第十三話 氷の絆

 本物の愛はどこにあるのだろうか。

 当時、小学校低学年だった佐奈は父親が自分を愛してくれていると、幼いながらも何の疑いもなく思っていた。

 深夜、大蛇に襲われる夢を見てしまった佐奈は目覚めると恐怖のあまり青ざめた。昼間に遠足で行った動物園で、自分を睨んでいた蛇を見たせいだろうか。こんな時は誰かと一緒にいれば、安心して眠れるかもしれない。そう思い立った佐奈は冷や汗で湿ったパジャマのまま、家族揃って川の字で寝ていたはずだった敷布団から身体を起こす。あいにく、今日は看護師である母親は夜勤でいない。だから片側が空っぽなのは納得できた。しかし、佐奈の左側で寝ていたはずの父親までもが姿を消しているではないか。不思議に思った佐奈は寝室を出て、唯一明かりがついている居間に向かう。あそこにいけば安心できる。ドアノブに手を掛け、なんとなく静かにドアを開けて部屋を覗き込む。すると、携帯電話で誰かと電話をする父親の後ろ姿が見えた。

「そりゃあ、佐奈も自分の子どもだからな。娘のことは可愛いよ。でもなあ……。実を言うと、俺は今、前の嫁との間にできた息子が恋しいんだ」

 父親は電話に夢中で、佐奈の存在に気付いていなかった。

 この時、まだ幼かった佐奈には、父親が発した言葉の意味が十分に理解できなかった。それでも、かろうじて意味がわかった単語が「娘が可愛い」と「前の嫁」と「息子」だった。佐奈は言葉のニュアンスでだいたいの意味を察してしまうくらいには、日頃から親と行動を共にしてきていた。特に父親が大好きだった。将来は父親と結婚すると豪語していたのだ。だからこそ、佐奈は父親の話の内容に違和感があった。佐奈に男兄弟はいない。それに、「恋しい」とはどういう意味なのだろうか。

 佐奈は恐怖心が薄れ、元々の性格から好奇心も相まって、ドアの隙間から耳を澄ます。

「昔からの夢でさ。いつか自分の息子ができたら、親子でキャッチボールをするって決めていたんだ。実際、煌希こうきが一生懸命に腕を振ってボールを投げてくる姿は可愛いかったよ。でも、それが離婚でぱあだ。息子は前の嫁に取られるし、おまけに今の嫁は娘に過保護ぎみでさ。女の子が顔に傷をつけるといけないからって、キャッチボールは禁止にされちまった」

 ダイニングテーブルの椅子に座る父親の横には、見慣れたビールの缶が一本置いてある。それなら父親が手にしているのは二本目だ。佐奈は酒ですぐ顔を真っ赤にする父親を思い出す。

「俺が昔、甲子園に行ったからって、そこまでキャッチボールにこだわっているわけでもないが……。あの時間は俺にとって大切だったんだ。親子の触れ合いを邪魔されちゃ、俺もこの生活が嫌になるわけで。あいつが嫌いになってきたよ」

「パパ?」

 ひょっとして自分は父親に嫌われたのだろうか。不安に駆られた佐奈はたまらず部屋に入った。

「佐奈! まだ起きていたのか?」

「パパ、私のこと嫌いなの?」

 佐奈の直球な質問に意表を突かれた父親は、目を大きく開けて額にしわを刻む。そして佐奈の揺れる瞳を見ると、慌てたように取りつくろった笑みを見せた。

「そんなことはないよ」

「本当に?」

「もちろん。ほら、おいで」

 佐奈が遠慮がちに父親の元に歩み寄ると、佐奈はすっぽりと太い腕に収まった。佐奈の中では、いつもなら心地よいはずの空間が、父親のあの言葉だけで様変わりしていた。抱きしめられても佐奈の不安は消えなかった。

 ──パパがずっと苦しそうなのは、私のせいなの?

 父親は佐奈の前でこそ明るく笑っていたが、母親がいる場面ではそうもいかない。というのも、母親が何かと理由をつけて、佐奈を父親から引き離していたからだった。実はその裏にいたのは、佐奈の祖母──つまりは父親から見れば義母である。親の間違った価値観が、子どもである佐奈の母親に潜在意識として染み付いていた。

