4
───「ありがとう。またね、芙由」
家の玄関前……光くんの車を見送り、立ち尽くす。この波打つ心臓は不意打ちの呼び捨てによるものなのか。それとも、大好きだった推しが、彼氏になったことによるものか……。
いずれにしろ、今、私の身に信じられない出来事が起きていることには……変わりなさそう。
さっきまでの時間を思い出すだけで、顔がポッポと熱くなる。ふぅっと深呼吸をして、
───…ガチャッ…
実家の玄関の鍵を開けた。
「……ただいまぁ」
「あ、芙由ちゃん。おかえり」
遅かったわねぇ、と言いながら、キッチンに立ってお味噌汁を温めてくれるお母さん。
「……ちょっといろいろあって。お父さんと柚は?」
「二人ともまだ寝てる」
4年程前、シングルマザーになった私。
とある事情でお金がたくさん必要になり、平日週3日コンビニで夜勤をして、昼間は在宅で洋書の翻訳の仕事をする生活。
留学経験などは一度もなかったけれど、幼い頃から英語が好きで、ずっと勉強してきた。
英語に関する資格もそれなりのレベルで保持しており、学生時代の先生の紹介で今の仕事を受注してる。
それに加えて夜勤をしている理由は……時給が良いからに他ならない。水商売をしてみた時期も少しだけあったけれど、お酒も飲めないし、自分の資質には合わなかった。
かといって、自分の学歴で正社員としてシングルマザーを雇ってくれる会社もなかなかなく、現在のスタイルに落ち着いた。
到底こんな生活では子供を一人で育てることはできなくて。心苦しいけれど、実家の両親を頼らせてもらってる。本当はあまり迷惑を掛けたくないし、私の年代の親にしては高齢のため、柚のお世話が身体の負担になっていないかも心配だった。
けれども、お母さんもお父さんも、いつも快く柚を見てくれている。
「ふふ、芙由ちゃん、何か良いことあった?」
「……え?」
「頬がピンク色になってる」
「…………」
お母さんは昔から勘が鋭い。私の考えていることは何でもバレてしまう。顔も体型も、何にも似ていないのに。エスパーみたいに、私の心を読まれてしまう。
“本当は今朝、彼氏ができたんだよ”
“しかも相手は……優城光くんなんだよ”
なんて……言えるわけもない。
『このこと、誰にも言わないから、安心してね』
さっき車を降りるとき、自ら伝えた言葉。
実感なんてものは全く湧かなかったけれど……アイドルと交際することの重みだけは、冷静に理解している自分がいた。
彼とのことは、ただの一人にも話してはならない。
どこから、誰から、情報が漏れてしまうか分からないから。もちろん柚やお母さんだってそう。柚はまだ小さいし、お友達に自慢したいお年頃だから、きっといろんな子に話してしまうだろう。お母さんのことは信頼しているけれど、万が一のこともあるだろうし。
…………にしても、こんな奇跡あるんだなぁ。いや、もしかしてこれは……ながーい夢を……見てるとか?
───…ピコンッ…
スマホの通知音が鳴る。
『ファンレター今読んだ。ありがとう』
『家まで待てなくて信号待ちで読んじゃった(笑)』
さっき、プレゼントのマフラーと一緒に、会えなかった期間の分のファンレターを渡した。
それを……家まで待てずに信号待ちで……
「………ふっ、可愛い」
つい、独り言と笑みが溢れてしまう。
「え~?なぁに〜?また優城くん?」
「え?!」
私が光くんのファンであることを知っているお母さんが、お味噌汁をお椀に移し入れながら、ニヤニヤと茶化してきて。大きく反応してしまった……。
「あぁ……うん、そうなの。ブログ更新されてたから……つい……」
咄嗟についた嘘。まぁでも、きっと今日彼はブログを更新してくれるに違いない。毎年誕生日には必ず、ファンに向けてブログを書いてくれる人だから。
『お誕生日おめでとう』
さっき車内でそう伝えた時の嬉しそうな顔を思い出しながら、もう一度、メッセージでも“おめでとう”を伝えた───
────翌々週…
「……ごめんね。お母さん、お父さん」
「いいの、いいの。たまには息抜きも必要よ?」
「ゆっくりして来なさい」
「ママー!楽しんできて〜!」
「ありがとう。柚、良い子にしててね」
光くんが急に午後オフになったそうで、夜勤のない平日の夜……ドライブへ出掛けることになった私。
両親には、友人と久々に飲みに行くと嘘をついた。
「じゃあ……行ってきます」
「いってらっしゃい」
玄関のドアを開け、外へ出ると……
「あ、芙由ちゃん!」
お母さんが追いかけてきて、振り返る。
「髪、後ろが乱れてるわ」
手櫛でサッと整えてくれて、コソッと耳元で……
「今夜、遅くなっても大丈夫だからね?なんなら泊まってきても良いから」
