第十四話 鳥籠で愛に溺れた鳥

 とうとうこの日がやって来てしまった。めでたいはずの退院日を迎えた佐奈だが、その胸中は決して穏やかではなかった。

 佐奈は母親が運転する車の中で、すでにどっと疲れが出ていた。なぜなら母親が後部座席に座る佐奈に「もう肺は痛くない? 病院ではどう過ごしていたの?」や「東京の新規感染者がまた過去最高を更新したんだって。油断できないね」といった具合で話が止まらないからだ。母親のその行動は、長らく一般生活から隔離されていたひとり娘を心配したからこそのものだった。佐奈は相変わらずな母親に内心呆れながらも、突き放すことなく話に付き合っていた。

 ずっと前からこうなのだ。佐奈は母親が自分をちゃんと見ていないことを知っていた。幼い佐奈でも何かきっかけさえあれば、母親からの過剰な愛を拒絶することはできたはずだ。しかし、佐奈は鳥籠とりかごから逃げ出すことをとっくの昔に諦めていた。その一方で、佐奈は自らの意志で閉じられた世界に踏みとどまっていた。佐奈の心に深く刻まれ、いしずえとなったのは、自宅でひとり泣き崩れる喪服姿の母親の姿だ。

 実は佐奈の母親は、離婚してからすぐに両親を病気で立て続けに亡くしていた。人生の絶対的指針と愛情の供給源を断たれた母親は、精神的にも肉体的にもボロボロだった。

 ──親不孝者でごめんね……。ごめんね……。

 当時の佐奈には、両親への謝罪の言葉を何度も口にする母親があまりにも小さく弱々しい人間に見えた。よりによって母親はこんな時に佐奈を抱きしめようとしてこなかった。

 一時的に氷の手から解放された佐奈は、ここで初めて母親を哀れんだ。それと同時に母親の心情と共鳴するように、佐奈は「寂しい」という感情を抱いてしまう。巨大な喪失感に襲われた母親が目の前で崩壊していく。佐奈から見えるのは、丸まった小さな背中とボサボサの後頭部だけだった。

 ──お母さん。どうかひとりで泣かないで。

 言葉ではなく、心の底で母親に呼びかけた。佐奈は母親に優しい言葉をかけるつもりはなかった。仮に本心で自分がなぐさめの言葉を言ったところで、自分の価値観に傾倒する我の強い母親の心には届かないだろう。それを見越した佐奈は目の前にいる人のために体温を分け与えた。言葉にしなくても、形にしなくても、あなたを想う人はいる。それが伝わるようにと、佐奈は母親を背後から抱きしめ、子どもをあやすように痩せ細った肩をさすった。

 ──私だけ置いていかないで……。

 佐奈の耳に、顔を手で覆った母親の掠れた声が届く。娘の自分に背中を向け、孤独感に囚われる母親の愚かさを佐奈は愛しく思った。それは親子関係を抜きにした、人としての道徳心から生まれた感情だった。

 当時の佐奈はまだ子どもで、気の利いた言葉をかけたり、経済的な援助もできなかった。無力な自分は母親のそばにいることしかできないのだからと、佐奈は母親の気持ちにできる限り寄り添う。決してそこに何か見返りを求めてはいなかった。

 佐奈が子ども心に思ったのは、母親が今以上に壊れてしまうことへの危機感だった。

 ──きっとこの人には、精神的に頼れる人がもういないんだ。

 第六感が働いたのか、短い人生から得た経験値なのか。佐奈は妙にそう確信していた。その日、佐奈は初めて自分の意志で母親と共に歩む道を選ぶ。佐奈の中でゆっくりと育っていた慈悲の心は、この世から消えてしまいそうな母親を見捨てておけなかったのである。母親の役に立ちたいという思いは、人が社会の中で使命や義務を果たそうとする感覚に近かった。さらにそこに加わったのは、娘として、たったひとりの家族としての血の絆だった。その自覚が当たり前のようにあった佐奈だからこそ、その正義は自分に課した呪縛じゅばくとなる。  

 母親が自分に目もくれず悲しみに耐え忍んでいる。その姿を見た佐奈は言葉以外の方法で伝える愛情の不確かな存在と、愛情の裏にある相手の幸せを願う強い祈りの存在を知る。だからこそ佐奈は愛という名の呪いの言葉を口にした。

 ──お母さん、安心して。私はずっとそばにいるから。

 娘の言葉に反応した母親は少し遅れて幸せそうに微笑んだ。佐奈はその笑みで一瞬だけ身体を強張こわばらせたが、すぐに笑顔を取り繕う。佐奈がその違和感を拾わなかったのが、のちに廉斗との関係においても致命的な失敗となる。

