第2話 灰色


高い位置にある、この屋根裏部屋からは大好きな桜が間近に見える。

この屋敷の桜は随分と早咲きで、今にも咲きそうなほどに、膨らんだ蕾がいる。

桜には何も香りも無い。

でも、絶望的な毎日を明るく照らしてくれる。鮮やかな美しい色に照らしてくれる。

この単調で色の無い、屋根裏部屋を。


「おはよう」

薄暗くて、埃っぽい部屋の向こうの扉から暗い声が聞こえた。

先ほどまで春の王子様が座っていた場所は、扉の外から吹き抜けた風で跡も消える。

「はい。何でしょうか…?」

私の父親だ。気味悪く笑った顔は。

笑う事すら出来ない私には、余り似ていない。と思う。

「もう、お前も中学生だ。後、もうちょっとで。こんな薄暗い部屋から出られるからな」

「はい。ありがとうございます」

北海道の雪景色と言えば、こんな風景なのかな。そんな美しいものではない。

唇が小さく歪んで、音を織りなす。

思ってもない事を言葉にする事だけは得意だ。自分には心が無いのだと思う。

「本当良い子だなぁ」

やっぱり気味の悪い笑い方だ。

この人は知らないと思っている。この人の心の中なんて丸見えなのに。

「ありがとうございます」

私が会った事のある人は。

私の事を嫌ってストレス発散台にしている母親と。

本当の笑顔を何処かに忘れて来た、人間なのかも定かではない、犯罪者の父親。

私にとっては唯一の人間である。そして私を人間として扱ってくれる。

でも、驚くほどファンタジストで現実を知らない、お屋敷のお嬢様で二つ上の美月様。

この屋敷の主である旦那さま。たまに泊まりに来ている親族達。

父が息子の様に可愛がっている浅元遥斗君。友達なんて一人もいない。家族もいない。

学校には通わせて貰えていなかったから友達もいない、私は戸籍がないから仕方が無いけど。

「はい。ご飯だよ」

灰色のスープに添えられたパンの一切れ。たったそれだけ。

そこら辺で呑気に鳴く野良猫だって、もうちょっと食べているはずだけど…。

大きく怒ったように鳴いている猫に、どんな思いで食べているか問いかける暇もない。

この無駄にだだっ広い屋根裏で私は感情も無しに泣きながら、パンたった一切れ。

「ありがとうございます」

世間は親に敬語を使うのだろうか。私はこの支配された世界から出て行った事が無い。

親に隠してお嬢様の部屋から盗み出した、本たちの世界の中でしか、世界を知らない。

だから、何が当たり前なのか分からない。

ただ、分かるのは…。私は人並みの生活を送れていない事。それだけだ。

そして私が召使として仕えているココは、やっぱり普通じゃない。

父親は帰って行った。

あの人の背中は大きくなんかない。父親の背中を大きくなんて思わない。

普段パンを運んでくるのは虐待が大好物の母親だ。たまに父親も顔を出す。

両親が一緒に来る事はない。と言うか、本当に夫婦?何処から忍んできているの?

千切った後のパンの一切れを食べた。

「あ」

今日のパンは柔らかい…。

しかも、ちょっと甘い…?