「…………うん。ありがとう」
いってらっしゃい、と肩をポンと叩いてくれた。
やっぱりお母さんは気付いてる。私に彼氏が出来たこと。昔から、恋愛のことも友達のことも、何でも相談相手になってくれたお母さん。
でも今回だけは、話す訳にはいかない。だって相手は……大人気アイドルだから。
どこで誰が聞いているかも分からない。盗聴されてたり?どんなリスクがあるのかも知らない。
私の気の緩みで、大好きな光くんやGSがこれまで築き上げてきたものを壊してしまうなんて……絶対にあってはならないから。彼とお付き合いをすることになって以来、日に日に“アイドルと付き合う”ことの重みを実感してる。
───…最寄り駅前、待ち合わせ場所に付いた。
見覚えのある車が既に停まっている。
ゆっくりと近づくと、サングラスをした光くんが降りてきて。無言で後部座席のドアを開けてくれる。
「……ありがとう」
一言言って乗り込むと、光くんは無言で扉を閉めてくれて、運転席に乗った。
「………ごめんね。声でバレやすいからさ、俺。笑」
光くんの声。確かに特徴的な声。少し低めで……優しい声。ファンの間でも、光くんの声が好きだと言っている人はとても多い。当然、私も大好き。
時刻は19:00──辺りはもう真っ暗だ。駅前とはいえ、そもそも利用人口の少ない駅なので、ぽつりぽつりと人が見える程度のこの場所。
光くんの配慮もあってか、誰も彼の存在に気付いている人はいなかった。
「……急に誘っちゃったけど、大丈夫だった?」
「あ……うん。大丈夫」
「柚ちゃんとご両親にはなんて?」
「友達と飲み会って……言った。笑」
「そっか……」
なんとなく、少し空気が重くなった気がして。
何か話さなきゃ、と無意識に口を開いていた私。
「あの……ね……」
「ん……?」
「今日……遅くなっても大丈夫って……母が……」
……なぜだか、随分と大胆なことを伝えてしまった。
────………ッ、
すると光くんは、突然ウインカーを出して……
隣の車線へと車を移す。
「え……どうしたの?」
「………なら、行き先変更で」
バックミラーに写るサングラス越しに……
ピタッと視線が合う。
「俺ん家、行こ?」
ドストレートに放たれた誘い文句。
車内に漂う光くんの香りを嗅いだだけでドキドキしていた心臓が……より一層、スピードを増す。
少し窓の外を眺めて気持ちを落ち着かせると……ふと、思い出した。
「………光くん?」
「ん?何?」
「……スーパー……寄れますか?」
たしか……前に言ってたもんね………。
「オムライス……作ってあげたいから」
光くんは、ハッとした顔をして。
「……まじで?!作ってくれんの?」
やったー!と頬に皺を寄せて笑う顔が、バックミラーに写る。……何とも愛おしい。
数分後、スーパーで降ろしてもらって買い物を済ませると、向かったのは都内の一等地。
光くんと知り合うずっと前……光くんはどんな所に住んでるんだろう?と気になり、『優城光 自宅』とネットで検索したことがある。
……あながち、間違いではなかったらしい。
過去にネット検索した時に出てきた通り、いかにも芸能人が住んでいそうなセキュリティ万全の超高級マンションに、車は入っていった。
家賃は月ウン十万円の……
いや、そんなこと考えてちゃダメ、私。
「光くん……」
「ん……?」
駐車場に着き、エンジンを切ったタイミングで光くんを呼ぶと……振り返ってくれる。
「私……場違いじゃ……ない?」
一応、オシャレはしてきた。
UNIQLOとGUを駆使して、安くてもなるべくスタイリッシュに見える服を着てきた……つもり。
でも……やっぱり、どう考えてもこんな高級マンション……場違い感がすごくて……。
「───…そう言うと思った。笑」
光くんは、なぜだか笑ってる。
でも、サングラスを外した途端、あまりに真剣な眼差しで私を見つめてきて……目を逸らせない。
「なんで俺が早く家に来て欲しかったか分かる?」
「え?」
えっと……それは……
一瞬、在らぬ方向に思考が走りそうになって。
ポッと、顔が熱くなってしまう。
すると、光くんはすかさず、
「あ。芙由……今エッチなこと考えてたでしょ!笑」
「え、ちがっ、考えてない!!」
必死で訂正すると……
「ま、下心がないって言ったらそれは嘘になるけど」
……なんて言うから、顔が更に熱くなってくる。
「俺が芙由を家に呼んだのは、早く俺のプライベートを知って慣れてほしかったから」
「え……?」
「アイドルじゃない俺を、早く全部知ってほしいの」
────…光くんに言われるがまま、車を降りる。
