第十五話 隙間より愛を込めて

 佐奈が退院した当日。廉斗の姿は、普段ならあまり寄り付かないはずの実家にあった。彼自身、この場所にいることが良い意味で違和感があった。

 廉斗は事前に大学の寮が年末年始に閉鎖されると聞かされていたため、できるだけ実家にいないようにしようと決めていた。というのも、実家には自分と気まずい関係であるはずの美香がいるからだ。だからこそ、廉斗は美香と顔を合わせないよう、空いた時間は大学に近いアルバイト先の弁当屋で働こうと考えていたが、あいにく年明けの営業は三日からだった。他の従業員は何か予定があるのだろう。廉斗は明日のシフトを難なく勝ち取ったが、わざわざ新年用のオードブルの調理や販売で忙しい時間帯を選ばなくて良かったかもしれないと、少し後悔していた。

 確執があった美香と和解した今、妹とはまだ多少のぎこちなさはあるものの、ふたりの間に以前のような憎悪の感情は存在していない。最近の美香はこれまで避けていた兄と向き合うようにしっかりと廉斗の目を見て、日常会話から交流を試みていた。廉斗は妹の自分を思う気持ちに心を打たれ、ひとりの人間として応えるべく、美香の言葉ひとつひとつをそっと拾っては誠実な言の葉を返した。そうやって兄妹は長年で築いた深い溝を埋めるように、互いを思い合いながらゆっくりと新たな記憶を積み重ねていった。

「あれ? 出掛けるのか?」

 リビングから自室に戻ろうとしていた廉斗は、階段の踊り場に静かに現れた美香へ気軽に声を掛けた。その美香は白いコートに身を包み、黒いタイツを履いた足を滑らせないよう手すりに掴まりながら階段を慎重に下りてくる。

「そう。福袋が欲しくて。友達と駅前に遊びに行ってくるね。帰りは遅くなると思う」

「そっか。夜も足元に気を付けてな」

「うん。……廉斗、あのさ」

 廊下ですれ違った美香が足を止めて振り返る。廉斗は階段を今まさに上がろうとしていたところで、再び廊下に着地した。

 美香は何かを言い渋っているのか、顔を不安そうに曇らせている。

「……やっぱり今はいいや。帰ってきたら話すね」

「そっか。わかった」

「じゃあね」

「いってらっしゃい。楽しんでこいよ、美香」

 それは本心から出た言葉だった。廉斗が遠ざかる美香に穏やかな気持ちでそう伝えると、美香は内心驚いて一瞬だけ動きを止めた。

 ──ちょっとだけ昔に戻ったみたい。

 美香はマスクで口元を覆いながら涙声で短く返事をすると、嬉しそうに目を細めて家を後に玄関を抜けていった。

 廉斗は妹の小さな背中が眩しい光の道へと消えていくのを見届けた後、リビングでテレビのお笑い番組を見ながら談笑する伯父夫婦を尻目に階段を上り始めた。ドアの隙間から、テレビコマーシャルの音声が聞こえてくる。それは、新型ウイルスが流行り出してから急速に世の中に定着してきた決まり文句だった。

「あなたと、大切な人を守るために。ワクチン接種をお願いします」

「私たちもワクチンを接種しました」

 続けて流れてきたテレビコマーシャルの音声が遠くなったのは、廉斗が一歩ずつ高い場所に向かっていったからだ。彼の足で心地よい一定のリズムを刻んだ場所には、止まない光の雨が注がれている。それは、窓に設置されたブラインドの隙間から漏れる太陽光だった。穏やかな光は、踊り場の真上にある窓から見える。廉斗は希望を抱かせる光に目を留め、肺に溜まっていた不安をいったん吐き出し、新しい空気で満たした。

