秘密姉妹

Storie(Green back)

第1話 真っ黒

今日の朝日も昇りきっていない。

あの日の夕暮れは暮れず、輝かしい朝日は一度も昇っていない。

しかし、見慣れた景色は今日も朝を迎えたようだ。

昨日までは咲いていなかった桜は蕾が開き、桜色に色付いている。

暗がりの部屋の中にまで、希望の春の訪れを告げていた。


まだあどけない足取りだった過去。そんな頃、私の隣に突然現れた天使のような子がいた。

一生傍にいると誓った。一生守りたいと願った。

でもその青春の残り火すらない事を、どの部屋を開けたとしても、誰にも会えない。

この朝が証明している。

今日は最愛の妹の命日だ。

あれから。五回も同じように花の咲く季節を迎えて。

私もすっかり、世の中の無常さを悟ったつもりだ。

あの日も、同じように春の訪れを待っていた。

ただ違うのは、私が一人で待っている。その事だけだ。

寒さはまだ取り残されていて、妹の笑顔もそんな季節を思わせる、美しい白色だった。

窓に桜が張り付いている。

「咲いたんだ…」

今年は咲くのが早かったようだ。

今日は、私が生まれた冬に植えたらしい、桜の木が満開に咲いている。

あの日。あの子は、待ち望んでいた桜の木が咲かない事を悲しそうに見つめながら。

優しそうに、幸せへと大きな一歩を踏み出そうとしていた。

あの子にとっては、死という物への一歩だったのかもしれないけれど。私にはそう見えた。

妹が死んでから長い間。桜を見る事が辛かった。

何故妹の最期を見届けてくれなかったんだろう?いつも、心なしか桜を責めてしまうんだ。

今なら分かる。何であの春だけ。遅くに花が咲いたのか。

それは。花達が先に妹を襲う現実を知って、喪に服していたからなのかもしれない。

私も同じように桜の木を遠くから撫でる仕草をする。

唯一似ていた私と妹の手。でもやっぱり違う。

眠さを吹き飛ばすようにカーテンを開け、見えない朝日を拝んだ後で、

今度は誰も迎え入れてはくれない、遠い昔の部屋に踏み入れる。

真っ白い笑顔に溢れていたはずの部屋を見渡す。

このアパートはこんなにも無駄にだだっ広かっただろうか。

私一人にはもったいないぐらいに広すぎるんだが。

ボンヤリとした視界の中で玄関に向かい、眠気覚ましにスリッパを突っ掛ける。

独特な青い色をした錆びだらけのドアを力づくで開けて、眩しい朝日の下に降り立った。

目の前にはボロボロの布きれになってしまった、大壇幕が掲げられている。

『日向ちゃん。卒業おめでとう!』

何度も外してくれて構わないと言った。見るだけで辛いからと。

でも日向を慕っていた幼子は言った。

『日向お姉ちゃんが、帰ってくる場所が分からなくなっちゃうから』

分かっている。妹は二度と帰ってこない。

でもこのアパートの人たちは、待っていると。そう言ってくれた。

突っ掛けたスリッパを呑気にパカパカ鳴らしながら、音を鳴らす階段を降りていく。

さっきまで上から見下げていた桜の木があっという間に、私の目の前に大きく立ち塞がった。

ゆっくりと近づいた後で、ゴツゴツした木肌にゆっくりと掌を当てる。

歪で何だか、少し痛みがあった。

「もう、五年も経ったんだよ?どう思う?」

こうやってあの子は、誰にも聞こえない桜の声を聞いていた。

私には聞こえない声を聴いていた。その事実が私は辛くて堪らなかった。

五年間、封じられていた桜の根元を掘り起こす。開けられなかった、この五年。

庭に放置されている大きなスコップで、全身を使って地面を掘り起こす。

土の色が変わった頃、久しぶりに見えるアルミ缶が顔を出した。

遺言書に書いてあったのだ。

『五年後の命日。葬式を挙げて下さい』と。

だからこれまでの五年間、正式な葬式はせず、今日がやってくるのを待っていたのだ。

妹が初めて、自分のお小遣いで買ってくれた、

ボロボロで時代遅れの高級時計の液晶画面を見つめる。

後、十一時間五十九分に変わった。


開く前の、電灯一つ点いていない葬式場に運ぶ。

大きな沢山の荷物を、たった一人で持つ。

ドアを開いてくれる影は。無い。荷物は驚くほどに、重い。