慣れないヒールを履いてきたもんだから、身体がギクシャクして格好悪さを感じつつ。光くんの後ろを付いて歩いた。
また変な劣等感が込み上げてきそうになって………あまり周りを見ないよう、せっせと歩く。
「どうぞ」
「……………お邪魔します」
玄関を開けてくれた光くんに促され、部屋の中へと入った。
「スーパーで買った物、キッチンに置いといたから」
「あ……うん、ありがとう」
このお部屋……。光くんらしいっちゃらしいのだけど……照明は薄暗いし、生活感がなさすぎて、正直ちょっと居心地が悪い。
「じゃあ私………パパッと作っちゃうね」
そう言って、逃げるようにキッチンへと向かい、オムライスを作り始めた。
男の一人暮らしにしては、使ってる形跡のあるキッチン。たしか、何かの雑誌で「たまに自炊する」と言ってたから、光くんが使ってるんだろうけど……
“本当に、他に女の子とかいないのかな……?”
“さすがに彼女はいたことあるよね……?”
どうしてもそんな思考が一瞬過ぎってしまう。だって、超トップアイドルだよ?雑誌では言えないことも沢山あるだろうし。
麻布十番とか、六本木とか……夜のお店にも、通ってるのかもしれない。
光くんのことは本気でずっと応援してきたし、大好きな気持ちに嘘はないけど……芸能界というあまりにも未知の世界に、やっぱり不安は感じてしまう。
なかなか100%信じてあげられない自分が情けなくもなるけど、こればっかりは仕方ない。
おばあちゃんが作るような、昔ながらのオムライス。光くんの大好物だと雑誌で知ってから、何度か柚に作っていた。
まさか本人に食べてもらえる日が来るなんて、夢にも思わなかったけれど。
玉ねぎをみじん切りにする。フライパンに油を敷いて、飴色になるまでじっくり炒める。鶏肉は一口サイズに切って、飴色玉ねぎと一緒に炒め、そこにケチャップを投入。
具材にケチャップが絡んだら、ご飯を入れてよく混ぜ合わせる。
チキンライスの完成!
「───…っえ、ちょっと……光くん……?」
突然、背中に感じる厚めの胸板。
私のお腹回されるたくましい腕。
背後から耳元に、わずかに感じる吐息。
「芙由?」
「………………はい」
ビックリとドキドキで全身が硬直してしまい、片言で返事をする。
「やっぱり住む世界が違うから……みたいなの、無しだからね?」
俗に言う“バックハグ”の体勢で、ちょっと不安そうに言う光くん。
「……言わないよ。大丈夫」
「……ならよかった」
どうやら私は、彼を不安にさせてしまったらしい。安心したように首元に顔を寄せてくる。
……ダメ。いろいろと。
首元……体臭……大丈夫かな……とか。
「あの……光くん……?」
「んー?」
「恥ずかしいから……」
「なんで?カップルってこうゆうのするでしょ?」
ぎゅーって腕の力が強まる。
「……そうかもしれないけど……。私……ドキドキしすぎて……卵……焼けない………」
口から心臓が出そうとは、まさに今の私のこと。
ふるふると震える手が恥ずかしくて、そっと自分の腿の横へと下ろす。
「ははっ、ごめんごめん」
光くんは笑いながら、私の背中から身体を離して。
「芙由、さっきすっげー不安そうな顔してたからさ。どっか行っちゃいそうな気がして……つい」
やっぱり気付かれちゃってたんだね。
なんだかとても申し訳ない気持ちになった。
「……おぉ、チキンライスもう出来てんじゃん!いっただき~」
パクッと一口、チキンライスを口に入れる光くん。
「んん、うんまっ!!」
大げさに、でも本当にそう思ってくれているような口調で言ってくれた。
じゃあリビングで待ってるね~と、キッチンを後にする姿を目で追い、ふぅと短く呼吸を整える。
“住む世界が違う”
ここに来てから頭の隅で考えちゃってたこと。
でもきっと、私がそう思うたびに光くんを不安にさせてしまうんだよね……。
もう余計なことは考えないようにしよう。
せめて一緒にいるときだけでも。
オムライスを作り終え、リビングへと運ぶ。
「うわぁ、すげー!超うまそー!」
光くんは目をキラッキラさせて、「いただきまーす」とちゃんと手を合わせ、食べ始める。
「う~んまっ、や~ばいこれ」
これまでファンクラブ動画やメイキング映像などで何度も見てきた、光くんの可愛いモグモグTIME。
まさか……こんな間近で見られるなんて……。
胸がいっぱいで、味覚なんて全く働かない。でも、また光くんを不安にさせてしまったら嫌だから、私もオムライスを無理くり口に運んで何とか食べ切った。
───…食事を終え、片付けをしようと席を立つと、
「芙由……?片付けは後で俺がやるからさ、」
「………」
次……何を言われるんだろう……?
