第七話 束縛と愛

 両親が亡くなった後、廉斗たち兄妹と、伯父夫婦の四人による話し合いが行われた。その結果、美香が伯父夫婦の説得に折れる形で、川瀬家の持ち家で新しい生活が始まった。

 だが、それは思いの外、短い期間で終了する。

 伯父夫婦との関係は、表面上は良好だった。それなのに、廉斗は自分がかなり無理をしていたことを後になってから気付く。というのも、それは身体に異変が生じたからだった。

 ──あの日、僕が母さんに迎えを頼まなければ……。

 伯父夫婦から優しくされるたび、廉斗は過去の自分の愚かな選択をいてしまう。もしかすると、目の前の光景はもっと明るかったのかもしれない。妹の誕生日だって、家族でケーキを囲んでお祝いできたのかもしれないと。

 ひとりなげき続ける廉斗は、どうしても伯父夫婦がいる我が家の空間に馴染めなかった。自分でも予想外に違和感を覚えたのだ。

 いつからか何も変わっていない自分の部屋でも、夜に寝付けなくなってしまった。日中でも、ふとした瞬間に家族の何気ない日常が恋しくなる。消そうとすればするほど、見慣れた人影をごく自然と追い求めてしまう。

 姉の成海は、年齢が上がるにつれて家族への関心が薄れていった。妹の美香は自分の存在を無視するか、目が合っても唇を噛んで睨みつけるだけ。まだ自分は会話すら許されていない。

 どこにいたって心の傷が埋まらない。親友に囲まれていれば、孤独感は満たされると思っていた。けれど、なぜか反対に寂しさはつのるばかりで、廉斗はそんな自分に困惑するしかなかった。それを恭平たちに悟られたくないから笑って誤魔化して、また勝手に傷付いていく。まるで出口が見えない迷路のようだった。ひとりで悲しみの海を泳ぎ回っていた廉斗は、呼吸ができなくて沈みかけていたのだ。

 自分は恭平や佐奈と、このまま笑って過ごしていいのか……。それすらも分からなかった。いつか、親友たちまで自分の不幸に巻き込んでしまうのではないかと、余計なことまで考えてしまう。

 廉斗は結果的に自分が両親をあやめてしまったと思っていた。そんな自分へのいましめなのか、積み重なる喪失感で何度も喉が焼けるように熱くなる。そこに無意識で爪を立てたり、痣ができるほど強く皮膚をつねってきた。今まではそうやって身体の痛みで心の痛みをだましていたが、それも次第に効果が薄れてくる。

 首を締めつける見えない鎖から逃れたくて、自ら別の痛みを与えても、廉斗は家にいるだけでずっと息苦しいのだ。

 ──もうここには居たくない。

 川瀬家がこうなる前、廉斗は実家から地元の大学に通うつもりだった。しかし、廉斗はいつしか思い出深い我が家から、離れたいと考えるようになっていた。

 伯父夫婦が良くしてくれたお陰で、塞ぎ込んでいた美香もだいぶ両親の死から立ち直れた。ならば、自分は邪魔者でしかない。自分の居場所はきっと他にあるはず。

 そう思い立った廉斗は、奨学金を頼りに実家を離れたのだった。



 年末年始ということもあり、大学の学生寮は閉鎖されている。他に行く宛がなかった廉斗は、一年ぶりに実家に戻っていた。昨年と違うのは、新型ウイルス感染症が拡大した影響で美香が母方の祖母の家に行けず、同じ屋根の下にいるということだ。

 大晦日の夜、自分の部屋でひとり夕食を済ませた廉斗は両親を亡くしたあとの暮らしを思い出していた。


 高校三年生だったあの頃は「早く新しい生活に慣れなくてはいけない」という焦燥感と、両親がいた時の明るい家庭がどんどん遠くなる感覚が混ざり合い、気を抜くと暗闇に引きずり込まれそうだった。家にいると、リビングの家具や、空間の全てから責め立てられているような気すらした。廉斗はそんな息が詰まるような生活に耐えられなかったのだ。だからこそ、大学はひとりでも暮らせる学生寮で過ごすことを決意した。

 廉斗は人生の分岐点で、散々さんざん自責の念と葛藤かっとうしていた。渦巻く将来への不安も重なり、彼はある日、遂に限界を迎える。

 寝ようと思っても眠れない。過去から逃げるように消えていた集中力を無理やり勉強へと注げば、むしろ日増しに寝不足が悪化していく。

 そんな日々の中で、廉斗は一度だけ体育の授業中に倒れてしまう。移動した保健室でしばらく休んでいると、見慣れた顔が部屋にやって来る。それは、保健委員会に所属していた佐奈だった。

 ──廉斗くん、もう無茶しないでね。

 廉斗が横になっていた上半身を起こそうとすると、ベッド脇の椅子に座っていた佐奈がそれを優しい声音で止めた。

 記憶の中で、佐奈は自分に濡れた瞳を向けて笑う。

 ──苦しい時は、誰かに話してもいいんだよ。

 震える佐奈の声が頭から離れない。熱のある言葉が、冷たい廉斗の心に溶けていく。

 ──何があっても、私はずっと廉斗くんの味方だから。

 今思い出しても、胸がすっと軽くなる。

 あの瞬間、ひとりで抱えていたわだかまりが解ける前兆のように心が波打った。泣いてしまいそうになるほど感情が高ぶったが、自分の代わりに目の前で佐奈が涙を流したことで、穏やかな気持ちになった。言葉があれほどまでに美しく、熱を持って真っ直ぐに届いたのは始めてだった。

