第4話 枯れ葉色

桜の赤みがかった、秋の葉が綺麗だ。

小さな曇り窓から見える。いつ散るだろうか。

ああ、秋なのか…。

木の下には真っ赤な絨毯が敷かれている。もう冬がやってくるのだ。

明日には全て散ってしまうのかもしれない…。

寂しくて、寒くて。独りぼっちの冬がやってくる。


父親は人の命を物と同じに考えている。

物以下に考えていると言っても過言ではない。

命が散る事を、花が散るより軽く考えている。

それが、殺人者に置いて一番大切な考え方なのだろう。

週に一回、金曜日。

必ずこの日の午後だけ、父は私を迎えに来る。私を屋敷の外に出すのは金曜日だけだ。

父の中では金曜は殺人の為にある日。一週間の仕事納めの日だ。

「さあ、行くぞ」

あれは、いつだったか。初めて人が殺される瞬間を目の前にしたのは。

物心が着く前だったのだろう。

飛び散った赤い鮮血しか、思い出す事は出来ない。

どこで死んでいたのかも、誰が死んでいたのかも覚えていない。

人生で初めて見た地獄。この世は汚いのだ。こんな世界さっさと消えてしまえ。

ああ、今日は誰が死ぬのだろう。どうやって殺されるのだろう。

血は飛び散るのだろうか。毒殺だろうか。

夜寝る時も、どんな時でも、金曜日の光景は私に付き纏ってくる。

『ゴメン。悪かった』自分が何をしたのかも解らずに、謝っている人達。

『死にたくない!』死に物狂いに叫ぶ人達。

人間が人間では無いみたいだった。

人というものが持つ感情とは気分が悪いものだと思った。

あふれだす涙も消えていく息も、きっと悲しいとか苦しいとか。そんな思いを呼ぶ。

嬉しいとか楽しいとか、誰のかのその目の前に、誰かの膨大な苦しみがあるのだ。

殺された人の死に顔を、ただ嬉しそうに眺める人たちを見て、思ったのだ。

絶望の溜息に合わせて、外では突風が吹いた。

茶色の枯れかけの葉が、儚く散っていった。


今日連れて行かれたのは、新品の倉庫だった。

「驚いたか?結構稼げたからさ、事務所新しくしたんだぜ」

この倉庫が建つ為に、あの古い倉庫で何リットルの赤い血が飛び散ったのか。

知っているのは瞳孔の動かない、この人だけだ。

「凄いですね」

父は金曜日が一番楽しそうだ。

父に見られないように手を合わせる。今日こそ神様。私の言う事を聞いてください。

もうこれ以上…。人の消えていく姿なんて見たくもないんです。

新しい倉庫は開きが良い。いつものように嫌なキーという高音は響かない。

「ああ、社長…。どうかされましたか?」

え…?私、この人知っている…。

ばっちりと交わった私たちの視線は、悲しみに塗れた。

浅元遥斗くん。私の見張り役のお兄さん。

父が息子同然に可愛がっていたはずの捨て子だ。父を本当の父のように慕っている。

この人は優しくて、私の屋根裏部屋にコッソリと忍んで来ては、勉強を教えてくれた。

笑い方が綺麗な向日葵みたいな人だ。

でも私は桜みたいって思う。桜の聖霊だって思う。私を助けに来てくれた春の王子様。

強くって、優しくって。何処までも綺麗で。華やかで、でもどこか寂しくて…。

自由人で、今を生きている人で、自由ではなくとも、自分で幸せを見つめている。

私はこの人を、カッコ仮の兄だと思って好いていた。

たまに、押し花をプレゼントしてくれたし、コッソリ高いお菓子をくれたりした。

自立したら、私をお嫁さんにしてくれて、自由にしてくれると言ってくれた。

私の見ている世界は、君のいるべき世界じゃないと笑って言ってくれた。

楽しいとか嬉しいとか、思うことが犯罪だと思っていた私に、言ってくれた。

「俺のために、笑ってくれ」と。


彼と出会ったのは随分と前だったように思う。

私は彼を最初夢の中に出てきた、自分を救う春の王様だと思っていた。

涼しくて、優しそうな目が暗闇の中で輝いているのに。

不思議と彼には儚さや、絶望感が漂っているようで。安心した。

堀の深い綺麗すぎる顔は影を纏い、今まで父が押さえつけてきた多くの人に似ていた。

いつもなら口もきこうとしないはずの私が自然と口を開いたのは、彼が初めてだった。

春の王様じゃないとわかってから、どうしても心を閉ざしたままの私を救ってくれた。

彼は確かに、春の王様ではなかった、でも春の王子様だった。


彼は私の部屋に帰るのが禁じられている日もあった。

でも彼は桜の木をよじ登って、いつも私の元へ来てくれた。

真っ黒い髪の毛に、かわいいピンク色の飾りをつけて、笑わせてくれた。

「桜」

「もう!遥斗君!怪我してる!」

彼は怪我してもニコニコ笑いながら、いつも言った。

「桜に治して貰うとすぐ治るんだ」

彼が見せてくれた世界はすごく綺麗で儚かった。

絵が得意な彼は、退屈な私のためにその世界の綺麗さを絵にして、見せてくれた。

彼のキャンバスが私の世界だった。彼が私の世界だった。


大好きな人だった。血の繋がっている両親よりもずっと大好きだった。

真夏の太陽のように明るくて、熱くて。そして、向日葵のように温かかった。

でもやっぱり桜のように優しくて、華やかで。

ずっと私の事を見てくれている、そんな人。

人生で初めてされた彼からのハグは、私の心すらも溶かしてしまいそうだった。

人生で初めて、会いたいと自分から願った人だった。

私の生きる世界が綺麗なことを教えてくれた人だった。

「遥斗。悪く思わないでくれな。お前にはここで死んで貰わねばならん」