身構えてしまって、無言になる。
「……寝室行こ?」
「!?!?」
いやいや……ちょっと……光くん?!
さすがに露骨すぎやしませんか……?!
「ははっ、ちげーよ。そーゆー意味じゃなくて!」
またもや私の心の中を読んだらしい光くんは、可笑しそうにケタケタ笑ってる。
「家ん中いろいろ見せたいの。俺普段ほぼ寝室で過ごしてるからさ。……つーか、芙由ってほんとに俺のファン?笑」
家の中とか隅々まで見たくなるもんじゃないの?と、不思議そうにしている。
そりゃぁ、見たい気持ちは山々なのですが。
「…………あんまり見ちゃいけない気がして。笑」
だって……毎日毎日情報を追い続けてた、大好きな推しのお部屋ですよ?
プライベートの生活が丸裸な訳ですよ?
見てはいけないような……そんな気がするのです。
「ふーん。そうなんだ……」
ちょっと不満そうな、意味深な返事。
「ま、とりあえず来て?」と言われて、光くんの後ろに付いて、寝室へ。
ソワソワ、ドキドキ、ちょっとだけ、ワクワク。
感情が忙しいったらありゃしない。
「……わぁ~、すーごい!」
寝室を入ってすぐ横にある棚に、びっしりコレクションされた高価そうなサングラスに目がいく。
ほんとに集めてるんだ………。
前にバラエティで話してた通り。
ふとベッドを見ると、
「わぁ、ほんとにシーツ黒なんだね!」
まるでTVや雑誌で見てきた内容の答え合わせをしてるような気分で、無意識にヲタク心が騒ぎ始めてしまう。
「ねぇ、これ、前に雑誌で話してたライトだ!」
「あ~!これが噂の巨大まくら?!」
「てゆうか光くんの部屋の家具、想像以上に統一感なさすぎる〜全部思い付きで買ってるでしょ〜!笑」
…───ハッと我に帰って光くんを見る。
やばい………。
光くんのこととなると人格が変わる癖が………
「ふははっ」
光くんは顔を皺くちゃにして、嬉しそうに笑った。
「今やっと、芙由が俺のファンって実感湧いた。笑」
そう言ってゆっくり近づいてくると、光くんはふわっと私を抱き締めて……
「……超可愛い。雑誌もテレビもいろいろ見てくれてありがとう」
片手を私の後頭部へと移動させ、髪を優しく撫でてくれた。
ヲタクの自分を晒してしまった恥ずかしさと、光くんに触れられてるドキドキとで、何も考えられず突っ立っていると……
光くんはゆっくり身体を離す。
「芙由?」
私の顔を覗き込む──うるんだ瞳。
「……ちゅーしてい?」
今……「いいよ」って言ったら……そうしたらきっと……光くんが近づいてきて……と、脳内では妄想が展開されていくけれど。
実際は、そんなすぐに答えられる訳もなく。
「………ムリ……かもしれません………、」
か細い声をかろうじて発する。
「え、なんで?」
続けて聞いてくる光くん。
「彼女とチューできないことある?ないよね?」
「………ない……とは思うけど……、」
「じゃあなんで?」
なんで?と……言われましても……。
光くんと、ちゅー?