 彼が光を背に受け、今より高い場所に羽ばたくまで、あと少しだ。


 佐奈が自宅で親子という窮屈な檻の頑丈さを再認識していた頃、恭平は廉斗とはまた違った立場から、最愛の人の身を案じていた。

「これはただの退院祝いだ。佐奈とは良い友人関係だし、俺から電話したって別に変じゃないだろ」

 恭平は実家の自室で一人、スマートフォン片手に頭を悩ましていた。彼の手元にある受話器のマークが表示されている画面は、たった一回タップするだけで、佐奈との通話がすぐできる状態だった。

 はっきり言うと、恭平には下心があった。想い人と気軽に会えないのなら、せめて声が聞きたい。しかし、指を動かそうとすれば廉斗の顔が脳裏にちらついてしまう。

「別に『廉斗あいつから佐奈を奪おう』って気があるわけじゃないんだし……。つーか、地元に帰省しても、結局いつもと同じやり取りしかできていないってどうよ?」

 佐奈とは時々メッセージアプリを使って連絡する仲だ。相手と時間を合わせる必要がある電話ではなく、文字だけでやり取りする連絡方法は、恭平にとってもうってつけだった。メッセージアプリでのやり取りは、学業やサークル、他にはアルバイトや家事など、それらの合間にある時間を自由に充てられるため、多忙な大学生には都合が良いのだ。交流相手との気持ちのやり取りが多ければ、密接な関係を築きやすい。ところが、実際はそうではなかった。

 人類は厳しい環境に適応すべく、知恵で機械を生み出し、生活水準を向上させた。それに伴ってコミュニケーション方法も大きく変化する。戦争に用いられたインターネットによる通信技術の普及で、一般人でも世界中どこにいても気軽にコミュニケーションが図れるようになった。その一方で、人々はより他者との意思疎通に貪欲になる。相手と近しい関係であればあるほど情報交換は簡略化され、雑談が増える。それが心地よく、なおかつ自分が膨大な情報を受け止められる内はいいが、心の器が小さくなればいずれその頻度に嫌気が差すだろう。反対に、連絡をする回数が極端に少なければ、自分は相手にとって関心がない存在なのかと疑って傷付いてしまう。特に恋愛感情と言葉が絡まると厄介で、人々は自分の思い通りに言葉を相手に届けられもしなければ、自分が望む言葉が相手から届かないことも多い。便利になった世の中で多種多様なコミュニケーション方法が存在する中、言葉一つとってみても人々は自己表現に悩み、他者から返ってきた情報の量と質に一喜一憂する。 

 恭平もその一人だ。恭平は地元に残った廉斗以上に佐奈と物理的な距離があり、彼は秋田にいる限られた時間で、どうしても佐奈と接近したかった。例え想い人の顔が見れなくて声だけだとしても、失恋を引きずる彼にとっては何事にも代えがたい幸せだったのだ。

「俺から電話したっていいよな……」

 自然と独り言の声量が大きくなる。恭平が欲だらけの自分に言い訳をするように暗示をかけていると、そこに電話のコール音が重なった。

「やべ! 押しちまった!」

 どうやら恭平がぐずぐずしている内に、スマートフォンの画面に触れてしまったらしい。相手の都合も考えずお昼時に電話をかけてしまった恭平だが、思いの外コール音は早く途切れた。

