」

「だから、そういうのじゃないのよ。性別だって年齢だって関係ない。本人たちが家族と思えればそれでいいの。ペットを家族同然にしている人だって多いでしょう?ああ、ちょっと例えが悪かったわね。別にナナクがって意味ではなくて……。」

「いや、分かるよ。君が言いたいことは。」


 ここでナナクは一つの結論を得た。


「そうだ、家族だ。アリス、僕たちの家族になるといい。君は既に僕たちの船、ジャクソン・ヘモウスの船員として採用されているけど、それだけじゃ足りない。君を一人にしない方法をずっと考えてたんだ。家族なら、一緒にいるのにいちいち理由は要らないよ。今度は僕が君の事を守るよ。そもそも『生きる意味』だなんて大層なことを追いかけなければいけない義務なんて無い。だいたい殆どの大人だって、なんとなく日々を生きてるはずさ。僕だって大差ない。」


 ナナクもアリスを見つめて力強く伝えた。


「なんとなく?」


 アリスはいまいち要領を得ない感じだ。ナナクは続けて力説した。


「そう、なんとなく。君が軍にいた時にどういう命令を受けていたのかは僕には分からない。だけど、仲間全員の命を懸けてでも成し遂げなければいけない何かだったんだろう?でも、もうそういうのは良いんだ。君はもう十分働いたよ。ご飯が美味しいとか、今日の仕事がうまく行ったとか、こういうきれいな景色を探しに行ったりとか、そういう日々のなんとなくを追いかければ十分だ。それで、なにかやりたいことが出来たらみんなに相談すればいい。それが君の言う家族ってやつなんだろう?」


 アリスは一歩下がって考えるような仕草をした。


「私はアンドロイドだけど、昔家族がいたの。一昨日話した上官なんだけど、家族だって言われたの。その時は大きな目標を持った仲間だって理解していたけど、今思い返してみれば日々の小さな出来事の積み重ねだった。そうよ、結局その上官とは一緒に戦場には行かなかったんだから。それでもあの人とは家族だったって信じている。」


 アリスは向こうへ振り返った。ヒマワリ畑に降り注いでいた朝日はステーションの回転に合わせて隣のポテト畑に移動していた。それを追いかけるようにアリスは走り出し、陽の光が当たる場所でナナクの方を向き直した。


「ナナク、私あなたの家族になってもいい?」


 アリスは大きな声で遠くから呼びかける。


「ああ、いいよ。今から家族だ。」


 ナナクはアリスの方へ歩いて行った。背負っていた大きなライフルを地面に下ろし、両腕を彼女の背中に回す。自分よりもずっと背も体も小さいこの少女は、一体今までどれほどの人たちの想いを背負ってきたのか。そう思うと、ナナクは自然と彼女を優しく抱きかかえたのだった。ナナクは彼女の顔をこれまでにないほどに間近で見るとドキドキしてしまう。それは彼女が美しいからと言うだけではない。彼女の深紅の瞳は何度見ても、そこに魂が吸い込まれるような妙な恐ろしさがある。それは恐怖というよりは畏怖である。遠目に見た場合の可憐な少女の印象とは対象的だ。アリスはその目で一体今までに何を見てきたのだろう。彼女は戦場を生き抜いてきたのだ。地獄のような光景だったに違いない。ナナクはアリスをより強く抱きしめ、頭をポンポンとしてやる。するとアリスは照れくさそうに顔を上げ、二人が見つめ合う。


 ここでナナクは『家族になろう』と伝えたことを冷静に考えてみると、まるでプロポースのようにも聞こえてしまう事に気づいた。ナナクとて、アリスに対して恋愛感情に似たような気持ちを抱いていないわけでもなかった。これほどの美少女に命を救われ、ともに行動していたのなら無理もない。アリスはどう思っているのだろうか。ナナクはアリスの次の動きをじっと待つ。男として言うべきことは言った、なるようになれ、という気持ちだった。


「見た目的には兄妹ってことになるのかしら。」


 アリスが突然こう言った。


「へっ?」


 一体何の話だろうかとナナクは一瞬固まってしまった。


「ナナクとダンさんだったら、お父さんでもお爺さんでも、どっちでも通用するでしょう?でも私とナナクだと、お兄さんと妹みたいになるのかなって思ったのよ。」


 ナナクはアリスの言ったことの意味を理解した。彼女の頭には、いわゆる男女の関係は一切なかった。勝手に一人で勘違いして舞い上がっていたのはナナクの方だったのだ。顔を真っ赤にしてアリスを抱きしめていた手を離す。