……え、光くんと……ちゅーする?……私??
「えっと……だって……、……歯磨きしてないし…」
ほんとは理由なんて特にないんだけど。
この現実を受け止めきれなくて。
ドキドキしすぎて訳が分からず、なぜか拒否。
「俺、別になんも気にしない」
「……でも……なんか……えっと……、」
他に言い訳が思い付かず、無言になってしまった。
「──…っえ、ち…ちょっと待って……ひ…っ?!」
幸運なのか不運なのか……
なんと。
私の真後ろにあったベッドに……押し倒されてしまいました。
真上に被さる光くんと、ピタッと視線が合う。
さぁ……どうしましょう……?
「俺がちゅーしたいって言ってるのに拒否するってことは、俺のこと嫌いってことになるけど、良いの?」
「え……?……どうゆう意味?」
「そのまんまの意味。俺のこと嫌いなの?」
「なんでそうなるの?好きに決まってるでしょ!笑」
訳の分からない理論で真剣に説得してくる光くん。
子供みたいで可愛くて、つい笑ってしまう。
「じゃあ、させて?」
「もぅ、何それ。笑
そんなのめちゃくちゃだ…よ…──っ、」
言い切る前に塞がれた唇。温かく柔らかい感触に……息が止まる。ふっと顔が離れていき、引き寄せられるように再び光くんを見る。
……ドクンッ
と、心臓が大きく鳴った。
光くん……見たことない顔してる……。
そのあまりの色気に、身体の芯からゾワゾワと昂ってくるものを感じる。
光くんはスルッと私の服の中へ手を滑り込ませながら言った。
「今日、何時までに帰れば大丈夫?」
「え……?」
「ちなみに俺は明日昼からだから、何時まででも」
“なんなら泊まってきても良いから”
お母さんの言葉が浮かんでくる。
それと同時に、娘の柚の顔も浮かぶ。
きっと今、柚がまだ2歳3歳だったら……早く家に帰らなきゃとそればかり考えてたに違いない。
でももう柚は小学生で、じぃじばぁばにも懐いている。だから今日は……お母さんの言葉に甘えても……
「泊まってきても良いって言われてるから……何時まででも、大丈夫……」
───私の中で、“母親”から“女”へとスイッチが変わった気がした。なんだかちょっと嬉しいような。でも家族への罪悪感はやっぱりあって……複雑な気持ち。
「………そっか。じゃあ焦ることないか!」
光くんはそう言うと、あっけなく服の中からスルッと手を抜いて。
「シャワー浴びてゆっくりしよ?」
えっと……それはその……
そうゆう意味……でしょうか……?
「ははっ、まーたエッチなこと考えてるし!笑」
「えっ、ちが……だってこんな体勢でそんなこと言われたら……、」
恥ずかしくて身体を横に背けてそう言うと、
「まあ……それもそっか。笑」
私に覆い被さった体勢のまま、光くんは笑う。
「てか俺、そうゆう意味で言った」
私の頭をポンと撫で、身体を起こして「ん、」と手を差し出してくれる光くん。
その手を取ると……ゆっくり引っ張って身体を起こしてくれた。
「とりあえず、コンビニ行かない?」
──…どうやら今夜私は、お泊まり確定のようです。
───…コンビニで必要な物を買い、帰宅。
光くんがシャワーを浴びている間に、お母さんにLINEを入れた。
『ごめんなさい。今日泊まっていきます』
『柚は大丈夫?』
すると、すぐに返信が来て。
『OK』
『全然大丈夫よ。安心して楽しんできて』
離婚して、散々迷惑をかけているのに。こうしていつも私の幸せを考えて何も聞かずに後押ししてくれるお母さん。その愛の大きさに、泣きそうになった。
「芙由ー?出たよー」
大好きな声のする方を見れば、お風呂上がりの光くんがそこに。ドドド……と、心拍数が急上昇するのを感じる。その男らしいゴツッとした上半身から目が離せない。
「芙由も入ってきな?」
「え……あ……うん……」
言われるがまま、お風呂場へ行く。
脱衣所には大きな全身鏡があった。
これか……昔、雑誌に書いてあったやつ。
毎晩お風呂の前にこの鏡を見ながらダンス練習してるんだよね。
ここで毎晩踊ってる光くんの姿がリアルに想像できて、自然と口元が緩んだ。
メイクを落とす。
鏡に写る私は、顔の至るところに薄っすらとシミができ始めていて。
目尻の小さな皺やたるみも……ちょっと気になってきてる。
「……んぅ〜」
頬を指でつまんで、伸ばしてみた。
皺よ……消えなさい!……って、消える訳ないか。
この後、きっと訪れるであろう光くんとの時間が、否応にも浮かんできてしまう。
……念のため、毛の処理は……してきた。
隅々まできちんと。大丈夫。
だけど……さすがに、早すぎないかな……?
