第2話

 琴音は薬師丸の体についた血を丁寧に拭き取るとその前で手を合わせた。

「すまなかった」

「薬師丸様は祖父の古くからの友でした。祖父は元々武家の出で、身分を捨てこの宿を開くにあたって随分と世話になったそうです。私も幼い頃からよくしてもらいました。十蔵さん、あなたは薬師丸様が繋いだ最後の命です。どうか無駄にしないでくださいまし」

「琴音。俺にはやらねばならんことがある。薬師丸殿の無念は必ず晴らす」

「私は刀が嫌いです。人を殺めるための道具ですから。あなたのそれを見た時、私は手に取ることすら躊躇いました。私が薬師丸様を巻き込んだ。私が、刀を預けたから」

「それは違う。奴らは俺の追手。厄病神は俺だ。だから俺は今日ここをたつ。琴音、刀を渡してくれ」

「私が首を横にふってもあなたなら力ずくで奪い取れるのでしょう」

「琴音」

「本当は行かせたくありません。ですが私の私情で町の人たちを危ない目には合わせられない。十蔵さん、これをお返しします。それからこちらもお持ちください。祖父が武士の頃に持っていたものです。私には刀のことはよく分かりません。ただ祖父はこれを亡くなるまで大事に手入れしておりました。お守りだと思って」

「かたじけない」


 その晩、十蔵は牛頭峠を後にした。その足の向かう先は峠を越えて凡そ五里。港に通ずる「潮原」なる町であった。紅水母が懐に隠し持っていた密命書、潮原にて任に就く「無支祁むしき」へと宛てられたものである。その内容は十蔵の裏切りを記しておりその始末を命じたものだった。先立って紅水母が死亡したことで無支祁はまだ自分が郷抜けしたことを知らない。十蔵はそれを受け、討つならば好機と踏んだ。

 潮原は漁業に恵まれた土地であり旅客として足を運ぶ者も多く華やかで大きな町だった。一方で奉行所と、漁業組合である「青驢せいろ」の利権をめぐる衝突が絶えず、華やかさの裏に殺伐とした空気があった。

鳴吉めいきちという男を探している」

「親分なら今、遊郭にいるよ。あんた誰だい」

「同郷の者だ」

「そうかいそうかい。ならついてきな。案内してやるよ。俺は銀太。青驢にゃ入ったばっかりだが親分にはよくしてもらってんだ」

 遊郭へと向かう途中、鳴吉がどれだけ偉大かを銀太は十蔵に言って聞かせた。その話ではかつて自分が知っていた鳴吉、つまり無支祁とは些か異なる印象だった。

「おととい来やがれ!」

 襖の向こうに怒声が聞こえる。その直後に二人の役人がそそくさと出てきて足早に去っていった。

「おや? 十蔵! 十蔵じゃねえか。どうしたんだ急に。まあ入れ入れ」

「さっきの奴らは」

「ああ、奉行所の犬さ。漁の売掛金をいくらか納めてるんだがそいつをつり上げろって莫迦な話をしてきやがったんで追い出したところだ。いやあしかしよく来てくれた。ぱあっとやろうぜ兄弟」

「話がある」

「ん〜、おい。お前ら、ちょっと外せ」

 二人以外が捌けると鳴吉は先程までとは違った目つきに変わり十蔵を見据えた。

「何があった」

「頭領より密命が下った」

「して、その中身は」

「狗渓を抜けた輩がいる」

「誰だ」

「顎門」

「あぎとが? まさか。だって奴ぁお頭の」

「今は行方知らずだがこれをお前に伝えるよう命を受けてここに参った」

「信じ難い話だが、そうか。よく知らせてくれた」

「見ないうちに変わったな」

「今や港町のヤクザ者の頭さ。忍びだったことを忘れちまいそうだ」

「身分だけでない。顔つきも。かつてのお前なら役人など斬って捨てただろう」

「止せよ兄弟。そんなことすりゃ今まで少しずつ積み上げてきたもんが一発でお釈迦になる。顎門の件は俺も探ってみる。見つけたら討てばいいんだな」

「ああ」

「いつまでここにいるんだ。少しくらいはいいんだろ?」

「三日中には郷に戻らねばならん。それまでは」

「なら手伝ってくれねえか」

「何を」

「奉行所潰しさ」

「何を企んでいる」

「こいつを知ってるか」

「なんだこれは」

「赤魔って薬さ。阿片に似てるがよっぽどきつい」

「お前」

「なわけねえだろ。だがこいつを役人どもにばら撒いてほしい。奴らを真正面から叩き斬るのは簡単だがそれだと意味がない。青驢やこの町の人間は奉行所の所為で粟を食わされてる。不正が明るみになれば役人共にでかい顔させずに済むってわけだ」

「変わったな」

「なんとでも言え。で、どうなんだ。答え次第では兄弟でも」

「それは一択というもの」

「どうだかね」

「お前はこの町が大事なのか」

「もう十年になるか。潮原に入って幕府方の動きを流し続けてきた。長くいれば俺にもこの海の匂いが染みつきやがる。目を合わせりゃ親分だなんだと俺みたいなはぐれ雲を慕ってくれる連中がいるんだ。頼む兄弟。俺は狗渓の忍びだ。それを片時も忘れちゃいない。だがあいつらを、俺を人間として見てくれる連中を助けてやりてえんだ」

「無支祁、いいだろう」

「本当か? 恩にきる」


 十蔵の中に迷いが生じた。恩などという言葉が無支祁の口から出た時、それを謀って討とうとしている自分のほうが余程狗渓の忍びらしく思えたのだ。掟は破れても血は抗えない。十蔵とて幼き頃から殺しの術を仕込まれた狗の一人であることをあらためて知らされるのだった。


 翌朝、鳴吉のあてがった宿へ銀太が現れ、十蔵は呼び出された。鳴吉の元には既に集まる者がいた。

「兄弟、紹介する。こいつらが此度手を貸してくれる連中だ」

「鳴吉、一人役人がまじっているようだが」

「村上殿なら心配いらん。内通の者としてこちらに手助けしてくれている。それに銀太、あとはこのお勢。俺と兄弟を含めてこの五人だ。村上殿には既に奉行所内に赤魔を流してもらった。そろそろ効き始める頃。そうすれば買い手がつく。お前と銀太には赤魔の売買を頼みたい」

「……」

「どうした?」

「この手が本当に正しいのか」

「十蔵殿、我ら役人に真っ向から立ち向かっても大きな力で潰されるだけです。鳴吉殿のやり方が最も近道なのですよ」

「旦那、俺も頑張るよ。親分の役に立ちたいんだ」

「兄弟、頼む」

「……」


 その夜、鳴吉の計画どおり役人の一人が薬を求めて港に現れた。言動も覚束ず、ただ必死に薬をよこせと宣う姿は世を執り仕切る役人とは思えぬ末期中毒者のそれであった。

「ちょ、あんた! 放せよ!」

 役人は銀太にしがみつき、最早取引どころではない。十蔵は鞘に手を当てた。そこへ村上が幾らかの役人を引き連れて現れる。

「捕えろ!」

「ど、どういうことだい! 村上さ」

「退くぞ銀太、走れ」

 十蔵は咄嗟に銀太の襟首を掴んで引っ張ると暗がりへと走り出した。

「なんで、俺たちまで」

「さあな、だがお前の親分には聞かねばならんことがある」

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