「──もしもし!」

「よう、佐奈。退院おめでとう。すっげえ食い気味じゃんか」

 佐奈に動揺を見せては格好がつかない。恭平は努めて余裕があるフリを見せた。

「なんだ……恭ちゃんか」

「おいこら、明らかに落胆の声を出すな。お前は俺が友人であるありがたみを知らないな?」

 恭平はいつも冗談に薄っすらと本音を織り混ぜる。そうやって、親友の恋人になっと彼女の笑顔を手にしてきた。

 一方、恭平の発言を冗談だと思っている佐奈は乾いた笑い声を出す。

「あはは……。やだな、知っているよ。連絡してくれてありがとうね」

 彼女の様子がおかしい。声に覇気がなく、普段の佐奈と比べるとまるで別人のようだ。

「そんなに焦って電話に出なくてもいいっての。さてはお前、電話の相手が廉斗だと思って期待していただろ?」

 そういえば、佐奈は廉斗が呪い受けたことを知っているのだろうか。思えば彼女から、呪いに関する不安や悩みを一度も聞いたことがない。

「あいつと何か約束してた? だったら早めに電話を切るけど──」

「待って!」

「え……? 何? どうした?」

 妙に焦っている言い方だった。彼女に何があったのだろうか。

「廉斗と何かあったのか?」

「……ううん、違うの」

 少しの沈黙の間、スマートフォンの向こうで鼻をすする音が聞こえた。

「その……まだ恭ちゃんと話していたい気分なの。ほら、入院中は誰にも会えなかったから、その反動かな? ねえ、お願い。少しだけでいいから、付き合ってよ」

 好いた女の可愛かわい我儘わがままだ。断るつもりは一切ない。けれど、明らかに違和感がある。

 何が彼女を突き動かしているのだろうか。油断すると動揺が声に出てしまいそうだ。自分はこの先も平常心でいられるだろうか。

 恭平はわざと明るい声を出した。

「まあいいでしょう! 俺も暇だったしな。佐奈ちゃんってば、実は寂しがり屋ですなあ」

「もしもし? あれ? 急に電波が悪くなっちゃった……」

「そんなわけあるかい。お前、都合いい耳してんなあ」

 いつものおふざけだ。相手の笑い声のお陰で、この時間が心地よい。それが自分だけじゃなかったらいいと思う。恭平は佐奈の声音から、彼女の寂しさを敏感に感じ取っていた。

 この瞬間から、恭平の打算的な優しさが、過去稀に見る速さで佐奈の心の隙間に入り込んでいく。ふたりは佐奈の気が済むまで、楽しそうに通話を続けた。機械越しの会話が終了したのは、佐奈のスマートフォンの充電が切れそうな頃だった。



 今日は特に出掛ける用事がない。廉斗は当初の予定通り、自室に籠もって後期のテストに向けて勉強をしていた。

 夕食と明日のアルバイトの準備も終え、気付けばもう何度目か分からない休憩時間だ。廉斗は勉強の合間に好きなことができる五分間の休憩時間を設けたが、何をするでもなく、しばらくの間は木製の壁掛け時計を見つめていた。やがて彼は思い立ったように椅子から立ち上がると、目に入らないようにわざと後ろのベッドに置いていたマートフォンを手にした。

 廉斗は迷うことなく指を動かし、スマートフォンの画面に映った文字を見つめる。

『退院おめでとう』

 このメッセージは、午前中の内に廉斗が佐奈にコミュニケーションアプリで送ったものだ。その下には、連絡を受けた彼女から「ありがとう」のメッセージと共に可愛らしいあらいぐまのスタンプの返事が来ていた。廉斗はそれから間髪入れず佐奈に体調を聞いたのだが、廉斗がそのメッセージを送ったっきり彼女からの返事はなかった。それどころか佐奈が廉斗のメッセージを見た形跡もない。

 時刻はもう十九時だ。出掛けていた美香だって、三十分前には自宅に戻ってきている。

 ひょっとしたら佐奈に何かあったのだろうか。廉斗は事前に佐奈から母親の運転で帰宅すると聞かされていた。そのため廉斗はつい最悪の想像をしてしまう。思い出すのは、ツルツルになった路面だ。降り積もった雪が重たい車のタイヤに踏み固められ、その後に冷たい雨が凍ったり、気温の上昇などで溶けた氷が再び凍るとそうなるのだ。

 は除雪が入らない生活道路は雪深いままで、見るからにガタガタだった。表面が滑らかだからと安心してしまい、凍結路面でスピードを落とさずハンドルを取られたのはむしろ幹線道路の方だ。