いくらなんでも初デートで……?
本当に……私なんかが……光くんと……?
またそんな思考に取り憑かれそうになったから、自分の頬をピチッと叩く。
もう、ウダウダ考えるのは辞めよう。
そう心に決めて、潔く、どすっぴんのまま寝室へと向かった…───
「──…シャワー、ありがとう」
「おう、出た?」
光くんは上下グレーのスウェットを着てベッドに横になり、スマホで動画を観ていた。
「ここ、おいで?」
そう言ってシーツを巡って、隣のスペースに誘導してくれる。ドキドキしながら静かにベッドに入った。
「……何観てたの?」
聞くと、スマホを私に見えるように傾けてくれる。
「これね、犬の赤ちゃんの動画。俺の寝る前の癒し」
そっか。そういえば、眠れない時は動物の赤ちゃんの動画見るって言ってたもんね……なんて。
口には出さなかったけど、心の中でまた雑誌の答え合わせみたいにする。
「……ほんとだ。可愛いね〜、癒される……」
一緒にスマホを覗き込んで、画面の中の仔犬ちゃんにほっこり癒されていたら……
「はーい。もう今日はこれ、おしまい!」
光くんはスマホをサイドテーブルに置いた。
こっちを振り返ってすぐ、びっくりするくらい近距離まで顔を近づけてくる。思わず少し顔を背けた。
「芙由、すっぴん?」
「あんまり近くで見ないで……!」
「えー、なんで?綺麗だよ?」
優しくそう言ってくれて、ぎゅうっと私を強く抱きしめたかと思えば……急に不安そうな声がして。
「俺さ……………ダサくない?」
「………え?」
「早く芙由に『恋愛の好き』って思ってほしくて、焦ってんの」
……そっか。私が前に、あんなこと言ったから。
「嫌だったら言って……?
芙由がまだ嫌なら、俺今日は何もしない」
こんなに本気で……光くんは私と向き合ってくれてるというのに……私は全然、覚悟が足りてなかった。浮かれて自分のことばっかり考えて、勝手に舞い上がったり、逆にネガティブになったり……。
光くんの気持ちなんてちっとも考えてあげられてなかった。ダメだなぁ……私。
いま目の前にいるのは、アイドルの光くんじゃない。普通の一人の人間の、光くんなんだ……。
「………嫌じゃないよ」
覚悟を決めて、光くんの頬に手を伸ばす。
写真ではツルツルの陶器肌に見えていたこの肌。
確かにすごく綺麗なお肌だけれど、実際こうして触れてみると、ちゃんとそれなりの凹凸を感じられる。
顎にできてる小さなニキビ、薄っすらと感じる髭、目元はちょっとだけ乾燥してる。
光くんは、人間。
アイドルだって、人間なんだ。
私も光くんも同じなんだよね。そうだよね。
自分の心に語りかけるようにして。
真っ直ぐに光くんを見て、もう一度言った。
「………嫌じゃない」
光くんは私の言葉の意味を察したようで、一瞬驚いた顔をしたけれど。
すぐにくしゃっと笑ってくれて……
「………やばい俺………まじで好き」
耳元に愛おしい声が響くと同時に、二人を取り巻く空気が、ふわぁっと色を変える。
喩えて言うなら……
そう、ワインレッドみたいな……そんな色。
貪るように私の唇に吸い付いてくる光くん。
半分放心状態で半開きになっていた私の口の隙間から、そっと舌が差し込まれる。
徐々に荒くなる口内の動きから、光くんの気持ちの高揚感が伝わってくる。
あ………。
体勢を変えて私に跨った光くんの下半身に意識を向けると……
興奮してくれてることが、ちゃんと分かった。
光くん。
普通の、人間だ。
普通の、男の子だ。
この日、この瞬間……
私の心の奥底で、光くんへの気持ちの種類が……
完全に、変わったのかもしれない───
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