父の目は死んでいる。本当に死んだ魚より死んでいる。

口を開かない私の目の前にさも当たり前のように、いつものように。

「どういう事ですか…」

遥斗は目が泳ぎ出した。死期を悟っている人達は、皆こうなる。

こんな遥斗。見たくなんてなかった。笑顔でいて欲しかった。輝いて欲しかった。

この感情が何なのかは分からない。失いたくない。死なないで欲しい。言葉が出ない。

彼の綺麗な世界が汚されていく。彼の描いた絵がぐちゃぐちゃにされている。

真っ黒い絵の具で全部、全部塗りつぶされていく。やめて。やめてよ。

「こっちにも、こっちの都合があってな」

父は躊躇う事無く、ナイフを取り出した。光の反射するナイフの先を迷わず彼へ向ける。

助けたいと思うのに、足が凍り付いたように冷たくて、動いてくれない。

ぐしゃぐしゃの世界。どんどん歪んでいく。真っ黒くなる世界。助けて。嫌だ。

「おい!娘さん!何とかしてくれよ!」

父に追いつめられた挙句、私の目の前でパニックで倒れた遥斗は、血走った眼で私の足首を掴んだ。

今まで感じた事の無い恐怖を、初めて彼に感じた。

怖い。怖い。おチャラけた笑顔が何処にも無い。生きたいという渇望が溢れている。

この人だけはこうならないと、心のどこかで信じていた。一生失わないと思っていた。

「遥…」

背筋だけ冬がやって来たような感覚がして、私の喉が音を帯びずに鳴った。

籠もった音が響いて、私の掴まれた足から力が抜けていく。

足には掌の跡がクッキリと確かに、その人が生きていたという事実だけが刻まれている。

私の真っ白い靴に鮮血のシミが飛び散った。

怖い…。怖い…。涙でもう跡形も無いであろう、私の顔を父は嘲笑うように見つめている。

恐怖に震える私の足をもう一度彼は掴んだ。薄らと私に瞳が向けられた。

彼の瞳が一瞬だけ、かつての輝きを取り戻した。その輝きが。初めて私を見上げた。

「…」

何か言ったようにも思えたけれど、理解する事は出来なかった。

口が確かに動いたようにも思えたけれど、やっぱり分からなかった。涙が落ちそうになる。

一滴の水滴が彼の額に落ちた。彼は微笑んだように見えた。誰よりも美しく。

「遥斗…。逝かないで…」

初めて誰かに大切にされて、誰かを大切にしたいと思った。

ただ一人の私の生きる希望。失いたくない。彼がいなくなって、私は何を見て生きればいいの?キャンバスがなければ、私は自分の世界を想像できない。

そんな私を見つめて、父はニッコリと笑った。

「あれだけ、綺麗に死ねって言ったのになぁ…」

どうして?どうして、息子同然の人を?なんで、どうして。なんで。ねぇ。どうして。

「よく目に焼き付けて置け」

私が目を逸らした瞬間。頭を掴まれ、まだ体温の残っていそうな人間を見させられる。

溜めているものを押し出すように涙が出てくる。恐怖心が襲ってくる。

たったナイフ一本でこんな、あっという間に人は殺されてしまう。

頭は抵抗出来ない力で抑え付けられている。一生この力に屈せなければいけない。

涙が溢れ出てくる。ただただ地獄のような時間。

また、今日。命は簡単に散って逝った。花が散るより早く。何より早く。

嗚咽が溢れ出てくる。歯止めが利かない恐怖心。涙に乗って溢れ出るようだ。

でも涙のように自分から離れて良く事は二度とない。私に一生纏わり付く。

父から見えないように涙を流した。涙はもう止まる事を知らない。

父は死体を焼き出した。こうやって証拠を処分する。

チロチロと光る真っ赤な色は、彼の照れたような顔と同じ。彼が流した血と同じ。

一生忘れられないんだと。悟った。

父の顔が暗がりの中で浮かび上がっている。ニヤリとでも言いそうな、そんな笑顔を浮かべている。

幸せそうで、気味が悪くて。この人の育ち方を知りたいと思った。どうしたらそうなるのか。

いらなくなったら捨てる。ゴミみたいに。焼いて処分する。

呆気なく灰になった。真っ黒になる。

開いた窓から、風が吹き抜けてくる。彼の灰が巻き上げられる、このまま天国へ連れていって。

この世の中不公平だ。天を仰ぎ、神様に語り掛けた。この人、誰も殺していないんです…。

ちゃんと生きようとしていた人は死んで、

人の不幸を生き甲斐にする人間は、のうのうと生きている。神様なんてきっと存在しない。

命は散って逝った。枯れ葉より早いだろう。


家に帰ったら朝は元気だったはずの、木の葉も散っていた。

そう言えば、あの人も桜が好きと言っていた。

桜みたいに明るく生きたいと言っていた。向日葵みたいに生きたいと言っていた。

私を桜と呼んだ。

名前すらなかった私に、一番好きな花。桜の名前を。

私は生きる価値のあるんだろうか?

そんな問いにぶつかる度に、笑顔で『俺と一緒に生きよう』と言ってくれた人。

初めて私が『大切なんだ』と言ってくれた人。私をこの世に留めてくれていた人。

私の春の王子様は、もう消えてしまった。春を運んでくる前に、消えてしまった。

私の目印の桜はもう咲かない。春を待たずに散って逝った。

私は温かい感情を何処かへ捨てて来てしまったのか。涙と流れて行ったのか。

どんなに空を見上げても、桜も見下げても。何も思えないのだ。

私の大切な家族も花も、そして私の世界も枯れ葉色になってしまった。

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