 その結果がどうなったのか。廉斗はこれまで死にたくても死ねないくらいの苦痛を何度も味わってきた。

 ──絶対に許さないから。

 廉斗の頭の隅で、地獄の底からやって来たような女の暗い声がする。

 負の連鎖はまだ終わっていない。一生付きまとう惨事を廉斗は繰り返したくなかったのだ。

 佐奈が入院した病院の周辺は片側に小学校や住宅街があり、反対側には米どころにふさわしい数の水田が広がっている。それになんと言っても今年は記録的な大雪だ。廉斗も例年以上に緊張感が増すのは致し方ない。

 幸いなことに廉斗の心配事は杞憂に終わったが、最愛の人との連絡が不自然に途絶えた彼は未だ真実を知らず、ひとり安心できずにいた。

 ──いや、もしかしたら佐奈は兄妹僕らに気を遣っているのかな……。

 佐奈はいつも誰よりも深く自分を想ってくれている。思い返せば佐奈とは喧嘩らしい口論をした事がなかった。それは仲の良い証拠だとずっと思っていたが、ふたりともどこかで相手に遠慮していただけだったのかもしれない。廉斗が今になってそう考えたのには、それ相応の理由があった。

 廉斗は佐奈の家庭事情を詳しく知らなかったのだ。それは佐奈の名字が高校入学のタイミングで変わったこともあり、中学校が違う廉斗は佐奈の両親が離婚したと気付く機会がなかったためである。何かがきっかけで佐奈が廉斗に両親の離婚を打ち明けることがあっても良さそうだが、そういった機会が来る度に佐奈は昔話すらも今の家族に置き換えて話をした。佐奈と同じ中学校の恭平たち同級生は、彼女の両親が離婚した事実のみ知っているが、人前でデリケートな問題をわざわざ指摘することを躊躇ためらっていた。

 つまり、佐奈が自ら話さない限り、廉斗は彼女の家族構成の変遷へんせんを知らないままなのである。ましてや、廉斗が見てきた周りを照らすような明るい性格の佐奈からは、彼女の恵まれているようで恵まれていなかった家庭環境など想像できなかったのだ。

 ──こんな時こそ、君の声が聴きたいよ。

 彼のそんな思いとは裏腹に、廉斗が佐奈に電話をかけるそぶりは全くなかった。

 そもそも佐奈は退院したばかりだ。彼女も自分と同じように家族と積もる話があるのだろう。もしかしたらあの時はたまたまタイミングが悪かっただけなのかもしれない。それに佐奈とは彼女が入院している間はほぼ毎日連絡を取っていたが、こんな風にそれなりの長い空白の時間を過ごしたことが何度かある。対人関係では几帳面な彼女のことだから、きっと近い内にコミュニケーションアプリに残したメッセージに気付くはずだ。何と言っても今日の画面上の会話は、普段よりあまりにも素っ気なくて短い。

 そういった理由で、廉斗はもう少し様子を見てから電話をかけるか判断しようと決めた。とはいえ、スマートフォンなど文明の利器をもってしてもこの独特な孤独を埋める術はなく、勉強中も余計な不安ばかりが彼の脳裏をよぎっていた。

 佐奈と会えない時間がこれほどまでに辛いとは……。この焦燥感と苦しさは、恋を知った頃の感覚とは毛色が全く違うものだった。

「廉斗、今いい?」

「成海か。……いいよ。どうしたの?」

 ドアをノックする音が聞こえたので、廉斗は姉を部屋に招き入れるため勉強机に手を置いた。

 この調子だと、もう今日は佐奈から連絡が来るのは望み薄だろう。事実、廉斗の手から離れたスマートフォンは一切の希望も見せず、真闇を映したままじっと天井を見つめている。

「美香と悦子叔母さんのことで話があるの」

 成海の言葉は静かな部屋でよく聞こえた。

 人肌が消えたスマートフォンと共に、廉斗の身体から熱がすーっと引いていく。冷たい廊下と冷気がこもる窓から送られてくるのは、隙間風なんて可愛かわいいものではなく、誰かのか細い氷の息吹だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る