車に乗り込んだとしても。助手席は決して埋まらない。

自分の顔が映り込んでいる窓に、桜の花びらが張り付いてくる。

「行ってくるね」

桜の花びらが風に煽られ、剥がれて、飛んで行った。


二つ用意された遺族席に座った。一つは、勿論私の。

もう一つは日向が大切に思った人の席。苦しみも何も全て抱えたあの人の席。

目の前に広がった満開の桜の花。作り物でも美しさは本物に劣らない。美しく桜色に色付く。

そして…。真ん中で笑う、失った光。

あと数時間で、本当にサヨナラしなければいけないのだろうか。

あの子にはもう二度と会えない。分かっているのに。

写真を見る度に思ってしまう。本当は生きているのではないのかって。

でも葬式をすれば…。死んだ事は本当になってしまう。そんな思いが、何よりも怖かった。

大好きで誰よりも大事だった妹を失った事が、現実として私を襲って来る事が怖い。

顔馴染みの人達が私に挨拶をして行く。心の籠らない、空返事を返す。

五年経っても、こうやって輝き続けるあの子はやっぱり凄かったのだ。

あの子の記憶は誰の中でも、誰よりも美しく輝き続けているに違いない。

私は何処かに置いたまま、始まった葬式の中で、多くの人がすすり泣く声が響き渡った。

薄情なのだろうか、涙すら一滴も出ない。悲しいとは思わない。

私ばかりが、この時から取り残されて行く。

いや、私は五年前のあの日から、取り残されているのだ。

「続いては、ご遺族によるお話です」

桜に囲まれる光は私を見つめているように感じた。じっと静かに。

妹の傍に行く。この世の中で一番近く。階段を上る。昔よりか足が重い。時の流れを感じる。

一歩ずつ、私の人生が崩れる瞬間に近付いて行く。

一歩ずつ、あの子の人生が崩された瞬間に近付いて行く。

私と一緒にあの日のままに止まった、大切な日記を開けた。

そこにはまだ、あの時の日向が入っていた。

埃っぽい匂いと、土の匂いが混ざっている。

妹が愛用していたペンの匂いが残っている。気のせいか桜の香りもした。

私がずっと不安だった。処分しても良かったはずの数々の証拠。

それをどうしてわざわざ、残していたのか。でも分かった。

大事だった人達に嘘は吐かない。あの子らしい決心の色が見える。

誰よりも人を愛せる人だったから。愛に生き、愛によって殺されたのだから。

それを伝える世界一の仕事を。私に任せてくれた。

ドアが勢いよく開く音がした。暗い葬式場に、眩しい太陽の光が差し込んできている。

たった一人の肩幅の広いシルエットが、神々しい中から浮かび上がった。

私はその人と目を合わせる。

その人の目はあの頃のように、思いつめても、死んでもいなかった。

本当の温かさだけがある。あの子のように。

頷き合った。

もう、これからの私にも、日向にも。嘘も偽りも無い。


「この度は皆さん。お集まり頂きまして本当にありがとうございます。

 亡き、妹もきっと天国で喜んでいるであろうと思います。

 皆さんに、私達姉妹は沢山のウソを吐いて来ました。

 謝ります。本当にごめんなさい。

 だから、私達の本当の人生を皆さんにお話ししたいと思います。

 妹もそれを望んでいると思うから。

 皆さんもご存じの通り、妹は。皆の輝きのような子でした。

 私の殺風景だった景色も。幸せという物を知らなかった私の心も。

 あの子がいるだけで、誰よりも素敵な世界に変わりました。

 そのあの子は今でも私の中で生きています。永遠に生き続けています。

 そんな素敵な妹を。五年前の今日、殺したのは私です」


真冬の風が入ってくるのを感じる。この中だけ春が来ていない事を実感する。

妹が書き残した言葉。書き残した記憶が全て、今、綺麗に洗濯される。

その言葉に、記憶に水滴が落ちて、インクが滲んだ。

そのインクが私の掌に付いた。掌に真っ黒いインクが広がって行く。

五年前の今日。血塗られた色の染まった掌が、真っ黒に染まっている。

妹を殺めた掌が、真っ黒く染まっている。


私達の思い出は。この真っ黒い掌のようだった。

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