第4話 岩田忠士
1990年4月中旬、桜の花びらが小さな蝶のように、辺り一面に舞い降り*⋆*。薄桃色のおびただしい花びらの、絨毯の得も言われぬ美しさ.:*:・'°☆
そんなある日、夫と死別した未亡人で、2人の子供を抱えている幸子は以前から好意を持っていた岩田忠士に「岩田さん独身と聞いているけど……よろしかったら明日の夜、家に食事に来ませんか?」
都内の鞄製造会社で事務員をしていた幸子は、同僚の岩田に声をかけた。
「岩田忠士」は身長180センチで、ややがっしりした浅黒い肌で、堀の深い魅力的な男だった。また落ち着いた関西弁を喋り、周囲に安心感を与える男だった。
岩田は極めてまじめな模範的社員だったので、幸子も全く疑う余地などなかった。
これをきっかけに岩田と親しくなり、マンションで同棲を始めた。「岩田」は子供たちにも優しく、幸子は結婚を強く意識するようになっている。
その、同じ頃――。
「私は北朝鮮にいる貴方の両親や兄弟をよく知っている。私の言うことを聞かないと大変なことになる!」
大阪市内でパチンコ玉製造会社を経営していた在日朝鮮人・金こと「キム・ミノ」は、突然訪ねてきた「ドハ」と名乗る男「リ・ドハ」にこう言われた。
有無を言わせぬ口調だった。北朝鮮にいる家族の安全のためには、協力するしかない。
実は、この「ドハ」こそ「岩田忠士」を名乗り、日本人の幸子と同棲して、2人の子供の父親を演じていた男だった。
まじめな社員でよき父親である一方、相手の家族を人質に、高圧的な口調で迫ってみせる二面性。北朝鮮から送り込まれた工作員なのは明らかだ。
ミノはドハの指示で、新潟から北朝鮮に送り込まれて平壌郊外の「招待所」と呼ばれる施設で、半年間、工作員訓練を受けることになった。こうして…ミノは訓練を終え、以後は「補助工作員」としてドハに従う事になる。
そして、その工作活動を目の当たりにすることになる。
やがて本国からミノに直接指令が飛んで来る。「A3放送」と呼ばれる暗号放送だ。
深夜、ラジオのダイヤルを4メガヘルツか、5メガヘルツ帯の短波に合わせると、朝鮮語で5桁の数字が読み上げられる。乱数表で解読するとこう書かれていた。
「ドハの周辺を敵が、かぎ回っていないか点検せよ」
「敵の動きがおかしい。活動を控えよ」
「敵」というのは、公安警察を指していた。ミノはドハの防衛役。
ドハは東京の安宿が多い、労働者が集まる山谷に出入りしていた。そこで病気がちだった岩田忠士さんと知り合い、気の毒に思い病院に入院させて、いつしか親しくなっていった。
補助工作員となったミノは、ドハに付き添って本物の岩田さんの実家がある富山県に行った。そして…なんと両親に会ってドハがとんでもない事を言った。
「私は東京で金属部品会社を経営していて、息子さんに働いてもらっている。息子さんの戸籍が富山県にあると不便なので、東京に移してもらいたい」
こうして「岩田忠士」という人物の戸籍は東京に移った。ドハはその戸籍謄本を使って、旅券と運転免許を取得してしまった。もちろん写真はドハのものだ。ドハは、ミノに命令した。
「本物が日本にいてはマズい。岩田を本国へ送れ!」
送り込まれた本物の岩田には、北朝鮮での仕事が待っている。日本に送り込むスパイ養成の為の、日本語教育係等。
一方、ドハと同棲していた幸子は、内縁の夫の不審な行動に気づき始めていた。
ドハは車を運転して、よく家族旅行に連れて行ってくれた。秋田県男鹿半島、大阪、奈良、京都、熱海、大島、能登半島……。
能登半島ではテントを張って、1週間ものキャンプ。子供たちを海岸線に立たせて、写真やビデオをやけに熱心に撮っていた。
これが工作員の「浸透」(不法入国)や「復帰」(本国への帰還)に使われる砂浜であり、撮られた家族写真が、拉致や下見の写真として北朝鮮に送られることなど、妻子が知るよしもなかった。
幸子はドハと何としても結婚したかったので、惚れた弱みでドハの度重なるお金の無心にも、なけなしの貯金を切り崩してお金を渡している。
これだけ尽くしているにも拘らず、ドハは頑として入籍を拒否、「信用してくれ、きっと君を幸せにする」と言い続けた。
1991年、ドハは都内に雑貨店をオープン。
自ら社長におさまったものの、仕事は幸子とミノに任せきりで、いつも売り上げだけを回収しては、どこかに持ち去っていたのだ。
このようにして誰かの戸籍に背乗り『工作員や犯罪者などが正体を隠すために、実在する赤の他人の身分・戸籍を乗っ取って、その人物に成りすます行為を指す警察用語。』していろんな悪事に手を染めていた。
日本には未だスパイ防止法が無い。
そして……これからパチンコ玉製造会社経営の、ミノの口利きで岸田雄介と出会う事になる。
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