第3話

 町に戻るとそこは悍ましい様子に成り果てていた。

「なんだよこれ。みんなどうしちまったんだ!?」

「銀太、お前も見ただろ。此奴ら皆、赤魔にやられている」

「そんな」

 自我を失った町人の束が十蔵達に襲いかかる。

「赤魔に侵された者は赤魔を求める。あなた方の皮膚に染みついた薬の香はそう容易く拭えませぬ」

「お勢さん! あんた!」

「違う。貴様、一目会うた時より見覚えがあった。菊蜂」

「お久しゅうございます十蔵様。わたくしは残念に思うておりまする。あなた様のような骨の髄まで血の腐臭に染まった殺し手が郷抜けなど世迷い事を」

「貴様」

「お気づきですか? 水母の密命書はあなた様をこの潮原に誘き寄せるための罠。無支祁様の計略にござりまする」

「銀太やこの者たちには関わりなきこと!」

「もとよりここは赤魔の効能を測る贄の地です。それにわたくしとて片瞑を一人で相手するのは骨が折れますゆえ。さて戯言はここまで。薬に飢えたその歩く屍、あなた様方の肉まで喰らいますぞ」

 十蔵は町人達を退けるのがやっとであった。こうなれば持久戦。仮に彼らをいなしても疲弊したところにまだ菊蜂や無支祁が控えている。薬で狂わされたとはいえ元はただの素人。斬るのは容易いことであったが十蔵は刀を抜けずにいた。菊蜂の高笑いが響く。かつて目の前で大切な者を殺められた昔日に砕けたはずの心が今何故か戻りつつある。心は十蔵にとって弱さと映っていた。忍ならば不要なものだと一度は捨てたはず。狗渓を抜けてから牛頭峠で見た夢が何度も脳裏にちらついて刀を抜かせなかった。

「だ、旦那あ!」

 銀太は迫り来る人集りに埋もれながら叫んだ。

「頼む、後生だ、こいつらを! き 斬っでやっでぐれぇ! ああああ」

 涙ながらに訴える銀太の声は悲痛であった。銀太にしてみれば同じ町で暮らした仲間である。それを斬れと声にする重みは一入であった。


 十蔵、許して お前を 守ってやれぬ 愚かな  母を


 十蔵の手から重みが消える。

「銀太、許せ」

 刹那、血が飛沫しぶきをあげ町人達が立ち上がることはそれ以上なかった。銀太は死した者達に縋りつき咽び泣く。

「奉行所の追っ手が来るやもしれん。お前は隠れていろ。奴らは俺が殺す」

 遊郭へ向かうまでにも赤魔に侵された者による襲撃が続いた。とはいえ迷いの消えた十蔵の相手ではない。ただその情は濁りつつあり、狗渓への殺意が昂まっていく。


「無支祁」

「よぉ、兄弟」

「すべて謀りだったか」

「言ったろ。俺は片時も狗渓の忍びであることを忘れちゃいないとな」

「お前を慕っていた者達の想いは本物だ」

「狂ったのはお前さ十蔵。想い? 情? 笑わせる! 我ら忍びにとってそんなものは真っ先に唾棄すべき戯論! なあ、兄弟! お前も見ただろ。この赤魔がありゃ天下統一も楽勝だ。奉行所の連中なんざ此奴で飼い殺しよ。十蔵、命を乞え。今ならてめぇを犬として飼ってやってもいい」

 無支祁の耳元で空気が震えた。頬が裂け血が滴る。

「ほう、投げ物か。まだ幾許か心得はあるようだな」

 無支祁の姿が消え失せたかと思うと突然眼前にこれを現し刀身を振り翳した。十蔵は瞬時に身構えこれを弾き返す。再び姿を消し去ると次は背後から気配を見せた。

「雷鳴」

「いかにも。この速さは狗渓随一。お前は何も出来ずに死ぬ」

 十蔵は防戦一方となり無支祁に翻弄される。

「どうした片瞑! お前の隻眼では捉えれまい! ハッハッ!」

 十蔵は指を咥え笛を鳴らす。

「なんの真似だあ? 覚悟!」

 無支祁の刃は十蔵の肩に突き立てられる。十蔵はそのまま身を崩した。

「呆気ないものよ。あの片瞑が」

「ほざけ 屑が」

「死ね」

 十蔵は突き刺さる刀身をさらに食い込ませるように無支祁の方へと迫った。ただならぬ気配を感じた無支祁は刀を抜こうとするも食い込んで離れない。十蔵は無支祁の手首を捉えて掴むと叫んだ。

「今だ! やれぃ! 銀太!」

「ああ ああああああああ!!」

「糞が! 放せぇええ!」


 これより一刻前。

「奉行所の追っ手が来るやもしれん。お前は隠れていろ。奴らは俺が殺す」

「旦那、頼みばっかりで悪りぃが聞いてくれ。俺も鳴吉のとこに連れてってくんないか」

「銀太」

「仲間がああなったのは俺が彼奴にまんまと嵌められる馬鹿だったからだ。どんだけ悔いても治らねえ。馬鹿だけど馬鹿なりにこの手で、潮原の者として仇がとりてえ」

「無支祁は雷鳴という体術の使い手だ。肉眼で捉えきれぬ速さを持っている。お前の決意はわかるが」

「頼む、旦那」

「……。ならこれだけは守ってくれ。俺が指笛を吹くまで身を潜めろ。合図があれば刀を構えるんだ。これを使え。俺が奴の動きを封じたら声を出す。あとは分かるな」

「すまねえ、すまねえ くッ」



 無支祁は力を失くしその場に仰向けにして倒れた。

「ばがな この俺が 町民ごど ぎに」

「赤魔はどこにある」

「知る がよ じっでで も おし ……」

「菊蜂の気配が消えた。遅かったか」

「旦那、ありがとうございました」

「これからどうするつもりだ」

「この町を出ようと思う。潮原はもう終わりだ。奉行所の連中だってじきに自滅するだろう。俺たちはやばいもんに手を出しちまったんだ」

「あまり自分を責めるな」

「旦那だってさ。これ返すよ。俺には重くてかなわねえや」

「銀太、生きろ」

「旦那もお気をつけて。またもし会うことがありゃあ今度はあんたを助けてえ。それまでお互いご無事で」




 狗渓。その確かな位置は地図には記されていない。常人が迷い込んだとしてもあたりは鬱蒼とした茂みにしか映らず、そのもの自体が周囲に擬態しており、狗渓の忍衆以外には秘匿され続けてきた。

「御館様、ただいま戻りました」

「赤魔は」

「ここに。ですが無支祁が敗北し、潮原はもう使えぬかと」

「構わぬ。赤魔があれば我が野望の完遂は絶対。愚息が一人くたばったところで些末なこと。それよりも奴だ。菊蜂、お前はすぐに片瞑の足取を追え。そして必ず殺せ。ぬるい手はもう許さぬ」

「面目ござりませぬ。すぐに」

「十蔵よ、せいぜい抗え。お前などが吠えたところで何も変わらぬということを教えてやる」

 

 

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