甘さが口の中に広がる。何だか幸せが広がっていくようだった。

ラッキーだ。いや。父親が来る時はいつも柔らかい。

少しは人間の心があるのかもしれない。本当に少しだけ…。人間として…。

お金持ちの色女との気まぐれ不倫出来て、殺人者の子供だから人並みの生活が送れない。

そんな、私を。少しは気の毒には思うのかもしれない。

私の人生の楽しみを言えば、

窓の外で季節を運びながら、いつも違う姿を見せてくれる。とても広い庭。

学校でやるだろう勉強。たまに聞こえてくるお嬢様のピアノ。

当たり前とは何なんだろうか?日常とは何なんだろうか?常識を感じた事はない。

お母さんと呼ぶ事も、お父さんと呼ぶ事も。

家族と何処かへ行く事も…。学校に行って誰かと話す事も。笑い合う事も。

良いご飯も食べた事は無い。外食経験なんて一度も無い。名前を呼ばれた事も無い。

でもそれが私にとっては当たり前。自分以外の人間はいない。

不幸でも何でもないのだ、だって当たり前だもの。生まれた時からそうやって生きて来た。

死んでいるか生きているのかも、世間には認識されないのに、

薄暗くて、夏でも寒い屋根裏部屋にずっと一人で生きている。

私を見つめている瞳は、冷酷で愛情のない瞳ばかりで。寂しく生きていて。

朝と昼と夜に食べられる、硬い残り物のパンを無心に食べて。

いつも一人でパンを見ながら。食べた気になった後でまた食べる。

パンが一切れ。食べられるだけで、トリュフとやらを食べたつもりになる。

幸せを噛み締める。私は生きているって分かるから。

誰に気付かれなくても、ちゃんと生きていて。この場に今、生きられている…。

死んでいない。皆からは死んでいても。

生まれたことすら誰も知らなくても、生きているって事が分かるから…。

ボンヤリと外の風景を眺めていた。小さなスズメが、庭の花を、突いて落としていた。

沈黙が続いたのち、爆発でも起きました?っていうぐらいの、もの凄いノックオンが響き渡った。

「はい」

ドン!と言う音と共に、内開きの重いドアが勢いよく開いた。

入り口前に溜まった埃が舞って、煙たくなる。

「あら。何パン食べているの?また一切れ?惨めねぇ」

自分が勝手に不倫して産んでおいて勝手だ。だったら産むなよって思う。

反抗期の子ってこういう時なんて言うのかな…。

あ。『この、クソババァ』か。

いや、お母さんとも言ったことないのに、突然ババァはおかしいだろ…。

私には名前が無い。ここには一人しかいないのだから、名前など呼ばなくてもいいのだ。

名前があると、やっぱり生きているって感じがするのかな。

自分が唯一無二の存在だって思えるのかな。

私の苗字は何なのだろう?苗字って多分、家族がいるって思えるから大事なんだろうな。

言うだけ言って、何かをくれる訳でもなく帰って行く。細身の真っ直ぐな背中。寂しい背中。

大嫌いな高笑いが近くにいるのに、段々遠くから聞こえてくる。

あの人は自分のストレスや不幸を私のせいにして。

あの人の知っている中で一番不幸な私を見て、自分を慰めているのだろう。

乱暴に閉じられたドア。鼓膜が千切れるよ!心の中で突っ込む。

私も同レベルだ。こうやってしか、勝った気がしないのだもん…。

一人でちょっと笑った。虚しさから頬がひりついている。

階段を上がってくる小さな足音が聞こえた。

可愛い感じだ。淑やかで、ちゃんと足音を小さくしている。

本当に出来の良いお嬢様だな。同じお腹から生まれたのに。

何の違いだよ!父親の違いだよ!不倫かどうかの違いだよ!

はぁ、と呟いた小さな声が狭い屋根の下に響くと同時に、耳が澄まされる。

何度も聞いても、秋に似合う、鈴虫の鳴くような声が聞こえた。


「お母様。何処へ行っていらっしゃったのですか?」


お母様が屋根裏部屋から帰って来られた。何も感じられない顔は、美しい顔を台無しにする。

「ああ。美月には関係ないわよ。朝ご飯は食べたの?」

お母様はいつも。このぐらいの時間になると屋根裏部屋に上がる。

何故だかは教えて下さらない。いつも鍵がかかっていて入れないし。

この時はいつも以上に冷たい。唇の端を、痙攣させたように、口角を上げようとしていた。

「そうですか。ご飯はもう食べました。今から学校へ行って参ります」

私の顔を見て、やっぱり何も感じていないような表情を浮かべながら、百八十度回転した。

今から学校へ行くと言うのに、行ってらっしゃいの一言もない。気を付けても、いらないのに。

お母様は私には距離を置いている。見えない壁は年々高くなる。

まあ、お金持ちの家はそんなもんらしい。

お母様は仕事…。仕事で忙しくて、小さな頃から関わりが無いから、話し難いのかも。

私の家族はまぁ、人並みに幸せだし。構わない。

皆は人並み以上だというけれど。

「いってきまーす」

靴を突っかけながら玄関を開けようとした。誰の目もないと、どうしても大雑把になってしまう。

コンコンと雑に、靴を履きながら扉を開けて、飛び出そうとした。

「うっわっ!」

目の前に、前髪が目にまでかかる真っ茶色の髪のロングヘアーで小柄な女の子が立っている。

いつもマスクをしている女の子。いつも俯いている顔が、私を正面から見ていた。

この家で使用人をしている子だ。

全く喋らない女の子。名前は知らない。お母様があの子の事になると少し怒るから。

「申し訳ありません。お嬢様!」

首が捥げそうなほどに頭を下げている。綺麗な声だな。と思う。

バサバサと音を立てて、ロングヘアーで艶の良い髪が彼女の顔に影を落とした。

マスクに隠れてはいるものの、通った高い鼻の出発点に影が差して、美しさを増す。

「良いんですよ」

下を向いてしまったその子に声をかける。顔が見えなくても分かる。彼女は今、必死だ。

「申し訳ございません。以後気を付けます。行ってらっしゃいませ」

やっぱり下を向いている。社交辞令の『行ってらっしゃい』が、朝の私の心を照らしてくれた。

ただでさえ、見た事も無い顔に長い髪が掛かって、一生懸命な彼女へ影を落とす。

「安心して下さい。お母様にはこの事は言いませんから」

少し安心したようにその子は息を吐いた。やっと顔を上げて、髪の毛を後ろへとやった。

顔は見えないけれど、不思議と絵になるのだった。

「じゃあ。行ってきます」

小さく手を振る。大きく手を振っては品が無いと、怒られてしまうから。

「行ってらっしゃいませ。お気をつけて」

余りにも、理想的な挨拶を見て、こんなに小さい子でも出来るのになぁ…と悲しく思う。

小さな背中は折曲り、彼女が深々と頭を下げてくれた事を理解した。

思わずふっと笑いが零れる。

気のせいだったのかもしれないけれど、彼女が手を振り返そうとしてくれた気がしたから。


庭のエリカの花が色とりどりに、この灰色の世界で唯一の色を輝かせている。

あの子が水をやってくれたのか。

エリカの花たちには美味しそうな水滴が落ちていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る