蝸牛忍法帖
川谷パルテノン
第1話
月夜の街道を男が歩いていた。よく見れば片足を引き摺って、額からは血を流している。男は疲弊していた。街道は寂れた宿場町、
「ひどい有り様じゃ」
男が再び意識を取り戻した時、近くで老人のような声が聞こえた。今までなら不覚を取るまいと身構えたはずが傷のせいか上手く動けない。老人は続けて無理は止せと告げ、自らはこの宿場町で医者を営む者と語った。老人は男の容体を言って聞かせた。
「全身に毒が回りかけておった。虫や獣に噛まれた様子もないところを見ると人にやられたな。しかしその片目の潰れだけは幼子よりのもの。何があったかは聞かぬが随分修羅場を潜ったようじゃな」
男は返事も返さずただ黙って横たわっていた。しばらくの沈黙の後、戸襖が開いて女が入ってきた。
「薬師丸様、この方のご様子は」
「当面は凌いだ。後は体を休めて回復に努めなさい」
「ありがとうございます」
薬師丸が帰り、部屋は男と女だけになった。男がようやく口を開く。声は低く単調で感情がない。
「どういうつもりだ」
「傷を負って倒れている者がいれば手を貸すのが人情というものでしょう」
「わからぬ」
「何があったかは知りやしませんが医者の言うとおりしばらくここでゆっくりしてください」
「構うな。俺は行かねばならん。今夜にでもここを出る」
「もう構いましたよ。大口叩くのは体が動けるようになってからになさいまし。宿代も払ってもらわないと」
「金などもとよりない」
「あらまあ、ふふ、わりと生真面目な方なのね。冗談ですよ。ではごゆるりと」
女が部屋を後にし、男は片目で天井を見つめた。四肢の自由がきかないことに歯痒さを覚える。ともあれ動けるうちにこの牛頭峠に辿り着いたのは幸いだった。
夢の中では自分の目の前に育ての親が立っていた。男は掌を見つめ自分がまだ子供の姿であると感じた。左目を摩ると傷の感触がない。まだ両目が見えているのか。男児はその眼で親を睨みつけた。親は笑っている。胸元に若い女を抱え、その首に刃を当てながら男児のことを嘲るのだった。若い女が行きなさいと言えば男児は嫌だと駄々をこねた。随分と感情が剥き出しな男児に男はどこかでこれが自分ではないことを俯瞰しつつも心根にこの男児がいることを思い知る。親はニタニタと笑いながら女を男児のいる方へと突き飛ばした。男児はよろめく女の方へと駆け寄るとその眼前で大きな花が咲いた。背中を大刀で斬り払われた女は力を失いながら男児を抱きしめか細い声で許してと告げた。男児は絶望の淵で育ての親へと殺意を向けた。親はゆるりと近づいて、一言気に食わぬと囁き男児の左目を斬ったのである。
「どうかしましたか? 傷が痛みますか?」
「なんでもない」
「大声出して飛び起きるんだもの。なんでもないことないでしょう」
「構うな」
「もう十分に構いましたよと昨晩も言ったでしょう。でもよかった。起きれるようになったんですね。私は琴音。この古宿で主人をやっています」
宿の主にしては随分と若いように見えた。琴音は幼くして父母を亡くし、それからずっと祖父に育てられたと身の上を話した。牛頭峠で宿を営む祖父を手伝いながら昨年に祖父が他界するとこれを継いだ。
「あなた様のお名前、聞いてませんでしたね」
「名乗る名などない」
「そうですか。あとでご飯お持ちしますね」
「構うなと言っている」
「はいはい」
男はまだ狗渓の手がこの地に及んでいないことを察した。一刻も早く去らねばと身支度を整えながら大事なことに気づく。男はまだ覚束ぬ足取りで炊事場に向かうと琴音が飯を炊いていた。
「刀はどこへやった」
「あのような危ないもの、私が預かっています。あなた様がここを出るときにお返ししますよ。斬られちゃたまりませんからね」
「なら返せ。今から出る」
「だめです。まだちゃんと歩けてないじゃないですか」
「返せ!」
琴音は男の怒声に一瞬びくとした。しかしこの女も随分肝が据わった様子で頑固だった。男を部屋におい返すと少し不機嫌そうに朝食を配膳した。
「食べてください」
「要らん」
「なら返しませんよ」
「刀がなくともお前など」
「殺しますか。ならやれよ! 聞き分けのない偏屈おやじなんだから!」
男は押し黙った。静まり返る部屋に腹の音が響くと男は徐に箸を持って茶碗の粥をかき込む。
「うんうん、それでよし」
昼になると男は家捜しを始めた。刀さえあればすぐにでもここをたつつもりだった。
「無駄ですよ。盗人みたいな真似はおよしなさい」
「盗人はお前だ」
「見つからないところに隠してありますから。それより町を歩いてみたらどうです。たいしたものはないけれど歩く稽古になるでしょう」
男は琴音に言われるまま外を見て回った。大抵の場所は探ったがあの様子では宿の中にないと悟る。心当たりがあった。薬師丸。あの医者に預けたのではないかと考えた男は薬師丸の診療所を探した。
「あんた、見ない顔だね。ひょっとしてお琴ちゃんが飼ってる犬か」
「薬師丸という爺を探している」
「だいたいなんであんたみたいなぶっきらぼうな奴を。いいか犬ころ。お琴ちゃんはこの弥助と夫婦になるんだからな」
「薬師丸はどこだ」
「へっ、知るかってんだ」
男は弥助の胸ぐらを掴んで死にたくなければ言えと耳もとで囁いた。
「こ、ここから真っ直ぐい、いった町のはずれ」
男は弥助を突き放すと町のはずれに向かった。弥助の言うとおりぼろ小屋が一軒建っていた。男は戸の前に立つやいなや殺気を読み取り後ろへと飛び退いた。戸を突き破って何かが飛んでくる。
「しっかりしろ」
「あんたか。畜生。なんだあれは。すまん、あんたの かた な」
「見ぃつけたあ」
「
「十蔵ちゃん急にいなくなっちゃうんだもん。アタシ心配で追いかけてきちゃった」
男は薬師丸を傍に寝かせると診療所の屋根に飛び移った。
「逃さないよお」
屋根上で二人は対峙する。
「十蔵ちゃあん。いんや
無手で狗渓の忍びを相手にするのは無謀であった。おまけに手負である。紅水母は間合いを取りながら吹き矢で追撃。あたればかつての毒である。
「町人は関係ないだろ」
「おやおや、元とはいえ狗渓の外道が他人の心配なんて、アタシときめいちゃうわあ」
男は吹き矢を避けつつ前方へ走り抜ける。紅水母が咄嗟に距離を取ろうと退いたあたりで屋根が抜け片脚を取られた隙をついて懐に飛び込むと隠し持っていた箸で脇腹を突き刺した。紅水母は声を殺し男を払い除けると体制を立て直し刀を抜こうとするが間合いを詰めた男が足でそれを押さえすかさず箸を顎へ刺す。紅水母がよろめくと男はその脇差を抜き取り、胴を目掛けて突進。屋根上から落下した衝撃で紅水母の腹部に刀身が深く刺さる。男は返り血を拭うと刀を抜いて紅水母の絶命を確かめた。
「なんなのこれ」
「琴音」
「あなたは」
「片瞑、人殺しの忍びだ」
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