 あの時、まだ廉斗は母親が亡くなった事故の真相を誰にも打ち明けていなかった。それにも関わらず、佐奈は名も無い罪を抱えてきしむ廉斗の心を、愛で優しく包み込んだ。廉斗にとって、佐奈の言葉こそが、何ものにも代え難い強い心の支えとなった。

 廉斗は母親を亡くしてから、頭の片隅である計画を思い立つ。それは、大学入学を機に実家を離れて学生寮で暮らすことだった。計画は父親が死去した後、伯父夫婦との生活に限界が来たことで実行される。

 実は廉斗が利用している、返済が不要な給付奨学金の話を見つけたのは佐奈だった。彼女は「自分も奨学金について知りたいから」と進路担当の教師に情報をもらいに行ったり、自分でインターネットで探したと言う。

 ──辛い場所から逃げ出そう。誰しも自分の心に嘘なんかつけないよ。きっと、廉斗くんは悪くない。

 佐奈は廉斗がずっと欲しかった言葉を、曇りのない心ではっきりと届けた。

 廉斗はそれまで美香が言う通り、自分がずっと許せず、他人から慰めてもらうたびに惨めな気分になっていた。それでも、心の底では、ありのままの自分を誰かに受け入れてほしいと思っていたのだ。

 事故の当日、母親との電話のやり取りで本当は何があったのか、誰かに話を聞いてほしかった。親戚たちのように根も葉もない噂を立てないでほしかった。責めるような目で自分を見ないでほしかった。母親似の自分の存在で傷付かないでほしかった。両親を亡くしたことだけに同情しないでほしかった。

 もっと、もっと、自分の生きづらさに関心を持ってほしい。

 そう思っていても、廉斗は何も言えない。罪悪感もあったが、世の中というのは勝手な憶測で回るからである。その力はあまりにも強大で、発言を躊躇ためらう根本原因だ。

 授業中に倒れた日まで、廉斗は自分の気持ちを誤魔化してばかりだったが、そんな彼の悲鳴に気付いたのは、彼を想ってそばにいた佐奈だった。

 佐奈は溺れていた廉斗を一気に引き上げる。

 ──廉斗くんなら大丈夫だよ。これからは私がいる。一緒に自由になろう。

 どんな時でも佐奈がくれた言葉や、彼女の存在が廉斗にとっての生きる希望だ。

 だから、廉斗は今こうして実家にいても、当時より呼吸が楽なのだ。

 ──好きな者同士なら、離れる理由なんかないだろ。

 突如、先日会った恭平の言葉が頭をよぎる。

 廉斗は呪われて言葉の自由が利かなくなった自分から、佐奈を解放したいと思った。佐奈を愛するがゆえの考えである。恭平はそれが間違いだと言う。

 自由のとうとさは、廉斗が誰よりも知っている。あの環境から抜け出せたことで、自分と向き合う時間が増えた。そのお陰で、やっと心にゆとりができたのだ。

 廉斗の自由は佐奈が見つけてくれた。言葉が持つ力も佐奈が教えてくれた。

 呪術のような身体的苦痛がともなった力のせいで、廉斗は恋慕れんぼの言葉が封じられてしまった。廉斗が愛の言葉を話せなくなった後も、佐奈への想いは強くなるばかりだ。

 きっと、自分以上に佐奈は傷付いている。佐奈は昔、自分に「私は人の気持ちに鈍感だから、苦しい時は言葉にしてほしい」と言ったくらいなのだから。

 そう考えた廉斗は、余剰資金を増やすために始めたバイトの時間を削り、代わりに佐奈と一緒にいる時間を増やした。しかし、今度はそれすらもできなくなってしまう。政府から感染症対策で外出自粛が要請されたからだ。

 デートの際に立ち寄るデパートや飲食店、レジャー施設が続々と臨時休業していき、客はまばら。さらに感染症拡大防止の名目で、人々の行動追跡まで常識化しつつある。そんな日々に、廉斗は違う意味で胸を締め付けられた。

 せばまる行動範囲と、伝えられない想いがもどかしいのに何もできない。どうしても、佐奈と距離ができてしまう。

 そんな時に思うのは、佐奈の幸せだ。佐奈の大切な時間を犠牲にしてまで、こんな自分に縛っていていいのだろうか。その自信がない。

 ──愛は呪いじゃないよ。

 これは一年前、佐奈からかけられた言葉だ。

 大学に入学して実家の息苦しさから解放された廉斗は、母親の事故の真相を初めて他人に明かす。話を聞いた佐奈は秘密を打ち明けた廉斗にお礼を言うと、こう続けた。

 ──とても温かい家族だね。……羨ましいな。

 微笑みを絶やさず、佐奈は言う。「愛は呪いじゃない」と。

 廉斗は今、もう一度その意味を深く考えている。

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