第十一話 優しい嘘《後編》

 ふたりの会話を止めた美香は、廉斗の予想通り涙をこぼすまいと自分の唇を噛んでいた。美香からしてみれば、家族からひとりだけ真実を隠されて自分だけが何も知らないまま、暗い数年もの長い時間を過ごしてきたのだ。何よりも、これまで冷たくあしらってきた廉斗の前で泣きたくない。まだ幼い美香は自分の行動が間違っていたと認めたくなかった。

 そんな意地も混ざった複雑な感情が、ふつふつと湧き上がる怒りへと変わり、裏切られた思いで美香の心が波立つ。

「信じられない。私はそんな話、お父さんから一言も聞いていないよ」

「お父さんの真意はわからないけど、私は最近まで誰にも話せなかったの。なぜか分からないけど……本当のことは。手紙とか、メールとか、文章にしようと思っても駄目だった」

「えっ!? それって……」

 成海の発言はふたりに衝撃を与えた。特に似たような体験に心当たりがあった廉斗は、美香とは違った意味で驚きの声を上げる。

 一方、美香にとって成海の話はあまりにも現実味に欠けていた。ここで美香は成海に初めて食ってかかる。

「成海、ふざけないで。話せなかったんじゃなくて、成海が話したくなかっただけでしょう? 成海って、いつもそうだよね。大事なことは話さないで、自分だけ逃げるようにどこか遠くに行っちゃうの。親孝行とか言っていたけど、本当は家族私たちなんてどうでも良かったんでしょう?」

「違うの、美香」

「やめてってば!!」

 美香の拳でテーブルが振動する。成海の言い訳をけた美香は、受けた心の傷をそっくりそのまま返すように成海を鋭く睨んだ。

 成海はそんな美香を見つめて顔を曇らせたが、美香のうらごとは続く。

「言い訳なんか聞きたくない! まさか成海がここに来た目的ってそれなの!? 今さら遅いよ!」

「むしろ今じゃなきゃ駄目なんだよ。私は今まで誰にもこのことを話せなかったけど、今度結婚する真治しんじさんには最近になってようやく話せたの。だから、美香たちに話すなら今しかないと思った」

「なあ、成海。急に話せるようになったのは、何かきっかけがあったの?」

「たぶんそれは──」

「そんなのどうでもいい!」

 途中でつい口を挟んでしまった廉斗に対して、美香は怒りのままテーブルを叩いて立ち上がった。廉斗はしまったと思い、謝るべく成海から美香へと目線を変える。見上げた先にいたのは、戸惑いと怒りと悲しみで感情がぐちゃぐちゃになった幼い妹の姿だった。美香が泣き出すのも時間の問題だろう。

「誰かひとりぐらい本当のことを話してくれても良かったよね!? これじゃあ、私のせいでお母さんが事故に遭ったみたいじゃない!!」

 それはまるで詰問するような口調だった。

 蓄積された美香の感情のはけ口が、廉斗だけでなく成海や父親にまで拡大した瞬間である。

「だから、廉斗は自分のせいにしたんじゃないのかな」

「え……?」

 怒りに燃える美香が力のない声を出した。

 美香は成海の一言で、テーブルから姉に視線を移す。その瞳はこの先の展開に対する不安で揺れていた。

「廉斗は自分が悪いことにして、美香が自分を責めないようにしていたと思うの。あの事故に関して私たち被害者家族は誰も悪くなかったのに、廉斗はいらない罪をひとりで背負っていた。私は……それをやめさせられなかった」

 成海が後悔の念をにじませて語り出す。

 廉斗は成海が推測した内容の正確さに驚くしかなかった。何か言葉にしたかったのに、突然の出来事に何も頭に浮かんでこない。今になって身内の手で暴き出された自分の秘密に、廉斗は当事者ながら踏み込むことを躊躇ためらっていた。もし、自分が姉の言うことを認めてしまえば、今度は妹が傷付いてしまう……。兄として、それだけはなんとしてでも避けたいことだった。

 これが、家族に示せる廉斗の愛情の形だったのだ。

「お母さんが昔よく話していたんだ。小さい頃に泣いている美香の面倒を見ていたのは、私よりも廉斗の方が多かったって。幼かった美香が、私と近所のお兄さんに道路に置いていかれた時もそう。廉斗は公園に向かわずに、美香と手を繋いで家に戻ってきたんだってさ」

 眉を八の字にして困ったように笑う成海の話を聞いた廉斗はそういえば、と思い出す。幼い頃の成海は、仲が良かった近所の男児と廉斗たち姉弟で遊びに行くとなれば、歳が近かったその男児とばかり連れ立っていた。それゆえに、成海は体格差のある自分たちを置いていく傾向にあり、当然ながら姉の脚力に追いつけない美香を世話していたのは自分だったような気がする。

 廉斗が時たま思い出す、家族で遊びに行った迷路のアトラクションでも、美香は姉の後ろ姿をキラキラした目で見つめていた。そんな美香に寄り添い、前を行く成海をふたりで追いかけたのは廉斗の大切な思い出だ。

