第十二話 言えない本音と盲目な愛

「廉斗くん、良かったね。やっと安心できる場所を取り戻したんだね。本当に……良かった」

 鼻をすする音がスマートフォン越しで聞こえてくる。姉妹との話し合いを終え、入浴の順番待ちで自室にいた廉斗はスマートフォンの向こうで、佐奈が嬉しそうに微笑んでいる気がした。

 廉斗が成海のお陰で美香の誤解を解き、家族の絆を取り戻したことを佐奈は心から祝福していた。佐奈は廉斗から兄妹が不仲になった理由を聞いていたため、彼の苦悩を知っていたのだ。ふたりが付き合い始めたのも、廉斗が罪の意識で藻掻もがき苦しんでいた頃だった。

 佐奈は当時を思い出し、涙声で自分の気持ちを廉斗に伝える。

「家族の中で自分の味方がいるって、とっても安心するよ。あなたが妹さんを傷付けまいと守ったように、今度は……。今度こそ、自分を大切にしてね」

「佐奈……」

 ひとりきりの部屋で、ふたり分の体温が廉斗の記憶の奥から湧き上がる。彼女の言葉には、こおってしまった心を溶かすような温もりがあった。これまで美香から冷たい言葉を浴びてきた廉斗だが、第三者である佐奈にねぎらわれて、やっとか一つの区切りをつけることができた。廉斗の後悔で固められた積年の思いが消えていく。

 文字ではなく、佐奈の口から彼女の切実な願いを受け取った廉斗は、束の間の幸福感に浸っていた。これほどまでに自分を想ってくれる恋人がいる。それは当たり前ではない。当たり前の日常を突然奪われた廉斗だからこそ、今ある奇跡の重みを知っていた。

 安堵した様子の佐奈から掛けられたねぎらい言葉に呼応するように、佐奈への想いが身体の内からあふれ出る。佐奈の声が、肌の温もりが、こんなにも恋しい。声に出して伝えたい。

「ありがとう、佐奈。君のお陰で僕は今日までやってこれたんだ。こんな僕を……」

 ──好きになってくれて、ありがとう。

「僕は本当に……」

 ──君を愛してる。

 いつものように続きの言葉が出ない。

 度々訪れた沈黙で、佐奈は廉斗の気持ちを悟った。

「今は言えなくていいよ。代わりに、次会った時に態度で示してね」

 せっかく廉斗から電話が掛かってきたのだ。途切れる会話で落ち込みかける廉斗を気遣い、佐奈がわざと明るい調子で言う。廉斗はそれに感謝して、気丈な彼女の態度に合わせることにした。

「態度で示すって……。前に言っていた、口移しとか?」

「えへへ。はっきり言われると恥ずかしいな。予告しないでよ」

 ──可愛かわいいな。

 そんな言葉すら声にできないのが歯がゆい。この愛しさを表現する手段は他にないのだろうか。そう考え始めた廉斗の緩んでいた口元が引き締まる。

 廉斗の脳裏にちらついたのは、叔母の存在だった。廉斗はまだ全ての恨みから解放されたわけではないのだ。

「ねえ、廉斗くん」

「ん?」

「……早く会いたいな」

 今は会いたくても、会えない。ふたりの間にはいくつかの壁があった。

 一つは、佐奈が新型ウイルスに感染したことで、退院してもお互いに会うことを控えようと決めたことだった。そこには、テレビのコマーシャルなどで感染症予防策と共に毎日のように流れる「大切な人のために」といううたい文句を、ふたりが何度も目にしていたことも影響していた。

 また、佐奈は特例承認されたワクチンをすでに一度接種していた。それにも関わらず感染したことによって、ふたりは新型ウイルスの感染力の強さを再認識させられていた。ましてや、佐奈は感染した身であるため、実際はひどい風邪のような症状だと思っていても、この強い感染力で周囲の人間を巻き込みたくなかった。

 ところで、ワクチンは開発から治験、そして世間に使用許可が下りるまでに、少なくとも十年はかかる。それが、わずか一年足らずという異例のスピードで実用化されていた。その崇高すうこうな効力があるワクチンや、大々的に呼び掛けた「新しい生活スタイル」を持ってしても、感染爆発による医療崩壊は起こったのだ。さぞや大量の死人が道端に溢れているに違いない──。しかし、現実は恭平が調べた通りである。

 客観的に見れば、この新型ウイルス感染症の騒動では、年齢別で発症者数・死亡者数を他の病気と比較しなかったり、ワクチン接種回数と感染者・死亡者数の推移グラフを併せて表示しないなど、全体ではなく断片的な報道がされていたのは明らかだった。さらに裏では、新型ウイルス感染症の陽性者を感染者として統計でカウントしていた事実があった。