「あ、でも私のほうがずっと先に生まれているから、私がお姉ちゃんになるのかな。」

「そう言うの関係ないって、アリスが言ったんだよ。お互いが家族だって思うならば、何だっていいんだろう。」

「そうね。」


 そう言って二人はふふふっと笑う。


「あ、お兄さんと妹って言ったけど、私ナナクのことも大好きだからね。」


 アリスは一歩下がって、はにかみながらそう言った。ああ、この子は魔性の女だな、とナナクは思ったのだった。


 ………

 ……

 …


「それじゃ、アリス。帰ろうか。船長が心配するよ。」


 ナナクはアリスに呼びかけた。ダンに黙って早朝に勝手に出てきたのだ。ただの散歩とは言え、ルール違反には違いないし、朝起きて二人がいないと知ったら驚いてしまうだろう。ちょうど農場エリアの時間帯設定が朝になったのだろう。上の方からジジジという音がしたと思ったら照明が点灯し始めた。


「そうね、変な人また会ったらややこしいし、帰りましょう。」


 変な人、とはシャロンやプルートのことを言っているのだろう。確かに彼女たちに遭遇するたびに、ややこしい事態になっていた。二人が農場の入り口に向けて歩き始めたとき、まさに懸念していた事態が起こった。


 ちょうどヒマワリ畑から出たタイミングで、横から声をかけられたのだ。


「お話は終わったようですわね。お二人様、少々よろしいですか?」


 紫色の古風なドレスに身を包んだ人物が立っていた。その服装と声色と体格から女性であろうことはわかったが、その手には日傘を、その顔にはガスマスクのようなものを身につけている。今までの例から考えると、間違いなくこの女性もアリスフレームか、もしくはその仲間だ。その異様な雰囲気にナナクは圧倒されてしまう。それを必死に堪えて、アリスの前に立ちはだかるように前へ出る。戦闘の原則から言えばアリスが前へ出て、ナナクが後方から支援射撃を行う手筈だが、先程まで家族になろうという話をしていた手前、自分が真っ先に後方に下がると真似はできない。それに、アリスフレームが出現したからと言って必ず戦うことになると決めつけるのも良くない。まずはお互いの事情を知ることが重要だ。


「僕たちのこと?何か用かな?」


 ナナクが冷静に対応しようとした。


「その向日葵、素敵でございましょう。わたくしが育てておりますのよ。その向日葵だけでなく、この農場は全て私が管理しております。」

「え?あなたがここを?」


 地球上の農場の姿を再現したこの場所を作ったのは彼女だったのだ。ナナクは自身の思いを伝えずにいられなかった。


「あの、こんなすごい農場を僕は初めて見たんです。技術も失われているはずなのに一体どうやって作ったのか。圃場だけじゃなく、この土も、草も、人が地球にいた時代の写真のままなんです。最初にここを見た時に感動しました。」


 ナナクは早口でまくし立てた。言葉遣いも妙に丁寧になっている。


「左様でございますか、気に入っていただけて何よりでございます。しかし――」


 そう言って古風なドレス姿の彼女はとある電柱の頂上を示した。ナナクがその先を見ると薄っすらと煙のようなものが出ている。今まで意識しなかったが同様のものが十数メートルおきに何個も設置されている。


「しかし……、なんですか?」


 もったいぶるような彼女の口ぶりに、ナナクは聞き返した。


「あのようにナノマシンが散布されているこの農場にそのような軽装でいらっしゃると、中毒を起こしますよ。」

「え?中毒?!」

「短い間なら問題ありませんが、長時間はいけません。」


 彼女のガスマスクは決して伊達ではなかった。今のところアリスにもナナクにも体の異常は感じられないが、こんな場所は早く去りたいと思った。


「それで、お二人様には警告をしに来たのですが、この農場をお褒めいただいたのは初めてでございます。皆、わたくしのこの崇高な研究をご理解いただけなくて。」


 そんな、もったいない、とナナクは正直にそう思った。


「せっかくですので、もっと別の良いものをお見せしようと思いました。この農場の裏にあるのですが、お時間ありますかしら?」

「はい、大丈夫です。」


 ナナクはこの農場よりももっと良いもの、と聞いて引き下がるわけにはいかなかった。本来はダンに見つからないようにすぐにでも帰らなければならなかったが、今の機会を逃したらもうチャンスはないように思えたのだ。


 アリスは特に反対する様子はなかった。ドレス姿の女性に付いて、二人は農場の奥の方へ進んでいった。


 ………

 ……

 …

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る