「美香も知っているでしょう? 廉斗は昔から優しかったんだよ。家族の中では特に美香を可愛がっていたしね」

 どうか伝わってほしいと願いを込めながら微笑む成海に美香は毒気が抜かれ、風船がしぼむようにゆっくり椅子に座る。

 この時、美香の脳裏にも小さい頃の兄妹の記憶がよぎっていた。それは、美香が年月をかけて無理やり消していた、温かく慈愛に満ちた日々だった。

 成海のお陰で廉斗の気持ちに触れた美香は目の奥が熱くなり、再び唇を噛んで動揺する気持ちを落ち着かせた。

「……廉斗。成海の話は本当なの?」

「……うん。ごめんな、美香」

「何で……? 何で廉斗が謝るのよ……」

 廉斗はこんな形で秘密を明かすはずではなかったと思いながらも、着信履歴という証拠が成海に見つかってしまった以上、もう誤魔化せないことを悟って素直に事実を認めた。すると、廉斗の言葉を聞き入れた美香は自分の顔を両手で覆った。

「嘘でしょう……。じゃあ、廉斗は本当に何も悪くなかったの?」

「いや、僕が悪い。僕が前日に母さんと約束をしなければ……」

 事実として、川瀬家が贔屓ひいきにしていたケーキ屋と、廉斗が通っていた塾は真逆の方向に位置する。母親を巻き込んだ衝突事故は塾へと向かう道中で起きており、事故現場はケーキ屋よりも塾に近かったのだ。

「でも、廉斗を迎えに行くって決めたのはお母さんなんでしょう? 廉斗はそれに同意しただけ。それに、ふたりとも私の誕生日を祝おうとしてくれたのは……」

 嬉しかった。美香はその言葉を口にできなかった。

 廉斗は美香の両手からこぼれ出たしずくを見て心を痛める。大事な妹にそんな顔をさせたかったわけじゃない。それでも、自分の中で長年くすぶっていた思いが浄化されていく感覚に心が震えてしまう。どうしたらいいのかわからなかった。

「……そっか。私の勘違いだったんだね。私は今まで何のために廉斗を避けていたんだろう……」

 先程と態度が打って変わり、静かに悲痛な思いを廉斗の前で吐露したことで、美香の黒く濁った憎しみの感情でできた心の壁が、張りぼてのようにもろく崩れていく。

 多感な時期に両親を亡くした美香は、ずっと憎むべき相手を捜していた。というのも、母親をうしなう原因となった衝突事故を起こした加害者には、身内が誰ひとりいなかったからである。美香にはやり場のない怒りを鎮める方法が、母親を事故に巻き込むきっかけを作った廉斗を恨むこと以外他になかった。それも、廉斗が母親に迎えを頼んだのは単なる我儘わがままだと誤解をしたまま、美香は今日まで生きてきたのだ。

 美香とて、大好きな家族を恨みたくなかった。普段は面白いのに、自分が悩んでいる時は誰よりも親身になってくれる母親が美香は好きだった。寡黙でインドアな趣味があるのに、色々な場所に家族を連れて行ってくれた父親に感謝していた。勉強も遊びも何でも知っていて、尊敬できる姉とは離れたくなかった。いつでも妹の自分を優先してくれる優しい兄には甘えたかった。

 誰よりも川瀬家を愛し、自覚なく執着していたのは、他でもない末っ子の美香だったのだ。

「ねえ、美香。誰かを恨みながら生きるのって、むなしいだけで相当疲れるよ」

 成海の気遣いから生まれた言葉の雨が、愛を見失い、乾いていた美香の心に降っていた。じんわりやわく降り注ぐ恵みの雨は見え始めた希望の光によって反射し、絶望の谷底にいた美香を照らすように暗闇の中でかがやく。

「ふたりとも、もう自分のことを呪わなくていいんだよ」

 誰かを想いながら罪を被ることの痛みを知った成海は、自己犠牲心が強い弟の身も案じていた。

 耳から入った成海の言葉が、廉斗の身体の中で弾けて心に溶けていく。成海からの贈り物は真闇を照らす花火の輝きに似ていた。廉斗は胸に刻まれたその光に導かれるように、姉からもらった言葉を、自分が恋人によって救われた日の記憶と重ねた。

 ──愛は呪いじゃないよ。

 佐奈が言いたかったのは、こういうことだったのか……。

 自分を責め続けていた廉斗は、今になってようやく偉大な愛の尊さを思い知る。誰かを愛し、誰かに愛される時、人は初めて自分の存在をゆるすことができるのだ。

 今この瞬間だからこそ、廉斗は離れている佐奈を強く想った。

「誰かを恨むことで、そんな自分がどんどん嫌いになっていくと思うの。その対象が自分だったら尚更に。それで内側に籠もっても、今度は周りの視線が気になって他人が怖くなる。孤独に耐えられないくせに他人を避けていれば、一人ぼっちの恐怖と寂しさから永遠に抜け出せない……。恨みって、それだけ強力でしつこいものなんだよ」