 今回に限って使用されている感染症の検査方法すらも怪しい点が多くある。そもそも検査方法を開発した本人が、「これは感染症の診断には向いていない」と発言していたのだ。そして何より、検査の精度の問題があった。指定された方法では、本当は新型ウイルス感染症ではないのに陽性と判定する「偽陽性」と、本当は新型ウイルス感染症であるのに陰性と判定する「偽陰性」が起こっていたのだ。海外が先んじてこの検査方法を導入すると、日本でも始めの内は「検査精度の限界があるため、陽性・陰性についての判断は慎重に行うべきだ」との声が長年ウイルスを研究している専門家から上がっていたが、そういった人物はいつの日からかメディアから忽然と消え、お決まりの専門家や医師しか出演しなくなる。

 また、通常は感染して発症するには十万個のウイルスが必要であるが、この検査では意図的な操作が加えられていた。検査で検体として抽出できるウイルスの数値をわざと少なくして、感染するには明らかに足りないウイルス数でも陽性者として引っ掛けていたのだ。これでは仮に少ないウイルス数で陽性者となっても、症状が無い人を感染者とは呼べない。むしろ、こういう人は集団免疫獲得者と言えるだろう。これこそが、無症状感染のカラクリだった。

 国家主導の元で統計データの一部分だけを都合良く切り取り、その数値だけを連日のように報道する。このような恐怖の過剰演出がされた報道を繰り返し見ることによって、大衆の誰もが客観的で冷静な判断を欠いていた。

 残念ながら、それは廉斗と佐奈も例外ではない。突然現れた様々な分野での新しい概念は、未知で新型のウイルスであることを良いことに、感染症拡大防止策の名の下で、知らず知らずの内に廉斗と佐奈の思考をも侵食し始めていたのだ。

「うん。僕も同じ気持ちだよ。感染症が落ち着いたら、またあのガラス張りの公園に行こうか」

 感染症が落ち着いたら──。果たして、それはいつになるのだろうか。

 一般人が何度ワクチンを接種しても、新しい生活スタイルを取り入れても、終わりは見えなかった。かえって巨大な感染の波が新たにやってくるだけだ。国からの「お願い」で自主的に行動制限をかけるほどに、自分たちの精神的・身体的な自由を奪っていく。公衆衛生うんぬんの前に、健康だった人間の生活様式を破壊してまで得た結果として、自殺者が増えている現実がある。しかし、世間の関心は自殺者数ではなく、もはやエンタメ化した感染者数にあった。

「……うん。そうだね」

「じゃあ、また電話するよ。こんな遅い時間まで話を聞いてくれてありがとう」

「ううん、いいの。私も廉斗くんと話したかったから」

「そっか。僕も久しぶりに話せて嬉しかったよ。おやすみ、佐奈」

「またね、廉斗くん。おやすみなさい」

 佐奈の鬱々うつうつとした気持ちは呪いも相まって、寂しさを肥大化させていく。

 この感染症の騒動が奪ったのは人の命だけではない。家族や友人、恋人たちの貴重な時間を奪っていたのだ。それに気付いていながらも自ら調べず、メディアからの一次情報を鵜呑みにして新型ウイルスに怯える人々がいた。「大切な人のために」という善意が巧みに作用したが、思いやりとして他人にまで振りかざした正義の正体は「世間の目」である。ゆえに、それは自分たち自身をも監視や処罰の対象にしていた。

 廉斗と佐奈、そして大衆の意識を変えていたのも、高潔な存在であるはずの愛であった。

「廉斗くん、私は……」

 ──あなたにとって、これからも必要な存在ですか?

 未だ呪いの存在を知らない佐奈は切れた電話の影で、遠い存在になった愛の言葉を待ち焦がれていた。

 愛によって張り巡らされた無数の罠は、大切な人を縛る鎖となる。奪われた自由の中で、佐奈は愛に飢えていた。自分が感染したことで廉斗に会えない時間が増えると、弱った身体に邪念が入り込んだ。

 ──私は本当に愛されているの?

 廉斗が姉妹と和解した今、佐奈は数年間も恋人の支えになっていたはずの自分の存在意義を見失いかけていた。だからこそ、佐奈は廉斗からの言葉が欲しかった。廉斗との馴れ初めがだったからこそ、佐奈には廉斗にも隠していた不安があったのだ。

 ふたりは物理的にも離され、愛情をはらんだ言葉も奪われている。佐奈はどうしても愛の証明が欲しかった。

 それは、自分のせいで血の繋がった父親の心がよどみ、家庭が崩壊したからこその思いだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る