 佐奈が家庭のゆがみを知るのは、中学二年生になり、名字が今の父親の「平塚」になってからの話だ。その間、佐奈の両親である田口夫婦が離婚するまで、佐奈の実父であるたけるは不平不満を極限まで身内の誰にも漏らさなかった。健は佐奈が小学生の間は、妻である静江しずえに抱いた鬱憤うっぷんを娘の前で出すまいと、事あるごとに隠れて酒を胃に流し込んだ。健が押さえつけた感情の重量に比例して、酒の量も歳を重ねるごとに増えていく。静江はそこも気に入らなかった。今度は酒の摂取量が発端となり、些細なことで夫婦の口喧嘩が増えいく。それはその後、泣き出した静江が実家に佐奈を連れて行く事態にまで発展してしまう。佐奈が中学生に上がる頃には、健は逃げ道としてインターネットの世界を選んだ。健がノートパソコンの画面を見る時間が増えれば、必然と夫婦の会話は減り、さらには佐奈との会話も当たり障りのないものになっていく。

 どの未来も、今、父親に抱きしめられている佐奈が知らないことだ。

「パパ」

「お前はいい子だね」

「パパ」

「佐奈……」

 アルコールが混ざった息が子どもの鼻腔を刺激し、佐奈は顔をしかめた。父親は佐奈の反応を見ていない。佐奈を抱きしめながら、許しを請うように娘の名前を呼ぶだけだった。


 それから数年後、父親は佐奈たちに別れを告げる。離婚するまで別居したいというのが、父親の申し出だった。

 ──パパ、私のこと嫌いなの?

 ──そんなことはないよ。

 佐奈は父親に抱きしめられたあの時、否定の言葉が欲しかったわけではない。「大好きだよ」と言ってほしかっただけだった。それだけで心が満たされるはずだった。

「ママ……」

「佐奈、大丈夫よ。佐奈にはママがいるもの」

 母親は佐奈の背後に立ち、父親を見送る佐奈の肩に手を置く。その手は晩秋の風で冷たくなっていた。

 父親の背中が遠ざかると、幸せだった家族の思い出がまぶたに浮かぶ。

「パパ!」

 ──嫌だ! 行かないで!

 佐奈の口から出かけた本音を塞いだのは、母親の手だった。佐奈の首元には氷のような体温が触れている。母親は佐奈を後ろから細い両腕で抱きしめていた。振り切ろうと思えば、振り切れる腕の強さだった。しかし、佐奈にはそれができない。日頃、母親から父親の愚痴を聞かされてきたからだ。

 佐奈は自分にかけられた呪いの存在に気付いていなかった。

「佐奈」

 母親のたった一言で、佐奈は簡単にその場に縛られてしまう。蛇に睨まれた蛙のようにそこから動けなかったのだ。

 この人を裏切れない。佐奈は瞬時にそれを悟った。冷たくても、重くても、母親とは、永遠に無条件で自分を愛してくれる絶対的な存在だ。神でもない限り、血の絆は操作できない。そこは不可侵領域なのだ。つまり、佐奈には逃げ場がなかった。

「佐奈、ありがとう。ママのそばにいてくれて」

 母親の言葉が遠く聞こえる。頭ではどうしようもないことがわかっていても、心が父親の愛情を求めてしまう。佐奈には父親の温もりが必要だった。温もりと言っても、肌の接触による感覚ではない。言葉による心の安らぎのことだった。

 以来、佐奈は父親との出来事が原因で、愛情を言葉にしてもらわないと不安に襲われるようになる。それに加え、この頃の母親が佐奈に与えた影響も大きい。母親の過剰な愛もまた、佐奈を苦しく切なくさせていた。そこにあるのは愛情ではなく、「自分を理解してほしい」と願う執着心と、純粋な想いとは程遠い欲深さだった。


 大学生になっても佐奈の本音は変わらず、彼女は未だに愛の言葉をもらえないことへの不安を廉斗に言えずにいた。「重いと思われたくない。嫌われたくない」という気持ちが、佐奈の中で泉のように湧き出ていたからである。

 佐奈は実父のような膨張した思いが破裂した結果を目の当たりにしても、「自分だけは大丈夫。我慢できる」と愚かにも思っていた。

 ──形じゃない愛だってあるよ。

 呪いにむしばまれた廉斗に佐奈が伝えた言葉は、幼かった佐奈自身へ向けられたものでもあった。無論、愛は言葉にしなくても伝わるものだ。その反面、佐奈が唱える愛は自己完結せず、自分の行動をもって成し遂げられるものであり、それは相手の受け取り方に依存していた。

 人間心理の究極体である愛はどこから生まれ、どこへ帰るのだろうか。愛という存在に振り回されてきた廉斗と佐奈は、その答えを誰よりも強く求めていた。ふたりとも愛を手に入れたかったのである。大切な人に愛を伝えたい。大切な人から愛を伝えてほしい──。

 しかし、純粋な想いを抱くふたりが手探りで探す先に、愛は見つからない。

 愛という物質はこの世に存在しないのだ。

 

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