 成海の顔が苦しそうに歪む。この数年間で成海に両親の死以外でどんな変化があったのか、廉斗は何となく察した。

 成海が言うように、恨みや憎しみの感情は何もかも奪っていく。まさにその通りだと思った。廉斗自身も後悔も相まってそれで心を失いかけたが、彼の場合は佐奈がいた。真っ先に自分に手を差し伸べてきた佐奈は優しさのかたまりであり、彼女には感謝してもしきれないほどの恩がある。罪の意識で固くなった自分の心を解いてくれたのは、佐奈の行動と言葉だ。

 そんな佐奈との新しい関係は、廉斗がギリギリの場所にいた時から始まった。高校三年生の廉斗が佐奈から告白された後、佐奈から給付奨学金制度の枠を譲り受けた日。ふたりが取り交わしたある約束がきっかけだった。約束に際して、佐奈から告げられた想いは、彼にとって忘れられない究極の愛の言葉となる。

「自分すら愛せない人が誰かに優しくしたり、誰かを愛するなんて無理なんだよ。だって、心が雑念で支配されていれば、他の誰かを受け入れるだけの余裕がどこにもないもの」

 成海が話す内容は、佐奈が昔に話してくれたものとよく似ている。

 廉斗は最愛の恋人の姿を思い浮かべながら、妹と自分を繋ごうとしてくれている姉の話に耳を傾けた。歳下の自分たちに恨みと愛について説く成海は、かなりの苦労をしてきたようだ。

「でもさ、どうせ生きているなら誰かと一緒にいたいし、誇れる自分になりたいじゃない? 人って自分を大切にできたら誰かを愛したくなるし、誰かを純粋に愛したら自分も好きになれるんだよ」

 成海の言葉から自責の念を感じ取っていた廉斗は、姉が長期の苦しみを抱えていたことを確信する。

「……私にそう教えてくれた人がいるの。美香は会ったことがあるよ」

 姉の幸せそうな微笑みを見た美香と廉斗は、成海が言っているのはきっと婚約者のことだろうと予想した。成海は苦悩の末に、良い人と出会って結ばれたようだ。

 美香と廉斗は、今まさに不思議な体験をしていた。己を憎んでいた気持ちが薄れ、小さいながら幸福に満たされつつあるのだ。これでようやく姉の婚約を本気で祝福できる。

 美香は服の袖で涙をぬぐうと、清々すがすがしい気持ちで廉斗に憎まれ口を叩いた。

「廉斗って、実は馬鹿だよね。自己犠牲がすぎるよ。でも、一番の馬鹿は私か……。廉斗……今までごめんなさい」

「廉斗、私もごめんね。長い間嘘をつかせた挙げ句、苦しさから助けてあげられなくて」

 美香も成海も、生まれて初めて廉斗の愚かな優しさを心の底から愛した。

 廉斗は声に涙が混じってしまうほど、家族への愛しさで胸が締め付けられていた。

「いいんだ……。美香、成海。もういいから」

「廉斗……。私をかばってくれてありがとう。もう私のために嘘をつかなくていいからね。成海も……さっきは酷いことを言ってごめん」

「いいの。きっとこれで私たちの関係もやり直せる。お互いの苦しさに気付かないよりはずっと良いよ」

 美香の恨みつらみの日々が終わり、手を取り合った彼らの新たな絆が結ばれる。

 久しぶりに全員が笑っていた。時を経て、三人姉弟は散らばった家族の愛の欠片を拾い集めたのだ。

 事故の真相は姉弟愛で美しく幕引きする──はずだった。

「ねえ、廉斗。廉斗がずっと自分が悪いと思い込んでいたのは、悦子えつこ叔母さんの影響もあったんじゃない?」

「えっ? 悦子叔母さん……?」 

 成海からの思わぬ話に廉斗の心臓がどくん、と嫌な跳ね方をする。

「そう。あの人、廉斗のこと相当恨んでいたよね? 姉であるお母さんの葬式では大人しかったけど、お母さんの通夜では廉斗に向かって『あんたを呪ってやる!』って、泣き叫んで取り乱していたじゃん」

 ──許さないから。

 廉斗はようやく理解する。以前にこの言葉を思い出した時、なぜ二つの声が重なったのかを。一つは確かに美香の声だった。もう一つは、今思えば幼さを残す美香の声とは似ても似つかない。

「悦子叔母さんこそ、事故のきっかけを作ったのが廉斗だと勘違いしたままだよ。だからさ、近い内に悦子叔母さんの誤解も解いた方がいいんじゃないかな?」

 成海が話すことで、パンドラの箱から災いが顔を覗かせる。 

 ──絶対に許さないから。

 姉を亡くした哀れな女の声とは思えない、蛇のように地の底をう暗い声音だった。確かに叔母は自分に異常なまでに執着していた。

 予期せず本当の声の主が見つかり、廉斗は背筋を凍らせる。母親の通夜で自分に冷たい言葉を浴びせてきた叔母を思い出すと、喉だけが焼けるように熱かった。

 廉斗はこの場でひとり、言い表せない恐怖で青ざめた。

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