 彼女は誤解していた。佐奈を閉じ込めた鳥籠の檻は、母親の佐奈への依存心が作り出したものである。その偏愛に毒され、佐奈から生まれたのは「誰かに必要とされたい。本当の私を見てほしい」というエゴのかたまりだった。純粋な愛は、血の絆ばかりに気を取られていた親子には程遠い場所に存在していたのだ。

 それを知らず、互いの執着心でけがされた愛に溺れた鳥は、ついに広い空に向かって飛ばなくなる。自由を望みながらも鳥籠に鍵をかけたのは佐奈だったのだ。

 皮肉にも佐奈の母親への依存心こそが、今日の真実の愛に彷徨う佐奈の姿へと繋がっていく。


 母親が過度な世話焼きをするところは昔と変わらないが、これでも随分と落ち着いたものだ。

 佐奈は車中から慣れ親しんだ冬景色を眺めながら、母親が両親を亡くして悲しみに打ちひしがれていた時の姿を思い出す。あれからしばらくすると、佐奈が高校に入学する直前に母親は新しい家族を得た。その人物こそ、母親が勤める病院の患者だった平塚友輔ゆうすけであった。

 期せずして佐奈は、失ったはずの父親という存在から、無償の愛を与えられる機会を新たに得たのである。

「あれ? 綺麗な花がある。これどうしたの?」

 移動距離はそれほど長くなかったが、佐奈が重い身体を動かして自宅に着くと、最初に目に留まったのはリビングのテーブルにある花の置物だった。そこは佐奈の席だ。

「退院おめでとう……」

 佐奈が花に添えてあるカードを手にして手書きの文字を読み上げると、母親が楽しそうに笑って話しかけてきた。

「驚いた? その花は友輔からの退院祝いだってさ。プリザーブドフラワーって言うらしいよ。とっても素敵でしょう?」

「うん。ここだけ別空間になったみたいだね」

「良かった。佐奈なら気に入ると思っていたの。見ていたら私まで元気をもらえそう」

 佐奈はもう一度プレゼント見る。それはオレンジや黄色、ピンクなど、華やかな色のバラやカーネーションをあしらっており、贈り物は佐奈の心を軽くした。

 新しい父親は記念日などを大切にするタイプで、佐奈にもまめにプレゼントを贈ってコミュニケーションを図ろうとしてくる。佐奈はそれが嬉しくも照れや困惑が入り混じってしまい、いつも父親に微妙な返ししかできない。そのことで佐奈はむず痒くなっていた。

「友輔って、本当に優しいね」

「うん。そうだね」

 こればっかりは文句の付けようがない。完全に同意する。

 母親はうっとりした顔でプリザーブドフラワーを見つめている。その横で佐奈は嬉しさで心が躍動するのを感じながら微笑をたたえていた。

 ──そろそろ荷解きしなくちゃ。

 母親の質問攻めから解放されている今が好機だと、佐奈が自室に向かおうとした時だった。

「佐奈。まだ正午だけど、廉斗くんとは会わなくて本当に良かったの?」

「うん。お姉さんが結婚の報告で帰ってきているみたいでさ。ようやく三人姉弟が仲直りしたのに、私がそこに水を差したら悪いよ」

 普段の佐奈は遠慮がちな性格だ。廉斗の前では天真爛漫のように振る舞っていたが、それは理想の自分に近い姿を彼に見せたいからでもあった。だからこそ、佐奈は廉斗に「会いたい」と言えなかった。

「え? 廉斗くんってば、お姉さんたちと喧嘩していたの? 何がきっかけで?」

 母親の追究で佐奈は自分が失態を犯したことに気が付く。つい気が緩んで余計なことまで話してしまった。

 佐奈の母親は廉斗との交際を認めてはいるものの、ふたりを自分の管轄内に置きたがっていた。いつもならそんな母親のお節介を止めるのは父親だが、あいにく今は仕事で不在である。佐奈は母親に廉斗の家庭事情を伏せるべく、適当な言い訳を述べた。

「そこまでは聞いていないよ。ひょっとしたらそこまで大事おおごとじゃないかもしれないし。廉斗くんって優しいから、きっと私が気を遣わないようにしてくれたんだよ」

「佐奈、また遠慮したの? そんなんじゃダメ。男の人って、本当に困っている時ほど誰にも何も言わないんだから。佐奈が遠慮ばかりしていたら、廉斗くんだって佐奈に嘘ばかり言うようになるよ」

 無自覚な言葉のナイフは佐奈の心の傷をえぐる。

「もっと言いたいことを言い合った方がいいって」

 ──誰のせいで私がこうなったと思っているんだろう。

 自分から本音を奪ってきたのも、自分が他人の顔色をうかがうような性格になったのも、全て母親のせいだ。彼との平和な距離感を勝手な価値観で踏み荒らさないでほしい。母親に早く何か言葉を返さなければ、また暗い考えに飲み込まれてしまう。

 そんな危機感を抱いた佐奈は自分が選んだ人生だということを忘れ、母親に理不尽な怒りをぶつけそうになった。

「うん。そうかもしれないね。これから気を付けるよ」

 佐奈は不自然な笑顔を貼り付けた。腹の中では、飲み込んだ怒りと悲しみが黒い海のように渦巻く。 

 佐奈は荷物を握る手に力を込めながら階段をのぼった。二階にある自室へ着くと、真っ先に佐奈は荷物を床に落とした。

「……帰ってきちゃった」

 こんなことになるなら、まだ新型ウイルスに感染していた時の方がマシだったかもしれない。佐奈は全身を駆け巡った憎悪と哀情の念に毒される。

 彼女はずっと、この環境から逃げたかった。母親から離れたかった。けれど、それができなかった。

 ──ひとりになりたい。

 昔も、今もそう思っている。けれど、あの疲弊した母親をひとりにしておけなかった。それなのに、自分が支えてきた母親はあっさりと違う人の手を取った。その人物は佐奈も認めるほどの善人だ。

 これで苦悩の日々が終わると思っていたのに、どうしてか佐奈の心は晴れなかった。

「私、何がしたかったんだろう……」

 佐奈は脱力するように壁に背中を預けると、その場にへたり込む。久しぶりに直接母親と会えば、閉じ込めていた思いが防波堤を破って溢れ出す。昔に潰された本音たちが今も叫んでいるのだ。

 愛してる。愛してた。だから、私を愛してほしい。救ってほしい。ひとりだけ救われないで。言葉にしなくていいから、愛してると証明してほしい。押し付ける愛じゃなくて、ありのままを受け止めてくれる愛がほしかった。あの時は死にたくなるほど苦しかった。本当は愛を等価交換したかった。見返りを求めていなかったなんて嘘だ。尽くした分の愛を返してほしい。

 佐奈の矛盾した感情が混沌を極めて、黒い海に荒波が立つ。

 ──ありがとう、佐奈。君のお陰で僕は今日までやってこれたんだ。

 先日、電話越しで廉斗からもらった言葉が、佐奈が内に抱える暗い海をほのかに照らす。家庭の悩みと頻繁にぶつかっていた高校生の時は、近くに廉斗の優しさがあった。今、彼は佐奈のそばにいない。

 ──辛い場所から逃げ出そう。誰しも自分の心に嘘なんかつけないよ。きっと、廉斗くんは悪くない。

 ──廉斗くんなら大丈夫だよ。これからは私がいる。一緒に自由になろう。

 佐奈は自分がかつて廉斗にかけた言葉を思い出す。あの時、佐奈が廉斗に差し出した手は同情の意味が強かった。そもそも無利子の奨学金は、佐奈が自分のために用意していた逃げ道だった。しかし、無利子の奨学金の枠は限られている。佐奈は自分が考えられる唯一の自由への手段を廉斗のために手放していた。ただ純粋に、目の前で苦しんでいた彼を救いたかったのだ。

「廉斗くん……」

 ──あの時に救われたのは、私の方だったんだよ。

 彼女は誰かに吐き出したかった本音を腹の底へと押し潰し、涙を浮かべて、先に広い空へ飛び立った仲間を想う。かつての彼が、家族というしがらみから解放されるすべはあるのだと証明してくれた。彼女にとって、それは小さな希望の光だった。佐奈の胸の内にあった自由への憧れと渇望はまだ消えていないばかりか、廉斗を愛すれば愛するほどその気持ちは肥大化していく。しかし、その広い空は佐奈からはるか遠い場所にあった。佐奈が狭い鳥籠から脱出するには、廉斗を愛した本当の理由を知る必要があったのだ。

 彼女が愛したのは、自己犠牲精神が強く、愚かで、どこまでも優しい人だった。そして悲しいことに、佐奈の恋愛は誰かにすがり、相手の大切なものを搾取するような恋愛だった。未だ佐奈にその自覚は芽生えていない。

 これまで仲睦まじく繋がれていたふたりの手は今、解かれている。噛み合わない歯車はそれぞれ不気味な音を立てて軋んでいた。

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